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赤い幻影 akaigenei ~安住の地編~      赤顔面 akaganmen


   赤い幻影 akaigenei ~安住の地編~



     赤顔面 akaganmen



冬だというのに、この伊予ではそれを感じさせない。


江戸であっても安土であっても冬は寒いものだったし、雪も大いに降った。


しかしこの伊予近隣は内海のおかげなのかそれほど気温が下がらず、雪が降るのは、遥か東に見える、四国のほぼ中心にある剣岳辺りくらいなものだ。


幻影たちは衣服の下に鎧を着こんでいるので、なおさら寒いと思わないのだが、道行く人々はそれなりに背を丸めて歩いている。


琵琶家一同は正月も近いということで、現楽涅槃寺の大掃除を行った。


まだ新しいのだが、さすがに広いので、掃除の甲斐が大いにある。


もっとも妙栄尼が日々行っているので、普段は手の届かない天井辺りと、外に回って屋根と壁などの埃を丁寧に拭っていく。


その中で三人だけ、働いていない者がいる。


濃姫は今更ながらだが、長春と政江は境内に近い森の回りで、何かを探しているようだ。


これは誰にとっても大いに盲点で、さらには目の付け所はよかったのだが、長春と政江では見つけることは不可能だった。


幻影はさも当然のように本堂内の天井に浮かび上がって、笑みを浮かべて大きな梁などの清掃をしていた。


それもようやく終わって、「食事にしよう!」と幻影が言うと、「…あー、働き過ぎて肩が凝ったわ…」とほとんど休憩していた濃姫が言ったが、いつものことなので誰もが苦笑いを浮かべるが、「奥様、お疲れさまでした」と弁慶だけは大いに労う。


この言葉だけで、濃姫は大いに働いたと自信を持つという、少々困った性格だ。


「…ああ… 我らも手伝いましたのに…

 いえ、我らに言いつけてくだされば…」


境内の外から堂島が眉を下げて大いに嘆いている。


「働かない者には何のご利益もないからね」という幻影の言葉に、濃姫だけが背を震わせていた。


「…悪気なく、自然に言われたな…」と信長が小声で濃姫に言うと、「…お食事の後に、しっかりとお掃除するわぁー…」と多少は心を入れ替えたようだ。


もちろん、ほとんど働いていない長春と政江も大いに眉を下げていた。


あとは弁慶と源次が受け持っていた屋根の上だけなので、女性たちの出番はそれほどない。


最近は落ち葉が多いことで、境内だけではなく、それを囲んでいる森の中の落ち葉も大いに拾って、すべてを作業場に持ち込んだ。


落ち葉とはいえ、全ては何かに変わっていく。


街道整備にも使えるし、乾燥させて火をつければよく燃える。


もちろん自然発火が起こらないように、全ての落ち葉の収納庫には、空気を押し出す装置を備えた大きな箱に収める。


落ち葉を入れて、まるでふいごのように押し引きを繰り返すと、落ち葉が凝集されて箱の中でまとまるのだ。


空気の出入りがないことで、腐らなくなり、綺麗な色の枯葉となっていく。


これで比較的狭い道も舗装路を敷くことが可能になった。


もちろん、地面の緩いところはもうすでに手を入れているが、やはり舗装路はなかなか頑丈で、今のところ敷き直す必要はなさそうだ。


さらには枝は、適当に切ってから炭に変える。


さらには竹もよく使うので、同じように炭にしたり、飲食店などの箸に加工したりする。


この竹箸が今までにそれほどなかったようで、行楽客からの要望で売ることなく提供することがある。


やはり丈夫なので、食事を摂りやすいようで、幻影たちも竹箸を愛用している。


そのうどん屋だが、せっかく松太郎の代わりができたのに、その松太郎が讃岐に店を構えさせることにした。


やはり要望があったことは実現したいようで、免許皆伝をもらったふたりは讃岐に旅立った。


もちろん、店はもうすでに幻影たちが建ててあり、機材一式もそろえてある。


宣伝をしていないので、客が訪れることは期待ができない。


よって、新築開店から十日間限定で、支払うカネは客に決めてもらうという営業戦略に出た。


もちろん、一文銭一枚だけを支払っていく者も多いのだろうが、これが大いに宣伝になるはずなのだ。


よって松太郎はまた人材育成に励むことになるが、もうすでにその候補は三人ほどいるので、何の心配もない。


やはりうどんが好きで松太郎に弟子入りしたようなものなので、名乗り出る者は少なくない。


その中には女性もいる。


年のころなら三十半ばで、それなり以上に働き者だ。


ほかの商店の店員選びはすべてが法源院屋が担っているのだが、うどん屋だけは松太郎が直接面談して採用を決めている。


まさに毎日が大いに忙しく、最近は昼過ぎに店を閉めずに、朝から暗くなるまで働く必要ができてきた。


よって時折だが、幻影たちも大いに手伝うことがある。


やはり麺打ち職人はふたりほどいた方が問題も少ないようだ。


もちろん、作り過ぎれば琵琶家の夕食か、松山城の役人たちの腹に入ることになっているので、何も問題はない。


よって昼餉ひるげにうどんをたらふく食うことはできないが、希望があれば幻影が打つことに決まっていた。


今日もその昼餉がいいようで、幻影は店のうどんを打つついでに、家族用にも大いに打った。


幻影が大荷物を担いで外に出ようとすると、「お疲れ様でごさいます」と女性店員のお竹が朗らかな笑みを浮かべて扉を開けた。


「お竹さん、ありがとう」と幻影は礼を言って外に出た。


お竹が、「あの」と幻影を呼び止めると同時に、「おっ! うどんだ!」と今旅から帰ってきた守山が叫んだ。


「お竹さんが話があるようなんだ、ちょいと待っててくれ」と幻影が守山に言うと、「…お前、切られないように用心しろよ…」と守山は言って、手刀を振る仕草をしてにやりと笑って屋敷に向かって歩いて行った。


「…あ、いえ、大したことでは…」とお竹は大いに口ごもった。


「それだったらいいんだ」と幻影はあっさりと言って、屋敷に向かって歩いて行った。


松太郎は厨房の中からその様子を見て笑みを浮かべていた。


幻影もそうだが、松太郎ももうすでにお竹の正体を見抜いていた。


お竹は幻影を手伝おうと、大荷物に手を伸ばしかけていた。


これだとただの手伝いなのだが、そうする理由があるのだ。


お竹は心を入れ替えて、店内を素早く見渡してから、机の上の片付けや清掃などと手際よくこなし始めた。



昼餉ひるげの時間なので、勉学所に通う子供たちは、「今日のお昼、何だろー…」と大いに期待していた。


子供たちは士農工商の身分に関係なく、机を並べて勉学に勤しんでいる。


ほとんどの指導は、沙織が率先して受け持っている。


もちろん沙織にも城の仕事がある日があるので、その時は琵琶家の誰かが子供たちの前に立つことも多々ある。


そしてこの勉学所は、松山城下に住む者であれば、誰でも受講できて全てが無料。


しかも昼餉までついているという、どこにもない勉学所だ。


もちろん、昼餉が終われば、また勉学に勤しむことになる。


しかしそれなりの事情で、昼餉を食さないことが普通だ。


特に農家で三食しっかりと食べている家はほとんどない。


だが幻影は、「食ってなんぼの仕事」とさも当然のように言って、農民たちに指導をする。


よって食べることに関しては、親たちも幻影に任せている部分は多いのだ。


もちろん、ちゃっかりと昼餉だけを食べに来ている子もいたのだが、今は真摯に勉学に向き合うようになった。


そして幼いながらにも、今まで随分と間違っていたことをしていたと、ほとんどの子供たちが知ることになった。


この勉学所では、一般生活の世間の常識も教えている。


よって子供たちは親に対して問題定義をする機会を得ることになった。


こうやって、親までもが賢くなっている家も多いのだ。


特に字を書くことがほぼない家もあるので、我が子の宿題をする姿を見るだけではなく、文字の読み書きの勉強までするようになった。


もちろん、筆記道具などは、常識的範疇で常に配布しているので、何も問題はない。



琵琶家の手伝いで雇っているお勢が、「お昼よぉー!」と陽気に言って、大きな四角いたらいを三段に積んで持っていた。


もちろんすぐに子供たちが寄り添って手伝う。


まさにこのような気遣いの教育も、ここでは行っているからだ。


しかし半数の子供たちは、―― 昼餉、何だろ? ―― という意識を持っていた。


「…うぉー… うどんに天ぶらだぁー…」とひとりがうなると、誰もが満面の笑みを浮かべた。


どんなものでもうまいのだが、やはり食感がいいようで、うどんが嫌いな子はいない。


しかも、天ぷらは高級料理と言っていいものなので、これも誰もが好んでいる。


「…母ちゃん、絶対にうらやましがるなぁー…」という、こういった杞憂も生まれることがある。


しかし、その対策も幻影は行動に移しているので、何も問題はない。


勉学所に通う子供の家族限定で、幻影たちが調理見習い研修を開いているからだ。


まずは慣れることが必要だが、天ぷらの場合、肝心の油がそれほど安いものではない。


さらには子細なかまどの温度調整も必要になる。


しかしその対策は済ませたので、春には無料配布をする予定だ。


これも勉学所の行事として、子供たちの手掛けたことだった。


広大な空き地を利用して、菜の花と胡麻を大量に植えたのだ。


この仕事が、幻影たちの農民化の第一歩だった。


子供たちは満面の笑みを浮かべて机の前に座って、「いただきます!」と手を合わせて行儀よく言って、大いに陽気に食べ始めた。



―― うらやましいなぁー… ―― とお勢はひと仕事終えて、勉学所の格子戸を開けて外に出た。


お勢も学はないが、販売に関しては教えてもらったことで、それなりに熟せる。


しかし、この勉学所に通う賢い子供たちを、大いにうらやましがったのだ。


もちろん、知りたいことがあれば、琵琶家の誰にでも話をすれば教えてくれる。


だが、同年代と机を並べて勉学をすることにあこがれてしまったのだ。


「あら? 珍しく元気がないのね」と妙栄尼が笑みを浮かべて言うと、お勢は大いに目を見開いた。


「何でもお話しなさいな」という妙栄尼の言葉に、お勢は、「実は…」と言って、今思っていた心の内を語った。


妙栄尼は何度もうなづいて、「その想い、私が叶えましょう」という言葉に、お勢は手を合わせて大いに喜んだ。


「元服と元服前のふたつの勉学所があればいいだけです。

 女性の場合元服の儀式はほぼないので、

 ここは男性に便乗して、

 十二才以上は元服勉学所に通うということで、

 寺の本堂で勉学に励んでいただきましょう。

 この勉学所で元服した子は数名いますので、

 いいお手本にもなることでしょう。

 ですが、さすがに大人になって、

 男性とともに勉学に励むというのも、

 色々と偏見の目があるということで、

 寺で面倒を見たいと思ったのです」


「…ああ… 仏様の前でしたら…」とお勢は大いに笑みを浮かべて手を合わせた。


「では、私が言ったことを高願様に提案してらっしゃいな」


妙栄尼の言葉に、お勢は耳を疑った。


「何でもかんでも人に頼っていては、

 したいことは一切できなくなりますよ」


妙栄尼のやさしい言葉に、「…はい、和尚様…」とお勢は何とか答えたが、大いに舞い上がっていた。


「聞かれたことはごまかさずに正直にお話すればいいだけです。

 何の問題もございませんわ」


「…はい、頑張ってみます、和尚様…」


お勢は妙栄尼に大いに礼を言ってから御殿の勝手口に回って、扉を開けた。


「やあ! お疲れ様!」と厨房にいた幻影が気さくにあいさつをした。


お勢は一気に舞い上がってしまって、顔を真っ赤にした。


幻影は気付かなかったのか調理に専念している。


どうやら料理の追加があったようで、今は煮物を作っている。


ひとつの鍋ではかぼちゃを煮ているので、信長の希望だろうとお勢は察した。


もうひとつは筑前煮のようで、こちらは濃姫の好みの料理だ。


その手伝いに源次がいて、お勢の顔を見て、「熱でもあるの?」と少し心配げに聞くと、お勢はまた大いに慌てた。


「色々と困った問題が発生したんじゃないの?」と幻影が言うと、―― 大当たりぃー… ―― とお勢は考えて眉を下げた。


「だったらいいけど…

 それって、照れることなの?」


源次が大いに察して聞くと、「…あー… あー…」とお勢が発声練習を始めたので、幻影と源次は愉快そうに笑った。


お勢はようやく落ち着いてきたので、「実は…」と言って、お勢の想いをすべて語った。


「うん、いんじゃない?

 勉学に励むのはいいことだ。

 だけどその前に、労働力も増やす必要があるんだ。

 だから始めのうちは勉学所では、

 それほど長く勉学に励めないと思っておいて欲しい。

 基本的には、陽の高いうちだけなんだけど…

 何か考えるか…

 暗くなってもでも勉学に励める画期的な…

 行燈の明かりでは、目が悪くなる可能性があるから、

 夜の勉学はあまりお勧めじゃないんだ。

 …行燈の明かりをさらに明るくできないものか…」


「…鏡… 反射鏡は使えないでしょうか?」と源次が聞くと、「うん、あとで試そう」と幻影は陽気に言って、鍋から煮物を出して鉢に移した。


―― なんだか、すごいことになってないかしら… ―― とお勢は大いに心配になってきたが、心の支えがとれたように思って、失礼がないことだけを考えて、なんでも話をすることに決めた。



幻影は食事を終えてから、まずは寺の大掃除を済ませてからと思い、新しい明りについては考えないことにして境内に入ると、長春と政江が走って本堂の右側を抜け、森に駆け込んだ。


そして木の根元近くを見入っている。


―― あるとすればそれはない… ―― と幻影は思いながらも、また森を見まわしたが、さすがに今回は何もわからない。


幻影は左手の森に入って、少し太い木の目線の高さの上下を見入り始めた。


そしてここで辺りを見回すと、妙な違和感を感じた。


木の太さはそれぞれまちまちなのだが、妙に太さがそろっている一帯がある。


本堂から見て真東に当たる場所で、幻影はゆっくりと歩いて近づいた。


そして裏に回り込んで発見した。


目線よりも少し高い場所の皮がはがれている木が数本ある。


そこには梵字が書かれていたので、一番左に位置する木を探し出し、解読しながら半紙に書き写した。


そして最後の木の前に来た時に、「あー…」と長春が幻影を見上げて大いに嘆いた。


幻影があふれんばかりの半紙を見せると、政江も気づいて大いに眉を下げていた。


そしてふたりがやって来て、木を見上げて目を見開いた。


ふたりは幻影よりも少々背が低いので、もしも皮がはがれていることがわかったとしても、梵字を見つけられなかったと感じてまたうなだれた。


「…すっごく背が高い人ぉー…」と長春が嘆くと、「木だって二百年もすれば成長するさ」という幻影の言葉に、「…そうだぁー…」と長春と政江は同時に嘆いた。


幻影は梵字を書き写しながら、「大いに気になるよな?」と聞くと、「…そんなにすごいことは書いてないぃー…」と長春は幻影の感情から察して答えた。


「よくわかったことは、

 空雲和尚は計画的にこの木々を植え替えた。

 この梵字の羅列を見つけて欲しいと思っていたようだが、

 ちょっとしたいたずら心もあったようで、

 あえてわかりづらくして木に刻んだ。

 ここに記されているのは、空雲和尚の仏教に関する思想。

 その当時の仏教に対して、

 大いに疑問があったようだ。

 ほとんどが、仏教に関してのことで、

 ごく一般の人間が考えたことだろうとまずは語ってから、

 仏陀の本当の言葉だけを探そうと、

 修行の日々を送っていたようだ。

 妙栄尼様はその入り口に立たれていると俺は感じているんだよ」


「…鍛えてもないのに、巖剛ちゃんを楽々に抱き上げてるぅー…」と長春がうらやましそうに言うと、「妙栄尼様は巖剛が子熊にしか見えないそうだ」と幻影は答えた。


「…あー… いいなぁー…」と長春が嘆くと、「きちんと掃除をしていたら、長春も巖剛が子熊に見えるようになっていたかもな」と幻影が言うと、長春も政江も大いにうなだれた。


「政江、今書き終えたが、最後のこの一枚、

 どんな内容のものを示していると思う?」


幻影の質問に、政江は想像もつかなかったのだが、わざわざ政江に聞いてきたことを考慮すると簡単に答えが見つかった。


「私は僧侶だったが今は違う。

 私は仏陀探求家だ」


政江の言葉に、「さっすがぁー!」と幻影は政江の頭を大いになでて拍手を送った。


政江は、「やめてよぉー…」などと言いながらも大いに照れて大いにうれしそうだ。


「だから、ここは寺じゃないんだけどね…

 この最後の文は、ここを旅立つ時に刻んだと思うから、

 これを書き記す前までは寺だったと言える。

 この判断は妙栄尼様に託すことにしよう。

 そして妙栄尼様はこの先、

 僧侶のままでいるのか、

 仏陀探求家になるのかは、

 妙栄尼様の自由だ」


「…あー… そうだぁー…」と長春は言って笑みを浮かべた。


そして心の支えがとれたのか、政江と手をつないで、本堂の裏にある物置から箒を出して、まだまだある森の落ち葉掃除を始めた。



幻影が社務所に入って、今書き写した木の文章の清書と日の国の言葉に訳し終わると、「何のお勉強かしら?」と言って妙栄尼が笑みを浮かべて入ってきた。


「驚くべき事実を発見しました」と幻影は半紙を製本してから、妙栄尼に手渡した。


「境内を囲う木に刻まれていたのです。

 これは重要なことで、

 さらなる修業になると思います」


幻影は頭を下げて社務所を出た。


残されてしまった妙栄尼は少々残念そうだったが、梵字を眺めてから眉を下げた。


なんとなくだが、何を書いてあるのか頭に思い浮かんできたからだ。


そして翻訳文を読んで、さらに納得していた。


『阿光、私の疑問を究明して欲しい』


妙栄尼は父である上杉謙信の遺言を思い出していた。


そして僧侶ではなく、仏陀探求家として生きていくことに決めた。


妙栄尼は掃除を終えた境内を見回してから、家族たちに大いに礼を言ってから、この本の全てを自分自身の手で看板に彫ることにした。


そして工房に行くと、幻影たちはもう違う作業をしていたので、大いに眉を下げた。


妙栄尼が看板を作りたい意思を示すと、都合よく幻影が手伝うという。


妙栄尼は笑みを浮かべて幻影に礼を言い、弁慶たちを大いに労った。


幻影が準備をしている時に、妙栄尼は袈裟を脱いで、長春と政江が作ってくれた着物に着替えた。


そして書を認めてから、看板づくりに精魂込めた。


妙栄尼の考察を彫り終えてから、最後に、『上杉阿国』と看板に刻んだ。


これが阿光の本当の名で、母の阿国から名をもらっていたのだ。


かの昔、阿光は阿国とともに、様々な場所で踊り、人々を集めていた。


「…はは… この事実にもみんな驚きそうだね」と幻影は陽気に、そして気さくに言った。


「私は僧を捨て、あなたの母に戻ります。

 あ、何だったら姉でもいいわよ」


阿国は気さくに言って、幻影を抱きしめた。


「…長年の夢が叶った…」と幻影と阿国が同時につぶやくと、ふたりは大いに驚いて、そして大いに笑った。


「今こそ、私の歴史もきちんと胸を張って話します。

 越後の方がうるさくなりそうですが、

 私の家は、今はここですから」


阿国が胸を張って決意を示すと、「協力するから」と笑みを浮かべて言った。


その傍らには蘭丸と阿利渚を抱いているお香がいて、複雑そうな顔をしていた。


もちろん幻影は蘭丸にもきちんと説明して、小さな家族の手で、寺に新たな看板を立てた。


この一部始終を、うらやましそうな顔をして、お竹が遠くから眺めていた。



お竹は今のこの時間が好きだ。


ただただ仕事の休憩時間だが休めるからという意味ではない。


そろそろ勉学所の講義が終わる時間だからだ。


そして子供たちが格子戸をあけて、「先生! さようなら!」と礼儀正しく挨拶をして、遊びの相談などを始める。


お竹はこの子供たちを眺めることがただただ好きなのだ。


もちろんお目当てはいて、ひときわ賢そうに見えるようになった才英だ。


もう何度も話をしたが、まさにその瞬間は至福の時だった。


そしてその才英が、お竹に向かって笑みを浮かべて手を振った。


お竹は満面の笑みを浮かべて手を振り返した。


すると源次が健五郎と才英に話しかけると、健五郎は寺に走ったのだが、才英はお竹に向かって走ってきた。


「お竹さん! お寺でまた大発見があったんだって!

 見に行こうよ!」


才英の言葉に、お竹は涙が出るほど喜んで、―― 仏様… ありがとうございます… ―― と心の中で手を合わせた。


もちろんのお竹は才英に従って寺に行った。


広い境内なのでそれほど目立たないのだが、この看板群はまさに参拝者にとって大いにありがたいものだ。


もちろん、文字が読めない者もいるが、警護の者たちが親身になって言い聞かせをすることも多い。


お竹は読み書きはできるので、真新しい看板の最後の二枚を読み終えて、大いに目を見開いた。


「…妙栄尼様は、上杉阿国様…」とお竹が嘆くように言うと、「…あー、そりゃ、生まれもっての名もあるよね… あ、だけど普通は書かない…」と才英は言って考え込んだ。


「私… 戦乱の世を終えて、越後を出て豊後まで旅をしたの…」とお竹はここまで言って才英を見て笑みを浮かべた。


「そして、ボクを産んだんだよね?」という才英の言葉に、お竹は大いに目を見開いて、そして涙がとめどなくあふれてきた。


「長春様がその時が必ずくるからって色々と教えてくれたんだ。

 それが今だってすぐに気づいたんだ」


「ああ… ああ…」とお竹は立ち尽くしてただただ泣いていた。


才英は長春が言った通りにホホを赤らめながらも、お竹に抱きついた。


お竹はここで初めて本当の母性が沸き、大声で泣いて才英を抱きしめた。


「あら? もういいことがあったわ」と阿国は陽気に言って穏やかに手のひらを合わせた。


「…ふーん… それで必死になって、

 漠然と思い浮かんだことを行動に移していたわけか…」


幻影はつぶやきながら長春を見て何度もうなづいている。


「…考えが足りなくてごめんなさいぃー…」と長春もお竹の涙が写って泣きながら幻影に言った。


「縁結びのお守りも早速…」という阿国の言葉に、幻影は眉を下げながらも書簡を書いて鳩を飛ばした。



お竹は才英を抱きしめたまま幻影を見て、「…私、仙桃院様の血を受け継ぐものです…」という言葉に、「あら? ご親戚だったのね」と阿国は陽気に言った。


しかしお竹は何度も首を横に振って、「謙信公のお血筋は、阿国様と幻影様だけでしかございません」と言った。


「そういった時代も終わるさ」という幻影の言葉にお竹は大いに反論したかった。


しかし、琵琶家を見ていると、血など全く意味がないことに大いに気づかされたのだ。


血が濃いほどに仲が悪いことも、さんざん見てきたこともある。


「世継だ後継ぎだと言って、大いに争いが始まる。

 健五郎だってそれに巻き込まれたんだ。

 いや、今もまだその渦中にいるんだ。

 これほど不幸なことなんてないさ」


しかし健五郎は満面の笑みを浮かべて幻影を見上げている。


「そして才英もその仲間だ。

 だが、俺たち琵琶家が守り通すから、

 心配は何もない」


幻影の力強い言葉に、誰もが一斉に安堵の笑みを浮かべた。


「まずいことが起ったら、

 上様に言いつけてやる!

 と言えばすぐに収まるし」


幻影の言葉に、阿国と長春だけが大いに笑い転げた。


「そういった政治的な武器…

 いや、あいつの場合は盾…

 も必要なんだよ。

 いがみ合わずに仲間にしていくことも重要だ」


幻影は言って、未来の強い力の健五郎と才英の頭をなでた。



幻影と阿国は勉学所に行って、調べ上げたことや逸話などを書に認めた。


幻影は現楽涅槃寺を、戦乱の世で命を落とした者を弔うため、わかりうる範囲でのその名前を書き連ねた。


阿国は縁結びの逸話として、上杉於冴と琵琶才英の再会と、母子の名乗りを感動的に書き綴った。


よって阿国は、まだ妙栄尼でもあり、戦乱でなくなった者たちに弔いの言葉をかけることになるので、住職としては変更はない。


しかし上杉阿国は仏教徒ではなく、仏陀探求者としてその半生を記した。


幻影は阿国が書いたふたつの本を写本して、まずは高野山金剛峯寺に送った。


もちろん、縁結びのお守りの祈祷と、現在の現楽涅槃寺の真実を知らせるためだ。


その反応がある前に、なんと越後から年老いた直江兼続が数名の部下を引き連れて、松山城に登城したと堂島が知らせに来た。


もちろん、事情説明は嘉明に済ませていたので、全く慌てることはない。


ほどなく、嘉明が兼続一行を琵琶御殿に連れて来て、まずは信長と謁見を果たした。


もちろん、琵琶信影が織田信長だとは明かしていない。


だが兼続はこの緊張感があるこの室内は、今までに経験したことがないほどに高貴なる場所と思い、全く落ち着けなかった。


「我らの邪魔をしに来よったか」という信長の第一声に、「どうか! 幻影様を越後藩主に!」と心の底からの言葉を述べて、素早く頭を下げて上げなかった。


「今が平和ならよいではないか。

 全てはお前の国を思う功労じゃ。

 そんな堅苦しい場所に、

 天狗でもある琵琶高願が留まるわけがない。

 幕府転覆を狙うのならば、今すぐにお上に上申するが?」


信長の威厳があり、説得力がある言葉に、兼続は面を上げて幻影に困惑の顔を向けた。


「…私に発言権はございません…

 現在は私の主とのお話し中でございます」


幻影のお堅い言葉に、蘭丸と長春がくすくすと笑い始めた。


兼続が渋い顔をして信長に向き直って、「妙栄尼様がここにおられると」と兼続が聞くと、「ああ、半分になった」という謎かけに、兼続は大いに慌てた。


この口調は、―― 織田信長公でしかない… ―― と薄々感じてはいたのだが、今確信した。


「織田信長など過去の亡霊じゃ」


信長の言葉に、―― 先手を取られた… ―― と兼続は思い、今の老いぼれた姿と思考を大いに呪った。


「どちらにせよ、今の殿様の意にそぐわぬことだろ?

 もっとも、高願にはその意思は全くないし、

 秀忠とは懇意の付き合いじゃ。

 密偵を放たなくても、この情報は確実に秀忠の耳に届くはずじゃ。

 下手をすれば、お前の欲だけで、また越後を壊しかねないのだが?

 平和になったのだから、その平和のためにさらに精進しろ。

 このうつけものめがぁー…」


信長がうなると、兼続は朦朧とした。


「…まずは、あなたの家臣にならなかったことを、大いに後悔いたしました…」


兼続の言葉に、「…ふん、だからどうした…」と信長は鼻で笑って言った。


「ここで知りえた事実を、すべてあなたの配下だった者たちに」


兼続の言葉に、「もう知っておるに決まっている」と嘉明が言うと、兼続は大いに目を見開いた。


この若い傾奇者が本当に信長だとは半信半疑だったのだ。


「高虎のやつにはこっちから知らせた。

 やつはお前以上に面倒だからな。

 幻影の仲のいい友人じゃから、

 大いに喜んでくれたようだから、ワシもうれしかったし、

 ワシの思いも嘉明と高虎にも授けた。

 おまえ、この伊予の国と戦をするつもりで参ったのか?

 この戦に、さらに事情を知っている伊達も、

 さらには北条、さらには藤原縁の者たちも駆けつけるのじゃぞ?

 そのような大ごとをお前が背負うことができるのならば、

 なんなりとやればよいわぁ!」


信長は語って大いに笑った。


「…もう、それほどまでに…」と兼続は大いに嘆いた。


「さらには真田の縁で、高野山金剛峯寺とも懇意にしておる。

 お前の元の殿様にも、大いに叱られることにもなるなぁー…」


信長は上杉謙信を示唆して言うと、兼続はついにいたたまれなくなり、「…無礼の数々、どうかお許しを…」と言ってから、ふらつく足を抑え込んでなんとか立ち上がった。


「自死を選ぶな。

 この平和な世に、腹かっさばく必要などもうない。

 お前の残された命の分、

 これからの子供たちに捧げる政治をしろ。

 それが今の正しい生き方じゃ」


信長の言葉に、兼続は無表情で頭を下げて部屋を出て行った。


「お優しい」と幻影が笑みを浮かべて言うと、「ふん、からかうでない」と信長は言って愉快そうに笑った。


「それに、子供一人を手塩にかけて育てるのは、

 戦をするよりも難しいことじゃ」


信長の言葉に、誰もが一斉に頭を下げた。


「兼続はこれからどうするでしょう?」と幻影が聞くと、「まあ、ここに来たのなら寺に行くだろうな」と信長が言うと、幻影は大いに苦笑いを浮かべた。



阿国は現楽涅槃寺にいたが、今は社務所の部屋の中にいて、同じ指導者仲間の沙織とともに、今後のことについて話をしている。


街道にある勉学所は、元はと言えば一般的な店舗用家屋なので、できればこの寺のそばに建ててもいいのではという話し合いをしていたのだ。


お勢が言うように、仏のそばであれば、それほど男女の意識はしないという、この当時の一般的な習慣のようなものだ。


よってこの寺の境内の両脇に、元服学士と幼年学士の小屋を建ててもらおうという話に決まった。


廃寺があると気づいた時から、寺の回りには何も立てないことに決めていたので、建てる場所は十分にある。


もちろんこの程度であるのなら、幻影が嫌な顔をすることはない。


しかも学士はそうおいそれとは増えそうにないので、それほど大きな建物は必要なさそうだという結論にもなった。


さすがに、勉学をする時間があるのならば、働くことが一番の日々の糧になるからだ。


阿国と沙織は、ある程度結論が出たので、阿国は土間に寝そべっていた巖剛を何と担ぎ上げてから外に出た。


「ますます雄々しくなられたようですね」と沙織は驚くことなく笑みを浮かべて言って、阿国について歩いていると、「これこれ、何をなさるの?」と阿国は言って立ち止まった。


なぜだか巖剛の右腕が阿国の顔をしっかりとふさいだからだ。


阿国はひとつため息をついて巖剛を下すと、目を見開いている武家の一団を見つけ、「ご機嫌よろしゅう」と言って頭を下げてから、境内を出て行った。


兼続たちは全く動けなかった。


まさか、この地に熊を担いでいる町娘がいるとは思ってもいなかった。


しかも確実に生きていることは明白で、今はその町娘を見上げながらその横を歩いているからだ。


社務所の店番の女子のお滝は、なんだか嫌な気がしたので、妙栄尼や阿国の話ははぐらかした方がいいと思って、口をつぐんでおくことにした。


すると兼続がお滝を見て、「…今の、熊を引き連れたお方は…」と案の定聞かれてしまったので、お滝はかなり焦ってしまった。


「申し訳ございません。

 お話しできません」


お滝は瞳を閉じて何とかこれだけを言った。


これにはある理由をこじつけた。


阿国の隣には城の姫の沙織もいたことで、警備が巖剛しかいないことで、何も言わないことに決めたと自分に言い聞かせたのだ。


「…い… いや… ならばよい…」と兼続が諦めるように言ったので、お滝は大いに胸をなでおろした。


「もう一方おられた女官は、かなりご身分の高い方かと…」と側近が兼続に言うと、「…すまん、視界に入っておらなんだ…」と兼続は言って何とか立ち直ってお守りなどを見入った。


兼続が物珍しそうに根付や熊を見ているので、「お武家様はあちらの看板をご覧になっておられないのでしょうか?」とお滝が聞くと、兼続は振り返って、「…なかなか良心的じゃ…」と言ってから少し笑って、「また来る」と言って、看板に向かって歩いて行くと、「兼続様!」と側近が大いに声を荒げた。


兼続は側近が見ている看板を見て目を見開いたのだ。


そこには、『上杉阿国』と彫ってあったからだ。


そして阿国が、妙栄尼だということもようやく理解した。


兼続はここまでは知らされていなかった。


阿国はただの上杉家ゆかりの者だったとばかり思っていた。


そして今の状況がよくわからなくなっていた。


だが、こうやって名が残っていることで生きていると思い、また社務所に駆け込んだ。


「上杉阿国様はどちらにおられるか?!」と兼続が大いに血相を変えて叫ぶと、「申し訳ございませんが、琵琶御殿で聞いてきてくださいぃー…」とお滝は今にも泣き出しそうな顔をして言ったが、すぐに警護の者が二名現れたので、ほっと胸をなでおろした。


「だんな、あんま女史を驚かせないでやっておくんなさい」


警護人の言葉に、「…ああ、申し訳ない…」と兼続は言って素早く頭を下げてから、駆け足で境内を出て、異様に走りやすい街道を飛ぶようにして走って、「たびたびごめん!」と琵琶御殿の玄関で叫んだ。



このほんのわずか前、幻影は伝書鳩を片手に書に目を通してから、「上様が上洛されるそうです」と言ってから、鳩を縁側に向けると、機嫌よく長春に飛んでから、餌や水をついばみ始めた。


「…上様?」と信長が言ってにやりと笑うと、「書面通り読んだまででございます」と幻影は答えて、信長の真似をするようににやりと笑った。


「…上杉はお付きを命名されたはずだがな…

 隠居したとはいえ、兼続は付き添うと思うのだが…」


「我らを顎で使えば造作もないことと」と幻影がすぐさま答えると、「…まあ、その期待もあってここにきおったか…」と信長は言って鼻で笑うと、「御意」と幻影はすぐさま答えた。


「あら、境内でお見かけしましたわ」と阿国が今更ながらに言って巖剛を見た。


「気づかれなかっただけ、というわけじゃなさそうだね」と幻影が聞くと、「看板を読んでいないなんて迂闊者です」と阿国が答えると、信長が膝を打って大いに笑った。


すると、「たびたびごめん!」という迂闊者の声が聞こえた。


その兼続が藤十郎の案内で謁見の間に通された。


そして何も言わずに頭を下げて、兼続は信長の前に座った。


「上杉阿国様にご面会を願い出るため参上いたしました」と兼続は血色のいい顔をして笑みを浮かべて言った。


「自分で探せばよい」と信長がごく自然に言うと、兼続は的外れだったように笑みが消え、大いに戸惑った。


「寺の僧侶でもある。

 特徴は多いからすぐにでも見つかるじゃろうて」


信長の言葉に、ここは言葉通りに立ち上がらなければならない。


もう話は終わったからだ。


よって、「早々に退室されよ」と幻影の厳しい声が飛んだ。


催促されたことで、ますます立ち上がる必要ができた。


そして一瞬幻影をにらんだ時、縁側の外庭に熊を抱えていた女官を発見した。


―― この化け物一家の化け物のひとり… ―― と兼続は思って、信長に頭を下げてから、重い腰を上げて廊下に出て行った。


「昔はそれほど顔を合わせておらんかったようだな」と信長が言うと、「長尾は大勢おりますので」と阿国は穏やかに言って頭を下げた。


「…あのね、化け物だって…」と長春が小声で報告すると、誰もが愉快そうに大いに笑った。


「その前に、化け物一家って思ってたよ?」と長春がさらに憤慨して言うと、「…まあ、間違っとらんからなぁー…」と信長は大いに認めてうなづいた。


「では、妙栄尼様のご希望通りに寺子屋を建てます」


幻影の言葉に、「ああ、ワシも行く」と信長は言って立ち上がってから、片肌を晒した。


信長は八十を超えているとは思えないほどに雄々しき肉体をしている。


もちろん鎧もつけているので、さらに雄々しく見える。


「今年最後の大仕事じゃ!」と信長は機嫌よく言って廊下に出ると、阿国は笑みを浮かべて手のひらを合わせた。



小さい小屋の二棟程度であれば簡単にすぐに建てることができる。


問題はその場所だが、それほど寺に近づけたくなかったので、信長の指示に従って、三間ほど開けることに決まった。


もちろん、多少木を伐採する必要があるので、入念に確認をしながら木を切り倒して、長く張った根も丁寧に取り除く。


土砂などの確認は長春と政江の仕事なのか、子供のころに戻って泥遊びをしているのかよくわからないが、それなりに慎重に探っている。


整地作業をしている時に、「なんか出たぁ―――っ!!!」と長春が大いに陽気な声を上げた。


ここは作業を中断して、琵琶一家は長春に寄り添って、まさに人工物の崩れ去りそうな箱を見入った。


幻影がすぐさま白い布を敷くと、長春は鼻歌交じりに箱を置いた。


ここから出てきたもので一番小さいものだ。


だが、もう中が見えているが、泥によってその存在はよくわからない。


「…まさか、茶碗か?」と信長が言うと、「どうやらそのようですね」と幻影はため息交じりに言った。


確実にこの寺とは無関係と感じたからだ。


しかし幻影は慎重に泥をぬぐってそろりそろりと蓋を開けた。


中のわずかな部分は泥に汚れていたが、ほぼそれがどういったものなのか理解はできた。


「備前ですね」と幻影は言って、さらに慎重に茶碗の泥をぬぐって、傷や欠けがないことを確認した。


「空雲和尚と懇意にしていた者でもいたのか…」と信長が言うと、幻影は箱書きがないかと、さらに慎重に蓋の泥などをぬぐった。


「…備前と千の字は確認できます…」と幻影は言って、半紙を出して模写をした。


「…千利休の先祖との交流があったのか…

 まあ、備前に行けばすぐにわかるじゃろうて。

 判は?」


信長が言うと、幻影は茶碗をひっくり返して、その判の模写をした。


署名をしている場合もあるが、ほとんどの場合は記号のようなものを記してある。


判はへらで突かれた四つの点で表されていた。


「なければ廉価品でしたね」と幻影が言うと、信長は何度もうなづいた。


幻影が長春に茶碗を渡そうとしたが拒否されてしまったので、幻影は大いに苦笑いを浮かべて、茶碗を洗ってから、箱が崩れないようにさらにきれいにした。


しかしわかったもの以上は発見できなかった。


箱は湿っていたので、工房の隅で乾燥させることにして、茶碗は謁見の間に持っていき、『貴重品棚』に小さな座布団を敷いて鎮座させた。



ここからはほどなく整地も終わり、土砂から残留物が出てくることはなかった。


この辺りの地はまさに未開発だったので、人の手で作られたがまず出てこない。


そして木などを裁断したりしていると、「なんか出たっ!」とまた長春が叫んだ。


まさに、茶碗が出た辺りにあった木で、木の節が蓋になっていたのだ。


「百足の住処」と幻影が言うと、「違うよ?」と長春は笑みを浮かべて言った。


幻影は彫刻刀の中から直角に曲がったものを出して、軽く節に引っ掛けると簡単に外れた。


そして百足が出てくることはなく、幾重にも折られている油紙が中に入っていた。


「…逸話の物語をまた書けそうだね…」と幻影は機嫌よく言って、白い布を敷いてから油紙を置いた。


そして広げると、少々油に汚れている書が出てきた。


読むことには支障がなさそうなので、慎重にゆっくりと開くと、「…源…」と幻影がつぶやいた。


「…珍しいものが出てきたもんじゃ…」と信長は言って弁慶を見た。


「この辺りだと、讃岐の屋嶋の合戦は有名ですからね」と幻影は言って、完全に書を開き切った。


「書いた者の名は細川顕氏のようです

 足利の世になってすぐのことでしょう。

 今から約百八十年から百六十年前です」


幻影は声に出して書を読んだ。


まさに令状で、空雲の名も出て来て、この松山に来る前は讃岐に滞在していたこともあったようだ。


しかし空雲は日の国の書を残していないが、読みと言葉は理解できていたのかもしれないと考えた。


それは比較的読みやすく、字を崩して書いていないからだ。


「具体的には書かれていませんが、

 空雲和尚は足利に何か知恵でも授けたのかもしれませんね。

 もちろん、想像にすぎませんが」


「いや、その昔を知るよい資料じゃ」と信長は言って胸を張った。


「まあ、また素晴らしいお宝ね」と阿国が機嫌よく言って書を覗き込んだ。


「薄い書箱を作って、折らずにこのまま収めることにします」


幻影の言葉に、源次がすぐさま工房に走った。


源次はすぐに戻って来て、桐の箱と竹製の薄い工具を持ってきた。


壊れやすいものなどをつまんで移動させるものだ。


幻影はその二本を巧みに操って、箱に収めて蓋をした。


蓋はしっかりと本体を抑え込むので、うかつに扱っても蓋が開くことはない。


信長は機嫌よく箱をもって、「うどんでも食うか」と言って上機嫌で御殿に戻った。


「讃岐はその前の時代は北条が牛耳っていたんだぞ」と幻影が政江に言うと、「…どこで調べたのよぉー…」と政江は大いに眉をひそめていた。


「まあ、足利に乗っ取られて北条は北に行ったようだけどな」


「…戦ってもないのに負けた気分だわ…」と政江は大いに嘆いた。


すると自慢げな顔をしている長春が幻影を見上げていたので、「よく見つけたね」と言ってから、長春の頭をなでると、大いに喜んだ。



日が暮れる前に、二棟の寺子屋が完成した。


今までも新築の勉学所だったのだが、また新しい場所で勉学に励めると、通っている子供たちは大いに喜んだ。


そして幻影たちの仕事は日が暮れてからまだあるが、ここは夕餉とばかりに、御殿に戻った。


「そういえば、兼続はどうしたのです?」と幻影が聞くと、「忙しそうなのでと言って、一度は松山城に向かったようです」と弁慶が答えた。


「宿、取ったのかなぁー…」と幻影が言うと、「いや、讃岐に行ったようだぞ」と信長が小さな書を見て言った。


「日帰りの移動は老体には大いに堪えるでしょう」


幻影の言葉に、「健康第一」と信長は言って、大いに飯を食らった。


「上杉阿国の件は諦めたようですね」と幻影は言ってその阿国を見た。


「…どう考えても、わかりっこないもの…」と阿国は答えてから愉快そうに笑った。


幻影は庭で寝転んでいる巖剛を見てから笑みを深めた。


全く警戒していないので、面倒なことには巻き込まれることはなさそうだと感じたのだ。



夕餉が終わって、幻影たち兄弟は新築した寺子屋に行って、試作した壁を室内に張り巡らせた。


「…乱反射するが、これは使える…」と幻影は機嫌よく言ってから、不具合を感じる部分を暗幕でふさいだ。


「普通に明るいです!」と源次は笑みを浮かべて言って、本を開いて確認を始め、そして書を認め始めた。


幻影はその姿を見ながら笑みを浮かべてうなづいている。


よって暗幕を張った部分は反射させることはないので、幻影は詳細な図を書いて、新たな壁を作ることに決まった。


軽いので固定することもなく立てかけることが可能なので、使い勝手はいい。


もし昼間にこの壁を使うと、少々明るすぎるが、曇りや雨の日なら使えると感じていた。


できれば、子供たちの健康も留意して、勉学に励んでもらいたいからだ。


様子を見に来た阿国も、「あら、いいわね」と言って、持ち込んできた書物を読み始めた。


「…街道を明るく照らせば、盗賊除けにいいかも…」と幻影が言ったが、「忍たちがどう言うか…」と弁慶が言って眉を下げた。


「…いや、その通りだったな…

 だが、手持ち用にも作ってみよう。

 提灯よりも明るくていいと思う」


幻影たちは様々な条件で、明かりについて語り、阿国にも声をかけて御殿に戻った。


もちろん、壁も持って来て書室に置くと、阿国はまた書を読み始めた。


「何を読んでるの?」と幻影は大いに気になって聞くと、「儒教」と阿国は眉間にしわを寄せて言った。


「…ああ、仁義礼智信ね…」と言って少し笑った。


「…はあ… 本当に勉強家だわぁー…」と阿国は大いに呆れて言った。


「どんな宗教でも、のめり込まない程度が丁度いいはずだから。

 誰も傷つけずに欲を持たず、頭を下げることを軽んじず、

 決してうそをつかない。

 そして先頭の仁が、大いに問題だ。

 儒教では親や目上を敬えとなっていて、

 確かに人の思いを重んじると説いてはいるんだけど弱いんだ。

 さあて、それをうのみにしていいのか」


幻影の言葉に、「…私が言われているようで嫌だわぁー…」と阿国は大いに嘆いた。


「もしも親がどう見ても悪者でも敬うってことになって、

 大いに矛盾するよね?

 それを子が指摘したら、切り捨てられるよ?」


「…大いにあるな…」と興味を持ってやってきた信長が言った。


「仁義礼智信にできればもう一つ欲しいところだね。

 たとえば…」


幻影が少し考えていると、誰もが幻影を大いに見入っていた。


「伊予の予」


幻影の言葉に、全く意味が解らず、誰もが大いに頭を抱えた。


「予感とか予測のようなものだけどちょっと違う。

 これは誰に聞いたって、正確に教えてくれないことでもあるんだ。

 だから、相手の立場に立ってものを考えること、だね。

 この説明はあまり踏み込んでいない。

 しいて言えば、五常の合わせ技のようなものだろうね。

 そうすれば、誰もが大いに気を使って、

 協力し合って生きて行けると思う」


「嘉明が喜びそうだな…」と信長が言うと、「伊予で生まれた新しい儒教の教えということで」と幻影は笑みを浮かべて言った。


「…相手の立場に立って…

 その相手の全てを知らなきゃ、

 正確には実現できない…」


「ですので、多弁は重要だと思います。

 そして聞く耳も大いに持つこと。

 そうすればある程度は、

 相手の気持ちもわかってくるように思うのです。

 それにつながるのが、斬り捨て癖の回避、ですね」


幻影の言葉に、信長は大いに眉をしかめて、「…その相手の経験を聞けなくなってしまうからな…」とつぶやいた。


「武士以外の一般的なことは、

 その者がいないことにしてしまう。

 無視をしたりつまはじきにする。

 それをしてしまうと、

 いずれは何らかに形を変えて、

 自分に降り注いでくるかもしれません。

 それをした相手が、

 鬼になって戻ってくることも考えられるので」


幻影の言葉に、「ですが兄者、直江様のお話もよく聞いて差し上げれば」と弁慶は恐る恐る聞いた。


「あの御仁は五常のすべてがなってない。

 自分の欲だけで動いているから、

 同じ土俵に立つわけにはいかないわけだよ。

 それって大勢の人が

 あれやこれや言ってくることを全て叶えることになるんだ。

 それができるのは、まだ姿を見ていない神しかできないはずだよ」


「はい兄者、よーく、理解できました」と弁慶は言って素早く頭を下げてから、「…叱られなかったぁー…」と小声で言うと、幻影は大いに笑って弁慶の肩を叩いた。


「あとはそうだなぁー…」と幻影が考えると、また誰もが幻影を見入っている。


「願掛けの願う、だね」


幻影の言葉に、「…そうだ、それだ…」と信長は大いに眉をしかめて言った。


「欲と願いの違いを明確にする必要があるのです。

 願うは希望を持つことにもつながります。

 どこかの文献で読みましたが、

 感情には上向きのものと下向きのものがあります。

 よって願うのは上向きで、欲は下向きです。

 欲はほとんどの場合、どんなことをしてでも手に入れたいという、

 まさに鬼の考えだと思うのです。

 ですので死に至らない場合は、

 できればこうあってもらいたいなぁー…

 と思っておくことが前向きでいい感情にもつながると思うのです。

 この先の生きる望みにもつながるはずなのです。

 これが平和になった今の、

 私たちが尽力する必要がある事柄の全てでしょう。

 ですので、できれば欲が沸く前に、

 手助けをすることは重要です。

 助けるのではなく、手を差し伸べて協力するわけです。

 決してその地の長にはならないという強い意志も重要でしょうね。

 そこに長く留まれば、その場だけしかわかりませんので。

 あとは楽。

 体を休めるという意味もありますし、

 楽しいことに身をゆだねるという意味もありますから。

 そういった前向きで穏やかな想いが重要だと思うのです」


「うむ! よーくわかった!」と信長は言って機嫌よく部屋を出て行った。


「…ま、俺なんでたまに乱暴になるから、それほど型にはめたくないね…」


幻影の砕けた言葉に全員が眉を下げたが、一斉に大いに愉快そうに笑った。



「…もしも、幻影の言ったことが正しいとすれば…」と阿国は真剣な目をして言った。


「戒めの意味で明王など怖い仏像があるけど、

 仏陀の説いたことではないと思う。

 さらには戒めのように地獄などもあるけど、

 これも無関係だと思う。

 まさに現楽、今生きていて楽しいこと

 楽なことだけを考えるような教えを説いたのかもしれないね。

 もちろん秩序も大切だけど、

 いつも笑って朗らかに楽しく生きようよと、

 言っただけなのかもしれないよ」


阿国は何度もなづいて、「…肉体と精神を鍛えれば… そして、五常を守れば…」とつぶやくと、「王になれと突かれる」という幻影の言葉に、阿国は笑みを浮かべて、幻影に向けて手のひらを合わせて拝んだ。


「仏陀は王の子だったんだからそれは当然だろう。

 空雲和尚は、仏陀は偏った世界にいたと思っていたような気がするんだ。

 生まれてすぐに王の子。

 何の苦労もしていないし、

 王子の言ったことに耳を傾けて当然だ。

 そういった崇める存在は、

 一般人の中にいることが一番ふさわしいと思う。

 周りが煽っていたら、

 いつの間にか仏教ができていたってところなんじゃないの?」


「…なんだか、全部見えちゃった気がしたぁー…」と阿国は大いに嘆いた。


「だからこそ、宗教にはのめり込まない方がいいと俺は思うんだ。

 仏教に携わるのなら、

 害のないなまぐさ坊主がちょうどいいんじゃないの?」


「…そうね、あまりにも固執するから、おかしなことになっちゃう…」


「だからこそ、キリシタン弾圧は大いに問題だと思う。

 お上自らが、まるで平和でない行為を繰り返す。

 キリスト教にどんな魅力があるのかよくわからないけど、

 それは布教活動にあるように思うんだ。

 神道も仏教も儒教も、布教活動はそれほど行わない。

 お上はそれが広がっていくのを恐れているんじゃないんだろうか…

 秀吉も家康もキリストが帝と肩を並べることが怖いんじゃなかったんだろうか…

 などと考えたんだ」


「…だけど、そこには介入できないわ…

 助けた時点で、キリスト教徒扱いよ?」


阿国は大いに幻影を心配していた。


「あのさ、俺も御屋形様も、

 帝も公家すらもつぶしたい想いがあったってこと知らなかった?」


幻影の言葉に、阿国は大いに目を見開いた。


「宗教は排除しないけど、帝はいらない。

 誰もが何を信じても構わないけど、

 自分自身を神だという者が何かをした試しがない。

 ただただよくわからない権力をかざしているだけ。

 官位をもらえれば出世できる道具。

 武力がものを言わせる世界ならそれでいいんだけど、

 この平和が続けば、

 帝の存在はそのうち無意味になると思うね。

 だから帝の耳元でつぶやいてやるんだ。

 無碍な殺生をやめされるのが神の仕事だってね。

 その程度のことはやって見せろってね。

 公家の制度がなくならないのなら、

 そういった利用方法があるんだよ」


「…やるのね…」と阿国は心配そうな目をして言った。


「もちろん、御屋形様の命令を受けたらね。

 俺が勝手な真似はできないから」


「…一応、猛然と反対しておくわ…」と阿国は生き返った眼をしてつぶやいた。


幻影がこの言葉を言う前に、信長は秀忠に向けて鳩を放っていた。


『キリスト教徒を認めないのなら、鎖国をして布教者を締め出せ。

 無碍な殺生は平和ではない』


この書簡に、秀忠は大いに苦悩を始めた。



穏やかな正月も過ぎていき、小さな問題は起るのだが、簡単に解決して琵琶家は大いに朗らかだ。


信長の書簡の効果があったのか、長崎では宣教師狩りが始まった。


さらには殺さずも受け入れられたのだが、その見せしめの拷問は激しいものだった。


そして宣教師たちも拷問を受け、キリスト教徒を放棄するものも現れたのだが、なにしろうわさが耳に入るだけで、結局はキリスト教徒の減少はそれほど見られない。


その場から離れて暮らしている者には現実味がないからだ。


よって屋敷の奥底で、隠れて崇拝する者が大勢いることは明白だった。


しかし琵琶家が幸運だったのは、キリスト教徒が訪れることがなかったことだ。


だが、助けを求めて来た者に対しては、「痛い目を見たくなければ法を守れ」と言って突っぱねただけだろう。


まさに無神論者の考えだ。


やはり宣教師が国外に連れ出して奴隷にするなどといううわさもあることで、幕府としては禁止令を継続して当然だろう。


そんな中、秀忠の上洛が終わった数日後、また懲りずに兼続がやってきた。


「…おまえだけ、くどいな…」と信長は面会してすぐに言った。


さすがに自分だけと言われてしまうと大いに気が引けるのも当然だ。


「…上様の怒りも買ってしまった…」と兼続は言ってうなだれると、信長は大いに笑った。


「早々に立ち去ってさっさと隠居して余生を過ごせ」


「…真の御屋形様のお世継ぎを我が主に…」


これが兼続の欲だった。


「それはお前の欲を満たすだけのことだろ。

 それを幻影に言ってくることは無体この上ない。

 お前がいなくなれば、何の未練もなく幻影はここに戻るだろうし、

 主になるのは一瞬かもしれんな。

 そして景勝に城主の座をまた戻すだけ。

 幻影はお前が思っている以上に非情だぞ。

 謙信のヤツがお前にそうしろなどといったわけでもあるまい。

 謙信の遺言を聞いたのは、ただひとりだけだと聞いている」


信長の言葉に、兼続は大いに目を見開いた。


「正確には話してやらんが、遺言はお家のことではない」


信長の言葉に兼続は大いに肩を落として、「…ご面倒をおかけしました…」と言って頭を下げてから、何とか立ち上がって外に出た。


「お優しい」と幻影が笑みを浮かべて言うと、「本当の狙いがやっと見えたもんでな」と信長は言って鼻で笑った。


兼続は、謙信が遺言を残したのではないかといううわさを聞き付けた。


その出どころは定かではなかったが、奥の誰かだということだけだ。


さらに調べたのだが、全くわからない。


きっと、重大なことを言い残されたと思い込んで疑わなかった。


その答えがようやく出て、謙信は国のことをそれほど思っていなかったと思い、意気消沈したのだ。


その最後の最後が、上杉阿国だった。


よって兼続は阿国と面会することが叶わず、重い足を引きずって米沢に戻った。


「やはり、狂信的な信者にはなるものではないな」


信長の言葉に、家族たちは一斉に頭を下げた。


「…仏心は出すべきじゃないわね…」と阿国が言うと、「まだ希望は捨てていないと思うから、出すべきじゃないだろうね」と幻影が気さくに言った。


「…そうね…

 私が人質にとられて、迷惑をかけちゃうわ…

 …仏心が仇になることもあると、

 思い知っちゃったわ…」


「そうはならないことはわかっているが、

 やはり保身は重要だ。

 危うきには近寄らず」


信長の言葉に、家族たちは一斉に頭を下げた。



この年は嘉明と高虎にとって大きな出来事があった。


嘉明は広島城を管理することになり、幻影たちはそれを影から支えていると、今度は高虎は紀伊も管理していたのだが、徳川家の御三家のひとつとして紀伊徳川家が誕生したことで、その代わりに大和の国と山城の国を与えられた。


その高虎は信長の面前にいるのだが、幻影を上目づかいで見ている。


「…出世、おめでとう…」と幻影は大いに笑いをこらえながら言った。


「…どうか! 手伝ってはくださらんか?!」と高虎は下げることのない頭を下げて叫んだ。


「…老体に鞭打って頑張ればいいじゃん…

 手下だって喜んでるんだろ?」


高虎はゆっくりと頭を上げて、「…嘉明には手を貸したではないか…」と琵琶家の善行を盾に取ってきた。


「嘉明様は広島城だけだ。

 お前は国をふたつ。

 基本的な条件が全然違う。

 それほどに秀忠に気に入られてんだから、

 ここは奮起すればいいじゃん…

 ここと同じで田舎なんだから、

 それほど難しくないだろ?」


「…大和の寺、焼き尽くしたいぃー…」と高虎がうなったので、「ひどいこと言ってんじゃあねえ!」と幻影は大いに叫んで大いに笑った。


「…お寺巡り、行くよ?」とついに長春が口を出したので、「…まあ、旅行がてら行ってもいいけど…」と幻影は言って信長に頭を下げた。


「なにをどうすればいいのか指示書を出せ」と信長は半分笑いながら高虎に言うと、「はっ! すぐさま!」と高虎は素早く頭を下げて言って、部屋を出て行った。


「ま、仕事を請け負ったということで構わん。

 よって当然、カネをふんだくる!」


信長は叫んで上機嫌で言った。


幻影としては何度も大和と山城の上空を飛んでいるので、秀忠がぐうの音も出ないほどの整備をする自信がある。


さらには阿国に見分を広げてもらうことも、今回の旅にとっては重要だ。


ここには嘉明もいて、瞳を閉じて頬がひくついている。


「嘉明様」と幻影が言った途端目を開いて、「道後に一軒、素晴らしい宿を!」と言って深々と頭を下げた。


「準備は終えていますから、詳しい場所だけを教えてください。

 相談が必要であれば、また後日にでも」


幻影が言って道後温泉郷の地図を広げると、「今すぐに決めます!」と上機嫌で叫んで、幻影が考えていた場所と一致したのでこの場で請け負うことが決まった。


「それを建てると、必ず来るけど…

 まあ、あいつも時には息抜きしたいだろうからね…

 そうすれば、嘉明様の威厳が琵琶家を動かしたとして、

 またいいことがあるから」


「…滅相もござらん…」と嘉明は落ち着いて言った。


「では、仕事としてきちんと請け負わせていただきましょう。

 まずは検地にだけ行きますよ」


幻影が言って立ち上がると、家族全員が立ち上がった。


嘉明は大いに戸惑って、座っているわけにはいかずに、すぐさま立ち上がった。


「小さなお社の移築もありますからね。

 もっとも、地面もろとも移築する予定ですので、

 根付いている仏もあまりの事態に驚くことでしょう」


幻影の言葉に、「…私もお役に立てるわ…」と阿国は笑みを浮かべて言って、巖剛の頭をなでた。



幻影たちはわずかな工事用材を戦車の後ろの台車に乗せて、静々と戦車を走らせた。


これだけでも行楽客が大いに喜ぶのだ。


早速仕事が開始され、阿国は社に向けて経を唱え始め、幻影たちは社の掃除と修復と、移築先の整地を行った。


経を終えてすぐに、社の回り二間分ほどの場所に溝堀機で溝を掘り、地面ごと持ち上げると、「おー…」とやじ馬たちがうなり声を上げた。


そして移築先に移動して、地面を固めてひと仕事終わった。


すると社があったくぼみに長春と政江が入っていて、何かを探している。


「まあ、これも本題だったからね」と幻影が言っていると、「…あったぁー…」と長春が大いに感動して、石のようなものを持ち上げて、幻影に満面の笑みを浮かべた。


幻影は長春と政江を地面に上げてから、白い布を敷いて長春がお宝を置いた。


「さて、なんだろうね」と幻影は言いながらも慎重にきれいにしていく。


この場所に何かあると長春が言っていたのだが、さすがに社の下なので手は出さないことにしていたのだ。


だがこの機会に長春の願いを叶えることができたので、幻影としては満足だった。


その正体は四角い焼き物で、白の釉を塗っただけの質素なものだが、やけに頑丈だと感じた。


もちろん、この中にお宝でもあるのだろうと思い、「開けてみな」と幻影は言って、あとは長春に任せた。


長春は満面の笑みでゆっくりとふたを開けて、目を見開いた。


そこには黄色く変色した折りたたまれた紙が入っているだけだった。


「宝の地図」と幻影が言ってにやりと笑うと、「…うわぁー…」と長春は陽気に言ってから、紙を取って丁寧に広げた。


冗談で言ったのだが、その内容はまさに地図で、文字はほとんど見当たらず、書いてあるのは、「大和」の文字だけだった。


「大和の国に行くから丁度いい」と幻影は笑みを浮かべて戦車から大和の地図を持って来て広げた。


ここからは全員でふたつの地図を見比べて、「吉野だな」と信長が言って指を差した。


「ほぼ間違いなさそうですね。

 今の季節、桜がきれいでしょう」


幻影の言葉に、「ご褒美ぃー…」と長春は笑みを浮かべて言った。


「秀吉の埋蔵金でもあるかもね」と幻影が言うと、誰もが大いに期待した。


吉野の山は秀吉の指示で整備されたものだ。


よって関係はあると思い、掘り出した地図を子細に確認した。


―― 建設従事者… ―― と幻影は絵心があることから判断した。


穴は幻影が子細に確認したがほかには何もないので、穴を埋めて固めた。


今回の作業はこれで終わり、社にお供えをして御殿に戻った。



「…温泉場としては丹波の有馬を秀吉が手掛けています…

 そこで従事していた人の仕業かもしれないですね…」


幻影は言いながら、うどんをすすって、笑みを浮かべて何度もうなづいた。


今日はお好みで、しょうがを擦って出汁に入れて楽しんでいる。


よって食べても食べても飽きが来ない。


まさにいくらでも食べられるのだ。


そして体が大いに温まる。


この発案は松太郎で、出汁に合うように大いに考えられている。


「吉野に温泉でも沸くんだろうか」と信長が言うと、「大和辺りでは冷泉でしょうけど、あるのかもしれませんね」と幻影は言ってその顔に陰りが出た。


「秀吉に黙っているはずがないから、

 秀吉が気に入らなかったやつの仕業」


「同意します」と幻影は笑みを浮かべて言って、またうどんをすすって、「うまい!」と思わず叫んだ。


「秀吉も短気で、特に晩年は辺りに当たり散らしていましたから。

 それが寿命を縮めた第一の原因です」


すると老人と言われる年齢の者は、大いに穏やかに食事を楽しみ始めたことに、幻影は少し笑った。



幻影たちはまずは大和に向かって旅に出た。


もちろん安土が近いこともあり、一度落ち着くために安土に戻ると、各商店主に大歓迎された。


しかし宿泊は今日だけと聞いて大いに残念そうだったが、この安土の地も琵琶一族の家だ。


そして改善された街道整備を簡単に行って、街道筋はさらに陽気な雰囲気に包まれた。


もちろんうわさを聞き付けた彦根城主もやって来て、この素晴らしい街道を堪能している。


そして幻影と松太郎で、うどんの無料の炊き出しが始まると、この近隣の者たちはこぞって舌鼓を打った。


家族の希望を聞いて、琵琶湖に船を出して久しぶりにお大臣遊びを楽しんでからこの日を終えた。



早い時間に大和に入り法隆寺に行くと、高虎が腕組みをして待っていた。


「戦に行く雰囲気ですね」と幻影が言うと信長は大いに笑いながら何度もうなづいている。


挨拶は簡単に終わらせて、まずは朝餉を摂りながら、工事の説明を始めた。


「…街道を封鎖する必要がないのか…」と高虎は目を見開いて言った。


「寺を訪れる人がそこそこいるから、それはしたくなかったんだ。

 だけど仕上がりは松山と変わらない。

 それを安土で試してきたから間違いないよ」


「…うう、安土も… しかも、カネをかけずに…」と高虎は意地汚いことを言ってうなった。


「俺たちの屋敷の面前だからやらないわけがない」


幻影がさも当然のように言うと、「幻影のいう通りだ」という信長の鶴の一声に、高虎はすぐさま頭を下げた。


整備された寺もあれば、放置されて崩れてしまった寺もある。


この整備が必要なので、高虎はすべてを焼き尽くしたいなどと罰当たりなことを言ったのだ。


今から二十年も前にあった伏見の大地震で大打撃があったその残骸のようなものだ。


何しろ寺が多いので、このように放置されていても仕方がないのだが、さすがに荒れたままでは忍びないと思いながら、うっそうと生えている草抜きから始まった。


その傍らで妙栄尼が経を読んでいる。


さすがに高虎が人足も数名準備していたので、草抜きはまかせてから、本堂などの解体工事を始めた。


もちろん仏像などがあるので、極力修復することにして、廃材を一カ所に集めてから、その廃材を使って小さな社を建てた。


そこに修復した仏像を収めると、まるでその仏像たちが笑っているように見えた。


今日のところはこのような廃寺の整備を三十程行って、まだ明るいうちに安土に引き上げた。


本当はこの辺りで野宿しようと思っていたのだが、さすがに風呂に入りたいようなので、仕事を早々に切り上げたのだ。


高虎がついてこようとしたのだが、「泊まれるのは十人ほどであとは野宿」という幻影のつれない言葉に高虎は渋々諦めた。



翌日はこの斑鳩の地を去る前の街道工事を西大寺に移動しつつ行った。


まさに長い道のりだったが、道幅が狭いおかげで日が暮れる前に西大寺に到着した。


この近隣は廃寺はなく整備されているので、一度東大寺まで街道整備をしてから郡山まで足を延ばして、数軒の廃寺を確認してから安土に戻った。


このようにして主要な社寺の整理を行って、高虎が示した土地の整備は完了した。


高虎は丁寧に礼を言って、名残惜しそうな顔をして宇治に帰還する準備を始めた。


最低でも数年はかかる工事を数日で終え、しかも料金は格安に抑えてもらえたので、高虎としては大いに満足だった。


幻影たちはようやく解放され、安土で休養してから、その翌日に吉野に移動した。



朝餉は食べずに弁当にしたので、まさに素晴らしい桜を眺めながらの宴会となった。


地図はこの素晴らしい桜がさらに素晴らしい奥千本の辺りの川を示している。


「桜を愛でながら温泉で花見酒」と信長は陽気に言っている。


花見を終えて寛いでから、戦車をここの庄屋に預けた。


まさか誰かが攻めて来るとは思わなかったようだが、早速警備の農民たちをそろえて、幻影たちは送り出された。


この吉野に法源院屋はないのだが、西大寺に行けばあるので、琵琶一族のことは知っていた。


さらには幻影たちが荒れ寺の整備をしたこともうわさになっていたので、話は早かったのだ。


整備されていない山道を歩くのはまさに修行のようだが、一般人たちとは少々違う琵琶家の面々は疲れることなく現地を訪れ、目的地を見下ろした。


そこは岩の多い見晴らしのいい渓谷だった。


そして上から見たことで、さらにその目的地がはっきりと理解できた。


石を使った丸い囲いがあったからだ。


幻影はここから降りる場所を探したのだが見当たらないので、まずは弁慶と源次を抱え上げて河原に降ろして警戒させて、次に信長と濃姫を河原に降ろした。


どう考えても高台からこの河原に降りるのは、かなり先に行かないと無理だったからだ。


家族を下ろし終えた時、長春と政江が陣頭指揮を執って石の移動をさせていた。


蛙や虫も多く出るのだが、声を上げることなく静々と作業は行われ、ついに打ち込まれた木製の頭の短い杭を発見した。


幻影が地面に手のひらを当てると、「…少々温かいか…」と言いながら別の場所にも手のひらを当て始めた。


やはり杭を打っている場所だけが温かいことが確認できて、ここからは幻影と弁慶だけで作業を始めた。


条件により、温泉が噴出するかもしれないからだ。


だがその杞憂はなく、滾々と温かい温泉水が沸きだしてきた。


川の一部に石で囲いを作って、温泉水を流し込むと、もう露店風呂が出来上がってしまった。


この季節にしてはこの辺りは温かいと感じるほど、いい湯加減だった。


男女混浴になるのだが、ここは男子も女子も白い襦袢を渡して着させてから、それぞれの想いをもって風呂に浸かった。


信長は有言実行で、盆を温泉に浮かべて花見酒としゃれこんだ。


「あいやおどれえた!」という声が聞こえたが、もうすでに弁慶と源次がその男の前にいて、無言で襦袢を渡した。


この地の漁師と語り合って、この川の下流に小さいが村があることを知った。


男は川の魚と小さな畑を持っていて、食いつないでいたようだ。


よってこの温泉はその村にとっていい資金源になる。


幻影と数名は、早々に温泉から上がって、簡素な小屋と大きなひさしを作り上げた。


日陰に入ると風が涼しいので、火照った体を冷やすにはちょうどよかったからだ。


「ん? このいかだはなんじゃ?」と信長が言うと、幻影は家族全員を乗せて、四隅に固く結んだ蔦で編んだ縄を握りしめて宙に浮かんだ。


幻影たちは温泉にひとり残された男に手を振りながら、山の道に戻った。


「…天狗の仕業… 狐の家族に化かされた狐温泉、とかな…」と信長は陽気に言って、足取りも軽やかに山を下りた。


幻影たちは戦車を預けた村に戻って地図を渡して、「温泉が湧いた」とだけ言って、摂津の堺を目指して走った。



堺は商業港で、比較的栄えている。


もちろん法源院屋もあるので、今日はここの庭で夜を明かしてから伊予に帰ることにした。


当然のように店主は号泣して琵琶家を歓迎して、大きな庭に案内した。


人が多い地の大店はほとんど問題はない。


何も言わなくても商品は飛ぶように売れるからだ。


「徳川が大坂城を建てる」と話の流れでこの情報を聞くことになった。


もちろん、徳川の直轄地にするようで、普請工事としてなかなかの大工事になるようだ。


よって放置されたままの大坂城跡のわずか北東にある法源院屋もそれなりの売り上げが上がり始めたという情報も得た。



穏やかな夜を過ごして翌日の朝に戦艦を出して伊予に戻ると、出迎えていた嘉明が大いに緊張しているように見えた。


「あれ? なにかあったのかな?」と幻影は意味が解らずつぶやくと、「ここで言ってきよったか」と信長は言って、佐竹姉弟を見た。


志乃も竹ノ丞も意味が解らず、信長に大いに苦笑いを向けていた。


「佐竹家はな、松平家本家の血を継ぐ者たちじゃ」という信長の言葉に、「おっ! それはすごい!」と幻影は大いに喜んだのだが、志乃と竹ノ丞は大いに戸惑っていた。


「ま、佐竹竹ノ丞は徳川を名乗ってもよいという通達でもあったのじゃろうて」


信長の言葉に、竹ノ丞は志乃と寅三郎を見て、「色々と取り戻せたんじゃない?」とまさに人ごとのように言った。


「領地がもらえるのなら、御殿の街道筋をもらっておいて欲しいね」


幻影の言葉に、「あはは、そうします」と竹ノ丞はいつものように気さくに言った。


「やはり新築した駿府の温泉宿までやってきた目的は、

 実際に見ておきたかったからという理由もあったようですね」


幻影の言葉に、「気になったから調べさせた」と信長は言って少し笑った。


幕府の調査網は伊達ではない。


だが、さすがに忍びが密着すれば、情報が漏洩することは避けられないのだ。


今の徳川には、これといった忍びの部隊は存在していない。


しいて言えば、藤堂高虎がつい最近十名ほどの甲斐の者を雇った程度だ。


もちろん、主人である信長の真似をしたかったのだ。


幻影はまずは弁慶とともに船を降りて、信長を上げ、続いて竹ノ丞を上げた。


信長は嘉明を見ているが何も言わない。


「おかえりなさいくらい言え」と信長が催促すると、嘉明はすぐさま我に返って、「お勤めお疲れさまでした!」と叫んで恭しく頭を下げた。


そして竹ノ丞を見入ってから書を出して読み上げた。


まさに万人に認知させる行為でもある。


「佐竹竹ノ丞は徳川を名乗る権利を与える。

 佐竹家が松平の本流の血を継ぐことがその理由。

 よって元服の儀は江戸城にて執り行うように」


嘉明はここまで読んで、大いに眉を下げた。


できれば松山城で行いたかったようだが、さすがにそれは無理な話だった。


そして残りも読み上げて、書を丁寧にたたんで、嘉明は恭しく竹ノ丞に献上した。


「お手数をおかけしました。

 本当にありがとうございます」


竹ノ丞の言葉に、嘉明は大いに恐縮して、片膝をついて頭を下げた。


「私自身、まだ元服しておりません。

 それにまだまだ勉学にその身を置いている最中。

 できればこの先も、そのような姿をされないよう、

 お願い申し上げます」


竹ノ丞の素晴らしい口上に、幻影も信長も笑みを浮かべて何度もうなづいた。


「はっ ありがたき幸せ」と嘉明は言って素早く頭を下げてから立ち上がった。


「あの、できればお世話役をお願いいたしたいのです…」と竹ノ丞が心細げに言うと、「もちろんでございます!」と嘉明は大いに胸を張って答えた。


そして嘉明と警護人たちが戦車を先導して御殿に帰り着いた。



「…ああ、お家再興を果たしただけでもこの上なくうれしいのに…」と志乃はこう言いながらもずっと泣いている。


「ところで、志乃さんはある意味お姫様だけど?」と幻影が気さくに言うと、「えっ?」と志乃は顔を上げて言って、ゆっくりと幻影を見た。


「…助けてぇー…」となぜか大いに嘆いたので、家族たちは大声で笑った。


「確かに助けてもらいたいと思うこともあるだろうが、

 ワシたちに任せておけばよい」


信長の心強い言葉に、志乃、竹ノ丞、そして寅三郎は頭を下げた。



「では、佐竹家の城を建てる」と信長は屋敷の謁見の間でいきなり言った。


今はまだ元服を終えていないので、佐竹家で正しい。


「候補地ですが、この御殿の南側でいかがでしょうか?」


すかさず幻影が進言すると、「庭園の美しさがさらに映えるであろう」と信長は機嫌よく言って何度もうなづいた。


城といってもこの琵琶御殿と同じような造りになる。


さらには今のところ家臣は酒井寅三郎しかいないので、仕官の求人を出すことにもなる。


もちろん幻影が手伝うが、採用の全ては竹ノ丞に任せることにも決めていた。


そして幻影はある企画を提案した。


「うむ! それでよい!」と信長の高揚感あふれる答えを聞いて、幻影は素早く頭を下げた。


「…仕官試験…」と竹ノ丞は言って笑みを浮かべた。


「と見せかけた剣術大会だから。

 今はまだまだ浪人は多いからね。

 元服となって松山に徳川と名乗る者が現れたら誰だって興味が沸く。

 しかも間違いのない事実は、法源寺屋からも公開するから誰も疑わない。

 宣伝などしなくても、大勢の志願者が現れるさ。

 何も剣術の優劣だけを見るわけじゃないから、

 なかなか忙しいと思うぞ」


竹ノ丞は笑みを浮かべて、長春を見て、「こちらにお世話になる前はそうだったと思います」と答えた。


「そうか、よかった」と幻影は言って笑みを浮かべた。


「お師様に指南役となっていただきたいのです」


いきなりの竹ノ丞の要望に、さすがに志乃が諫めようとしたが、「掛け持ちでいいのなら別にいいぞ」と幻影が快く答えると、「はい! もちろんです!」と竹ノ丞はまさに竹を割ったように礼を言って、そして信長にも頭を下げた。


「免許皆伝の弟子もいるし、

 まだまだ弟子もいるから、

 幻影の神髄を知る者は多いからな。

 名前貸しのようなものじゃ」


信長の言葉に、「ですがまだまだ、お師様として奮起していただきます!」と竹ノ丞は満面の笑みを浮かべて言った。


「いい奴が現れるといいな」という幻影のやさしい言葉に、竹ノ丞は満面の笑みを浮かべた。


「となると、俺自身の肩書も必要か…

 …基本は真田の武家指南と、

 伊賀の忍び指南になるけどな…

 それに、無手の技も多いから…」


幻影が考えながらつぶやくと、「萬幻武流よろずげんぶりゅう!」と長春がすかさず叫んだ。


「あ、それでいいよ」と幻影はあっさりと決めて、書を認めて長春に見せると、「…かぁっこいいぃー…」と政江とともに声を合わせていった。


「信繁の指導を受けたが、信繁の想いだけではないからな。

 幻影はもう真田に偏らず独立して看板を上げてもいいほどじゃ。

 何ならすぐにこの御殿に看板を上げてもよい」


「はい、ありがたき幸せ」と幻影は言って頭を下げてから、早々に部屋を出て行った。


「…萬幻武流創始者…」と弁慶が大いに拳に力を入れて言って、満面の笑みを浮かべた。


「弁慶は萬幻武流師範代総代として堂々と名乗ればよい。

 まだまだ侍の時代じゃから肩書は重要じゃからな」


「はっ 御屋形様」と弁慶は素早く答えて頭を下げた。


そして信長は源次と藤十郎に師範代として励むように伝えた。


ここで焦ったのは酒井寅三郎と黒田松太郎のふたりだ。


幻影から指導を受けてはいるものの、師範代のようにすべてを見せてもらったわけではない。


しかも松太郎は居合の剣術家でもあったので、ほぼ一から修練を積んでいる最中だし、ほとんどの時間をうどん屋で過ごすようになった。


さらに言えば忍びの極意などはまるきりわからないし、槍も習得する必要もあるし、無手での攻めの修練までもある。


今の生涯だけでは確実に師範代は無理だと思って大いに眉を下げた。


「得手不得手はあるさ」と部屋に戻ってきた幻影がいきなり言うと、寅三郎と松太郎の背筋が伸びた。


まさに言い知れぬ威厳を感じたからだ。


「すべての技の型だけをしっかりと覚えておいてくれたらいい。

 基本的にはすべては素振り。

 それが問題なければ、立ち合いにおいての免許皆伝は出せるが、

 難しいのは心構えの方だ。

 これに関しては指導をせずに、

 日々の修練で見抜くから。

 これが萬幻武流で一番大切なことで、

 お師様自身の修行だ」


幻影のかなりやさしい言葉に、寅三郎と松太郎だけではなく、竹ノ丞、健五郎、才英、源斉昭も頭を下げた。


「…おい! 俺は何流を名乗ればいいんだ?!」と久しぶりに蘭丸が男言葉で叫んだ。


「流派に幻武が入っているから、お蘭もお師様に決まってるだろ…」と幻影が眉を下げて言うと、「おっしゃぁ――っ!!」と大いに気合を入れてから、「母ちゃんは偉くなったぞ」と阿利渚に報告した。


「…不器用さは何も変わっとらん…」と信長は小声で言って少しだけ笑った。



竹ノ丞が自らの手で仕官の募集を書いて、京の法源院屋から国中に配布すると、松山城下に妙に武士の姿が目立つようになった。


姓はまだ佐竹竹ノ丞のままなのだが、どうやら逃げ出した元配下たちがお情けをもらうようにやってきたようだった。


それに加えて、三厳と武蔵までもやって来た。


「今回は大会じゃないぞ。

 大会もやるけど…」


幻影の言葉に、「…伊予まで来て、間違いではなかった…」と三巌が大いに感動して言った。


「それに、お前を雇えるわけないだろ…

 その時点で失格だから、大会には出させん」


幻影の少し厳しい言葉に、「お師様ぁー… お願いしますよぉー…」と三巌は幻影にすがった。


「あ、そうだ。

 俺の流派を作ったんだ。

 名は萬幻武流」


幻影の言葉に、三厳も武蔵も目を見開いた。


「…入門、せねば…」と武蔵は真剣な目をして言った。


「うん、いいよ」と幻影が気さくに答えると、武蔵は全身の力をたぎらせて喜んだ。


「だが三巌、本当に知らないのか?」と幻影が念押しすると、「…様子を見て来いと言われてきた…」と三巌は申し訳なさそうな顔をして言ってから頭を下げた。


「…大名で将軍家指南役が知らないわけがないからな…

 まあ、聞かされていない大名も多いんだろうけどな」


「…ここだけの話ということでしたし、

 江戸城下では噂すら流れておりません…」


三巌の言葉に、幻影は何度もうなづいて、「なかなか守られているようだね」と幻影は笑みを浮かべて言った。


しかも徳川姓を名乗れる者は限られていて、同じ家でも姓が違う場合もあるし、家康が徳川を名乗り始めた時、徳川姓を持っていたのは世継の秀忠ただひとりという事実もある。


よって新設された徳川御三家の尾張、紀伊、水戸は徳川姓を名乗れるのだが、世継候補だけにしか名乗らせていない貴重な姓でもあるのだ。


よって正式に竹ノ丞が元服すると、まさに数少ない将軍候補ということにもなる。



その将軍候補が寺子屋での勉学を終えて、健五郎と才英と三人で、御殿の前で話し込んでいる幻影たちに近づいてきた。


三巌は恭しく挨拶をして、武蔵はそれなりに丁寧にあいさつをした。


竹ノ丞が笑みを浮かべて幻影を見て、「柳生様と宮本様を召し抱えたいのです」と堂々と言うと、「柳生三厳はダメ、武蔵は多分受けないだろ?」幻影の言葉に、「申し訳ございません」と三巌はわびてから頭を下げた。


「…あー… そうなんですか…

 本当に残念です…」


竹ノ丞が心底残念がると、「私は仕官いたします!」と武蔵は言い放った。


もちろん三巌は大いに悔しがったが、幻影は笑みを浮かべて何度もうなづいていた。


「この先どこかに身を置くのなら、

 佐竹様をお守りできるよう尽力いたしたいと思っております。

 さらには、琵琶高願様の弟子として、

 さらに鍛え上げる所存でございます!」


武蔵の堂々とした言葉に、幻影が思わず拍手をすると、「…お師様ぁー…」と三巌が大いに嘆いた。


「武蔵もいい年だし、

 少しは落ち着いた方がいいからね。

 まあもっとも、俺たちとともにいて、

 逃げ出したくなることがあるかもしれないけどね」


幻影の威厳のある言葉に、「耐えましょうぞ」と武蔵は堂々と言い切った。


「じゃ、あとで無限組み手な」という言葉に、「…無限組み手…」と武蔵と三巌はつぶやいて、大いに眉を下げた。


「宮本様は今回は弁慶様に勝てるのでしょうか?!」と竹ノ丞は大いに期待した。


「それはやってみないとわからなけど、

 武蔵が化け物になってない限り勝てないな」


幻影の言葉に、「いえ、それでも戦えるだけでもすごいことです!」と竹ノ丞は陽気に言った。


「…まあな…

 弁慶が本気の場合、

 戦っているうちには入らないからな…

 今回は源次をぶつけてみようか。

 なんなら、初見の藤十郎さんでもいい。

 俺とは兄弟弟子だし、

 はっきり言ってとんでもなく強いから」


「…できれば藤十郎様も、仕官していただきたいです…」と竹ノ丞は少し悲しそうに言った。


「だが、お前には守り刀の寅三郎さんがいるじゃないか」


「…はあ、それはそうなんですけど…」と竹ノ丞は言って肩を落とした。


「欲張っているわけじゃないと思うけど、

 寅三郎さんだって相当なものだぞ。

 手合わせしてもらったのか?」


「…え、いえ…」と竹ノ丞は小声で答えた。


あの寅三郎がそれほどの剣術家とは思えないと、なんとなくだが思い浮かんでいたのだ。


「もう少し器用になれば、

 免許皆伝になかなか近い場所にいると思っているからな」


幻影の言葉に、「えっ?! それほどだったのですか?!」と竹ノ丞は思わず叫んでしまって、すぐに謝った。


「人それぞれだ。

 木刀での立会だったら、三厳となら面白い戦いになりそうだ。

 武蔵は少々変則だから、

 何度か手合わせしないと惑わされるだろうな。

 だがいずれは向き合うんだ。

 ここは修行として、

 昼餉の後にでも、手合わせしてみるかい?」


幻影の言葉に、「はっ ぜひとも!」と三巌と武蔵はすぐさま答えて頭を下げた。



その昼餉の時に寅三郎に手合わせの話をすると大いに戸惑った。


その理由は、手合わせの話ではなかった。


「…私はお暇を出していただいたと思っていたのです…」


寅三郎の言葉に、「…あー… そういえば言ってたなぁー…」と幻影はいつもの少しいい加減さを出して言ったが、「じゃ、仕官すれば?」と言うと、信長が大いに笑った。


「とりあえず、三厳と武蔵、

 それに源次と手合わせしてもらってから決めていいと思うね。

 寅三郎さんの戦い方次第で、みんなの考え方が大いに変わると思う。

 希望があれば、お蘭も俺も協力するから」


もうこの時点で、竹ノ丞の気持ちは変わっていた。


寅三郎は、達人といわれる幻影に認められていたのだと。


しかし口に出すことはなく、幻影の言った通りに、手合わせをじっくりを見てみたいと思い、寅三郎に向けて笑みを浮かべた。



いつも手合わせする時は、街道から見えない屋敷の裏手に、整地だけをしている場所を使っている。


ここに佐竹の屋敷を作るので、新しい場所を考える必要もできた。


まずは寅三郎は昼餉の時に大いに恐縮しながら話していた三巌と向き合った。


もちろん寅三郎は三巌の正体を知っていた。


まさに、―― 相手に不足なし! ―― という感情をあらわにして、木刀を縦に立てて構えた。


―― むっ?! 覇王の構え!! ―― と三巌は大いに心揺らされた。


もしも本物であれば、ここは慎重にならないと、あっという間にやられると、かなりの気合を入れた。


上段や中段に構えるのが剣術の基本だが、立ち合いでこの構えを見せる者はほとんどが張ったりでしかない。


三巌は相手の足の位置をすばやく確認して、三手先まで読んで、右足を外に向けて踏み込み、一瞬にして寅三郎に向かい踏み込んで間合いに入った。


「ドオォ―――ッ!!!」と寅三郎の重厚な声が三巌の脇腹を狙った。


三巌は上段に振りかぶっていたのだが、これは見せの一手で、木刀を振るのではなく両腕を下げ防御に徹した。


『ガァ―――ン!!』という、少々重厚な木刀同士がぶつかる音がして、三巌は二間ほど派手に飛ばされた。


しかしこれも見せの一手で、三巌は腕を下ろすと同時に、地面を軽く蹴って体を浮かべていたのだ。


よって派手に飛んだのだが、痛手はまるで負っていない。


―― むっ?! ―― と寅三郎は怪訝に思った。


考えていた結果とはまるで違うと思い、やはり相手は柳生三厳だと思い、うれしくなって笑みを浮かべた。


このような詰将棋のような戦いが続き、まるで勝負がつかない一戦となった。


体力的なことを考え、「そこまで!」と言って幻影が止めると、「なんだとぉ―――っ?!」と三巌ではなく蘭丸が叫んで大いに苦情を言った。


「寅三郎さんの体力を考えて止めたんだ」


幻影の言葉に、「…くっそぉー…」と蘭丸はうなってから幻影の言葉を認めた。


「真剣ではなく手合わせだ。

 本気の戦いはまた別にやればいい。

 じゃあ次、武蔵」


「おうっ!!」と武蔵は叫んで、戻ってくる悔しそうな三巌を見ることなく、寅三郎の前に立って、いきなり二刀を上段に構えた。


―― これが、あの宮本武蔵か… ―― と寅三郎は大いに体が震えた。


しかし武蔵の第一手と第二手がもう見えていた。


寅三郎は三巌の立ち合いと同じ覇王の構えを取った。


「始め!」という幻影の開始の厳しい重厚な言葉に、まず前に出たのは寅三郎で、その構えを裏の中段に構えて、武蔵がまず振り降ろした右の木刀をはじき返した。


そして左の振り下ろしが来る前に、その体を左足を中心にして左に振って避けた。


もちろん、武蔵は寅三郎の第一撃で体の重心を狂わせられていたので、不利なのは武蔵だ。


だがここは重心を振られた方向に逆らわずに、体を左に回転させて、寅三郎の右斜めからの振り下ろしを避けた。


「それまで!」と幻影は早々に止めると、「…うう…」と蘭丸は大いにうなった。


まさにここからが面白いと思っていたのに簡単に止められてしまって、大いに悔しく思っていたのだ。


「武蔵は色々と反省しろ。

 次、源次」


「おうっ!」と源次は笑みを浮かべて、大いに悔しそうな武蔵を見てから寅三郎の前に立った。


「いやぁー… 一度手合わせしてもらっておいてよかったよ」という源次の気さくな言葉に、寅三郎はこの気さくな剣豪に笑みを向けて頭を下げてから衣服を整えた。


今は手合わせなので礼儀を重んじている。


源次と寅三郎は直立してから頭を下げ、源次は中段、寅三郎は覇王の構えを取った。


「始めっ!」


幻影の声が飛んだが、源次は動かない。


しかし寅三郎は振りかぶることはなく、腕を前に突き出しながら木刀を斜めにした。


まさに防御の太刀の構えだ。


源次は左足を少し前に出し、顔の高さまで軽く振りかぶってから、右足を右前に出して、それを中心にして体を翻し、寅三郎の右の肩口に軽く木刀を当てた。


まさに電光石火の早業だった。


「それまで!」という幻影の言葉に、―― また簡単に負けた… ―― と寅三郎は大いにうなだれた。


「寅三郎! 弱すぎる!」と蘭丸は叫んで、源次を大いに睨みながら寅三郎の前に立った。


「…えー…」と寅三郎はとんでもなく気合が入っている蘭丸に大いに怯えた。


「勝負あり!」という幻影の無情な言葉に、「まだ戦ってねえ!」と蘭丸は納得いかずに大いに叫んだ。


「おまえ、怯えている相手と戦うのか?

 それ、ただの弱い者いじめだぞ…」


幻影の正論に、「…くっそぉー…」と蘭丸はうなって寅三郎と幻影をにらんでから幻影の隣に戻って来て、「…乱暴でごめんなさい…」としおらしく謝った。


「手合わせの感情で戦えといつも言っているんだけど?」


「…だってぇー… みんな強いんだもぉーん…」と蘭丸は大いに甘えて言った。


「ああ、普通じゃないほど強いさ。

 誰と向き合っても、

 今の寅三郎さんのような引け目をまずは大いに感じるはずだ。

 戦わずして勝負は見えている。

 十中八九ではなく、気後れした方は確実に勝てないからな」


すると竹ノ丞が寅三郎に走り寄り、「どうか今まで通り、佐竹家に仕えてください! お願いします!」と真剣な目をして叫んで頭を下げた。


寅三郎は、前の主の顔を思い出した。


まさに今の竹ノ丞と同じ目をしていて、懐かしく思い出していた。


「はっ 今まで通り、どうかよろしくお願いいたします」と笑みを浮かべて答えて頭を下げた。


「おまえとは後で戦ってやるから待ってろ」と幻影が言うと、「おう!」と蘭丸は気合を入れて叫んだ。


「弁慶! 萬幻武流の基本演舞だ!」と幻影が叫ぶと、弁慶は木刀二本と杖を二本持って来て、幻影と弁慶はまずは木刀を持って向き合って頭を下げ、流れるような型を見せつけた。


「…おー…」と誰もがこの奇跡のような木刀の舞に感嘆の声を上げ、さらに杖の舞でも、無手の舞でも、ただただ関心の声を上げただけだった。


「これが萬幻武流の基本の型だ。

 ま、理解できなかっただろうから、

 ゆっくりと覚えて行ってくれ」


「はいっ! ありがとうございました!」と組み手場を囲んでいる誰もが大いに叫んで礼を言った。


もちろんこの演武は少し離れている細い街道に並んで見守っている大勢のやじ馬も見ていた。


この厳しい型をすべて覚えないと仕官できないと勘違いした者が大勢いたようで、大勢の浪人たちのほとんどがこの場からいなくなった。


そして約束通り、幻影は蘭丸と戦って、蘭丸は上機嫌になっていた。


幻影は勝負をつけずに立ち合いを止めてから、藁人形を三体持ってきた。


「じゃ、萬幻武流の奥義の披露だ」と幻影が言うと、「うおぉ…」と蘭丸は大いに気合を入れて、長い木刀を大きく振りかぶって、袈裟懸けで振り抜いた。


すると藁人形三体が見事に斜めに切れていて、地面に落ちた。


「これができれば、真の免許皆伝」


幻影の言葉に、誰もが、―― できないぃー… ―― と大いに嘆いた。


「太刀でも木刀でも結果は同じ。

 よってかなりの心構えが必要になる奥義だから。

 しかも、俺にもできねえ!」


幻影が叫んで大声で笑うと、蘭丸は大いに胸を張っていて、褒められたことを早速阿利渚に報告した。


すると堂島から報告を受けてすべてを見ていた嘉明が前に出て、「どうか、わが加藤家の指南役となって頂けんか?!」と叫んだ。


幻影は大いに苦笑いを浮かべて、「それ、大いにまずいと思います」と幻影が言うと、「言ってみたかっただけです」と嘉明は笑みを浮かべて頭を下げた。


もちろんこれを知った秀忠が何をしでかすかわかったものではないからだ。


「ですが、ここに道場を建てますので、

 習いに来てくださるのは自由ですから」


「…おー… そうだったのかぁー…」と嘉明は大いにうなって、この先の詳しい打ち合わせをしてから、機嫌よく城に戻って行った。



佐竹家の新築工事もあるのだが、まずは先に受けていた道後の新しい宿の建築に従事した。


ここには整地した場所の近くに管理者がいない、『湯殿神社』という社があるのだが、温泉の労働者に事情を聞くと、「…当時の松前の殿様に許可を得て建立していただいたそうで…」という回答を得た。


港に近い松前村に城があったのだが、嘉明が松山の城と町を作り上げたので、今は廃城となっている。


松山近隣は多くの武将たちが大いに争って獲得しては奪われるを繰り返していた。


よってその前の時代だとすると、八十年程前までの河野氏がこの地を平定していた頃のことだろうと思いながら、神社の本殿に入ってその手掛かりを探した。


そしてうまい餌を見つけたようにして、長春と政江もやって来て、埃もつれになりながらもお宝探しを始めた。


だがその事情を示すものは何もなく、書簡すら出てこい。


―― 神がいるように見えるだけの社… ―― と幻影は思った。


「…なんかあるぅー…」と長春が少々怯えた声で言って、幻影は興味をもって長春の視線を追った。


それは本堂の奥の角の床だった。


「あ、収納庫のようだね」と幻影は気さくに言って、開け方を探ったが、取っ手などはない。


「その四角い四隅に力を入れてみな」と幻影が言うと、長春はすぐに試して、右の隅に力を入れると、床が一瞬だけ右側に開いて、『パタン』と小さな音を立てて閉まった。


そして長春が切りかけの入った右側を押さえると、人がひとり入れるほどの穴が開いた。


階段はなく、すぐ下は地面だ。


手製の反射鏡付きの強い光をかざすと、数匹の虫が慌てて逃げた。


「虫がいるぞ」という幻影の言葉など聞く耳持たずに、長春と政江は素早く床に潜り込んだ。


「早く早く!」と長春が大いに急かすので、ふたりがいる方向に明かりを照らして、幻影が床を覗き込むと、壁沿いに三つの廿楽つづらが並んで置かれていた。


幻影は身をかがめて潜り込んで、「当たりは宝物、外れは魔物」という言葉に、「キャーキャー!」とふたりは大いに叫んだが、楽しさ半分怖さ半分の感情だった。


すると、「どうした!」と叫んで信長の声がした。


「床下に廿楽がありました!」と幻影が叫ぶと、信長は床の穴を発見して覗き込んだ。


「ならばよい」と笑みを浮かべて言って社を出た。


信長としてはあとで報告を聞くことを楽しみにしたのだ。


幻影は明かりを照らして辺りを見まわしたが、壁があるだけで何もない。


「まずは廿楽を開けて中を見た方がいいな。

 壊れ物があると、持ち上げる時に割れてしまうから」


幻影の言葉が正論だったので、長春と政江は協力して左の廿楽を開けた。


「ああ、書の類だ。

 これは大いに役立つこともある」


幻影が陽気に言うと、ふたりは興味を失くして廿楽を閉め、真ん中の廿楽を開けた。


「…なぜ仏像…」と幻影は言ってから、「…ああ、ここは寺の跡地か…」と納得した。


この廿楽の中身は個別に出して上げることに決めた。


そして最後の廿楽に、ふたりは大いに期待して開けると、なんと空だった。


幻影は腹を抱えて笑うと、ふたりは大いにふてくされた。


そして、「蓋の裏を見てみな」と幻影が言うと、ふたりは慌てて蓋を裏返し、「…我が無念を封印した…」と読んでから恐怖から大声で叫んだ。


「…ま、気持ちはわかるね…」と幻影は言って手のひらを合わせたが、かなり怪訝に思っていた。


詳しいことは外に出してからじっくりと確認することにして、廿楽をふたつ上げ、仏像は丁寧に注意しながら上げて、最後に空になった廿楽を上げた。


もうすでに琵琶一族が大集合していて、白い布を敷いて待ち構えていた。


そして幻影は書簡が入った廿楽を見て、「…良居世寺いいよでら…」と読むと、妙栄尼が控え目に経を唱え始めた。


よいよとも読めるが、その下に、『いいよ』と仮名を振ってあったのだ。


「いい世の中で、住みよい世の中でありますように…」と幻影は言って手のひらを合わせると、誰もが追従した。


「伊予と呼ばれた原点なのかもな」と信長は言って、合わせていた手を下した。


「妙栄尼様」と幻影が言って、空だった廿楽を開けて蓋をひっくり返して置くと、妙栄尼は目を見開いたが、経を上げない。


「張り紙の奥が真相かと」というと、長春と政江が大いに食いついた。


そして眉を下げている弁慶を見入ってきたので、弁慶は渋々慎重に張り紙を一部だけ剥がして、中に入っていた書簡を出した。


そして書簡を開いて、「逃げるが勝ち…」と長春が読んで、大いに笑った。


しかし署名があり、『河野道直』と読めた。


「なかなか肝が据わったお方のようですわ…」と妙栄尼は言ってから手を合わせた。


「足利が天下を取っていた時代ですね。

 寺も再建立した方がよさそうだ」



幻影は書簡を読み解くと、ほとんどが良居世寺のものだった。


しかし、宗派の記載が全く見当たらないことで、「現楽涅槃寺を真似たのかもしれません」と妙栄尼が言った。


よって、現楽涅槃寺と同じような控え目な本堂を建てることにした。


その隣に湯殿神社を再建立することを嘉明に報告すると、快く了解を得た。


さらには小さな社もこの場に移築して、神仏一体の素晴らしい境内が出来上がると誰もが思っていた。


今日の作業は神社、寺、宿の基礎工事だけで終わることにして、道後の湯に身をゆだねてから御殿に戻った。



四日後に佐竹家の御殿も完成して、佐竹の道場と萬幻武流の本拠地も兼ねた道場を建てた。


しかし仕官試験は外の組み手場で行うことにしたのはいいのだが、志願者がわずか五名しかいなかったことに、幻影たちは大いに眉を下げた。


しかし、期待していなかったわけではない。


何事も、量よりも質なのだ。


「全員合格です!」とまずは竹ノ丞が言い放ち、自慢げな顔を幻影に向けた。


「佐竹家指南役萬幻武流師範代総代、源弁慶だ。

 順番に自己紹介を頼む」


弁慶が堂々と言い放つと、五人は大いに緊張を始めた。


改めて弁慶の肩書を知らされて、誰もが背筋が凍る思いがしたのだ。


しかも弁慶は刀を差していないが、とんでもないものを携行しているように見えてしまうのだ。


そして五人は今までの戦歴などを語り、自己紹介を終えた。


五人全員ともに、敗軍の将に仕えていた猛者級の者だった。


しかしこういった者たちは世渡りが大いに下手で、仕官に行っても採用されることはなかった。


誰もが少々年を取り過ぎていた事実もあるからだ。


上は幻影と同じ四六で、下は三五だった。


だが若い力はこのあとで構わないと、竹ノ丞は考えたようだ。


そしてそれぞれの腕前の確認と、弁慶の指南を受けてから、佐竹家の謁見の間に五人を迎え入れてから、「元服を終えた後、姓を佐竹から徳川を名乗る許可を得ています」という竹ノ丞の言葉に、五人は大いに目を見開いた。


そして五人ともが、なんと辞退したいと言ってきたのだ。


この回答があることは竹ノ丞はもう見抜いていて、じっくりと語って、凍り付いてしまった心を溶かしていった。


そして源次たちが大荷物を持って入って来て、「身を守る鎧です、こちらを常に身に着けておいてください」と言って、竹ノ丞は服を脱ぎ、白い鎧姿となって、兜をつけ、両手に手甲を装備すると、「…おおー…」と誰もが感嘆の声を上げた。


「そう簡単には命を落としませんから。

 ですので心配することは何もなく、

 心おきなく仕えていただきたいのです」


竹ノ丞の言葉に、完全に心の氷が解けた五人は、「はっ」と答えて頭を下げた。



そして徐々にだが、佐竹家が徳川を名乗るうわさが流れ始めた。


もちろん、松山の港で嘉明が公言したことが、ほかの藩に伝わったうわさが戻ってきたからだ。


そして仏頂面をしている今治城主の藤堂高虎と、同じような顔をしている宇和島城主の伊達秀宗が信長に謁見に来ている。


高虎の隣には自慢げな顔をしている松山城主の嘉明もいる。


「ワシから語ることは何もない。

 全ては秀忠の調査した結果じゃ。

 旗本として威厳を取り戻した佐竹家をワシたちが面倒を見ていただけにすぎぬ。

 主らの妙な勘繰りは捨てよ」


信長の言葉に高虎と秀宗は頭を下げたが、上げた顔は幻影を見ていた。


「当然、御屋形様のおっしゃった通り、

 何の計画も策略もないことだ」


幻影の言葉が決定打となって、高虎と秀宗は大いに肩を落とした。


「しかも、高虎の仕事の手伝いは出張までして格安でやってやっただろ…」


幻影の言葉に、高虎は知らん振りを決め込んだ。


「…そのようなことまであったとは…」と秀宗はこれ見よがしに祖父と言っていいほどの高虎をにらみつけた。


「ようやく落ち着いたから、

 物見遊山で宇和島に行くことには決まっているから」


幻影の気さくな言葉に、秀宗は静かに、「…ああ、よかったぁー…」と穏やかに安堵の言葉を履いた。


「物見遊山だよ?」


幻影がさらに言うと、「…そ… それでもかまいませぬ、叔父上…」と秀宗は何とか穏やかに言って頭を下げた。


「むっ?! 叔父上?!」と嘉明と高虎が同時に言った。


もちろん、このふたりよりも親密な間柄で親族でもあるからこその軽い妬みだ。


よって、親族の特例として、何かすごいことでもするのではないかと大いに疑ったのだ。


「秀宗とは小さい頃から何度も会っていて、

 手合わせもした仲だから。

 まさに、叔父と甥の友好な関係だから。

 いちいち妬まないでいただきたい」


幻影の厳しい言葉に、嘉明も高虎も眉を下げた。


「お三方とは均等なお付き合いを維持します。

 それを決めるのは我ら琵琶家ですので。

 御屋形様にあまりご迷惑をおかけなさらぬように」


幻影のさらに厳しい言葉に、「…多少であれば目をつぶるがな…」と信長は言って、機嫌よく寝転んで、「堅苦しいことは終わりじゃ」と言った。



すると数羽の鳩が飛んできた。


長春が機嫌よく書簡を抜いて、信長と幻影に渡した。


信長は笑みを浮かべてうなづいていたのだが、幻影は大いに渋い顔をした。


「…面倒なやつがまたひとり…」と幻影はつぶやいて、信長に書を渡した。


信長は素早く読んで、「好きにさせろ」と言ってから、「嘉明に」と信長は言って長春に渡した。


「お手紙でーす!」と長春は明るく言って、嘉明に書を渡すと、朗らかな表情が一変した。


「独り言じゃが、三人で協力すれば怖いものなし。

 もちろんわが琵琶家も協力は惜しまん。

 だが全ては嘉明が決めろ」


信長の言葉に、嘉明は無言で頭を下げてから、「上様御礼賛の警護を両名にも願いたい」と言って頭を下げると、高虎も秀宗も目を見開いた。


「…まさに、面倒な駄々っ子だ…」と信長は言って鼻で笑った。


「ですが琵琶家はご自由に願いたい。

 警護に参入してしまわれると、

 我らが邪魔だとなりましょうから」


嘉明の言葉に、「ああ、それでよい」と信長は言ってから、「解散だ」と言って瞳を閉じた。


「…お爺様ぁー… 遊んでぇー…」と長春が大いに信長に甘えに行った。


「おう、それもよかろうて」と信長は陽気に言ってゆっくりと立ち上がった。


お付きは蘭丸が受け持って、信長と長春とともに部屋を出て行った。


「…ほんと、面倒なヤツ…

 だけど、道後に新しい宿を建てたことは好都合だった」


幻影が呆れるように言うと、「戦車に乗せろと言って来ましょうぞ」と弁慶が言った。


「ああ、今回は確実に言ってくるな…

 面倒だけど、どうせ必要だから、もう一台作るか…」


「ああ、そうでございました」と弁慶は明るく言って、幻影とともに部屋を出て行った。


「…戦車がもう一台必要…」と秀宗がつぶやくと、「佐竹竹ノ丞様の江戸城登城用のお車だ」と嘉明が言うと、「…ああ、そうでござった…」と秀宗は納得して言った。


「ワシも乗るがな」と嘉明がうれしそうに言うと、「…うー…」と高虎が大いにうなった。


嘉明が竹ノ丞の世話役に決まった情報も伝わっていたので、高虎も秀宗もここに来たのだ。


そのでき次第では第三代将軍となる家光の元服の義も嘉明が世話役を賜ることにもなるからだ。


琵琶家製の戦車で江戸城に登城するだけで、それは決まったようなものだった。



約束の期日よりも早く、今回は公に将軍徳川秀忠が伊予の地を訪れた。


もちろん早まったことは周知しているので、松山城前で琵琶家一同が出迎えている。


その後ろには佐竹家の家紋入りの旗を掲げた戦車が待機している。


もちろん江戸から帰還する際は、三つ葉葵を掲げることになる。


まさに壮絶ともいえる武者行列に、遠くから見ている城下の人々は感嘆の声を上げた。


秀忠が琵琶家の一団を発見してすぐに、「止めよ!」と叫んですぐに、戦車から飛び出したのだが、護衛の弁慶と源次に挟まれた。


しかし秀忠は気にすることなく信長の前に立ち、「いやぁー… 今回は普通に公務で来たよ!」と気さくにあいさつした。


「幻影は来なくていいと言ったんだがな」と信長がにやりと笑って言うと、秀忠は幻影を見て、「…老い先短いんだから、旅くらいしたいよぉー…」と同情を誘うように言った。


「なんなら、死ねないくらい長生きさせてやってもいいんだぜ。

 殺しても死ねない方がよっぽど辛いと思うほどにな」


「…うう… 少し喜んだけど、言った通りかもしれないとも思った…」と秀忠は大いに困惑して言った。


すると側用人たちと大名三名の馬がすぐさまやってきた。


そのあとに、元服間近の家光の一団も追いかけてきた。


「子供よりも子供だ」と幻影が呆れて言うと、「少しくらいは羽目を外したいじゃないか…」と秀忠は大いに苦言を述べた。


幻影はにやりと笑ってから、竹ノ丞の背中を軽く押した。


「上様にはご機嫌麗しく!

 長旅、本当にお疲れ様でございました!

 そしてこの度は過分な身分を頂戴できること、

 末代まで周知させ、名に恥じぬように奮起いたします!

 どうか末永く、よろしくお願いいたします!」


竹ノ丞は大声で言い切って、満面の笑みを浮かべた。


秀忠は大いに竹ノ丞を褒めたが、振り返って眉をひそめた。


「…できの悪い子が疎ましい…」という幻影の言葉に、「知ってるのなら言わないで!」と秀忠は大いに憤慨して言った。


「時期が来れば、竹ノ丞を江戸に呼べばいい。

 俺の意思をきちんと汲んでいるのならば、

 俺は自信をもって送り出すから。

 次の将軍の手助けをさせてやって欲しいものだな」


「…ああ… 幻影のお墨付き…

 もう… 徳川の世は安泰だぁー…」


秀忠は大いに感動して言った。


「天狗さんに竹ノ丞だね!」と、竹ノ丞と同年代の徳川家光が気さくに声をかけた。


「本日は直接ご案内いしたく、

 頑丈なお車を用意させていただきました」


竹ノ丞の言葉に、琵琶家の面々が一斉に道を開け、佐竹家所有の戦車を披露した。


「うっわ! 新品だ!!」と喜んだのは秀忠だったことに、竹ノ丞は苦笑いを浮かべるしかなかった。


「…天狗さんの特製なんだよね?

 …いいなぁー… 竹ノ丞…」


家光が大いにうらやましがると、「お帰りは江戸まで送らせていただきたいのです。もちろん、この戦車に乗って」という竹ノ丞の言葉に、「うんうん! それがいい!」と家光は大いに喜び、竹ノ丞は新たな友人を手に入れていた。


「…あー… うれしいんだけど、我はついでだ…」と秀忠は大いにうなだれた。


「だったら琵琶家の戦車で送ってやる」という幻影の言葉に、秀忠は大いに興奮して喜んだ。


「あ、戦艦でもいいんだぜ。

 ま、万が一が怖いからお勧めじゃないけどな」


「…そ… それも、捨てがたいぃー…」と秀忠は大いに考え込んだ。


この件は側用人や家老と話し合って決めることにして、まずは竹ノ丞が三名の大名の労をねぎらって、この先の警護についてもお願いをした。


嘉明、高虎、秀宗は大いに感動して頭を下げた。


嘉明に至っては男泣きに泣いていたほどだ。


「…あー… 加藤様が竹ノ丞のお世話役なんだね、いいなぁー…」という家光のうらやまし気な言葉に、「加藤嘉明に、徳川家光の元服の際の世話係を命ずる!」と秀忠がすぐさま叫んだ。


「…あはは… 早かったぁー…」と幻影は陽気に笑ってつぶやいた。


嘉明のこの幸せな一瞬に、号泣しながら礼を言った。


大人の話など露知らず、竹ノ丞と家光はもうすっかり仲のいい友人になっていた。



佐竹家の戦車は、大名たちの精鋭に護衛されながら、道後温泉郷に到着した。


「うおっ! 宿まで新品…」と秀忠は子供のように言って、幻影によって戦車から降りて宿を見上げた。


「元から加藤様からの依頼があってね。

 だからここを選んだんだと思っていたんだ」


幻影の言葉に、秀忠は否定するように首を横に振ってから振り返って、「寺と神社が揃ってある…」と言った。


幻影がこうなった事情を説明すると、「…君たち、ほんと呆れるほどすごいね…」と秀忠は言って大いにうなだれた。


そして神社は形だけだが、寺は妙栄尼が住職だと語ると、まずは寺に詣でることに決まって、大勢の護衛を引き連れて寺に詣でた。


「…良居世寺…」と秀忠がつぶやいて、その由来などの看板を見入り始めた。


そして、「…現楽涅槃寺にも詣でねば…」と秀忠は真剣な目をして言って、今はきらびやかな袈裟を着た僧侶姿の妙栄尼に頭を下げた。


妙栄尼はそれに答えるように、穏やかに手のひらを合わせて頭を下げた。


「…だけど、詳細だよね…

 全部事実のようだけど?」


秀忠が幻影に聞くと、「この寺の成り立ちの書きつけが出てきたからそのまま看板にしたんだよ」と答えた。


「だけど、上杉阿国…

 阿国って、例のあの出雲阿国なの?」


秀忠は言って妙栄尼を見入っていた。


「はい、寺社貢献の一環でした。

 我が父の命令のようなものでした。

 ある意味、

 寺や神社の宣教師、といったところでしょうか。

 実際は母が出雲阿国を名乗っていて、

 私は二代目でございます」


妙栄尼の少々棘のある言葉に、「…耳が痛いぃー…」と秀忠は大いに嘆いたが、「だけど殺生はしない」と決意ある目をして言った。


「できれば改宗の強制の拷問はやめてもらいたいところだけど、

 甘い顔を見せられないことはよくわかる。

 だが儒教をもって言えば、

 相手の気持ちを重んじる仁に反するからね。

 下手をすると、幕府が認めている儒教も禁止にするべきかもしれないよ?」


「…うう… 林のやつ、反論できるのかなぁー…」と秀忠は大いに嘆いた。


林とはもちろん林羅山のことだ。


妙なこじつけによって、徳川が豊臣に喧嘩を売った張本人でもある。


「やはりキリスト教は庶民一般にやさしい宗教なんだ。

 その優しいものにのめり込むこともわかるが、

 さあて、それで本当に救われているのかは大いに疑問だね」


「我は天狗教の信者だから関係ない!」と秀忠が堂々と言うと、幻影は大いに笑った。


「じゃ、ちょっとだけ天狗であることを披露しよう。

 見たことがない人には信じてもらわないとね」


幻影は言ってから消えた。


「上上!」と幻影が叫ぶと、「おー…」と誰もが空を見上げて声を上げた。


「ほらほら! 自在に飛べるよ!」と幻影は明るく言って、そこら中を飛び回ってから、元いた場所に戻って、「目の錯覚だよ」と真面目腐った顔をして言うと、「…そういうことにしとくよ…」と秀忠は苦笑いを浮かべて言った。


「…天狗様は我らが師匠です…」と側用人が言うと、「…そういうのもあったね…」と秀忠は言って眉を下げた。



ここからは長旅の疲れを癒してもらうために、幻影が袖まくりたすき掛けをして作り上げた料理を堪能してもらった。


そして護衛の者たちへの心配りも忘れずに、これ見よがしに毒見を終えた料理を提供した。


護衛たちは大いに安心して、大いに食らった。


やはりうまい料理は心まで穏やかにするもので、警護でなければ寝ていたと口々に言って笑っている。


もちろんこの日は将軍の貸し切りだが、奥の湯と和気温泉郷は通常通り開放している。


そして両温泉郷は物見遊山の者たちに迷惑をかけるということで、嘉明と琵琶家によって、土産物以外はすべてが無料となっている。


幕府転覆を狙う不届き者はいないようで、忍びも動物たちも何の行動も起こさない。


そして家光はおっかなびっくりの手つきで巖剛の艶やかな体毛に触れて、竹ノ丞に笑みを向けている。


まさかここまで上り詰めるとは思わなかった寅三郎は感無量となっていた。


するといつの間にか秀忠が寅三郎の隣にいた。


「こら! 勝手に動き回るな!」と幻影が叫ぶと、側用人たちが大いに眉を下げていたが、「こちらだけのことでございますれば…」と側用人長が穏やかに言って頭を下げた。


「…いつもとは違うことはよく知ってるけどね…

 だからこそ、確実に身を守る盾も欲しいんだろう…

 まあ、ここは仕方ない…」


幻影が言うと、弁慶が廿楽をもってやってきた。


廿楽は漆塗りの立派なもので、琵琶家の家紋が入っているものだ。


幻影が蓋を開けると、側用人たちは目を見開いた。


「私の代わりです。

 明日にでもどれほど丈夫なのかを見ていただきますので」


幻影の言葉に、側用人たちは、「かたじけのうございます」と恭しく言って頭を下げた。


「秀忠! いいものをやるから来い!」と幻影が叫ぶと、秀忠がかなり残念そうに寅三郎から視線を外して、「なになに?!」と陽気に叫んで戻ってきた。


そして幻影が、「献上の品」とぶっきらぼうに言うと、「うわぁー… 何かなぁー… ありがとー…」と大いに礼を言ってから自ら廿楽の蓋を開け、「…おおおおー…」とうなって、腕の部分の鎧を持ち上げた。


「うう、薄いのに軽いし硬い!」と大いに感動して、そそくさと着物を脱いで鎧をつけた。


そして兜と手甲もつけて、「怖いものなし!」と陽気に叫んで陽気に笑った。


「大砲の弾だけには気をつけろ。

 だがそれ以外はほぼ平気だ。

 鉄砲の弾で何とかへこむ程度だ。

 お前もこれでかなり安心できて、

 側用人たちも落ち着くから」


幻影の言葉に、「…我のせいで迷惑をかけていた…」と秀忠は言って側用人たちに頭を下げて兜を取った。


そして手甲も外して、所定の収納場所に収めてから着物を着た。


「あー…

 やっと、やっと、安心できた」


秀忠は言って畳に座って幻影に頭を下げた。


「おまえ、納得してると簡単に命を失くすぞ。

 安全だとわかっていても、多少は警戒しろ」


幻影の厳しい言葉に、「うん、欲も何もかも吹っ飛んで、抜け殻になるところだった」と秀忠は大いに認めて満面の笑みを浮かべた。


「日常生活でも危険を察知した時は兜だけでも

 瞬時につけられるように鍛錬を積め。

 その心構えがお前を守るはずだ」


側用人たちが書を認め始めたので、幻影は大いに笑い始めた。


「あとで知られると面倒だから先に言っておく。

 俺は武術全般の流派を立ち上げた。

 萬幻武流という名だ。

 そして竹ノ丞に請われたから、指南役を仰せつかった。

 だが名前貸しのようなものだが、全力で竹ノ丞を守る。

 だから余計なことだけはしてくれるなよ」


幻影の厳しい言葉に、「…萬、幻武流…」とつぶやいて、懇願の目を幻影に向けた。


「三厳と会ってないのか?」と幻影が聞くと、秀忠は無言で首を横に振った。


「武蔵の代わりに武芸者気取りか…」と幻影がつぶやくと、「武蔵って! あの宮本武蔵?!」と秀忠は大いに叫んだ。


「佐竹家に仕官して果たした」


幻影の無碍な言葉に、「…だから報告できなかったんじゃないの?」と秀忠が聞くと、「…そっちを話せなかったからかぁー…」と幻影はようやく理解した。


「…あの家老の酒井寅三郎もすごいよ?」と秀忠は長春のように言ってきたので、幻影は大いに眉をひそめた。


「旗本佐竹家の家来はわずか六名。

 そして姫の志乃さんを合わせて戦力はわずが七名。

 人集めはこれからなんだよ。

 だが、認められない者は雇わないはずだから、

 それほどの大戦力にはならない。

 人数的には俺たち琵琶家といい勝負だと思うし、

 心底少数精鋭の旗本だよ」


「…家光、いいなぁー…」と今度は息子にまでうらやましさを向けた。


「俺は色々と譲歩した」と幻影が胸を張って言うと、「…わがままでごめん…」と秀忠はここは何とか謝った。


「あまり甘さを見せたくないし無碍にもしたくない。

 だからお前が俺の立場に立って察して欲しいところだ。

 …もちろんさすがに、上様にはこんなことは言えないけどなぁー…」


幻影は天井を見て言ったので、ひとりごととしたようだ。


「…それが、正しい仁…」と秀忠はつぶやいて何度もうなづいた。


「罪悪感を盾にするということでよろしいか?」と側用人が書から眼を離して幻影に聞くと、「…種明かししないで欲しいね…」と幻影は眉を下げて言った。


「まあ、最終的には気遣いあって、

 どちらも何とか納得できるところで妥協して我慢する、

 ってことでいいんじゃないの?

 それ以上だと欲になるので、

 争いに発展する場合もある。

 儒教で言うと、義を尊重していないことになる。

 …欲を持たない…」


幻影の言葉に、秀忠は耳をふさいで、「あーあー」と言って、聞こえていないふりをした。


「…儒学を効率的に使って盾にする…」と側用人が言うと、「…儒学は江戸城では使用禁止…」と秀忠は今にも泣き出しそうな顔をして言った。


「それに学問には分け隔てがあるべきではない。

 よって、日の国の階級制をできれば失くすべきだ、

 と俺は思っている。

 その方が全てに平等になるはずだからな。

 だがさすがに、頂点にいる武士にこれを言って賛同するわけがない。

 …だからなぁー…

 武士はすべて抹殺しようとかも考えてんだぁー…」


幻影の一番恐れが乗っている冷酷さに、誰も何も言えなかった。


「…なんとかして、なんとかして頑張るから許してぇー…」とついに秀忠は泣き出してしまった。


「そうだよな。

 努力は大いに必要なことだ。

 希望をもって努力をすれば、

 案外どうにかなるものだと思うよ」


ころりと感情を変えた幻影の存在感に何とか耐えられたのは琵琶家の面々だけで、それ以外の者たちは心に大きな重荷を背負ってしまっていた。


「ま、イジメも程々だ」と幻影は言って、秀忠の頭をなでた。



ここからも幻影が秀忠のお守をして、ゆっくりと温泉に浸かって着替える前に、「秀忠」と幻影は言って、手のひらを秀忠に向けた。


すると秀忠は腰砕けになったが、意識を失うことはなく、ただただぼう然としていた。


「若返ったが、寿命は変わらない。

 だから努力して希望をもって、

 いい政治をして欲しい」


幻影の願いの言葉に、秀忠は今この瞬間に大いに察して、「…君の友情に応えるから…」と希望の言葉を言って、幻影に抱え上げられて何とか立ち上がった。


側用人たちはこのふたりの友情を見て、涙を流しながら頭を下げていた。



翌日、若返った秀忠は大いにうるさかった。


だが幻影はそんな友人を見て笑みを浮かべているだけだ。


そして現楽涅槃寺に行って、大いに知識を吸収してから、和気温泉郷の視察をしてからまた道後に戻った。


旅の予定はこれで終了で、明日の朝餉のあと、江戸に出立することになる。


忍びたちは主な街道筋を確認したが、何も問題がないとして、生存確認の書が返ってきただけだ。


「やはり大名が大きな力を持っている今は、

 反骨心がないようだ」


幻影の言葉に、「…誰かが我を討ってくれるように願っているようにも聞こえるよ?」と秀忠が大いに眉を下げて言うと、「だからこそ、不安にもなるんだよ」という幻影の言葉に、「…わからなくもない…」と秀忠は言って何度もうなづいて、「油断するでないぞ!」と誰に言うでもなく叫んだ。


「そういうことだ」と幻影は笑みを浮かべて言った。


この日はゆっくりと風呂に浸かり、食事を大いに摂っていたのだが、「昨日も気づいてたけど、天ぷらが随分とうまいね?」と秀忠は言って、天ぷらのお代わりを頼んだ。


「この春に収穫した胡麻で作った油だ。

 体にもそれほど悪くなく、

 更に食材を生かす。

 今のところは、高級料亭でも、

 使っているところは少ないと思う。

 あとは今年の米の収穫次第で、

 くず米を油に替えようと思ってる。

 この方がさらに高級で、

 日の国ではまだないはずだ」


幻影の言葉に、秀忠が物欲しそうな顔をした。


「都合がいい時に作りに行ってやるから我慢しろ」という幻影の明るい言葉に、「…期待して待ってる…」とここは秀忠が大いに譲歩して答えた。


「それに確実に行くとすれば、

 竹ノ丞の元服の時。

 さらにはその帰りに伊達本家と徳川御三家を巡ってから帰るから。

 それほど先のことじゃない」


「…さらに、楽しみができたぁー…」と秀忠は満面の笑みを浮かべて、さらにうまそうにして天ぷらを食らった。


「だが、竹ノ丞の元服後の名をどうするんだ?

 お前が決めてやるのか?」


幻影の言葉に、「もう決めたよ」と秀忠は明るく言った。


「そうか、だったらいい」という幻影の言葉に、「どうして知りたがらないんだよ?!」と秀忠が叫ぶと、「迷惑だろうと思ったから?」と幻影がさも当然のように答えると、「…ダメだ… 我は器が小さすぎる…」と秀忠は現楽涅槃寺で習ったことをかみしめるように言って大いにうなだれた。


「…ああ、素晴らしい…」と側用人たちは大いに食らいながらも感動しながら書を認めている。


「また儒教の話しをするが」と幻影が言うと、「消化に悪いからやめて!」と秀忠が叫んだ。


「いや、それほどお勉強というわけじゃない」


「…じゃあ、なんなの?」と秀忠は恐る恐る聞いた。


「基本の五常だけでは足りないことはわかっている。

 だからこそ、楽しことやうれしことは大いに必要だとも言っている。

 だが、大人の場合はカネさえ払えば何なりとあるだろうが、

 子供の楽しいこととはなんだ?

 幕府の事業として具体的に何かあるのか?

 今ある玩具だけで十分なのか?

 そして大人も、それほど裕福じゃなければ、

 楽しみなんてほんのわずかなものだ。

 なけなしの金で銭湯に行き、帰ってから安酒を食らう程度だろう。

 それほどカネを使わずに、

 楽しことを何とか提案できないかと思ってな」


「…うう…

 それほど張り切らずに、やんわりと探していくことにするよ…」


秀忠の言葉に、「ああ、それで十分だ」と幻影は言って、街道筋に作った子供用の遊具について話をすると、「…どうして教えてくれなかったんだよぉー…」と秀忠が大いに嘆いた。


「ここにあるものや、俺が考えつくものくらいあると思ったからだ。

 他意はないぞ」


「…明日、視察してから帰るぅー…」


「もっとも、俺や藤十郎さんが忍者修行で使っていた道具を、

 子供たちが楽しめるように、改良しただけなんだけどな」


幻影の言葉に、「…腕白そうな男子なら、喜びそうだぁー…」と秀忠は言って、大いに希望を持った。


「すべて木と荒縄で作った質素なものだけど、

 仕上げが肝心だ。

 その道具で遊んでいて怪我をさせるわけにはいかないから」


幻影の言葉に、秀忠は何度もうなづいている。


「子供たちの心からの笑顔を見ているとな、心底平和だと思えるんだよ」


幻影の言葉に、「…それも視察しないと…」と秀忠は言って家光を見て笑みを浮かべた。



翌日の朝餉のあと、琵琶御殿の近くの子供用の広場に行くと、家光が大いに興味をもって、竹ノ丞と合流した健五郎と才英とともに、喜びの歓声を大いに上げた。


「…ああ、来てよかったぁー…」と秀忠は大いに感動している。


そして直接道具に触れ、「…高級品にしか見えない…」と大いに眉を下げて言った。


「大工の質を探れ。

 俺たちのように、子供の笑みが見たいと思えば、

 常識的な金額で作ってくれるはずだ。

 竹ノ丞の元服の時にでも、見本として造ってやるから、

 材料だけを用意しておいてくれ」


「…うん、そうする…」と秀忠は答えて、また家光を見入ってから笑みを浮かべた。



帰りの道のりだが、お付きが大勢いることで、船は讃岐から堺に渡るだけに留め、それほど急がず進むことに決めていたのだが、幻影が荷物だけでも、大八車に乗せることにして、徒歩の者たちを大いに楽にした。


よって、通常よりも早く江戸に到着して、琵琶家は大いに歓迎されて、城内での食事会へと誘われたが、調理は幻影の仕事になった。


旅の途中でもうまいものはたらふく食ったのだが、帰ってからでも食うらしく、秀忠の若返り効果は大いにあったようだ。


そしてこの若返りだが、大奥では大いに話題となり、大奥の女官が秀忠に進言したが、幻影に相談することなくあえなく却下された。


直談判したいところだが、男子禁制であるために呼び出すことも、奥の外に出ることもままならない。


奥に男子が立ち入られるのは、将軍だけと決まっているからだ。


「疑いを向けられるような場所には近寄らない」と、幻影も言い切った。


そして、「江戸での宿泊もしない」とも言ったので、秀忠は大いに肩を落とした。


「太刀で脅したら若返るんじゃないのか?」と蘭丸が乱暴なことを言うと、「幻武丸ならあるかもな」と幻影は無責任に言って笑った。


今回はさすがに、幻影が戦車の留守番をしている弁慶に蘭丸の幻武丸を預けさせたのだ。


よって弁慶はあとでうまい弁当をたらふく食うことになる。


「逆に年を重ねそうだから、やめた方がいい」と信長は言って愉快そうに笑った。


すると、一計を案じたようで、その刺客がやって来て、「林羅山です」と幻影に挨拶したが、幻影は答えなかった。


もちろん、秀忠がすぐに察して、「琵琶信影殿への挨拶が先だ!」と怒り狂って叫んだ。


羅山は、秀忠は若返っただけではなく、その威厳も上がったと思い知り、なんと、光秀に頭を下げて挨拶を始めたのだ。


―― なんだこいつ… ―― と幻影は大いに呆れていた。


そして、―― 世間知らず ―― とも思っていた。


「もうよい! 下がりおれ!」と秀忠のさらなる怒りを浴びて、羅山はすごすごと下がるしかなかった。


「それほど有名ではないからな」と信長は鼻で笑って言った。


「有名だったら、今頃大騒ぎだよぉー…」と秀忠は大いに眉を下げて言った。


「また影武者説でも説かれるぞ。

 しかしさすがに、側用人たちが張り付いていたし、

 大名たちもいたからね。

 そのうわさを流した時点でどうなるかくらいはわかっているはずだ」


「…若返っても苦悩の日々かぁー…」と秀忠は大いに嘆いた。



すると雰囲気がいつもと違う弁慶がやって来て、「兄者、宇和島からです」と言って小さな書を渡した。


幻影がすぐに政江を見たが、長春と話をしていた。


「かなり大変なことを、政江が放っておくわけがない」と幻影は書を読んでから政江を見て、「家老対家老の戦いは秀宗側に軍配が上がったようだぞ」と幻影が言うと、「本家は宇和島だもの」という政江の言葉に、幻影は大いに笑った。


「あまり平和じゃないが、悪い膿でも出そうって?」


「あのバカ、秀宗が自分の子じゃないなどといい始めたのよ…

 あまりにも優秀過ぎてね。

 だから持てるものを全部持ってきたから、

 本家と言ってる方はすっからかんよ」


「…ひっで…」と幻影は言って大いに笑った。


「もちろん、お兄ちゃんが怖いから、

 表立って言わないだけ。

 ここで縁でも切られたら、

 あっちはほんとにつぶれちゃうわ。

 …いい気味だけど…」


政江の言葉に、秀忠が大いに怯えていた。


「女性は大切にした方がよさそうだぞ。

 だけど奥に、政江ほどの女官がいればという条件付きだけどな」


幻影の言葉に、秀忠は大いに首を横に振って、いないと肯定した。


「…宇和島だけじゃ狭いだろうから、

 もうひとつ藩をあげるから、何とか怒りを収めてくれない?」


ここは秀忠が大いに譲歩して言うと、「あら? うれしいわ!」と政江は満面の笑みを秀忠に向けて喜んだ。


「…仙台に行った方がよさそうだ…」と幻影が眉をひそめて言うと、「…大いに叱られたらいいんだわ…」と政江は小声で言った。


「…あいつ、政江の賢さをバカにしてるのか?

 …まあ、側室に色々と言われてその気にでもなったんだろう…

 だから女好きは女に溺れてわが身を滅ぼすんだ…」


幻影がつぶやくと、「…たくさんいてごめん…」と秀忠が大いに眉を下げて謝った。


「あ、腹が立ってきたから、今から行ってくる」と幻影は言うが早いか、この場から消えた。


「…やっぱり、お兄ちゃんが一番よかったなぁー…」と政江が言うと、蘭丸がこれ見よがしに阿利渚をかわいがり始めた。



まだ昼過ぎなので辺りは明るい。


しかし雨が降り始めたので、雨除け代わりに擬態布をかぶった。


仙台城に着くと、あいにく天守には政宗はおらず、幻影は布を取って中を覗き込むと、顔見知りの小姓がいた。


「やあ、藤次郎、久しぶり」と幻影が声をかけると、藤次郎がすっ飛んでやってきて、「…ついに来ちゃったんですね…」と藤次郎はうなだれて言ったが、すぐに室内にはいるようにと腕を引っ張った。


「仙台藩、すっからかんだって?」と幻影が聞くと、「あはははは!」と藤次郎は笑ってごまかした。


「だからこそ、殿様は休む間のなく働いているわけだ。

 俺の妹を疑うとはもってのほかだ。

 そそのかしたのはどれほど魅力的な側室なの?」


幻影が聞くと、藤次郎は、「…よくわかりません…」と少しホホを赤らめて答えた。


「…ふむ… 色気が全くない政江よりは女性らしいわけか…」と幻影が言うと、「あはははは!」と藤次郎はまた笑ってごまかした。


「藤三郎! 藤次郎!」と政宗の怒鳴る声が聞こえて、幻影を見つけた瞬間、政宗は凍り付いた。


「離縁しろ」と幻影がいきなり厳しい言葉を政宗に向けると、政宗はその場に座り込み、床に額を押し付けた。


「新たに北条家を作り上げることもできる。

 秀宗は伊予にまたひとつ藩をいただいたぞ。

 宇和島はまだ手つかずだが、

 琵琶家が本気で手を入れれば、

 確実にあっちが本家になるはずだ。

 今日は帰ってやるが、

 お前が放った家老は死んだようだぞ。

 手を下したのは秀宗側の家老のようだ。

 秀宗は今江戸にいるからな」


幻影の言葉に、政宗は二重に心を痛めた。


政宗が放った間者なので、仕方なかったことと諦めるしかなかった。


政宗が顔を上げると、もう幻影はいなかった。


政宗はそのまま廊下に大の字に寝転んで、「…やっぱ、俺はバカだった…」とつぶやいた。



幻影は早々に江戸城に戻って、ぬれた体を手拭いで拭きながら宴会の間に入った。


もちろん、室内にいる者たちは一斉に幻影を見た。


「俺が一方的に話しただけ。

 あいつは何も言えなかった。

 ま、弱い者いじめのように思えたから、

 早々に帰ってきた」


「おバカさんにお嫁に行かなくてよかった!」と長春は明るく言って藤十郎を見て笑みを浮かべた。


「…あははは…」と秀忠の空笑いだけが室内にこだました。


「…お兄ちゃん、ありがと…」と政江はいつもの笑みを浮かべて言って頭を下げた。


「すぐに決めることもないさ。

 だが開口一番、

 離縁しろ、

 と言ったけどな」


幻影の言葉に、政江は笑みを浮かべて首を横に振った。


「秀宗さえ守れたらそれでいいの」と政江は母の愛を大いに言霊に乗せて言った。


「だったら、お前ごと北条を名乗ればいいんだ。

 そうすれば、すっぱりと縁は切れる。

 北条の殿様に秀宗を置くことも可能だ」


幻影の言葉に、「…悩むぅー…」と政江が大いに悩み始めたので、幻影は大いに笑った。



すると、案内役がやって来て、「水戸様がお越しになられました!」と頭を下げたまま言った。


「あいわかった!」と秀忠は言って、堂々と歩いて廊下に出た。


「…何かあるのかなぁー…」と幻影がつぶやくと、「御三家には上様の動向を逐一報告しておりますれば」と側用人のひとりが答えた。


「もしも、上様の謁見ではなく、琵琶家が目的だったら…

 …いや、逆に有利か…」


幻影がつぶやくと、「頼房と知り合いか?」と信長が聞くと、「はい、最後の大坂の戦いで」と幻影はすぐさま答えた。


「…ふーん… 生き証人のひとり、か…」と信長は言って何度もうなづいた。


「秀忠はさらにすべてを調べ上げたはずですから、

 言い負かされることはないと思います。

 面倒そうだったら、葬りますから…」


「斬り捨て癖」と信長が真顔で言うと、「はっ 申し訳ございません」と幻影はすぐさま謝った。


「まあいい。

 林と同じ穴の貉ではないことを祈っておくか」


信長は言って鼻で笑った。


「私を見て、まずは目を見開いて、私に挨拶を始めるはずですから。

 たぶん、同じ穴の狢だと」


幻影の言葉に、「さもありなん!」と信長は膝を叩いて大いに笑った。



すると眉を下げた秀忠が戻って来て、徳川頼房を連れてきたのだが、早々に幻影を見つけて目を見開いた。


「…おや? 知り合いだった?」と秀忠が幻影に聞くと、「大坂の戦いで」と幻影がいつもよりも低い声で話すと、秀忠が大いに寒気がしたようで、腕をさすり始めた。


頼房は半歩下がって、ガタガタと震え始めた。


「我らに何のようじゃ?」と信長が助け舟を出すと、「琵琶家にお目通りをと」と秀忠が眉を下げて答えた。


信長が頼房に体ごと向けて、「織田信長じゃ」と低い声で言った途端、頼房はさらに怯えて痙攣を始めた。


「あはは! 死んじゃう死んじゃう!」と幻影が陽気に言って、頼房に気付けを行った。


すると頼房の振るえは止まったが、そのまま意識を断たれた。


「あ、生きてることを確認して欲しい。

 死んでないはずだけど」


幻影の言葉に、すぐさま側用人が脈を計って、「問題ございません」と笑みを浮かべて言った。


「さすが御屋形様。

 何もせずとも息の根を止めようとは」


幻影が言って頭を下げると、「それほど褒めるでない!」と信長は陽気に言って、大声で笑った。



すると、落ち着いた表情の秀宗がやって来て、秀忠に騒がせてしまったことをまず詫びた。


もちろん、弁慶が知らせに行ったのだ。


そしてまだ調べてはいないが、事の顛末を子細に説明して、宇和島を幕府に返還すると言ったが、秀忠が許さず、政江に言った通り、もうひとつ藩を受け持たせることにした。


さらには、母親である政江の指示で、政宗側の間者兼刺客を見張らせていたと真相を述べたが、決めたのは秀宗として、秀忠が責めることはなかった。


顛末は宇和島に帰り着き書簡で提出すると言って、秀宗は持ち場に戻って行った。


「…政宗にそっくりなんだけど?」と秀忠が言うと、「…あの人が秀宗に似たのです…」と政江は言って鼻で笑った。


「そりゃ、指摘されなきゃ気づかんな…」と秀忠も鼻で笑って、秀宗が生を受けてからの根本を作り上げた幻影を見た。


混み入った話をしているうちに、頼房は目覚めて、また怯え始めたので、「今日のところは帰る?」と秀忠が落ち着いた声で言うと、「…上様も変わられた…」と頼房が言った。


秀忠は大いに笑って、この場で衣服を脱いで、幻影特製の甲冑も脱ぎ、「…ここ、大坂の冬で…」などと傷の説明を始めた。


「…本物でござったかぁー…」と嘆くように言ったのが側用人だったことに、幻影たちは大いに笑った。


本人証明はそれほど簡単なことではないが、歴戦の武将でもあったことは簡単に証明された。


戦場では指揮官として守られているとはいえ、不慮の怪我はざらにある。


秀忠は自己満足の自慢げな顔をして頼房に見せつけるようにして甲冑をすべて着こんだ。


「もう我に傷を負わせることなど誰にもできぬわぁ―――っ!!」と陽気に叫んで大いに笑って、兜と手甲を外してから衣服を着て、幻影と信長の間に機嫌よく座ってから、幻影が持ってきた新しい食事を堪能し始めた。


頼房は誰に頭を下げるでもなく下げ、肩を落として護衛の者たちとともに外に出て行った。



鎧をすべて脱いでしまったような心細げな見送りに出ている秀忠に別れを告げて、幻影は秀宗だけを抱き上げて、雨に追われるようにして宇和島城に飛んだ。


そして早速詳しい報告を受け、書室で書を認めた。


―― ここは安全… ―― と幻影は判断して、雨が降る中、東海道を北上して、戦車をやり過ごしてから、秀宗の懐刀の三名だけを馬ごと浮かべて宇和島に引き返した。


三人は大いに驚きながらも、幻影に丁寧に礼を言って、早速秀宗のそばに張り付いた。



幻影は今夜の宿の、佐竹家の温泉付き別荘とした宿に一番に到着して、主と女将と朗らかに談笑を始めた。


そうこうしているうちに、二台の戦車が到着して、屋根付きの厩にゆっくりと滑り込んだ。


引き手は弁慶と源次だが、それなり以上の力を持つ藤十郎と寅三郎も手伝っていた。


幻影は特に四人を大いに褒めて、早速温泉に浸って疲れを癒した。


「雨が続くようじゃったら、ここで休んで帰ってもよいが?」と信長が言うと、「いえ、明日の朝には上がっておりますが、道のぬかるみが気になりますので、水行でいかがでしょう?」と幻影が答えると、「それでよい」と信長は少し残念そうに言った。


しかし、竹ノ丞の元服の際にまた来ることになるので、渋ることはなかった。



「…秀忠は我らとは別のことを考えておるか…」と信長が寝所で横になって大いに寛ぎながら言った。


「公家と幕府の統合でしょう。

 公家を消すのではなく、抱え込んでしまう。

 そのためには、徳川の血が流れる世継を得ること。

 構想してからもう二十年にもなるようですが、

 今だ現実できないようですので、

 この件については運がないと言っていいでしょう」


すると、妙に大人しい高虎が何か言いたげだ。


高虎と嘉明は今到着したばかりで、信長に挨拶にやってきたのだ。


「…高虎、褒めてもらえよ…」と幻影が小声で穏やかに言うと、「…実は、幕府が勧めている大坂城再建の任に就くことに至りましたこと、ご報告いたします…」とかなり控えめに言った。


「…安土ではないからどーでもいい…」という信長の無碍な言葉に、高虎は大いに困惑の笑みを浮かべた。


「いや、高虎、よくやった!」と幻影が信長の声色を使って叫ぶと、高虎も嘉明も、信長と幻影を代わる代わる見入った。


「…こやつ…」と信長は言って幻影をにらみつけてから体を起こし、「…高虎、よくやった…」と少しため息交じりに言うと、「…おお… ありがとう、ございますぅー…」と高虎は男泣きに泣いた。


「大坂城再建も公家と幕府一体化の構想のうちかと。

 公家に安定した徳川の血が流れること条件ですが…

 まあ、偽物が多いだけあって、この件はとん挫しそうですね…

 江戸から大坂に幕府を移したいようですが、

 多分叶わぬでしょう…

 天をだましたことで、松平元康は呪われたのかもしれません」


幻影の言葉に、「…ワシにも言っておらぬか?」と信長が少し憤慨して言うと、「いえ、昔も今も、御屋形様は織田信長様であらせられます」という幻影の自然な言葉に、「…元康とは全然違ごうたな…」と信長は機嫌よく言って何度もうなづいた。


「元康公のその想いはよくわかりますが、

 やはり自然ではありません。

 ですが秀忠が大いに使えるようになったことで、

 徳川幕府はさらに栄えるでしょう。

 我らは幕府が見過ごしたものの手助けをすればよいだけとなりましょう。

 ですので、物見遊山にも多く出られることでありましょうぞ」


幻影の言葉に、真っ先に濃姫が喜んだ。


そして、「次はどこ行くの?!」と長春がすかさず聞いて来た。


「竹ノ丞の元服の前に一度行きたいね」と幻影は言って、懐から冊子を出した。


この日の国の地図と、調べ上げた物見遊山の主な説明文だ。


そこには絵も描かれていて、長春、政江、濃姫の三人は、大いに陽気になって場所の選定を始めた。


そして志乃も強制的に仲間に加えた。


「…じゃが、物見遊山もまだまだ楽ではない…

 我らは贅沢この上ないが、

 これも、この世の平和のためと思っておくか…」


「はい、今までに多くを得ていますので。

 奇抜なものはさすがに出せませんが、

 この程度は与えていいでしょう」


幻影は言って、小さいが高輝度の反射鏡付きの行燈を高虎に手渡した。


幻影がろうそくに火をともすと、「うおっ!」と高虎は叫んで、その明るさに驚いている。


「夜に作業をやれとは言ってないぞ。

 暗い場所や雨や曇りの日は使えると思ったからな。

 手元が明るいと、作業がはかどるはずだ。

 それと同じものを百、少し大きいものを五十。

 専用の特製ろうそくを千、用意してやる」


「…おお… おお…」と高虎はうなりながらも、幻影に深々と頭を下げた。


「過分ではござらんか?!」と嘉明が大いにへそを曲げて叫ぶと、「…三つの城には同じものを考慮してお渡ししますから…」と幻影が眉を下げて言うと、「…うう… 迷惑をかけてしまった…」と嘉明は言って、幻影に頭を下げた。


「あとは明かり関係の一環として、

 視力が落ちてしまった者のために、

 眼鏡を作っている最中です。

 もちろん、老体には拡大鏡なども重要となるでしょう。

 今はそれほど出回っておりませんし、少々お高いものですが、

 大枚叩いて買ったとでも説明しておいてください」


「気を使わせて面目次第もござらん」と嘉明は穏やかに言って頭を下げた。


「よい政治を行うひとつの道具じゃし、

 平和にもつながることじゃ。

 これも、我が琵琶家の仕事のひとつじゃ」


信長は言って幻影に右の手のひらを出すと、置き型の拡大鏡を懐から出して渡した。


そして女人たちの仲間になって、「…次はどこに行こうかのぉー…」と陽気に言った。


「…やはり、老化はあるのか…」と嘉明が嘆嘆いた。


「御屋形様は現在八十を超えられておりますが、

 老いの視力低下は四十五といったところで、

 小さい文字が少々見えづらいといったところです。

 きっと、濃姫様も同じかと」


幻影の言葉通りで、濃姫はすぐさま信長に体を密着させて、大いに陽気になっていた。


「…仲睦まじい…」と高虎がうなると、「これも、この世の平和のひとつの琵琶家の平和の一環ですから、ひとつしかお渡ししません」と幻影が胸を張って言うと、嘉明も高虎も大いに笑った。



琵琶家一行は、駿府から水行で、物見遊山を兼ねて内海経由で松山に戻った。


今日はうどん屋で家族そろって食事をすることにして、主食はうどんで、天ぷらや煮物などの料理を作り、誰をも大いにうならせた。


畳に座って食べることと、椅子に座って食べることの違いを大いに感じながら、「…外来式の食事もいいか…」と信長がつぶやいた。


「御殿専用の共通の食堂を建ててもいいと思っています」という幻影の言葉に、「よきにはからえ」と信長は機嫌よく言った。


すると近所に住む農家の子たちが、「おかえりなさーい!」と細い街道から声をかけてくると、巖剛がのそりと起き上がって、小走りに子供たちに寄り添って、首を使って巧みに背に乗せて戻ってきた。


幻影と信長は大いに顔を見あって、何かあったことを察した。


ここでまた子供たちは帰還の挨拶をして、「遊び場に、変わった子が来たんだ!」と一太が言うと、信長は指と手首を使って忍びに合図を送った。


「その子は、何をしていたんだい?」と幻影が聞くと、「…なんだか、すっごく身が軽くて、楽しそうに道具を使って、飛んだり跳ねたりしてるんだ…」と一太は語って少しだけ驚きの表情をしていた。


「みんなはマネをしたいとか思った?」


子供たちは一斉に首を横に振ったが、少々戸惑っていた。


「見ていて、なぜだが楽しいって思わなかった?」


この幻影の言葉には大いに反応して、「きっと、見ていて楽しいって思ってたんだぁー…」とお花が言って満面の笑みを浮かべた。


「もしも、お祭りとかの出し物で、その子がしていた催しがあったとしたら?」


「絶対楽しい!!」と子供たちは一斉に陽気に叫んだ。


「娯楽のひとつを発見しました。

 離れた忍びを連れ戻します」


幻影の言葉に、「わしもそうする」と信長は言って早速多数の書を書いて、多くの鳩を飛ばした。


幻影は一通だけ書を認めて、信楽に向かって鳩を飛ばした。


そして子供たちに礼を言って菓子を配ると、「天狗様も出るの?!」と大いに期待して言われたので、「…一度は出ることにするよ…」と幻影は大いに眉を下げて答えた。


子供たちは大いに礼を言ってから、大きな街道に出て、元いた場所からまた幻影たちに手を振った。


「申し訳ございません、悟られました」と信長の背後に忍びが現れて言うと、「…ほう、なかなかの手練れのようだな…」と信長は怒ることなく穏やかに言った。


「見た目は、服部の家の者かと」


この報告に、幻影と信長は笑みを浮かべてうなづいた。


「…捕まえてみろということか…」と幻影は言って消えた。


「…自信を無くします…」と忍びが言うと、「あやつも優秀な忍びじゃ」と信長はさも当然のように言った。


幻影は擬態の布を纏って宙に浮かんでいた。


そして極力高度を上げた。


すると、その目標の者は、高い木の枝に座ってうなだれていたことに、幻影は少し笑った。


幻影はある装置を使って、『なんじゃ、つまらなさそうじゃな』と声を大いに反響させて言うと、少女に見える者はすぐさま姿を消したのだが、上空からは丸見えで、今は奥の木の枝にいる。


『この地に来た理由を述べよ』と言うと、かなり迷ったようだが、見られていることは理解できたようで、指の暗号でその意思を伝えた。


もちろん、忍びによってその暗号は違うのだが、確実に服部の関係者と悟り、『琵琶家は裕福じゃからのぉー』と言うと、少女は目を見開いていて、今度は明るい場所に出た。


少女は声の主が服部の手の者だと自信を持ったようだ。


『我は元真田の忍び。

 その流れは伊賀。

 服部の関係者ではない』


幻影の言葉に、少女は立ち去ろうとしたのだが、今はもう戦乱の世ではない。


そして、試して欲しい、と暗号を送ってきたので、幻影は一気にその間合いを詰めて、よく見えない姿のまま少女に近づいた。


まさにとんでもないものだったと少女は驚きの表情をして懐に手が伸びそうになったが、力なく手を下した。


「服部家は離散した。

 だが、お前は服部の血を受け継いでおるはず。

 なんだったら、徳川に推挙してもよい。

 お前の心がけ次第じゃがな」


幻影は嘘は言っていないが、少女にとってこの言葉はまさに大ウソだった。


「…お爺様の想いを継いで…」と少女は言って泣いた。


「忍びは泣くなと言われなかったかい?」と幻影が言って姿をさらすと、「…本物の天狗様だったぁー…」と言って、本格的にわんわんと泣きだし始めた。


「俺がイジメたように思われそうだが、まあいい…」と幻影は言って、少女を連れて御殿に戻った。



「…おめえぇー… このいたいけな女子に何をしやがったぁー…」


大いに誤解している蘭丸が言うと、信長はすぐに助け船を出して説明した。


当然のように、幻影の気配を追った忍びがかなり離れてすべてを見ていたからだ。


「…うう… また、怒ってしまったぁー…」と蘭丸は大いに嘆いて、お香に慰められ始めた。


「…証拠がなかったら、天狗様を操れたのにぃー…」


少女の言葉に、「やっぱ斬り捨てる」と幻影が無感情で言うと、「やめておけ」と信長が大いに眉を下げて言った。


さすがに少女は一瞬にして心を入れ替えてから、幻影に大いに怯えた。


「対抗したり反抗するからそうなる。

 忍びの女人はほんにろくな者がおらん」


源次が大いに憤慨して言うと、「まっ まだ改心してないヤツがいることも事実だからね…」と幻影は大いに嘆きながら言った。


「おまえは俺に疑いを持たせた。

 今までの話はなかったことにして、

 ここから立ち去れ」


幻影の言葉に、少女は大いに反省したが、後の祭りだった。


『忍びは主に信頼される唯一』という、先代の服部刑部半蔵の言葉を思い出していた。


「…ご迷惑をおかけしました…」と少女は言って頭を下げてから駆け出そうとしたが、「待って!」と竹ノ丞がすかさず声を上げた。


幻影も信長も何も言わずに、笑みを浮かべているだけだ。


「あら、出番がなくなっちゃったわ」と阿国が陽気に言った。


「僕はもうすぐ元服して家をつぐんだ。

 この先の平和は、まさに情報が命だ。

 高願様がお認めになって、君をここに連れてきた。

 だから今度は僕が君を認めよう。

 だから配下としてついてくれないか?

 僕は佐竹竹ノ丞という」


竹ノ丞の堂々とした発言に、少女はホホを朱に染めて、「服部刑部半蔵ですぅー…」と答えると、「ありゃ、男子?」と幻影が言うと、「いや、世襲ですべてを背負っただけで、女子じゃ」と信長は答えた。


「幼名は竜胆りんどうですぅー…」と恥ずかしそうに言うと、「…まさに肝が据わった奴だったか…」と幻影が言ってにやりと笑った。


「今の名前は晒さなくていい。

 竜胆を忍びの名として名乗って欲しい」


竹ノ丞の言葉に、「…はい、主様ぁー…」と竜胆は言って、すぐに地面に片膝をついて頭を下げた。


忍びの場合、これは大いなる意味を持つ。


まさに、主に首を落とされても文句はないという意思の現れだ。


「その姿、首を落とされても文句はないという指導は受けていたんだよな?」という幻影の言葉に、竜胆は驚きの目をして幻影を見上げた。


「…そこまでは聞いとらんかったか…」と信長は言って苦笑いを浮かべた。


「いえ、主様!」と竜胆は叫んで、新たに竹ノ丞に頭を垂れた。


「言っておくけど、琵琶家の方々に迷惑をかけた場合、即追放だから。

 僕は琵琶家の方々の支援をもらって生きているようなものだから、

 粗相は絶対に許さない。

 まさに、その首を斬り落としてでも、

 その償いとさせてもらう」


竹ノ丞の厳しい言葉に、「…幻影に似た…」と信長が小声で言うと、幻影はさらに心を入れ替えようと決意して、大いに苦笑いを浮かべた。


「はっ! 主様! どうか、よろしくお願いいたします!」と顔を伏せたまま竜胆は叫んだ。


「武士としても魂が入られた…」と寅三郎は感動して言って、我が主と幻影と信長にも頭を下げた。


「あら? 女性の配下ができたわ!」と志乃は陽気に言って、竜胆を立たせてから、そそくさと佐竹御殿に連れて行った。


「…姉ちゃんに盗られた…」と竹ノ丞が眉を下げてつぶやくと、信長たちは大いに笑ったが、「志乃は今頃、表情と感情を豹変させとることじゃろうて」と信長は笑みを浮かべて言った。


「…はい… よく考えればそうでした…

 先ほどの笑みは、ただの外面です…」


弟だからこそわかることで、竹ノ丞は志乃からすべてを教わっていたのだ。


その手下となれば身内と同じ。


甘い顔を見せるわけがないのだ。


すると、「心がけがなっていない!!!」という、とんでもない志乃の声が飛び、誰もが一瞬首をすくめてから、愉快そうに笑った。


「徳川姓の件かなぁー…」と幻影がつぶやくと、「きっと、その通りかと」と竹ノ丞は苦笑いを浮かべて答えた。


「ところで、急かすわけじゃないけど、

 姉ちゃんは嫁ぐつもりはないの?」


幻影の言葉に、「…そのようなそぶりは全く…」と竹ノ丞はさらに苦笑いを浮かべた。


「できれば、今まで苦労した分、幸せになってもらいたいからね…

 あ、そうだ、余計なことだろうけど、君たちの母親は?」


幻影の今さらながらの言葉に、「…父の死を知って、いつの間にかいなくなっていて…」と言って頭を下げた。


「…子を捨てるとは放っておけないが、

 それほどまでに落胆したのかなぁー…

 尼にでもなったのかもしれなけど…

 志乃さんが探していた素振りでも見せた?」


「…いえ、探すなと、すごい剣幕で…

 お家の一大事に姿を消すとは言語道断…

 母上は勘当、と…」


竹ノ丞が大いに眉を下げて言うと、「…志乃さんらしいが、きっと、探していたようにも思うね…」と幻影も眉を下げて言った。


「だから近くにはいないはず…

 出身の国は?」


「…肥後と聞いています…

 父とは戦で肥後に行った時に出会ったと…」


「…いなくなったのは五年前…

 もうとっくに肥後に着いてるだろうなぁー…

 まあ、当然だろうけど…

 阿蘇山、もう一度行きたいな…」


幻影の言葉に大いに反応して、「薩摩や肥後に行くの!」と長春が言い始めたので、幻影はすぐさま同意した。


「物見遊山も、これからは大いに必要だ」と幻影が竹ノ丞の頭をなでて言うと、「はい! 高願様!」とまさに竹を割ったような声で竹ノ丞が叫んだ。



しかしその前に琵琶家にはやることがあり、それは祭りの準備と、新たな催し物の企画だ。


今回は軽業芸の披露をもう決めていたので、その細かな内容を決める必要がある。


幻影は弁慶たちを連れて、道後温泉郷と御殿のちょうど中間地点の空き地に、その舞台ともいえる露天の施設を建て始めた。


もちろん設計図も描き上げていて、嘉明の許可も得ている。


そしてその嘉明が、―― また変わったことを… ―― などと思いながらも様子を見に来ている。


軽業芸については、露西亜に渡っていた時にその情報を得ていたのだが、半分ほどは動物を使う芸もあった。


だが今回は人間だけを使った出し物にしようと思ったのだが、これには長春が大いに口を出して、長春が動物を操ると言い始めたのだ。


もちろんできるからこそ言い始めたので、幻影は止めることはなかった。


様々な国の軽業などを採用して、極力危険がないものだけを選定した。


この施設は、子供たちに作った広場の遊具のほぼ十倍ほどの規模で、まさに大人の遊び場のように見えるが、普通の者であれば背筋が凍るだろう。


しかし安全を確保するように造られていて、地面には背の高さの位置に網を設置しているので、背中から身を任せて落ちれば怪我をしないものだ。


まずは低い場所から幻影が手本を見せると、大勢集まってきた忍びだった者たちは一斉に真似をして体感した。


やはり高所での綱渡りは大いに肝が冷えるが、誰もが笑みを浮かべて難なくこなす。


そして圧巻が振子の出し物で、『ブランコ』というものだ。


これも子供たちの広場に設置しようと思いながら、幻影はかなり起用に熟した。


そうこうしているうちに街道が大混雑になってきたので、役人たちが警備を始めた。


先に見せてしまうのも問題だと思い、まずは目隠しの板を張ったが、実はこの板の先は階段になっていて、観客席として利用するのだ。


よって大勢の者たちがひと塊になって観覧することができる。


長春も練習とばかり、小鳥たちや小動物を操って、忍びたちに大いに拍手をもらっている。


使い始めると新たなひらめきがあり、安全確認をしてから試してみる。


かなり充実した出し物ができると幻影は大いに納得して、今日の建設と練習を終えた。



御殿に戻ると、老体たちの機嫌が大いに悪い。


幻影たちの出し物の観覧に来なかったからだ。


もちろん、長春が自慢げに話しているので、見られなかったことを悔しがっているわけだ。


そしてこの噂はあっという間に広がり、松山城下は大勢の人でごった返したのだが、その肝心の施設が高い壁に阻まれていて全く見えないことに意気消沈した。


よって幻影は宣伝とばかり、『伊予松山城下軽業師軍団興行』という宣伝の看板を上げた。


地名を入れたことで、もちろん嘉明を喜ばせた。


さらには施設の巨大な壁にも巨大な文字を書いて、その場所が一目でわかるようにした。


『近日披露の運び也』と書かれていたので、誰もが大いに残念に思ったようだ。


だが、琵琶家と松山城の関係者は階段に座って、幻影たちの技を見て大いに拍手をして、そして幻影は空を自由自在に飛んだ。


「これも軽業だと思ってくれるはずですから」という幻影の言葉に、誰もが賛同するように大いに拍手を送った。


すると、守山の肩に一羽の鳩が止まった。


江戸城との連絡用に、秀忠から強制的に支給されたものだ。


もちろんいい予感はせず、書簡を読んだ。


「…小出しにするなと書いてある…」と守山が眉を下げて幻影に言うと、「つい最近思いついたと報告しておいて欲しい」と天狗の姿の幻影は言って少し笑った。


また琵琶家の仕業だと誰もが思ったようで、法源院屋に問い合わせが殺到したので、幻影は京の本店にその詳細の書簡を送った。


本店で書き写して、全国の法源院屋に配布されると、誰もが松山に注目を始めた。


だが興行の期日は未定となっているので、誰もが法源院屋に毎日のようにやってくるので、売り上げの貢献にも繋がって、大いに潤い始めた。


しかしついに、公家が重い腰を上げて、松山城主に対して書簡を送ってきた。


大君の要望に応えて、興行をしろというものだ。


嘉明は大いに困惑した。


『やなこった』という幻影の返答の幻聴が聞こえたからだ。


今の日の国にはない催し物なので、興行が始まる前に見ておきたいようだ。


嘉明は重い足を引きずるようにして、興行所に足を向けた。



嘉明が大君の意思を伝えると、「天狗として京に行ってきます」と真顔で言われたので、嘉明は大いに戸惑った。


この顔の幻影は確実に怒っているからだ。


「嘉明様に返答をすると、嘉明様に迷惑が掛かります。

 届いた書簡をもって御所に行けば、

 嘉明様には迷惑が掛からないはずですから。

 琵琶一族はいないものと認めたはずなのに、

 手のひらを反すこの所業。

 本気で公家を根絶やしにすると言ってきてやりますから」


―― 本気でやる! ―― と嘉明は確信したが、確かに幻影の言った通りでもあるのだ。


幻影が書簡をもって御所に行けば、嘉明が説得に失敗したなどといううわさもたたない。


嘉明はまずは幻影のやさしさに頭を下げた。


「…帝の弱点…」と幻影が言い出し始めたので、信長が腹を抱えて笑い始めた。


「あっ! これならいいか!」と幻影は陽気に言って、幻影の考えを信長だけに告げてから、早速京に向かって飛んだ。


「…あやつらしい…」と信長は言って笑みを浮かべて何度もうなづいた。


「…一体、幻影殿は何を…」と嘉明は大いに困惑して言うと、「公家に見せるものがすべてではない」と信長が謎かけのように言った。


そして、「興行を行う条件として、警備はすべてが琵琶家の息のかかった者だけで行う」とも言った。


「…警備もすべて請け負うと…

 それを飲めば、興行は執り行われる…」


「幻影なりに譲歩した考えであって、

 次代を担う若い者たちの希望になればいいという考えじゃ」


信長の言葉に、「…ああ、なるほど…」と嘉明は言ってようやく理解できた。


「ですが、一種の脅迫… 人質に取るようなもの…」


「信頼できぬのなら、幻影は二度と公家の言葉に耳を傾けんだけじゃ。

 そもそも、この松山に来なければいいだけの話じゃ」


信長の言葉に、「…公家のお子たちが騒いだのでしょうね…」と嘉明が言うと、「そうじゃろうな」と信長は答えて何度もうなづいた。


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