赤い幻影 akaigenei ~安住の地編~ 赤日輪 akanithirin
赤い幻影 akaigenei ~安住の地編~
赤日輪 akanithirin
「今日は珍しく時間がかかったな」という信長の言葉に、幻影は順序立ててすべてを語って、今後の予定を書に認めた。
信長はすべてに納得して、「下ごしらえは済ませたから、出立は三日後」と言った。
「いえ、天候が崩れそうですので、
五日後以降の方がよろしかと」
「あいわかった」と信長は答えてから、「だそうだ」と長春に向けて言うと、「…ざぁんねぇーん…」とつぶやいて巖剛に抱きついた。
「あ、弁慶。
木材は明後日の昼に工房に入れた方がいい。
明日は晴れるはずだから」
「はい、兄者」と弁慶は答えて、工房に入れてある処理した木材を外に出すために歩いて行った。
「岩の切りだしが必要だろうなぁー…」と幻影が言うと、「問題ない」と信長は胸を張って言った。
「何食わぬ顔をしながら随分と働いたようですね」
「…ふ… その程度は任せろ」と信長は胸を張って言った。
「現場は砂浜沿いにありますので、
松山の港から内海沿いに航路を取ろうと思っているのですが、
この季節であれば、強い風がないとわかってれば、
大灘を行った方が、海流の関係で楽に水行できるはずです。
ですが問題があります」
幻影の言葉に、「…土佐藩…」と信長は言って渋い顔をした。
「逃げるようで嫌なのですが、突き放す予定です」
「よきにはからえ」と信長は笑みを浮かべて言ってうなづいた。
このやりとりに、志乃と寅三郎は大いに苦笑いを浮かべていた。
あまりにも会話が穏やかで自然に流れる心地良さを感じていたからだ。
まさに阿吽の呼吸で、大いに好感が持てて、しかも厳しさまで感じられた。
「いつものことだから。
甘い砂糖に群がる蟻だよ。
そしてまた、嘉明様が大いに不安になられる。
引っ越すのかっ?!
などと言ってね…」
幻影がため息交じりに言うと、家族たちは愉快そうに笑った。
前回の杞憂の件は、ただただ家老が本気で心配していただけで、特に問題のないことだった。
「ま、四五年は住まないと、この地のことは何もわからぬ。
思わず見逃していたことがあるやもしれぬからな。
しかもこの素晴らしい自然は、
大いに心を癒される。
人もなかなか穏やかだからな」
などと言った信長の眉間に厳しさが宿ったと同時に、「なに用だ!」と外にいる弁慶の声が聞こえ、巖剛が庭園から街道側に飛び出した。
しかし信長と幻影はおっとり刀で立ち上がり、玄関から外に出た。
「…誰かが来たようだが、信影様は声がする前に気付いておられたご様子…」
寅三郎の言葉に、「…私、色々と心配になってきちゃったわ…」と言ってから、志乃は寅三郎とともに幻影たちを追いかけた。
街道には五頭の馬に武士たちが乗っていて、中心人物が一名いる。
「往来の迷惑だ! 下馬しろ! 愚か者らが!」
幻影が叫ぶと、「なんだとぉ―――っ!!!」とその中心人物が馬を操ろうとしたが、巖剛が怖いので、馬は、『ヒヒィ―――ッ!!!』と嘶いて、前足を大きく上げて、乗っている者を振り落とした。
「…ふん、馬鹿だなこやつ…」と信長は言って鼻で笑った。
「おまえらも振り落とされたくなければ下馬して端に寄れ!」とまた幻影が叫ぶと、苦汁を飲むような顔をして下馬した。
そして馬は巖剛の背後に隠れるようにして、侍たちから離れた。
すると、どこでどう知ったのか、堂島が早馬を走らせてやってきて、「ややっ!! 藤堂っ!!」と叫んでから身軽に馬を降りて、五人の目の前に立った。
「…てめえらぁー… 城には挨拶なしかぁー…」と堂島が大いにうなった。
「…ふーん… 藤堂家の賢くない方の息子と、その悪たれ集団…」
幻影の言葉に、「その通りでござる!」と堂島はすぐさま答えた。
「こやつが全ての元凶! 藤堂高重でござる!」とさらに堂島が中心人物の紹介をしてくれた。
「嘉明と高虎の仲が悪い原因になった者たちだな」という信長の言葉に、「はっ! その通りでござる!」と堂島は勇ましく答えた。
「せっかく高虎に秀忠が目をつけてくれたのに、
その信用すら無くすぞあんたら」
幻影の言葉に、「…秀忠…」と悪たれたちはつぶやいて、そして口をふさいだ。
「知っての通り徳川秀忠だ。
俺の友人で、お前らと同様に面倒なやつだ。
どうでもいいから今日は出直して、
松山城に挨拶してからここに来い」
幻影の言葉に、さすがに悪態はつかなかったが、肝心の馬に近づけない。
「巖剛!」と幻影が叫ぶと、巖剛はのそりのそりとやって来て、幻影を見上げた。
馬たちは大いに戸惑ったが、走り去ることはなかった。
悪たれたちは素早く馬に乗って、何も言わずに走り去った。
「あっち側に馬留と下馬の看板でも立てておこうか…
あ、警備の方はもちろん今まで通りで」
幻影の言葉に、「…助かり申す…」と堂島は眉を下げて礼を言ってから頭を下げた。
「ま、ここはせっかくの機会なので、少々挨拶に行ってまいります」と幻影は言って信長に頭を下げた。
「あやつ、腰を抜かさねばよいのだがな」と信長は言って大いに笑った。
もちろん幻影はこの地に来るまでに、加藤嘉明とも藤堂高虎とも面識がある。
それはもちろん、安土城でだ。
嘉明は幻影たちの正体に全く気付いていないのだが、高虎の方は確実に気づくと感じている。
よって否定などはせずに認めて、昔に戻って口げんかでもと思っているのだ。
その方がさらに分かり合えるはずだと幻影は考えている。
幻影は宙に浮かんでから、「あ、今治城、見えてたんだ」と明るく言ってすっ飛んで行った。
「…昔に戻って喧嘩する、か…
そういう関係もよかろう」
信長は穏やかに言って笑みを浮かべてから、昔を懐かしく思い起していた。
天守を捉えていたことで、あっという間に今治城に到着した。
「馬鹿虎! いるか?!」と幻影が叫ぶと、そば付きの者たちが天守の外を見て目を見開いていた。
人間が宙に浮いていれば、誰だって驚くだろう。
「馬鹿虎はいるかい?」という幻影の問いかけに、「…お主… なんということを…」と役人たちがうなるように言うと、「真田幻影?!」と重厚な声をしている持ち主が廊下に出てきた。
「よう馬鹿虎、年取ったな」
幻影の大いに馬鹿にした言葉に、「…槍の切っ先の錆にしてくれようかぁー…」と高虎はうなった。
「おまえが俺に勝てるわけねえんだ。
俺の師匠は真田信繁だぞ。
天下にとどろく、槍の名手だ。
それに、お前のように傷だらけ、欠損だらけでもなかった。
お前は馬鹿で油断をするから怪我だらけなんだ。
その程度のことがわからねえヤツは城主をやる資格はねえ!」
高虎はわなわなと震えながら、腕や手を見た。
まさに幻影のいった通りで、傷だらけで欠損だらけだ。
しかし高虎は自分の持てる力をすべて発揮して戦ってきた自信がある。
そして城まで拝領された。
さらには秀忠との親交も厚い。
しかしその昔、この幻影と口げんかをしてどうしても勝てなかった。
それは、幻影の言っていることがすべて正しかったからだ。
「…御屋形様はお元気か…」と高虎は幻影を試すように聞いた。
「話してやんねえ」と幻影は大いに悪態をついた。
そしてこの言葉は高虎の質問に答えていることになる。
話せないということは、肯定したということだからだ。
「…ぶん殴ってやるから入れ…」と高虎は言って踵を返した。
幻影は廊下に降りてから、高虎が座る前に雪駄を脱いで畳の上に座った。
「のろまめ」という幻影の言葉に、「ワシの家だからワシの自由だ!」と高虎は叫んで、『ドカッ!』という音を立てて胡坐を組んだ。
「おまえのところの次男、次に来たら斬り捨てるぞ。
槍で貫いて串刺しにして、この城の門にぶら下げてもいいんだけどな」
幻影のいきなりの言葉に、高虎は言葉を失った。
また粗相をして、嘉明の怒りを買ってしまったと思い、高虎はうなだれた。
「わかっているとは思うが、嘉明に挨拶なしだった。
まさか俺たちの作った街道を馬で早駆けをして来るとは思わなかった。
ほんと、お前に似て大馬鹿だ。
おまえ、琵琶一族を本気で怒らせたらどうなるのか、
わかっているんだろうなぁー…」
幻影の言葉に、高虎は大いに目を見開いた。
徳川秀忠が一番信頼しているのは、口には出さないが琵琶一族なのだ。
まさに江戸の大花火大会のこともあるし、先の将軍家康の政が滞りなく行われたのも、琵琶一族の存在とその財力なのだ。
まさに、琵琶一族がうらやましいと高虎は何度も思っていた。
しかしその必要はなかった。
参謀が真田幻影で、主が織田信長だと確信したからだ。
高虎は全く意識していなかったのだが、笑みを浮かべて涙を流していた。
「おまえ、ついには目も見えなくなるようだな。
今だってそれほどはっきりと見えちゃいないだろ?」
幻影の言葉に、高虎は大いに目を見開いた。
しかし高虎は、「…その通り…」と肯定した。
この話に驚いたのはお付きの者たちで、すぐに治療の進言しようと思ったが、この会話に口出しをすることはできなかった。
「今すぐに、まともに見えるようにしてやってもいいぜ。
俺はな、便利な術が使えるんだ」
幻影の言葉に、「…その姿もそうか…」と高虎がつぶやくと、「色々と頑張ったご褒美さ」と幻影は言ってから立ち上がって高虎に近づいた。
「言っとくが、俺を拳で殴るなよ。
お前の拳が砕けるからな」
幻影の言葉と同時に、『バンッ!!』ととんでもない音がした。
高虎の右の平手が、幻影の左の脇腹を叩いたからだ。
「おまえの目、抉り出してやろうか?」と幻影は言って少し笑って、手のひらを高虎の額に近づけた。
「…信じられんものを着ておる…
しかも、何の違和感もなく…
さらにはお前の足腰はどうなっておるのだ…」
高虎が嘆いて呆けた瞬間に、「はぁーあっ!!」と幻影は気合を入れて叫んで、手拭いを出して、高虎の涙腺からあふれ出てきたものをぬぐった。
「数日は極力目を開けるな。
お前の寿命が尽きるまで、十分にその眼は持つはずだ」
幻影は言ってから酒を浸した当て布を高虎に当てて、手ぬぐいで軽く縛ってから、高虎から離れてから座った。
「おまえのところの悪ガキ程度ならどうとでもなる。
だが、まずは話しておかないと、
俺たちが勝手にお前の息子を殺したなどと思われるのもしゃくだからな」
高虎は何も言わなかった。
それは幻影の声が全く耳に入っていなかったからだ。
手拭いを巻かれる前、今までにないほどに目がよく見えていた。
今からでもどんなことでもできる自信が沸いていた。
「おい! 聞いてねえだろ、馬鹿虎」
「…もう一度言え…」と高虎が言うと、幻影はため息交じりにもう一度制裁の件について話した。
「好きにすればいい。
それにわしは、
お前の言ったことを疑ったことなど一度もない。
御屋形様が信頼を寄せておられた真田幻影だけは、
どれほど悪態を突こうとも信じられるやつだった。
そんなやつ、もうお前しかおらん」
高虎の言葉に、幻影は笑みを浮かべて何度もうなづいて、「じゃ、言いたい放題言ったから帰る」と幻影は言って立ち上がった。
「待て、ひとつ聞きたい」と高虎が呼び止めると、「なんだ」と幻影は振り返りながら聞いた。
「おまえのようなヤツに嫁の来手はないと思うが、
祝言は挙げたのか?」
「ああ、婚姻して子供までいるぜ。
かわいい女子だ」
「…多くの子を見てきて、男子がいいと思っていたが、
確かに女子の方が可愛いと、
最近になってつくづく思うように変わってきた。
よかったな」
「おう、ありがとな、高虎」
幻影は笑みを浮かべて言って、廊下から外に飛び出してから、和気に降り立った。
有言実行で、下馬の看板と注意書き、そして馬止めの柵を立ててから、御殿に戻った。
「あいつは心底馬鹿虎でした」と幻影が信長に報告すると、信長は一瞬目を見開いたが、昔を思い出して大声で笑った。
「あいつの両眼の治療をしに行ったようなものです。
できれば、嘉明様と和解ができればいいんですが…」
「…悪ガキも、かなり更生するんじゃないのか?」
「ええ、できればそれを期待しているのです。
できれば、殺生は避けたいので。
あ、和気側に馬止めと看板を上げて来ましたので、
馬を走らせることはないでしょう」
信長は何度もうなづいて、「それでよい」と言って、幻影の左の脇を見た。
服の生地が不自然な形にほつれて穴が開いていたからだ。
「高虎が平手で叩きやがったんです。
私が全く動じなかったので、
驚いた瞬間に治療をしてやりました」
「…普通、治療などせんだろ…」と信長が大いに眉を下げて言った。
「仲はいい方ですよ。
帰り際に婚姻して子ができたというと祝ってくれたので、
初めて高虎と呼んでやりました」
「…初めて…」と信長はつぶやいてから、愉快そうに大声で笑った。
そして、「話したのか?」と信長が聞くと、「聞かれたので答えませんでしたが、確信していました」と答えた。
もちろん、信長が生きている件についてだ。
「笑みを浮かべて号泣していましたから。
本当にあいつは単純すぎるやつです」
「…まあな…
生きていることが一番不思議なやつじゃ…
滝川のやつも同じじゃったがな…」
「隠居させられてあっという間に死去。
戦っていた方が長生きしていたように思いますね」
「絶望すると、そんなもんかもしれんなぁー…」と信長は感慨深げに言った。
「…仲がいいなんて信じられないんだけど…」と蘭丸が目を見開いて言うと、「口が悪いだけさ」と幻影は言って鼻で笑った。
その翌日、幻影がこまごまとした作業をしていると、馬に乗った嘉明が血相を変えてやってきた。
「これは城主、見回りですか?」と幻影が冗談っぽく言うと、「…高虎のやつが詫びの書簡を送ってきおった…」と嘉明は目を見開いて言った。
「よかったじゃないですか。
仲良くなった方が問題も少なくなりますし。
城の配置としてもお隣さんですから」
「…いや、だが、何かの策略とか…」と嘉明は大いに疑っていた。
「そのような小細工をされる方とは聞いていません。
どんなことでも曲がらず一直線だそうですから。
ですからいいことも悪いこともすべてを信用していいと思います」
「…うう… 言い返す言葉が見つからん…」と言ってから、「安心したからうどんを食って帰る!」と嘉明は言ってから、「松太郎! 頼む!」と叫んで店に入って行った。
お付きの者たちは素早く幻影に頭を下げてから、嘉明を追いかけて行った。
「…そうか、一直線同士だから交わらん…」と信長がつぶやくと、「はい、全くその通りかと」と幻影は笑みを浮かべて答えた。
「あ、話は変わるが、宿の名はどうなったのじゃ?」と信長が聞くと、「志乃さんにお任せしています」と幻影は笑みを浮かべて答えた。
「問題は温泉の名をつけていないことですね…
一般的な川の湯とか渓谷の湯とか、
地名でもいいのですが、
その地名もあるのかないのかよくわからないそうです。
あの近隣では、山、川だけで通じるらしいので。
持ち主の名でもいいんですけど、
ご本人の許可が必要ですし…
きっと志乃さんは大いに悩んでいると思います」
「ああ、それにだ。
ワシたちの家の名はどうつける?」
「はあ… 琵琶御殿で構わないかと」
幻影の言葉に、「少々照れくさいが、それでよかろう…」と信長は機嫌よく言って、大きな看板に、『琵琶御殿』と書いてご満悦となっていた。
そして弁慶と源次が請け負って、ふたり同時に屋根に飛び乗り、大きな表札を固定した。
「…命が入った…」と信長は感慨深く言って、じっくりと看板を見上げている。
幻影は飛脚小屋に行って、「屋敷の名が決まったから、法源院屋に通達しておいて。あ、ついででいいから」と気さくに言うと、忍びたちは笑みを浮かべて頭を下げた。
そしてここから見える御殿と信長を見つめて涙を流した。
「本当に助かっているんだ。
あ、だけど、手が足りない時はなんでも言って欲しい。
なんなら、信楽に頼み込んでも構わないから」
幻影の言葉に、一旦は頭を下げたが、一番の古株の一条朝元が、「…申し訳ないのですが、例の話をお聞きしてからは…」と申し訳なさそうに言って頭を下げた。
「…まあ、わだかまりは大いに残ったけどね…
だが戦場のことはすべて作戦だから。
ある意味私欲だけど、簡単に首を取られた方が悪い。
だからこそ、力のない上の者が標的になった。
強い家臣としては、その瞬間、動けなくなくなって当然だから。
でもねその場合、まだまだ未熟だったと言えるんだよ。
戦場では、どんなことがあっても目標に向かって前だけを見る。
ま、俺の場合、単独戦闘しか教わっていないから、
こんなことしか言えないんだけどね。
今の与助さんには肝心の頭がいない。
よって今の一番が与助さんの信じる人だ。
だから今の与助さんは、
策略を持つことなく、後継を育てることだけに集中しているはずだよ。
まあ… 何を言っても弁護にしかならなんだけどね…
だから直感でもなんでもいい。
命令以外は、みんなの思うように動いてもらって構わないから」
幻影が語ると、忍びたちは深々と頭を下げた。
「申し上げます!」と朝元が声を張ると、「え? なに?」と幻影は思いつくことがなく不思議そうに聞いた。
「どうか、我らの頭になっていただきたく!」という言葉に、幻影は大いに眉をひそめた。
「…まあ、わからなくもないんだけど…
御屋形様と相談してからだよ…
俺がみんなを取っちゃったように思われちゃうから…」
「もちろん、御屋形様にはご相談差し上げていて、
幻影様の返答次第で従えと指示を仰いでおります」
「…そりゃそうだ…」と幻影は大いに眉を下げて言った。
「じゃ、みんなの期待に応えるから」
幻影の言葉に、「おー…」と誰もが簡単の声を上げてから頭を下げた。
「早速で悪いんだけど、
日替わりで一名俺について欲しい。
これも修行だから、変装は欠かさないように。
俺の隣にいれば、家族は誰も疑わない。
なぜ忍びが俺についたのかだけを気にするだけだから」
「はっ! ありがたき幸せ!」と朝元が感動して叫んで、早速その順番を決める相談を始めたので、幻影は少し笑った。
幻影は早速信長に報告すると、「…あやつらもようやく生きる希望が湧いたはずじゃ…」と笑みを浮かべて言ってから、「…ワシは忍びの修行はしておらんからな…」と信長はわずかな嫉妬心をもって言った。
「もう少し早く察してやればよかったと、反省しております…」という幻影の言葉に、「忍びの質が違うんじゃから問題はない」という信長の力強い言葉に、幻影は素早く頭を下げた。
「ではさらに、孤独な忍びの心構えを叩き込みますので」
「それでよい」と信長は笑みを浮かべて言った。
「問題は源次と弁慶です。
きっと何か言ってくると思います。
ですのでお口添えをお願いしたいのです」
幻影が頭を下げると、「あやつらは贅沢じゃ」と言ってから大いに笑って、「任せろ」と堂々と言った。
「あらあなた、浮気の相談ですか?」と阿利渚を抱いた蘭丸が言うと、「目の前でそんな話をするわけないだろ… そんな面倒なことなんて考えたことなんてないし…」と幻影が眉を下げて言うと、蘭丸は陽気に笑ってから、阿利渚をあやした。
「…その時は幻武丸を振りかざすな…」と信長が言うと、「御意」と幻影は答えて頭を下げた。
数日間は穏やかな日々が続いたのだが、駿府に出立する前日に、琵琶御殿に来訪者があった。
「やあ、久しいな」と幻影は満面の笑みを浮かべて客を迎え入れた。
「叔父上にはご機嫌麗しく!」と好青年の伊達秀宗が頭を下げた。
秀宗はもちろん、伊達政宗と北条政江の息子だ。
そして伊達家は仙台伊達家と宇和島伊達家というふたつの家を持つことになった。
「…叔父上?」と立ち会っている嘉明が大いに怪訝そうに言った。
「政宗の正室の北条政江は、私の妹です」という幻影の言葉に、「…知らなんだぁー…」と嘉明は大いにうなった。
「ご存じの通り、弁慶と源次と同じ養子です。
縁あって、私が三人の兄となったのです。
それぞれに隠された秘密があり、
公にしたのは政江だけです」
幻影の言葉に、「…北条家を立て直したことは有名な話しじゃからな…」と嘉明は言って、秀宗を見た。
「だけど挨拶なら呼びつけりゃいいのに…」と幻影が言うと、「滅相もございません!」と秀宗は言って、ひとつ身を震わせた。
「…いや… 今の感情がよくわからないんだけど…」と幻影は大いに困惑して言った。
「…母者が…」と秀宗がつぶやくと、「…ああ、そういこと…」と幻影もつぶやき返して少し笑った。
「私の名代でもあるのです!
ということで、真っ先に参上いたしました…」
「…あはは… 俺も時々政江は怖かったから!」と幻影は当時を懐かしく思って大いに笑った。
「ですが、お忙しい最中にお邪魔してしまいました」と秀忠は言って頭を下げた。
「いや、構わないんだ。
明日からは晴れるし海は凪だから。
駿府まであっというまに到着できるけどね…」
幻影は言って、大いにホホが膨らんでいる長春を見た。
「この御殿の姫がかなり不貞腐れたんだが、
それほど気にしなくていいから…」
「絶対に明日から行くもん!」と長春は言って巖剛に抱きついて、ぶつぶつと言いつけ始めた。
「…相変わらず、母者とはまた違った威厳ですね…」と秀宗は言って眉を下げた。
「その母者がいなくなって、わがまま姫になったようなものだから…
政江の存在は長春にとっても大きな存在だったからね。
だから離縁したらいつでも戻ってきていいと伝えておいて欲しい」
幻影の非常識な言葉に、誰も何も言えなかった。
「離縁はしないでしょうが、
なにやらうずうずしているような…
私が宇和島に居を構えることに決まる前からですが…」
「…はあ… 表向き、宇和島に住んでいるふりをしてここに住むつもりだね…
…まあ、世間も多少緩くなってきたことで、
それほど問題はないと思うけどね…
まあ、この御殿だからという理由はあるよ…
伊達家の別荘だと豪語しておけばいいだけ…」
「お手紙、出したよ?」と長春が笑みを浮かべて言うと、「…参謀が長春だったようだな…」と幻影が眉を下げて言うと、誰もが同意するように眉を下げた。
「伊達家休養地の看板も挙げておいてやろう」と信長明るく言うと、「はっ! ありがたき幸せ!」と秀宗はすぐさま礼を言って頭を下げた。
「政江もかわいいワシの娘じゃからな。
それに、政宗があれほど大勢の側室を設けるとは思わなかったのだろう。
ある程度は嫌気がさしたといったところかのぉー…」
信長の言葉に、「…その側室たちも、母者には大いに怯えていますので…」と秀宗は言って眉を下げた。
「だからこそ、本家を出て分家に世話になる手もないことではない。
政江の場合は、政宗の正室というだけではなく、
北条家との係わりも持っている、ある意味、まだ北条家の殿様でもある。
政宗にとって、やんわりとここに戻ってもらうことで、
安寧の日々を送れるとでも思っているのではないのか?」
「…断言はできませんが、多少は…」と秀宗は答えて眉を下げた。
「だが、俺たちが松山に転居を決めたと同時に
伊達家が宇和島城を手に入れていた…」
幻影が言って長春を見ると、「…うふふ…」と妖艶な笑みを浮かべて笑った。
「…すべては、長春姫の手のひらの上…」と秀宗はつぶやいてから、長春に頭を下げた。
「…基本は暇だから…」と幻影が言うと、「色々と見ることで忙しいよ?」と長春が答えると、「わかってるさ」と幻影は笑みを浮かべて言った。
幻影はこの先、宇和島城にも顔を出すことを嘉明に告げた。
もちろんいい顔はしなかったが、血縁関係以上の親密さを感じて、無碍なことは言えなかった。
琵琶一族は、松山に引っ越してきただけで、嘉明の配下ではないからだ。
しかし、伊予の国としては、琵琶家が住まうことで大いに安泰となり、将軍秀忠から小言を言われることは何もなくなったに等しい。
ここは琵琶家を盾にして、あまり出しゃばらない方が得策と、嘉明は温厚路線で日々を過ごすことに決めた。
「…ですが、この松山の街道ですが…
話に聞いていたよりも素晴らしいものです。
ですが、誰にも工事を請け負えないという欠点はあるのですが…」
「非力なヤツらが悪い」という幻影の言葉に、「…はあ、それはよく理解できています…」と秀宗は言って頭を下げた。
「きちんと理解した土木系の役人がいたぞ。
今は藩を抜けて、長門で猛勉強中だ。
そのお方を雇えば、何とかなるかもな。
しかし本人は、この松山に仕官したいはずだから、
無理なことは言えないし、雑音を聞かせたくない。
それに簡単な発想の転換で、
非力な者でも作業を請け負えるんだ。
だけどその技術は教えない。
どうせバカなヤツらが真似をして、大けがをするだけだからな。
そして俺たちのせいにするという、
理不尽この上ない事態を避けたいからだ」
「…母者が申していたように、叔父上は本当に厳しく優しく素晴らしいと、
この伊予に住める喜びをかみしめております」
秀宗は改めて、幻影に深々と頭を下げた。
「だから土産話として、確認できたいいものを見せてやろう。
これは甥としての特権だ」
幻影の言葉に、「ありがたき幸せ!」と秀宗は満面の笑みを浮かべて頭を下げた。
移動を開始してから秀宗は長春を見入っている。
どう考えても、長春の力だけでは引けないものを引いているのだが、その長春は役に立っていることを大いに喜んでいて、作業現場にやってきた。
「剛力姫だ!」と農家の子供たちが長春に笑みを浮かべて口々に言う。
そして、農業用の少し広い街道を、長春ひとりの力で平らにしていく。
広い交差点に出てから、今度は土と枯葉を混ぜ込んだ特殊な路面を敷いて抑え込んでいく。
農家の子供たちは大いに拍手をして、大人たちも大いに拍手をして、長春を褒めたたえた。
「…はは… なんということだ…」と秀宗は言って、農家の子供たちとともに、道の感触を楽しんだ。
ここからは弁慶と源次が作業を代わって、この近隣の農業用の街道を素晴らしいものに変えた。
そして、子供たちの遊び場を新築すると、農民たちは大いに喜んで、信長に礼を言った。
「…最後のオマケもすごかった…」と秀宗は言って、陽気に遊んでいる子供たちの楽園を見入った。
「これが、俺が実現したかったことなんだ。
子供たちの笑みは本当に幸せそうだし、
俺たちの明日の力にもなるからだ」
「その心、受け継ぎましょうぞ!」と秀宗は言って、雄々しき叔父に頭を下げた。
「…さらに力をつけたのね… ほんと、呆れちゃったわ…」と言って、着飾った女人がお付きを連れて現れた。
「…もう来たんだ…」と幻影が眉を下げて言うと、「家出中」と政江が言うと、幻影は大いに笑った。
秀宗も嘉明も大いに目を見開いていたが、すぐさま政江と挨拶を交わした。
「政江ちゃん! いらっしゃい!
明日から駿府にお仕事に行くのよ!」
長春が明るく言って政江に抱きつくと、「私も頑張ってお手伝いするわ」と答えた。
もちろん、お付きの者たちは大いに眉を下げている。
「私の家族ほど使えないから、
秀宗が使ってやって頂戴」
まさに女王の言葉に、「はっ 母上!」と秀宗は大いに緊張して答えて頭を下げた。
「…ある意味、俺に似てしまった…」と幻影が眉を下げて言うと、「あら? 私としては嬉しいわ」と政江は言って、蘭丸に頭を下げて機嫌よく阿利渚を抱き上げた。
「…頼りにはなるが、怖すぎるのは問題だ…」と幻影は眉を下げて言った。
「怖くないよねぇー」と政江が阿利渚に語り掛けると、「キャッキャッ」と陽気に笑っていた。
「…感情の切り替えは、まさに幻影だ…」と信長は大いに眉を下げてつぶやいた。
「…いろんな方面で楽ができそうです…
ある意味、裏の将軍と言ってもいいほどなので…
秀忠が嫌がっていることはよく知っていたので…」
「…そんなもの、ワシたちの家族なら当然じゃ…」と信長は言って鼻で笑った。
幻影たちは御殿に戻って、新しく作り上げた、『法源院屋』の旗と、『宇和島伊達家』の旗を作り上げて、秀宗に承認してもらった。
戦車と戦艦に魂旗を上げておけば、まともな者であれば避けて通るはずだ。
「…こっちに変えようかなぁー…」と秀宗が言い始めると、「それでよろしくてよ」と政江は機嫌よく言った。
翌日の朝、予定通りに幻影たちは松山の港を出立してすぐに南下した。
今回は戦艦の後ろに戦車と、さらに大きな宿建設用の資材の船を引いて、快調に海水を切って大灘を進む。
やはり土佐藩の監視船が出ていたが、『宇和島伊達家』の旗を見て、ちょっとした騒動になっていた。
法源寺屋の旗だけであれば容易に近づけたのだが、さすがに宇和島城には手を出せない。
この件は陸地の方で確認してからでないと何もできなくなったのだ。
よってさらに、琵琶一族を大いに畏れることにもなってきた。
船はかなり楽をして、悠々と佐竹道場の目の前にある砂浜の沖に停船した。
まずは資材を乗せた船を簡単に砂浜に上げて固定した。
そして戦艦も丘に上げて、戦車の後ろに接続した。
まず第一日目は、道場移設の解体工事に着手した。
もちろんこれは志乃の願いを幻影が快く聞き入れたからだ。
宿の建設場所の裏手の土地を買い取っていて、その場所に移設する。
それと同時に、移設場所の整地を入念に行って、移設準備を進めた。
見物人も多くいたのだが、この地の役人たちがもうすでに出張っていて、監視を請け負っている。
あまりの力任せの移築作業に、「おー…」と誰もが感嘆の声を上げる。
そして志乃は大いに喜んで涙を流していた。
移築は順調に終了して、宿建設の基礎と、山の麓の温泉場からの水路を掘って、今日の作業は終了した。
肝心の幻影たちの寝床だが、戦車と戦艦の中だ。
その前に砂浜で大いに陽気に食事会が始まり、誰もが大いに食った。
中でも一番喜んでいたのはやはり政江だった。
離れて暮らして二十年にもなるのだが、その長い時間を一気に取り戻して、琵琶家の一員として返り咲いていた。
警備は忍びが担当しているのだが、この地の役人も寝ずの番で監視をしている。
非公式だが、この話を知った秀忠の配慮だった。
もちろん、幻影たちにその説明はないが、当然のように察していて、監視役の役人たちにも食事を振舞った。
聞いていた話と違うと役人たちは思ったが、大いに礼を言って大いに食った。
もちろん、琵琶家は一筋縄ではいかないほどに怖い存在と聞かされていたのだが、現実は全く違い、大いに気さくだったからだ。
だが、本来であれば数十人で行う作業を、わずが二十人ほどで簡単に済ませてしまったことはまさに脅威だと思い起していた。
「何とか間に合った」と旅装束の守山が言って、幻影に気さくに声をかけた。
守山はすぐに誘われて、宴会の仲間になった。
「ある意味、晴れて自由の身のようなものになりました。
この先も、どうかよろしくお願いします」
守山は信長に頭を下げた。
「ああ、新しい家族を歓迎しよう!」と信長は機嫌よく言って、湯飲みの酒を一気にあおった。
信長は大きな仕事の時だけは大いに酒を飲む。
まさに、自分へのご褒美といったところだ。
普段は手酌でちびちびと嗜む程度だ。
第一日目は何事もなく終わり、心地良い眠りに誘われた。
第二日目は宿建設と、温泉水の水路の仕上げに取り掛かり、まずは水路が完成して水門を開けると、水でうめなくていいほどのいい塩梅の熱い湯が流れ出てきた。
湯沸かし装置も用意しているが、冬にしか必要ないと幻影は判断した。
宿の建設度同時に、岩積みの露店風呂だけはすでに完成していたので、今日からはこの湯を使って翌日の英気を養うことになっている。
そして巖剛専用の小さな露天風呂に、巖剛は心地よさそうにして身をゆだねている。
さらには鳥たちも水遊びを楽しんでいる姿に、誰もが癒された。
夕暮れ間近に今日の作業を終えて、食事の準備を始めると、「ここで立ち止まるな!」と警護人の叫び声がした。
「建設関係者かなぁー…」と幻影がつぶやくと、弁慶と源次が競うようにして警護人に近づいた。
「…口約束だろうが、この地に宿を建てる算段でもしていたのじゃろう…
かわいそうじゃが、手は出さん」
信長の言葉に、幻影はすぐさま頭を下げた。
「私たちにできないことができる者がいれば、
その範疇ではありませんよね?」
幻影の言葉に、「いや、それを探す方が困難だが?」と信長は言って少し笑った。
「何でもかんでも私が手掛ける必要はないと思いまして」
「…やさしいな…」と言って信長は何度もうなづいている。
「ちょっとした指導だけで目が開く者もいるかもしれません。
特に宮大工資質が高い者は、何人いてもいいほどですから。
その分早く仕上がりますので。
志乃さんに法外な建築料を請求しなくて済みますから」
「…金をとるつもりはなかったのじゃがな…
まあ、気は引けるじゃろうから、やると言えばもらっておこう…」
もちろんこの話は志乃も聞いていて、大いに苦笑いを浮かべていた。
すると源次が戻って来て、今ここでした話を復唱しただけとなった。
「じゃ、その腕前を確認できる作品を持ってきているの?」
幻影の言葉に、「持って来てはいないようですが確認します」と源次は言って宮大工らしき男に駆け寄った。
信長は幻影の顔を見て、「不合格と書いてある」と言うと、幻影は愉快そうに笑った。
「自信はあるようですが、過信し過ぎです。
そして、それほどの腕前があるのなら、
売り込みに来る必要など何もありませんから。
あ、今、同じことを弁慶が言いましたね」
「…さすが優秀な師弟…」と信長は言って大いに眉を下げた。
幻影は街道に背中を向け、海に顔を向けて机の前に座り、まるで一刀彫りのように横になって心地よさそうな仏像を彫った。
さらには今度は丁寧に細かな小刀を使って、曲線を持った同じ肖像の仏像を彫り終えた。
「好みが大いにありますが、どちらがいいですか?」と幻影が信長に聞くと、大いに黙り込んでしまった。
「…決められないぃー…」と政江が小声で言うと、まさに信長も同じ心境だったのだ。
確かにごく自然な曲線を持っている仏像の方が好みではある。
しかし仏像に込めた想いがそれを選ばせないのだ。
「ここに来ている老人では、
そう簡単にはここまでできないでしょう。
師匠が悪かったというほかはありません。
ですので、あの老人の弟子であれば、
表現できる可能性はあるでしょう。
経験不足の方が都合がいい場合もあったりするものです。
その弟子や孫弟子の腕前を見てから、
指導すれば仲間を増やせそうですね」
「…ひとりだけでもいれば儲けものだ…」と信長は言って苦笑いを浮かべて、また二つの仏像を見入ってうなっている。
「みんなが審査官だから。
決められないと思った人に決まったようなものだよ」
幻影の言葉に、家族全員が集合して、大いにうなり始めた。
「…私は欄間がいいぃー…」と濃姫がわがままを言い始めたが、幻影はすぐさま彫り始め、複雑な枝に止まっている生き生きとした鳥たちが住む、小さな欄間が完成した。
「…あら? 巖剛の手下たちが大勢…」と濃姫は陽気に言って、笑みを浮かべて欄間の鑑賞を始めた。
手本がいることでさらに製作にも拍車がかかったのだ。
「じゃ、絶望を与えてくるから」と幻影が言って机を持ち上げると、源次がすぐさまやって来て机を運んで老人の目の前に置いた。
老人は目を見開いて仏像と欄間を見入り、手を伸ばしたが、弁慶に指摘されて手をひっこめた。
「あなたのその頑固な性格では、
この作品と同じものを作れるはずがありません。
よってあなたの弟子と孫弟子を連れてきてください。
あなたに仕事を与えるのであれば、
建具職人として働いてもらいましょう。
まずはこれを作ってください、今すぐに」
幻影は言って長い書箱を出した。
「…これは…」と老人はうなって、大いに目を見開いた。
「組み木細工です。
建具職人の資質があれば簡単にできるはずです」
幻影は材料と道具を与え、そして幻影もこの場で制作を始めた。
「時間は無限ではない!
早々に取り掛かれ!」
幻影の気合の入った言葉に、家族たちの背筋が伸びていた。
幻影は手本と全く同じものを作り上げて、長春に渡すと、「…開け方、わかんないぃー…」と大いに嘆いて、政江とともに奮闘を始めた。
「…うちのじっちゃんが欲しがりそうだ…」と警護人の一人がつぶやくと、幻影はまた別の組み木細工を作り上げて、警護人に手渡した。
警護人は大いに礼を言って、組み木細工をまじまじと見て笑みを浮かべた。
老人は大いに震えて、何も言わずに立ち上がってから、足早に去って行った。
「ほら、頑固者の証明だよ。
だけど、生きていくためには頭のひとつも下げる必要があるから、
それは弟子にやらせるんじゃないかなぁー…
大人って、ほんとずるいよね?」
「…ワシに言ったよな?」と信長が大いに苦笑いを浮かべて言うと、「いえ、一般論です」と幻影はすぐさま答えた。
幻影たちがうまい夕食を済ませると、職人の老人が大勢の弟子たちを引き連れてやってきた。
さらには警護人の老人もやってきたので、幻影はその老人の方に寄り添った。
「見事な腕じゃ。
いや、こんな言葉を放ったワシが恥ずかしいほどじゃ…」
老人は言って、幻影が作った組み木細工と、老人が作った組み木細工を机の上に置いた。
「素晴らしいですね…
まさに芸術品です」
幻影が言うと、「…あはははは、照れますなぁー…」と言って大いに頭をかいた。
「…じっちゃん…」と警護人が眉を下げて小声で言うと、「建具職人として雇って下さらんか?」と老人は言って頭を下げた。
「はい、こちらからお願いしたいほどでした。
どうか、よろしくお願いします」
幻影が丁寧に礼を言うと、老人は大いに困ったようだが、曲がっていた腰が伸びていた。
まさにやる気になったと言わんばかりだ。
そして幻影が机の上に寝仏像を二体置くと、「…むう…」とうなって考え込み始めた。
そして仏像を見ながら、「この国の者が彫ったものではなさそうじゃ」と言うと、「いえ、私が先ほど彫ったものです」と幻影が答えた。
老人は目を見開いて幻影を見てから、戦車と戦艦に立てている、『法源院屋』の旗を見入って、「…琵琶家の方々じゃったかぁー…」と今頃になって大いに嘆き始めた。
「はい、我々は商人で、工員でもありますので」
「…はあ… この宿は誰も泊れないほどにお高いものになりそうじゃ…」と老人はつぶやいてからうなだれた。
「いえ、開店する前は、ここで従事した者全員で宿泊しますから」
幻影の言葉に、「…雇ってもらって、冥途の土産ができたぁー…」と老人は大いに感動して言った。
その間に宮大工の一行はこの場を去っていたが、わずかにひとりだけ残っていて、仏像を見入っている。
「師匠に歯向かっていいのかい?」と幻影が声をかけると、「お礼を言ってから破門にして頂きました」と少年は笑みを浮かべて幻影を見上げた。
「そうかい、やる気は認めたが、そう簡単には弟子にはしないぞ」と幻影が明るく言うと、「ずっと、何かが間違っていると思っていたのです」と少年も笑みを浮かべて言った。
「では、真似をして彫ってくれ。
ああ、別にどんなものでもいいぞ」
幻影の言葉に、少年は懐から道具を出した。
幻影は笑みを浮かべて何度もうなづいてから、「これも使ってもいいぞ」と言って、幻影特製の彫刻刀を出した。
「…うわぁー… こんなにきれいな道具を見たことがないよぉー…」と少年は明るく言ってから、圧縮した木を手に取って、「…うっわ、最高級品…」とつぶやいたがまた笑みを浮かべて、思うがままに彫り始めた。
まずは試運転とばかり、近くにいた手本の巖剛を彫った。
まさに心がこもっている作品に、長春が大いに興味を持っている。
試運転は終わったようで、今度は仏像と欄間の模写を始めて、大いに汗をかき始めた。
しかしその顔には笑みがあり、まさにこの少年の天職だと誰もが思い始めた。
「道具がいいので楽しかったです!」と少年は満面の笑みを浮かべて言った。
「君を雇うことに決めた。
大いに奮起して欲しい」
幻影の言葉に、少年は立ち上がって、「はい! ありがとうございます!」と言ってから、今更ながらに自己紹介を始めた。
老人は茂作、少年は梅吉と名乗り、まさに家族同様に接した。
そしてふたりにほかに見込みのある職人がいないか尋ねたが、心当たりはいないようだ。
しかし、ふたりも戦力が増えたことで、作業は大いにはかどることになる。
茂作は主に障子やふすまを作り出し、梅吉はまずは欄間だけを作り上げれば、高級宿として完成は目の前となる。
ふたりはどちらも泊り込んで作業に取り組むことに決めた。
大物の建物を家族に任せた幻影は、宮大工と建具職人として三人で働き始めた。
幻影はついでに家具などを作り上げたのだが、やけに量が少ない。
しかしそれには設計上の秘密があり、この旅館には大きな大黒柱が十五本も建って成り立っている。
この大黒柱を隠すように壁を張るのだが、その空洞部分に収納式の箪笥を仕立て上げるのだ。
そうすれば室内はすっきりとして、掃除も楽になる。
そして最後は特製の屋根瓦で、焼き物ではなく岩を削って作った頑丈なものだ。
そして外観の建築ほぼ終わり、白亜の御殿が出来上がった。
見物客も多くいて、誰もがこぞって様々な場所から見入ってる。
もちろん、旅館経営者などもいて、まさに高貴な公家の屋敷だと疑いもしなかった。
さらには、移築した道場だが、もちろん志乃の許可を得て、雑魚寝の宿泊施設にした。
人が出入りすることで、ある程度の建物の老化は防ぐことができるし、毎日掃除をすることにもなる。
もちろん料金は格安なので、金持ちでなくてもこの地で疲れを癒すことができる。
全ての作業が終わった時、この駿河に来て、わずか五日しか経っていなかった。
よって今夜はこの御殿のような宿で食事を摂って、就寝することになる。
特に女性たちは真新しい施設に大いに陽気になって、真っ先に温泉に浸かりに行った。
更に圧巻は、街道側に設けた、息をのむほどの素晴らしい庭だ。
まさにこの宿の象徴となっていた。
客室は一階に団体用の部屋が五室、二階は一般的な部屋が二五室ある、かなり大きな宿となった。
道場の雑魚寝部屋を加えると、約二百名の旅の者たちを泊めることが可能だ。
江戸であっても、これほどの宿はどこにもないことも、この宿の自慢となった。
肝心要の従業員や、宿の管理などは一手に法源院屋が引き受けているので、何も心配することはない。
しかも、法源院屋の小さな支店も土産物屋として出店することで、毎日のように監視の目を光らせることが可能だ。
そして二階の廊下から眺める海側と山側の景色も素晴らしいので、その廊下の隅に、長椅子を並べてある。
よって座ってじっくりと景色を眺めることが可能だ。
さらには壁には、この駿河になくてはならない絵などを飾っている。
もちろん描いたのは幻影で、まさにこの宿の高級感を引き上げていた。
するとなぜか大名行列のような武家が街道を練り歩いてきた。
「いやぁー! 勝手に来ちゃったよ!」と将軍秀忠が旅館の前で上機嫌で叫んだ。
「別に来なくてもいいんだよ…
今日は家族団らんで泊まる予定だったんだから…」
幻影の言葉に、「…うう… 邪魔して悪かった…」と秀忠は眉を下げて言った。
「まあ、うちの家族が全員いるから、
警備の面は安全だし、
お付きの人たちも全員ここで面倒みられるから」
「うっそぉー…」と秀忠は言って、手下たちを見まわした。
「…砂浜で野宿だったのに…」と秀忠が真相を話すと、「おまえそのうち、暗殺されるぞ」と幻影は大いに脅した。
「見たところ百五十名ほどだから、全く問題ないから。
外の警備は、駿府城に任せたんだろ?」
「…あ、うん… それは抜かりなく…」と秀忠は小声で答えた。
「もちろん、政江がここにいることは知ってるんだよな?」
幻影の言葉に、この話は寝耳に水だったようで、「…うっそーん…」と秀忠は大いに嘆いた。
「ま、今夜だけは仲良くしてくれ…
交代制だが、伊達の五十名ほどの精鋭騎馬部隊も日参してるからな」
幻影はため息交じりに言った。
「あとで一筆書いてくれ。
ここに徳川二代将軍が泊まりに来たという証」
「うん、その程度であれば…」と秀忠は言って、側用人を呼んで、幻影に小判を差し出した。
「ご亭主! 支払いだよ!」と幻影が叫ぶと、すぐ近くで見ていた逞しい武将のような男がのっそりと歩いてきて、「本日はご宿泊、心から感謝いたします」と野太い声で言った。
「…い、いやぁー… この宿は確実に安泰だぁー…」と秀忠は言って、すぐに支払いをさせた。
「最高級のおもてなしをさせていただきます。
本日は本当にお泊りいただきまして感謝しております。
ありがとうございます」
男が言って、幻影に向かって眉を下げて見ると、「今の対応で構わないよ」と気さくに言うと、男は人懐っこい笑みを浮かべて礼を言った。
「ご亭主が心強い分、女将は美人だから」
幻影の言葉に、「おほほほほ… 美人女将でごさいます」と大勢の美人女将が一斉に挨拶をした。
幻影の女性の家族の中にぽつんと本物の女将がいて、大いに苦笑いを浮かべていた。
「…将軍様はなんていいご身分なこと…」と美人女将のひとりの政江が言うと、「…挑発しない…」と幻影は小声で指摘した。
「お湯、すっごくあったまるよ!」と美人女将のひとりの長春が言うと、「…そんな気さく過ぎる女将はいない…」と幻影はまた指摘した。
「なんなら、一手ご指南してもよろしいが?」と美人女将のひとりの蘭丸が幻武丸を担いで言うと、「…安心感は得られるが、それほど強い女将はいない…」と幻影はまた指摘した。
ここは本物の女将が穏やかにあいさつしして、秀忠を部屋に案内した。
「秀忠が来ても楽しいな」と信長が言うと、幻影の家族たちは大いに笑った。
もちろん数名の忍びも配備されているので、全く何も心配はないし、この件については秀忠の思い付きだったので、危険はまるでない。
今夜も幻影の手料理で、この地で採れた魚介や山菜類の豪勢な夕食に、家族たちはそれぞれ笑みを向けあって、穏やかに食事をしていた。
すると、「失礼いたします」と女将が言ってから障子を開けた。
「…ここの方がやっぱり安心ー…」と秀忠が言うと、幻影たちは大いに眉を下げた。
そして秀忠は割り込むようにして信長と幻影の間に座って上機嫌になっていた。
「いいんですか?」と眉を下げて幻影が側用人に聞くと、「どうか、今宵だけはお願い申したい」と言って頭を下げられてしまった。
「いっとくけど、明日の朝に俺たちは伊予に帰るんだぞ?」
幻影が秀忠に言うと、「うん、知ってるよ?」とまるで長春のように言って、幻影と信長の料理を黙々と食べ始めた。
幻影は側用人たちも部屋に招いて席を代わろうとしたのだが、秀忠がそれを許さなかった。
「…わがままな殿様だよ…」と幻影が大いに眉を下げて言うと、側用人たちが一斉に頭を下げた。
「言っとくが俺たちは商人なんだぞ。
この件が外に漏れると、
大いに面倒になるのはお前なんだからな」
「漏れないよ?」と秀忠に言われてしまったので、幻影はもう黙ることにした。
そしてあることに気付いた。
「…なんだ、そういうこと…」と幻影が納得しながら言うと、「まあ、よいよい」と信長も察して笑みを浮かべて猪口の酒を飲みほした。
秀忠は今江戸にいる。
よって影武者を置いてきたと察したのだ。
よって秀忠は誰か高職の家老あたりと入れ替わったはずだ。
しかし籠に葵の紋があったので、徳川家か松平家の者のはずだ。
―― 影武者候補は、今の方が大勢いる… ―― と幻影は納得していた。
「なー… 春になったら祭りと花火大会してくれよぉー…」などと言って、秀忠は大いにうるさかった。
「駄々をこねてもやってやんない」と幻影が無碍に断ると、家族たちは大いに笑った。
「それよりも、宇和島城でなんかやるのか?
ここに来る道中に見えたんだが、
測量をしていたようだが」
「あ、うん、箔付けの移設工事」と秀忠は容易に言った。
「…まさかの伊達家だった…」と幻影が眉を下げて言うと、「…まさか来てるとは思わなかった…」と秀忠は一瞬政江を見て言った。
「それよりもさぁー…
藤堂高虎に何かやった?」
秀忠の言葉に、「ケンカを売りに行って目を治してやった」という両極端の答えに、秀忠は大いに目を見開いた。
「そのおかげで、高虎と嘉明様は仲直りできそうだ。
その方が俺たちも過ごしやすいからね。
あそこのバカ息子には参ったよ、まったく…」
「…命令しなくてもやってくれる人ってまずいないし、誰もできないよ?」
秀忠の言葉に、「俺たちに降りかかった火の粉を払っただけで、ただの偶然」と幻影は言い切った。
「だからあんたは、俺たちを自由にしておいた方がいいはずだ。
俺たちが表立って動くと、大名たちに大いに反感を食らうぞ」
幻影の言葉に、「…やっぱ、どう考えてもダメだぁー…」と秀忠は大いに嘆いた。
「色々と考えていることはよくわかってる。
だから極力、お前は俺を怒らせておけばいい。
そうすれば誰も俺たちを疑わない」
「そうきたか!」と信長は陽気に膝を叩いて笑った。
「…悪者になってくれてありがと…」と秀忠は言って頭を下げた。
「本気で怒っているから礼を言われる筋合いはない。
あんまり俺に懐くな」
「…だけどさぁー…
色々と答えを出したいこともあるんだよねぇー…
大名同士のいざこざなんて序の口だよぉー…」
「あのな…
小さなことを積み上げて大きくして丸くしていくことが、
究極の平和だと思わないのか?
しかも急いでもなにもいいことはない。
そして言葉足らずも許されない。
誠心誠意相手のことを重んじて考え、
極力同意する道を歩む。
もちろん、相手のわがままや欲には付き合ってやらん。
それを認めると、次々と湯水のごとく言ってくる。
まさに今のお前のようにな」
最終的には秀忠が幻影に叱られることになったが、秀忠は嬉しそうに幻影を見ていた。
「これが、お前の親父の考え方だ」
幻影の言葉に、「…御前様にも叱られた…」と秀忠が嬉しそうに言うと、側用人たちは大いに感動して頭を下げていた。
「身内で固めるのもいいし、天領地にすることも問題はないことだが、
それでは国がやせるぞ。
そこはほどほどに考えて、
我慢できるまで我慢して、諸大名を監視しろ。
これからの時代、情報こそが大きな課題になるはずだ。
もう戦乱の世は終わったが、
これからが本当の平和を勝ち取る勝負なんだからな。
これもお前の親父が言いたいことでもあったはずなんだ。
また気づいたら、いつでも文を送ってやる」
「その話術、どこで教わったの?」と秀忠が言うと、「まずは諸国を漫遊しながら大いに勉強」という幻影の言葉に、「…うう…」と秀忠はうなった。
「さらに、素晴らしい主を見つけて、邪魔者には喧嘩を売って本心を知る。
もちろん、腕試しではなく口げんか。
だからこそ、腕には自信を持っておくことは重要なんだ。
よって、それが最後の砦だけど、
腕力とカネでは何も変わらないことはよくわかっている」
ついには、側用人たちは幻影の言葉を書き写し始めた。
「そういうこと。
覚えられないと思ったら大いに書け。
そして反芻しろ。
そうすれば、そのうち全てが自分のものになっているはずだから。
そのおかげで、俺も書を書く速度が大いに早くなったから。
他にも思いつけば、迷惑にならないと思ったら試すこと。
もちろん、しっかりと後先を考えてから実行するように」
幻影はこのように次々と語り始めた。
まさにお勉強の時間で、秀忠と側用人たちは大いに勉強になっていた。
この話は思想などではなく、全てが常識的な事柄ばかりだった。
その常識が、自分中心になると、欲を持つことにもつながるのだ。
よって回りを見る目も大いに養う必要がある。
「ところで秀忠は何が不安なんだ?」
ついに幻影は本題に入った。
秀忠は、「…さすがに、隠せないよなぁー…」と言って頭をかいた。
「別にわからないのなら打っちゃっておけばいいんだ。
だが俺はすべてを調べ上げたからきっちりと説明できるぞ。
だが話しても話さなくても結果は同じだ。
それでも聞くかい?」
「…琵琶高願の正体を知りたい…」と秀忠がつぶやくと、幻影は大いに笑った。
「そんなこと必要なのかい?
知りたけりゃ全て教えてやるけどな。
だがいまさらそんなことを知ったって、
ほとんど何も変わらないと思う。
証拠なんて何もないんだから。
だたただ、琵琶一族の者だけが知っておけばいいことなんだから。
だが、俺は一体何者だって思ってるんだ?
興味があるから聞かせて欲しいんだ」
「…徳川のご落胤…」と秀忠がすぐさまつぶやくと、「…お前… そんな詰まんないことを考えてたのか…」と幻影もつぶやき返してから大声で笑った。
「ありえねぇ―――っ!!!」とさらに叫んで笑い転げると、秀忠は、―― 違ってるのか… ―― と本気で考え始めた。
幻影は笑い終わって、「絶対にないとは言えないが、俺は徳川… 松平とは一切関係ない」と幻影が答えると、「…じゃ、じゃあ、どうして色々と詳しいの?」と秀忠はぼう然として言った。
「調べ上げたと言った。
さらには生き証人も数名いるし、
その話に嘘がなければ、
俺は徳川のご落胤なんかじゃねえから」
幻影は言ってから少し考えて、「俺は上杉と武田の間に生まれた子だよ」と落ち着き払って言った。
もちろん、ない話ではなく、もう何人もいるのだが、歴史に隠された事実があるのだ。
「母親は寺にいるって…
養女に取った人だってことは知ってる…
父親の方は、何にもわからなかった…」
「父親は武田信玄公だ」
この言葉に誰もが大いに息をのんだ。
この話を聞かされていたのは、信長と蘭丸だけだ。
「母親は上杉謙信公の実子の阿光様。
阿光様は尼となって寺にいることは知っての通り。
誰も知らなかったことは、謙信公の実子だということだけ。
謙信公はただひとり、
阿国という人を愛したそうだ。
今は行方知れずで、生きていいるのかも死んでいるのかもよくわからない。
生きていれば、最低でも八十は越えているだろう。
遊女といううわさもあったらしいから、
もうほとんど誰も知らないと思う。
仏を大いに敬っていた謙信公が、
遊女との逢瀬があったなんで、
誰もが耳をふさぎたかったと思う」
幻影が語ると、秀忠はぽかんと口を開けていた。
「…なんだよ…」と幻影が秀忠をにらんで言うと、「…嘘は絶対につかない…」と秀忠は自分に言い聞かせるように言った。
「マジメ腐って嘘をつくほど人間はできてないよ」
「信じてるって!」と秀忠は少し声を荒げて言った。
「だからこそかもしれないけど、
仏には縁があったなぁー…」
幻影は言って、あの寝姿の仏像を思い出して笑みを浮かべた。
「…現楽涅槃寺のことはちゃんと聞いたよ?」と秀忠は笑みを浮かべて言った。
そして、「高僧たちが大いに頭を抱えていて、江戸に移築するとか言ってたけど、もちろん反対したよ!」と秀忠は力説した。
「そんな事態になったら、江戸城に爆弾を放り込んで爆破してやる!」と幻影は力強く叫んだ。
「もう納得したかい?」と幻影が言うと、「…われの正体…」と秀忠は泣き出しそうな顔をして言った。
「松平元康の子ではない」
幻影の言葉に、真相を知っている信長と蘭丸以外は、大いに目を見開いた。
「…やっぱり… やっぱり…」と秀忠は言って頭を抱え込んだ。
「だが、松平元康の孫ではある」
幻影の言葉に、秀忠は、「え…」と言って顔を上げた。
「これには色々と事情があるんだよ。
なんならすべてを語ってもいいぞ。
だがな、松平元康の血縁者は本当に少ないんだ。
それもすべてを計画してのことだったんだよ。
だからお前の子は松平元康の血族には変わりないが、
徳川家康とは何ら関係がない子だ」
秀忠は余計にわけがわからなくなって、「…あー…」と言って頭を抱え込んだ。
「松平元康はな、長篠の戦で、真田信繁に首を落とされたんだ。
そして、影武者を立てて、
新たな松平元康として生かしたんだよ。
さらにはすぐさま徳川家康と名を変えた。
世間で流れた影武者説の逆をやってのけたんだ」
幻影が詳しく説明すると、「…ずっと、おかしいって思ってた…」と秀忠が大いに嘆くように言ったが、松平元康の血を引いていることで、偽物ではないと胸を張ることにした。
「今更こんなことを知ったって、誰も信用しやしないさ。
だけど、城にいる大名たちは大いに疑っていると思う。
さらには、織田信長公は本当に亡くなったのか」
幻影が語ると、秀忠は琵琶信影を見て、「織田信長公だよね?」と言ってから幻影に笑みを向けた。
「そういうことだ」と幻影は胸を張って答えた。
「もう、面倒なことを言ってくれるなよ」と信長が言うと、「…できればそうしたい…」と秀忠は自信なさげに言った。
「藤堂高虎に聞かれたから回答を拒否したが、
十分に察していた。
一応、知らん振りをしておいた方がいいな」
「…うん… わかった…」
「さらには伊達政宗も知っているはずだ。
俺は話してないが、政江は話したよな?」
「自慢げに話してやったわ」と政江は勇ましく言った。
「…譲れるものならなんでも譲るよぉー…」と秀忠は言ってうなだれた。
「この先の安寧を願うのなら、
井伊直孝の言っていたことをすべて思い出せ。
全ては井伊様が松平元康様の意思を汲んでのこと。
そうすれば、徳川家は安泰なんだよ。
もちろん、調べた結果ではなく、
本人に直接聞いた話だから。
井伊様が嘘をついていなければ、間違いのない話だ。
さらにはお仲間はいない。
元康様への忠誠心が薄れていることを知っていたからな。
よって最後の最後まで、
俺たち以外には何も語らずにこの世を去ったんだよ」
「楽しいお話だった!」と秀忠は叫んで、陽気に笑った。
「ま、話したって、誰も信用しやしないさ。
俺たちは振り返ることなく、今を生きていくからな」
幻影の言葉に、誰もが大いにうなづいた。
「…全部話しちゃったから、この先の計画がぁー…」と長春が言うと、幻影たちは大いに苦笑いを浮かべていた。
「…願いは叶えていると思うけど?」と幻影が眉を下げて言うと、「…花火、したいなぁー…」と長春は言ってにやりと笑った。
「言うと思ったから作って持って来てある。
小さい打ち上げ花火も開発したから、
砂浜でやればいいさ」
幻影がため息混じりに言うと、「…ああ、お兄ちゃん大好きぃー…」と長春は言って、政江と源次を連れて外に出て行った。
「…小さい、打ち上げ花火…」と秀忠があ然として言うと、「ここからでも見えるさ」と幻影は言って立ち上がって、海側の障子を開けた。
夜だが宿の明るい光が漏れていて、整備した砂浜がまさに素晴らしい景色となっている。
早速源次が説明してから、打ち上げ花火の底を砂に埋めてから、導火線に火をつけてから、すぐに下がった。
『ボン ヒュー… バァーン!』という音がして、小さいが夜空に花火の花が咲いた。
「…あははは…
小さいけど、打ち上げ花火だ!」
秀忠は大いにご満悦だった。
「あれのでっかいのを担いで、
花火を爆薬に入れ替えて、
江戸城に向かって走り込んで発射すれば、
簡単に爆破できる」
幻影の言葉に、秀忠はすぐさま耳をふさいだ。
「できるのにやらないんだから、
信用してもらいたいね。
もしも俺たちが天下を取りたいのなら、
もうやってるから」
「…うん、そんなことくらい簡単なことだと思った…」と秀忠は言って外に顔を向けてから、大いに花火を楽しんだ。
翌日、秀忠一行を見送ってから、幻影たちも家路についた。
帰りは海流の関係で、紀伊をなめるようにして内海に入り、また観光気分で今治まで戻ってきた。
帰りの期日は伝えていなかったのだが、間者や見張りを立てていたのか、大柄の男が乗った大きな馬が海をめがけて走ってくる姿を確認できた。
「合戦でもあるのか?」と信長が言って愉快そうに笑った。
「今回はもちろん、御屋形様目当てでしょう。
変装でもしますか?」
幻影の言葉に、信長は愉快そうに笑って、「ヤツの目を信じるだけだ」と笑みを浮かべて言った。
すると、「…御屋形様ぁ―――!!…」と叫ぶ声が聞こえたので、「…やっぱあいつは馬鹿だ…」と幻影は大いに呆れてつぶやいた。
「陸に近づけてくれ」という信長の言葉に、幻影はこの辺りの海の深さを探ってから、陸地ぎりぎりまで船を近づけた。
すると藤堂高虎は馬を止めて、「止めるとは思わなんだ!」と叫んで大いに笑った。
そして、信長を探したのだが見つけられない。
誰もが大いに若いので、大いに戸惑ってから、眉を下げて幻影を見てきた。
「おまえ、間違えたらとんでもないことになるぞ!」という幻影の言葉に、高虎は大いに動揺した。
「…脅してやるな…」と信長がつぶやくように言うと、「…間違った時の高虎の心境のことです…」と幻影もつぶやき返した。
信長は、笑みを浮かべて何度もうなづいた。
「疲れてるから早々に帰りたんだけど?
正式に訪問してきた方がいいと、
俺は思うんだがな」
「…うう…」と高虎は大いに悩んで考え込んでしまった。
「じゃ、いくぜ!
後先考えずに出てくるから困ったことになるんだ!」
幻影の言葉に、「…さすがに後悔した…」と高虎はつぶやいてから、頭を下げた。
船は陸を離れて航路を戻して、また遊覧観光の続きを楽しんだ。
「…仲、本当によかったんだぁー…」と蘭丸が言うと、「少々いらいらする程度のことさ」と幻影は言って鼻で笑った。
「もっとうまく戦えれば、
さらに出世していたと思うと、
本当に歯がゆいんだ」
幻影の言葉に、「…本当に素敵な旦那様だわ…」と蘭丸は言って幻影にすがるようにして見入った。
「…長年連れ添うと、そうは思えなくなるものよ…」と濃姫が興ざめするようなことを言うと、「…茶化すな…」と信長は言って鼻で笑った。
松山の港に到着する前からもう気づいていたが、嘉明が部下を連れてほっとした表情をして幻影たちを出迎えた。
宿の件はまだ噂になっていないようで、帰還をただただ喜んでいる。
「藤堂様がお越しになるかもしれません。
まるで問題はないので、できれば案内をお願いいたします」
幻影の言葉に、「あいわかった!」と嘉明はかなり力が入っていたようで、まるで合戦の場の勢いをもって叫んだ。
幻影たちは戦車に乗り込んで、御殿についてから全員で現楽涅槃寺に行って、土産物のお供えと無事に帰ってこられた礼を込めて拝んだ。
「…あっちでもついに噂になり始めたわ…
このお寺に詣でないと罰が当たるとかなんとか…」
政江が眉を下げて言うと、「噂もいろいろだね…」と幻影は眉を下げて言った。
そして政江に、ここにあった看板と、実際にここにあった仏像を見せると、「…ほんと、古いものね…」と看板と仏像をまじまじと見てつぶやいた。
「憶測で約二百年前。
毛利と足利が全盛の頃だよ」
幻影の言葉に、「都合よくご先祖様が出て来て教えてくださらないかしら!」と政江が陽気に言うと、誰もが大いに笑った。
「…あ…」と幻影は言ってから、「…全く確認してなかった…」と言って、小さい方の仏像を拝んでから、まじまじと見入り始めた。
小さいので、もしも何かあれば初めに気付いていたはずだが、意識して見ていなかった。
しかし、何も細工はないし、別の何かが彫られているわけでもなかった。
そして、「ん?」と幻影は言って、仏像を見入った。
今は裏返して床に接する面を見ているのだが、「…梵字…」とつぶやいてから真横に向け、「…ムーエイキー…」とつぶやいた。
「どういう意味だ?」と信長が聞くと、「源、です」と幻影は言った。
すると全員が弁慶を見た。
「弁慶、説明」と幻影が言うと、「申し訳ありません、わかりかねます」と答えて、少し笑った。
「…源… 名前か…
全ての元という意味か…
そうだよな、全ての源流と言っていいはずだ。
だけどわざわざ梵字が浮かぶように彫るとは…
何か意味があったはずだ…
…いや、今の情報だけでは答えは出そうにない…」
幻影は言って、また仏像を拝んでから、仕込み戸棚に仕舞い込んだ。
「…出てきたのが、あとはこの看板だけだもんね…」と政江は言って看板をまじまじと見た。
「弁慶、側面も確認してくれ」と幻影が言うと、弁慶と政江は、板を立てて目を凝らして見入り始めた。
端の方は少々腐っているので望みは薄い。
だが、何かを彫ってあることに、弁慶が気づいた。
「…これ、多分ぐるりと文字… 梵字を刻んでいたようだ…
だけど不明瞭すぎてほとんど読めないな…
…興味が沸くことをよくもやってくれたもんだ」
幻影は言って固まった。
そして、「興味が沸くように… 地面を掘ってでも探してみろ、とか…」と幻影が言うと、「案外当たっているのかもな」と信長は機嫌よく言った。
今日のところは疲れを癒すために、琵琶一家は御殿に戻った。
全ての後片付けを終えた時、嘉明と高虎がそろって馬に乗ってやってきた。
もちろん、三十名ほどのお付きもいる。
「ようこそいらっしゃいました!」と幻影が挨拶をすると、外にいた者たちも一斉に挨拶をした。
幻影は厩を指示してから、高虎だけを謁見の間に誘おうと思ったのだが、嘉明自身がついてきたので、ここは腹をくくった。
しかしお付きの者たちは、弁慶に別室に誘わせた。
「少々内密のお話がございます」と弁慶が言うと、誰もが従わざるをえなかった。
もちろん言葉通りなので、罪悪感は沸かない。
幻影が謁見の間にふたりを通すと、「…ああ…」と真っ先に高虎が声を上げた。
上座の長春と蘭丸の間に、信長が座っていたからだ。
姿は違うが、嘉明も高虎も何度もこの光景を見ていた。
そして幻影はふたりを信長の前に誘って、幻影は長春の正面に座った。
「…ワシは、夢を見ておるのか…」と嘉明は言って、自然に頭が下がっていた。
「藤堂様はまた怪我がいっぱいね?」と長春が言ったとたんに、高虎は頭を下げて号泣した。
「健勝で何より」と信長が言うと、ふたりはすぐさま頭を下げて、「…御屋形様ぁー…」とうなるように言って、男泣きに泣いた。
そして幻影が三方に乗せた短刀を二客、信長の前に差し出した。
「主らに渡したいものがある」と信長が言うと、幻影は同じ短刀の柄を外して、『武神信長』の銘をふたりに見せると、さらに泣き始めた。
「受け取ってもらえるとありがたい」と信長が言うと、ふたりは声にならない声を上げてから、仰々しく短刀を受け取った。
「ワシはまだまだ生きて、この平和を見守っていく。
我が琵琶家ある限り、不幸は根こそぎ退治する。
それが今のワシの生きる意味だ」
「はっ! 御屋形様っ!」とふたりは声を合わせて言ってから、頭を下げた。
「あと何人こうして会えるか、それも楽しみじゃ」
信長の言葉に、ふたりはさらに感動していた。
「じゃが今はもうワシは商人じゃ。
楽にしてよいぞ」
「滅相もござらん!」と高虎は叫んで、今のこの幸せをかみしめていた。
「嘉明様がお気づきにならないことを不思議に思っておりました」
幻影の言葉に、「…いつもと雰囲気が全く違うではないか…」と嘉明は大いに眉を下げて答えた。
「…こやつ… 俺とは言葉遣いが違う…」と高虎は振り返って幻影を見た。
「うかつものには適当な対応でいいんだよ」とかなり砕けて言うと、「…間違っておらぬから反論できぬ…」と高虎はうなった。
「嘉明様、こいつは今治城で私を殴ったのです」
幻影の言葉に嘉明は目を見開いて片膝を立てて、「おまえ! なんということを!」と叫んだ。
「…うかつじゃったと反省しておる…」と高虎は言ってうなだれた。
「どんなことでも、話題を共有できることは良いことじゃ」
信長が穏やかに言うと、誰もが一斉に頭を下げた。
ここからは琵琶一族も部屋に入って来て、高虎を大いに歓迎した。
しかし、「すっごく気になるよ?」といきなり長春が幻影に言ってきた。
一瞬何のことだかわからなかったのだが、「ああ、寺の発掘作業?」と聞くと、長春は満面の笑みを浮かべて、「…わかってもらえた…」とつぶやいた。
「ん? ああ、そうじゃな。
中途半端にしておきたくない」
信長が言って立ち上がると、誰もが一斉に立ち上がった。
「では、様々な審査も兼ねて、お付きの方々にもご同行願いましょう」と幻影が明るく言うと、弁慶が別室に行って、お付きの者たちを連れてきた。
いつもの警備の者たちだけで屋敷を見張ってもらって、大人数で現楽涅槃寺の境内に入った。
「かすかな希望でしかないのですが、
この境内の中に何かが埋まっている可能性があるのです。
そこら中を掘り返して調べるのもいいのですが、
集中して考えて、
ここに何かあるのではと思った人は手を上げていただきたいのです」
幻影が言うと、誰もが地面を見始めた。
もちろん幻影も集中して地面を見渡し、さらにはうっそうとした森を見まわした。
―― あそこだけが不自然… ―― と幻影は思って、半紙を出して筆で点を打った。
―― ミヤム… そう、はい、正しいという意味… ―― と幻影は笑みを浮かべた。
幸い、みんなは集中していて地面などを見入っている。
まさにそれが森にあるとは誰も気づかないのだろうと思い、幻影は人間観察を始めたが、やはり感受性が強い長春と政江がそろって、幻影が解読した木の羅列が気になって森を見た。
よって、この境内から見て、気になる部分以外は、木は規則正しく等間隔で生えているのだ。
ふたりが木に近づくと、半数以上の者たちがついて行った。
そして長春が枝を拾って、落ち葉などを整理し始めると、「…ここ、盛り上がってるわね…」とつぶやいた。
それほど大きなものではなく、まさに人為的で、両手のひらですっぽりと覆い隠せるほどの小山だった。
見ようによっては、動物の墓のようにも思う。
そして加工した木片を発見したのだが、「…あー、何か書いてあるようだけどぉー…」と長春は残念そうに言った。
看板の側面と同じように、腐ってしまっていて読むことは不可能だった。
幻影が気を利かせて、子供が遊ぶための簡易な鍬を長春に渡した。
「…お兄ちゃんがもう見つけてたんだぁー…」と長春が言うと、幻影は半紙を出して説明した。
「いろんな意味で目をかけようと思っていたのですが、
真っ先に気付いたのは家族でしたね」
幻影の言葉に、誰もが大いにうなだれた。
そんなことなどお構いなしに、長春と政江はゆっくりと地面を掘り始め、あっという間に子供であっても何とか持てるほどの木の箱のようなものを発見した。
当然のように腐っているのだが、それは表面だけで、木の箱は二重構造になっていて、しかもその間に油紙のようなものを挟んでいる。
よって内側の箱は、まるで今作ったかのようにきれいなものだった。
「どんなお宝かな?」と幻影が明るく言うと、長春は自慢げに満面の笑みを向けた。
幻影は長春と政江に濡れた手拭いを渡すと、ふたりはすぐさま手を拭いてから、しっかりと封がされている蓋を持ち上げると、箱ごと持ちあがった。
政江が箱を押さえて長春が力を入れて箱を開けると、「…お宝、出たぁー…」と長春が満面の笑みを浮かべて言った。
「金の寝仏像」と幻影は言ったが、それよりもその下に敷いてある書簡に目が行った。
「政江、箱の底の紙」と幻影が指摘すると、「…欲張り過ぎちゃってたわ…」と大いに嘆いてから、幻影が地面に広げた白い布の上に慎重に書を置いた。
腐っていることはなく、少しだけ黄ばんでいるが、確実に何かを書いてある。
幻影が指先だけで書を開くと四つ折りになっていると思い、慎重に広げた。
「読めるのはたぶん俺だけ…」と幻影が言うと、「…さっさと読みやがれぇー…」と高虎と蘭丸が大いにうなり声を上げた。
「この状況から察してわかると思う。
なんとなくわかった人」
幻影の言葉に、真っ先に信長が小さく手を上げた。
「…うう… さすが御屋形様…」と嘉明が言って眉を下げると、「その理由は、幻影に気落ちさせたくないからだ」と信長は堂々と言った。
「他には?」と幻影がみんなの顔を見まわしていると、かなり自信なさげに弁慶が手を上げた。
「心境が複雑なのは俺も同じだ。
俺は書が読めたから意味が分かっただけで、
この状況だけでは戸惑って当たり前だから。
まさに常識的に考えて、この金の仏像を売って、
カネに変えて寺を再興するなんて誰も考えないから」
「…あー…」と誰もが納得するようにうなると、「…そうだった…」と信長が大いに眉をしかめて言った。
信長はまさに富豪や殿様気質で考えたので、弁慶や源次のように戸惑うことはなかったのだ。
「あとは、看板に書いてあることと同じだ。
看板が完全に腐っていなかったから、
再建立できたからね。
だから大いに問題ができた」
幻影の言葉に、「嘉明、なまぐさではない坊主を紹介してくれ」と信長が言うと、「はっ! すぐに!」と嘉明は答えて、お付きとともに走って寺を出て行った。
「…だけどこれは大問題になると思うなぁー…
まさに寺の宗派での戦争になってしまいそうだ…」
幻影の杞憂は信長には一番よくわかっていた。
「もちろん仮の住職だ。
それは真っ先に伝えるから別にいい」
信長は言ってにやりと笑った。
「…厳撫様が生きておられたら呼んで来たかったけど…」と幻影が大いに嘆くと、「もうひとりおる」と信長はにやりと笑った。
幻影は全く察しがつかず、今回は降参した。
それは幻影とは近すぎる関係だったからだ。
「妙栄尼」
信長が言うと、幻影は目を見開いて、「…全く思い浮かびませんでした…」と答えると、「この薄情者め」と信長は優しく戒めた。
「…高層ではありませんが、
できればそう願いたいものです…」
幻影は言って、信長に笑みを向けて頭を下げた。
「ここは琵琶の力を発揮するから別にかまわぬ。
誰にも文句を言わせんし、
高野山の大天狗がいったい誰なのかをはっきりとさせればよいだけじゃ。
その母君がこの寺の住職であるのなら、
ほとんどの者は認めるはずじゃ」
「…あ、あははは… はい、その手もありました…」と幻影は照れくさそうに言って笑みを浮かべた。
「厳撫はあの世で悔しがっておるじゃろうて」と信長は言って鼻で笑った。
「住職の修行もある。
お蘭とともに越前へ飛べ。
孫の顔も見せてくればいい」
信長の言葉に、「はっ 行ってまいります」と幻影は答えてすぐに蘭丸と乳母のお香を連れて工房に行き、うどん屋の廃材で作った放置してある大きな籠にふたりを乗せた。
今はお香が阿利差を抱いている。
「さあ、空の旅に出かけよう」と幻影が言うと、「私も行くぅー!!」と背後から長春が叫んだが、「お前は留守番じゃ!」と信長が叫んで幻影たちを旅立たせた。
幻影たちは清々しい天気の空を飛び、一直線に越前の観栄寺に向かった。
「…これは面妖な…」と庭掃除をしていた一線を退いた元住職の綿貫が空を見上げてつぶやいた。
「天狗なものでね」と幻影が言うと、「…そうじゃったのか…」と綿貫は大いに目を見開いて言った。
「実は妙栄尼様をある寺の住職にと思いましてやってまいりました」
「…おお、それはいい…
さぞや御屋形様もお悦びであらせられるだろう…」
綿貫は感慨深く言って手を合わせた。
もちろん御屋形様とは上杉謙信のことだ。
幻影たちはすぐさま妙栄尼との親子の再会を果たし、そして孫を抱いて大いに喜んだ。
そして幻影が今日ここに訪れた件を話すと、真っ先に拒否したのだ。
「綿貫様も私と同様に喜んでおられました」と幻影が落ち着いて言うと、「…うう… 俗世の想いが…」と妙栄尼は大いに困惑して言った。
「なまぐさ坊主は何人も見て来ました。
この日ノ本一の高僧でもあらせられた厳撫僧正も、
大いになまぐさ坊主でしたから」
「…僧正様と比べないでぇー…」と妙栄尼は大いに嘆いたが、息子と嫁と孫とともにいられる喜びをかみしめていた。
「お香さん、いつもありがとうございます」と妙栄尼は穏やかに言って頭を下げた。
「いいえ! 私は阿利渚様のお世話ができて本当に幸せなのです!」とお香は大いに喜びの感情を乗せて言い放った。
「阿利渚も母がふたりいて喜んでいるはずだ」と幻影が言うと、お香は笑みを浮かべて頭を下げた。
「…うう… 俗世への思いがぁー…」とまた妙栄尼は嘆いたが、上げた顔はまさに観音のように穏やかだった。
「…連れて帰らないと、御屋形様に叱られるなぁー…」と幻影が言うと、蘭丸とお香は大いに笑った。
よって妙栄尼はさらに背中を押されて、「参ります」と腹をくくって言って、そそくさと身支度を始めた。
「お守りなどは高野山にお願いしていたのですが、
ここは妙栄尼様にお願いしましょう。
寺の全てを私がお話しできますので。
書簡などがあるのですが、
私以外は誰も読めないはずですので」
「すべてを公にしてくださいますよう」と妙栄尼は穏やかに言った。
ここはさすがの仏心で、隠すことはしないようだと幻影は思って更に胸を張った。
まだ驚きの顔を隠せない綿貫に礼を言って、幻影たちは空を飛んだ。
そしてまずは高野山に立ち寄って、現在の僧正と面会してすべてを語った。
「…はあ… 前僧正様は大いに嘆かれていることだろう…」と烙草僧正は大いに眉を下げて言って手のひらを合わせた。
「ですが、大天狗の件もある。
高野山金剛峯寺は、妙栄尼様を後押しさせていただきます」
烙草の力強い言葉に、幻影たちはすぐさま頭を下げた。
幻影たちは茶を遠慮して、すぐさま御殿に戻り、信長と妙栄尼の面談が始まった。
幻影は妙栄尼の言葉通りに、寺の全てを大きな看板を使って表した。
板に彫刻刀を立てて、全てを彫ってから漆で埋めた。
大きな看板は五つあり、誰が見ても現楽涅槃寺を建立した空雲和尚の気持ちがわかるものとなった。
空雲和尚は、仏陀しか敬っていないことは明白だったからだ。
だがもしも、ほかにも何かが発掘できれば、その限りではない。
その調査をしていたのか、泥だらけの長春と政江がやってきた。
だがその顔色は微妙だ。
喜んでいいのか悪いのか判断できないようだ。
「今度は何が出たの?」と幻影が聞くと、「…巖剛ちゃん…」と長春は言って、大いに苦笑いを浮かべている。
「熊に関する何かが出たの?」
「…取られちゃったぁー…」と長春が大いに嘆いた。
幻影はひとつため息をついて、廊下から顔を出して、丸くなって寝転んでいる巖剛を発見した。
幻影は雪駄を履いて巖剛に近づいて背中をなでた。
巖剛は顔を上げて困惑の目を幻影に向けた。
「住職のお言葉は、何も隠すな、だ」と幻影が穏やかに言うと、巖剛はのそりと体を上げて、すたすたと歩いて街道を横切って、温泉にその身をゆだねた。
この場には木彫りの熊が残された。
この木彫りの熊も頑丈な箱に入っていたようで、今作り上げたばかりのように見える。
よって今回は、この熊の腹の辺りが開くと感じて、幻影は謁見の間に戻って白布を敷いた。
「また別の出土物です。
どのお辺りにあったの?」
幻影が長春に聞くと、「さっき掘った穴の更に下」と政江が答えた。
「その下にはもうなかった?」と幻影が聞くと、「うん、なかったぁー…」と残念そうに長春が答えた。
「この木彫りの熊の腹が開くように細工をされている」と幻影が言うと、誰もが一斉に白布に近づいてきた。
そして幻影は丁寧に探って、ゆっくりと腹に埋め込まれていた木をずらした。
すると折りたたんだ小さな書が出て来て、開くとやはり梵字で文字が書かれている。
「…分けたことには理由がある…
もしや、この熊の彫りの方が仏陀様よりも上?」
幻影の疑問に、「仏陀様がお熊様をお守りになっている… いや、そうではないのかもしれんな…」と信長は言って興味深げに書を見入った。
「…はあ、そうです…
おっしゃった通りです…
守っていることには違いありませんが、
主が先に立つことは当然と、書は語っています。
熊は仏陀様の僕です。
仲間と強い力として熊を使ったのでしょう。
このように理解、というか思想を持った空雲様の想いの現れです」
「今の仏の教えにはない別の流派ということになるな。
仏陀様には弟子がいたのだろうが、
それを動物に見立てた。
仏修行の観音も含めて、強い力を持つ熊を崇めたのだろう。
今だと、まさに巖剛がうってつけじゃ」
信長が陽気に語ると、「妙栄尼様と仲良くしていただく必要がありそうです」と幻影が笑みを浮かべて言うと、「噛まない?」と妙栄尼は真っ先に聞いた。
幻影が右腕の裾をまくって、鎧を見せた。
「巖剛の歯形です」と幻影が言うと、妙栄尼は卒倒しそうになったが、蘭丸が支えた。
「今は穏やかなものです」と蘭丸が落ち着いた声で言うと、「…はい、そうですよね…」と妙栄尼は今更ながらに理解して頭を下げた。
「…いきなり歯型を見せるとは…」と信長が大いに眉を下げて聞くと、「その歴史をよくわかっていただけますから」と幻影は笑みを浮かべて答えた。
「今は穏やかに入浴中です」と幻影が言うと、妙栄尼は立ち上がって、蘭丸とともに外に出た。
妙栄尼と巖剛の面会は大いに穏やかに執り行われ、「…味見をされちゃったわ…」と妙栄尼は手拭いで顔を拭いて、巖剛の頭をなでた。
巖剛は心地よさそうな顔をしてから、妙栄尼を寺に誘うようにして歩いた。
もちろん、妙栄尼はついて行って、質素だが素晴らしい境内を見た。
本堂と小さな社務所しかないやけにすっきりした佇まいにも好感を持ったようだ。
「社務所も立派です」と妙栄尼は笑みを浮かべて言って、小さな御殿を見上げた。
必ず行楽客が訪れるので、お守りを置いているので社務所は極力早朝から開いているが、部屋はまだ使っていない。
「あとは井戸ですが、
空雲和尚は修行のように山側の川から汲んできたことが考えられます。
ですが、ここから山側に歩けば、
水は湧き出るでしょう。
今は必要であれば、屋敷から運んでいます」
妙栄尼に寄り添っていた幻影が継げると、妙栄尼は薄笑みを浮かべてうなづいた。
「…そうですね、井戸掘りはお願いいたしますわ…」と妙栄尼が言って巖剛の頭をなでると、何を勘違いしたのか、巖剛は走り出してすぐに止まった。
それは本殿の真裏の木々の間だった。
「…示してくれたおかげで、人間でも理解できた…」と幻影が言うと、「…ここだけ、妙に緑が濃いな…」と信長は言って何度もうなづいている。
ここは幻影たちが工員となって井戸掘りを行い、ほどなく水が湧いて出てきたので、石を組んで井戸とした。
さすがに温泉ではなく普通の湧き水だ。
地中の水の容量が多いようで、三尺ほど積んだ石積みの上から徐々に水があふれてくる。
幻影は急遽、溝掘りをして、手洗い場まで造り上げて、街道の溝にもつなげた。
長春と政江がまだ泥だらけになって、井戸を掘った土を崩している。
そして石などを入念に見ては眉を下げている。
「…ふーん… 欲張っているわけではなく、何かあるんだな…」と幻影はつぶやいてからふたりの仲間になった。
すると、「あ!」と長春が声を上げて、手拭いで泥をぬぐい始めた。
誰もがすぐに近づいて、「おー…」と声を上げた。
まさに人工物で、陶器の玉だった。
その中央には穴が開いていて、組紐でも通す根付のようだった。
しかし注目するのはその柄だ。
黒を背景にして、ほぼ一面に若葉が描かれていて、金色の梵字が二文字確認できた。
「現と楽。
ほぼ確実に、空雲和尚の落としものだろう。
この模様などから察して、
明のもののようにも思うし、
さらに西のご当地の印度のものかもしれないね」
幻影の言葉に、「…みつかってよかったぁー…」と長春が明るく言ったので、幻影が頭をなでると、「褒めてもらったよ?」と長春が政江に自慢げに言った。
「…私が見つけたかったぁー…」と政江は大いに嘆いていた。
更に子細に探ったが、ほかには何もなかった。
まさに山から小さな宝石を見つけたことにもなり、「…これ、再現して焼くか…」と幻影が言うと、長春は大いに喜んだ。
そして、弁慶と源次は工房にすっ飛んで行った。
この寺独自の土産物になると幻影は嬉しく思った。
もちろんこの根付も無料配布とすることも決めていた。
「…宝がふたつになった…」と上座にいる信長が機嫌よく言って、陶器の根付を飾り座布団の上に置いている金の寝仏像の隣に置いた。
和尚が社務所に定住すれば、社務所で管理してもらうことにしようと思ったのだが、小さな木の仏像と看板も、この屋敷で管理することに決まった。
もちろん妙栄尼の推薦したことでもあるからだ。
すると嘉明がやって来て、候補の僧侶を連れてきた。
信長とすぐに面会して話すことなく、「巖剛」と呼んだ。
巖剛が謁見の間に姿を見せると、「なっ!」と僧侶は腰を浮かせて驚いている。
まさに当然の反応だが、「この熊の巖剛に顔をなめてもらえれば合格」と信長が言うと、「…そ、そのような無体な…」と僧侶は苦笑いを浮かべたが、妙栄尼が手本を見せると、「…修行不足でした…」と僧侶は言って頭を下げて、部屋を出て行った。
立ち会っていた嘉明もさすがに苦笑いを浮かべていて、早速妙栄尼と挨拶を交わした。
「…当然でございます…」と幻影は笑みを浮かべて言って、信長に頭を下げた。
追加の看板も弁慶と源次で作り上げ、試しの根付を持ってきた。
「いい出来だね。
では、量産してくれていいから」
幻影の言葉にふたりは満面の笑みを浮かべて部屋を出て行った。
「…はあ… 器用だ…」と信長は言って根付をまじまじと見入った。
「きれいな方が偽物」と信長が言うと、幻影は愉快そうに笑った。
そして長春に手渡すと大いに喜んで、組紐を通して喜んだ。
「虹色の組紐を編んでおいて欲しい。
それと組み合わせて配布するから」
幻影の言葉に、「はい! お兄ちゃん!」と長春は機嫌よく返事をして部屋を出て行った。
「…みんな、働き者だわ…」と政江は言って重い腰を上げて長春を追いかけて行った。
「ああ、配布か…」と信長は言って何度もなづいた。
「お守りと同じでよろしいかと。
どなたも過分において行ってくださいますから」
「案内の看板はまだ立てていないのだな?」と信長が心配して言うと、「準備が整ってからと思いまして、まだでございます」と幻影は巖剛を見て言った。
「…そうじゃった…」と信長は言って何度もうなづいた。
「では、下準備に行ってまいります」と幻影は言って立ち上がって部屋を出た。
「…さすがに寝仏は土産にせぬか…」と信長は言って金の寝仏像を見入って、同じ姿で寝転んだ。
「お熊様もできれば配布されたくはありませんが、
できれば万人に理解していただくことも大切でしょう」
妙栄尼の言葉に、「さもありなん」と信長は答えて少し笑った。
ほどなくそれなり以上の土産物が完成したので、正式に看板を立てて土産物の拡充を図った。
当然のように来る者はお守りと根付と、小さな熊の木彫りをもらって帰っていく。
もちろん、いつもよりも賽銭やお布施の量が大いに増えた。
よって二名だけ、社務所の裏で城の警護人がつくことになった。
これは嘉明からの進言で、信長はすぐさま許可をしていたことだ。
すると今度は血相を変えた高虎が御殿にやって来て、「御屋形様!」と叫んで頭を下げた。
信長が寝姿を変えずに、「なんじゃ」というと、妙栄尼は愉快そうに笑った。
「高僧をお連れ申した」と高虎は重厚な声で言って頭を下げた。
「通すがよい」という信長の言葉に、高虎はすぐさま僧侶を連れてきた。
「ほう、まさか比叡か?」と信長が言うと、「はっ ご主人様にはご機嫌麗しく」と旅の僧は頭を下げて言った。
「現楽涅槃寺に詣でに来られたのかな?」
「はっ いかにも。
この目でとくと見極めたいと存じまして」
「そなたはついておる」と信長は言って起きあがり、棚に置いてある金の寝仏像と根付を拝んでから、三方に乗せて披露した。
「また新たに出土した。
その一部始終を看板に記して立てておるから、
帰りにでも見ていけばよい」
高僧は話半分で、金の寝仏像を見入っている。
「それほど穴が開くほど見るものではない。
減るではないか…」
信長の言葉に、妙栄尼と高虎が大いに笑った。
すると、『グルルルル…』と巖剛がうなった。
「あら、どうしたのかしら…
欲が見えたようね…」
妙栄尼は言って、巖剛の頭をなでた。
「高野山の烙草僧正とお会いいたしました。
この件はご報告義務があると察します」
妙栄尼の言葉に、比叡の高僧は目を見開いて、妙栄尼と巖剛を見入った。
「下がってよい。
高虎、お前の目は節穴じゃ」
信長が少し笑いながら言うと、「…誠に申し訳ござらん…」と高虎はうなだれて答えた。
「それがわかるのはワシたちだけじゃ。
それほど気落ちせぬともよい。
それに巖剛はもううなるな」
信長の言葉に、巖剛はうなることをやめ少しうなだれてから、妙栄尼を上目遣いで見上げた。
「うふふ、かわいいわぁー…」と妙栄尼は機嫌よく言って、巖剛の大きな頭を抱きしめた。
そして巖剛が大いに妙栄尼の顔をなめ始めると、「…失礼もうした…」と高僧は言って立ち上がり、部屋を出て行った。
「…修行不足のやつらばかりじゃ…」と信長が嘆くと、「さらに精進いたしましょうぞ!」と高虎は吠えてから、深々と素早く頭を下げて部屋を出て行った。
「比叡の山、もう一度焼いてやろうかぁー…」と信長は大いにうなってから、仏像に頭を下げて手を合わせてから棚に戻した。
「だれかある!」と信長が叫ぶと、すぐさま楓と松太郎が廊下から現れ、庭には忍びが三名いた。
「安心した。
下がってもよい」
信長の言葉に、五人は素早く頭を下げて部屋を出て行った。
「…呆れるほどの警備ですのね…」と妙栄尼は大いに呆れ返って言った。
「最近は腕を上げてな。
ワシらでも気づかぬことがあるからこその確認じゃ」
信長は機嫌よく言ってから座った。
「お坊様! ご無体なことはおやめください!」
現楽涅槃寺の社務所の露店の店番のお勢は気丈に、比叡の高僧に向けて叫んだ。
「おひとりおひとつと書いてございます!」
「ワシは良いのじゃ!」と自分勝手に叫んで無理やり懐にねじ入れようとしたが、「おい坊さん」とガラの悪い警備の者二名が僧を挟み打ちにした。
「おまえのような者が必ずいると聞かされていたが、本当にいたことに呆れた」
もうひとりの警備の者が大いにあきれ返って言った。
「心得は守れ、この怪僧がぁー…」
「…な、なにをぉー…」と僧はうなったが、懐のものを出さない。
「あんたのような者は、大天狗様が成敗してくださるわ!」
お勢の威勢のいい言葉に、「…えー…」と警護のふたりが嘆いて大いに首をすくめた。
「お勢ちゃん、呼んだかい?」と幻影が宙に浮かんだまま言うと、僧は大いに驚いて地面に腰を落とした。
警備二名は、すぐさま頭を下げて、「…こえー…」と口をそろえて言った。
「おい、比叡の坊さん。
さっさと決まりを守って懐のものを出しやがれ」
幻影の言葉に、僧は大いに怯えて、懐に手を突っ込んで、根付やお守りなどを出した。
「高野山に通達しておく。
心構えのない着飾った僧がいるとな。
この先、お前は僧としては生きて行けなくなるはずだ。
どうせ怪僧天海が後ろにいるんだろうが、
すぐにでも昇天するようなヤツのいうことを聞いてどうするというのだ?」
僧は何も言えずにガタガタと震えるばかりだ。
幻影は先に地面に敷いていた布に乗っているお守りなどをお勢に渡した。
「…まさか、本当にいらっしゃるとは思いませんでしたぁー…」
お勢がぼう然として言うと、「声がよーく聞こえたからな」と幻影は言って少し笑った。
「こいつを比叡に送り届けて、
高野山と江戸城に行ったと、
うちの家族に伝えておいて欲しいんだ。
構わないかい?」
幻影が警備の者に言うと、「はっ! お伝えしておきまする!」と答えて頭を下げた。
幻影は僧の首根っこを押さえつけて宙に浮かんで、東に向かって飛んだ。
「…言いふらしたら、叱られるかしらぁー…」とお勢が目を見開いて言うと、「…心のままにとおっしゃるさ…」と警護の者は大いに眉を下げて答えた。
幻影はまず比叡に飛んで、―― やはりいた ―― と確信して、本堂前に降りて、僧を投げ飛ばした。
「しつけがなっていない坊主を連れてきた。
その元凶は天海、お前だ」
いきなりの幻影の言葉に、その天海はただただ目を見開いているだけだ。
「これから江戸城に飛んで高野山にも行ってくるからな。
覚悟しておけ」
幻影は言うだけ言ってからふわりと浮かんで東に向かって飛んだ。
まずは江戸城で秀忠から色々と情報を仕入れてから、高野山に飛んで今あったことを烙草に伝えた。
「これを鷲摑みにしやがったんですよ。
庶民でも誰もしないことを僧がしていいとは思えません」
「…おー… ありがたい…」と烙草は言って、根付と木彫りの熊を手の挟んで拝んだ。
「話、聞いてくれてる?」と幻影が気さくに言うと、「…比叡山、また焼かれなきゃいいが…」と烙草が大いに嘆くと、「やりそうで嫌ですね…」と幻影は大いに眉を下げて答えた。
「…前の僧正の方がよかった…」と幻影が言うと、「お任せあれ!」と烙草は調子よく言って、大いに笑った。
「ところで権僧正の天海をどう思われます?
ひょっとすると、幼い私と接触した可能性もあるので、
少々気になっています」
幻影が物心つく前の三才のころに、天海は武田信玄に召し抱えられている事実がある。
すると烙草の顔が大いに歪み、「…偽物かもしれぬ…」と何とか言葉を吐いた。
「戦乱の世の頃は、そのようなことは普通に横行していましたからね。
それに、本物も偽物も大成すれば本物になるということでいいような世界です。
大君など、偽物だらけでしょう」
さすがに幻影の言葉には、烙草は口を開かなかった。
もちろん幻影もわかっているで、答えを求めていたわけではない。
「いまごろ、大砲を作っておられるやもしれませんので、
もう一度比叡山に飛んでから早々に戻ります…」
幻影は眉を下げて言って、烙草に頭を下げてから、まだ松山に移住して半年も経っていないのだが、懐かしのにおの湖に向かって飛び、今回は少し物見遊山気分を楽しんだ。
そして幻影はあることを思い出し、少し東に進路を取って、信楽に向かった。
ここは物知りの与助に話を聞こうと思ったのだ。
幻影は偽の店には見えない窯元に入り、すぐさま与助を見つけて挨拶を交わした。
そして早速だが天海のことを聞くと、「死んだはずです」と考える間もなく答えた。
「あの、例の焼き討ちの時ですか?」
「いえ、そのあとの長篠の戦の時です。
開戦までに二年ほどかかりました。
使えぬわ!
と叫ばれた信玄公の槍の餌食になったはずなのです」
幻影は大いに眉を下げて、「御屋形様よりもひでえ…」という幻影の言葉に、「…だからこそ、信長様も考え直されたこともおありかと…」と与助は言って頭を下げた。
「…やはりそうか…
俺の冷酷さは信玄公から来ていたんだなぁー…
俺自身が納得できたから、
それはそれでいいんだけどね…」
与助は何も言わずに、「ところで、なにがあったのです?」と与助は大いに気になっていたので、幻影が信楽にやってきた事情を聞くことにした。
その天海が比叡山に戻っていることに関係して、幻影の予測も交えて与助に語った。
「さすれば、はっきりと言えることがふたつ。
本物の天海であれば、右手の中指が欠損しております。
そして馬上の信玄公の振った槍ですが、
刺さずに槍の胴を振り下ろして殴りつけたのです。
もしも生きているのなら、
ただでは済んでいないので、
右の肩と首にその痕跡が必ずあるはずと」
与助の言葉に、幻影は何度もうなづいて、「それって、どんな怒りを食らったの?」と聞くと、「馬を引くことを拒んだそうです」と与助が眉をひそめて答えた。
「…ま、武士じゃないんだから、
遠慮して断る方が普通だと思う…」
「…はい… 忍びでも尻り込みいたしますから…」と与助は幻影の言葉を肯定した。
「また疑問が沸いたんだけど、
あまりにも態度がひどいから、
戦以外のことで何かあったの?
俺のこととか…」
幻影の言葉に与助は目を見開いて、「…そうかもしれませぬ…」と答えてから何度もうなづいた
「現在は妙栄尼と名乗られておりますが、
その当時の名を阿国と申しておりました。
まさに絶世の美人で魅力があり、
濃姫様に雰囲気が似ておりました。
ですが今の妙栄尼様はそうとは思えないのです。
阿国は遊女として有名でしたので。
ですが真相を聞けば、
上杉謙信の策略だったことがよくわかったのです。
幻影様を利用して、何とか和平をつかみたかったようです」
幻影はさらに納得して、「よくわかったよ、ありがとう」と丁寧に頭を下げて、別れを告げてから、比叡山に向かって飛んだ。
比叡山の本堂では、少々殺伐とした雰囲気が流れていて、太刀を脇に差した浪人者が百名ほど集まっていた。
そして本堂の一番高い場所に天海がいて、何か説教ぶったことを話しているが、幻影が宙に浮いている姿を見て大いに目を見開いた。
「おまえら程度で琵琶家がどうこうなるもんじゃないぜ!」
幻影が叫ぶと、誰もが太刀の柄をつかんだが、届くわけがない。
よって矢を射ろうとする者が数名いたが、「やめろ! やめんかぁ―――!!」と天海が叫んだがもう遅く、武士たちから数本の矢が放たれた。
幻影は全く焦ることなく、左腕に仕込んでいる鉄の棒を出して、手品のように一気に広げると、丸い盾となった。
開けば盾、閉じればこん棒として、大いに使えるものだ。
もちろん飛んできた矢はすべて盾に阻まれ、地に落ちた。
「あーあ… 知らねえぞ…
俺、二代将軍様に大いに気に入られてるんだけど。
矢で射った事実が発覚したら、
あんたほどの者でも首が飛ぶと思うぜ」
幻影の言葉に、天海は力なくその場に腰を落とした。
「さらに聞きてえことがある。
お前、本物の天海じゃあねえだろ?」
幻影の言葉に、武士たちが一斉に天海をにらみつけた。
「…な、なにを証拠に…」と天海は大いに慌てていた。
「今江戸まで行って、
天海は風邪を引いたとかで、
部屋に引きこもっていたことを確認してもらったからだ。
じゃああんたは一体何者だ?
偽物の天海の影か?」
幻影の言葉に、天海はふたつのことに目を見開いた。
正体を見破られたことと、天海だと信じていた者は実は天海ではなかったことだ。
「まあそれはどうでもいい。
あんたの主の天海だが、
右の肩や背中や首の辺りに大きな傷がないかい?
袈裟を着ていても多分確認できると思う」
偽物の天海は大いに戸惑ったが、「…そのようなものはない…」とつぶやいた。
「じゃ、もうひとつ。
右手の中指が欠損しているのが本物の天海だが、
それはどうだい?」
「…ああ、ああ…」と偽の天海は大いに嘆いて、「…信じていたのに…」とつぶやいた。
「ま、小者のようだから放っておいてもいいけど、
琵琶家の前に現れた時、
一瞬にして首を落とされるとでも言っておいてくれ。
わざわざ伝えに行くのも、もう面倒になったから。
それから秀忠は大いに疑い始めたから、
さらに余計なことはしない方がいいぜ。
それに、権僧正の位は返上した方がいい。
まともな僧が頂点に立つべきだからな。
じゃ、言いたいことを言ったから帰る」
幻影は言って、踵を返してから松山に向けて飛んだ。
讃岐を通過しようとした時、幻影は山道に三人の僧を発見した。
どう考えても身なりだけではそれほどの高僧とは思えなかったが、幻影は興味をもって速度を落として見守った。
この山道は和気温泉に近い山に下っていく道で、先頭にいる僧は笑みを浮かべて振り返りながら話をしている。
幻影は大いに興味をもって、その一団のすぐ後ろに足をつけた。
そして辺りを見回しながら、その一団を追い越す前に、「良い天気ですね」と穏やかに声をかけた。
三人の僧はすぐさま振り返って、「やあ! ほんに、いい天気じゃ!」と先頭にいた僧が笑みを浮かべて言った。
「松山のどちらに行かれるのですか?」
「新しく建立されたという、現楽涅槃寺だよ」
まさにうれしくてたまらないようで、破顔していた。
「ああ、あそこの寺は俺たちが手伝って建立したんです。
それがちょっとした自慢でね」
幻影の言葉に、「これはついておる!」と僧が叫んで根掘り葉掘り聞いてきたので、すべてを流ちょうに話した。
「さらには金の寝仏像も出たんです。
そして寺を後にした、僧侶の落とし物まで。
それに、動物の熊も愛していたそうで。
丁度その寺の近くの御殿でも熊を飼っていて、
仏の使者ではないのかといううわさがあるのです」
僧たち三人は大いに顔をしかめて、「…本当の話だったぁー…」と大いに嘆いた。
「強い欲がなければ大人しいものですよ。
更に仲が良くなれば、顔とかをなめて来ますから」
「…まさに、豪気ですな…」と雰囲気を変えた先頭にいる僧が目を鋭くして幻影を見入った。
「琵琶高願です」と幻影が名を晒すと、「…まさかそこまでとは思ってもいなんだぁー…」と僧は大いに嘆いた。
「少々所用で至る所を飛び回ってきました。
私は天狗なので空を飛べますから。
きっとあなた方もお客様と思いましたので、
ご一緒しようと思いまして」
「…はあ… その話も」と僧が言ったとたんに幻影は空にいて、「ほら、飛べますよ!」と陽気に言うと、僧たちは開いた口がふさがらなかった。
そして道に戻ってから、「あとは緩やかな下りです。急ぐこともないでしょう」と幻影は言って、青空を見上げながら歩いた。
三人は改めて名を名乗って、様々な逸話の確認を始めて、「…阿修羅は別だった…」と目を見開いて驚いていた。
「私の妻にしました」という幻影の陽気な言葉に、三人は大いに苦笑いを浮かべるにとどめた。
「さあ、平地だ!
ここからはさらに歩きやすくなりますけど、
大八車にでも乗りますか」
幻影の言葉に僧たちは整備された街道を穏やかに行きかう大八車を見入った。
「あ、空きが来た。
おーい! 又次郎ぉ―――っ!!」
幻影が手を振って叫ぶと、大八車は大いに急いでやって来て、「高願様! こんにちは!」と挨拶をしてから、四人を押し込むようにして乗せてから大八車を引っ張った。
「…高願様をお乗せできるなんて感動だぁー…」と又二郎は大いに喜んでいる。
するとあっという間に寺に着くと、「…あーあ、幸せな時間はあっという間だぁー…」と又次郎は大いに嘆いて四人を下した。
特に案内はいらないが、三人は幻影が作った看板を見入っていて、幻影はこの三人の隣にいる。
「…説明が詳細でわかりやすいのぉー…」とそれなりの高僧の拓庵が笑みを浮かべてつぶやいた。
「発掘したものだけの情報しかありませんが、
これだけでもほぼ理解していただけるでしょう。
問題は空雲和尚が日の国に渡ってきた目的だけですね。
それが見分を広げるなどの修行だと言えばそれまでですが」
「…ああ、そうなんじゃろうなぁー…」と言って、根付の絵を見入っていた。
「熊の彫り物と根付は社務所で配布していますから」
幻影の言葉に、「なんとっ!」と叫んで三人は社務所に向かって駆け出した。
幻影は大いに笑って三人を追いかけた。
「…これが配布とは信じられん…」と拓庵は言って、箱にお布施を入れて手を合わせた。
幻影は背後に知り合いの気配を感じて、「妙栄尼様」と穏やかに言って頭を下げた。
その妙栄尼の隣には巖剛がいたが、幻影を見つけて走って来て抱きついた。
立ち上がると、幻影とそれほど身長が変わらないので、幻影を襲っているようにしか見えない。
「おまえ、投げ飛ばすぞ」と陽気に言って大いに笑った。
まさにこの光景に、境内にいた拝観者たちは目を見開いていた。
しかしすぐに妙栄尼の隣に戻って四本脚を地につけてから、妙栄尼を見上げた。
「…やけるわね…」と妙栄尼が巖剛を見て言うと、巖剛は上目遣いで妙栄尼を見上げた。
「聞いてはいけないことを聞いてしまいました」という幻影の言葉に、妙栄尼は驚くことも戸惑うこともなく、「…お芝居ですわ…」と穏やかに言った。
妙栄尼と拓庵たちは挨拶を交わして、経を上げることにして本堂に入った。
その経は特殊で、日の国に伝わっている仏教とはまるで違うものだ。
妙栄尼はまだ数回しか読んでいないのだが、もうしっかりと暗記している。
そしてそれが漢訳ではなく、印度言葉だったことに、拓庵たちは大いに戸惑っていた。
さらには鐘や木魚などを使うことはなく、手のひらを合わせて経を読む。
そして拓庵は妙栄尼がかなりの高僧だと舌を巻いていた。
だが、経はそれほど長いものではなく、妙栄尼は目を開いて薄笑みを浮かべた。
妙栄尼は袈裟から冊子を出して、拓庵に手渡した。
「ただただ、私自身への修行のような経でございます」と妙栄尼は言って、寝仏像に手を合わせてから立ち上がった。
「寺には鐘があって当然という定説がございますが、
ここにはございませんでした。
ですので、空雲和尚がどのように仏陀を崇めていたのかを考えながら
経を読んでおります。
しかも、宝物庫などもなく、
随分と曲がった仏教がこの地に伝わって来たことがよくわかります。
もし印度に渡った時、逆に清国やこの日の国の当り前が、
採用されているかもしれませんね。
ですのでこの寺が、まさに一番純粋な寺であると、
私は思ってやまないのです」
妙栄尼の言葉に、拓庵たちは何も言わずに頭を下げた。
もちろん、拓庵たちも看板を見てその件を大いに考えていた。
間違っている曲がったものを崇めてもよいものなのだろうかと。
「そして、体力的にも鍛えておられたようです。
ここには井戸がありませんでしたの。
ですので、ここから二里ほど離れた小川に行って、
水を汲みんでいたのだろうと、
高願様は予想されております。
さらには驚いたことに、厠までもがないのです。
全てを自然に返し、
まさに動物として生活していたように思うのです。
私はこの仏の教えが、本当に好きになってしまいました」
妙栄尼は語ってから立ち上がり、体をぶつけてくる巖剛の頭をなでて、横に並んで歩いて行った。
三人は何も語らずに、寝仏像に手を合わせてから立ち上がり、静々と本堂を出た。
幻影は笑みを浮かべて三人を待っていた。
「なにもなさすぎることが本当に不思議でした。
しかし本堂はかなりの広さがあり、
社務所は寝所でしかないものでしたが、
お守り程度は置いていた形跡がありました。
残念ながらそれは土に返っていたようで、
発見できなかったことが残念です。
そして動物とも触れ合っていたのかもしれないと感じました。
妙栄尼様のように、熊と友達になっていたかもしれませんね」
幻影が語ると、「…一体、妙栄尼様は、どちらで修行を積まれておられたのでしょうか?」と拓庵が聞くと、「きっと、現ではない場所でしょう」と幻影は謎かけのように答えた。
「ご主人を早くに失くし仏門に入りました。
そして子がいたのですが養子に出したのです。
全ては罪深き自分自身を戒めるため。
しかし、その罰のようなものは償ったとして、
琵琶家の当主がお声掛けくださったのです。
そして、私の母でもあるのです」
幻影の言葉に、三人は大いに目を見開いた。
「この子ありきて、この親あり」と拓庵は笑みを浮かべて言って、幻影に頭を下げて寺を出て行った。
「…若返りたいなぁー…」と妙栄尼がついに言い出すと、「何のために?」と幻影に返されてしまって大いに答えに戸惑った。
「即答できなかったからダメ」という幻影の言葉に、「…まだまだ修行が足りなかったわ…」と妙栄尼は言って、気合を入れていた。
「…きれいなお母さんの方がいいじゃなぁーい…」
妙栄尼が大いに甘えて言うと、「ありきたりだからつまらないよ」と幻影は即答した。
「それに、濃姫様がふたりになりそうで、それほど面白くない」
幻影の連れない言葉に、「…なんとなく理解できたような気がするわ…」と妙栄尼は幻影の言葉を認めた。
『…クーン…』と巖剛が小声で鳴いて、幻影を見上げている。
「かわいいけどダメ」という幻影の言葉に、家族たちは大声で笑った。
「詳しく教えたのって誰?」と幻影は言って、真っ先に長春を見た。
「ずっと子供だよ?」と普通に大人だが、少女の姿の長春がかわいらしく言った。
「…ま、四十手前には誰も思わないだろうね…」と幻影が嘆くように言うと、「二十だよ?」と長春は小首をかしげて言った。
「しばらく使ってなかったから、
さて、どうなんだろうね…
まあ、目の治療は問題なかったようだけど…」
「観念しろ」と信長が少し笑いながら言うと、「はい、そういたします」と幻影があっさりと肯定すると、「…からかわれていたのかしら…」と妙栄尼は怒ることなくつぶやいた。
「そりゃ、若い母ちゃんの方がいいと思うこともあるさ。
年齢的にも、俺とは十三しか違わない。
人から見れば、親子というよりも姉弟って感じだからね。
だけど、若返っても今の生活を変えないって言い切れる?」
「わかんなぁーい」と妙栄尼は即答した。
「もうひとつ。
ちょいと不思議なものを崩れた掘立小屋の残骸の中で見つけたんだ」
「あら? なにかしら?」
「長い頭髪」
幻影の言葉に、捜索に関わった者以外は目を見開いた。
「僧侶は剃毛して当たり前なのは、
日の国だけの習わしかもしれないね。
空雲和尚は、まさに動物と同じように、
身なりに関しては無頓着だったような気がするんだ。
それ以外には全く何もない。
身につければ収まる程度のものしか、
私物はなかったんだろうね。
だから食べ物も、自然なものをそのまま食うとか…」
「…ああ、塩味だけでも…」と妙栄尼が懇願すると、「本当に動物になっちゃいそうだから普通でいいと思う」と幻影が言うと、妙栄尼は胸をなでおろしていた。
「だけどあの広い本堂は何を意味していたんだろうか…
大きさは関係ないような気がするんだけど…
予測としては器、かなぁー…」
幻影の言葉に、信長が真っ先にうなづいた。
「広い場所にいて、広いと感じるのではまだ半人前、などとな」
信長の言葉に、誰もが納得したようにうなづいた。
「御屋形様のおっしゃる通りだと、
外にいても狭いと感じた時が修行の終わり、
などでしょうか?」
「ありうるだろう」
「…その修行が一番大変そう…」と妙栄尼は眉を下げて言った。
「さらには、大きな本堂に小さな寝仏像。
本来ならば、この本堂に入り切れないほどの仏陀が坐す、
などという想い…」
「…あー…」と妙栄尼は納得したように言って、穏やかに手のひらを合わせた。
妙栄尼は若返ったのだが、性格的にも心情も全くなにも変わらなかった。
ただただ安心したのか、食事をしっかりと摂る。
経は日に三回上げ、それ以外の時間はこの辺りの散策をする。
もちろん、農民たちと触れ合うためだ。
基本的には挨拶だけで終わるが、気になったことは必ず質問する。
農民たちはさらに掘り下げて説明してくるので、物知りにもなる。
そして城下にも出て、人々と語り合う。
よって、『現楽涅槃寺の住職』という肩書を妙栄尼は授けられていた。
外の世界で認知を終えた妙栄尼は、城にも足を運ぶようになる。
ここでも様々な者とふれあい、ついには嘉明とも面と向かって話すようになった。
妙栄尼は、一日のほとんどを歩くことに費やして、体力的には随分と逞しくなった。
本堂の寝仏像は大きいものは奥に移動させて、崩れていた本堂で発見した同じ大きさの寝仏像を幻影が彫った。
まだそれほど日は経っていないのだが、妙栄尼は経を読み上げ終わって立ち上がって振り返って巖剛をふと見ると、やけに小さく感じた。
「あらかわいい」と妙栄尼は言ってから、妙栄尼よりもかなり巨体の巖剛を、ひょいと軽々と持ち上げて抱き上げて本堂から出た。
ついには参拝者たちが生き仏として妙栄尼を崇めるようになってきた。
「…日々の修練の効果が出てきたようだね…」と幻影は大いに眉を下げて言うと、「…ほんと、不思議だわ…」と妙栄尼は言って巖剛を地面に降ろした。
「子供になっちゃったって感じがうれしいわ」と妙栄尼は言って、手のひらを合わせた。
巖剛は子熊のように足取り軽く、熊の湯に向かって走って行った。
道行く者たちは不思議そうにして巖剛を眺めて行く。
「…あの子専用のお風呂っていうのもすごいわね…」と妙栄尼が今更ながらに言うと、「あいつも湯に浸かることが修行なんじゃない?」と幻影が答えて少し笑った。
「落ち着いてきたので、そろそろ祭りでもと思ってるんだけど、
現楽涅槃寺の境内を使わせてもらってもいい?」
幻影の進言に、「もちろん、喜んで」と妙栄尼は笑みを浮かべて答えて手のひらを合わせた。
「だけど、毎日祭りのような往来だけどね…
街道を広めにとったはずなのに、狭く感じてしまう。
この地は海と山が近いから、
昔から海の幸と山の幸合戦のような、
腹を満たす祭りがおこなわれている場所が、
狭い範囲で催されている村もあるんだ。
それの規模の大きいものでもと思ってね。
あとは、ここは海よりも少し高いから、
海で打ち上げ花火を上げたら、
どこにいてもよく見える、
条件がいい場所でもあるんだ。
ついに江戸や安土の情報がこの城下にもそのうわさが流れて来てね。
何も言わないんだけど、期待しているようなんだ」
「あら? そうかしら…
そのお話は全く聞かない」
妙栄尼はここまで言ってから少し考えて、「…あえて言わないのね…」と眉を下げて言った。
「ほんと、いい人ばかりだよ」と幻影が明るい笑みを浮かべて言うと、「いいところに来させていただいたわ」と妙栄尼は言って笑みを深めて手のひらを合わせた。
「季節的にこの地の名産の蜜柑の収穫が始まるから、
収穫祭としてやってもいいほどなんだ。
多少手伝ったおかげで、出来がいいそうでね。
例年よりも雨量が少ないから相談を受けて、
今回は人海戦術で山に水を運び入れた。
だからこそ祭りをやって、次は楽をしようと思ってね」
「…あら?
なんだかすごく興味がわいてきたわ…」
「神じゃないけど、神のような力を見せようと思ってね。
見せると言っても、公にはしないことなんだけどね。
ちょっとしたことで、雨を降らせることができるんだ。
それは俺の術と、自然現象をあわせることでね。
みんな体験していると思うんだけど、
それほど気づいていないんだ。
大火事が起こると雨が降る」
幻影の言葉に、妙栄尼は何度もうなづいて、「安全に大火事を起こしちゃうのね…」と眉を下げて言った。
「呼び水が必要でね。
それが大火事なんだよ。
もちろん安全な場所で火を起こすことは説明しておくんだけどね。
その理由は教えないんだけどね。
お炊き上げという理由をつけようとは考えているんだ」
「いいでしょう。
僧侶が祈っておけば、それなりの行事に見えるから」
「穏やかにすごい話をしているな」と信長が気さくに言って近づいてきた。
ふたりはすぐに頭を下げて、「ここだけの唯一の催し物の相談です」という幻影の言葉に、「それもいいが、ここだけでは済まないかもしれない」と信長は言ってその理由を告げた。
「斬り捨ててもいいと思っていますので受けません」
幻影の本来の性格が出たので、信長も妙栄尼も大いに眉を下げた。
「本人たちと民衆の前で堂々と明言しましょう。
お前たちが何を生んでいるのかと。
お前たちの存在は災いしか生んでいないと」
「…そう言われて初めてもやもやが晴れた気がするな…」と信長は大いに眉を下げて言った。
「暗殺をしたから、した方がその怒りを収めるために神社を建立する。
冷静に考えると意味が解りません。
だったら暗殺やひどい仕打ちをしなければいいだけです。
帝の集まりだけが、この日の国での一番の不幸です。
そんな都合のいい神などはいないはずだし、
巻き込まれる方はたまったものじゃありません。
その下ごしらえはもう数カ所で行いましたから、
神の都合のいい切り返しは通用しませんけどね」
幻影のあまりにも厳しい剣幕に、信長は大いに眉を下げて、「ここまでに、飢饉が一切起こらない穏やかな年であった」というと、「…神はここにいたのね…」と妙栄尼は言って、幻影に向かって手を合わせた。
「…何なら御所だけに、
三日三晩雨が降ると宣言して実行して差し上げてもいいのですぅー…」
幻影が口から炎のようなものを吐き出しながら言うと、「あ、沸騰しそうになった!」と叫んでから大いに笑った。
「…自己解決しおったが、ついに人神を怒らせおったか…」と信長は言って決心を固めた。
「大君を称えるか、琵琶家を信じるか、
それを判断させることにしよう」
信長は言って、飛脚小屋に向かって歩いて行った。
「…とんでもない子を産んじゃったわ…」と妙栄尼は嘆くように言ったが、幻影に母の笑みを向けていた。
元号が慶長から元和に代わったこの時期を見計らってなのか、後水尾大君が琵琶高願に対して官位を与えると、現在住んでいる松山城主に向けて言ってきたのだ。
よって上洛してこいと言ったに等しかった。
もちろん幻影は怒り狂って拒否して口から火を噴いたこともあるのだが、さらには近衛大臣の任を与えるといきなり命令してきた。
今の幻影と信長を大いに刺激したこの事態は、あっという間に日ノ本全土に広がった。
しかしもちろん、琵琶高願はこのすべてを蹴ったと、日の国全土にある法源院屋の店先に看板が立った。
さらには、この先にもこのようなことがあろうものなら、天狗の怒りを証明するとも書いてあり、早々にこの情報を法源院屋の京の本店から知った時、後水尾大君はなんとすべてを否定したのだ。
まさに帝の側近には知略に長けた者もいて、うわさとして流れたとしてうそぶいたわけだ。
だが琵琶家はそれに反抗して、『御所に三日三晩豪雨が降る』と期日も指定して宣言して、すべての日の国に知れ渡った期日の日から、正確に三日三晩豪雨が降り注ぎ、後水尾大君はその二日目に床に臥せてしまった。
この日を境に、帝は琵琶家には一切かかわらないことに決まった。
よって、この指示を発案した者は責任を取らせて追放や死罪のはずなのだがそれが起こらなかった。
もしもその事実が発覚した場合、今度は琵琶高願が不逞行為として罰すると先に告げておいたからだ。
全ての逃げ道を失った大君は、琵琶高願は未来永劫存在しないことに決定した。
だがそれをした場合、日の国の民衆たちが黙っていないこともわかっているし、法源院屋の情報網が脅威だった。
しかし先手を打ってはろくなことはないと思考を変えて、琵琶家に対してだけは触れないことにしたのだ。
この騒ぎは十日程続いたが、今は何事もなかったように穏やかな日々に戻っていた。
「正式にお暇をいただいて、お詫びに上がりました」
まさに公家の様相の源斉昭は、畳に額をこすりつけるようにして、信長の右斜め前にいる幻影に向かって頭を下げていた。
「命あっての物種だから。
不幸がなくてよかったよ」
幻影の安堵の言葉に、斉昭はすぐさま頭を上げて目を見開いた。
お小言や怒りの言葉を確実に食らうと思っていたのだが、まさに穏やかな言葉に大いに驚いたのだ。
「…ああ… 私は恥ずかしい…」と斉昭は大いに嘆いた。
「一般人になったということで、
同じ源の姓を持った者と会ってもらいたいんだ」
幻影の言葉に、謁見の間に弁慶がやって来て、すぐさま座って信長に頭を下げた。
「源弁慶です」と幻影が紹介すると、「…おお… おお…」と斉昭はうなって、弁慶に頭を下げたまま上げなかった。
「弁慶からの進言で、
あなたの人生がこれから大いに変わります。
弁慶が見切りをつけない限り、
この地に留まってくださって構いませんから。
弁慶の許可が出れば、未来永劫、我らとともにあっても問題ありません」
「はい! ありがたき幸せ!」と斉昭は伏せたまま叫んだ。
「その姿のままだと仕事に支障が出ます。
極力お控えください」
弁慶の穏やかな言葉に、斉昭はゆっくりと面を上げて、「…仰せつかりました…」と涙を流して言った。
そして弁慶は琵琶の家紋入りの風呂敷を出して、木片を斉昭に見せた。
「…確認しないまでも、もう察しておりました、弁慶様…」と斉昭は言って更に喜びの涙を流して笑みを浮かべた。
「のれん分け、というわけではないけど、
そろそろ弁慶にも家を構えてもらいたいと思ったのでね」
幻影の言葉に口を挟むように、「それは私にとって追放に等しいことでございます!」と弁慶は豪語した。
「あいわかった。
この件は無理強いはしない。
だが気が替わればいつでも言ってくれたらいい。
我らは笑みをもって弁慶を送り出し、
離れていても我らは家族であると胸を張って言うであろう」
信長の穏やかな言葉に、弁慶がすぐさま頭を下げると、並んで座っている長春と政江が笑みを浮かべて拍手をした。
すると巖剛がのそりのそりと歩いて、廊下の近くにいる妙栄尼を見上げてからすぐに弁慶に抱きついて顔をなめ始めた。
「…ああ、巖剛に認められた気がする…」と弁慶は笑みを浮かべて言った。
「…ワシ、認められておらんのか…」と信長が大いに嘆くと、「畏れ多いという意味もございます」と幻影は笑みを浮かべてすぐさま言った。
「…まあよい… 羽目を外さん程度に自由でいればよい…」と信長が穏やかに言うと、巖剛は弁慶の隣に座って愛らしい姿を信長に向けていた。
「…うう… 抱き締めたいぃー…」と女性たち全員がつぶやいた。
「もうよい、謁見行事は終わりじゃ。
好きに過ごせ」
信長の言葉に、女性たちは一斉に巖剛に抱きついた。
「行事が終わったということで、一人寂しく旅立ってくるよ…」と守山が大いに眉を下げて言った。
「送って行ってもいいんだぞ。
すぐ隣だから」
幻影の気さくな言葉に、「そりゃありがたいが、できれば目立たないように頼む…」と守山は懇願した。
「ずっと付き添うのなら派手でもいいんだろうけどね」と幻影は言って信長に頭を下げてから、守山とともに外に出た。
「俺も多少は付き合うよ。
もう長い間行っていないから、
懐かしさがこみ上げるかもな」
幻影が歩きながら言うと、「別府の調査も今回で終わりなのが寂しいねぇー…」と守山は眉を下げて言った。
幻影は守山の翼装置を担がせて宙に浮いて、その背中にある鎖を握った。
守山は経験者なのですぐさま翼を鋭角に開いてすぐに、「じゃ、行こう」と言って、とんでもない素早さで別府に向けて飛んだ。
誰にも確認されることなく、確実に人が見ていない場所に降りてから、守山は翼装置を下ろして幻影に渡した。
「あー… 旅程が百分の一以下になったなぁー…」という守山の安堵に満ちた言葉に、「協力できて何よりだよ」と幻影は気さくに言って、少々離れている温泉場に向かって歩いて行った。
「…ふーん… 農民たちに元気がないように見えるが…」
幻影の言葉に、「…ああ、そう見えるな… 農作物は十分に育っているから、それ以外か…」と守山は言って、農民たちがいる場所を目指した。
「あれ? 法源院屋の支店かな?」と幻影は、『法源院屋』という幻影が作り上げた統一の幟を上げている小さな店を見た。
農民たち相手の商売だろうと思い、幻影は店にも興味が沸いたが、目の前にいる農夫たちに気さくにあいさつをした。
「私はこのお武家様とは別で、
様々な方の悩みや願いを聞いて回っている、
気高き僧侶の僕をしておるのです。
何か心に閊えるものがあるのならば、
遠慮なさらずにおっしゃっていただきたいのです」
幻影の棒読み風の言葉に、守山は後ろを向いて声に出さずに大いにい笑った。
幻影は町人風の姿をしているのでかなり話しやすいようで、「…実は…」とひとりの老人が口を開いて心の支えを一気に並べ上げた。
「…それはこの地にも
琵琶高願様がいらっしゃると確信されておるように聞こえますが?」
幻影が笑いと怒りを抑え込みながら聞くと、「…戸惑いは感じますじゃ…」と老人は言ってうなだれた。
「今の全ての心の支えを精査すると、
この地を江戸のようにしろと言っているに等しいのですが、
どのように思われますか?」
「…上様の怒りを」と老人が言ってから口をつぐんで目を見開いた。
「どうも上様に対抗心をお持ちのようですね。
江戸程度の町など作ってみせると心に決めたのでしょう。
お若い城主だと思うのですが、いかがです?」
「…はあ… 家督を譲られてすぐに…
ワシらだけではなくお武家様方もお困りのようで…」
「ある意味、独裁者社会の象徴のようですね。
ここは派手なことはせずに、
我が高尚な僧侶様のお知恵を拝借いたします。
貴重なお話を、本当にありがとうございました」
幻影の穏やかな言葉に、「高尚なと言われると、どちらのお寺の方でしょう?」と老人が聞くと、「語ってもいいのですが、聞かぬが花という言葉もございます」という幻影の言葉に、「いえ、どうかお教えいただきたく」と老人は言って頭を下げた。
「…伊予松山の現楽涅槃寺です…」と幻影がつぶやくように言うと、「…ああ、ああ…」と農民たちは一斉につぶやいて、幻影に手のひらを合わせた。
「ですので誰にも危害を与えないように、
十分に考慮して行動しますので、
この件はあまり語られないように願います。
大丈夫大丈夫と笑みを浮かべて、
日々暮していただきたいと思っているのです」
幻影と守山は農民たちに別れを告げて、小さな法源院屋に向けて歩いて行った。
「今の話の一端があの出店だと思うね」と幻影が言うと、守山は納得して何度もうなづいた。
幻影たちが店の前に立つと、「いらっしゃいませ!」とまだ小僧の丁稚ふたりが、笑みを浮かべて歓迎した。
「琵琶一族って知ってるかい?」と幻影が試すように聞くと、「はい! もちろんでございます!」と丁稚のひとりが叫んだ。
「威勢がいいね、君はまだ知らないの?」と叫ばなかった子を見て言うと、「…見たことだけを信じろとじっちゃんが…」と戸惑いながら答えた。
「いや、それは大切なことだと思う。
何でもかんでも店主の言ったことをうのみにすることはないが、
あまり反抗するのもよくない。
できれば程々にな」
幻影のやさしい言葉に、「はい! お客様!」と今度はふたり同時に笑みを浮かべて大声で答えた。
「ちなみに、琵琶一族をどうやって見分けるのか聞いているのかい?」と幻影が意味ありげに聞くと、守山は怪訝そうな顔をした。
確かに、その証明は難しいのだ。
しかし琵琶一族に抜かりはない。
「見たことはないんですけど、忍者の方々が使っている割符を使います!」
小僧は言って、胸を押さえつけた。
「そこに持っていることがばれちゃうぞ」と幻影が言うと、「いえ、奪われてもだいじょうぶです!」と元気に答えた。
「そうだよね、それを法源院屋以外の者が持っていることがおかしいから」
幻影は言って、その片割れの割符を出すと、小僧たちは大いに目を見開いて、すぐに割符を出して合わせてから、何度も表裏を返して、「…琵琶、高願様ぁー…」と小僧は涙を流してつぶやいた。
「…お忍びだから内密に…」と幻影が声を殺して言うと、「…じっちゃんに言っちゃダメですかぁー…」と小僧が聞いてきた。
「俺がそのじっちゃんと会ってないから何とも言えないね。
信用ができる人だったら口をつぐんでいることだろう」
「あ、この辺りに…」と小僧は言って外に出て来て、「じっちゃんです!」と先ほど話をした老人の一団に指を差した。
「ああ、名を告げずに話をしたよ。
じっちゃんは信用できるお人だから、
話していいよ」
幻影の言葉に、小僧は大いに喜んだ。
「じゃあ、店がここにあるのは、殿様の発令に対応したということでいいのかい?」
幻影の言葉に、「はい… ご主人様が何らかの対応をと…」と言って眉を下げた。
「じゃ、色々と買ってやろう」と幻影は言って、早めに食べた方がいいものだけを厳選して、金を払って半分を守山に渡した。
「口が滑らかになる道具をありがとう」と守山は言って少し笑った。
それほど安いものではないので、話を聞く際は有効な小道具になる。
「できれば琵琶一族はこの件にあまり深入りしたくない。
殿様の願いを叶えるとな、
ほかの殿様たちの願いも叶えなきゃいけないからな。
どれほどの金持ちでも、それは少々難しい。
しかもそれは甘やかしともいえるんだ。
それに大いに調子に乗って罵倒しあうことになり、
いずれは戦にも発展する。
そうならないように、琵琶家は動くと、店主に伝えておいて欲しい」
幻影の言葉に、「…覚えられないぃー…」と小僧が大いに嘆くと、「そりゃそうだ…」と幻影は言って書を認めてから、琵琶家の朱印を押した。
これも重要な道具で、さらに信頼できる書簡となる。
「…素晴らしい書ですぅー…」と丁稚がほめると、「いやぁー照れるなぁー、ありがとう」と幻影は気さくに言って書簡を包んで丁稚に渡してから別れを告げた。
「お買い上げ、ありがとうございました!」という小僧の明るい声に背中を押されたように、幻影と守山は歩き始めた。
温泉街にたどり着いたが、守山は近くにある別府温泉郷の南部にある府内城を見上げて、「…行きたくねえなぁー…」とつぶやきながらも幻影に片手を上げてから、城に向かって歩き始めた。
この辺りが別府温泉郷の南の端といった感じで、北に三里ほど離れている場所まで温泉場が続いている、この日の国でも珍しいほどの大温泉郷だ。
更に西の由布山を越えれば、この地にも温泉があり、幻影は散策とばかり、この辺りを歩き始めて、―― 活気がない… ―― と考えた。
もちろんこれも殿様の発令のせいだろうと思ったが、湯治客はそれなりにいるので、普段着の幻影が目立つことはない。
そして稀にいる役人たちも眉を下げているように見える。
やはり行楽地にはいざこざも多いので、立ち番をして警戒しているのだ。
すると幻影に突進してきた者がいたので身を翻すと、「ちっ」と小さく舌打ちをして走り去った。
―― 掏りか… ―― と思っていると、役人が走って来て、「被害はないか?!」と声を大にして叫んだ。
「ええ、よけましたので。
掏りでしょうねぇー…」
幻影の言葉に、「素晴らしい身のこなしだ」と役人は大いに感心して言った。
「…忍びの修行を積んだことがございますので…」と幻影が小声で言うと、「…そうであったかぁー…」と役人も小声で答えた。
「…その事実を簡単に語るということは、
悪いことを考えているわけではさそうだが、妙に軽装だな…」
「…いえ、そう見えているだけでございます…」と幻影は言って、胸を軽く叩くと、『カン』という音がした。
「身を守るために必要なものは装備してございます」という言葉に役人は大いに感心して幻影に触れ回った。
「あいや失礼」と役人は罰が悪そうな顔をしてすぐに謝った。
「…ワシたちも、忍びのような身のこなしは必要じゃろうなぁー…」と役人は大いに嘆いた。
「おっ まだいたのか」と守山は陽気に言ってから役人を見た。
幻影の連れが侍なので、役人は大いに察して、「邪魔をした」と言って守山に頭を下げてから、元いた土産物やらしい建物の前に戻った。
「掏り警戒」と幻影が言うと、「ま、どこにでもいる小悪党だ」と言って守山は目だけを素早く動かした。
「ここに何人も掏りがいるなぁ!」と幻影が叫ぶと、この近くにいる者たちが大いに反応した。
しかし、この場を動くこともままならない。
「呪文かっ?!」と守山は叫んで大いに笑った。
「掏りはまず動かない。
そして、掏りじゃない人も掏りと勘違いされるのを嫌がって動けない。
ある意味、今だけ使える呪文のようなものさ」
幻影が言って歩き始めると、守山は、「おまえら、大概にしとかないと腕を落とされるぜ」と脅しの捨て台詞を残して幻影について行った。
「城の中はどうだった?」と幻影が聞くと、「そりゃ、すがられたさ」と守山は間髪入れずに答えて鼻で笑った。
「経済は俺の管轄じゃあねえと突っぱねたけどな。
上様からの依頼が遅れると言えば、
大概のことは赦免されて開放されるさ」
幻影が笑みを浮かべてうなづいていると、「俺は構わないんだが、ここにいていいのか?」と守山が少し心配そうにして聞くと、「掏りが何かの役に立たないかと思ってね」と答えた。
「なかなか親身だな…
…まあ、手先が器用なヤツは多いだろう…
細工職人経験者もいたことがあった。
この日の国では少ないが、
時を刻む機械などを研究している者たちもいる。
装置が複雑で、部品がこまやかだ。
まあ、お前だったら簡単にできるんだろうが、
お前にしかできないのならそれほど意味のないことになる」
「そうだろうなぁー…」と幻影は言って、懐から丸いものを出すと、酉の刻の穏やかで丸く感じる柔らかな鐘が鳴った。
守山は幻影の持っている装置を見て、「…おいおい、マジか…」と言って目を見開いた。
「ここの時を刻む機械も正確なようだ」と言って、携帯型の時を刻む装置を守山に渡した。
「…うう… ありがとう、ございますぅー…」と守山は大いに恐縮して言った。
「ゼンマイというからくりの動力源を日に一度巻く必要があるから。
もちろんそれを忘れても針を直接動かせるから心配はいらない。
今巻いておけば明日の朝起きてもまだ動いているはずだから。」
幻影は言ってその手本を見せた。
「…江戸城にねえものを簡単に作ってんじゃあねえ…」と守山は大いに悪態をついた。
「もしも秀忠が見つけたらどうせ欲しがるだろうからやってくれ。
それだけでもかなりのご利益があるはずだから、
無理は言ってこないだろう」
「…ああ… しばらくはずっと見ているだろうさ…
俺だってそうしたいほどだ…」
守山は言って歩きながら、ずっと機械を見入っている。
「この日の国の問題は、全てを木で作ろうとすることだ。
ここは本来は鍛冶屋たち金物加工系の職人の出番なんだが、
どうしても太刀関連に仕事が偏っているから、
柔らかい金属には目もくれない。
それをふんだんに使っているのがそのからくりだ。
文字盤の外は、戦車の囲いと同じでギヤマンじゃねえから」
「…ああ、木から抽出した樹液の利用だってな…
源次から聞いた」
「さすがに透明にするのは困難だったが、
丁寧に素早くを重視して、何とか量産できるようになったが、
さらなる量産は自然破壊を促すから、
今のところは俺だけの個人生産にしているんだ」
「…ああ、それも聞いた…
いろんな知識を組み合わせて作り上げたってな…
昔からの迷信的な知恵の解明もしたってな。
実は伝えられた方法が違っていて、
本来は間違っていなかったものも多いと聞いた。
改良していくうちにわけがわからなくなったはずだと言って、
源次が笑っていたよ」
「やはり最低でも、紙と筆と墨は量産したいところだけど、
これも自然破壊につながるからね…
それほど手が出せないことが少々辛いね…
それに安く売れないことも心苦しい。
安くすると、出しても出しても売り切れるはずだから。
ほかの商売人の仕事が成り立たない。
その辺りを考えて商品として売り出すという、
大いに面倒なことをしている。
だから自然破壊を起こさないように作り出し、
一部ではもう始まっている卸問屋に買わせることが一番いいのかもしれないね」
「…しかし、問屋に卸すことで、値が上がる…
貧乏人にはまず買えねえことが辛れえなぁー…」
ふたりは話しをしながらも、主に背後に集中して気配を探っている。
どうやら掏り集団が、幻影たちを追っているようなのだ。
幻影は先の角を左に曲がって、誰もいないことを確認してから、守山を抱え上げてから素早く飛び上がり、住居の屋根にそろり降りた。
しばらくすると、「…消えた、消えた…」と小声で話し声が聞こえて、『ぱたぱた』とそこら中で足音がひっきりなしに聞こえた。
「特に目立った奴はいないね。
忍びでもいるかと思ったが、
手先が器用で度胸があるだけのようだから、ただの盗賊だ。
盗賊に情けをかけるわけにはいかねえ」
幻影は順序立てて言い、できれば怒りが沸かないようにと自分自身を納得させた。
「問題は、まだこの下にいるガキだ」と守山が言うと、「家の中にいるとでも思っているようだぞ」と幻影は言って、気配を探りながらも別の家の屋根に次々と移動して、また別の温泉街に出てから路地に降りて、何食わぬ顔をして大通りに出た。
「仕事場に到着だ。
忍び気分を味わえて楽しかった」
守山の言葉に、幻影は愉快そうに笑ってから、ここで別れて手を振った。
そしてまた路地に移動してから、人がいないところで屋根に飛び乗って、一気に上昇して、この町一帯を見下ろした。
掏りたちの捜索活動はまだ行われているが、守山がいる場所とはもうかなり離れた。
幻影は徐々に後退して、杉林の中に入ったとたんに、空を見上げた子供がいた。
―― おっ ちょっと遅かったが鋭い… ―― と思って陽気な気分になっていた。
まさに使えそうな子だと思ったが、掏りであることは大いなる減点だ。
しかし掏りの世界から抜け出す何かいい方法があればいいと幻影は祈りながら子供だけを見ていた。
すると、法源院屋の丁稚のふたりが戻って来て、幻影が見張っている子供と話を始めたのだ。
もちろん知り合いだと察し、さらには農民の子だろうとここまでは理解できた。
幻影は遠見を出して、その子だけを確認した瞬間に、なんと身震いしてから落ち着きを失くして辺りを見回し始めた。
丁稚ふたりは心配そうな顔をして、同じように辺りを見回している。
子供は引きつった笑みを浮かべて、ふたりに手を振ってから、城の方に向かって走って行った。
―― 走り慣れている… ―― と幻影は思い、なんとか助けられないかと、このあとの予定を立てた。
当然のように、丁稚のふたりに事情を聞けばいいだけだ。
法源院屋は、丁稚たちの目と鼻の先にある。
どうやら小さな露天の店員を交代をしたようだと幻影は思って、丁稚の追跡者がいないかと探ると、なんといたのだ。
店の売上金を持っていると判断したのか、今は素早く走って路地の物陰に隠れた。
幻影はすぐさま飛んで、男の背後に立った。
「ガキから銭を掏るのかい?」と幻影が声をかけた瞬間に、男の背筋が伸びた。
「おまえの仲間に子供もいるようだな。
子供であってもお上は許さねえんだぞ。
お前らのせいで、未来ある子供の将来を奪っていい理屈はねえんだ。
お前らもそうだ。
掏りなどやらずに真面目に働け。
働き口なら紹介してやる。
掏りの稼ぎよりもよっぽどうまい飯が食えるはずだ」
幻影の低い声に、男は少しうなだれたように見えた。
しかし時間が経つと冷静さを取り戻す。
よって走り去ろうとしたのだが、全く前に足が出ないことに驚いていた。
「おまえはまだ掏っていないから、窃盗をしたわけじゃあねえ。
だったら俺がずっとお前の背後をつけてやろう。
お前は今日一日何も食えずにすきっ腹を抱えて眠ることになる。
明日も明後日も付きまとってやろう。
そうすれば、お前は掏りどころか歩くことすらできなくなるよな?」
幻影はここまで言って少し待った。
まずは少年のことを先に調べようと考えたのだ。
「まあいい、今度見つけたら証拠をつかんでふんじばってやるから覚悟しておけ。
仲間にも言っておいた方がいいぞ。
次に捕まるのはあんたじぇねえかもしれねえからな」
幻影はここまで言って、男の拘束を解いて、軽く背中を押した。
男は何も言わずに振り向くことなく、殺到に紛れていった。
幻影はさらに辺りを探って、問題がないことを確認してから大通りに出た。
丁稚たちは店に入る手前だった。
幻影はゆっくりと歩きだして、のれんをくぐって店に入った。
「いらっしゃいませ!」と番頭らしき男が笑みを浮かべて幻影を歓迎した。
しかしその前にいた丁稚たちは幻影を見て目を見開いていた。
「おまえたち、掏りに狙われていたんだぞ」と幻影が言うと、丁稚ふたりはさらに目を見開いた。
「掏りは行楽客だけを狙うわけじゃないから、
十分に気をつけな」
幻影の言葉に、丁稚ふたりは泣きさしそうな顔をして、「…ごめんなさい、琵琶様ぁー…」と謝ったとたんに番頭の顔色が変わった。
「ほら、俺だという証拠」と幻影は言って、番頭に割符を渡した。
番頭は震える手で割符をもって、合わせてから表裏を確認して、「…琵琶、高願様ぁー…」とつぶやいてから、床に額をつけていた。
「俺は神様じゃないからやめてくれ…」と幻影は言ってから、掏りの件で丁稚二名に話があるというと、番頭は大急ぎで幻影と丁稚を奥の部屋に通した。
幻影は丁稚ふたりを見て、「さっき話していた男の子だが、知り合いかい?」と幻影が聞くと、「庄屋様のお子様です!」と言った。
幻影は何度もうなづいて、「どんな話をしたんだい?」と聞くと、「…それが話しかけた時に何かを怖がったみたいで…」と眉を下げて答えた。
「この街道でよく会うのかい?」
「いえ、多分、初めて会ったと思います…」
「じゃあ、いつもなら勉学所にでも通っているのかい?」
「あ、はい! お城の勉学所に通っているんです!」とまるで自慢するように言った。
まさにその通りで、農家や商人の子がおいそれと通える場所ではないからだ。
「そうかい、よくわかったよ。
ありがとう。
…ああ、あの子の名前と、君たちの名前を教えてくれないか?」
幻影の言葉に、丁稚ふたりは健作と又造といい、庄屋の子は才英と言った。
もちろん、幻影が書を認めて、その名前を書いたので漢字の判断ができたのだ。
ふたりは書を欲しがったので、それぞれの名前を別に書いて渡した。
「…法源院屋 別府店 丁稚 健作…」と丁稚は読んで、大いに喜んで幻影に礼を言った。
すると、店主が廊下で頭を下げっ放しになっていた。
「それ、やめてくんない、左衛門さん…」と幻影が眉を下げて言うと、「お久しゅうございます!」と頭を下げたまま言った。
幻影は丁稚を見て、「店主とは君たちと同じような年ごろに初めて会ったんだよ」と幻影が言うと、「旦那様はやっぱりすごいです!」と丁稚たちは陽気に言った。
「まあいいから。
それに、少々話があるんだ」
幻影が神妙な声で言うと、左衛門はようやく顔を上げて丁稚たちをやんわりと外に出した。
ここにきて体験したことすべてを左衛門に語ると、「…色々とご迷惑を…」と言って大いに幻影を気遣った。
「そんなことはいいんだ。
それにあの庄屋の子…
才英は大いに見込みがあるのに、
なぜか掏りの仲間にいることが解せないんだ。
きっと、勉学所に行きたくない理由でもあるんじゃないかと思ってね。
簡単に思い浮かぶのは、
当然のようにいじめだ」
「…はい、大いにあると思います…
本来ならば武士の子が勉学に励む場ですから。
しかも現在は、武家以外ではあの子だけのようなのです。
しかも出来がいい子らしいので、
なおさらいじめられているのかもしれないのです。
それに嫌気がさして掏りなどと…」
左衛門は大いに嘆いた。
「事情はほぼわかったから、
直接才英に聞くことにするよ。
それにあの子は、俺たちの仲間に、
琵琶家に迎えてもいいかもしれないんだ。
その見込みのある子を、なんとかして救いたいんだ」
「…はっ どのようなことでも、ご協力いたします…」と左衛門はようやく笑みを浮かべて、穏やかに頭を下げた。
「うちの家族を何人か呼ぶよ。
俺ひとりでもいいんだけど、
何人かいた方がいいのでね。
面倒な姫様もたぶん来るので、
相手をしてやって欲しい」
「…はっ 仰せつかりました」
幻影はすぐさま才英の似顔絵を五枚書いて、左衛門をうならせた。
そして中庭に出て指笛を鳴らすと、大急ぎで鳩が飛んできた。
幻影の指笛を聞いて、鷹が鳩を急かせたのだ。
幻影は書簡を仕込んでから、「近いから急いでくれ」と言ってから手のひらを開いた。
幻影は似顔絵を置いて、店の外に出てから、人のいない場所を見つけて屋根に飛び乗ってから、今度は素早く杉林に飛び込んで、街道を見入った。
この辺りには掏りらしき者はいないと判断して、徐々に城に近づいて行くと、どう考えても狙いを定めている者が二名もいる。
幻影は書を書いて、先に拾っていた小石に書を包んで、先ほど会った警備の侍の足元に投げた。
都合よく気づいて、侍は目を見開いて、指示通りにこっそりと掏りと思しきものの背中を見ていた。
そして動いたと同時に、―― 掏った! ―― と確信して男を捕らえた。
「観念しやがれ!」と侍が叫ぶと、「…やっぱり、捕まっちまったぁー…」と大いに嘆いて泣いた。
「手首はなくなったと思っておけ!」と侍が叫ぶと、道行く人たちは侍を大いに褒め称えて、懐を守るようにして歩き始めた。
―― あの人もいいな… ―― と幻影は陽気に思った。
そして捕り物があったことで、掏りの気配がなくなった。
幻影は城から出てきた才英を発見してあとをつけようと思ったが、どう考えても家に帰るようだ。
すると、猛然たる勢いで、戦艦がやってくる勇壮な姿が港に見えた。
しばらくは問題ないと思い、幻影は港に行ってから、さらに詳しい事情を話した。
「運命を変えてやろう」という信長の重厚な言葉に、幻影は笑みを浮かべて頭を下げた。
ここからは忍び気質のある者だけが仕事となって、街道の警備を始めた。
よってそれ以外は戦車を走らせて法源院屋に行った。
案の定、家族全員がそろっていて、妙栄尼までもいたので、幻影は大いに眉を下げていた。
幻影は庄屋の家を発見して才英の姿も確認できて、庄屋の家の玄関に立って、「ごめんください!」と声をかけた。
するとお手伝いらしき女性が現れて、「いらっしゃいませ!」と言って頭を下げた。
「実はこの家のご子息の才英さんに面会を願いたいのです。
私、琵琶高願と申します」
幻影の言葉に、「琵琶高願様」と確認するように復唱してから、「しばらくお待ちください」と言ってから、才英の部屋らしき障子を開けた。
そして一言二言あって、才英が廊下に出てきたのだが、目を見開いて固まっていた。
「才英君だね。
琵琶高願だ」
幻影が声をかけたが、才英は全く動かない。
手伝いの女性は大いに怪訝に覆っているところに、「琵琶様じゃと!」と叫んで、初老の男性が廊下に飛び出してきた。
―― 用のないものを先に撃退しよう… ―― と幻影は思ってから、「おぼちゃまの才英さんだけに話があるのです」と幻影が言うと、「はっ しばしお待ちを…」と男性は何とか言ってから、才英の背中を押したが拒んだ。
「おい、あの琵琶高原様だぞ!
天狗様なんだぞ!
早くご挨拶をしなさい!」
「それほど急かさないでください。
初めて会った他人の大人に怯えて当然ですから」
幻影が戒めると、「はっ もうしわけございません…」と男は答えて大いにうなだれた。
「才英君、外で話さないか?
少し寒いが、今日はいい天気だ」
幻影が言った時、―― おっ きたきた ―― と幻影は喜んだ。
もちろん才英ではなく、忍びの誰かだ。
才英はゆっくりと歩き始め、何とか玄関まで来て雪駄を履いた。
幻影が歩き出すと才英はうなだれたままついてきた。
塀の側面の塀沿いに陣取って、「城でどんなイヤなことがあったのかを教えて欲しい」と幻影が聞くと、才英は顔を上げて驚きの顔をしていた。
「明るみに出さないことは少々卑怯だが、
極力全てを黙っておこう。
俺の予想だが、
君は勉学所で、
殿様の息子にでも掏りをやってこいなどと言われていたんじゃないのかい?
それをすれば、お前を認めてやる、などと言ってな。
だがな、掏りをすれば、城によって異なるが、
この城の場合、確実に手首を切り落とされる。
さっきひとり掏りが役人に捕まったから、
そう言っていたのをこの耳聞いた」
幻影の言葉に、才英は声を出さずに涙を流した。
「ま、お前の親も悪い。
いじめなどは我慢しろなどと言ったのだろう。
あれは親にあらずだ」
幻影の言葉に、「…はい、そうです…」と才英は初めて口を開いた。
「あらら、そうだったんだね。
だったらさらに明るい道が見えてきた」
幻影の明るい言葉に、「…えっ?」と才英は言って顔を上げた。
「丁稚たちと話していた時、何かに怯えたよね?」
幻影の言葉に、「…高願様が見ておられたと、今はっきりとわかりました…」と才英は言って頭を下げた。
「これだよ」と幻影は言って懐から遠見を出した。
「覗いてみな。
法源院屋の出張所の店番の欠伸姿が見える」
幻影の言葉に、才英はすぐに双眼鏡を覗いて、「あはは! ほんとだ!」と明るい声で言った。
「才英の本当の親は?」
幻影の言葉に、「…ここのお城のお殿様だって、聞いています…」と答えてうなだれた。
「なるほどな…
じゃあ、母ちゃんは?」
才英は首を振って答えなかった。
知らない、わからないという感情だと幻影は察した。
「母ちゃんは武家の出じゃないようだね。
殿様が誰かに不埒な真似をして産ませたんだろう。
だが我が子だし、しかも成長して優秀だと知って、
城の勉学所に通わせたが、イジメにあっていた。
ま、そんな勉学所よりも、
勉強なら俺が教えてやる。
その方が大いに勉強にも身が入るぜ。
そしてお前が俺を気に入ったのなら、
今から琵琶を名乗れ。
お前は今から琵琶才英だ」
すると忍びの気配が消えた。
この先の幻影の行動は簡単に理解できていたからだ。
「じゃ、俺は天狗だからな。
この家の元親に挨拶をしてから出家しよう」
幻影が才英の頭をなでると、才英は涙を流しながら笑みを浮かべた。
才英は清々しい顔をして、養父だった庄屋に出家する意思を伝えて、幻影に笑みを向けた。
もちろん庄屋は大いに戸惑っていたが、幻影が怖いのか言葉を発することはなかった。
幻影は才英を抱き上げてから空を飛んで、城の天守に向かった。
「早いな、もう着いてる」と幻影は言って、城の中庭にある戦車を見入った。
そしてさらに上昇して、「…お上が知ればどうなるのだろうのぉー…」と、信長がもう城主である殿様を脅していた。
「御屋形様」と幻影が外から声をかけると、「おっ 来た来た。琵琶才英」と信長が言うと、殿様たちは大いに目を見開いた。
「これからは平和な時代で、
優秀な子が大勢必要だ。
才英はこの高願の眼鏡にかなった。
よって、庄屋の子を養子に取った。
それでいいよな、竹中重義様ぁー…」
信長の言葉に、重義は大いに震えあがった。
できればこの城下の発展に琵琶家を利用したかったのだが、逆に弱みを見つけられてしまった。
さらに怖いのは外に浮かんでいる天狗だ。
しかも殿中であってもおかまなしに、長い太刀を抱えている阿修羅までもいる。
重義はあまりのことに、この場で失禁して、白目をむいていた。
「…あーあ、この絵を描いて城下で配るか…」と幻影が言うと、「それはいじめじゃて」と信長は機嫌よく言ってから立ち上がった。
信長は才英を見て、「これからはワシらがお前を守る。だが、お前はまだまだ弱い。いじめられたくらいで悪事に手を染めようとするな」と叱ると才英は、「ごめんなさい…」と謝って頭を下げた。
「わかればいい」と信長は言って、才英の頭をなでた。
「さあ! 帰るぞ!」と信長は機嫌よく言って、部屋を出て階段を降りて行った。
幻影はまた才英を抱え上げて宙に浮かんで外に出て、戦車のそばに降りてから、信長を待った。
「この戦車でいろんなところに行ったが、
この火の国は初めてだ」
「…いろんなところ…
江戸にも行ったのですか?」
「ああ、行ったし住んでいた。
その北の会津や陸奥の北の地にもな。
この先も様々な場所で、
才英のような子を見つけ出すことが俺たちの使命でもあるんだ。
今までは才英にとって平和ではない暮らしだったが、
戦いが頻繁に行われていた二三年前よりは平和と言える。
さらに平和を手に入れるには、賢い人物が大勢必要だ。
それが戦場で戦う代わりのようなものなんだ。
才英も大いに勉強してもらって、
この先の日の国を平和にしていってもらいたいんだ。
もっとも、俺たちの家族の女性たちは、大いに甘いんだけどな」
幻影の言葉に、才英は笑みを浮かべていた。
「もう、怖くないだろ?
それはどうしてだろうか?」
幻影の言葉に、才英はそれに気づいて目を見開いたが、「…きっと、僕が悪い子だったから…」と答えた。
「たぶんそうなんだろうな。
今は悪い子じゃなさそうだ」
幻影は機嫌よく言って、才英の頭をなでた。
信長たちがやって来て、幻影は家族たちを先に戦車に乗せてから、才英とともに乗り込んだ。
「どう考えても才英の賢さは、
母親譲りだと思います。
それなり以上の才があるとすれば、
何かに秀でているような気がします。
忍び、など…」
幻影の言葉に、「今のところは思い当たらんが、ここに才英がいなくなったと知れば、必ず松山に来るだろう」と信長はかなり機嫌よく言った。
「温泉街だからなぁー…
さあて、才英の母親に会える日が楽しみだ」
幻影の言葉に、蘭丸が大いに苦笑いを浮かべていたが何も言わなかった。
「お姉さんはお殿様よりも偉いのですか?」と才英が蘭丸に興味を持って聞くと、「止められなかったからね」と蘭丸は言って、担いでいた幻武丸の鞘を右手で持って、床に立てた。
「…僕の身長よりも随分と長い…」と才英は幻武丸をなめるように見入って笑みを浮かべた。
「怖がらないのね」と蘭丸が聞くと、「はい、味方ですから」と才英が言うと、信長は笑みを浮かべて何度もうなづいている。
「動物の熊と一緒に生活しているから。
仲良くしてやってくれ」
幻影の言葉に、「熊、飼ってもいいの?」と才英は言ってから、笑みを浮かべた。
「法には触れておらんからな。
城主が何も言ってこんから、別にいいのだろう」
信長の言葉に、「また楽しみが増えました」と才英が答えると、「すぐに会えるさ」と幻影が言うと、才英は満面の笑みを浮かべた。
その熊の巖剛とは、法源院屋の大きな庭で顔合わせを行い、才英はほとんど怯えることなく、巖剛と触れ合った。
「…僕も強くなんなきゃ…」と才英は決意の目をしてつぶやいて、前だけを見た。
「だけど、ほとんど人さらいだよね?」と健五郎が言うと、「ま、それに大いに等しいな」と信長は言って少し笑った。
「さらっていただいてありがとうございます!」と才英が笑みを浮かべて言って、信長に頭を下げた。
「…感謝があるから、悪いこととは言えない…」と健五郎は言って笑みを浮かべて、才英を遊びに誘った。
「健五郎もかなり賢く、
まさに才英とそれほど変わらず同じような境遇だった。
今のうちにしっかりと親交を深めておいた方がいい」
幻影は言って、才英の背中を押した。
健五郎と才英は笑みを向けあって外に出て行った。
「…若い才溢れる大きな力がふたりも…」と信長は大いに感動してつぶやいてから笑みを浮かべた。
最近はめっきりと陽が落ちるのが早くなってきた。
まだ時間は早いのだが、冬が近づき、辺りは夕焼けで黄昏色に染まっていた。