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赤い幻影 akaigenei ~安住の地編~      赤大地 akadaithi


   赤い幻影 akaigenei ~安住の地編~



     赤大地 akadaithi



幻影が江戸の法源寺屋に到着してすぐに、中庭に鳩が下りて来て、大いに戸惑っていたので、幻影は少し笑った。


「あら? どこの子かしら?」と長春は言って鳩に向けて三度手を叩くと、鳩は背筋を伸ばすようにして長春に寄り添った。


「お疲れ様」と長春は子供当時よりもやさしさをもって鳩に言って、書簡を手に取ってから、食事と水を与えた。


「真田の旗印です」と長春は笑みを浮かべて言って、幻影に書簡を渡した。


幻影は少し緊張して、「お姫様の処遇かなぁー…」と言って戸惑いながらも書簡を見て、「真田家から情報の横流しを懇願されました」と信長に報告した。


信長は何度もうなづいて、「よきに計らえ」と言って少し笑った。


「今回はその要請だけですので、また真田からの伝令鳩も飛んできます。

 返答はこの子を返す時に、こちらの鳩を一羽飛ばします。

 返答は、早くても明日の夕刻でしょう」


「理解して喜んだわ」と長春は言って笑みを浮かべて、指先で鳩をなでた。


「明日か明後日からは、さすがに上田に出向くわけにもいかんからな。

 その頃には兵で埋め尽くされるだろうから」


信長は軍事地図を眺めながら言った。


今の信長は頭の切れる軍事参謀でしかなかった。


「この戦いの結果で天下が決まるはず。

 あとは懐柔するか、強硬策に出るか…」


信長は摂津近辺の地図を見ながら言った。


「家康は待つでしょう。

 そして、後継にすべてを託すものと。

 全ては、この戦いの結果次第ですが、

 我らがちょっかいを出すだけで、戦場はどのようにでも変わるでしょう」


「…そう… だから詰まらんから手を出さん…」と信長が大いに眉を下げて言うと、「…くっそぉー…」と蘭丸は大いに悔しがってからうなだれた。


「西側は統率が取れていないように感じます。

 豊臣秀頼ではダメなのでしょうね。

 墓を掘り返してでも、秀吉を連れて来るべきでしょう」


幻影の厳しい言葉に、「…一番の妙案じゃ…」と信長は眉を下げていたが、すぐに笑みを浮かべて大いに笑った。


戦いの大きさによって、総大将は重要だ。


もしここで幻影と信長が名乗りを上げて軍の最後尾に付くだけで、戦況は一気に逆転したことだろう。


しかし幻影たちの興味はそこにはなかった。


「…武蔵と三厳を出会わせるか避けるかが難しいところですねぇー…

 まあ、三厳は命令を無視して、戦場に飛び出すんでしょうけど…」


幻影が眉を下げて言うと、「そこは手伝ってやればいいさ」と信長が穏やかに言うと、「御意」と幻影は言って頭を下げて、安堵の笑みを浮かべた。


「…おっ おっ 多少は戦えるのかぁー…」と蘭丸は大いに戸惑いながら言った。


「戦場の端の方で、阿修羅騒ぎでも起こせばいいんだよ。

 もっとも、三厳と武蔵の現在の真の強さが重要になってくるけどな。

 さらには戦いの場所に、音のないのろしでも上げましょう。

 これも、力を見抜く手でもあります」


信長は何度もうなづいて、「…昼の花火か…」と言って少し笑った。


「琵琶家の家紋が有名になりましたので、使えるようになってうれしいですね」


「…ああ、うれしいことじゃ…」と信長は言って袱紗のついたきらびやかな風呂敷を机に広げて、その家紋に向かって笑みを浮かべた。


今の信長の顔はまるで子供のようだった。


―― 生きる希望は消えてない… ―― と幻影は思って信長に向けて笑みを浮かべた。


「…お留守番してるわ…

 さすがに、旅行には出られないし…」


濃姫の言葉に、「…この状況では誰だって家に籠ってるさ…」と信長は大いに眉を下げて言った。


主戦場となる関が原近隣には隠れ里が三カ所あるので、身を隠すことには何も問題はない。


もしも真田が城を出られるのであれば、大いに活用したはずだ。


だが今回は真田の出番はなく、足止め役でしかないが、この上田城はかなり重要な位置にある。


この戦いで、戦場に来る来ないで、戦況も左右するのだが、今後の大名の在り方が大問題となってくるからだ。


武功を上げれば上げるほど、お家は安泰となるからだ。



かくして雌雄を決する関ケ原の戦いが始まったのだが、始めは穏やかで、軍事訓練のようでかなり大人しい。


そんな中、騒ぎを起こすことなく三厳が自陣を飛び出し、大回りをして、雲のひとつしか見えない宙に浮かんでいる異形菱である琵琶家の家紋めがけて走っていた。


もちろん予告などは全くしていない。


三厳はしっかりと戦場を見ていただけなのだ。


その頃武蔵も琵琶家の家紋が空に浮かんでいることに気付いた。


それは全く目立つことなく、青い空に投影されているようで、意識していないと誰も気づかない程度のものだ。


―― お師様が呼んでいる! ―― と武蔵は心軽く思って、二刀の柄をしっかりと握ってから、こちらも大回りして戦場の外を駆け抜けた。


「…双方とも来おったぁー…」と信長は大いに感動して言うと、「…日ノ本一の武芸者の決定戦です…」と幻影がつぶやくと、「…それはお前だろうがぁー…」と蘭丸が大いにうなった。


「俺は商人で工員だぞ?」という言葉に、家族たちが愉快そうに小声で笑った。



幻影たちは深い森でしかない場所の一カ所だけを平坦に整地して、身に枝や草などを纏って偽装して潜んでいる。


先に到着したのは武蔵で、すぐさま辺りを見回してから、これから戦場となる整地されたこの場を見回して笑みを浮かべていた。


少し遅れて三厳がやってきて、満面の笑みを浮かべた。


「宮本武蔵!」と三厳は叫んで、太刀を抜いて中段に構えた。


武蔵はかなり戸惑って、「柳生に会いに来たんじゃないんだけどなぁー…」と言って眉を下げた。


「お師様はこの場を与えてくださったのだ!」と三厳がさも当然のように言うと、「…やはり、いらっしゃるのか…」と武蔵は言って辺りを見回したのだが、その気配もない。


戦場の近くでもあるのに、異様に静かなのだ。


「言っとくが、二刀の達人と戦ったぞ!」


三厳の言葉に、武蔵は大いに目を見開いた。


「…それは、聞き捨てならん…」と武蔵は答えて、二刀を抜いて身構えて、「くっ!」と武蔵がうなった。


三厳の太刀も、幻影が打ったものと理解したからだ。


「悪いが、色々と指導いただいたから、ここは勝たせてもらう!」と三厳が堂々と言うと、「…行けばよかったかぁー…」と武蔵は大いに嘆いた。


幻影たち家族は茂みに隠れたまま、腹を抱えて声を出さずに笑っていた。


「どうでもいいからさっさとやれ!」と蘭丸が我慢できずに叫ぶと、三厳と武蔵は大いに緊張した。


「…高野山の大天狗…

 …かもしれないな…」


三厳は言って、右にゆっくりと回り込んだ。


武蔵は楓と同じで仁王立ちで三厳を見据えている。


「近づけば太刀を振り上げ、

 都合が悪くなれば振り回す」


三厳の言葉に、―― 読まれている! ―― と武蔵は思って大いに戸惑った。


その瞬間に三厳は一気に詰め寄り、奇声を上げる代わりに大いに気合を入れて、太刀を真横に振った。


遅れを取った武蔵はすぐに後退して間合いを広げた。


すると三厳がまた突っ込んできたので、下段に構えていた二刀を順に振り上げた。


―― 斬ったっ!! ―― と武蔵は思ったのだが、手ごたえが皆無で、しかも三厳は右の方に見切れている。


武蔵はさらに下がったのだが、三厳はまた瞬時に武蔵に詰め寄った。


武蔵はたまらず身を翻して、乱暴に二刀を振り回した。


三厳は前後に激しく移動して、武蔵を大いに挑発した。


『そうだ! そこだ!』という幻影の言葉が三厳の頭に響いたように感じ、三厳は太刀を持ち替えて、峰の先で武蔵の左手の太刀の柄の尻めがけて太刀を振った。


武蔵の左手の剣は宙を舞い、地面に突き刺さった。


「…わが命を、手放してしまった…」と武蔵は言って、その場に座り込んでうなだれた。


三厳は荒い息を整えるように深呼吸をして、太刀を鞘に戻した。


「…またどこかで会おう…」と三厳はこれだけ言って、戦場に戻って行った。


武蔵はうなだれてはいたが、手放した剣に頭を下げてから抜いて、刃を確認してから、「…お師様、ごめんなさい…」と謝ってから戦場に戻って行った。



ここからが大変で、興奮の絶頂になっていた蘭丸が長太刀を振り回して暴れ始めたのだ。


さすがに剣風に巻き込まれるとたまったものではないので、ここは気合が抜けるまで待っていたのだが、なんと偵察にやってきていた小早川の斥候が、「三つ葉葵の阿修羅が出た!」と叫んで、来た道を引き返して行った。


「…あーあ、戦況、動くだろうなぁー…」と幻影が大いに嘆くと、「…三つ葉葵?」と信長が怪訝そうに言った。


ようやく落ち着いた蘭丸が戻ってきたのだが、擬態を施したその胸と腹が、まるで大きな三つ葉葵に見えたのだ。


「…東軍を勝たせたのは、お蘭…」と幻影は少し嘆いてから大声で笑った。


「…そのままで戦場を駆け抜けたら、西軍は引いていくだろうな…」


幻影の言葉に、蘭丸はよくわからなかったようだが、擬態を解きながら、「…あー…」と言ってようやく理解して、「…まあよい…」とつぶやいてそっぽを向いたので、幻影たち家族は大いに笑った。



当然のように、徳川家康率いる東軍が簡単に勝利をおさめ、全ての戦いが終結した。


真田軍は大いに奮起して堪えたのだが、敗軍の将のひとりとなってしまった。


そして昌幸と信繁は、また久度村に蟄居の沙汰を食らってしまった。


今回は家康の腹心の本多忠勝が真田親子の首をはねることだけはせぬようにと懇願していた。


まさにこの親子は、戦場になくてはならない武将でしかないのだ。


「…誰もが温厚になったって思うんだろうけどね…」と幻影が大いに嘆いて言うと、「…時を止めるだけのことじゃ…」と信長は幻影の気持ちを察してつぶやいた。



ここからは時を早回しするように、徳川は天下統一を果たすべく尽力して、大坂近隣以外は平定を遂げた。


関ヶ原の戦いの五年後、江戸にいれば平和でしかないと誰もが思い始めた。


「では、引っ越しますか」と三十五になった幻影が言って立ち上がると、「…ここがいいぃー…」ともう老婆に近い年齢のはずだが、若々しい濃姫が大いに拒んだ。


「私は引っ越しますから」と幻影が心を決めた言葉に、「…ここ以上にいい場所ってないじゃなぁーい…」と濃姫は大いに渋った。


「色々と計らいをもらって、小さな町を手に入れたので、

 そこで細々と商売でもと思ったのです。

 ですが土地を拝領していただいただけで、大名などではありませんよ」


幻影の言葉に、「じゃあ、ゆくか」と、こちらも若々しい信長は言って立ち上がった。


「…商売しなくていい、御殿のような家がいいなぁー…」と濃姫は贅沢な言葉を吐いて立ち上がって、蘭丸とともに引っ越し支度を始めた。



この引っ越しは壮絶な列となっていた。


まるで幻影たちは大名行列のように、大勢での移動を始めたのだ。


幻影の呼びかけに、約千人もの人々が集まって、持てるだけのものをもって、大八車に乗り込んで、まるで旅行気分で、街道の景色を楽しんだ。


「…とんでもない引っ越しだわ…」と濃姫は言ったが、この先の展開を大いに察して、涙を流し始めた。


引っ越し先が西だったからだ。


「兄者! 護衛いたす!」と勇ましく言って、着飾っている伊達政宗が馬に乗って近づいてきた。


もちろん政江もいて、「お兄様、ご機嫌麗しく」と淑やかに言いながらも、荒っぽく馬を操っている。


「…嫌がってるじゃないか…」と幻影が眉を下げて言うと、「気が強いこの子はこの程度でよいのです」と気が強い政江はなんでもなことのように答えた。


「ところで、お前が北条を継ぐってどういうことだ?」と幻影が怪訝そうに言うと、「後継を見極めてすぐに引きますから」と政江は穏やかに言って、列の先頭に立った。


「…勇ましい…」と幻影は言って大いに嘆くと、「では、私も」と政宗は言って大勢のお付きとともに、列の先頭に立った。


もちろん、『法源院屋』ののぼりが立っていて、大店の引っ越しだと誰もが察していた。


大八車には、民だけではなく、様々な商売道具や作物や乾物などが積まれている。


東海道の整備は幻影たちで済ませていたので、まさに大八車が走りやすい道となっている。


様々な城のそばを通るのだが、当然のように戦車に近づいて幻影に挨拶に来る。


そして幻影は嫌がることなく商売にも余念がない。



わずか五日後、幻影たちは真新しい町に戻ってきた。


信長は大いに感動して何度もうなづいている。


濃姫も感動のあまり涙を流して、「…におの湖で舟遊びぃー…」とつぶやくと、長春は子供返りして大いに喜んだ。


結局、長春には見初めた伴侶は現れず、今は行かず後家と化しているが、その美しさは信長の自慢でもあった。


そして一行は安土城跡の石垣に到着して、「なんと!」と信長が真っ先に叫んで、走ってる戦車から飛び降りて、一風変わった屋敷に飛び込んだ。


「…天守の家だぁー…」と濃姫はつぶやいて、蘭丸に抱き上げられて、屋敷に駆け込んだ。


そして城下町のような商店や住居もあり、早速民たちは引っ越し作業を始めた。


生活必需品は幻影が全て用意しているので、何の心配もない。


今からすぐに、江戸での生活以上の日々を過ごすことが可能だ。


もちろん、天守のような家も、徳川家から許可を得て建てたものなので、そのおふれ書きも屋敷の近くに立ててあるので、知らない者でも一目瞭然だ。


管轄領主は彦根城の城主で、もちろん家康の息がかかった松平の者がもうすでに着任していて、この壮絶な引っ越しを見守っていた。


もちろん監視の意味もあるのだが、疑うことは何もなく、早速幻影と気さくに挨拶を交わした。



幻影は引っ越し作業を終えてすぐに、当時の安土城と同じ間取りの部屋に入って、当時のように頭を下げたまま座って、信長の正面に座って深く頭を下げた。


「…時間まで戻ったのぉー…」と信長は機嫌よく言った。


「はい、お喜びいただいて何よりです」


顔を上げた幻影は満面の笑みだった。


「一番の配下だけがここにおる。

 まさに、幸せこの上ないのぉー…」


「…お舟、乗るの?」と信長の左隣に座っている長春が当時の竹千代のままの言葉で言った。


信長は大いに笑って、「しばし休ませろ」と穏やかに言うと、「…はいぃー、御屋形様ぁー…」と長春は言ってうなだれた。


「長春様の婿探しが大変です…」と幻影は眉を下げて言った。


「養子をとるから、

 何も急ぐことでもない」


信長の言葉に、幻影はすぐさま頭を下げた。


幻影は長春を見て、「…改良した小舟でいいのなら、すぐにでも西の湖に出すぞ…」と眉を下げて言うと、「御屋形様、いい?」と長春がすぐさま聞いできたので、「よきにはからえ」と信長は答えて少し笑った。


「源次だけ付き合え。

 お蘭と弁慶は留守番を頼む」


幻影の言葉に、「…むう… わがまま姫めぇー…」と蘭丸は長春をにらんで言ったが、完全に無視して立ち上がって、幻影の手を引っ張って廊下に出た。


「…欲してるのは、やはり幻影か…」と信長が言うと、「…わかりやすうございます…」と蘭丸が答えて頭を下げた。


「お師様に全くその気がないことだけは言えます。

 そして、蘭丸様に対しても同じです」


弁慶の重厚な言葉に、蘭丸は反抗することなくうなだれた。


「…いい男、いないもんなぁー…

 嫉妬させることもできない…

 お芝居をしたら、そのまま輿入れになっちゃう…」


蘭丸が大いに嘆くと、「その通りになるな…」と信長は同意してから大いに笑った。


「我らは人よりも長く生きられる。

 それほど急ぐことはないと思う。

 ワシが死ぬる原因は、平和過ぎて呆けることじゃろうて」


信長は言って鼻で笑った。


「出番はもうありませんが、

 最後の最後に見ておく必要があることがございます」


弁慶の言葉に、「…ああ、心得ておる…」と信長は答えて、素晴らしい琵琶湖の景色を堪能した。


現在の屋敷は一階部分の天井が高く、二階は安土城の謁見室と同じ造りになっているので、ここにあった安土城の十分の一ほどの大きさしかないものだ。


しかし景色は、通常の三階から眺めるものと同等なので、見晴らしはかなりいい。


そして眼下に、足漕ぎ式の大八車が見た。


その後ろの台車に小舟を乗せて移動している。


「普通の者では漕げんところがいい点でも悪い点でもあるな」


「兄者はあえて漕げないように造ったそうです」と弁慶が即座に答えると、「…生き急ぎすぎ、だからな…」と信長は言って、岸に到着した幻影たちを見入っていた。


すると幻影の回りに町民たちが集まって来て、何やら話を始めたが、まずは長春の願いを叶えるために、幻影と長春だけが小舟に乗り込んだ。


もちろん源次は大八車の見張り番兼辺りの警戒をするために行ったのだ。


源次も幻影と同じように、水面を走り抜ける程度は簡単にやってのけるので、緊急時の対応は十分にできる。


しかし今のところは、彦根城や長浜城などに守られているようなものだ。



すると玄関に誰かが来たようで、一階に詰めている光秀が対応した。


光秀は民に来訪の理由を聞いてすぐに天守に上がって来て、「新しい商売の提案があるそうです」と信長に報告した。


「渡し舟程度は元からあったではないか」


「できれば、さらに早いものがよいそうで」


「急ぐ理由は?」


「高級な遊びにあこがれているようで」


信長は腕組みをして大いに考え込んだ。


「…どこかの城の事業にさせるか…」と信長は言って、鳩を飛ばして斥候役を呼び出した。


そして彦根城宛に書簡を書いて渡してから、その内容とその理由も述べた。


斥候役は今までに書の内容など聞いたことがなかったので、大いに感動して、勢い勇んで城を目指してすっ飛んで行った。


「…ワシの提案を蹴ったら全責任は城主…」と信長がにやりと笑って言うと、光秀たちは大いに笑った。


もちろん口止めはしていないので、斥候が正確な話をしても構わないことになる。


「それから光秀」と信長が眉を下げて言うと、「民の意見をお伝えすることは大番頭の職務でございますれば」と光秀はすぐさま答えた。


「…あー… まあ、このようなことは今までと変えずともよいか…」と信長は言ってうなだれた。


すると城から早馬を飛ばして役人が三名ほどやって来て、戻ってきた小舟を見入っている。


そして幻影に何か聞いているようで、民たちも興味津々でそばにいる。


時折、笑い声も聞こえてくるので、信長は大いに気になっている。


「人力車の機能説明をしている最中でございます。

 ちょっとしたお勉強の時間です。

 さらには陸走の方にも興味が沸いたそうですが、

 まずは街道の整備と改修が先と説明したようです」


何食わぬ顔をして弁慶が説明した。


「それはそうだ…

 さらに言えば、大きな事故にもつながることだし、

 厳しい山道を登ることは困難だろう…

 平地限定、開けた街道でのみで使用する制限が重要じゃな」


信長の言葉に、「御意」と弁慶は答えた。


「さらに、武士やそれに従ずるものが操縦していて民などを巻き込んだ場合、

 今までであれば泣き寝入りでした」


「うむ!

 法整備も重要じゃ!

 造るのであれば商人に従え!」


信長は陽気に叫んで大いに笑った。


「…ま、時代がさらに落ち着いてからじゃ…」という信長の言葉に、誰もが同意して頭を下げた。



幻影たちは戻って来て、信長にひと通りの説明をしてから、まずは作業小屋建設を始めた。


今回は地下ではない分だけ楽だが、またここでものづくりができることを幻影は大いに喜んだ。


幻影の指示で、弁慶と源次がいなくなると、蘭丸は大いに眉を下げて信長のそばに座っている。


「自由にすればよい。

 ワシたちはもう商人でしかないんじゃ。

 今までのような警備は不要だ」


信長の言葉に、「いえ! 幻影はそのお言葉には反対いたします!」と蘭丸が叫んで意見を述べると、「…幻影お兄ちゃんはそう言うぅー…」と長春も賛成したので、信長は大いに眉を下げた。


「一階にいる楓か悟道と交代すればよい…」と信長が眉を下げて言うと、「承知!」と蘭丸は叫んで、幻武丸をつかんで部屋を出て行った。


「…使用人、増やすか…」と信長が言うと、「いい人たくさんいたよ?」と長春がすぐさま答えると、「…もう解決したか…」と信長は苦笑いを浮かべて言って、長春の頭をなでた。


悟道と楓の両名が謁見室に上がってきたので、信長は幻影に意見を聞いてから使用人の募集をするようにと告げた。


悟道は飛ぶようにして外に出て、幻影の作業を手伝いながら話をした。


そして見込みのある武士を一名と、万請負の者四名の募集をかけることにした。


悟道はすぐに信長に報告してから、お触書を作って、屋敷の外に立てた。


この情報は一瞬にして琵琶湖湖畔中に伝わって、翌日はこの街道は大入りになって、商売も大いに繁盛した。


近隣の村などからもやって来て、この街道の商品はかなり安いことにようやく気付き、そのうわさもかなり広がった。


ほとんどの仕入れ先は法源院屋なので、良い品を法に関係なく安くすることが可能なのだ。


「いや、盛況盛況」と信長のご機嫌もかなりよろしくなった。



そんな中、幻影はひとりの武芸者を発見した。


その武芸者は、大いにバツが悪そうな顔をしてやってきて、すぐさま幻影に頭を下げた。


「先の戦いでは功労を上げられなかったようだね」と幻影が気さくに言うと、「まだ死にとうありませんので」と武蔵は大いに苦笑いを浮かべて答えた。


「町見物?」


「はっ 必ずや強い奴もいると思いまして」と武蔵は胸を張って言った。


「じゃ、その審査係で雇うから。

 もちろん一時的なものだよ。

 俺たちの家に泊ってもらうから、旅の資金に苦労しなくても済むし」


武蔵は幻影の申し出を快く受諾したが、「…おい、小童、俺と勝負しねえか?」と早速蘭丸が言って、長太刀を天に掲げた。


「葵のご紋の阿修羅様に及ぶわけもなく」と武蔵がなんでもないことのように言って頭を下げると、幻影は大いに笑い、蘭丸は大いに渋い顔をした。


「…こいつが仕事を始めるとな、俺の相手をしてくれねえんだよ…」と蘭丸が眉を下げて言うと、「戦ってやるからちょっと待ってろ…」と幻影は大いに眉を下げて言った。


この大一番を見逃す手はないと思い、武蔵は大股で幻影に近づくと、「お師様!」という聞き覚えのある声がした。


「むっ! 負けた方の武蔵!」と、やってきた三厳が叫ぶと、幻影はまた大いに笑った。


もちろん、関ヶ原の合戦に負けたという意味で、三厳との一騎打ちに負けたという意味ではない。


「…俺の人生、負けっ放しだ…」と武蔵は大いに苦笑いを浮かべて言った。


「いや、無敗の武芸者と聞いたぞ?」


「…そんなことを言いふらして旅をするわけがない…」と武蔵は常識的現実を言って眉を下げた。


「しかし! 俺はお師様に雇われた!」という武蔵の言葉に、「お師様! どういうことですか?!」と三厳は大いに憤慨して幻影に詰め寄った。


「三厳! 騒がしい!」という信長の叱咤に、この辺りにいる者すべてが首をすくめた。


しかし幻影だけは大いに拍手をしていたのだが、腕自慢だった武士たちは逃げるようにしていなくなっていた。


「信影様、申し訳ございません」と三厳はすぐさま信長に謝った。


「ま、活気があっていいけどな」と信長は言って、庭にある木製の豪華な椅子に座った。


「退屈しないで済むが、

 武士の姿がなくなった」


信長の言葉に、「第一次試験終了ですね」と幻影が言うと、信長は機嫌よく何度もうなづいた。



蘭丸の三番勝負が終わって一喜一憂していると、大八車に資材を積んだ弁慶と源次が戻ってきた。


「お祭りですか?」と弁慶が幻影に聞くと、その事情を話した。


「これほど人が集まるのならお祭りをしてもいいですね」と弁慶は言って積み荷を軽く叩いた。


「花火の原材料でも出たようだね?」と極が聞くと、「ええ、たんまりと」と弁慶は機嫌よく言って、作業小屋に向かって大八車を押して行った。


「弁慶! 今度はお前だ!」と蘭丸は叫んだが、火薬を作り出すために乾燥させなければならないので、蘭丸の修行には付き合っていられないので、幻影が止めた。


「…祭り… 花火見物…」と蘭丸はつぶやいてから、ホホを赤らめた。


「…何を想像したんだよ…」と幻影は大いに苦情があるようで眉をひそめた。


「…たくさん逢引している人がいたのぉー…」と幻影の知らなかった事実を語った。


その時の幻影は、花火を打ち上げるのに必死だったので、この事実は知らなかった。


「…それを覗き見ていてうらやましくなったわけだ…」


幻影が蘭丸を横目で見て言うと、「ちくしょぉ―――!!」と、蘭丸は悔しがって力任せに叫んだ。



幻影は蘭丸は放っておいて、石垣からかなり離れた場所に別の石垣を組んで、出来上がった花火工房に足を運んだ。


火薬の材料の鉱石の状態を確認してから、少量を手のひらで乾燥させて調合して、三尺玉の中に埋め込む小さな爆裂玉だけを作って、打ち上げ筒を用意して、石垣の外出て、湖岸に近い仕打ち場に移動して筒に火種を放り込んだ。


『シュパッ …ヒュー… パンッ!』と花火は低空で軽快な音を出して爆発した。


「これで十分だ」と幻影はご満悦の表情をしてうなづいた。


幻影は予定として、この琵琶湖で打ち上げ花火の催し物をすることにして、『琵琶湖大花火大会』という催し名をつけて、その一部始終の企画書を作って、信長に提出した。


信長は素早く読み取って笑みを浮かべて立ち上がり、城の役人を見つけて、「まだ予定だけどな」と言って冊子を手渡した。


役人は素早く見入って、「…一銭もかけずにこれをやるというのか…」と大いに目を見開いて嘆いた。


企画書によると打ち上げ花火は金銭的に異様に高く、城の屋台骨を揺るがしかねない。


合戦に三度ほど行くほどの資金が必要になるのだ。


その打ち上げ花火を、誰もが堪能するほどに上げるというのだから、お大名遊びを大いに超えている催し物でしかない。


もちろんすべては法源院屋が負担するので、城からは警備程度の人足を出せばいいだけだ。


しかも、琵琶湖の湖面から打ち上げるので、琵琶湖湖畔や連なる山々などから、多くの人々が花火見物ができる。


よって集客が多ければ多いほど、琵琶湖近郊の経済は大いに潤うのだ。


「ワシたちの仕事で大金をかけたものはひとつもない。

 材料はその辺りに落ちているものか埋まっている物だからな。

 それを積み上げて、巨額の財を得たんだ。

 だからこうやって、町を作ることもできたわけだ」


信長のありがたい言葉に、「…琵琶一族おそるべし…」と役人が大いに嘆いて急ぎ足で城に戻って行った。



さらに売り上げを上げるため、駄菓子などを大量に作り出す準備も始めた。


そして祭りのご神体は、この安土に鎮座している八幡神社に決めた。


よって八幡神社も修復作業や整地などをして、建立されたばかりのような素晴らしい境内となった。


陸奥で何度か行った祭りの実績と、幻影たちが日の国全土で見てきた祭りを大いに精査して、この琵琶湖ならではの祭りの企画を立てた。


すると城から松平某と名乗る殿様がやって来て、「軍事会議?!」といきなり叫ぶと、「…物騒なことを言うな…」と信長がすぐさま戒めた。


殿様もこの企画に加わったのだが、「…すでに陸奥で催して試しが終わっていることだから否定できないぃー…」と大いに嘆いた。


よって城主は、花火大会を北の地で行われていた事実を知っていることになる。


非常識とは言わないが、全てにおいてカネがかかることがかなり多い。


神輿ひとつを作るにも、家を一軒建てるほどに必要となる。


しかし、その神輿がもう完成していたので、殿様は目を見開いて見入っている。


さらに、駄菓子類も続々と出来上がって、殿様は子供返りして食っているだけになった。


「もちろん、許可するよな?」と信長が脅すように言うと、「奥と息子娘のために…」と大いに控えめに言ったのだが、大量の包みを殿様に渡した。


ちょっとした袖の下だが、カネを渡すよりも後ろめたさは沸かない。


この近隣で甘い菓子類だと、京に出ないと売っていないし、目を剥くほどに高い。


駄菓子といえども高級品でもあるので、一般庶民がおいそれと買える代物でもない。


さらには竹や木製の玩具類も献上すると、「一旦帰る!」と言って、馬に飛び乗って走って行った。


「ま、いろんなところに報告する義務があるだろうからな」と信長があきれ返って言うと、「江戸では祭りをしませんでしたから、何か言ってきそうです」と幻影は眉を下げて言った。


「祭りは田舎活性化の道具でいいんだ」と信長は力強く言った。


大勢の者たちに手伝ってもらった駄賃に、駄菓子や玩具、それとは別に賃金を支払って帰ってもらった。


そして残った者が正式に雇われた者たちだった。


比較的近郊に住んでいる者たちばかりで、安土に越してくることを前提に、信長の代わりに幻影が説明した。


そして肝心の武士だが、城の警備役をしている、田ノ中甚兵衛を仮雇いとした。


さすがに城で働いている者を正式に雇うわけにはいかなかったからだ。


田ノ中は休日だったのでふらりと安土見物に来ただけだったのだが、まさに一揆でも始まるのかなど思いながら遠巻きで見ていると、そうではないことに気付き、さらには法源院屋の用心棒として武士も募集していると聞いて、ふらふらと試験を受けて合格してしまったのだ。


田ノ中は彦根近郊の農民の出で、城の家老に目をつけられて養子となった。


温厚だが剣の腕はたつし、武器の扱いもうまく飲み込みがいい。


現在も殿様の息子に剣術を教えるほどに信頼も厚い。


その朗らかで穏やかな性格は、表面的な面は幻影によく似ていた。


元いた農家は、庄屋に近いほどに大きな家で、なに不自由なく育ったが、農作業は毎日欠かさず行っていた。


大事な働き手でもあるのだが、息子のためにと思い、両親は快く送り出したのだが、これは甚兵衛をだましていたに近い日々だった。


「現在の父ちゃんが苦情を言ってきそうだね…」と幻影が眉を下げて言うと、甚兵衛は幻影の家族たちを見回して、「大出世だと自慢します」と明るく言い放った。


「…まあ… 鬼やら阿修羅やら天狗やらがいる家族だからね…」


幻影の言葉に、「はい! そのお話を詳しくお聞きしたいのです!」と甚兵衛は目を輝かせて言ったきた。


「おーい、お蘭!

 阿修羅の証拠を見せてやってくれ!」


幻影が弁慶に絡んでいる蘭丸に向かって叫ぶと、「やなこった!」と悪態をつきながら叫び返した。


「そのうち知ることになるけどね」と幻影が言うと、「…あの太刀が、普通ではありません…」と甚平は言って、幻武丸を見入っている。


「まともに振るだけでも至難の業だ。

 一般的な侍の太刀の十倍ほどあるからね。

 しかも、あの長い太刀を狭い場所でも振れるから、

 弱点はないんだ」


「…とんでもないほどの修行を…」と甚兵衛は言って大いに苦笑いを浮かべた。


「君は警護として雇ったんだけど、

 家族として迎えてもいいんだ。

 すると修行という特典もついてくるんだよ」


「はっ! ありがたき幸せ!」と甚兵衛は大いに喜んで頭を下げた。


「ところで、織田信長って聞いたことある?」


幻影が核心を突いた話をいきなり始めたが、「…はあ… ここにあったお城のお殿様だったと…」と親などに聞いた知識があったようだが、今までの陽気さは消えていて、つぶやいてから少しうなだれた。


「織田様がここにおられた時はまだ赤子だったのかな?」


「はい、そのようです」


「この戦乱の世、実は君は武士だったのでは、などと思ったことはないかい?」


幻影がさらに核心に迫る質問をすると、「…ああ、やっぱり…」と甚兵衛は言ってうなだれた。


「農家を出る前に託されたものってあるんじゃないの?」


すると甚兵衛は慌てて懐を探って、小さな巾着を出した。


「…それって、武家のものだと思うけど…」


幻影はつぶやくように言ったが、その証拠になるようなものはない。


ただ生地や組紐が、安いものではないと感じた。


そして甚兵衛は、巾着に手を入れて、木片を出した。


「…ああ、やはり…」と幻影はつぶやいて、忍びが持っている割符を確認した。


それは信長が使っているものと同じものだ。


「御屋形様」と幻影が穏やかに言うと、愉快そうに蘭丸を見ていた信長は、「むっ」といきなり機嫌が悪そうな顔をしてうなった。


「あ、あと…」と甚兵衛は言って、月と竜胆をかたどっている髪留めを出した。


「…正体、判明…」と幻影は言って少しうなだれた。


この髪留めは幻影が作り、信長の手からその親族に渡ったものだった。


「よいよい、そなたもワシの息子じゃ」と信長は喜びを大いに隠して極力自然に言った。


「はい! ありがとうございます!」と甚兵衛は満面の笑みを浮かべて頭を下げた。


甚兵衛は人を疑わない、いい性格をしていた。


「もう、明かしてもよい。

 こやつを脅かすものは、もうどこにもおらんからな」


信長は言ってから少し慌てて、「あ、名前を教えて欲しい」と今更ながらに聞いた。


「…ああ、田ノ中か…

 この辺りの土着の姓じゃ。

 ワシとは知り合いかもな」


「父は、田ノ中与兵衛です」と甚兵衛が答えると、「…与兵衛…」と信長はつぶやいて大いに考え込んだ。


「いや、記憶にない。

 まだ若いようだが…」


「はい、父は三十手前です」


甚兵衛がはっきりと答えると、「そなたの本当の父も、三十手前で家老だったぞ」と信長が落ち着いて言うと、「…本当の父…」と甚兵衛はつぶやいて困惑の笑みを浮かべた。


幻影は半紙と筆と墨壺を出して着て、信長に渡した。


信長は心を込めて、『柴田勝家 お市』と書いた。


「おまえの本当の父と母の名で、

 お市はワシの妹じゃ」


信長の言葉に、「えっ? えっ?」と甚兵衛は大いに戸惑って、信長と半紙と幻影を見た。


「ワシの本名は織田信長。

 勝家はワシの家老だった。

 じゃが、戦に敗れて、妹夫婦は自害した。

 もしも男子である甚兵衛の存在を知られたら、

 確実に死罪じゃった。

 それを隠すために、勝家とお市は、

 きっと、お前の義父の父に託し、

 そしてお前の育ての親の農家に預けたはずじゃ。

 田ノ中佐兵衛を知っておるか?」


「…隠居して、屋敷におります… 祖父です…」と甚兵衛は目を見開いて言った。


「佐兵衛! おるかっ!!」と信長が叫ぶと、遠くで様子をうかがっていた初老の男性がすぐさまやって来て、片膝をついた。


「…呼ぶ前に来い…」と信長がにやりと笑って言うと、「はっ 申し訳ございません」と佐兵衛は答えて頭を垂れて、涙を流し始めた。


「証拠の品を見せてみい」と信長が言ってにたりと笑うと、佐兵衛は懐から短刀を出して、信長に献上するように、両手のひらで抱え上げた。


「…懐かしいわい…」と信長は言って、短刀を納させた。


もちろん、『武神信長』の銘の入った短刀であることは、柄と鞘の彫によってよくわかったからだ。


「ワシは平和を見届けるために、全てに目をつぶることにした。

 もしもワシがこの国を統一したとしても、

 戦乱の世はまだまだ続いていたはずじゃ。

 しかしさすがに、

 勝家と市が死に直面していた時はワシにとって試練でもあった。

 単身、助けに行こうとも思ったが、

 ワシの身内だけを助けるわけにもいかなかった…

 しかし、命をつないだこの甚兵衛によって、救われたような気がする…」


信長は今にも泣き出しそうな声で言った。


「…はっ

 琵琶様ご家族は、誰にもできない多くのことをされ、

 庶民たちの地獄の生活からの脱却を図っている事実を、

 すでに調べて知っております。

 こちらにはいつお戻りになるのか、

 首を長くして待っておったのです」


佐兵衛は涙を流しながら言った。


「甚兵衛にはまだ驚くべき話もあるが、小休止しようか…」


信長があふれかえるような喜びを抑え込むように落ち着きを取り戻して言うと、「はっ 準備いたします」と幻影は言って、茶道具一式と駄菓子、せんべい、羊羹などを持ってきた。


「これが、高級菓子なんだよなぁー…

 やっすいものなんだけどな…」


信長は嘆くように言って、羊羹を薄く切って口に運んだ。


「…恐れながら、一番の疑問がございます…」と佐兵衛が言うと、「若いだろ?」と信長が気さくに答えると、「…青年でしかございません… かれこれ、四十年前ほどの…」と佐兵衛はつぶやいた。


「ワシは一度死んで蘇ったということにでもしておいてくれ」


信長の言葉に、「はっ 了解いたしましたし、その方が理解も簡単でございます」と佐兵衛は明るい笑みを浮かべて答えた。


「表立っては琵琶信影で、侍ではなく商人だからな」


信長の言葉に、与兵衛は素早くうなづいて、「…森様は本当に阿修羅のようになられました…」という言葉に、信長は膝を打って大いに笑った。


「やかましい! この雑兵がっ!

 また蹴り飛ばすぞ!」


信長たちとはとんでもなく離れているのだが、蘭丸には会話が聞こえているようだ。


「…あっ…」と言って幻影は仕掛けを探すと、机の下に聞き耳管を縛り付けられている猫がいた。


その管は、幻影たちから見えない位置を回って敷かれていた。


「新しい術でも開発したのかと思った」と幻影が言うと、信長はまた大いに笑った。


幻影が猫の首を一瞬逆なですると、猫は来た道順通りに戻り、長春に餌をもらって喜んでいる。


「長春もここにきて挨拶でもしろ」


信長の言葉に、長春は大いに恥ずかしがってやってきて、「…若すぎるぅー…」と見た目は少女でしかない長春は大いに戸惑った。


「姉よりも母に近い年齢だからな」と信長は少し意地悪そうな顔をして長春に言った。


「じゃが、家系図的には、甚兵衛はちょいと遠縁のおじさんという位置になる。

 この長春は、ワシの息子の娘だ」


甚兵衛は改めて長春に頭を下げて自己紹介を始めた。


「やっぱりお婿さんはお兄ちゃんがいいなぁー…」と長春は言って幻影に大いに甘えてその腕を取った。


「ん?」と幻影が怪訝そうに声を発すると、長春はすぐさま幻影の腕を放した。


「…俺を、隠れ蓑にしてない?」と幻影が聞くと、「…あはははは…」と長春はバツが悪そうにして笑った。


「なんじゃ、お目当てがおるのか…

 まあ、源次か弁慶なのは動かんようじゃ」


信長の言葉に、「…うふふ…」と長春は意味ありげに笑った。


「別にいるようです」という幻影の言葉に、「…まさかだが、忍びの誰かか…」と信長がつぶやくと、長春は大いに慌てた。


「…長春様は純情乙女でした…」と幻影が眉を下げて言うと、「今度は嫁に出さんでもよいから別によい」と政江を示唆して言って信長は機嫌よく笑った。


「…お嫁に行かなくていい人を選ぶぅー…」と真っ赤な顔をした長春は幻影を見上げて言った。


「女人からは打ち明けられない。

 この部分だけは長春様は一般的で淑やかで控え目なお姫様でしたね」


幻影のやさしい言葉に、「…だけど、言えないぃー…」と長春は大いにホホを赤らめて言った。


もちろん、意中の人の名を告げられないほど恥ずかしいのだ。


「今はたぶん、岐阜の隠れ里担当だと思う」と幻影が言うと、長春の顔はさらに真っ赤になって、顔を下げたままになった。


「藤十郎のヤツの過去を聞いていなかったな」と信長が言葉にすると、長春は今度はめまいがしたようで、机に突っ伏してしまった。


「はい、私も聞いていません」という幻影の言葉に、「…ま、色々と忍びだからな…」と信長は大いに苦笑いを浮かべて言った。


もっとも、忍びたちとは面と向かって話し合う機会がない。


それほどに忙しい日々だし、幻影たちが行動を起こせばその機会を完全に失う。


安寧な日々が続くほど、忍びたちは幻影たちに近づくことはないので、幻影たちから話を持ち掛けるしか手はない。


忍びたちも幻影と同じで、信長に忠誠を誓っているのだ。


その藤十郎とは出会ってからもう二十年になる。


しかし幻影が認めていることで、藤十郎も若々しさを保っている。


よって家族であっても離れて暮らしているという、ふたりしかいない貴重な存在なのだ。


「…安寧な日々もいいが…」と信長はいきなり表情を暗くして言うと、「真田幸村、ですね?」と幻影は聞いた。


信繁やお師様ではなく、幸村と言ったのだ。


信長は何度もうなづいて、「…まあ、最後の最後に隠された、信繁の切り札の影だろうがな…」とつぶやいた。


「藤十郎さんかもしれませんね」


幻影の言葉には大いに衝撃があり、照れてばかりだった長春は、目を見開いて幻影を見入った。


「…影は静かに主を捨てた、ということでいいと思うか?」と信長が真剣な目をして言うと、「御意」と幻影はすぐさま答えた。


「…主を手のひらを反して替えるような信繁のやり方に嫌気がさしたのでしょう。

 生き残るためとはいえ、あまりにも露骨です。

 信繁が本当の、人であって唯一の鬼が完成したように感じます。

 幸村は武田滅亡後に松平に下りましたが、

 もちろん命があってのこと。

 自分では決して手を下さず、元康を監視し、積み上げること。

 しかし本能寺炎上の大事件があって、

 自分の人生を振り返り始めたのかもしれません。

 そして本当の意味で、本物の信繁はひとりになっていて、

 久度村にいた。

 きっと、幸村からの連絡が断たれたことで、

 さらに鬼化したようにも思います。

 ですが幸村の方は任を放り出しただけで、

 裏切りなどの気持ちはなかったのかもしれません」


幻影の言葉に、信長は何度もうなづいて、「ま、信繁がふたりになったのは、元康の策略でもあるからな」となんでもないことのように言った。


もちろんこの事実は本能寺炎上前に知っていたので、信長は時折幸村と真田信繁の別名を使って話をしていたのだ。


「信繁を恐れているのに、その影を雇う豪胆さ。

 元康ひとりの考えでは、

 このような複雑なことにはなりますまい…」


幻影はため息交じりに言った。


「憶測だけでは解決せぬ。

 藤十郎を呼べ」


信長の有無をも言わさぬ言葉に、幻影はすぐさま従って鳩を飛ばした。


その時長春は身を隠すようにして、熊の巖剛の背を抱き締めていた。


幻影はもう察していた。


全ては信繁の心の狭さにあると確信していたのだ。



ほどなく藤十郎がやって来て、信長の前に立ち、「ご帰還、おめでとうございます」と穏やかに言って頭を下げた。


「おう! 本当に今は大いに幸せじゃ!」と信長は上機嫌で言った。


「早速だが、ここに来てもらった理由はふたつある。

 ちなみにそれが何なのか、そなたに尋ねたい」


信長の言葉に、藤十郎は何の感情の変化もなく、「信繁様の影だったことを疑われていると」と言ってすぐに肩を落とした。


信長は何度もうなづいて、「その時の感情を教えてもらいたい」と穏やかに聞いた。


まさに、幻影が予想していたように、嫌気がさしたので、元康のもとを去ったと語った。


信長はうなづいて理解したのだが、まだ何の解決もなされていない。


「影をやめるのも藤十郎さんの自由って、信繁様に言われてなかった?」


幻影の言葉に藤十郎はすぐに顔を上げて、「…はい… その件を理由にして心おきなく抜けたのです…」と言ってから少し笑みを浮かべると、「…それが最大の理由かぁー…」と信長は頭をかきむしりながら嘆いた。


「お師様はそういう人です。

 ですが、私とは違う感情でもあったのでしょう。

 藤十郎さんはお師様…

 真田信繁様と近い関係だと思っているのです。

 私はある意味、お師様の元上司の血縁者ですから」


「…そうか、血縁者か…」と信長がつぶやくと、「私の父は真田信之です」という言葉に、幻影は大いに笑った。


「…二重に裏切られた気がしたかぁー…」と信長が言うと、「兄にもその子にも否定された思いがあるのでしょうね…」と幻影はつぶやいた。


「ですので私は誰にも付く気が失せて、

 私ひとりだけで生きていこうとさまよいました。

 そしてほどなく、運命の出会いがあったのです」


藤十郎は言って、幻影に頭を下げた。


「いやぁー! 同じ師匠を持つ身だから、まさに兄弟だったわけだ!」と幻影は大いに叫んで大いに笑った。


「…あ、ですが…

 察したのはこの件だけで、もうひとつの件が大いに気になっているのです…」


藤十郎の言葉に、「縁談話じゃ」と信長が言うと、「…ああ、そういうことでしたか…」と藤十郎は大いに安心して胸をなでおろした。


「これはワシの希望でしかない。

 断わってもらっても一向にかまわない。

 これは社交事例でも何でもないことだけは理解して聞いて欲しい」


信長の言葉に、「はい、謹んでお受けいたします」と藤十郎は内容を聞くことなく、もう結果を出してしまったのだ。


信長はにやりと笑って、「森蘭丸の婿となれ」と言うと、幻影は愉快そうに笑った。


すると話を聞いていた蘭丸がやって来て藤十郎に指をさして、「こんなやつの嫁にはなりませぬ!」と叫んだ。


「…あー… ワシは年寄りじゃから、うわごとでも言ったかぁー…」と信長が大いにとぼけて言うと、「御屋形様! 酷いです!」とここに来ていた長春が、目に涙を浮かべながら訴えた。


「では、自分で言え」と信長に冷静に言われて、長春は大いに戸惑った。


藤十郎はどういうことなのは半分ほど察して、「…まさかお相手がお嬢様だとは思ってもいませんでした… 私としては蘭丸様だとばかり…」と言って大いに照れていた。


「よかったな、好かれていたぞ?」と幻影が蘭丸に軽口をたたくと、「…俺にはお前しか見えてねえんだぁー…」と幻影に顔を近づけて大いにうなった。


「俺としては、今の関係がいいんだけどな」と幻影にあっさりと言われて、蘭丸は大いにうなだれた。


「…強くなり過ぎたのは、まさに不幸だった…」と蘭丸がつぶやくと、「じゃあ、その責任を取って、嫁にするよ」という幻影の軽い言葉に、「情けなどいらんっ!」と蘭丸は堂々と叫んだのだが、「…しまったぁー…」とすぐに嘆いて、自分の発した言葉を大いに後悔した。


「私のお婿さんになって、ここで暮らしてください!」


長春はふたつの希望を藤十郎に伝えて、顔を真っ赤にしていた。


「…はい、その願いを叶えられるのは私だけだとお察ししました…

 どうか、末永く、よろしくお願いいたします…」


藤十郎は穏やかに言って、長春に頭を下げた。


すると、「…もっと早く伝えておけばよかったぁー…」と長春が嘆くと、幻影は大いに笑い、信長は、「これはめでたい!!」と叫んで上機嫌になった。


「幻影、本当のところはどうなんだ?」と信長が聞くと、「今の話は私の本心です」とだけ幻影は答えた。


「…となると…

 幻影から見てお蘭は女性としての魅力はないということでよさそうじゃな…」


信長の言葉に、蘭丸は大いにうなだれた。


「家族愛があることはよくわかっているつもりです。

 ですが私個人の一番を考えるのですが、空白のようなものなのです。

 やはり過激な修行と、その後の人生が、

 私の考えを固めてしまったように思います。

 一番に欲するのは家族と仲間という動かぬものがあって…」


幻影の言葉に、信長は何度もなづいて、「お蘭、幻武丸を捨てろ」と言うと、蘭丸は大いに戸惑った。


「…あー…」と幻影は言って蘭丸を見た。


蘭丸は断りの言葉を放ちたかったがそれができない。


よって固まったまま黙り込んでしまった。


「…幻武丸が、お蘭の魅力を隠していたのか…」と幻影はようやく気付いて、「一旦は御屋形様のおっしゃった通りに」と幻影が穏やかに言うと、蘭丸は涙を流しながら首を横に振った。


「預かっておいてやるから渡せ」と信長は言って、蘭丸に右手を差し出した。


「…うう…」と蘭丸はうなって大いに戸惑い、「…重いので申し訳が…」などと、遠回しに断わるように言った。


「今のワシはな、手下の持ち物を簡単に奪うようなことはせぬ。

 お前の命、ワシに預けろ!」


信長の気合が入った言葉に、「はっ!」と蘭丸はすぐさま答えて、幻武丸を信長に託した。


「…これほどだったか…」と信長は言って、さすがに両手で持って、その重さを十分に体感した。


蘭丸は心細くなったようで、その仕草は少女に代わっていた。


「…あー…」と幻影は言ってから笑みを浮かべた。


そして、「御屋形様、私を追放してください」と幻影が言うと、誰もが大いに目を見開いた。


信長も同じだったのだが、「…仕える主を代えよるか…」と信長は言って鼻で笑った。


「…はい、一番に頭に浮かびました…

 私は、お蘭の奴隷でしかないようです…」


幻影の言葉に、「…まさか、こんなことだけで…」と蘭丸はつぶやいて、いつものように叫ぼうとしたのだができなかった。


蘭丸は幻武丸の影に隠れていたことと何も変わらないと、今更ながらに思い知っていた。


「…たまには、幻武丸を開放する必要があると察しました…」と蘭丸は穏やかに幻影に言った。


「心細いだろうから、

 手放した時のための、身を守る武器として俺がなろう」


幻影の告白の言葉に、「…はい、幻影様…」と蘭丸はつぶやいて、子供のようにワンワンと泣きだし始めた。


「…早く気づいてやればよかった…」と信長は言って、幻武丸の鞘を見つめていた。



幻影は早速、蘭丸のためのとっておきの髪留めを手渡し、幻影の手で簡単に蘭丸の髪を結った。


そして鏡を見た蘭丸は、「…私、女だった…」と言って笑みを浮かべた。


「いや、それは知っていたさ。

 だけど一番肝心なことがわかっていなくて悪かった」


幻影が頭を下げると、「まだまだ若いので、何の悔いもありません」と蘭丸は穏やかに言って薄笑みを浮かべた。


「知ってるか?

 今のように気を抜いた瞬間が一番危ういんだ」


幻影の言葉に蘭丸は大いに目を見開いて、「御屋形様! お返しくださいませ!」と蘭丸は言って幻武丸を凝視した。


「…お、おう… 幻影の言葉はかなり重いな…」と信長は言って、幻武丸を蘭丸に差し出した。


「…おお… …おお… 我が、神よ…」と幻武丸をつかんだ瞬間に、人が変わってしまっていた。


「…妖刀?」と信長が眉を下げて幻影に聞くと、「無心で振り回せばその通りでしょう」と幻影は明るく答えた。


「無垢の姿を見たので納得できました。

 お蘭は、やはりすべてが美しい…」


幻影の言葉に、「真の夫婦になるまで信じるもんか!」と蘭丸は幻影に指をさして、まるで好敵手のように叫んだ。


「それは一理ある。

 祝言、いつにする?」


幻影の言葉に、蘭丸は幻武丸を見つめて、覚悟を決めてまた信長に預けてから、椅子に腰掛けて照れながらも穏やかに話を始めた。


蘭丸は幻武丸を手にしてから誰かに預けることをしなかった。


もちろん風呂に入る時などは手放すことはあるのだが、放していても心は幻武丸とつながっていた。


だが今のように、意識的にその縁を切るように誰かに預けたことはなかったのだ。


よって信長が蘭丸の太刀持ちになり下がったことにもなったが、信長は快くその役を務めることにしたのだ。


しかしこの先は祝言の時だけになると信長は考えている。


もう幻影は、蘭丸を女性として惚れてしまったからだ。


信長が何気なく濃姫を見ると、濃姫も信長を見ていた。


「庶民の祝言はまだだったな」と信長が言うと、「…そんなこと言われるなんて思いもよらなかったぁー…」と感動して言ってから、髪から髪留めを抜いて笑みを浮かべた。


「…胡蝶は美しかった…

 今の蘭丸よりもな…」


「あら、嫌ですわ…」と濃姫は照れくさそうに答えて、淑やかに静かに笑った。



祝言は特に急ぐことはないので、まずは祭りの準備のために大いに時間を割いた。


もちろん商売も忘れないので、一気に準備が終わることなく、日々着実に祭りができる状態に整い始めた。


すると花火大会の件を公表して二十五日後に、江戸城の老中のひとりの守山近衛がやってきた。


守山はこの近江の出身で、安土の南側に守山という地名があり、その地と同じ名前を持っていた。


守山はこの安土の町の活気がある風景に、大いに驚いていた。


この近隣で、これほど栄えている町は、京、摂津でしかありえない。


もちろん、京からの出入りは制限されているので、琵琶湖の北、東、または南からやってきた者がほとんどのはずだ。


するともうすでに信長が気づいていたようで、守山を手招きした。


守山はバツが悪そうな顔をして馬を降り、部下たちとともに信長に近づいて行った。


「何か文句でもあるのか?」と信長がさっそく苦言を述べると、「わざわざ江戸を離れて優雅に花火大会などもってのほか」と守山は棒読みのように告げた。


「ワシは家康の家来でも秀忠の配下でもないんだけどな」


「大御所様と上様を愚弄するとは!」と血気盛んな若い武士が喚くと、「なんだなんだ」と言いながらも笑みを浮かべて蘭丸がすらりと幻武丸を抜いた。


しかもこの大剣を片手で抜いたので、誰もが大いに怯えた。


「俺の主人にそのような口を利くとな、舌と唇が落ちるぞ?」


蘭丸の静かだが気合の入った言葉に、今騒いだ者たちはその場に腰を落としてしまった。


それ以外の者は、―― 余計なことを… ―― とだけ思っていただけだ。


よって蘭丸の畏れは、反抗心のある者だけに向いていたのだ。


「…お蘭殿… どうか怒りを収めて下され…

 まだ話の途中でございますから…」


守山の言葉は蘭丸は気に入らないのか、「ふん!」と鼻を鳴らしてから幻武丸を鞘に収めた。


「先ほどお伝えしたのは家康様のただの妬みでございます」と守山は言って頭を下げた。


「江戸では祭りはしないから勝手にやってくれ」と今回ここに来た本題を話す前に釘を刺されてしまったので、守山は、「…うう…」とうなるしかなかった。


「もちろん、その理由があってこういった」


信長はその理由を語って、「…大いに正当な理由です…」と守山は納得するしかなかった。


もちろん、田舎の活性化のために、法源院屋は奮起すると告げたのだ。


江戸はもう十分に潤っているので、法源院屋が出しゃばる必要はないことと、さらに理由を重ねていた。


もちろん守山は伊達政宗の城下での祭りの件も調べ上げてからここにやってきたのだ。


まさに伊達家の勢いはその祭りにあると、家康と現在の征夷大将軍の秀忠にも語った。


よって秀忠は、「さらなる繁栄を!」と大いに欲張ったのだ。


「江戸近隣の花火職人を大勢雇えばいい。

 そうすればすべてが活性化するだろうがぁー…」


信長が大いにうなると、「職人の腕と知識に問題が大ありなのは、琵琶様もご存じのはずです!」と守山は少し憤慨して言った。


「大いに勉強させればいい」という、常識的な言葉に、守山は反論の言葉も出なかった。


「高願殿! 笑ってないで援護くださいませ!」と守山はここでは唯一の味方の幻影に向けて叫ぶと、「俺の花火職人の修行は越前で行った」とぶっきら棒に答えると、「…越前かぁー…」と守山は大いにうなった。


現在は徳川が越前までは抑えているのだが、福井城の城主に大いに問題があるのだ。


親族である松平なのだが、どうにかして今よりも地位を上げようと必死になっている。


もちろん、関ヶ原の合戦の功労が低かったことがその原因で、力はないが知略が利くという殿様だった。


「…その花火工房、もうないかもしれませぬ…

 贅沢が嫌いな城主なので…」


「いや、まだ連絡を取ってるけど、そんな書簡はないぞ?」と幻影は真実を述べた。


事あるごとに礼状を送ってくるので、実情はよく知っているのだ。


「騙されたと思って行ってきな。

 騙されていたら、時間はかかるが俺が準備するから。

 ただし!

 嘘はなしだ」


幻影の威厳に、「そなたとの友情を裏切れるわけがない!」と守山は堂々と言ってからまずは文を認めて部下に渡し、この町にある飛脚小屋に走った。


運が良ければ、時には忍びが手伝いをしているので、三日後までには到着するはずだ。


「あ、悪い。

 旅の支度金貸して?」


守山がいつも通りの口調で気さくに言うと、「今日は泊って行けばいいさ、馬がかわいそうだ」と幻影が言うと、「…相変わらずだな…」と守山は言って鼻で笑った。


「平和だからな、変わることはないさ」という幻影の言葉に、それは徳川家のことを指していると思い、守山は喜びながら胸を張って、「どんな宿屋だ?」と大いに興味を持って聞いてきた。


「大枚ぶんどってやれ!」と信長が叫ぶと、幻影は大いに笑いながら守山たちを宿屋に案内した。



宿屋はそれほど必要ないのだが、街道沿いでもあることで、ないと困る旅人もいるという理由で、必要な時に必要な人足を雇って、法源院屋が切り盛りをしている。


手伝い手は彦根から呼んでもいいし、安土の商店の女将やその子供たちでも構わない。


そうすればそれなりの駄賃が出るので、声掛けを待っている面もある。


幻影は馬を厩につないで、水桶に水を入れた。


そして宿を管理している又吉に引き合わせた。


「高願様、仲居を三名だけお願いします」と又吉はまさに商店主らしく素晴らしく清々しい声で言った。


「うん、いいよ。

 料理はうちのでいいよな?」


「はっ! その方が、お客様も喜ばれることでしょう」と又吉は愛想よく言った。


「…おー… 高願の手料理ぃー…」と守山は大いに感動してうなった。


部下たちは大いに怪訝そうにしていたが、「大御所様が好んで召し上がられた素晴らしい料理なんだぞ」と守山が簡単に説明すると、部下たちは一斉に幻影に頭を下げた。


「お客様の分と、又吉さんたちの分も用意するから」と幻影は言って店を出て行った。


「…連れてきていただいてよかった…」と、又吉は感動して言った。


「店主は江戸者のようだな」と守山は言って腰を下ろして草鞋の紐をほどき始めた。


「はい。

 宿屋の店主は一名でいいということで競争が激しかったようなのですが、

 すぐに高願様にお声掛けいただいたのです」


「ま、あいつの目が外れたことがないからな」と守山は言って立ち上がった。


又吉は履物を客用の下駄箱に仕舞い込んで、出歩くための雪駄を出した。


「…おいおい、まさかその雪駄、桐じゃあねえの?」と守山が聞くと、「はい、軽くて歩きやすいので」と又吉は笑みを浮かべて答えた。


「だが、一度使ったら随分と底が減るんじゃないのか?」


「はい、使うのは一日だけでございます。

 少々贅沢と思われるでしょうが、それがおもてなしの心だと。

 前の主人と同じことを高願様もおっしゃったのです。

 高願様は、蝦夷と琉球を含めて、

 この日の国全土を旅をしてまわられたのです。

 ですので誰よりも宿のことはよくご存じなのです」


守山は大いに納得して、「旅に行く時はいて欲しい奴だな」と機嫌よく言って、又吉の後ろを歩いた。



部屋に通された守山たちは大いに戸惑っていた。


もっとも、廊下を歩いている時にもうすでに察していた。


「…ここって、貴賓室?」と守山が眉を下げて聞くと、「いえ、どのお部屋も同じでございます」と又吉は笑みを浮かべて答えた。


「…ありえねぇー… 下手な城よりもいい部屋だぁー…」と守山の手下たちが口々に言った。


又吉は改めて宿泊の礼を言ってから、「お口汚しでございます」と謙遜して言って茶を配って、菓子籠を出した。


「…駄菓子、じゃあねえかぁー…」と守山は言って目を見開いた。


「…まさかここで目にするとは…」と誰もが口々に言ったが、手を出せなかった。


「この辺りではどのお子様でも召し上がっておられますので、

 ご遠慮なくどうぞ」


又吉の言葉に、五人は目が覚めたようにして一斉に手を出して、まさに子供の顔をして駄菓子を楽しんだ。


「お祭りの露店でも販売されるそうです。

 どれほど売れるのか想像もできないそうで、

 作れるだけ作っているそうです」


「琵琶湖畔全てが特等席だからな。

 花火見物だけでも、

 江戸の町人全てが集まるようなお祭り騒ぎになるだろう」


詳しい事情を知っている守山が言うと、「私どもも今から楽しみにしているのです」と又吉は愛想よく言って、宿帳の記入と食事の都合を聞いてから部屋を出た。


「早い奴はもうこの安土のうわさを聞きつけていてな。

 この近隣の城に転属してもらえるように願書が出ているようだ」


守山の言葉に、「…その気持ち、わかります…」と部下のひとりが言った。



「あの狸は大坂城に花火を打ち込むつもり満々ですね。

 平和の象徴なのに、なんてことを考えるんだ全く…」


幻影が少し怒りながら言うと、「そんな話はひとこともしていなかったじゃないか…」と信長は大いに困惑して言った。


「まずは現在行っている諸外国との接触にあります。

 家康は世界最強の武器を探しているんです。

 もうすでに、この日の国には存在しない大砲を入手しています」


「…ただの外交かと思っていたが…

 …貿易に時間をかけ、摂津はほったらかし…」


「俺の打ち上げ花火の筒なら、もうひとつ堀があっても着弾しますから。

 大砲の鉄球とは違って、着弾すれば火薬玉はいずれ爆発して、

 運が良ければわずか一発で大坂城は火の海です。

 それなりの威力のある武器が手に入れられないので、

 打ち上げ花火に目をつけたのです。

 だからこそ、なにをしてでも、その仕組みを手に入れる必要がある。

 だから俺の推薦した花火工房まで足を運ぶのですよ。

 きっとね、守山さんはそこまでは聞かされていません。

 話の流れに準じて俺を怒らせないようにと穏便にと。

 俺と友人なのは知っていますから、

 あえて守山さんを送り込んできたのでしょう。

 だけど、花火の技術を戦場で使って、

 守山さんがそれを知れば、大いに家康を疑い、苦悩するでしょう。

 もちろん、これはすべて俺の勘で、確証はありません。

 ですが、真っすぐな人に、汚れ仕事をさせたくはないのです」


「おまえの考えをまっすぐに語れ」と信長が短い言葉を放った。


「ついでに、試し打ちに江戸城を使うとでも伝えておきますよ」


幻影は憤慨しながら言って、すぐさま立ち上がり、宿屋に足を運んだ。


「守山様がうらやましいです」と弁慶が眉を下げて言うと、「弁慶も、心からの友人を見つけないとな」と信長は笑みを浮かべて答えてから、書を認めて鳩を飛ばした。



幻影は食事を配達した後の空き時間に、幻影の考えをすべて守山に語った。


守山たちは大いに驚き、配下が何か言おうとした時に、「黙れ!」と叫んで制止した。


もちろん、有効な武器になると言おうとしたからだ。


「…ここで雇ってくんない?」と守山が眉を下げて聞くと、「ああ、歓迎するよ」と幻影は快く答えた。


「もしもこの考えが間違っていても、

 またこの件を蒸し返すことはありえないから。

 俺は武士に戻って、徳川をつぶす」


幻影の言葉に、誰もが背筋を震わせていた。


もちろん、信長が飛ばした書簡にも、同じような内容が書かれていた。


「形式上、戦乱の世はもう終わっているんだ。

 今まで通り、のらりくらりと、のんびりと摂津を攻略すればいいだけさ」


「ああ。

 秀頼はただの駄々っ子だからな」


幻影の言葉に、守山は大いに笑った。


「さっき、書簡を抱いた鳩が飛んだ。

 返事が来るまで、ここで待機しておいて欲しい」


「いやぁー… いい旅行になった!」と守山は大いに喜んで、笑みを浮かべて寝転んだ。


そして幻影の友情に、大いに胸が熱くなっていた。


「軟禁しているってわけじゃないから。

 好きなように出歩いて、誰と話をしてもいいぞ」


幻影の言葉に、「ああ、好きなようにして過ごすさ」と守山は言って、部屋を出て行こうとしていた幻影に手を振った。


「守山様…」と部下がつぶやくと、「あいつは高野山の大天狗だ」と守山が言うと、部下の四人は目を見開いた。


役職上、そういった超常現象的なことはすべて知っていたからだ。


「もちろん、噂話だけではなく、

 大御所様の目の前で披露したんだ。

 もちろん俺もいて、それが縁で友人となったんだ。

 あいつはな、手製の翼を背負って空を飛んだ。

 そのあとに俺を縛って、空に誘いやがったんだ。

 貴重な体験だろ?」


守山の言葉に、部下たちは目を見開いただけで、何も言えなかった。


「それからな、三つ葉葵の阿修羅の件。

 あれはここにいた琵琶胡蝶蘭だ。

 これは憶測だが、あの長太刀ならば、

 森をあのように切り刻めるだろう。

 三つ葉葵はよくわからんが、

 体に枝葉を纏って隠れて戦場を見ていて、

 それが三つ葉葵に見えたんじゃないのか?

 それが小早川の西軍裏切りの切欠になったんだろうな。

 おかげで東軍は予想以上に楽に勝てた。

 ここにいるやつらはただの化け物じゃない。

 まさに、本物の神だ」


「…あー…」と部下たちはため息を漏らした。


琵琶家は江戸では善行を行い、全ての者を幸せにする原動力となった。


そして陸奥に行っても同じで、まさに琵琶家を神と崇めていた。


帝がそれほどのことをしてくれたのだろうかと、どうしても考えてしまう。


「織田信長は、新しい世界を望んだそうだ。

 本来の狙いは、帝の制度の壊滅にあったと思っているんだ。

 帝がいなくなった世界で、

 誰が一番強いのか本気の戦いをしようと決めていたと思う。

 だが、それは断念して、さらに平和な道を歩もうと決めて、

 琵琶家を作ったわけだ」


守山が語ると、部下たちはようやく理解できた。


琵琶信影が織田信長だということはもう知っていた。


しかし、大軍を集めるわけでもなく、善行を行って、少々威厳のあるただの商人でしかなかった。


「もっと詳しい話は、そのうち高願がしてくれるだろう。

 高願は真田家ゆかりの者らしい。

 さらには、上杉と武田の烙印だそうだ」


この話は知らなかったようで、部下たちは大いに目を見開いた。


「この話は俺にしてくれた。

 だからこそ、直江兼続は意地になって、

 殿様そっちのけで、家老が陣頭指揮を執っている。

 ここにあの化け物の真田幻影がいれば、

 全てに勝てる、などと思っているようだな。

 だが幻影にはそんな野望はない。

 さっきは武士に戻るなどと言ったが、

 結局は信影様が止めるだろう。

 主の命令は絶対だからな。

 これは、どんなお勤めでも同じだ。

 だからこそ、俺も本気でここで働こうと考えているんだ…」


守山が語り終えると、「お食事をお持ちいたしました」と涼やかな仲居の声がした。


「待ってたよ! どうぞどうぞ!」と守山は大歓迎して、仲居たちを招き入れた。


その中にひとりだけ、目を見開いて固まってしまうほどの絶世の美女がいた。


江戸中で噂の蒲田の花魁など、この仲居姿の少女にしか見えない女性の前では消し飛んでしまう。


「お嬢様、なにやってるんですか…

 緊張して食事がのどを通りませんよ…」


守山が眉を下げて言うと、「…うふふ… お駄賃目当て」と長春は陽気に言って、手早く配膳をした。


「あ、お風呂ですが、時々熊が出ますので驚かないでやってくださいませ。

 すっごく怯えてしまうと、思わずひっかいて命を失うかもしれませんから。

 あっ 仕返しではございませんから。

 そのようなこと、お兄様がされるはずがありませんから」


長春の言葉に、「…心得ましたぁー…」と守山は大いに怯えながら言って、結局は食事の味がよくわからなかった。


「…本当に、化け物たちの住む里だったぁー…」と守山は大いに嘆いた。



守山たちが風呂に行って、どこにもない豪華な浴室内を見入っていると、「よう!」と明るい声で幻影が湯船の中から声をかけた。


その隣には黒く毛深い何かがいた。


「うわぁ―――っ!!」と守山の部下たちは大いに声を上げて、浴室から出て行った。


「…慣れたもんだな…」と守山は言って、かけ湯をしてからヒノキの湯船にに浸かった。


月の輪熊の巖剛は、気持ちがいいのか目をつぶって笑みを浮かべているように見えた。


「…どこでみつけたの?」と守山が聞くと、幻影は巖剛の一部始終を話した。


「うちにもここと同じ風呂があるのにここに来たがるんだ。

 この行動だけは、こいつの考えが読めねえ。

 予測でしかないが、湧き水の質が違うのかもな」


「…そうなのだろうか…」と守山は言って、湯を手に取った。


「硫黄臭くはないが、ぬるっとした感じがあるな…

 なんだか美肌効果はありそうに感じる」


「温泉とか興味あるの?」


「…一時期、そういった任についていてな…

 ずっと九州にいた…

 仕事だから、楽しいものじゃなかったが、

 健康になった気がしたね」


「効能などを調べていたわけか…

 それはその土地に留まらないとできないことだな…」


「ああ、それはあると思うぜ」と守山は言って、両手で湯をすくって乱暴に顔を洗った。


「…この湯、肌に吸い込むようだな…

 この経験はない…

 詳しく調べねえとわかんねえが、

 美人の湯とでもしても問題ないと思うぜ。

 美肌効果はあるようだから」


幻影は何度もうなづいてから、「こいつの毛艶が上がったのは、食事のせいだけじゃなかったようだ」と言うと、「…いること忘れてた…」と守山は大いに眉を下げて、黒い熊を見た。


幻影は巖剛専用の風呂でも作ろうと思い、一瞬で頭の中に設計図を描いた。


「ひとっ飛び江戸に行って、家康に会ってきた」


幻影の言葉に、守山は驚くことなく、「…早ええな…」とだけ眉を下げて言った。


「さすがに怯えていたぜ。

 特に秀忠のヤツは失禁しやがった。

 甘えん坊に育ったもんだ、全く…」


「見たことはないが、お前が本気で怒ると怖そうだからな。

 怒りに触れないように気を付けるよ」


「近衛を叱りつけることなんてなさそうだ。

 今回、怒りを抑える代わりに、

 お前をもらうと言ったら、なんて返事したと思う?」


「どーぞどーぞと言って、お前に献上した」と守山はため息交じりに答えた。


「それだけは勘弁してくれと言われてしまったんだよ」


幻影の言葉に、守山は目を見開いた。


「俺はその事情を聞いて納得した。

 事情はそのうち知るから俺からは言わない。

 隠居したら、いつでもここに来てくれ。

 お前も、平和のために必要な武器だった」


「…心中複雑だが、今は納得しておいてやるさ…」と守山はため息交じりに言って、この先の人生が楽しみになってきた。


「今回は俺の友人の顔を立てて許してやると言って戻ってきたんだ。

 そして墜落するようにこの湯に何とか降り立ったら、

 何食わぬ顔をして巖剛がいたから笑った」


幻影は愉快そうに言って、巖剛の首に手を回して抱きしめた。


巖剛は目を開いて、納得したようで湯から出て、水気を弾き飛ばして、飾りの大きな岩を足がかりにして身軽に塀を飛び越えた。


「…忍者熊…」と守山がつぶやくと、「そう見えたな!」と幻影は機嫌よく言って大いに笑った。


馬をもう一日休ませてから、守山たちは江戸に戻って行った。


他にも友人はいるのだが、幻影は敗戦の将のような気持ちで、守山たちを送り出した。



大いに宣伝をした祭りは盛大に行われ、主催者である信長と濃姫はご満悦だった。


街道では、神輿に加えてだんじりも勇壮に走り、数台の豪華絢爛な山車も披露され、祭りを大いに盛り上げた。


にぎやかしのお囃子も、至る所で様々な方法で披露された。


そして阿波の国の踊りを中心に、各地の祭りの踊りを披露し、誰もが大いに踊って楽しんだ。


身動きできないほどの人がいたのだが、もちろん計画的に道を整備していたので混乱はなかった。


街道は露天商であふれ、誰もが捨てるようにカネを支払う。


少々手持ちが心細くても、誰でも楽しめるような工夫のための興行もおこなった。


それは一般的で一時的な裏方仕事の手伝いの労働力の賃金と、給金を支払う相撲だ。


出場すれば決められた給金が支払われるので、子供から老人までもが大いに参加した。


勝ち進めば観覧客の評価によって賃金が跳ね上がり、敗者にもその分配があるので、誰もが血相を変えて本気で取り組む。


祭りは最高潮に達し、その締めに一発の花火が予告なく上がり、夜空を色とりどりに染めた。


「…おー…」と大勢の者たちが感嘆すると、花火が次々と打ちあがり、大歓声が沸き上がり拍手が鳴り響いた。


もちろん幻影たちは琵琶湖の中心にある巨大ないかだの上にいて、計画的に打ち上げる。


今回は意識して花火を楽しむことにして、序盤は蘭丸と大いに楽しんだ。


用意した花火は十万に達していた。


作った分だけ打ち上げようとせっせと作っているとこの量になっただけだ。


よって、『よろずに打ち上げる』と企画書には書いてあった。


琵琶湖に遅れて到着した者たちも、夜空を華やかに彩る花火を大いに堪能した。


最後の最後に、巨大な五尺玉が上がり、昼間のように明るくなると、誰もが感嘆の声を上げて拍手をした後、琵琶の家紋が空に浮かんだ。


「…あーあ…」と誰もが一斉に、名残惜しそうに嘆いたが、心躍らせるように、家路を急ぎ始めた。


もちろん、遠くから来ていた者はこの近隣の宿屋に宿泊する。


この安土では今日の日のために部屋を五百室を用意して、大忙しの日となった。


売り上げも芳しく、様々な事業に手を出すことが可能になった。


もっとも、カネはもうすでに持っているのでいらないのだが、長い目で見れば微々たるものと、信長は陽気に言った。


「明日もするぅー…」と長春がわがままぶりを披露したが、幻影が手持ち花火などを披露すると、すぐに大人しくなった。



この初回の祭りが終わって五年後、幻影が四十になった時に、ついに徳川軍は詰め将棋のように大坂城を包囲した。


様々な平和的やりとりがあったが、時には家康が怒りに任せることもあり、まずは小競り合いから始まって、今日の日に至ったのだ。


その中でひときわ目立ったのは、すでに数々の武功を上げていた真田信繁だ。


だがそれが、信繁の不幸でしかなかった。


真田軍は今回は大坂城の南側に巨大な砦を構えていた。


固定式だが、まさに要塞と言えるほどの大砲を備えたものだ。


まさに軍事基地のようで、攻めたいのだが攻め込めない。


ここは徳川軍は不利と知り、撤退を余儀なくされた。


「信繁ひとりで勝ったようなもんじゃ」と信長はため息交じりに言った。


「このままじゃ、引き下がれませんね。

 もちろん和講に尽力するのでしょうが、

 徳川は分が悪い。

 しかしただの籠城戦。

 羽柴の家は終わったも同然でしょう」


裏では有名人だった真田信繁は、ここにきてようやく一目置かれる武将となった。


この日まで、信繁がいつ裏切るのか、などを諸侯の武将たちは考えていたのだ。


もちろん、その感情は信繁に向けられていただけでなく、ほかの武将たちにも向けられていて、羽柴についた武将たちは全く統率が取れていなかった。


こんな集まりが、徳川の大軍に勝てるはずがないのだ。


まさに、子供の秀頼が駄々をこねているだけだった。


ちなみに幻影たちは、幻影が新たに開発した空飛ぶ乗り物で、空から大坂城近隣を見入っていたので、まさに特等席だった。


もちろん擬態を施していて、地上からではよく確認できないような工夫をされていた。



その約半年後にまた大坂城攻めが始まった。


今回は様相が違い、大坂城は丸裸になっていた。


この状態でも戦うというのだから、羽柴軍は勇ましいと言えたが、ただただ意地を張っていただけだ。


今回は籠城戦は使えず、武将たちは城の南に出張って徳川軍を待ち受ける。


もしもこの状態で徳川が敗れたとあらば、その威厳は地に落ちる。


そして羽柴が降伏しない限り、この戦乱の世は終わらないのだ。


―― ついにこの日がやってきた! ―― と老体に鞭打って馬にまたがっている信繁は喜びに満ちていた。


今回は隊列を乱そうが何をしようが家康に迫ることができる。


―― 今回は、抜かりなくっ!! ―― と力強く思い、赤い槍を力の限り振りまわした。


本来ならば、この戦に家康が出張る必要などは何もない。


あとは秀忠が継ぎ、さらには家光が虎視眈々と三代目を狙っていたからだ。


よって家康は大いに心細く思い、いまだ若々しい家老の井伊直孝を見て眉を下げた。


しかし家康の陣は殿しんがりにいて、相手が及ばない位置でしかない。


信繁は四組の武将に声をかけ、家康の陣に突っ込むと宣言していた。


武将たちは信繁を疑うことなく、援護に回ることに決めていた。


その捨て身の作戦が功を奏して、雷のような素早さで、信繁の軍だけは家康の陣に届いたのだ。


信繁は多くの矢を体に受けていたのだが、何の痛みも感じなかった。


今は家康の陣の旗しか見えていない。


家康側の誤算は護衛の武将がいなかったことだけに尽きる。


今は後退するしかないのだが、信繁の槍が全てをなぎ倒していく。


―― 家康! 見えたっ!! ―― と信繁は眼下に家康の驚愕の顔を見下しながら、横一線に槍を振るった。


「打ち取ったり―――っ!!!」と信繁は大声を張り上げたのだが、またも悲願は叶わず、落馬した。


―― 首を… 首を掲げるのだ… ―― と信繁は思い、這うようにして家康がいたと思しき場所に這っていた。


信繁は辺り一帯が血の海であることだけは確認できていた。


「お師様! 掲げられよ!」という声が聞こえた。


「…幻影… さすが我が子だ…」と信繁は笑みを浮かべて、何とか確認できた家康の首の頭髪を握って、まさに誇らしげな顔をして、その人生を終えた。



戦い終わって、幻影は家族とともに久度山にいた。


信繁の父の真田昌幸が眠るこの場所に、信繁の亡骸を埋葬した。


隠居してすべてを弟子たちに託した厳撫が弔いの経を読み上げている。


信繁の槍の切っ先は、家康に届いていなかった。


信繁から見て切っ先は確かに家康に届いていたように見えていただけだった。


家康はしりもちをついて安堵したその瞬間に、首が落ちていた。


落としたのはもちろん幻影で、信繁に寄り添って、全てを見届けたのだ。


そして新たな家康の影を仕立て上げさせて、何事もなかったように、幻影は信繁を担いで姿を消したのだ。


「…怖い奴だ…」と信長が眉を下げて言うと、「そうですね、商人のすることではありませんでした」と幻影は薄笑みを浮かべて言って、真新しい卒塔婆を見入った。


井伊直孝ももちろん命をつないでいて、最後まで偽の家康を見守ることに決めていた。


しかし、大業をやり遂げたという心労から、家康が病で崩御してすぐに、直孝も命を終えていた。


「しかし、これも運命か、お市様のお孫様が次期征夷大将軍」


幻影の言葉に、「余は満足じゃ!」と信長は叫んで、大いに笑った。


信長がなしえなかった大業を、その甥が成し遂げることに大いに喜んだのだ。



本来ならばここで気を抜いて一気に老け込むところだろうが、幻影たちは気を抜かずに日々を楽しむようにして過ごした。


時には短い旅に出るという、気分転換も忘れない。


今回は旅立った初めのころに作り上げた、岐阜の剣山の麓の隠れ里にやってきた。


忍びたちは徐々に出番を失くし、今は様々な有益な職に就いているが、何人かは残って里を守っている。


休息のひと時を過ごすにはいい場所でもあるからだ。


「…あー… そういえば… あの不安のようなもの…」と幻影は遠い昔を思い起こし、かすかに見える剣山山頂を見た。


「鍾乳洞の件か?」と信長が興味を持って聞くと、幻影はすぐのその事情を語った。


「…生命感を感じない、か…」と信長は言いながらも大いに興味を持った。


「…老け込んだら行けなくなるかもしれないから、

 十分に体が動くうちに行っておくわ…」


濃姫は渋々ながら言うと、信長は大いに笑った。


「疲れたら負ぶってやろう」と信長が言うと、濃姫は答えずに大いに照れていただけだ。


「ところで、御屋形様が生を受けて一番に頭に浮かんだ

 戦う理由は何だったのでしょうか?」


幻影のいきなりの質問に、家族たちは信長に注目した。


「死にたくない」と信長は考えることなくすぐに答えた。


幻影は笑みを浮かべてうなづいて、「さあ、探検に行きましょう!」と陽気に言って、家族たちを先導した。


そして信長は濃姫を見て、「今も死にたくない」と言うと、「私も同じだわ!」と明るく言って、信長に密着するようにして隣を歩いた。



山のふもとにある鍾乳洞の入り口の少々開けた場所は、もう二十年ほど前になるのだがほとんど変わっていないと幻影は感じた。


今回はむやみに立ち入らずに、森を抜ける手前で山裾をなどを監視するように見入った。


「…確かに、命の息吹がないように感じるが、

 草は生えている…

 だが木がない…」


そして信長は来た道を振り返ると、うごめく昆虫や、人間たちを監視しているように見ている小動物を確認できた。


「長春、どう思う?」と幻影はその資格がある者に真っ先に聞いた。


「…嫌な気は起こらないけど…

 不思議な場所だわ…」


長春は真剣な目をして言って、同意を求めるように巖剛に触れると、巖剛は威厳を持つようにしてゆっくりと歩き始めて、森を出て大地のにおいをかぎ始めた。


そして少しずつ場所を替えて、今回は少し後ずさりした。


「…あまり良くないものでも埋まっているんだろうか…」


「巖剛ちゃんもよくわかってないと思うの…

 きっと私たちと同じように、不思議な場所だって感じていると思うの」


幻影は森を出て地面に伏せたが、状況は何も変わらない。


そしてそのままの姿で、「何も感じない人っている?」と聞くと、数名が大いに苦笑いを浮かべた。


不思議に思っているのは、幻影、信長、長春、巖剛、そして弁慶の五人だ。


「…硫黄のにおいはしないのですが、

 なんだか温泉地のような気がしてならないのですが…」


弁慶の言葉に幻影は少しうなづいて、「この辺りの草などを食うと腹を壊す」と幻影が言うと、「ああ、そういう理由で虫すらいない」と弁慶は言って、草などを触れ始めた。


「もしも毒物だったら草すら生えないと思うから。

 それに、これって雑草じゃなく薬草にでもなるんじゃないのかなぁー…

 薄めたり調合したりすると、

 病を治したり、滋養強壮に効く、など…」


「となるとだな…」と信長は言って、森の中の昆虫などを観察してすぐに、「…少々でかくないか?」と言って、甲冑虫を手に取った。


「…はは… それほどのものを見たことがありませんよ…」と幻影が明るく言うと、「ここは何も変えない」と信長が言うと、濃姫が大いに眉を下げた。


信長も大いに眉を下げて、「…草を採取して、幻影が解明するさ…」と少々投げやりに言うと、「臨床実験を繰り返して商売にでも生かしましょう」と幻影は言って、家族たちを見まわした。


「…ワシたちが実験対象らしいぞ…」と信長が眉を下げて言うと、誰もがすぐさま耳をふさいだ。


そして本来の鍾乳洞見学を大いに楽しんだ。



洞窟内はそれほど開けているわけではなく、身動きできる場所は一丁ほどしかない。


しかしわずか十八名しかいないので、じっくりと素晴らしい自然の積み重ねを観察することができた。


「あー…」と蘭丸が何かを思い出して声を発すると、「どうしたんだ?」と幻影が聞いた。


「…真っ先に入って来た時、暗闇ではなかった…」と今更ながらに言ってきた。


「じゃ、確認しよう。

 明かりを全部消してくれ」


幻影の言葉に、誰もがすぐに賛同して、提灯などの明かりを消すと、入り口部分だけが明るく、確かに所々で壁面が明るい。


「…前はなかったはずだが…」と幻影は言って、発行物体を見入って、「…苔?」と言った。


すると今度は、「…あー…」と源次が声を発した。


「どこかで聞いたことがあるの?」と幻影が聞くと、「うん… 土佐のほぼ中心の山の中にも、ここのような小さいけど素晴らしい鍾乳洞があったんだ」と源次は言って、その地の者たちに話を聞いて、昔は光る苔があったという話を聞いたのだ。


珍しいものなので苔を取り過ぎたことが原因で、今は全くなくなったらしい。


もちろん、土佐藩の殿様などに献上したそうだ。


「ここも保護対象」という信長の言葉に、「そうしましょう」と幻影はすぐに賛同して、この幻想的な景色を見入って笑みを浮かべた。


「…人を呼ぶと、すぐに変わっちゃう…」と長春が眉を下げて言うと、「できればこの自然の奇跡を守りたいですね」と藤十郎は笑みを浮かべて言った。


「幕府も落ち着いたことだし、

 守山さんに話して、直轄地にでもして保護させてもいいですね。

 もちろん、今はまだこの辺りに人は住んでいないので、

 それほど心配することはないように思いますが…」


幻影が自信なさげに言うと、信長は賛同したが大いに考え込み始めた。


そして外に出てから、信長の指示で幻影がこの近隣の地図を出した。


「一番近い建造物は、この多幸寺だが…」


信長が言うと、「その奥に昔の豪族の墓があるそうです」と幻影は言って大いに考え込んだ。


「…忍びの始祖でも祀られてるんじゃないのか?」と信長がにやりと笑って言うと、「…面白そうですね…」と幻影は大いに興味を持った。


人里離れた山奥にポツンとある寺や神社は珍しくない。


そしてほぼ決まっているかのように、その手前に古墳があるのだ。


もちろん帝もその管理をしているが、今ではその歴史はよくわからないようだ。


帝の崩御により、その場所が隠される場合も多々あったし、その墓の真似をして豪族などが巨大な墓を作っていたりと、結局はすべてを保護する必要が出てくるのだが、さすがにすべてに手が回るわけもなく、のんびりと管理はしていたそうだ。


もちろん、ほとんどが盗掘にあっていて、その詳細がわからないものが多い。


「そのいい加減さが、ワシには耐えられん面もあったのだ。

 帝は決して神などではない」


信長が豪語すると、「あんな弱っちい神だったら必要ありません」という幻影の言葉に、「祟りが怖ええだろうがぁー…」と蘭丸が言うと、「それも、帝の手なんだよ」と幻影が言うと、「さもありなん」と信長が鼻で笑って言ってから大声で笑った。


「災害や天変地異があった時、なぜ元号を変えるのか」


幻影の言葉に、「…それは祟りを恐れて…」と蘭丸は自信なさげに言った。


「実際のところは、

 それを決めた者たちの保身のような気がするんだ。

 その元号に決めたから、前の帝が怒り出した、

 とか思って変えるんじゃないの?

 過去を紐解くと帝が崩御していないのに、何度も変えているからね。

 では、帝は神なのに、

 なぜその災害を止められないのか」


「…うう…」と蘭丸はうなるだけで言葉が出なかった。


「神にもいろいろあるからな」と信長は鼻で笑った。


「基本的な日の国の神は国の神で、

 大地の神なんだ。

 人を守る神ではなく、国を守る神。

 だから人間のことなんて知ったことじゃない、

 と古書からはそう読み取れたね。

 そしていつの間にか、

 人と交わって、神があいまいになった。

 俺の天狗や、蘭丸の阿修羅の方がよっぽど神だと思う」


幻影の言葉に、信長だけが大いに笑い始めた。


「どれほどの天変地異があろうとも、

 ワシたちだけは決してあきらめず、

 全てを助けよう」


信長の新たな決意に、誰もが一斉に頭を下げた。


「だが、それでは忙しくなりすぎるから、

 知った時や依頼を受けた時だけでよい。

 そうしないと、ワシたちが壊れてしまうからな。

 幻影は大いに堪える必要があるぞ。

 また死に一直線となる可能性もある」


信長の威厳のある言葉に、「必ずや守ります」と幻影は笑みを浮かべて言って頭を下げた。


「だが、水害だけは事前に手を打てる。

 それほど急ぐことなく、

 手近なところから変えて行けばいいだろう。

 それが原因で諍いが起ることはまだまだあるはずだからな」


「長期貯蔵ができる食料を確保しておきましょう」


幻影の言葉に、「まずはそれが肝心じゃろう」と信長は答えて、笑みを浮かべて何度もうなづいた。


「…ああ… おせんべいをたくさん食べられるわ…」と濃姫が大いに欲をもって言うと、信長と幻影だけは大いに笑った。


「あとは火起こし道具に炭。

 大いに忙しくなりそうですね。

 弁慶、できれば近隣の水源地図を作り上げておいて欲しい。

 水も必ず必要になるからな。

 安土に住んでいるからこそ、

 今の便利さに目が曇る。

 ほかの土地では大いに必要なことになるはずだ」


「心得た」と弁慶は仕事をもらってうれしいようで、笑みを浮かべてうなづいた。


「出来上がったものを高値で売ってやる」という信長の言葉に、幻影と弁慶は大いに眉を下げていた。



そんな中、家康があれほど外交を好んでいたにも係わらず、新しい将軍は鎖国政策打ち出した。


国交は長崎だけで行われ、日の国には諸外国の情報が入りにくくなっていた。


もちろん、キリスト教の禁止令もその一端ではあるが、根本的な原因が琵琶一族の存在だった。


そんなことなど露知らず、幻影たちは一年か二年の割合で、短期間だが諸外国漫遊の旅に出る。


巨大な船を作ることなく、家族だけが乗る、今までと同じ仕組みの船だ。


そして一番有益で詳しくなったのは気候を読む勘だ。


大海原がなぎの時だけ船を出すので、どれほどの距離があろうとも、お大名の舟遊びと変わらず快適な旅となった。


一番の情報源は、近場だと明から清に替わった大国だが、さらに画期的な国があった。


それは露西亜で、半海半陸の旅を楽しんで、世界中の情報をかき集めて帰ってくる。


そして蝦夷の地の別荘地で落ち着いてから安土に戻る。


しかし、幻影たちは得た知識をそれほど披露することはない。


この日の国には日の国なりの生活というものがあるのだ。


露西亜を巡って感じたのは、やはり諸外国は争いが終わらないということに尽きる。


よって、技術の進歩がなく田舎でしかない日の国の今の生活の方が平和なのではないかと感じている。


しかし、便利なことは幻影たちが大いに使い、その実態を見せないことで、早急な人助けもできるようになる。


特に医療技術は、日の国の医師たちが首をひねるほどに素晴らしいものだった。


よってこの日の国には、『救いの神』がいるとして崇める者まで現れた。


その姿を見た者が数名いて、赤一色の鎧と、巫女のような上半身が白で下半身が赤の鎧を纏っている神だ。


日の国の神で言えば、益荒男神とその巫女だという、適当なうわさが大いに流れた。


幻影たちはそのうわさを聞いて笑い話を聞いたように大いに笑う。



「ここにお邪魔するたびに気が変になりそうです…」と柳生三厳が室内を見回して大いに眉を下げて言うと、「見て知っておいて損はないさ」と幻影は気さくに言う。


「江戸に、来てくださらんのか…」と武蔵は幻影に言って大いに肩を落とした。


「御前試合のことか?

 俺たちの居場所はどこにもないさ。

 家光とは面識もないし、

 城にも顔見知りはもう数名しかいないし、

 面倒をかけたくないからね」


「…お師様の全てを知っていただければ…」と武蔵がうなるように言うと、「今更表舞台に出てどうしろって言うの?」と幻影が聞くと、「俺よりも強くなったくせに頭は固いヤツ…」と三厳が武蔵を横目で見て言うと、幻影は大いに笑った。


「ああ、そうそう!

 巌流島の佐々木小次郎ってやつと、船のかいで戦ったって?」


幻影が聞くと、武蔵は大いに眉をひそめて、「いつも通り二刀ですし、一刀は抜きませんでした…」と大いに迷惑そうに答えた。


そして素早く蘭丸を見て、「…見掛け倒しでしかありませんでした…」と武蔵は言ってうなだれた。


「ま、天下一の強さを誇る武芸者を決める戦いでもあるんだ。

 せいぜい頑張って、殿様を喜ばせればいいさ」


「いえそれが…

 一番を決める戦ではなくなったのです…」


三厳が大いに眉を下げて言うと、「三厳の父は、それほど三厳に自信がないようだな」と幻影が聞くと、三厳は武蔵をにらんで、「…こいつが直前になって出るなどと言ったからです…」と答えてうなだれた。


もちろん、徳川家指南役のお家のひとつなので、柳生の代表者が負けるわけにはいかないのだ。


「じゃあ、俺が主催してやるよ。

 日ノ本一決定戦。

 最終的な出場者はもちろん総当たりで、

 一番勝ち星を上げた者が勝利ということで。

 お大名だけで楽しまずに、

 世間一般の者にも楽しませて欲しいものだよ。

 なんだったら、俺たちも出るぞ」


幻影の陽気な言葉に、「…おやめくだされ…」と幻影たちの全てを知っている武蔵と三厳が同時に言った。


「別にいいだろ?

 何も太刀を握るわけではない。

 俺は素手だし」


さらに都合が悪いようで、ふたりは大いにうなだれた。


「幻影、さすがにそれはまだ厳しいのではないのか?」と信長が眉を下げて言うと、「武士の面子、ですか?」と幻影は少し笑いながら言った。


「階級差はまだある。

 分け隔てなく誰もが気さくに話し合っているのはこの近隣だけじゃ。

 まあ、ワシたちが怖いらしいが…」


信長の言葉に、誰もが大いにうなづいた。


「利用させてもらったその代わりの相撲大会というのもあるんですけどね…

 体が大きい方が比較的有利で勝てるという、

 少々つまらない催し物ですよ…

 …あ、だったら…」


幻影は満面の笑みを浮かべて、半紙を出して書きなぐった。


「…日ノ本一喧嘩決定戦…」と誰もが読んだ。


「もちろん、木製武器までならあり。

 素手で戦う者はその条件を承諾すること。

 剣術大会じゃなければいいと思うんですけど、

 どうです?」


幻影の言葉に、「荒くれ者が増えやせんか?」と信長は言って大いに眉を下げた。


「それを知った時、ぶっ飛ばしに行くので問題ないです」という幻影の言葉に、「…絶対行く…」と弟子のふたりは確信して言った。


「なあ! 弁慶に源次!

 俺と本気で戦いたいだろ?!」


幻影の言葉に、名前が出たふたりは大いに戸惑ったが、「修行にいたします!」とまずは弁慶が答えて頭を下げた。


源次は腹の辺りを見て、「鎧、脱ぐんだよね?」と大いに眉を下げて聞いた。


「鎧は普段の生活の身を守る術だからな。

 だからこそ、常に着ている俺たちは不利な要素も多いわけだ。

 だから鎧を脱いでの修行も必要だが、

 弁慶はやってるぞ?」


幻影の言葉に、「…やっておけばよかったぁー…」と源次は大いに嘆いた。


「だが源次の場合、脱いでいざ戦う時に、

 色々な想いが沸くさ。

 なあ、弁慶」


幻影が聞くと、「もう、遠い昔の高揚感でしかありません」と弁慶は少し寂しそうに答えた。


「俺も出る!」と蘭丸が言ったが、幻影が腹を見ると、「…産んでからだぁー…」とうなって、母のやさしさをもって腹をなでた。


「…じゃあ、早くても一年後にでも…

 だけど、今回はお蘭の意見は無視して、

 世間を見極め、話の流れから早めにやるかも…

 全国展開した法源院屋から情報を流すから、

 聞き逃す者はそれほどいないと思う」


「…時間をかけて、日ノ本一強いお母ちゃんになるよ…」と蘭丸が腹をさすりながら言うと、誰もが大いに苦笑いを浮かべていた。


「…ふむ… 何か作りたいのか?」


信長が聞くと、「平和ですが、有り余る力をいい方に使っている者が少ないように思うのです」と幻影は真剣な目をして言った。


「浪人と落ちぶれた武士たちの盗賊もいるからな…」と信長は言って小さくうなづいた。


「…正義感を叩き込んでやる…」と幻影が気合を入れて言うと、誰もが大いに怯えた。


「今の話、家光にしておいて」と幻影が気さくに三厳に言うと、「…心得ました…」と三厳は大いに苦笑いを浮かべて答えた。


「そもそも、剣術大会には何か企みでもあるんじゃないの?

 平和になったからこその権力争いだと思うんだけど?」


幻影が三厳に聞くと、「もちろん、指南役の権力争いや、その各藩の都合などもございます」とまずは三厳が答えた。


「となると、三厳は剣術以外の誰かと戦うわけだ」


幻影の言葉に、「そうなるはずです」と三厳は答えて頭を下げた。


「いろんなところで恨みを買われている武蔵も、

 相手は槍使いかもしれないね」


武蔵はそれはあると思い、素早く頭を下げた。


「…槍は実戦では使ってないけど、散々仕込まれたからなぁー…」と幻影が言うと、「えっ?」と誰もが言って、幻影を見入った。


「あ、手合わせしとく?」と幻影が聞くと、三厳と武蔵は勢いよく立ち上がって頭を下げた。


「…まさかでしたぁー…」と弁慶が大いに眉を下げて嘆くと、「俺のお師様は槍の名手だぞ」と幻影は自慢げに言った。


「槍を握っている姿など一度も見たことがない。

 よって、その腕が鈍っているかもしれんから、

 今の幻影になら勝てるかもな」


信長がにやりと笑って言うと、弁慶と源次も素早く立ち上がった。


そして楓も便乗して、大いに気合を入れて立ち上がっていた。


「槍はね、ある意味便利なのです。

 長いようで、そうでもないんですよ」


幻影の意味ありげな言葉に、誰もが一斉に惑わされて、困惑の笑みを浮かべた。


「五人もいれば、多くの手を見てもらえるでしょう」という幻影の自然な言葉に、「…なんだか楽しみになってきた!」と信長は言って大いに機嫌よく笑った。



幻影たちは屋敷を出て、工房の隣にある組み手場に出た。


幻影は槍ではなく杖を持って歩いている。


杖はただの棒だが、組み手の場合は槍となぎなたの代わりとして使われることはある。


幻影は組み手場の中央に立って、「順番をさっさと決めろ!」と幻影が叫ぶと、真っ先に木刀を持った弁慶が走ってやってきた。


「…緊張していますが、本当に楽しみです…」と弁慶が言うと、「それほどじゃないとね」と幻影は言って、杖を軽く回転させて、弁慶を正面に見て中段に身構えた。


「む?!」とすかさず信長がうなった。


まさにここには、あの勇猛な信繁がいたのだ。


「信繁のヤツ…

 死してなおも、ワシを楽しませてくれよる…」


信長はつぶやいて、大いに武者震いをしていた。


「よし! 始め!」と信長が叫ぶと、先手必勝とばかり幻影が前に出た。


そして右に飛んだことを確認した弁慶がすぐに追ったが、左手一本で振り回された杖の先端部分が、弁慶の脇腹を叩いていた。


「勝負あり!」と信長が叫ぶと、誰もが幻影が何をやって来たのか全く理解できずに目を見開いていた。


「本物の槍だと、見事に腹を抉られたな。

 お蘭の長太刀よりも長いから、

 間合いは重要じゃ」


信長の言葉に、弁慶は大いにうなだれたが、「お師様に教わることがまだまだあったことをうれしく思います」と弁慶はさらに高揚感を上げて、嬉しそうに言った。


「むぅー…」と三厳と武蔵が大いにうなっている姿を横目で見ながら、楓と源次が譲り合いをしていたが、ここは源次が走って幻影の前に立った。


「…兄ちゃんはずるいぃー…」と源次が大いに嘆くと、幻影はにやりと笑っただけだ。


「よろしくお願いします!」と源次はまさに挑戦者として大いに師匠を敬ってから、素早く木刀を中段に構えた。



信長の開始の合図に、まず突っ込んだのは源次だ。


槍の弱点はその間合いで、近接されると手がなくなる。


よってここは、幻影は杖の中央をもって旋回させた。


まさに槍の攻め手のひとつを見せつけられ、源次は大いに戸惑った。


この動きは、まさに攻防一体でしかなく、丸い盾がその身を守っているとしか思えなかった。


だが、杖の回転が止まったと思った瞬間に、源次は見事に頭頂部を叩かれていた。


「勝負あり!」と信長の非情の声が飛んだ。


「今のはひどいな…

 まあ、源次は間近でいいものを見せてもらったと思っておけ」


信長の励ましの言葉に、「…兄ちゃん、ほんとずるい…」と源次は言って、痛む頭をさすりながら組み手場の外に出た。


源次と入れ替わるように、楓が素早く走って、幻影に頭を下げて、左の木刀を上段に、右の木刀を下段に構え、その二刀を地面に水平になるようにしていた。


幻影がにやりと笑うと、「始め!」と信長の開始の合図が飛んだ。


幻影は杖を上段の木刀めがけて振り下ろすと、『カンッ!』と乾いた音がした。


もちろん、楓が攻撃を防いだことになる。


よって楓は右の中段に構えた木刀で反撃に出るのだが、「勝負あり!」という、信長の非情の声が飛んだ。


杖の先が、楓の腹をついていたのだ。


杖が上段の木刀に当てた瞬間に、その尻で腹を突いたのだ。


この早業は、まさに槍使いならではのものだった。


「斬ると突くを同時にできるのも槍の利点だ。

 せっかくの二刀も、間を突かれると役に立たんな」


信長の言葉に、楓はまだ動けなかった。


まるで夢を見ているようだった。


しかしようやく夢から覚めて、「ありがとうございました!」と何とか礼だけを言って、組み手場を出た。


そしてどうすればよかったのか大いに考え込み始めた。



次は譲り合うことなく、三厳が前に出て、間合いを見極めて立ち止まってから頭を下げた。


そして三厳は木刀を中段に構えた。


これはいつもの三厳の構えだ。


幻影は杖を中段に構えた。


「始め!」という信長の合図とともに、幻影は猛烈な突きを三厳めがけて放った。


三厳はたまらず下がり、その突きの鋭さを思い知った。


だが、杖の素早い動きを計り、左手一本で木刀を持って、体ごと旋回させて、杖を叩いた。


そしてそのまま幻影の側面に迫り、体を低く構えて、居合のような姿勢となった。


すると上方から杖が迫り、三厳はその軌道を読んでわずかに素早く下がった。


三厳としては槍対策はある程度はしていたので、それが功を奏していた。


するとなんと目の前にいたはずの幻影がいなくなっていた。


そして三厳は首筋を軽く押されて顔から地面に突っ込んだ。


「勝負あり!」と信長は興奮気味に試合を止めた。


「…飛んだな…」と信長はひとことで今の戦いを表現した。


もちろん幻影が何をしたのか、今の三厳は理解を終えていた。


杖を足掛かりにしてそのまま宙を舞ったのだ。


そしてまんまと背後に回って、首の後ろを刺されたことになる。


―― まさに多彩… ―― と三厳は思い、大いにうなだれた。


四人に対して全く違う手で攻め込める幻影は、まさに槍の猛者だと思い知っていた。



最後に幻影の前に立った武蔵は、槍の使い手と戦ったことがあるのだが、まさに力任せで叩きのめす意識しかもっていなかった。


だが今の幻影の杖使いは繊細この上ない。


そしてこれほどに細かい技を見せつけられると、次はさすがに荒っぽい技で来るだろうと武蔵は思い、いつもの仁王立ちで、木刀は下に向けたままだ。


幻影は基本的な構えで、杖を右側に構えている。


武蔵は、「…ふー… …ふー…」と小さく気合を入れながら、肩を上下させている。


まさに気合十分の様相だ。


信長の開始の合図とともに、まずは武蔵が打って出た。


武蔵はいきなり二刀を振り回し、攻防一体の攻めに出た。


幻影は武蔵が出る分下がる。


その眼は、武蔵の眼だけを見ている。


そして、その杖が武蔵に向いて放たれたと感じた瞬間に、武蔵は一瞬動けなくなった。


だが惰性で右の木刀を振り下ろしたが、その軌道は杖によって阻まれた。


そして幻影は杖を水平にして、武蔵の首元に押し当てた。


武蔵は左腕を振り下ろそうとしたのだが、杖に阻まれ無理だ。


もちろん右腕の木刀は杖に阻まれ振ることができない。


よって何もできずにそのまま真後ろに倒れ込んだ。


「勝負あり!」と信長は試合を止めて、何度もうなづいていた。


「武蔵は色々と見逃したことがあるはずだ。

 左足の甲、養生しておけよ」


信長の言葉を聞いてから、左足の甲に軽い痛みを感じた。


さらには、今になってどうして簡単に倒れ込んだのかを理解できた。


その左足のかかと辺りを足で払われたのだ。


まずは杖で左足の甲を押さえつけられ、杖を押し付けたと同時に左足のかかとを払うと同時に、杖で首筋辺りを押された。


これで倒れ込まない方がおかしいのだ。


「おまえら、全員失格だ!」とここで久しぶりに幻影の声を聞いたのだが、五人とも大いにうなだれた。


「特に三厳には重要なことを話しておいたはずだ!

 お前は今まで、無駄なことばかりを繰り返していたことになる!」


幻影の怒りに、「はっ! 申し訳ございません!」と三厳はすぐさま謝った。


そして、まだまだ思いが足りなかったと思い、自分の愚行と愚考を大いに責めた。


「いや、みんなお前ほどじゃないから、それは厳し過ぎる」という信長の言葉に、「はっ」と幻影は言ってすぐに頭を下げた。


「おまえたちの師匠は普段はへらへらしているが、

 戦いとなると誰よりも厳しい。

 それを知っただけでも、いい修行になったはずだ」


「…へらへら…」と幻影は言って、大いに苦笑いを浮かべた。


「…まあ、そう見えなくはないわ…」と蘭丸は信長の意見に同意した。


「おまえたちが戦いの中で倒れないようにと願いながら修行をつけているんだ。

 幻影の今までの言葉を大いに思い出した方がいい。

 真剣勝負の場合、出たとこ勝負で勝てるほど甘いものではない。

 相手の動きを先読みして動くことが必定。

 よって簡単なのは、心に決めた攻撃、防御、攻撃から一旦下がることだ」


信長の言葉に、幻影はすぐさまうなづいた。


「最後の攻撃からさらに攻撃をすれば勝てるなどという甘い考えは持たないことだ。

 相手はどんな隠し技を持っているのかわからんからな。

 一度下がることで、その隠し技を見せてしまう愚か者もいるものだ。

 下がることは臆病でも何でもない。

 深手を負わずに確実に勝つ攻撃の手でもあるのだ」


まさに戦略家の考えで、誰もが大いに納得していた。


「対する方法を先に考えておくことには意味がある。

 この件を考えながら修行に励め」


幻影の宿題に、五人は一斉に頭を下げた。


「見ている側は無謀に見えるが、そうではないものなんだよなぁー…」と信長が手がかりを話すと、幻影は愉快そうに笑った。


「利点がふたつもありますからね」という幻影の手掛かりの言葉に、信長は愉快そうに笑った。


「…力任せの私にはよくわからないわ…」と蘭丸が嘆くと、「お蘭の場合は、その行動が身についているからだよ」と幻影が明るく言うと、「…一生懸命頑張ってよかったぁー…」と甘えるように言って、幻影に寄り添った。


「…さすがに、妊婦に手合わせはお願いできないぃー…」と三厳は大いに嘆いた。


「藤十郎は槍は?」と信長が聞くと、誰もが一斉に、眉を下げている長春の隣にいる藤十郎を見た。


「頭でわかっているだけでございます」と藤十郎は言って、信長に深く頭を下げた。


「機会があったら、幻影と手合わせをして欲しいものだ」と信長が言うと、「はい、できれば逃げ切りたいところです」と藤十郎は言って笑みを浮かべた。


「その神髄を知っているからこその言葉だというわけだ」と信長が言うと、五人は一斉に頭を抱え込んだ。


「…ま、その時は大いに疲れるだろうから、藤十郎さんしか相手はできないだろうね…」と幻影は言って大いに苦笑いを浮かべた。


そして五人は思い知っていた。


弱くない者五人と戦って平気な顔をしているのだ。


決して虚勢ではなく、疲れを帯びていないことに、五人はさらにうなだれた。


「剣の達人よりも、槍の達人の方が怖いことはよくわかったはずだ。

 だがな、幻影以上の者はたぶんおらんから、

 それほど気負うことはない」


信長の甘い言葉に、五人は少し安心したようで、薄笑みを浮かべて、今は仏の幻影を見入った。


「今の組み手だけで思い知ったはずだ。

 疲れ切って勝つか、楽をして勝つかのどちらかだろう」


幻影の誉め言葉のような発言に、誰もが安心したが、楽をして勝たなければまた雷が落ちると思い、いばらの道を歩もうと、誰もが考え始めた。


「…ずっと一緒にいたのに、情けない…」と弁慶は言ってうなだれた。


「…叱られるけど、今日ほど厳しいお師様を見たことなかったよ?

 …声を出していないお師様はお師様じゃないみたいだった…」


源次の言葉に、―― それはある ―― と弁慶は考え、真田信繁が下りてきたんだと、本気になって考えていた。


「藤十郎さん。

 今戦っていた兄者は、兄者だと思われていましたか?」


弁慶の言葉に、藤十郎は少し目を見開いて、「私の師匠そのものだった」と答えた。


「そのものということは、兄者が真似をしていたわけじゃなく、

 信繁様だったということでいいのでしょうか?」


弁慶の言葉に、この場の時が止まった。


「…うーん…」と幻影は大いにうなってからかなり考え込んだ。


「…取り憑かれていたのかも…」という幻影の言葉に、信長は大声で笑った。


「私も、確認をした方がいいのかもしれない…

 お師様は、私と幻影様にとんでもないものを植え付けているのかもしれない…」


藤十郎の言葉に、幻影は杖を差し出した。


「少々訓練でもどうです?」


藤十郎は無言で杖を受け取って、すたすたと組み手場の中央に立った。


「…さっさと行かないと怖いぞ…」と幻影が小声で言うと、弁慶がすぐさま組み手場に走った。


藤十郎も手を変え品を変え、様々な方法で槍の技を繰り出す。


しかし、最後の武蔵を倒した瞬間に、藤十郎自身も倒れてしまったのだ。


「…あらら…」と幻影は眉を下げて言って、すぐに藤十郎に駆け寄って、藤十郎の体に手のひらを近づけた。


「…きっと、影武者の術、なんだろうなぁー…」と幻影が大いに嘆くと、「忍術だったわけだ!」と信長は叫んで大いに笑った。


「…はあ… そのように思います…

 ですがきちんと意識はあるのです。

 ただ、言葉を発する発しないで、

 その縛りがあるようで…

 だから私も藤十郎さんもひと言も口を開かなかったのです。

 ですが修行だとわかっているので、

 相手を極力傷つけないように加減はしていますが、

 戦場では加減なしです」


「…一瞬の気のゆるみで、命を落とすからな…」と信長は言って何度もうなづいた。


「…政江ちゃんの得意分野かもぉー…」と長春が眉を下げて言うと、「…大いにあるね…」と幻影も眉を下げて答えた。


「もっとも、誰もができるというわけでもないし、

 無理をすると、藤十郎のように限界に達してしまって動けなくなるわけだ。

 ここは、本人の修行次第ということのようだ」


信長の言葉に、誰もが一斉に頭を下げた。


「…剣術とかは…」と幻影は言って考え、「…槍だけのようだ…」と答えを出して眉を下げた。


「藤十郎は、影武者の任に就く術も持っていたわけだ」とまだ眠っている藤十郎を見て言った。


「…たぶんそうかと…

 ですので、どこからどう見てもお師様だったのでしょうね。

 ですが任から外れた時点で、

 もうお師様の影の役はできなくなったかもしれません」


幻影の言葉に、「それはあるな」と信長は眉を下げて言った。


「ですがもしできるのなら、また修行をつけて欲しいなぁー…」


幻影の言葉に、幻影の弟子たちは、―― 便乗したい! ―― と誰もが思った。


「ま、やめとけ。

 また生き急ぐことになりそうだからな」


信長の言葉に、幻影は大いに苦笑いを浮かべていた。



「だが、翼を使って飛ぶのは、

 根本的には気功術でいいのか?」


信長の言葉に、「気功術に対しては、基礎体力は修行で、その神髄は長門で勉強した成果だと思います」と幻影はいって、作業小屋に行ってからすぐに戻ってきた。


信長がその書を見入ると、「…普通、誰もできんだろ… 気功術は早死にの術だ…」と信長は大いに眉を下げて言った。


「…はあ、まあ… 私の第一印象と同じです…」と幻影は眉を下げて答えた。


「読んでもいいですか?」と弁慶が言うと、「弁慶は性格上お勧めできないけど、源次はいいかもな」と幻影が言うと、認めなかった方も認めた方も大いに眉を下げた。


「弁慶は幻影と同じで早死にを誘うだけ。

 源次はふたりよりも程が甘いから、それほどのめり込まないから、

 命にかかわることはなさそうだが、気功術の会得はたぶん無理」


信長の言葉に、「…あはははは…」と幻影たち三兄弟は大いに空笑いをした。


「ですので翼を使って飛ぶ場合」と幻影が言うと、肩と背中と胸が、一時期雄々しくなっていた幻影の体つきに変化した。


「気功術での肉体変化と、持っている力の合わせ技か…」と信長は正しく理解してうなづいた。


幻影は笑みを浮かべて元の姿に戻った。


「だけどふたりとも資格はあると思うから、

 できれば日々努力して近づいていってほしいと、

 師匠として願いたい」


幻影の控え目な言葉に、ふたりは頭を下げて、控え目に笑った。


「腕は変化しないのか?」と信長が言うと、「いえ、腕は逆に力を抜く必要があるので大きくしないのです」という幻影の言葉に、「あ、なるほどなぁー… いいなぁー…」と信長は大いに羨んだ。


「体形的には鳥と同じになるわけなんだ」と源次が言うと、「そういうこと」と幻影は笑みを浮かべて答えた。



幻影は徳川家の御前試合が始まる前に、『日ノ本一喧嘩決定戦』の募集を出した。


それに合わせて、琵琶一族がこの安土を去る最後の行事として公表した。


もちろん、信長と濃姫の承諾を得ている。


この日のために今回も準備万端なのだが、実は住む場所はまだ決まっていない。


しかし移住場所は決めていて、もちろん、法源院屋の支店がある場所だ。


居住場所が決まらなければ、法源院屋の庭にでも住んでおけばいい。


よって今回は、琵琶家だけが新天地に引っ越すことになっている。


もちろん、安土を出てついてくる商人なども多いのだろうが、居住先は家族しか知らないのだ。


そして信長は頻繁に鳩を飛ばして、地盤固めをしている。


幻影としては信長と濃姫の出身地でもある尾張にしようとほぼ決めかけていたのだが、「尾張はごろが悪いから戻らない」と言って拒否した。


確かに、『尾張』と『終わり』をどうしても考えてしまって、尾張に移住して終わってしまうことを大いに嫌がったのだ。


となれば、語呂とは少々違うが、「いよっ!」と叫びたくなるような威勢のよさそうな地名にしようと幻影がその地名を示唆すると、家族たちが大いに笑い転げた。


よって誰もが賛成したことで、移住先は簡単に決まった。


さらには温泉が近くにあり、ほんのわずかに足を延ばせば、さらに素晴らしい温泉地もある。


さらには琵琶湖よりも大きな海がある。


よって海の幸も山の幸も豊富なので、幻影がこの話をしただけで、もう引っ越すつもり満々となっていた。


そんな中、幻影と蘭丸の子が生まれ、幻影が言っていたこととは違って、なんと女の子だったのだ。


「…なんだか騙された気分…」などと幻影は言いながらも、阿利渚ありすという、少々ハイカラな名前をつけた我が子を大いにかわいがった。


名前の由来は、外来本の物語の主人公から取った。


「…俺はどっちでもいい…」と蘭丸は言って、大いに母の愛を阿利渚に向けていた。


幻影はある方法を使って、まだ腹にいる阿利渚と話をすることに成功していた。


そして母親の蘭丸がそれを認めていたのだ。


しかしさすがに、性別だけは誰もわからなかったのだが、話し口調から男子だろうと幻影はふんでいたのだ。


しかし、普段の蘭丸を見ていれば、―― 言葉づかいで決めちゃいけない… ―― と大いに思い知っていた。



すると、髷がほどけて落ち武者のような姿で、早馬を走らせている守山がやって来て、飛び降りるようにして下馬した。


「江戸に戻ってこい!」と守山はまずく叫んでから、「…み、水…」と言うと、大いに眉を下げている長春が保温急須を持って来て、大きな湯飲みにたっぷりと注ぐと、守山は頭を下げながらも冷えた水を浴びるようにして飲んだ。


「江戸は栄えてるからいいじゃん」と幻影がまさに友達のように言うと、「問題は大奥にあるんだよ…」と守山は大いにあきれ返って言葉にした。


「欲しいものがあるのなら、

 江戸の法源院屋から店主でも誰でも呼べばいいだけじゃん。

 俺が行く必要はまるでないんだけど?

 そんなことよりも、子ができた!」


幻影が上機嫌で言って、蘭丸から阿利渚を受け取って、これ見よがしに守山に見せると、「…うう、かわいい…」と守山は言って笑みを浮かべて阿利渚を見た。


「…ああ、そうだ。

 俺の予測でしかないんだけどな、

 奥の女性たちはお前に絵を描いてもらいたいような気がするんだ。

 もちろん、ただの絵じゃない」


守山の謎かけのような言葉に、幻影は考えたがよくわからなかった。


「春画、だろうな」と信長が眉を下げて言うと、「御屋形様!」と濃姫がとんでもない剣幕で怒りをあらわにした。


「…ああ、男女の絡みの絵ね…」と幻影は大いにあきれ返って言った。


濃姫以外の女性たちは大いに顔を赤らめていた。


「おまえの画力はほんと忠実だからな。

 まあもっとも、将軍様には内緒なんだろうけどな…」


守山は大いにあきれ返りながら言った。


「まあ、そう言われたら描かないわけでもない…」と幻影は言って、もうすでに察していた弁慶と源次が絵道具などを持ってきていた。


幻影はすらすらと描いて色付けをすると、「…うう、いやらしい…」と濃姫は言って、絵と守山を見比べた。


「俺を題材にするな!」と守山は大いに怒りまくったが、幻影は腹を抱えて笑っている。


「おまえ、大奥でモテモテだぞ?」


「…首が飛ぶじゃあねえかぁー…」と守山は幻影をこれ見よがしににらんで言った。


幻影は器用に守山の髷を結い直して、新たな絵を描いた。


「ほら、見合い用」と幻影は言って絵を渡すと、「…おー… ありがとー…」と守山は大いに感動して礼を言ったが、大いに頭を抱え込んだ。


「ま、平和でいいじゃないか」と信長が言うと、幻影だけが大いに笑っていた。


「だけど、まさかそれだけで早馬を走らせてきたの?

 ほんと、平和だよね?」


「…うう… 言い返せねえぇー…」と守山は大いに悔しがった。


そして守山は懐から油紙に包んだ書簡を出した。


幻影は丁寧に解いて、椅子に腰かけて机の上に書簡を広げた。


「…ふむ… これは難解…」と幻影が言うと、誰もが大いに目を見開いている。


難解どころか、長い半紙には何も書かれていないのだ。


「返答は、遊びに付き合っている暇はないとして欲しい」


幻影の言葉に、「…中身、間違えたとか…」と守山が眉を下げて言うと、「だったらさらに面白いね!」と幻影は陽気に言った。


「だけどもうひとつの可能性もあってね。

 書いてないように見えて実は書いてあるはずなんだ」


そして幻影は半紙を明るい日差しの日の光に向けると、「やっぱり、あぶり出しだ」と幻影は断定した。


すると誰もが素っ頓狂な顔をしていた。


「知らん者が多いようだな」と信長は笑みを浮かべて言った。


「こんな高等な遊びは、城の中でしかしていないはずですから。

 例えば、一枚は差しさわりのない文章を書いてあって、もう一枚はあぶり出し。

 そのあぶり出しの方が本題、とかね。

 文の保護として、何も書いていない半紙を入れておく場合もあるし、

 厚みがあると、重要なことと思ってすぐに読んでくれるかもしれないし、

 あとは礼儀として、それなりの厚みにしておくという意味もあるそうだ。

 ところ代われば品代わる、だよ」


幻影の言葉に、信長と濃姫だけが大いにうなづいた。


弁慶が火がついた炭と鉄板を持ってきた。


「あ、ありがと」と幻影は気さくに礼を言って、炭の上に置かれた鉄板の上に、半紙の左端を置いた。


「…朝日様?」と幻影が聞くと、守山は深くうなづいて、浮き出てきた文字を見入っている。


「花押も持ってるんだ。

 間違いない?」


幻影の言葉に、「ああ、みみず三匹」と守山が言うと、「…おまえ、手打ちだぞ…」と幻影は大いに眉を下げて言った。


そして右端から順にあぶり出しながら読むと、これは恋文だった。


「…何考えてんだか…

 これが世に知れたら、

 大奥追放だけじゃあ済まされねえだろ…

 まあ、それが願いで狙いなら、

 別に言いふらしてもいいんだけどな」


「知り合い」と守山は言って頭を振ってから、「大奥に入る前は加藤沙織様だ」と言うと、「…加藤姓の方はかなり会ったからなぁー… 出身は?」と幻影は聞いてから、ふと思いついた。


「伊予だ」という言葉に、「ああ、思い出した」と幻影は言って、加藤沙織との一部始終を話した。


「…ま、見初められたら断れないからなぁー…

 こういったことも悪しき風習だ…

 本当は何とか助けて欲しいと書きたかったようだけど、

 とりあえず、真実の想いを書いて、

 察してもらいたいと思っているんだろう。

 だから、大奥から救い出して欲しいんだと思う」


幻影の言葉に、誰もがしんみりとしたが、「それが罠で、実はからかわれている可能性もある」と幻影が言うと、「…ありそうだから、否定できねえ…」と守山は言って大いに眉を下げた。


「長門方面に引っ越すから、終わったら屋敷に行ってみるよ。

 それから、俺が婚姻して子がいることは言わないように」


幻影の言葉に、「…てめえ… どういう了見だ?!」と蘭丸が大いに怒り狂った。


「俺が独り身であることが生きる支えなんだ。

 真実を語れば、朝日姫には絶望しか残らない」


幻影の言葉に、「…うう…」と蘭丸はうなってから頭を下げた。


「…真実を知れば自害は考えられる…

 伊予に行ったとだけ、返事をしてもらうよ」


もちろん、直接文をもらったわけではなく、朝日のお付きの女官から託されたからだ。


「だが、問題がひとつ。

 琵琶高願が真田幻影だと誰が知らせたんだ?」


幻影の言葉に、「…大奥には知る由はねえはずだが…」と守山は言って考え込んだ。


「…またあいつか…

 …信楽お京…」


幻影の言葉に、信長がすぐに書を書いて鳩を飛ばした。


幻影がその似顔絵を描くと、「…長浜お梅…」と守山が答えると、幻影は大きなため息をついた。


「…面倒なことに巻き込んでくれたもんだ…」と幻影は大いに嘆いた。


信長はまた鳩を飛ばした。


一羽目は東の江戸方面だったが、二羽目は西の京に向かって飛んだが、少し南のようだ。


「まさか、引っ越し先の知り合いですか?」


幻影が信長に聞くと、「その地の殿様宛だ」と信長は言って笑みを浮かべた。


「それは話が早い。

 現地に行かなくても、

 大体の事情は理解できそうです。

 本当は朝日姫ではなく別の誰かの身代わりとして行った、とか…

 長浜お梅と話をして、里心が沸いてしまった、とか…

 真田幻影は必ず助けてくれる、とか…」


「今回は確実に消しますので」と弁慶は真剣な目をして言った。


「あいつは巻き込まれる方の迷惑を考えることはないようだね…」と幻影はあきれ返って言った。


「秀忠を脅して解放させるか…

 まあ、やりたくないけどな…

 その時に主犯を捕まえて引き渡してもいいけど、

 また面倒を起こしてくれそうだから、消した方がよさそうだ…」


幻影の言葉に守山は眉をひそめたが、「この女、何者なんだ?」と聞くと、「多分、俺とは血縁者だ…」と幻影が言うと、「面倒な親せきを持ったもんだな」と守山は大いに同情していた。


「始末するのはかわいそうだから、露西亜にでも行って置いて来るか…」


幻影の言葉に、「消すか、改心させるかのどちらかにしろ」と信長は言ってにやりと笑った。



すると、偶然なのか必然だったのか、砂埃を上げて与助が街道を走ってやってきた。


与助は大坂の最後の戦いの前に、信繁から暇を出されていた。


「戦場で戦うのは武士の役目だ」と笑みを浮かべて言われたらしい。


もちろん、影から手助けをなどと考えていたのだが、どう考えても邪魔にしかならないと考えて、戦場を遠くから見ていただけだった。


そして幻影が信繁の本懐を遂げたことも知り、命ある限り、幻影のそばにいたいと言ってきた。


幻影は断ることはせず、与助の生きる場所を与えた。


現在は信楽で従事しているのだが、どうやらわがまま姫が信楽に現れて、与助に簡単に捕まったようだ。


「いやー… ついてたぁー…」と幻影は双眼鏡を覗き込んで、明るい声で言った。


「ほら、へらへらしてるだろ?」と信長が弁慶に向けてにやりと笑って言うと、「…賛同したくありませんでしたが、おっしゃる通りでした…」と弁慶は渋々認めた。


「だがな、本気で怒っている方が怖くないような気がするんだ。

 今の幻影は少々怖く感じる。

 それは感情の相違…

 逆の表情や感情かもしれない…」


「…穏やかそうに見えて、実は怒りを抑え込んで落ち着かせるために…」と弁慶が答えると、「…さすが幻影の弟子だったやつだ…」と信長は言って、弁慶の頭を乱暴になでた。


与助は汗ひとつかかずに立ち止まって、「何かを企んでいます」と言って、縛り付けられて板の上に乗っている、信楽お京を見て言った。


「あ、まずは、こいつの本当の名前を教えてくれませんか?」と幻影が聞くと、「…あ、とんだ粗相を…」と与助は言って、幻影だけに小声で言った。


ほぼ予想通りの名前だったので、幻影は笑みを浮かべてうなづいただけだ。


「やあ、長浜お梅」と幻影が言うと、猿轡をされているお京は大いに目を見開いた。


「…長浜、お梅?」と与助は大いに戸惑って、幻影を見入っていた。


幻影が事実と予測を告げると、お京は幻影をにらみつけていた。


「じゃ、罰を」と幻影は言って、お京の顔をつかんだ。


そして瞳を閉じて、「…目… …鼻… …口… …耳… …舌… …喉…」とまるで呪文のようにつぶやいた。


幻影は目を開いて、「お京は五感を失いました」と幻影が言うと、誰もが大いに目を見開いた。


「繊細な部分なので、案外簡単なのです」という幻影の言葉に、誰もが大いに身震いしたが、「ふんっ!」と蘭丸だけは勇ましく鼻を鳴らしただけだ。


お京は目が見えず、何も聞こえなくなったことで大いに慌てふためいた。


そしてここで、与助にすべてを話した。


「…こいつは何がしたいんだ…」と与助は大いに嘆いた。


「最終的は俺たちに認められたいのでしょう。

 そしていい暮らしがしたいという、

 一般庶民の考えだと。

 威厳のある姫様の場合は、

 もっと冷静に、冷酷に事を進めるように思うのです。

 見た目はお姫様ですが、その底辺の感情でしかないと思います。

 お姫様のさわりの部分だけを経験したことが、

 こいつの不幸でしょう」


「…むう…」と信長はうなって、幻影の言葉を認めた。


「守山さん、こいつで間違いないですよね?」と幻影が聞くと、「ああ、間違いない」と守山はすぐに答えた。


「こいつが顔を出すたびに、大奥が替わり始めた。

 乱れ始めたと言っていい」


「春画もこいつが教えたんでしょう。

 俺が絵がうまいことはどこで…

 ああ、隠してなかったので、どこぞかで知ったのでしょう」


幻影はこの件は隠すことにしてとぼけた。


詳しく知ったのは、長春か政江が絵を見せたからだと察したのだ。


「だけど、年相応に老けたなぁー…

 俺よりも年上だったか…

 …あ、若返りの術があることも知って、

 面倒なことを考え出して、取引条件にでもしようと…

 …面倒に巻き込まれたくなければ、

 若返らせろ…」


幻影の言葉に、誰もが大いに苦笑いを浮かべていた。


「もちろん、穏便に仲間にした方がいいんだけど…

 上杉に引き渡して、後継ぎとして再教育してもらってもいいかも…

 …だけどその場合、また俺にまとわりつきそうだな…

 消すのが一番いいんだけど、

 消し癖がつくのは嫌だなぁー…

 …頭をそって、寺に入れるか…」


幻影が大いに悩んでいると、信長は声を殺して笑っていた。


「…考えが至りませんでした…

 兄者、申し訳ありません…」


弁慶の反省の言葉に、「いや、何事も経験だから」と幻影は気さくに言った。


弁慶は幻影の、『消し癖がつく』に大いに反応して、それも修行とすることに決めていた。


「…だけど、二度あることは三度ある…」と幻影は大いに考え込んだ。


「与助さん、こいつの弱点や長所短所を詳しく知りませんか?」と幻影が聞くと、与助は呆れるほど様々なことを並べ立てた。


一時的とはいえ、与助が面倒を見ていたのでこれは当然のことだ。


「…ひと言で言えば自由人…

 …自由人のうまいエサで、縛り付けられる何か…

 …だが、節度を持って、人を傷つけない、か…

 …だが、精神的な苦痛を誰かに与えていることをよくわかっていない…」


「監督不行き届きでした」と与助は言って頭を下げた。


幻影は信長に頭を下げて、「不本意ですが、仲間にして手元に置ておくことが一番だと」と幻影が言うと、信長は笑いながらうなづいて、「楓」と呼んだ。


楓はすぐさまやって来て、「不信な行動を見せたら即切れ」と信長は命令を与えた。


「はっ」と楓は短く答えて頭を下げた。


「じゃ、五感を元に戻して、

 説明しておきますよ」


幻影は言って、またお京の顔を鷲摑みにして、元に戻した。


「…うっ うっ…」とお京は涙を流して泣きだし始めた。


「ふーん… そこそこショックはあったようだ。

 もう一度やってやろうかと思ったけど、

 気が狂うのもかわいそうだからやめておくか…」


幻影の言葉にお京は目を見開いて、激しく首を横に振った。


「楓、猿轡を」と幻影が言うと、「はっ」と楓はすぐに答えて、お京の猿轡を解いた。


そして幻影がお京の処遇を述べると、お京は大いにうなだれた。


「もう逃げ道はないと思っておいた方がいい。

 もしも逃げたら、その時点で命はないと思っておいた方がいい…

 あ、それではあっけなから、やっぱだるまの刑にして生かし続けるか…

 自ら命を断てない自由すら奪ってやる」


幻影の言葉に、信長は少し目を吊り上げて、「それでよい」とお京を見ながら言った。


「あと、面倒なのはこいつに仲間がいないかだけど…」と幻影が言うと、「いないようよ?」と長春が眉を下げて言った。


「となると、さらに面倒な追跡者」という幻影の言葉に、弁慶と源次がすぐさま消えた。


「おっ! さっすがぁー…」と幻影はすぐさま二人を褒めた。


「…ワシは、年を取り過ぎたか…」と与助は大いに嘆いた。


「…ようそこまで考えられるもんじゃ…」と信長が眉を下げて言うと、「臆病なだけです」と幻影は笑みを浮かべて答えた。


「この程度の忍びなら、追跡も楽なものでしょう」と藤十郎は朗らかに言った。


「…手下だったのに…」とお京が大いに悔しがると、「隠れ蓑にさせてもらっただけさ」と藤十郎はなんでもないことのように答えた。


するとお京は、今度は与助をにらみつけた。


「あまりにらむと、その目をくりぬくぞ?」という幻影の言葉に、「ひっ!」と一声上げて、お京は大人しくなった。


「…動物の教育ぅー…」と長春が気の抜けた声で進言すると、「巖剛!」と幻影が呼ぶと、月の輪熊が出番が来たとばかりに勢いよく走って来て幻影に体当たりした。


「楓と仲良くして、こいつを見張ってくれ」と幻影が言うと、『…クーン…』と幻影を見上げて妙にかわいらしく鳴いてから、お京を見て、『…グルルル…』と低くうなった。


「なんか、切り替えがすごいな…」と幻影は言って少し笑った。


お京は大いに怯えて、巖剛を見入っているばかりだ。


「ほら、かわいいじゃない」と楓は明るく言って、巖剛に抱きついたが、お京はそうは思えなかったようで、身震いしてから失禁した。


「…やはり、動物的鍛錬が必要になるな…」と幻影は大いに眉を下げて言った。



すると、弁慶と源次が戻って来て、それぞれひとりずつを縛り付けて戻ってきた。


「あれ?」と幻影は言って、見覚えのある二人を見入った。


「…服部の手下ですな…」と与助が言った。


「仕事にありつこうと頑張っていたのかな?

 弁慶と源次に任せたから。

 頼んだよ」


「はっ 兄者!」とふたりは勢いよく返事をして、工房に向かって歩いて行った。


「使えるのなら使ってもいいし、

 程度によるけど、与助さんにお願いするかもしれません」


幻影の言葉に、「お任せ下され」と与助は胸を叩くように言ってから、弁慶たちを追いかけて行った。



「…あー… めんどくせえー…」と幻影がつぶやくと誰もが少し笑った。


「…まあ、亡き者にするよりも平和だからいいかぁー…」と幻影は言って、うなだれるようにして椅子に座った。


「…この先は、状況次第で動いた方がよさそうだ…」と信長は言ってから、「お疲れさん」と幻影の肩を叩いて言った。


「政治も一般的な生活も大いに保守的ですねぇー…

 まさに家康の性格をそのまま表現しています…

 だけど、嘆いてばかりじゃいられない…

 正当な理由があるのなら、正してやりたい…」


幻影が決意の言葉を述べると、「なにがあったんだ?」と信長が穏やかに聞いた。


「袖すりあったことと何も変わりません。

 長門の国の資料館の閲覧室で無心で書き写していた俺をずっと見ていて、

 休憩で外に出た時、話しかけてきたのです。

 特に偽名を使うことはなかったので、

 真田幻影とだけ伝えました。

 あとは日の国を旅してまわっていると。

 それなりに小ぎれいで、

 鎧の上に羽織はかま姿でしたので、

 どこかの国の学士だとでも思っていたはずです。

 その場に紛れるのであれば、

 同じ装いをしていれば目立ちませんから。

 朝日姫は何か予定があったようで、

 そのまま帰って行きました。

 これが全てです」


「…浮気はしていなかったようだ…」と蘭丸が言うと、「何年前の話だと思ってんの?」と幻影は言って大いに笑った。


幻影が語った話は、今から三十年も前の話だ。


「…朝日姫は当時まだ一桁の年齢だったと思います。

 出会った当時の竹千代と同じほどかなぁー…

 今会っても、たぶん気づかないように思います」


「奥に上がるほどだから、それなりの美貌なんだろう。

 年齢的には適齢期を過ぎているにも拘らず召し抱えられたんだからな。

 もちろん、お家の安寧を祈って江戸城に入ったことは間違いないはずだ」


信長の言葉に、「…そうですよねぇー…」と幻影は答えて眉を下げた。



今のところはこの話はここまでにして、幻影はひとつ背伸びをすると、「おい!」と蘭丸が叫んで幻影を見入った。


「え?」と幻影が蘭丸を見ると、蘭丸はほぼ眼下にいて、やけに視線が高い。


「…まさか、これが昇天…」と幻影が大いに眉を下げて聞くと、「…肉体ごと浮かんで行く昇天は聞いたことがないな…」と信長が苦笑いを浮かべて言った。


幻影はどうしてこうなったのかを大いに考え込んで、またゆっくりと背伸びをした時、「あ、背伸びは関係ない」と言って上下前後左右にゆっくりと移動して、その感覚を確認して地面に降りた。


「心の解放と心を操るとできるようですね…

 これは便利だけど、必ず指をさされますねぇー…」


幻影の言葉に、信長は大いに笑った。


すると、生まれて間もない阿利渚が幻影に向けて両腕を差し伸べた。


「興味が沸いたようだな」と幻影は言って、蘭丸から阿利渚をうばってから、またゆっくりと復習するようにして、前後左右と上下に移動して、阿利渚を大いに陽気にさせた。


「…俺の子なのに…」と蘭丸が大いに嘆くと、「俺の子でもあるぞ」と幻影は少し笑いながら言った。


幻影は阿利渚を蘭丸に渡して、蘭丸の腰を抱いてからまた宙に浮かんで、飛ぶ感覚を体感させた。


「…これが、幻影の世界か…」と蘭丸が感慨深げに言った。


すると阿利渚は心地よさそうに眠ってしまった。


「降りる時気をつけろよ。

 惰性に任せて歩いた方がいい」


幻影がゆっくりと地面に降りて、数歩歩いた。


「…貴重な体験だった…」と蘭丸は穏やかに言って、阿利渚に笑みを向けた。


「飛ぶの?」と琵琶家のわがまま姫が眉を下げて幻影を見上げて言うと、「願いを叶えてください」と藤十郎が真っ先に言ったので、「甘やかしてない?」と幻影が聞いたが、藤十郎は笑みを浮かべて首を横に振った。


「素晴らしいほどに穏やかで寛大な亭主を持ったもんだ」と幻影が言うと、「うふふ」と長春は言って、昔のように幻影に抱きついた。


幻影は小舟に乗るようなスピードで飛んで、出会う者すべてを驚かせた。


「早い早い!」と長春は童心に戻って叫んだが、速度を落とすと、大いに眉を下げて、地面に足をつけて少し走りながら止まった。


すると長春は藤十郎を見上げて、「同じことして?」とさらにわがままぶりを披露していた。


「気功術と関係あるのかい?」と信長が眉を下げて聞くと、「はい、心の縛り付けと開放が、理解できた切欠の様でした」と幻影は笑みを浮かべて答えた。


「ある意味、強制的に昇天させているようなものです。

 ですが肉体は逆らわずについてくるので、

 空を飛べるという順番ですね」


「何の見返りもなさそうだな…」


「はい、肉体を大きくする時と同じ感覚で、

 動けば腹が減る程度ですね。

 危険は何も感じません」


幻影の言葉に、信長は何度もうなづいていた。


「では試運転に、西に飛んだ鳩を追いかけて、

 松山城主に謁見してまいります」


幻影の言葉に、「ま、油断するなよ」と信長は比較的気さくにふたつの意味を持って言った。


ひとつは空をとぶことと、もうひとつは加藤嘉明の対応だ。


「秀吉の七本槍のひとり。

 都合が良ければ手合わせでもしてきます」


幻影は言って信長に頭を下げてから、杖だけをもって宙に浮かんで、一直線に四国を目指して飛んだ。


飛行術はまさに快適で、さぼっているように感じるが、急ぎの時は大いに使える。


河内辺りの景色を堪能しながら、内海を渡り讃岐に入ってすぐに伊予の国に到着してから一直線に松山城の天守閣を目指して飛んでいると鳩に追いついた。


幻影が腕を横に伸ばすと鳩は大いに驚いたようだが、逆らうことなく宿り木代わりに腕に止まって、安堵感が流れたように感じで鳩に笑みを向けた。


そして天守の謁見の間を確認して、履き物を脱いで廊下に降りた。


そこには松山城主である加藤嘉明がいて、幻影を見て目を見開いていた。


「琵琶高願です」と幻影は言って頭を下げると、嘉明は声を発することができずに、右の口角だけを上げていた。


「もちろん、お噂はかねがね。

 まさかこれほど早く謁見できるとは思っていませんでした」


幻影は言って、鳩から書簡を出して、素早く座ってからこれも目を見開いているおそば付きに小さな紙を渡した。


嘉明は目が覚めたようにして書簡を受け取って、「…ああ、この件か…」と言って眉を下げた。


「ちなみに、琵琶信影は織田信長様です」という幻影の言葉に、嘉明は大いに目を見開いた。


「では! そなたは真田幻影か?!」と嘉明は叫んでまた目を見開いたまま固まった。


「はい、もちろんです。

 少々若返りの術を使わせてもらいました。

 もちろん、信長様もお若くなられましたので、

 もう誰にもわかりませんし、

 名乗っても信じてもらえませんから。

 先にお知らせした通り、琵琶家はこの地に家を構えます。

 できることであれば何でもいたしますので、

 都合よく使ってやってください」


「…お、おう…

 今回の話、まさに夢のようだった…

 祭り!

 祭りもやってくださるのか?!」


嘉明の言葉に、「もちろんでございます」と幻影は笑みを浮かべて頭を下げた。


そして嘉明は幻影が背後に置いた杖を見た。


「一手、ご指南願いたいと思って持参しました。

 ですが先に、加藤沙織様のお話をお聞きいたしたく。

 ですがまずは、こちらの事情をお話いたします」


幻影は包み隠さずすべてを語ると、「…そうか… それほど前に、幻影殿と出会っておったか…」と嘉明は笑みを浮かべて何度もなづいた。


その時の沙織もこの松山から勉学のために長門に出向いていた。


長崎に入ってくる新しい知識は、長門で開花して、まさに勉学一色の国となっていた。


現在も引き継がれていて、わざわざ長崎に出向くことがないほどに、学士たちは誰もが勉学に明け暮れている。


「…朝日様はまずは家康公に目をつけられていたんだが、

 秀吉公崩御のいざこざで話がとん挫した。

 ワシとしては安心したのだが、今度は秀忠将軍に見初められてな…

 年齢的には適齢期は過ぎておったので安心しておったのだが…」


「長い間婚姻されておられなかった。

 何か理由がおありか?」


「…長門で恋に落ちたそうじゃ…」と嘉明は言って幻影をにらみつけた。


「私は当時十四才で、朝日様は六才程度だったと。

 なかなか一途な初恋ですね」


「だが、でかい魚を逃がしたことと何も変わらんわい」と嘉明は言って大いに笑った。


「…将軍の子を産めと炊きつけた方がいいか…

 私はもうすでに婚姻して、子もできましたのでね。

 もちろん、この件は解決を見るまでお話しするつもりはありません。

 朝日姫の唯一の希望が、

 私との婚姻のはずですから」


「…むう… 心得た…」と嘉明は言って、素早く頭を下げた。


「滞りなくすべての理解を終えたので、

 この先どうするのか、家族たちと決めます。

 もっとも、秀忠とは面識があるので、

 直談判してもいいんですけどね。

 高野山の大天狗の証明を江戸城でしたことがあるので」


「…それもつい今しがた見せてもらった…」と嘉明は大いに苦笑いを浮かべて言った。


幻影は懐からきんちゃくを出して、おそば付きに渡した。


「お口直しにでもどうぞ。

 では、一度戻ります。

 安土での最後の祭りを終えて早々に、

 こちらにお世話になりますので。

 できれば、未開拓地でもあれば、

 お貸し願いたいのです。

 その地を素晴らしい町に変えてみせましょう」


「ああ、首を長くして待っておる」と嘉明は笑みを浮かべて言った。


幻影は杖をもって立ちあがってふわりと宙に浮かんで廊下から外に飛び出して安土を目指した。


「…まさにまごうことなく天狗じゃ…」と嘉明は言って、お付きから巾着を受け取った。


「おっ! これが甘い菓子か!」と陽気に叫んで小さいものをひとつ口に入れ、「おー… 甘い甘い…」と上機嫌に言ってから、巾着をお付きに差し出して、「ひとつとれ」と言うと、お付きは頭を下げて、苺味の飴を指でつまんで笑みを浮かべた。


「…それもうまそうじゃが…

 まあ、この城下でも盛大に売られるから別によいか…」


この地の法源院屋でも扱っているのだが、少量でしかないので、わざわざ取り置きする必要がある。


もちろん気を利かせて献上してきたのだが、催促はしたくなかったようで、どうしようかと思案していたところだったのだ。


嘉明は大いに眉を下げて、お付きの幸せそうな顔を見て苦笑いを浮かべた。


「住処とされる土地の件ですが、

 祭りの相乗効果を狙い、

 今だ未開発の和気、道後温泉郷の近隣などいかがでしょう」


お付きの言葉に、「この地は、潤ったも同然じゃ!」と嘉明は大いに陽気に叫んだ。



幻影は安土に帰りついて、信長にすべてを話した。


「奥を出られたら、朝日姫は希望のひとつも沸くと思う」と信長は言って、逞しい男性陣を見て言った。


「食事をしてから江戸に飛んで、

 朝日姫を身請けしたいとでも話してきますよ。

 やりたくはないんですが…」


幻影の言葉に、「一日で済むんだからそれでよい」と信長は言って大いに眉を下げた。


幻影は食事をしてから企画書を書いて、安土を飛び立って、今度は東に向かった。


距離としては松山と同様で、やはり富士は美しいと、景色を堪能しながら江戸城の天守に飛び込んだ。


「秀忠、久しいな」と幻影が言うと、誰もが大いに幻影を見入った。


「…攻めてきた…」と秀忠がつぶやくと、幻影は大いに笑った。


「俺ひとりの力などたかが知れている」と幻影は言って座ってから、懐から書簡ときんちゃくを出して、お側付きに渡した。


おそば付きはすぐに秀忠に渡した。


「…うう、嫌な予感が…」と秀忠は言いながらも書を開いて目を見開いた。


「その催しと交換条件がある。

 奥にいる朝日姫を身請けしたい。

 理由は聞くな」


幻影の言葉に、「…うん、いいよ…」と秀忠は書簡を見入っていてほとんど上の空だった。


「…どういうこと?」と幻影がおそば付きに聞くと、「…先の御前様のご希望だったので…」と幻影の想いを察して述べた。


「まあ、それなりに年増だからね…

 いくら美しいとしても…」


「その件は、お答えを控えますが、

 お美しいことに違いはありません」


お側付きは目を閉じて姿勢を正して言った。


「あ、朝日をここに」と秀忠が言うと、室内にいた二名がすぐに部屋を出て行った。


この場に連れてくること自体、大奥から出ることを告げたに等しい。


ほどなく比較的質素な姿の朝日がやって来て戸惑いの顔をしたまま幻影を見入った。


「…真田、幻影様…」と朝日はつぶやいて、その身は固まった。


「そんなわけないでしょ」という幻影の気さくな言葉に、朝日はすぐに間違いに気づき、「失礼いたしました」と頭を下げてから、秀忠を見入った。


もちろん、三十五年前とそれほど変わらない若々しい幻影がここにいるわけがないと察したからだ。


「そなたは城から追放。

 琵琶高願が所望したから、

 引き渡すことに決まった。

 だが、この引き渡しの代償が、

 我が父がなしえなかった大事!

 そなたがここにいてくれてよかったと、

 まさに天にも昇る思いじゃ!」


朝日はこれほどの大ごとになっているとは露知らず、凄腕の商人の琵琶高願に頭を下げた。


「そういやそうだったな…

 江戸で俺たちが祭りをする必要は何もないから」


「…できれば、言葉を慎んでくだされ…」とお付きの武官が言うと、「別にいいんだよ、秀忠の方が嫌がるはずだから」と言う幻影の言葉に、「高願は人にあらず神」と堂々と言ったので、誰もが一斉に頭を下げた。


「神と友人になった自慢じゃ!」と秀忠は陽気に言った。



幻影たちは早々に開放された。


そして幻影は背中から翼装置を出して組み上げてから、朝日に背負わせた。


「空を飛んで、安土に戻るから」


幻影の言葉に、朝日は目を見開いた。


幻影は宙に浮かんで、朝日の翼装置の背にある鎖を握りしめて、朝日も宙に浮いた。


「じゃ、色々と打ち合わせもあるからまた来るよ。

 次はきちんと書簡を出して予告するから」


幻影の言葉に、「いいや、構わぬ!」と秀忠は陽気に言って、手を振った。


幻影も手を振り返して、天守を出てさらに上昇した。



朝日は大いにうるさかったが、幻影が指導をしてから、富士が見えていたころには落ち着いていて景色を堪能し始めた。


あっという間に安土に到着して、ふたりは大地を踏みしめた。


「お姫様が来た!」と琵琶家のお姫様の長春が陽気に言って挨拶を始めた。


「作戦終了だな」と信長は言って、目を見開いてこの状況を見ているお京に目を向けた。


「今から晴れて、加藤沙織様に戻られた。

 よかったですね」


幻影の言葉に、「…本当に、捕らわれの身のようなものでしたわ…」と沙織は言って大いにうなだれた。


そしてその沙織の美しさに、目を見開いている者が数人いた。


「慌てることはないさ。

 沙織様は俺たちのお得意様でもあるからね。

 しばらくの間は頻繁にお目にかかることだろう」


幻影の言葉に、今度は沙織が目を見開いたので、幻影は穏やかに説明した。


「…お父様ともうすでにお話を…」と沙織は言って満面の笑みを幻影に向けた。


「なにしろ歴戦の武人だからね。

 素晴らしい方が松山城主でよかったよ。

 温泉もあるし、すぐ近くは九州だし」


幻影の言葉に、特に女性たちの目が大いに輝いていた。


「今日はここに泊ってください。

 明日、松山に戻りましょう」


幻影の言葉に、「はい、お世話になります」と沙織は淑やかに言って頭を下げた。


「…寂しがってた…」と蘭丸が言って、これ見よがしに阿利渚を幻影に渡してきた。


「娘の阿利渚と、妻の胡蝶蘭です」という幻影の言葉に、沙織は苦笑いを浮かべたがすぐに頭を下げて挨拶を交わした。


「…胡蝶蘭様は武家のお出でしょうか?」と沙織が聞くと、「あの森家の姫です」という幻影の言葉に、「…あの、森家…」と沙織はつぶやいて、「…まさか、蘭丸様…」と言うと、「はい、そうですぅー…」と蘭丸は沙織に対抗して淑やかに言ったが、その高身長と背中に背負っている幻武丸が全てを台無しにしていた。


「…で… ですが… お若い…」と沙織がぼう然として言うと、「色々とからくりがあるのです」と幻影は言って、沙織の部屋の案内を長春に託した。


長春はすべてを察して、沙織と藤十郎を伴って宿屋に向かって歩いて行った。


「…阿利渚を返しやがれぇー…」と蘭丸がうなると、「娘を都合のいい道具に使うな」と幻影が言うと、蘭丸は大いにうなだれた。



幻影は松山に旅立つ前に、江戸で花火大会を行うことを説明した。


「順当順当…」と信長は機嫌よく何度もうなづいた。


「こちらの不利は何もありません。

 花火玉はもうありますので、

 今すぐにでも打ち上げられますからね。

 江戸城からも観覧できるように、

 台場から打ち上げる予定です」


幻影の言葉に、信長は納得してうなづいた。


「またこちらの願いがあれば、今度は祭りでも主催してやります。

 平和なことですから、後ろめたさが沸かなくていいです」


幻影の言葉に、信長は愉快そうに笑った。


「…朝日…

 いや、沙織殿はどのような結果を出すか…」


信長が眉を下げて言うと、「私に惚れてくれていた礼に、条件によっては若返っていただきます」という幻影の言葉に、「ふーん…」と信長は言って、ここにいる男性たちを見まわした。


「たぶん、彼女も槍の名手でしょう」という言葉に、誰もが大いに目を見開いた。


「奥ではなぎなたは必須のはずですので、

 それなりのことはやっていたかもしれません」


幻影は、まだここにいる守山を見ると、「ああ、聞いたことはある」と答えた。


「さすがに披露することはないわけだ」


「男手はいないからな。

 まさに勇ましい女人の館だから、

 もしも賊が侵入した時のために、

 一時対応としては確実に必要になるからな。

 だからある意味、手加減を知らないと思う。

 大奥の女人たちは、いろんな意味でまだ戦場にいるんだよ」


まさに守山が語った通りだろうと誰もが理解した。



翌日は朝食を終えてから、昨日のように空を飛んで松山城まで飛んだ。


嘉明は信じられないといった顔をして、我が愛する娘を抱きしめた。


「少々忙しいので帰りますので」と幻影が言うと、さすがに嘉明は止めにかかろうとしたが、沙織が落ち着いて琵琶一族の今後の予定を語った。


「…江戸で大花火大会…」と嘉明は言って沙織を見た。


「…うふふ… そのおかげで戻ってこられたようなものです…」と沙織は言って幻影に頭を下げた。


「今生の別れでもありませんから。

 ひと月後には、嫌というほどに顔を合わせることになります」


幻影の言葉に、嘉明は少しうつむいて、薄笑みを浮かべて、「…そうでしたな…」と穏やかに言った。


「ああ、これだけは伝えておきたい!」と嘉明は思い出したように、琵琶一族の住む土地について説明をした。


「その地を眺めてから帰ります」と幻影は言って頭を下げて、外に飛び出してから、天守の屋根に昇って温泉郷の目途をつけてから真東に飛んだ。


「…真田幻影様でした…」と今までとは真逆の感情で沙織が嘆くと、「…そうか…」と嘉明は眉を下げて答えるしかなかった。


「…ですが、まだ独り身の素敵な男性も大勢おられるのです…」と沙織はかなり立ち直って、笑みを浮かべて言うと、「おまえだけは自由に生きて欲しいから、ワシは口出しはしないから」と嘉明は穏やかに言った。


「それにね、この先の生きがいとして、寺子屋でも開けばいいって、

 琵琶家のお嬢様におっしゃっていただきました。

 お嬢様はお勉強がお嫌いでしたが、

 幻影様にたいそう指導されたそうなのです。

 三十年も前の、あの日のことを懐かしく思い出して、

 その後の鬼のような幻影様も簡単に思い浮かびましたわ…」


沙織が悲壮感をあらわにして語ると、「…それほどのお方だったわけだ…」と嘉明は言って何度もうなづいていた。



幻影は左手に和気温泉郷、右手の道後温泉郷を見入って、満面の笑みを浮かべていた。


その中央には、少々広大な空き地が広がっていたのだが、城から要請された人足なのか、現在は必死になって草刈りをしている。


そしてふと、至るとことに看板が立っていることに気付いて見ると、『琵琶御殿町(仮称)建設予定地』と書かれていた。


横に長い町になるのだが、どちらの温泉町も大いに栄るだろうと幻影は思って、さらに上昇してから安土を目指した。


しばらく飛んでいると素晴らしい出汁のにおいが漂ってきたので、幻影は墜落するようにして人気のない森に降りて、まるで温泉郷のように湯気が立っている町を見入った。


もちろん幻影には知識があって、ここにはかなり前にも立ち寄った。


讃岐はうどんで有名で、まさにコシのあるうまいうどんを食わせるのだ。


そして今回は出汁の好みだけで選ぼうと思い、この通りでは一番小さな店に入った。


「らっしゃーい!」とまだ幼い男子が幻影を歓迎した。


「三人前ほど頼むよ」と幻影が言うと、「きっと、多いよ?」と男子が言うと、「絶対に全部食うから!」と幻影は言って、この讃岐で流通している小銭を出した。


「…兄ちゃん、金持ちだぁー…」と男子は言って、一文銭を十八枚手に取って、「毎度あり!」と幻影に向けて満面の笑みを浮かべて言ってから、「釜揚げ三丁!」と機嫌よく叫んだ。


「こらけん坊! 三枚多いぞ!」と店主らしき男性の声が聞こえた。


幻影は全く気にすることなく、仕切られている厨房を見ていると、眉を下げてまだ若い男性が、湯気が立っている大きな桶を持ってきた。


そしてけん坊と呼ばれた男子が眉を下げて出汁が乗った盆を持ってやってきた。


「ここで打ってるのかい?」と幻影が気さくに効くと、「へえ、そうでさあ」と男性は言って桶を置いてから、「取りすぎとりました」と言って三文返してきた。


幻影は何も言わずに、出汁を小鉢に注いでから、猛然たる勢いで食べ、店主とけん坊の目を見開かせていた。


「あ、あと三人前」と幻影は言って、一分銀を出して、「もし余ったら、うどんを買って帰るから」という言葉に、「へい! 毎度!」と店主は大いに高揚感を上げて答えてから、厨房に入って行った。


幻影は結局九人前を平らげて、家族分のうどんをもらって、「いやー… うまかったぁー… またくるから!」と機嫌よく言うと、店主もけん坊も満面の笑みで礼を言って幻影を送り出した。


すると店の外に人だかりができていた。


「なにか?」と幻影が聞くと、「…この店、そんなにうまかったのかい?」と旅装束の男が聞くと、「うまくなきゃ、九人前は食えないさ」と幻影が言うと、誰もが慌てて店に入って行った。


幻影は本当のことを言ったまでだ。


すると今の会話だけでこの狭い店に行列ができたが、けん坊が出て来て、「ごめんなさい! あと二十食しか準備できないのです!」と大声で断りを入れた。


幻影は手に持っているうどんを見て少し眉を下げた。


その包みには、どう考えても五十食分ほどのうどんが入っている。


「けん坊! 明日また来るから!」と幻影は言って、包みを渡すと、「うん! わかったよ兄ちゃん!」と言ってから、「あと八十人前だよ!」と明るい声で叫んだ。


―― 六十人前もあったんだ… ―― と幻影は思って、人がいない場所に移動してから飛び上がって、安土を目指した。



「…うまいうどんだった…」と幻影が言うと、誰もが大いにうらやましがっていた。


もちろん、土産を店のためにと思って返して戻ってきたことも告げたので、誰も文句を言えなかった。


「明日、行くの?」と長春が大いに眉を下げて幻影に向けて疑問形で懇願の目をして言うと、「…今から打つから…」と幻影は大いに眉を下げて言って、貯蔵倉庫に足を運んだ。


もちろんうどんの打ち方もしっかりと勉強していて、さらには出汁もかなりうまいものができた。


そして少量だけ打って味見をすると、「…さっき食ったばっかなのにうめえー…」と幻影は恍惚とした表情をして微笑んだ。


幻影のうどんのもてなしに、家族たちは夢中になって食い、うどんをすする音しかしない。


すると商人たちが琵琶家の庭の前に集合してきたので、「あるだけご馳走するよ!」と幻影は言って、街道側の庭に机を五台置いて誘った。


幻影はまさにうどん屋の店主になって、「あと五十枚だよ!」と陽気に叫んで客寄せをする。


そして誰もが満足して、わずか半時ほどですべて腹の中に納まった。


「…そばもいいが、うどんもいい…」とこれから江戸に帰る予定にしていた守山が笑みを浮かべて言った。


「…やはり、いろんな土地に足を向けないと、その神髄はわからんな…」と信長は陽気に言ってうどんをすすった。


「…庶民の食べ物なのに… 庶民の食べ物なのに…」と濃姫は言いながらも大いにうどんをすすっている。


小麦はてんぷらを揚げるために多少仕入れていたのだが、今後のことを考えると、三倍ほど仕入れておくことにした。


その御用聞きの法源院屋の丁稚もうどんをすすっていたので、ついでに注文しておいた。


「摂津で食べたうどんと違いますね」と弁慶は言って、最後のひと口をすすって、出汁を飲み切った。


「歯ごたえが違うだろ?

 讃岐のうどんは異様に腰が強いんだ。

 そして安くて大いに腹が膨れるが、

 比較的早く腹が減ることだけは要注意だから、

 てんぷらなどをおかずにして食べた方がいいかもな。

 これを置き土産にするから、

 できれば続けてもらいたいね」


幻影の言葉に、ここにいる者たちは大いにうなだれていたが、うどんのうまさの誘惑に負けて、誰もが一斉にうどんをすすり始めた。



幻影は翌日、讃岐のうどん屋に行くと、今日も大盛況だった。


店先にはまたけん坊が声を張り上げている。


「今日も忙しそうだな…」と幻影が言うと、「あっ! 兄ちゃん!」とけん坊は笑みを浮かべて言って店内に戻って、昨日もらい損ねたうどんを抱えて持ってきた。


「忙しいところ悪かったね」と幻影は言って、身を隠せる場所を探していると、「琵琶高願様!」と店主が店から出て来て叫んだ。


「忙しいんだから仕事優先だよ。

 また来るから」


幻影の言葉に、店主は素早く頭を下げて、店に戻って行った。


「…琵琶高願様ぁー…」と今度はこの讃岐の法源院屋の丁稚が幻影を見上げていた。


「…や、やあ… 何か用?

 これから帰るんだけど…」


「ご主人が、現れたら連れて来いって…

 逃したら、ただじゃ済まさないって…」


丁稚の言葉に、「…面倒なヤツが多いね…」と、幻影は言って大いに眉を下げた。


そして、「本店に言いつけると高願が言ったと伝えておけばいいさ」と幻影が言うと、「…承知しましたぁー…」と泣き出しそうな丁稚が言って、足早に旅人たちに紛れて言った。


幻影はすぐさま身を隠して飛び、今の一部始終を信右衛門に伝えるため、久しぶりに京に飛んだ。


信右衛門は本店にいた。


というよりも、隠居の身なので、ほぼ京にいる。


幻影は大歓迎されて、一部始終を話すと、「…しょうがないヤツらだ…」と大いに憤慨して、丁稚に指示して書を書かせた。


全ての店に琵琶家に迷惑をかけるなという文面だ。


信右衛門は茶を用意させ、「…次は伊予ですか…」と言って、少し寂しそうに言った。


「ひとっ飛びだから、

 今日のように用事があればまた来るさ」


幻影の言葉に、信右衛門は笑みを浮かべてうなづいた。


「讃岐でうどんを買ってきたけど食う?」と幻影が言うと、信右衛門は礼をいって遠慮なく受け取った。


そして幻影は厨房に行って、出汁づくりを指導した。


さらにはついでにてんぷらを揚げて、この大店の従業員全員の腹を満足させる食事の準備を終えた。


信右衛門はさらに恐縮したが、「いい冥途の土産ができた!」などと言って喜んでいる。


本店に来たついでに、応募が締め切られた、『日ノ本一喧嘩決定戦』の応募者が書かれている冊子を受け取って安土に戻った。


出場者全員に旅賃として給金が支払われるのだが、それほど多くの出場者はいない。


その土地土地で大いにけん制しあった結果なのだろう。


それでも参加者は五百名を超えていたので、当日は大盛況になるはずだ。


もちろん、見物人も多く出るので、まさにお祭り騒ぎとなるはずだ。


よって宿の予約も大いに入っている。


だが予約する者は書簡を送ることができる高い身分の者だけなので、その三倍ほどの部屋を用意しているし、さらに安価で、雑魚寝ができる道場のような部屋も準備している。


この祭りがこの地での最後の催しものだと思うと少々寂しいが、まだまだ幻影たちの旅は始まったばかりなのだと思い、あまり気にしないことに決めた。


幻影たちが伊予で暮らしても、この安土がなくなるわけではないのだ。


気が向けば、また安土に観光旅行にでも来ればいいだけだ。


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