表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/37

赤戦艦 akasenkan


   赤い幻影 akaigenei ~土着編~



     赤戦艦 akasenkan



京の都はまたお祭り騒ぎとなっていた。


しかし空飛ぶ戦艦の船体に描かれている、法源院屋、琵琶家、徳川家の紋様がよく見えるので、それほどの騒ぎにはならなかった。


京の住人たちは、比較的いつものことと誰もが納得していたからだ。


大中二隻の戦艦が御所に降下してくると、「…二艘で来るとは…」と後水尾は苦笑いを浮かべて言って、幻影を歓迎した。


「…逞しい女子たちじゃ…」という後水尾の言葉は歓迎されることなく、蘭丸たちは大いに怒っていた。


「女子はこっちこっち!」と阿利渚が両腕を上げて飛び跳ねながら陽気に呼ぶと、女官たちはまるで子供のようになって阿利渚の言葉に従った。


「…なんという…」と後水尾は阿利渚の存在感に大いに注目していた。


「俺の子だからな」という幻影の自慢に、「…やはりそうだった…」と後水尾は言って大いにうなだれた。


「…官位は、主三位でいいか?」と後水尾は控え目に言った。



まるで公家の引っ越しのように、約五十名の乗客を乗せて、景色をそれほど堪能することなく、二隻の戦艦は速やかに会津に到着した。


祭りの会場はまさに厳戒態勢だが、嘉明が先頭に立っているだけでほかの藩からの援軍は頼まなかった。


もっとも今決まったことなので、呼んでいる暇がなかったいう理由が正しい。


二艘の船は大きな囲いがある場所にゆっくりと降り立った。


そして滞りなく、男女別の特別室に移動した。


女官の部屋は妙栄尼が責任者で、男子の方は幻影だ。


そして子供たちはどちらの部屋に移動しても構わないことになっているので、物珍しそうに広い室内の探検を始めた。


その通路の監視役は、弁慶と沙織、そして源次と志乃に託されている。


施設内と外は忍びたちが暗躍していて、草太と竜胆は施設内で見張りを始めた。


琵琶家の家人のほとんどは常に公家に張り付いていて、この部屋から出ることはない。


よって息が詰まらないように、大きな部屋をふたつ造り、さらには屋台を準備している。


室内は人の目を気にすることなく、大いに堪能することが可能となっている。


もちろん、退屈をしないために、壁という壁に幻影の描いた絵画を飾ってあるので、一瞬でも手持無沙汰にならないような工夫を施されていた。



一回目の軽業興業が始まり、誰もが最前列で忍びたちの妙技に驚き、動物たちに癒された。


昼餉は幻影自らが最高級料理を振舞い、公家であろうが誰も食ったことがないうまいものをずらりと並べた。


昼餉のあと、ずっと室内というのも問題なので、ここは空飛ぶ戦艦を使って、会津近隣の遊覧飛行をした。


そして二度目の軽業興業も堪能してから、大花火大会が始まった。


夕餉を食しながらの花火見物に、誰もが夢を見ているような気分となっていた。


夕餉が終わってもまだ花火大会は続いていたが、公家たちを速やかに戦艦に乗せて、今度は空から花火見物をした。


まさに最大級の盛り上がりとこの運用方法に、後水尾は幻影に大いに礼を言った。



そして最後の巨大な花火を見終えて、二艘の戦艦は京の御所に戻った。


幻影たちは御所近隣の安全確認をして、公家たちを御所に下ろし別れを告げて、会津に戻って行った。


すると和子が大いに眉を下げて後水尾に寄り添った。


「阿利渚様に同情されてしまいました…」と和子が言うと、「…そうだな… この先もさすがに、我ら全員を一斉に外に出すことは、誰もできんだろうからな…」と後水尾は眉を下げて言った。


「ですが素晴らしいおもてなしでした。

 今日以上の催し物はもうないことでしょう」


和子は悲観的なことを言ったが、笑みを浮かべていた。


「…第二回もあることを望みます…」


和子のさらなる言葉に、「…ああ、幻影に無理を言おう…」と後水尾は笑みを浮かべて言った。



「…次は関でやるの?!」と長春が妙な口調で、琵琶御殿で寛いでいる幻影に聞いた。


「公家は呼ばんぞ」と幻影が苦笑いを浮かべて答えると、「…大変だもんなぁー…」と長春はきちんと理解して言った。


「ああ、大いに肩がこる」と信長が言うと、信幻たち子供たちが信長の体中をほぐし始めた。


まさに信長の至福の時だった。


「まあ次がある時は、徳川家だろうな…」と幻影は大いに苦笑いを浮かべて言った。


「…出歩けんわけではない、勝手に来いと言っておけ…」と好々爺となっている信長が言った。


「…悪いことしてないのに、みんな閉じ込められてる…」と阿利渚が眉を下げて言うと、「それを望んでいる者が半数以上だ」と蘭丸が堂々と言った。


「…うん、そういう人もいたぁー…」と阿利渚は大いに嘆いた。


「俺たちがこの御殿から出られないと考えれば想像は簡単だ。

 だけど、閉じ込められることが仕事の一環でもあるという、

 そういった種族…

 というか職種、職業だな」


幻影の言葉に、「…将軍家も近いものはあるな…」と信長が言うと、「…そうだぁー…」と阿利渚は言って信幻を見て眉を下げた。


「城の仕事は辞めたから」と信幻が言うと、「そうなのっ?!」と阿利渚は驚きの声を上げて、幻影を見入った。


「ああ、間違いないぞ。

 信幻も俺たちと同じように仕事をすることになったんだ」


「…ああ、うれしい…」と阿利渚は信幻にまずは言ってから、配下の武蔵にも家忠たちにも言って回った。


「…平等だな…」と幻影は言って、愉快そうに笑った。


そして最終的には竜胆を仲間にして、小手先仕事の機織りに誘った。


「…竜胆が狙いだったのか…」と幻影が大いに眉を下げて言うと、「…さも当然のように扱いました…」と信幻は大いに眉を下げて言った。


「かわいいから、

 頼りになるからという理由だけで婚姻した夫婦もいるから、

 人それぞれだよ…」


幻影が長春と藤十郎を示唆して大いに嘆くように言うと、「…あははは…」と信幻は空笑いをした。


「…信幻様と夫婦になっていいですかぁー…」と竜胆が阿利渚に聞くと、「うん! いいよいいよ!」と阿利渚が明るく答えたので、信幻は大いに苦笑いを浮かべて大いに落ち込んだ。


まだ四才にもなっていないので、さすがに恋愛は早いし、阿利渚としては幻影と婚姻することを決めているので、この会話は当然のことだった。


しかし竜胆はもうその気になっているが、「信幻兄ちゃんはどうなの?」と阿利渚は小首をかしげて信幻に聞いて来た。


「好きな人はいるよ」という信幻の回答に、「…竜胆ちゃん、ざんねぇーん…」と阿利渚は眉を下げて言った。


「…じゃあ、やっぱりお父さんしか…」と竜胆は言って幻影を見た。


「うん! 私もだから!」とまさにこのふたりはまるで親友のようになっていた。


竜胆の性格は年齢よりも少し幼いので、阿利渚といい友達となれたようだった。


「幻影はダメだと言っている!」と蘭丸が大人げなく本気で言うと、「…とと様はダメだってぇー…」と阿利渚が悲しそうに言うと、竜胆も悲しそうな顔をした。


「私も幻影様がいいわぁー…」となどと女官たちが調子に乗って言い始めたので、蘭丸は大いに怒り狂い始めた。



松平影達は頭を抱え込んでいた。


この関の地は幕府直轄領なのだが、さすがに勝手なことはできない。


施設を作る時は幕府の許可が必要になる。


その大役を幻影が影達に申し渡したのだ。


関の地もまだまだ空き地は多いので、軽業興業施設を建てることは問題ないのだが、見た目が砦に見えてしまうので、そうではないことを図と文章できちんと説明しておく必要がある。


もちろん、幻影が作成した文章などは常に見ているのだが、それを自分が作るとなると大いに腰が引けてしまう。


さらにはこの文書の作成にそれほど時間をかけるわけにはいかない。


影達の修行の時間を占有されているからだ。


考え込んでいても仕方がないので、必要な部分だけを抜き取って簡単に理解できるものを作り上げてから、それを元にして清書を始めた。


そしてひとつ確認することができたので、影達は立ち上がって工房に行った。


幻影は木材の加工中だった。


「今回の施設の貴賓席はどうされるのでしょう」と影達が聞くと、幻影は考えることなく、「必要になるから、含んでおいて欲しい」と気さくに答えた。


「あとで継ぎ足すと大仕事になりますからね。

 了解しました」


影達は幻影に頭を下げて御殿に戻った。


すると書室に信長がいて、影達の作成文書を見入っていた。


「…お恥ずかしい…」と影達が言うと、「いや… ある意味これも才能か…」と信長は言って影達の肩に手を置いてから、「今一歩自信を持て」と言って部屋を出て行った。


―― …自信を… 持っていいのだろうか… ―― と影達は思って席について、慎重に清書を終えた。


―― これで修行に勤しめる… ―― と影達は思ったが、そうは問屋は降ろさなかった。


影達が書類一式を持って幻影に提出すると、幻影は源次を呼んだ。


「これから二人で江戸城に飛んで、

 文書の認定を受けてきてくれ」


この移動もある意味修行には違いないが、影達は大いに焦っていた。


源次を信用していないわけではないのだが、できれば幻影にもいてもらいたかったのだ。


―― …今一歩自信を持て… ――


影達は信長の言葉を思い出していた。



影達と源次は江戸城に登城してすぐに、秀忠と家光の謁見の許可を得た。


そして影達は、「関に建てまする、軽業興業所の書類ひと揃えでございます」と言って、駆け寄ってきた小姓に手渡した。


小姓は秀忠に書類を渡したのだが、「むっ!」といきなりうなった。


そして裏表紙を見て、「…今回は初めて幻影の書類ではない…」と秀忠がうなると、「へー…」と家光が言って覗き込んだ。


「松平として鼻が高いぞ、影達」といきなり家光にお褒めの言葉をいただいて、影達は大いに恐縮していた。


「…ま、魚効果が覿面に出たようだね…」と源次が明るく言うと、影達は大いに苦笑いを浮かべて頭を下げた、


秀忠と家光は親子仲よく子細に書面を読み解き、「…作図の必要がないほど、素晴らし文章と文字だった…」と秀忠は大いに機嫌よく言った。


そして許可証を書き上げて、家光が直接影達に手渡した。


まさに畏れ多いことだが、影達は作法通りに受け取って、素早く書面を見て、用意してあった薄い書箱に書を収めた。


「むっ! その書箱を見せよ!」と秀忠がすぐさま言うと、もう小姓が手にしていて、「幻影様が作られたものではありません」と秀忠に報告した。


「…我の言葉をとるなぁー…」と秀忠はうなってから少し笑った。


「…最近は、細かい作業も任されるように代わってまいりました…」と影達は恥ずかしそうに言った。


「…だからこそのこの書にこの図面か…

 …幻影とはひと味違ってこれもよい…」


「…私に足りないのは自信を持つことと、

 我が主にも指導された次第でして…」


影達が照れ臭そうに言うと、「…それはすべてに共通してのことじゃと、我は思う…」という秀忠の言葉に、影達はすぐさま頭を下げた。


影達は大仕事を終えて、陽気な源次とともに関に戻った。



影達は信長と幻影に仕事の首尾の話をして、許可証を見せた。


「…家光は字をもっと練習するべきだ…」と幻影が大いに嘆くと、信長が大いに笑った。


「面と向かって苦情を言うやつはおらんからな」と信長は言って鼻で笑った。


「影達は我が琵琶家の家老のひとりとして働いてくれ」という信長の言葉に、影達は目を見開いた。


「おっ! 家老仲間がようやくできた!」と光秀は陽気に喜んで、影達と肩を組んだ。


「光秀には広い目ですべてを見てもらっていたが、

 これからは外だけの目として働いてもらう。

 影達は内の目じゃ。

 今回のような我らが請け負う仕事に関してはこれに当たる。

 これで幻影が少しでも楽になればそれでよいからな。

 幻影はこの先、ある意味忍びとしてワシに仕えてもらおうか。

 そして基本は自由じゃ」


信長の言葉に、幻影、光秀、影達は一斉に頭を下げた。


「便宜上こうしておかんとな、

 幕府が影達を返せと迫ってきよるからな。

 だが、影達がそれがいいのならば、

 我らは意見はせぬ」


「いえっ! 私も信幻様と気持ちは同じでございます!」と影達はすぐさま答えた。


「あいわかった、それでよい」と信長は機嫌よく言って源次を見た。


「のどから手が出ておりました」と源次が報告すると、信長と幻影は大いに笑った。



琵琶家一同は現楽涅槃寺のすぐ近くの空き地に軽業興業施設を早速作り始めた。


もう看板は出ていて、街道を行き交う人々は笑みを浮かべて工事現場を眺めた。


基礎が終わって早速壁が立つと、そこには、『天領関軽業興業所』と大きく描かれていて、子供たちが喜びそうな動物たちの絵を幻影が描き始めた。


まさにこの平和な建物を誰も砦とは思わないだろう。


よってまだ公表はしていないのだが、この関で祭りがあると、誰もが疑っていなかった。


妙栄尼たちが寺の掃除を始めると、大勢の地元の子供たちがすぐさま手伝いを始めた。


「いいことがあるかもしれないわ」と妙栄尼が笑みを浮かべて言うと、子供たちは満面の笑みを浮かべた。


「…小さな花火大会、するぅー…」と長春が言い始めると、子供たちはもういいことがあったと思って大いに喜んだ。


「…暗くなったら河原でするぅー…」と阿利渚も言い出したのでもう止められなくなっていた。


「夜から雨だ!」と幻影が叫ぶと、子供たちは全員うなだれた。


「打ち上げない手持ち花火なら、寺でやればいい。

 雪除けの屋根を出しておくから」


幻影の言葉に、「お寺で花火大会よ!」と長春が陽気に叫ぶと、子供たちは大いに喜んでいた。


今日の工事は切りのいいところで終えて片づけを終えた途端に、空が少し暗くなってきた。


そして日が暮れるまでに、しとしとと雨が降り出した。


「…本当に降ったぁー…」と、くつろぎの間の見透かしの障子窓から阿利渚が悲しそうに言った。


もちろん、幻影の予言は百発百中ではないので、当たらないこともあることを知っていて、わずかに外れることを期待していたのだが、もろくも崩れ去った。



夕餉を終えてから、長春は女性のほとんどを誘って外に出た。


すると街道では大勢の子供たちが傘をさすことなく待っていた。


もちろん、この街道にも屋根が張られていたからだ。


よって、寺までは全く濡れることなくたどり着くことができる。


こうすることで、予定を立てて祭りを計画することも可能なのだ。


境内で濡れているのは森に近い部分だけで、それ以外は全く濡れていない。


長春が一番大きな反射鏡付き提灯に火を灯した途端、その中心は昼のように明るくなった。


すると蘭丸が三脚を広げて立て、その中心に提灯を吊ってから、参道側の面に暗幕を張った。


よって寺側は明るいのだが、街道側は暗いので、真っ暗闇でない分、比較的安全に花火を楽しむことが可能だ。


すると巖剛が、一本の木に爪を立てて登り始めたのだ。


「殺すなよ!」と蘭丸が苦笑いを浮かべて叫んだ。


今は明るいのでよくわかる。


巖剛が登っている木のほぼてっぺんに、小さな人影が見えている。


すると、「食べないでぇ―――っ!!!」と木の上から男女の区別がつかない子供の声がした。


「食われる前に降りて来い!」と蘭丸が叫んで愉快そうに笑った。


巖剛はもうやる気を失くしたようで、ゆっくりと木を降り地面に戻ってきた。


すると赤い影が木の頂上に向かって伸びて、すぐさま降りてきた。


幻影の右手には、襟首をつかまれている女子がいた。


幻影はすぐに女子を地面に降ろして、「仲間になればいい」と笑みを浮かべて言って、花火を楽しんでいる子供たちを見た。


「…うっ うん…」と女子は答えて、子供たちに合流した。


「…抜け忍だ…」と幻影が大いに苦笑いを浮かべて言うと、「…そりゃまずいな…」と蘭丸はさもうれしそうに言った。


「さっきはいなかったら、

 ここには暗くなってから到着したと思う。

 服装からして、今は離散した風魔忍だろう」


幻影の言葉に、「…さすがに盗賊は雇えなかったわ…」と政江が眉を下げて言った。


そして政江が小さな笛を吹いたが音はしない。


すると子供たちに合流したばかりの女子だけが耳をふさいだ。


「…器用な笛だ…」と幻影が眉を下げて言うと、「代々の肉体欠陥者」と政江はひとことで説明した。


「ん? 優れているわけじゃないのかい?」と幻影が言って犬用の笛を吹いても女子は耳をふさいだ。


「人間では聞こえない音が聞こえるんだから欠陥ではない…」と幻影が眉を下げて言うと、「…そうだったのね…」と政江は大いに苦笑いを浮かべて言った。


「だがそれが弱点だから、表舞台から姿を消したか…」という幻影の言葉に、「…きっと、佐助だわ…」と政江は嘆くように言った。


幻影はそれもあるだろうと思いうなづいていた。



すると寺の裏の森から子犬ほどの獣が飛び出してきた。


「…犬?」と幻影はまず言ってから眼を見開いて、「…狼だ…」とつぶやいて苦笑いを浮かべた。


だが狼はすぐに長春の手下になって餌付けをされて喜び始めた。


「あの子とは別のようだな」と幻影は苦笑いを浮かべて言った。


すると長春は子供たちを妙栄尼に託して、狼の子と走ってやってきた。


「…ここに神様がいるって…」と長春が眉を下げて幻影を見上げて言った。


「だったらもうわかったんじゃないの?」と幻影が大いに眉を下げて聞くと、「…幻影様じゃないからおかしいぃー…」と長春は大いに眉を下げて言った。


しかしこの件はすぐに解決した。


狼の子は、長春をずっと見上げているのだ。


もちろん気づいたのは幻影だけではない。


「どう説明すればいいのか…」と幻影が言って狼に手を延ばすと、すぐに長春の影に隠れて小首をかしげて幻影を見ている。


「…うーん… 神というよりも母…」と幻影がつぶやくと誰もが大いに同意してうなづいた。


「長春様が動物の神」と蘭丸は言って頭を下げた。


長春は少し目を見開いて、首を横に振った。


そして、「…神様、いやぁー…」と嘆いてしくしくと泣き出し始めたのだ。


「動物の神というあだ名で、神じゃないから問題ない」と幻影が知恵を絞って言うと、「さすがお師様」と藤十郎は笑みを浮かべて言った。


「…うう… 神が嫌だったわけか…」と蘭丸は今更ながらに言うと、「そういうこと。だからどう説明するか少々考えていたんだよ」と幻影は眉を下げて言った。


「…うう… うかつだったぁー…」と蘭丸はなげいて幻影に頭を下げた。


「…ああ、よかったぁー…」と長春は言ってすぐに立ち直って、笑みを浮かべて子供たちの元に戻って行った。


「…何とかなったぁー…」と幻影はため息交じりに言って胸をなでおろした。


「…御屋形様が、猿や犬や鼠だなどと、

 人間にあだ名をつけるから長春に罰が下った」


幻影の言葉に、「…うう… あるやもしれぬと思うてしもうた…」と信長は大いに眉を下げて言った。


「ですが、家臣といえどもあだ名をつける癖はそれほど聞かないのですが…」と幻影が戸惑いながら信長に聞くと、「ん?」と信長は短く言って考え込んだ。


「…なるほど…

 御屋形様の意思じゃなかったんですね?」


幻影が聞くと、信長は何度もうなづいた。


「…あ、そうだ、念話だ…」と言ってからまた考え込み始めた。


「長春の母のようですね」と幻影が言うと、「…お鷹だったかぁー…」と信長はようやく思いが固まった。


長春の動物好きは今に始まったことではなかった。


そして動物と話をできるようになったのは、松山に引っ越してからだ。


ここには長春らしい想いがあったからだ。


その想いが、長春を動物の神に覚醒させたに等しかったのだ。


「…お鷹の声に出さない想いがワシを笑わせた…」


信長の言葉に、誰もが大いにうなづいた。



すると争いの気配を幻影が感じて、信長の前に立って鉄扇を広げると、真っ先に弁慶と源次が消えた。


藤十郎も鉄扇を広げて、長春と子供たちを守り、蘭丸は広範囲で索敵をした。


すると争いごとは終わったようで、殺伐とした気配が消えて、弁慶と源次がひとりずつ忍びを縛り上げて連れてきた。


「出遅れた竜胆と草太に負けてしまいました」と源次が明るく言うと、幻影は少し笑いながら鉄扇を閉じた。


「ふたりは常に忍びだからな」と幻影は機嫌よく言って、草太と竜胆の頭をなでた。


「…ふむ… 抜け忍を連れ戻すため…

 消すのではなく連れ戻す…

 …ああ、お宝を隠されたわけかっ!!」


幻影は叫んでから大声で笑った。


「雇ったのは蒲生一族。

 殿様と家臣たちの殺し合いの実行犯です。

 そのお宝を隠された。

 …隠した者の言い分は、

 人を殺して得た金は使ってはならない。

 ということで、

 隠した者は暗殺に関しては寝耳の水の話で、

 このふたりの頭目です」


幻影の報告に、「使えそうだぞ?」と信長が笑みを浮かべて政江に言った。


「…ひとりだけでも使えれば十分ですわ…」と政江は笑みを浮かべて言った。


この危険な忍び二人は秀忠に押し付けることに決めて、幻影はふたりをしっかりと縛り付けて江戸城に向かって飛んだ。



琵琶家に保護された女子は笑みを浮かべて胸に手のひらを当てていた。


「名前を聞かせて欲しい」と信長が女子に言うと、「風間(みやび)ですぅー…」と女子は眉を下げて言った。


「知っていると思うが、ワシは琵琶信影。

 本名、織田信長じゃ」


すると雅は目を見開いて、「まさか天狗様は?!」と叫んで、幻影を探すように空を飛んで行った東の方に目を向けた。


「仕事に行ったな」と信長は言って鼻で笑った。


「危険なやつはあとどれほどいる?」と信長が聞くと、「…あのふたりだけですぅー…」と雅は眉を下げて答えた。


「ほかには?」


「あと三名ですが…」と雅は大いに眉を下げた。


忍びとしては使い物にならないのだろうと、信長は察した。



その頃幻影は秀忠に事情を話してふたりを引き渡し、「面倒だから逃がすなよ」と少々脅しをかけてから、ふたりの忍びの脳内を探った時に得た隠れ家に飛んだ。


多少は同情の余地はあるが、罪は罪だ。


さらには稼いだ金は頭目の雅には一銭も渡していなかった。


雅が懸命に働いて、隠れ家にいる三人に比較的まともな生活をさせていたことまで読み解けた。


武蔵の国の川越の外れにあばら家があり、そこを訪ねると大いに警戒されたが、雅が琵琶家に保護されていると聞いて、三人は涙を流して喜んだ。


雅は仲間に愛を与えていたと判断して、幻影は気功術のある技を使って、三人を健常者に戻した。


三人は大いに驚き、無くなってなっていたはずの手や足を見つめた。


「雅の愛が俺を動かした。

 礼は雅に言え」


幻影の言葉に、三人は涙を流しながらも笑みを浮かべて幻影に頭を下げた。


必要なものだけを風呂敷に包んで、幻影は三人を抱きかかえて夜空を飛んだ。


関に戻ると、雅は目を見開いて三人を見て、無くなっていた手や足に触れ回って涙を流した。


なんとなく状況を察した信長が、「…どうやって手や足を生やしたんだ?」と苦笑いを浮かべて聞いた。


「気功術に正常化の棺という技があります」


幻影は言って、人の頭が入るほどの扉付きの箱を出した。


そして手の仕草だけで、人が入れる大きさに変えると、誰もが目を見開いた。


「物質のように見えてそうではないのです。

 あるようなないような、幽霊のような箱です。

 この箱に入れば、

 本来成長する間違いのない体になって出てくることになるのです。

 ですので、欠損部分はもちろん、

 傷跡なども消えてしまうのです」


幻影が説明すると、「あっ!」と雅が叫んで、仲間の女性の右腕を捲り上げて、「…傷、なくなってるぅー…」と涙を流しながら女性に笑みを向けた。


「ですのでもし俺が入れば、

 普通の男に戻ることでしょう」


幻影の言葉に、「…一から鍛え直しか…」と信長は大いに眉を下げて言った。


「それも修行としてもいいほどです」と幻影は笑みを浮かべて言った。


「実は、会津の地震の時に使おうと思っていたのですが、

 さすがに日常生活に支障があると感じたので使わなかったのです。

 命が風前の灯だった人はいなかったので。

 もしもいたら、使っていたかもしれません。

 今回はさらに鍛え直してもらおうと思い、

 やむなく欠損部分の正常化を優先させたのです。

 ですのでこの先、

 三人には大いに修行を積んでもらうことになります」


「…藤堂様、どうすると思う?」と長春が眉を下げて聞くと、「俺に決めさせる」と幻影が自信をもって言うと、誰もが大いに笑った。


高虎の指も数本欠損しているからだ。


「我が家族となれば、箱に入れてやればよい」と信長は笑みを浮かべて言った。


「ある意味、持って生まれた疾病が起こらない体に生まれ変わりますが、

 伝染病は免れないので、それほど有益なわけではありませんし、

 年令相応の初心な体に生まれ変わりますので、

 鍛えることは困難を極めます。

 ですので大いに鍛え上げながら、

 堅実に日々を生活してもらうことになるでしょう」


「…この体、大切に使わせていただきます…」と一番の年長者の男性が言って幻影に頭を下げると、雅と女性と男子の子供もすぐさま頭を下げた。


「忍びには流派というものがあるから、

 全ては雅が指導してくれ。

 それ以外の時間は、琵琶家の日常の手伝いを頼みたい。

 これがなかなかの重労働だけど、

 それほど無理をすることはないから」


幻影の穏やかな言葉に、四人は笑みを浮かべて頭を下げた。


そしてまずは、食うことから普通の人間ではないことを四人は思い知っていた。


さらには贅沢ではないことも知った。


基本的な食材は、わずかな銭しか使っていない、つつましやかなものだった。


しかし全てがうまいので、まさに味付けの妙だと、四人は思い知っていた。



新しい手伝いの手も増えたことで、予定よりも早く軽業興業所は完成した。


風魔の忍び四人は独自の方法で鍛錬を始めたが、それが終わると雅は演者のひとりとなって、軽業施設内を飛び回った。


雅にとってはまさに演技が修行となっていた。


「…いいわぁー…」と政江が言って笑みを浮かべて雅を見ている。


「雅は話を受けないだろう」と信長が自信をもって言うと、政江は眉を下げて頭を下げた。


「もっとも、三人が一人前の忍びになってからのことだからな。

 成長の度合いもあるが、一年や二年では無理な話だ。

 まあもっとも、大いに食うことで、その限りではないと思う」


「さあ! おやつの時間だ!」と幻影は陽気に言って、弁当を持ち込んできた。


おやつも普通に食事だが、大勢の忍びたちは恐縮しながらも大いに食った。


もちろん施設の仕上げの軽作業をしている琵琶家一同は、演者以上に食っている。


政江は信長の話を無視するように雅に寄り添った。


しかし今は三人の行く末を大いに気にしている雅の言葉を信用するしかなく、今すぐには雇えないと断念した。


だが、北条家と風魔の関係は聞き伝えで聞いているが、乱暴な仕事は受けないと雅は言った。


雅としてはできれば、幻影に指導を受けたいと考えていたのだ。


「それでは、伊賀者になってしまうのよ?

 それでもいいの?」


政江が聞くと、「はい、私はその方がいいと思っているのです」と雅は堂々と答えた。


「雅は心の上では伊賀者と変わらんさ!」と幻影が叫ぶと、政江は首をすくめて、雅は大いに喜んで礼を言った。


「うむ!」と信長はうなってから、機嫌よく雅を膝の上に乗せて、陽気に弁当を食らった。


「幻影! 街道工事の際の江戸城の警備の再編成!」


「はい!

 志乃さんと沙織さんにお願いして、

 雅と組ませます!」


大声の内緒話に、対象者は大いに眉を下げていた。


「政江ちゃん、悪いわね」と沙織は穏やかに言って、雅と親交を深めることにして、信長の前に座った。


ここは志乃も渋々沙織に倣った。


しかし警備とはいえ、江戸城に関われることを志乃は喜んでいたのだ。


政江は色々と考えたが、雅を手にするのはまだ相当先の話だと考えた。


街道工事の度に二名ではあるが主戦力を抜くことになる。


今回はこの日の国の半分を繋ぐ工事となるのだが、まだ日ノ本の半分しか終えていないことになる。


西側の方が大いに楽なのだが、それでもあと二年程は現状のままだろうと考えたのだ。


よって忍びを雇うことは、―― …贅沢… ―― と思い、今の段階では断念することに決めた。


しかし今回の工事の旅の折り返し地点で、北条家との接触がある。


できればその時にでも状況が変わればいいと、政江はほくそ笑んだ。


「政江ちゃんはどんな悪だくみ?」と沙織が穏やかに聞くと、政江は大いに戸惑った。


武芸だけではなく心までも猛者級だと、政江は沙織を大いに畏れた。


「…悪いことじゃないよ?」と長春が眉を下げて言うと、―― ああ、わが友よ! ―― と政江は思い、長春に満面の笑みを浮かべた。


「…政江ちゃんの見た目だけでは判断できないところは、

 注意しておかないとね…」


沙織は反省して政江に頭を下げた。


「…でもね、都合のいい偶然に期待してるから…

 いいのか悪いのか…」


長春の言葉に、誰もが大声で笑った。


「欲じゃないから悪くはないさ!」と幻影は大いに笑いながら言った。


「…いいことって、言わなかったよ?」と長春が小首をかしげて政江に聞くと、「…私自身、それほどいいことって感じなかったから…」と大いに眉を下げて答えた。


「どんなことでも希望を持つことは重要だ。

 その希望が叶った者がここにいる」


幻影が言って影達を見た。


「…うんうん、すごいって思うぅー…」と長春は満面の笑みを浮かべて影達に向かって拍手をした。


「言っておくが、俺は特別な指導も助言もしていない。

 全ては影達さんがほぼひとりで成し遂げたはずなんだ。

 では具体的にどのような修行に励んだのかを

 みんなに話してやって欲しいんだ」


幻影の言葉に、影達は心を落ち着かせてから頭を下げた。


そして食生活の件とその想い、さらには信長の助言を糧にしたと、少々言葉を多めにして語ると、誰もがうなっていた。


「ひとりでも多く、希望と夢を持ってもらいたいものだ」


幻影の言葉に、誰もが目を覚ましたように目を見開いてから、幻影に頭を下げた。


「…もっともっと、みんなを笑みにするぅー…」と真っ先に長春が言って、藤十郎に笑みを向けた。


「そうだ。

 簡単そうに思えて、そうでもないことはよくわかるはずだ。

 まずは自分自身が朗らかでなければ達成できないことだからな」


「…おお… そうだぁー…」と蘭丸は言って、幻影に熱い視線を送った。


「とと様、ずっと笑ってるよ?」と千葉信胤が笑みを浮かべて言うと、「ああ、自然ないい笑みだと俺も思う」と幻影が答えると、信胤は満面の笑みを重胤に向けた。


重胤は面と向かって言われると大いに照れたようだが、すぐさま頭を下げた。


「…俺にも、何か助言しろぉー…」と蘭丸が大いに幻影をにらみつけると、「何もない」と幻影はすぐさま答えた。


「俺の妻として、阿利渚の母として、でき過ぎていると思っているほどだ」


幻影の言葉に、「…そんなもの当り前」と蘭丸は言って言葉を止めた。


「そう、当たり前と思っていることが、

 みんなにとってそれほどたやすくできないことなんだよ」


「…助言、もらったぁー…」と蘭丸は大いに喜んで高笑いをした。


「普通の会話でも修行になるな」と信長が雅を覗き込んで言うと、「はい! 御屋形様!」と雅は満面の笑みを浮かべて答えてから、大いに泣いた。


まさに年相応の感情に、女官たちが雅に寄り添った。


今まで相当に気を張っていたのだろうと察して、女官たちは大いにもらい泣きをした。


「…お兄ちゃん以上にいい人がいないぃー…」と政江は別の意味で泣きだし始めた。


「ま、出戻りでもあるし、

 さらに考える必要はあるぞ」


幻影の厳しい言葉に、「…助言、ありがと!!」と政江は叫んで心底泣いた。


「…ま、できれば…」と幻影はつぶやいて、影達を見た。


幻影の言葉と仕草は誰も気づいていなかった。



翌日の朝餉の後に、江戸から鳩が飛んできた。


幻影は書を読んで首をひねって、書を信長に渡した。


「…幕府としては自由奔放な我らを何とか縛りたいようじゃ。

 だが、この言葉通りであるのならば、受けても構わんが、

 意味が違えば即捨てればよい」


書には新たな大名の名を告げていた。


それは天雲大名という言葉で語られていて、その意味は幕府に縛られないことと、幕府の権力をかさに着ないこととあるが、幕府の大名として召し抱えるとある。。


よって言葉で縛るだけで、現状と何ら変わらない。


しかし、現在建っている琵琶御殿と屋敷、その主街道は琵琶家の領地となる。


推定で二百万石の大大名という触れ込みだ。


秀忠と家光がこうしたのは、江戸城の警備にある。


わずか二名であるが、琵琶家の者が警備に当たることについて、将軍家としても堂々と受け入れたい意思がある。


もちろん、ほかの大名にも胸を張って堂々と言えることになり、さらにはまつりごとを円滑に行えるようになる。


さらには街道整備工事は琵琶家が受け入れるのではなく幕府が直接行っていることにもつながる。


そして法源院屋も琵琶家の配下の家となる。


「税の問題を考えているのかな…」


幻影の言葉に、「そこは今まで通りとしておく必要はある」と信長は堂々と言った。


「天雲法源院屋とでもしておいて、

 その地の藩に税を収めることにでもした方がよさそうですね…」


「…うむ… だとすると細かい話を詰めてからじゃな…」と信長が言うと、幻影は光秀と影達を五人乗りの戦艦に乗せて江戸城に飛んだ。



江戸城に到着した幻影たちは早速話し合いを行い、最終的には家老同士で話を詰めさせた。


「…色々と理解はしたけどな…」と幻影がため息交じりに言うと、「…ごめん…」と秀忠は言って頭を下げた。


「二百万石、くず芋で収めてやる」


幻影の無碍な言葉に、「できれば銭に換算してぇー…」と秀忠は大いに眉を下げて言った。


「儲け主義に走りたくはないから、

 寄付金を減らすか…

 …まあ、大したことはないし…」


「…琵琶家にしかできないよ…」と家光は眉をひそめて言った。


「だが、問題はあるぜ。

 京はどうするんだ?」


幻影の言葉に、「…江戸は、生実で我慢するからぁー…」と秀忠は言って幻影を拝み倒した。


「…まあ、御所から離れていればいくらでも土地はある…

 京と摂津の境辺りでもいいだろう…

 あの辺りは大いに田舎だからな…」


「…西国街道の足掛かりだけでも…」と秀忠はまた拝んできた。


「ああ、それもあるからな。

 今回は少々時間がかかりそうだ…」



結局は琵琶家が大いに譲歩した形をとった。


そして想いが違えばすぐに解くことも脅しとして文書に入れ込ませた。


まさに経済的には、琵琶家と法源院屋が握っていることと変わらないからだ。


天雲法源院屋は、京、安土、松山、生実、前橋、会津、関、米沢、上田、伊勢、宇和島、仙台に構えることに決まった。


さらにはこの先、天雲がつく法源院屋は増えることになる。


幻影は朱印状を受け取ってすぐに、光秀と影達とともに京に飛んだ。


そして隠居した法源院信右衛門と話をして、早速看板を造り替えた。


「…ようやくここまで来ましたなぁー…

 商人冥利につきまする…」


信右衛門は笑みを浮かべて涙を流した。


「信右衛門さんも、俺たちの仲間だ」と幻影は言ってから、信右衛門を若返らせた。


「隠居のままでいいから、

 今まで以上に、全てに目を光らせておいて欲しい」


幻影の言葉に、「…はい、仰せつかりました…」と大いに若返った信右衛門は満面の笑みを幻影に向けた。


「…今まで以上に飯代がかかるから…」と幻影が眉を下げて言うと、「そういえば、腹が減りましたなぁ――!」と信右衛門は陽気に言って、幻影の手料理を大いに食らった。



幻影たちは関に戻り、全てを信長に報告してから、新しい法源院屋の看板を作り始めた。


この関の法源院屋の店主は大いに泣いていた。


「早いか遅いかだけだぞ!」と幻影が叫ぶと、「はい! もちろんでございます!」と店主は胸を張って答えた。



幕府からの通達は三日後には諸藩に届き、誰もが一喜一憂した。


会津にいた嘉明が上杉定勝を引き連れて真っ先に信長に挨拶に来たほどだ。


さらには近場の新発田からも溝口宣勝がやって来て、悔しそうな顔を嘉明と定勝に向けた。


さらには上田藩藩主の仙石忠政と松代藩藩主の真田信之もそろってやって来て、まずは宴会が始まった。


さらに輪をかけて、越後の天領を受け持っている松平を名乗っている者たちも続々と駆け付けてきて、まさにお祭り騒ぎとなっていた。


こういった面倒もあるのだが、信長の機嫌は良かった。


ほどなくして幻影が、「仕事があるのでお開きで」と無碍な言葉を放ったが、誰も苦情を述べることなく解散となった。


「では、長旅にでも出るか」と信長は機嫌よく言って立ち上がった。


これから法源院屋の新しい看板を立てて回るからだ。



この日の国の半分ほどを回る旅だったが、わずか一日で終えて関に戻った。


その翌日に本格的な祭りの準備を始めると、出会う子供たちは琵琶家一同に満面の笑みを向ける。


そしてちゃっかりと軽作業の仕事にありつく。


子供たちとしても、祭りを満喫するために軍資金が必要だからだ。


もちろん妙栄尼が全てを監督して、終わりのない仕事を子供たちと、さらには大人たちにも与えた。


本気になって働いたので、誰もが思った以上に駄賃をもらえたことを大いに喜んだ。


そして何人かは法源院屋に連れ去られていた。


「…大名家に仕官をしたということでよろしいでしょう…」と志乃は機嫌よく信幻に言った。


「…まだこだわってるんだね…」と信幻が眉を下げて言うと、「そのようなこと当り前です!」と早速志乃の雷が落ちた。


「正確には我が家は徳川家の旗本だから。

 これは何も変わってないんだよ?」


「…そのようなこと当然です…」と志乃は薄笑みを浮かべて機嫌よく言った。


「…志乃ちゃん、がちがちに硬いなぁー…」と源次が嘆くと、「…ああ… 離縁されてしまうぅー…」と志乃は大いに嘆いたが、信幻と源次は大いに笑った。


「あまり硬いと、離縁して外に嫁に出てもらうよ?」という源次の言葉に、「…もっともっと、柔らかく柔らかく…」と志乃は呪文のようにつぶやき始めた。


信幻は兄である源次に笑みを向けて頭を下げた。


「私も嫁に行こうかと思っています」


妙栄尼が幻影に向けて言うと、大いに苦笑いを浮かべて、「…もう、相手がいるの?」と大いに戸惑って聞いた。


「…だってみなさん、幸せそうなのですものぉー…」と妙栄尼は答えて大いに眉を下げた。


よって相手はいないが、何とかして婚姻したいと思っているだけのようだ。


「光秀様と影達様がお勧めだよ」という幻影の言葉に、「…我が家のご家老様ですものねぇー…」と妙栄尼は言って考え込み始めた。


「ですが、もっと、仏に近い方がよろしくてよ?」と妙栄尼が注文すると、「欲張るのも程々だよ…」と幻影は眉を下げて答えた。


「現楽涅槃寺の教えを尊重している僧の方々も多いと思うけど?

 そういった人たちは、今は旅の途中のはずだから、

 この先出会うことはあると思う」


「…ああ、まさに、輝ける私の希望が…」と妙栄尼は感動して言った。


「…俺から希望の言葉を引き出すのはやめてもらいたいんだけど…」


幻影の言葉に、信長が大いに笑って、「まさに平和だからよいよい!」と機嫌よく叫んだ。


家族のほとんどの者は希望を持っているが、特に下働きの女官たちは希望が欲しいようで、幻影の前に並んでいた。


「…御屋形様…」と幻影が嘆くと、「きちんと対処してやれ」と信長は命令して愉快そうに笑った。



「…お兄ちゃんって、私に脈ありだと思われます?」というお香の言葉に、幻影は大いに眉を下げた。


「直接聞いて玉砕して…」と幻影が希望がない言葉を放つと、「…やっぱり…」とお香は言ってうなだれた。


「まずは聞いてからだね。はい、次」と幻影は言って急かせた。


お香は眉を下げて立ち上がってから松太郎を探したがいなかった。


よって麺屋にいるのだろうと思って玄関に出ると、松太郎は三人の女性とともに玄関に入ってきた。


お香は大いに心に重荷を背負ったが、「真田信之様のご息女の信松様だ」と松太郎は言った。


お香はすぐさま座って頭を下げて、「松平松太郎の妹の香でございます」と言って挨拶をした。


「…おまえ…」と松太郎は大いに目を見開いた。


「お爺様にお聞きしておりました」とお香はさも当然のような顔をして言った。


「…ここでは琵琶松太郎でいいんだよ…」と松太郎はさらに眉を下げて言ったが、「ささ、どうぞおあがりくださいませ」とお香は松太郎の言葉を無視して、姫とお付きの三名を御殿に招いた。


「…松平…」といつの間にか玄関にいた草太と竜胆が松太郎を見上げて言うと、「…報告義務、あるの?」と松太郎は大いに眉を下げて聞いた。


「後々の面倒もございますれば」という草太の言葉に、「…あるな…」と松太郎はつぶやいたが眉を下げたままだ。


「…松太郎のお名は幼名ですよね?」と竜胆が聞くと、「…松平元忠…」とつぶやいて、古い書をふたりに見せた。


「元康様とは無関係ですが、

 松平としては正当血統のようですね…」


博学の草太の言葉に、「…まあね…」と松太郎は言って、書を懐に仕舞い込んだ。


「…信幻様と同等ですので、徳川を名乗ってもいいはずですが…」


「俺は死んだことになっているから、追えなかったんだろう」と松太郎はある意味ほっとして言って笑みを浮かべた。


「俺の家はな、当然徳川方についていたんだが、

 脅迫のネタにされていたそうなんだ。

 その当時、松平家の足軽をしていた

 お香の爺さんが単身俺をさらって、

 息子夫婦が住んでいた讃岐に行って、

 俺をかくまってくれた。

 証拠はこの書だけだし、

 真実だとしても誰も信じちゃくれないさ」


「あ、だとすれば、お爺さんが名乗り出なかったことが不思議です」


「俺が拒んだからだよ」


松太郎の言葉に、草太も竜胆もうなづいていた。


「だからこそ、武家の身分は捨てたつもりで今日まで生きてきた。

 しかし、萬幻武流に触れた途端、俺の侍の血が騒いだんだ。

 そして、幻影様のお言葉通り、

 自分の身を守るために修練を積んでいるんだ。

 さらにはお香の両親がはやり病で死んだこともあってな…

 余計に讃岐を離れがたくなったんだよ」


「…そうですよね…

 本当にお優しい…」


草太は言って、松太郎を見上げて笑みを浮かべた。


「お香は俺の妹でもあり娘でもあるから、

 さすがに嫁にしようだなんて思ってもいない。

 だが、嫁に出したくないという想いはある。

 まさにこれが、父親の抱く想いだろうな」


松太郎の言葉に、「…私がお嫁さんになったげるぅー…」と竜胆が眉を下げて言うと、「源次様にも言ったって?」と松太郎が少し笑いながら言うと、「…言わなきゃ伝わんないからぁー…」と大いにホホを赤らめて言った。


「今のところは婚姻の予定はないから、

 竜胆が大人になるまで待っていよう」


松太郎の言葉に、竜胆は目を見開いて、「…言って、よかったぁー…」とつぶやいてからすぐにわんわんと泣き出し始めた。


すると、「なんだなんだ」と言いながら、琵琶家一同が玄関に集合してきた。


「ありゃ、そうだったんだ」と幻影が真っ先に現状の空気をすべて読んで言ってから笑みを浮かべた。


「説明の手間が省けて助かりました」と松太郎が言うと、「ああ、全て松太郎さんの想いのままに話を進めるさ」と幻影はここは松太郎の師匠として言った。


「ちなみに、剣術指南として三厳…

 柳生宗矩から手ほどきを受けたんだよね?」


幻影の言葉に、「はい、体が覚えておりました」と松太郎は言って頭を下げた。


「ま、その師匠を超えていたから、さらに納得いったね」と幻影は言ってから更に、「その経験が松平元忠の証拠でもあるから」という幻影の言葉に、松太郎は目を見開いたが、大いに喜んで頭を下げた。


「ほう! 松太郎も重い荷物を背負っておったようじゃ」と信長は言って何度もうなづいている。


「…松平元忠は誘拐されたはず…」とその宗矩が目を見開いて言うと、「誘拐されたことは事実だが、死んではいなかったってところだね」と幻影が答えた。


「…お家お取りつぶしは帳消しか…」と宗矩は言って、松太郎に笑みを向けた。


そして、「どーして今まで気づけなかったんだぁ―――っ?!」と宗矩が大いに叫ぶと、だれもが大いに笑った。


そして幻影が、「確かに言ってみるもんだね」と竜胆に笑みを向けて言うと、「…はいぃー…」と答えて、恥ずかしそうに何度も身をねじって松太郎に笑みを向けた。


「…ですがまだ子供じゃないですか…」と真田信松が口を挟んできた。


「武家の世界だったら、当たり前のように横行してるぜ?」という幻影の言葉に、「…うう… 確かに、そうですがぁー…」と信松は大いに動揺した。


今回、信松がここのやってきた理由は、琵琶家の誰かと婚姻を果たすためだ。


特に信之が何か言ったわけではないが、常に鼻の下を延ばしている父への当てつけのようなものだ。


信之としてはこのまま隠居を決め込みたいようなので、真田を名乗る親族がふたりもいるよしみで琵琶家に嫁ごうなどと考えていたようだが、話をしていただけで住む世界が違うと感じていた。


しかし相手が松平であれば話は別だ。


ここは何としてもうれしい話を持ち帰りたいと欲を持ったのだ。


「さらには、徳川信幻様の唯一のお抱えの忍びが竜胆なんだぜ?」


幻影の言葉に、信松は立ち眩みを覚えた。


子供であってももう働いていて、しかも忍びだと聞いて、愕然とした。


「しかも家はかなり立派で、

 母親は江戸城で忍びをやっているほどだからな。

 家柄としては全く問題はない」


「…お邪魔しましたぁー… 帰りますぅー…」と信松は言って、お付きに何とか体を支えてもらいながらも玄関から出て行った。


「撃退成功」と幻影が言うと、誰もが大いに笑った。


「…お母様に感謝しないと…」と竜胆が言って手のひらを合わせたので、また誰もが大声で笑った。


「だけど竜胆は同年代にそれほど興味がないんだね?」


松太郎が聞くと竜胆は、「…あー… 頼りないからぁー…」という言葉に、笑ったのは男性だけで、女性は真剣な顔をしてうなづいていた。


「まだ幼くても色々と見てきた証拠だよ。

 竜胆の場合は早熟だと思うが、

 草太もそれなり以上に大人だと思うぞ?」


幻影が聞くと、「…あ、同じ忍びはちょっと…」と竜胆は眉を下げて言った。


幻影は何度もうなづいて、「それは確実にある」と言うと、「いつ敵に転じるかわかったものじゃないからな」と信長が言うと、誰もが大いに納得していた。


「祝言じゃ祝言!」と信長は大いに陽気に言った。


もちろん本気でもあり、ちょっとした冗談でもあるが、相手が松太郎であれば確実に琵琶家に留まるので、ただただ機嫌がいいだけだ。


「…ああ、もう祝言…」と竜胆がぼう然として言うと、「祝言の練習だから」と松太郎は笑みを浮かべて穏やかに言った。


それでもいいようで、竜胆は嬉しそうにして松太郎の隣に立った。


そしてふたりが上座に居座って、まさに祝言の様相となっていた。


蘭丸と長春が大いに竜胆の面倒を見始めたので、竜胆は大いに恐縮していたがもちろん喜んでもいた。


そんな竜胆を見て、松太郎は薄笑みを浮かべながらも大いに食っている。


まさにうまいおかずを目の前にして料理の味を上げているようにも見えた。


「…まだ七才なのに、お嫁に行っちゃうのね…」と長春が眉を下げて言うと、「あはははは…」と竜胆はバツが悪そうに笑った。


「年齢などは関係ない。

 お互いが気に入ればいいだけじゃ!」


酒が大いに入っている信長が機嫌よさそうに叫んだ。


「ですがなかなか好都合です。

 松太郎さんの正体を明かしやすくなりました」


幻影の言葉に、「もう漏れた」と信長は言って少し笑った。


もちろん、ついさっきまで部外者がいたからだ。


そして堂々と正体を明かしている。


この噂が江戸に届くまで、それほど時間はかからないはずだ。


「早くて今日の夕刻には鳩が飛んでくるのではないか?」


信長の言葉に、「先に伝えておいた方がよさそうですね」と幻影が言って立ち上がると、「早々に帰ってこい」とほぼ酔っ払いの信長が手を振りながら言った。


「…御屋形様が上機嫌過ぎるけど、大いに喜んでいらっしゃる…」


幻影が小声で竜胆に言うと、「…ああ、うれしい…」と竜胆は言って、席を立って信長に抱きついた。


「…おいおい、やめんか竜胆!

 申し訳ないな松太郎!」


信長は酔ってはいるがまさに陽気だ。


幻影は信長の言葉通りに、江戸城にすっ飛んで行った。


秀忠と家光はすぐに捕まって、幻影は用件の松太郎の正体を話すと、ふたりは大いに慌てたが、「竜胆と祝言中だ」という幻影の言葉に、ふたりとも固まった。


「最低でも許嫁となったから、あまりちょっかいを出さない方がいいぞ」


幻影は言うべきことだけ言ってから天守の外に出てすぐに、「どういうことよ?!」と屋根の上にいた半蔵が幻影をにらみつけて叫んだ。


「伝えた通りだし他意はない」と幻影は短く言って、関に向かって飛んだ。


「…母親だぞ… 招待くらいしろぉー…」と半蔵は大いに嘆いて、屋根の上に腰を落とした。



幻影が関に戻ると、信長は大いびきをかいて眠っていた。


幻影は信長の腹に手を近づけて、酒の成分が抜けやすいように処置をした。


するといびきは収まって静かになった。


「…どういうことだと思う?」と信長を見入っていた濃姫が聞いた。


「本当にうれしいことには変わりないのですが、

 その分、御屋形様が老いているという実感も沸いたからだと思います。

 もちろんそれは精神的部分です。

 誰かが婚姻を決めた時、

 それは適齢期を迎えた、時間が経ったことを示唆しますから。

 できればずっと、我らは共にいて、

 多くの祝い事を経験したいという意味もあるのでしょう」


「…初めてこの人がわからなかったけど、

 よくわかったような気がするわ…」


濃姫は言って、信長の鼻を指ではじいた。


幻影はくすくすと笑ったが、誰もが真剣な目で幻影を見ている。


「いたって健康、崩御はされないぞ」


幻影の言葉に、時が動き始めたように、誰もがほっと胸をなでおろしてから、松太郎と竜胆に祝福の言葉を送った。


幻影は薄くて軽い布団を持って来て信長にかけた。


しばらくすると信長は、『ガバッ!』と起き上がって、部屋をすっ飛んで出ていった。


「厠です」と幻影が言うと、すぐに蘭丸が廊下に出た。


幻影は布団をたたんで部屋の隅に置いた。


「兄者、江戸の方はどうでした?」と気になったのか、弁慶が聞いてきた。


「ああ、大いに慌てたぞ」と幻影が愉快そうに言うと、弁慶も笑っていた。


「竜胆、半蔵が祝言に呼んで欲しいそうだが、どうする?」


幻影の言葉に、「…すっかり忘れてたぁー…」と竜胆が目を見開いて言うと、幻影は腹を抱えて笑った。


「母親らしいことはひとつもしていなかったのかなぁー…」と幻影が言うと、「…あー…」と竜胆は言って少しうなだれた。


「だがな、もう少し大きくなった時に色々とわかってくるさ。

 俺が竜胆くらいの時も、

 今の竜胆と同じように考えていたと思うから。

 そしてこの先大人に近づくと

 師匠として母として好きになっているような気がするね」


「…あっ あ、はいぃー…」と竜胆は色々と察して返事をした。


もちろん、幻影の生い立ちを聞いていて知っているからだ。


厳しい師匠の元で毎日毎日修行の日々で、泣いてばかりいたと聞いていた。


もちろん、師匠としては好きだが、人間としては嫌いだという事実も聞いている。


嫌いという理由も竜胆は理解していた。


よって今の竜胆は母親についてどう思っているのか、よくわからなかったのだ。


父親は幻影で、母親は蘭丸。


竜胆はもう自然にふたりを親にしてしまっていたからだ。


さらに言えば、ここでの修業によって、今までよりも随分と体が動いている。


だが、『成長期』という幻影の言葉も忘れてはいない。


「…でも今は、よくわかりません…」と竜胆が答えると、「ああ、それでいいさ」と幻影は笑みを浮かべて言った。


だが幻影はあるひとつの真実を語っていない。


半蔵が幻影を倒すために竜胆に強制的な術を使っていた件だ。


竜胆は何気なくだろうが、その件に気づいているのではないだろうかと感じたのだ。


勝つためには手段を選ばない、などという非情な掟が服部家にはあるのかもしれないと漠然と思った。


萬幻武流派その真逆の教えがある。


『実行不可能なら尻尾を巻いて逃げろ』


これがそれに当たる。


相手によっては逃げるだけでも不可能に近い者もいるかもしれないからだ。


まずは自分の身の安全を確保することが、萬幻武流にとって基本となっている。


よって攻撃の後は必ず防御態勢をとる型が基本であることもこれに当たる。


竜胆はすぐに気持ちを切り替えて今を楽しむことにして、ホホを赤らめていつも優しい松太郎を見上げて微笑んだ。


「そうだ。

 麺屋で一緒に働いてみないか?」


松太郎のやさしい言葉に、「…ああ、働きたいぃー…」と竜胆は顔を真っ赤にして答えた。


「…おー… 庶民の夫婦らしくていいなぁー…」という幻影の言葉に、松太郎までも顔を真っ赤にして大いに照れた。


「…仮の姿的ところも好きぃー…」と竜胆は言って、松太郎に満面の笑みを向けた。


「俺にとってはそっちが本職だけどね」


「…松太郎さんのために頑張りますぅー…」と竜胆は大いに照れて言うと、松太郎は満面の笑みを浮かべた。


―― ありゃ? 感情が変わった… ―― と幻影は感じていた。


本当の祝言の席に変わっていると感じたのだ。


「…竜胆さん…

 私の妻となってください…」


松太郎は穏やかに言った。


竜胆は迷うことなく、「…はい、松太郎さん…」と照れることなく真剣に答えた。


誰もが何も言わずにふたりを見ていたが、「祝言じゃ!」と厠から戻ってきた信長が叫ぶと、この部屋はまさにお祭り騒ぎになっていた。


幻影は祝宴の席をこっそりと抜け出して、工房であるものを作り上げた。



「…迷惑をかけた…」と翌朝、朝餉の席で、信長は幻影に頭を下げた。


信長はまた飲み過ぎて、幻影に介抱してもらったことだけは覚えていたからだ。


どんな薬よりも幻影の手のひらは効果覿面なのだ。


「実は婚礼の祝いの品を作りましたので、

 松太郎、竜胆夫婦に進呈していただきたいのです」


幻影の言葉に、誰もが目を見開いて幻影を見た。


「…お… おう… なにからなにまですまんな…」と信長は言って頭を下げた。


「…いや、だが、その贈り物に大いに興味がわいてきた…」と信長は言って、猛然と食事を摂り始めた。


「…私の時はなかったぁー…」と沙織は大いに嘆いた。


「…正式には祝言を挙げてないから…」と弁慶は大いに眉を下げて言った。


「そういうこと。

 一番に祝言を挙げたのは俺とお蘭だが、

 その次が松太郎、竜胆夫婦だ」


幻影の言葉に、ふたりは顔を見合わせて大いに照れた。


「…おい、俺への結納の品は?」と蘭丸が横柄に聞くと、「俺自身」と幻影が答えると、蘭丸は大いに照れていた。


「必要なものは全部作っていたからな。

 それが全て結納の品と思ってもらっていいんだ」


「…いろいろと、ねだり過ぎたかぁー…」と蘭丸は言って、幻武丸を筆頭にして、幻影が作り上げたものを畳の上に並べ始めた。


「…これほどの結納品をもらった姫はどこにもいないんじゃないのか?」


信長の言葉に、「幻武丸の次に、この小柄ひと揃えが、芸術品のようで好きですぅー…」と蘭丸は大いに照れて言って、布の紐を解いて広げると、「…おー…」と誰もがうなった。


柄の部分には細やかな彫金が施されていて、同じものが全くない、卓越したものだ。


「…祝言、挙げるぅー…」と真っ先に言ったのは濃姫だった。


「…欲張るでない…」と信長は大いに眉を下げて言った。


「いえ、仮の名とは言え、

 お蘭は奥方様のお名前をいただいたので、

 同じものを打ちましょう」


幻影の言葉に蘭丸は反抗することなくうなづいた。


「あら? 親に感謝しなきゃ」と濃姫は調子よく言って手のひらを合わせた。


「…私がお嫁に行く時は?」と阿利渚が幻影に聞くと、「幻武丸以外は、阿利渚に託すわ」と蘭丸は母の心をもって言った。


「…幻武丸さんは、本当に重いぃー…」と阿利渚はかわいらしく言ってから笑みを浮かべた。


「幻武丸は俺の幼名なんだ」


幻影の言葉に、驚かなかったのはこの事実を知っていた藤十郎だけだ。


「…俺は常に、お前を抱えていたのかぁー…」と蘭丸は言って、ここは大いに照れていた。


「命名は昌幸様だと聞いているけど…」と幻影が言って妙栄尼を見ると、「武田信玄です」と答えた。


「…病に負けた弱っちいやつだ…」と信長は悪態をついたが、まさに好敵手だったと言わんばかりに悔しがっているように、幻影には聞こえた。


「あの人のせいで、幻武丸を抱くことすらできなかったわ」と妙栄尼は大いに憤慨して言った。


我が子を守るために、親の欲を出さないと、信玄が決めていたからだ。


「…一種の願掛けじゃが、それが叶ったに近いか…」と信長は言って幻影を見た。


「意地を張るつもりはありませんが、

 指導者として昌幸様と信繁様は本当に大きな存在でしたので。

 おふたりのおかげだと感じています」


「…戦乱の世であったからこそか…」という信長の言葉に、幻影は素早く頭を下げた。


よって妙栄尼は反論するわけにはいかなくなって、穏やかに手のひらを合わせた。


「師匠としては、おふたりの考えを私なりに解釈して、

 指導をするように心がけています。

 心底お師様方の想いを今知ったように思います」


幻影は笑みを浮かべて言って、家族たちを見まわした。


信長は何度もうなづいてから、「今は平和のために、その力を存分に使わせてもらおう」と言ってから立ち上がった。


「祝いの品の贈呈式じゃ」と信長が言うと、幻影は頭を下げてすぐさま立ち上がった。



家族総出で工房行くと、小さな屋台が一軒建っていた。


だがよくよく見ると、小規模の戦艦に屋台が付属しているものだった。


「…ああ、俺たちの店…」と松太郎は笑みを浮かべて店を見入ると、「…働きたいぃー…」と竜胆はすぐさま言った。


幻影は使い方をすべて伝授すると、ふたりは早速麺を打ち、出汁を仕込んでから、屋台戦艦を飛ばして北の地に向かって飛んで行った。


「新婚旅行」と幻影が言うと、誰もが大いに笑った。


「ほんに、働き者じゃ」と信長は言って何度もうなづいた。


「祭りが近いんだから、程々にして戻って来いよ」と幻影は言って、同時にふたりに念話を送った。


屋台戦艦はいきなり動きを止めたが、またゆっくりと北に向かって飛んで行った。


「今日の昼には戻ってくるそうです」


「…ま、本番は祭り当日でもよいからな…」と信長は眉を下げて言った。



昼餉を摂っていると、新婚のふたりが戻って来て、竜胆が逐一報告を行った。


「…よく覚えてるな…」と松太郎が眉を顰めるほどに竜胆の記憶力は群を抜いている。


「…あのぉー…」と竜胆が幻影に眉を下げてうと、「屋号は決めてもらおうと思って、つけてない」と答えると、「…名付けて欲しいですぅー…」と竜胆が手のひらを合わせて拝むと、松太郎もすぐさま頭を下げた。


「それほどいい屋号は浮かばないが…」と幻影は言って半紙を出してすらすらと書いた。


「元祖本家、夫婦麺屋」と信長は読んで何度もうなづいた。


「真似をされるでしょうが、

 食えば一目瞭然なので。

 まずは祭りを利用してこの関から広めてもらいましょう。

 そして松太郎さんの弟子夫婦ができれば、

 分家の看板を上げてもらってもいい」


「…看板、作って?」と竜胆にかわいらしく言われた幻影は昼餉を早々に済ませて工房に行って、簡単に看板を作り上げてから、屋台戦艦に屋号の看板を掲げた。


「海が凪だったら、漁に出ている漁師相手にも商売ができるから」


「…そういえばそうでした…」と松太郎は言って、底が船でしかない屋台戦艦をまじまじと見入った。


「離島を巡るのも楽しそうだよ」と源次が言うと、「…また行くぅー…」と竜胆が言い始めたので、松太郎は気合を入れて仕込みを始めた


今回は天ぷらも仕込んでいるので、そこそこ儲けようと画策しているようだ。


わずかな時間商売に行っただけですべて売り切れて、売り上げもかなり芳しかった。


そんな幸せそうなふたりを横目で見ながら、幻影は三本の小さな旗を作り上げて、屋台戦艦に飾り付けた。


一本は琵琶家、一本は法源院屋、そして最後は三つ葉葵の旗印だ。


まさに露骨なので、さすがにこれの真似をする者はいないはずだからだ。


このようにして、小さな手助けの武器を琵琶家は手に入れたことになった。


「…松太郎が本気で婚姻を決めたのは、

 竜胆の積極性か…」


信長の言葉に、「竜胆の、まさに長春様のような慈愛に満ちた心と積極性を伴った行動力でしょう」と幻影は答えた。


「…あーあ… それもあって、私じゃダメだったのかもぉー…」とお香が大いに嘆いた。


「それはあるかも…

 まずは誰かのためにという気概と積極性を見せていれば、

 妹とか娘とかという気持ちは吹き飛んでいたのかもね。

 そもそも、お香さんは現状の生活が嫌で家出をしていたほどだ。

 更に松太郎さんはお香さんを

 親族として見るようになったんじゃないのかなぁー…」


「…ダメな妹…」とお香は言ってうなだれた。


そして独り身の女性たちが積極性を見せようとしたが、「男子すべてが松太郎さんではない」という幻影の言葉に、すぐさま考え直した。


「ある程度は、相手に合わせる必要はあるじゃろうて」と信長は朗らかに言った。


すると萬幻武流の第一と第二の注目株の千葉重胤と松平影達の聞き取り調査が始まった。


「…こうやって、取り囲まれるのがイヤ…」と影達が言うと、女性たちが大いに頭を抱え込み始めると、幻影たち傍観者は大いに笑い転げた。


「…はっきり言ってやるものかわいそうだな…」と重胤が眉を下げて言うと、女性たちは一瞬にして復活した。


「…相手をすることも修行…」と影達はこの催しを修行にすることにした。


「条件か?

 子を産んでも死なぬこと」


重胤が質問に答えると、女官たちは大いに眉を下げた。


まさに重胤が一番気にしていることだからこそだ。


「…あー… それは辛いだろうなぁー…」と影達も賛同すると、まずは逞しい女になることにして、幻影に仕事の指示をもらうことに決めた。


「…かーちゃん… 恥ずかしいからやめて欲しい…」


幻影が妙栄尼に言うと、「…協力なさいぃー…」とここは母親の威厳を噴出して言った。


次に返ってくる言葉は、『何事も修行』だと確信した幻影は、「それほど必死にならない涼やかな女性と、お蘭と志乃さんと沙織様を足して三で割ったような女性」と伝えた。


すると重胤と影達は大いに慌て始めて幻影を見た。


「…必死にならない涼やかな…」と妙栄尼はつぶやいて、「…どっちよ…」と妙栄尼は目を血走らせて重胤と影達を交互に見ながら幻影に聞いた。


「必死だよね?」と幻影が聞くと、妙栄尼は薄笑みを浮かべて、「おほほほ…」と涼やかに笑った。


「重胤さん、かーちゃんの修行に付き合ってもらっていい?」と幻影が眉を下げて聞くと、「はっ 望むところです」と重胤は師匠からの修行として引き受けた。


「…逞しさは程よいと思うのですがぁー…」と松山楓が眉を下げて幻影に聞くと、「…遠慮なく行け…」と幻影は自信をもって楓の背中を押した。


まさに部下でもあり、かわいい弟子でもあるので、幻影は楓には少々甘かった。


「影達殿! お手合わせを願いたい!」と楓が気合を入れて叫ぶと、「…おっ おう…」と影達は大いに戸惑って答えて、楓と肩を並べて組み手場に行った。


「…けしからんやつらだぁー…」と蘭丸はうなりながらも満面の笑みを浮かべて、ふたりについて行った。


「…影達は落ちたな…」と信長が眉を下げて言うと、「楓は今まで、あえて引いて見ていたようなのです」と幻影は言った。


「多少の後押しが必要だったか…

 今回も、嫁にも婿にも出す必要はないから別にいい」


信長は機嫌よく言った。


楓は幻影とはほぼ同い年で間もなく五十になるが、今までにひとりとして好意を持てる男性は現れなかった。


もちろん影達も同じだったのだが、魚効果の体質改善により、すっかり秀才的な面も備わった影達に好意を寄せた。


しかし今更どう接すればいいのかわからず、考えあぐねていたのだ。


幻影としてもどうにかしてやりたかったので、丁度いい機会だったのだ。


そして父親である武蔵だが、楓が娘だとははっきりとは聞いていない。


だがその佇まいが大いに自分と重なることがあることと、思い当たることがあることで、楓を娘だとほぼ確信していた。


ここは自然に、琵琶一家は組み手場に足を運んだ。



影達と楓は木刀を持ち、組み手場の中央で向き合い、お互い素早く頭を下げた。


まず一歩前に出たのは楓で、影達は構える間がなく、半歩引いてから中段に構えた。


「もうやられた」と幻影が言った途端に、楓は大いに躊躇して、影達の素早い踏み込みになすすべなく懐に入られ、木刀の尻で楓はみぞおちを叩かれた。


『カンッ!』という軽い音と同時に、影達は素早く引いてから、覇者の構えをとった。


―― 油断した! いや、これが実力差! ―― と楓は一瞬にして大いに反省してから、片手に一本ずつ持っている木刀をどちらも中段に構えた。


「キエェ―――ッ!!!」と甲高い楓の気合の叫び声には、影達は全く反応せず、ゆっくりと半歩前に出た。


すると楓の両腕の木刀が消えたと感じた瞬間に、影達はまた大きく踏み込んで、中段に構えを変えて突っ込んだ。


楓は両方の木刀を抱え込んだまま素早く後ろに飛んでから、間合いを見極めて右と左の木刀を順に出した。


見た目は楓が誘ったように見えたが、これは影達の攻撃でしかなかった。


だが、影達は攻め込めず、右の木刀を木刀で受けて、その勢いに逆らわずにさらに下がった。


そして動かなかった。


楓は左の木刀を振り切っていなかった。


楓は大いに悔しそうな顔をしている。


「うむ!」と信長は大いにうなって、腕を組んでいる手のひらで力を込めて腕を握りしめていた。


すると楓は右を前にして立ち、左の木刀を隠した。


まさにこれも、二刀の真骨頂でもある。


隠すことで出所を見せないことは重要な駆け引きとなる。


そして楓は小さな一歩から大きな一歩に変え、瞬時に影達に迫った。


お互いの木刀が、『ガンッ!!』という悲鳴を上げ、何と影達が後方に吹っ飛んで転がった。


楓の両手には、しっかりとただ一本の木刀が握られていた。


まさに楓の渾身の一撃を体で表現したといっていい。


「参った!」と倒れ込んでいた影達は言って、正座をしてから頭を下げた。


「一対一だ! 今一度!」と楓は叫んだが、「三本目は河原の散歩などいかがでしょうか?」という影達の言葉に、楓は吊り上げていた目を下げて、「…あら、逢引かしら…」などと言いながらも、三本の木刀をもって収納庫に走って行って素早く片付け、立ち上がっていた影達の衣の埃を叩いてから、肩を寄せ合って河原に向かって歩いて行った。


「うまくいった」と幻影が言うと、単身の女官の冷たい視線を浴びることになった。


「いや、最高にいい勝負じゃった!」と信長は機嫌よく大いに叫んで、大声で笑った。


千葉重胤は大いに眉をひそめていた。


今の影達と楓に勝る術はないと考えたからだ。


お互いが変則な構えなので、特に戦いづらい相手でのあるが、弱点は多い。


だがその弱点を見事に補っている技と力を持っている。


さらには楓の一刀に持ち替える考えは誰にも思いつかなかった。


力があるこその二刀なので、一刀に集中させるという考えに及ばなかったのだ。


よって一刀に集中させれば、どのような猛者でも、影達のように後退は余儀なくされてしまう。


そして萬幻武流の猛者全員が幻影を見入った。


「影達は免許皆伝だ。

 楓はもうしばらく様子を見た方がいいだろうが、

 師範代は動かぬ事実だな」


幻影の言葉に、門下生たちは一斉に頭を下げた。


「…そうか… 楓には斑が多い、か…」と信長は言って何度もうなづいた。


「ええ、油断ではないでしょうが、

 更に集中力を上げるような努力が必要でしょうが、

 力的には申し分ありません。

 その集中力は影達はまさに達人の域に達しましたから。

 最後の楓の突進は、俺やお蘭でも後ろに引いてしまうと感じましたので」


幻影の言葉に、「むむ」と蘭丸はうなったが、戦い終えた組み手場を見て納得していた。


組み手場の中央にひときわ目立つ足跡があった。


誰もがようやくそれに気づいて、「…おー…」とうなり声を上げた。


「それほどに重い突進だったんだよ」と幻影が補足説明したことで、誰もが納得していた。


「防御兼攻撃、じゃな?」と信長が言うと、「はい、今の体当たりはその部類に入るでしょう」と幻影は笑みを浮かべて答えた。


蘭丸が木刀を持って来て幻影に投げた。


「…再現するって?」と幻影は眉を下げて木刀を受け取った。


「…攻め手がわかっていれば、対応は簡単なんだが…」と幻影が言うと、「吹っ飛べば勝ちだぁー…」と蘭丸は言って間合いを広げて、長木刀を中段に構えてから、楓と同じ足使いで、幻影に突進した。


『ガンッ!!』という木刀の音を聞いた途端、幻影はまっすぐに宙に浮いて後退したが、転がることはなく立っている。


しかし組み手場の外まで飛ばされていた。


「なるほどな、手がわかっていれば容易に逃げられる」と信長は機嫌よく言った。


「おまえ! 飛行術を使うな!」と蘭丸が叫ぶと、「使ってねえ!」と幻影はすぐさま叫び返して走って戻ってきた。


「ほら、また足跡の確認」と幻影が言うと、誰もが幻影と蘭丸の足跡を見入り始めた。


「…くっ! そういうことかっ!!」と蘭丸は大いに悔しがった。


同じような足跡が二つ並んでいればわかりやすかった。


影達の足跡は後方に引きずられている跡があるが、幻影の足跡にはそれがない。


よって幻影はその場で軽く飛び上がっただけだ。


その痕跡がかすかにつま先の足跡の部分に確認できた。


「ちょいと上に飛んだだけ」


幻影の言葉に、蘭丸は大いにうなだれたが、すぐに阿利渚に慰められて機嫌は治っていた。


「だが思わぬ力の勢いと、

 後方に飛ぶことで、一瞬、不安感はあったな。

 よって、思わぬ力技を放ってくる相手には、

 逆らわないことが一番で、様子を見ることがお勧めだ」


門下生たちは大いに勉強になったと、幻影と蘭丸に素早く頭を下げた。


「なんだって?

 体験したいって?」


誰も何も言っていないのだが、蘭丸は勝手に言って、門下生に木刀を投げた。


拒否するわけにもいかず、門下生たちは眉を下げながらも蘭丸に吹っ飛ばされ続けた。


しかも幻影のようにうまくいくわけもなく、ほとんどの者が地面で一回弾んで場外まで飛ばされた。


しかし免許皆伝者は幻影と同じように後方にまっすぐに飛ばされるが、転がることはなかった。


蘭丸は大いに面白くないようで、「終わりだ!!」と鬼のような顔をして叫んで訓練を終えた。


もちろんここは師範代総代の弁慶がすぐに説明したのだが、木刀がぶつかった一瞬で判断することは難しいと感じた。


あの勢いだと、もしも高く飛んでしまった場合、多少の怪我では済まなくなるからだ。


しかし、忍びの技術が高い者に限っては、比較的自信を持てたようだ。


比較的非力な忍びの場合、逃げを打つにもその時期が難しくなる。


もしも相手が力技で来た場合、今の方法であれば簡単に逃げ果せると自信を持った。


無謀にも戦って捕まってしまうと一巻の終わりなのは日を見るよりも明らかだ。


まさに普通の流派ではないと、門下生たちは大いに胸を張っていた。



「…いやぁー… 飛ばされたなぁー…」と松太郎は陽気に言った。


竜胆はまさにけなげで、松太郎の着物の汚れをはたきながら、「…着地が惜しかったね…」と笑みを浮かべて言った。


「力のかけ具合は見抜いていたんだけどね、

 自分で飛んだわけじゃないから、

 大いに慌ててしまったんだ。

 だが、一度経験したから、次は冷静に対処するよ」


「でも、すごくかっこいい転び方で、すぐに起き上がったもん」と竜胆は大いに松太郎の弁護をした。


「そうだね。

 欲張るのも贅沢というものだ」


「…お母さん、悔しかったから舌打ちしてたよ?」と竜胆が小声で報告すると、「…後が怖いね…」と松太郎は眉を下げて答えた。


「…なんだか、すっごく悔しいんだけど…」と妙栄尼が仲睦まじい松太郎と竜胆を眺めながら幻影に言った。


「そうだね、兄弟や親子の感情じゃないね」と幻影は答えてにやりと笑った。


「早々にすごいお方を見つけて鍛えなさい」と妙栄尼は言いたいことを言ってから、すたすたと寺に向かって歩いて行った。


―― …反省するんだろうなぁ… ―― と幻影は思って、妙栄尼の後ろ姿に笑みを向けた。



すると街道に前田利益が姿を見せて、組み手場を見入っている。


まだ整地をしていないので、とんでもない修行の後だろうと、武芸者であれば簡単に気づくはずだ。


「師匠のひとりが門下生全員を吹っ飛ばしたんだ」


幻影が挨拶代わりに説明すると、「…力任せの相手対策か…」と利益はつぶやいた。


「お蘭はまだ足りないそうだから、飛ばされてみればいい」


幻影の言葉に、「…生きていられる保証がない…」と利益は言ってうなだれた。


幻影は利益を工房に誘って、白い鎧を手渡した。


「怪我はするかもしれないが、絶命することはない」


幻影が言うと、利益は頭を下げて、着物を脱いでから鎧をつけた。


「…軽いと思ったが、全てをつけると少々重い…

 だが、普通に動くことはできそうだ」


「じゃ、罰を与えるから」と幻影が言うと、「罰?」と利益が言ったとたんに若返っていた。


利益は鎧の重さを感じないと思い、手を見ると、シミだらけだったはずの手の甲が、少年のようになっていた。


「今まで生きてきた人生と同じ時間まだ生きるという罰。

 罪は好いた人をほったらかしにしたこと」


「…うう…」と利益はうなった。


言い返す言葉はあったが、そんなことを言ってもむなしくなるだけと思い何も言わずに、幻影に頭を下げた。


幻影が木刀を渡すと、「師匠、行ってまいる」と利益は言って、走って工房を出た。



「…ふふふ… 誰だか知らんが面白い…」と売られた喧嘩は買ってやるという勢いで、蘭丸は長木刀を中段に構えた。


―― …なんだ、この威圧感っ!!! ―― と、利益が思った途端、背中が地面についていて大きく弾んだ。


痛みはあるがすぐに引いていった。


しかしさすがに立ち上がれなかった。


驚きにより冷静さを欠いてしまい、金縛りに陥ったようになってしまったからだ。


門下生のほとんどが、この状況を経験していた。


―― 巨大生物に突進されたほど重く早い!! ―― と利益が考えた途端、体の拘束が解けていた。


そして何とか立ち上がって、組み手場の中央に戻って、「もう一本!」と叫んで中段に構えた。


「ほう! なかなかのものだ。

 我が萬幻武流の門下生にしてやろう」


蘭丸は言ってまた長木刀を中段に構えた。


―― もうきた!! ―― と利益が思った瞬間に、また地面に背中がついていたが、抗わずに惰性に身をゆだねて、手足を少し伸ばして固定した。


勢い良く転がったが、素早く立ち上がり、また中央に駆け戻って、「もう一本!」と叫んだ。


利益は目が回っているが、ここは気力で抑え込んだ。


幻影から与えられた罰を、何とか克服したいと思ったからだ。


「飯を食ってからの方がいいぜ」と蘭丸はにやりと笑って言って、長木刀を担いですたすたと歩き始めた。


利益は少々悔しかったが、今は清々しい気分で、組み手場に寝転んだ。


確かに大いに腹が減っている自覚はある。


そのせいもあってか、冷静さを欠いていたように感じた。


もし三本目があった時、多少の怪我では済んでいなかったかもしれないとも感じた。


ようやく目のくらみが落ち着いたので半身を起こした。


「怪我はないようだな」と幻影が言うと、利益はゆっくりと立ち上がって、「はっ 問題はないものと」と言ってから、拳で胸を叩いた。


「通いでも住み込みでもいいが、

 しばらくは地獄だぜ」


幻影の言葉に、利益は覚悟を決めて頭を下げた。



利益は幻影と同じ門下生と風呂に入って自己紹介をした。


「…米沢藩の家老…」と誰もが目を見開いてつぶやいた。


利益は、―― 言うべきではなかったかぁー… ―― と思い幻影を見たが、笑みを浮かべているだけだった。


「戦場に何度も出ていることはよくわかった」と、嘉明に許可を得て関まで出向で来ている堂島がうなるように言った。


堂島ほどの巨体でも、蘭丸のぶちかましの経験は一度で十分だった。


二度目は確実に怪我をすると思い、渋々断念したからだ。


「何度も馬のぶちかましを食らったからな」と利益は苦笑いを浮かべて言った。


「…よく生きているもんだ…」と堂島は嘆くように言うと、「ぶちかまされる覚悟があれば、できないことでもない」と利益が言うと、「ああ、今の訓練と、状況は同じだ」と堂島は納得して言った。


「だが、全力で走ってくる馬よりも衝撃があった。

 三度目はさすがに止められてしまったし、

 ワシ自身、自信はなかった。

 止めてもらえてついていたってところだ」


利益は門下生同士、大いに気さくになって話をして、食卓では門下生の一員となって大いに食った。


「…話しづらい状況になってるぅー…」と源次が大いに嘆くと、「話でもあるのかい?」と幻影が聞いた。


「…あー… 母ちゃんの遺言…

 言おうかどうしようか迷ってて…

 墓を見つけた時に伝えようと思ったんだけど、

 大いに泣かれてね…」


幻影は何度もうなづいて、「その機会はこの先、いくらでもあるさ」と言うと、「うん、そうするよ」と源次は笑みを浮かべて答えた。


「だが、お家などの関係上、

 無碍な態度があったとは思えないんだが…」


幻影の戸惑いがある言葉に、「兄ちゃんの考えた通りだよ」と源次が笑みを浮かべて答えると、「…そうか… ある意味、戦乱の世の被害者ということだな…」と幻影は言った。


「その戦乱の世じゃなきゃ、

 兄ちゃんたちと出会うことはなかったし、

 俺は生まれてきてなかったかもしれない」


「ああ、確かにそうだ」と幻影は言ってから、利益を宙に浮かべて、源次の前に座らせた。


「ほら、もうその機会が来たぜ」と幻影が言うと、「あははは…」と源次はまさかの事態に照れ笑いをした。


しかし真剣な目をして、「母ちゃんからの遺言がある」と源次が利益に言うと、「…兼続のやつだな…」と利益はすぐさま答えた。


「…そうか、それで兼続の幽霊か…」と幻影がつぶやくと、源次も納得していた。


「母ちゃんは直江兼続から逃げたんだ。

 確実に利用されると感じてね。

 だから、父ちゃんが嫌いってわけじゃなかったんだ。

 父ちゃんも薄々感じていたはずだから、

 その元凶の直江兼続の幽霊に怯えたんだと思う」


「…兼続が死んで隠居してから、

 それがますますひどくなってきた…

 まさかあの寺にお種がいたとはなぁー…」


利益は言って天井を見上げて笑みを浮かべた。


「あら、若返らせたのね」と妙栄尼が笑みを浮かべてやってきた。


「…あんたは畏れ多いから寄ってくるな…」と利益は大いに迷惑そうに妙栄尼に言った。


「…こういう振られ方もあるのね…」と妙栄尼は大いに嘆いてうなだれると、幻影と源次は大いに眉を下げていた。


「重胤さんには?」と幻影は眉を下げて聞くと、「…何かが不気味と…」と妙栄尼は言って更に落ち込んだ。


「…まあ、仏陀研究家だからなぁー…

 その研究も大いに拍車がかかっているようだし…

 武士の強さとはまた別の、

 何らかの強さはあるから…

 ああ、器の大きさかなぁー…」


「…自然に寄り添いたいので、嘘はつけません…」と妙栄尼は真剣な目をして言った。


「…母ちゃんのそういう性格を俺はもらっているようだ…」と幻影は言って大いに眉を下げた。


「だから俺の嫁は俺自身が育て上げたから、

 母ちゃんの婿は母ちゃん自身が育て上げるべきだ」


「…そうしなきゃいけなのね…」と妙栄尼は渋々言って眉を下げた。


「…そういえば、幻武丸…」と源次が言ったとたんに、「あはははは!」と幻影は大いに笑い始めた。


「…お兄ちゃんの弱みがよくわかったけど、

 今更どうにかなるわけじゃないし…」


政江が悪だくみをしようと思ったようだが、それは無理な話としてすぐさま諦めた。


「政江はいい加減にしておけよ」


弁慶のまさに兄の叱咤の言葉に、「…うう… 弁慶兄… ごめん…」と政江は大いに眉を下げて謝った。


「…幻影兄は叱らないけど、弁慶兄はよく政江を叱ってたよなぁー…」


源次の言葉に、「…ふーん…」と幻影は言って弁慶を見た。


「…失礼にもほどがある場合もございますれば…」と弁慶は少し幻影を畏れながら言った。


「俺たち四人がずっと兄弟でいられたのは弁慶のおかげだ。

 絶対に忘れるな」


幻影の厳しい言葉に、源次は笑みを浮かべて頭を下げ、政江は今にも泣き出しそうな顔をして頭を下げた。


「もっとも、もしも弁慶が兄弟を解除しようとしていたら、

 俺は初めて弁慶を叱っただろうな」


幻影の言葉に、「…叱られていた方がよかったかぁー…」と弁慶はつぶやいて政江を見ると、幻影は大いに笑った。


「確実によかったのは、今まで歩んできた人生だったはずだ」


幻影の言葉に、弁慶は背筋を伸ばして笑みを浮かべて頭を下げた。


「源次だけはその性格から、

 俺とは本当の兄弟でもあったはずだ。

 弁慶と政江の真面目過ぎる性格上、

 本当の兄弟にはなりにくい性格だと察していた。

 だから俺にも大いに遠慮はあったが、

 源次には全くなかったことが、

 色々といい方向に転がったようにも思ったな。

 少し前から弁慶が源次を好敵手扱いを始めたし。

 どうせ弁慶のことだから、

 嫌われているとか、いろいろと考えていたことだろう」


「…気づかれないように考えたぁー…」という弁慶の言葉に幻影は大いに笑って肩を組んだ。


「弁慶は自分に厳しい分、

 教えることがそれほどなかっただけだ。

 その点源次には大いにあったからな。

 まあ今となっては本当にいい勝負だから、

 ここは意表をついて、

 政江を大いに鍛え上げるか」


幻影の言葉に、「…いやぁー…」と政江は言って、しくしくと泣き出し始めたが、長春が大いに眉を下げていた。


「…ウソ泣きが通用するとでも思ってるのか?」


「…長春ちゃんがばらしたぁー…」と政江が言うと、「おまえ、最初で最後の友達を失くすぞ…」と幻影が眉を下げて言うと、政江は本気で危機感を感じて、長春に謝った。


「…心からのお友達は、政江ちゃんしかいないから…」と長春は笑みを浮かべて言って政江に抱きついた。


「…私もそうだけど、それじゃいけないのかしら…」と政江は言って長春を見てから幻影を見た。


「長春は誰にでも気さくだから特に問題はない。

 政江は誰にでも横柄だから、少々考え直した方がいい」


「…うう… 返す言葉もないわぁー…」と政江が嘆くと、長春が大いに慰めていた。


「…横柄もある意味気さくだから…」という長春の言葉に、「それもある!」と幻影は大いに賛成して大いに笑った。


「特に子供たちには言葉を選べば、人気者になるはずだ。

 何なら俺ではなく、妙栄尼様に弟子入りすればいい。

 後家になったことだし、

 仏門らしきものに触れるのもまた一興だし、

 妙栄尼様と自分の違いを考えてみるのも面白い」


「…子供の時に指導してくれたらよかったのにぃー…」と政江は言ってすぐに口をふさいだ。


「なんとなく気づいたようだな」と幻影が意味ありげに言うと、「…今だからこそ正確に理解できる…」と政江が言うと、「では、お寺に参りましょうか」と妙栄尼は言って、政江と長春を連れ去って行った。


「たまには付き合おう」と幻影が言って立ち上がると、結局は琵琶家一同が立ち上がって、家族総出で現楽涅槃寺に足を運んだ。


境内で遊んでいた子供たちは何かあるのかと思い大いに期待したが、妙栄尼が本堂に入って経を上げ始めたので、大いに眉を下げていた。


これはごく普通の反応だったが、琵琶家の半数ほどは妙栄尼の大きさに恐れをなし始めた。


妙栄尼の正確な大きさがつかめなくなったのだ。


まるで、組み手場で本気の幻影に立ち向かっていることと何ら変わりはなかった。


すると幻影は政江と長春を家族たちの最後列の空中に浮かべた。


すると長春は、「…すごいぃー…」と言って、本堂の天井辺りを見入っている。


「…妙栄尼様は、この本堂では狭いんだよ…」


幻影が小声で言うと、約半数の者たちはすぐさまうなづいた。


「…一体、なにが… ああ、お兄ちゃん…」と政江は言って、巨人に見え始めた妙栄尼を見入った。


「…これが仏陀の正体の一部と言ってもいいが、

 全てと言っても過言ではない…

 …妙栄尼様は仏陀になられていると、俺は思っているんだ…」


「…特に何かができるわけではございません…」と経を読み終えた妙栄尼が立ち上がると、「突き抜けちゃった!」と長春は叫んですぐに、一般的な人間に戻った妙栄尼に笑みを向けた。


長春ほどはっきりと認識できていたのは幻影だけだった。


「忍び二名が、本堂の屋根の上でスルメを食べていましたわ」


妙栄尼の言葉に、草太と竜胆が目を見開いて素早く外に飛び出して、すぐに戻ってきた。


「…まさに、その通りでしたぁー…」と草太が目を見開いて言った。


「何かを食っているとは思ったが、

 スルメとは思わなかった…」


幻影が大いに眉を下げて言うと、「おほほほほ…」と妙栄尼は言って、右手に持っていたスルメをかじり始めた。


「あら、なかなかの珍味ですわ」と妙栄尼は言って、左手に持っていたスルメを信長に渡した。


「琵琶家で作ったものではない…」と信長は言って少量をかじって笑みを浮かべてうなづいた。


「越前から越後にかけての産物でしょう。

 スルメもいいのですが、甘辛い海賊焼きもいいです」


幻影の言葉に、「仕入れに行くか、漁に行く」という信長の言葉に、幻影はすぐさま従った。



琵琶一家は一番大きい戦艦に乗り込んで、越前まで足を運んだが、烏賊の干していたものをそれなりの値段で買い付けて、越中で蛍烏賊漁を体験した。


まさにわんさかと小さな烏賊が手に入りそうだったが、上っ面だけを掬って、近場の漁師に半分ほど売った。


よって、干していた途中の烏賊の値段は相殺されていて、ほぼ無料で干しかけの烏賊と蛍烏賊を手にした。


琵琶一族はこういった商売が本当に好きなだけで、特にケチなわけではない。


できれば金銭感覚を一般庶民に近づけたいだけだ。


関に戻ってからは、早速蛍烏賊をゆでて、甘辛く味付けして、腹ペコの家族たちの腹を大いに満たした。


「獲れたてはうまい!」と信長が叫ぶのも無理はない。


家族一同の誰もが叫びたいところだった。


それほど無謀な漁はしていないのだが、どうやら少々余りそうなので、法源院屋に卸すと、とんでもない値で買い付け、そして一瞬にして売り切れた。


さすがに暑いので、いくら旬とはいえ、この辺りで蛍烏賊は口にできないのだ。


更に一瞬にして売り切れたのは、もうすでに法源院屋に列ができていたからだ。


―― 琵琶御殿からうまい匂いがする… ―― というだけで法源院屋に並んでいるという、いつもの癖のようなものだし、幻影はこの近隣の住人たちの期待を裏切ることはない。


さらには干しかけの烏賊を海賊焼きにして売ると、また買い手が引き返してきて、まるで祭りのようにして、うまい烏賊の海賊焼きを食いながら帰って行った。


そして法源院屋も、夕餉は烏賊尽くしとなっていた。


「…ああ、おいしい…」と長春は言いながら烏賊を大いに食べ、少量だが動物たちにもおすそ分けしている。


子供たちも動物たちに食べ物を与えたいのだが、どうしても量が多くなるので、食事以外のおやつを与える仕事は長春が独占していた。


もちろん動物なので、いくらでも食べたくなるのだが、「…君はもう食べ過ぎよ…」とやさしく叱る。


特に小鳥たちは食欲旺盛なので、際限なく食べるのだが、巖剛がひと睨みするとすぐに大人しくなる。


さらに巖剛はおやつをほとんど食べないので、動物の中にいて大いに説得力があるのだ。


よって子熊の小春も大いに我慢するようになっていた。


「…出店の食い物がまた増えたなぁー…」と幻影は出店用のお品書きをずらずらと書いて、誰もを陽気にさせている。


すると源次が工房から戻って来て、「乾燥、終わったよ」と言ってするめを机の上に置くと、誰もがすぐに手を延ばす。


軽くあぶってあるので、まさに鼻腔をくすぐる。


そしてしっかり味見をしながら何度もうなづく。


信長は光秀とちびりちびりと酒を飲みながら、うまいするめを大いに堪能している。


「…それほど贅沢ではないが、贅沢じゃぁー…」と信長は大いにご満悦だ。


「逆に儲かってしまいましたから」と幻影は言って、売り上げの全てを妙栄尼に渡した。


「…あら、まあ、こんなにも…」と妙栄尼は笑みを浮かべて、幻影手製の金庫に銭を収めた。


子供たちの労働の駄賃用に銭が必要なので、それなりの額を持っているのは妙栄尼だけで、ほかの家族たちはほとんど銭を持ち歩くことはない。


持っていたとしても、小銭程度だ。


もし銭が欲しければ、廃品整理などをして、妙栄尼から駄賃をもらうような仕組みになっていた。


もちろん、家族のために常に働いている食事係は、いつでも妙栄尼から駄賃をもらうことは可能だ。


この日は就寝したのだが、翌朝朝餉が終わってから、『祭りの準備中』と大きな看板を上げて、工房一帯で菓子作りなど、保存が利く商品づくりが始まった。


よって法源院屋に人が並ぶことはない。


これ以外でいい匂いがした場合、法源院屋に並ぶ仕組みになってる。


よって、保存が利ないものを作り始めると、誰もがぞろぞろと法源院屋に並び始める。


今回は様々な天ぷらで、琵琶家の昼餉の準備も兼ねている。


そして法源院屋と麺屋に天ぷらを売って、琵琶家一同も昼餉を摂ることになった。


琵琶家がこの地にいるだけで、毎日がまさに祭りの売り上げがあるほどに儲かるので、どの法源院屋も琵琶一族に滞在してもらいたいのだ。


そして祭りが近づくたびに、廃品整理の人足が増えてくるのも今まで通りだ。


街道を作り上げた時の廃材が山ほどあるので、なかなか整理ができないのだが、琵琶家がやってしまうとわずか一日で終わってしまう。


場所と時間をとるのだが、労働をさせることが第一の目的であり、それに付き合って審査をする忍びたちにも賃金が支払われる、高循環の労働の場となっている。


こうやって琵琶家が儲けた銭は、労働力にあわせて人々に配られる仕組みとなっている。


「温かいうどんもいいが…」と信長は言って、うどんが見えないどんぶりを見入っている。


「細切りにしてまとめて揚げた野菜の天ぷらです」と幻影は言って、カリカリに揚がっているかき揚げを食って、満面の笑みを浮かべると、誰もがすぐに真似をして、「うまい!」「おいしい!」といういつもの声と同時に無口になった。


そして、『ズルズル』と『サクサク』しか音が聞こえなくなった。


「…麺屋にも出したか…」と信長が悔しそうに言うと、「ですが、料金は倍です」と幻影がさも当然のように言うと、信長は笑みを浮かべて何度もうなづいた。


「販売促進のために、重胤さん親子と影達に麺屋に行かせました」


幻影の言葉に、特に女性たちは大いに気にし始めて、そそくさと昼餉を終えて、静々と部屋を出て行った。


幻影が大いに笑うと、誰もがつられたように大いに笑った。


もちろん温かいうどんを食うと汗が出る。


幻影はある装置を信長に向けて釦を押すと、「うおっ!!」と信長は叫んで機械を見入った。


「自動の扇子か…」と信長は言って満面の笑みを浮かべて、風を受けて大いに喜んでいる。


「飛行船や船の動力源の羽の応用です。

 動力は、薄い鋼を巻いたもので、

 からくり人形の応用です。

 どこかの城にでも売れば、

 高額で買うだろうと思いまして。

 まずは江戸城でどれほど払うか見ものです」


「奥でも欲しがるだろうから、十台ほど作って持っていけばよい」と信長は機嫌よく言った。


幻影はお付きに弁慶と沙織を指名して、中間の大きさの空飛ぶ戦艦に商品を乗せて江戸城に飛んだ。



戦艦を天守に横付けして、「商売に来たぜ!」と幻影が叫ぶと、秀忠が顔を出した。


「お、暑いようだな」と幻影が涼しい顔をして言うと、「どーして、汗ひとつかいてないんだよ…」と秀忠は大いに苦情を言った。


「ほら、これだこれ」と幻影が送風機を秀忠に向けると、「うおっ!!」とまさに信長と同じように叫んだので大いに笑った。


「一旦降りるぜ」と幻影は言って、戦艦をゆっくりと中庭に下ろした。


秀忠は家光とともにやって来て、大きなひさしがある工房の影の部分で、自動送風機の体感をした。


「扇ぎ手の必要がないぃー…」と家光は笑みを浮かべて言った。


「日陰であれば涼しいからな。

 一台、いくら出す?

 今日は十台持ってきた。

 奥には必要だろうと思ってな」


「…献上して?」と秀忠が言うと、「おまえと家光にはそれでもいい」と幻影が言うと、ふたりは一瞬喜んだが、やはり奥やその他もろもろにも必要だろうと思い、まずは一台十両から駆け引きが始まった。


「おまえらけち臭いな…

 まずは百両からだと思っていたんだが…

 献上もなしでもいいんだぜ?

 ほら、風速も変えられるんだぜ」


幻影が釦を押すたびに、風が弱くなったり強くなったりすることに、ふたりは大いに考え込み始めた。


「ほら、風の方向まで変えられるんだぞ」


幻影が小出しにして説明すると、秀忠は側用人に博識者を連れてくるように言った。


もちろん初めてのものなので、それなりの意見が必要だ。


連れてきたのは幻影とは知り合いの、学士でもある佐野藤右衛門だった。


「…また困ったものを作ってくれたものです…」と藤右衛門は眉を下げて言って、まずは涼み始めた。


「贅沢ですので、購入は控えることが一番良いでしょう」と藤右衛門は言いながらもまだ涼んでいる。


「…説得力がないぃー…」と秀忠が言うと、幻影は送風を止めた。


「あっ あっ」と藤右衛門は大いに眉を下げて言って、懇願の目を幻影に向けた。


「買わなくてもいいから値段をつけて」と幻影が言うと、「贅沢品だから、安くても五十両」と藤右衛門は言い切った。


幻影は何度もうなづいて、また送風を始めた。


するとどこからか話を聞きつけたようで、奥の女中筆頭が姿を見せて、「んまっ!」と言って、送風機の前に立って涼み始めた。


すると風が止まったので、幻影は土台の背後にある蝶ねじを巻いた。


するとまた送風が始まったので、女中は満面の笑みを浮かべて、「買ってくださいますよう」と送風機に向けて言った。


「五十両ですよ?」と幻影が聞くと、「あら、百両ほどかと思いました」という女中の言葉に、「じゃ、一台百両」と幻影はにんまりと笑って言った。


「…ほかにも売りに行くんだよね?」と秀忠が聞くと、「もちろんだよ」と幻影は満面の笑みを浮かべて言った。


「一台は殿様に献上。

 あとは希望があれば作って売る。

 もっとも、我が琵琶家は大名家の一員になったから、

 献上の必要はないんだけどな」


「はい、さらに高値で売ればよいのです」と女中はさも当然のように言った。


「…ぜいたくは敵なのにぃー…」と秀忠は大いに眉を下げて言った。


「だが考えてみなよ。

 小姓や側用人に扇子で扇がせてるんだろ?

 扇がなくていい分、

 夏も仕事がはかどっていいんじゃないのかい?」


「…そうだ… 暑い時にだけしか使えない…」と秀忠が言ってにやりと笑った。


「残念だったな、寒い冬にも使えるんだ。

 暖かい空気はまずは上に溜まる」


幻影は送風装置を真上に向けた。


「上に溜まった暖かい空気を下げると、

 部屋はすぐに温まるってわけ」


「おう! そうなのじゃなっ?!」と女中は藤右衛門に聞くと、「はっ 間違いなく」とすぐに答えた。


「…一台、五十両にしてぇー…」と秀忠に拝まれたので、八台を四百両で売った。


「じゃ、この金は武蔵の国の辺鄙な場所の庄屋に配ってくるから」と幻影は金を受け取っていうと、「…はあ、さっすがぁー…」と家光は大いに眉を下げて言った。


「俺たちは金はほとんど使わないからな。

 必要な場所に還元すれば、

 この四百両はすぐにでも戻ってくるんだよ。

 だが、甘い顔は一度切りということも伝えておくけどな」


「…相変わらず、厳しさもあるんだね…」と秀忠は眉を下げて言った。


幻影は藤右衛門と話をして、辺鄙な場所の庄屋を百ほど書き並べてもらった。


「わずか四両だが、ないよりはマシだ」と幻影は言って、秀忠と家光に別れを告げて、武蔵の国中を飛び回った。



関に戻ったのは夕餉の直後で、腹を空かせていた信長たちは先に食事をしていた。


「十台四百両で売れました」と幻影が報告すると、信長は目を見開いた。


「武蔵一円の庄屋に四両ずつ配ってきましたので、この時間になりました」


幻影の報告に、「うむ! それでよいよい!」と信長は機嫌よく言った。


「ついでに作物の仕入れも済ませましたので、

 しばらくは食うものには困りません」


「…水羊羹、たべたぁーい…」と長春が言い始めたので、幻影は笑みを浮かべて早速作り始めた。


幻影は食事をしながらも水羊羹やら見た目に涼やかな菓子を作り上げて配膳した。


まさに夕涼みのような室内に、誰もが腰を揺らして喜んでいる。


「とと様、すごいすごい!」と阿利渚は大いに陽気に叫んだ。


「喜んでもらえて何よりだ。

 おー、冷えるぅー…」


幻影も大いにうまそうにして涼やかな菓子を堪能した。


「…お祭りに…」と長春が眉を下げて言うと、幻影も大いに眉を下げた。


「気持ちがわからぬではない。

 だがな、このように冷えたものを出すのは至難の技じゃ。

 もしも料金を取るとすれば、

 それなりに頂かないわけにはいかんじゃろう。

 よって、それなり以上の金持ちにしか食することは叶わんはずじゃ」


信長が穏やかに言ったのだが、長春はまだ懇願の目を幻影に向けている。


「例の冷却装置を大型化します」と幻影は真剣な顔をして言って、部屋を出て行った。


「…ああ… 幻影様でも厳しいのかもぉー…」と長春が嘆くと、「だったら言ってやるな!」と信長は大声で笑った。


「叶えてくださいますわ」と妙栄尼が穏やかに言うと、長春は満面の笑みを浮かべた。


「冷やすのはいいけどな、それを動かす者はまさに汗だくのはずじゃ」


信長の言葉に、誰もが大いに眉を下げた。


「…お手伝いしないと…」と長春は巖剛を見て言った。


「まずはお前が試せ」と信長は大いに眉を下げて長春に言った。


そして長春は藤十郎を見て、「…夫婦は一心同体…」と言うと、「…すまんな藤十郎…」と信長は言って頭を下げた。


「…幻影様はとんでもないものを作り上げるのでしょうが、

 必要なのは持続力よりも瞬発力かもしれません。

 さすればお手伝いも可能かと。

 もしも継続的な力が必要となれば、

 蘭丸様のお力を大いに発揮していただかないとならないように思うのです。

 ですが、それは不可能ですので、

 幻影様は違う方法を考えておられるように思うのです」


「…蘭丸では不可能?」と信長が聞くと、「御屋形様の警護が蘭丸様のお役目ですから」と藤十郎は答えた。


「…うう… そうであった…」と信長が言うと、「幻影に任せておけば間違いはございません」と蘭丸は薄笑みを浮かべて穏やかに言った。


「…今までもそうじゃったからな…」と信長は笑みを浮かべて何度もうなづいた。



夕涼みがてら工房に行くと、家が一軒建っていた。


「…重そうな建物じゃな…」と信長が拳で軽く叩くと、『ガンッ!』という音がした。


この建物は金属でできていたことに、誰もが大いに眉を下げた。


すると、「うりゃっ!」という幻影の気合が入った声と同時に、『ブーンッ!!!』という、巨大な羽虫のような音が聞こえた。


すると金属製の家がみるみる冷えていった。


信長が中に入ると、「…冬じゃ…」と言ってすぐに外に出てきた。


「よっし! これでいいっ!」と幻影は叫んで、「あ、みんな来たんだ」と幻影は家の裏から出てきた。


「冷えすぎだが、ワシの鎧が冷えたからじゃろう。

 普通の着物なら、ほんに涼しく思うじゃろうて」


「あとは外を白壁で覆えば完成です。

 そうすれば、しばらくは力仕事の必要はないので」


「今回はどんな仕組みなんじゃ?」と信長は言って家の裏に回ると、「…なんと…」と嘆いた。


大きな二個の鉄球がまるでうなるようにして回転していたからだ。


「振り子式ゼンマイ、といったところでしょうか」と幻影が言うと、「…力がいるのは起動する時だけか…」と言いながら、まだ勢い良く回っている鉄球を見入っている。


「欠点は重量だけですが、

 移動させるわけではないのでこれでいいものと」


「小さいものを飛行戦艦に組み込めぬか?」


信長の提案に、「小型戦艦で試します」と幻影は笑みを浮かべて言った。


「補助的役割だけでも十分なのです。

 欲張らなければ、搭載できると思われます」


「…夏なのに寒いぃー…」と長春は笑みを浮かべて外に出てきた。


「少し水流放出圧を落としましょう」と幻影は言って、取っ手を少し緩めると、「普通に涼しいよ!」と長春が機嫌よく言った。


すると琵琶家全員が小屋に入って、「…涼しい…」と幸せそうな顔をして言った。


「さすがに、これは売るとしても扱えないだろうなぁー…」と幻影は少し残念そうに言った。


「今、回しても問題ないのか?」と信長が聞くと、「はい、問題ありません」と答えると、信長は外に出て裏に回った。


そして幻影は長い綱を滑車などに這わせた。


信長が軽く引くと、「…体重がないと無理のようじゃな…」と言いながらも、両手で綱を握って腰に力を入れて思いっきり引くと、『ブーンッ!!』とまた振り子が勢い良く回り始めた。


「そうか…

 振り子が回っている方が軽い…

 じゃが、非力じゃとまず回らんはずじゃ…」


「はい、止まった状態からだと、

 まず回転させるのが至難の業でしょうね。

 少しでも回転してくれたら、

 何度も繰り返せばいいだけですが、

 維持できる回転数を上げるには普通の人間だと十人ほどは必要でしょう。

 我らであれば、ひとりだけでも問題はないと。

 気が付いた者が一度回せば、半時ほどは持つはずですので。

 この部屋で、魚などの保管もできそうです」


「ああ、先ほどの寒さであれば問題ないじゃろうて」と信長は機嫌よく言った。


「おいくらですか?!」といきなり長春が聞いてきた。


「子供は一品交代制で五銭」と幻影が言うと、長春は幸せそうな顔をした。


「大人も一品交代制で五十銭」と幻影が言うと、「露骨だな…」と信長は大いに苦笑いを浮かべていたが何度もうなづいていた。


「大人子供の見分けは店番の判断で。

 ここは臨機応変だ。

 よって、元服を終えている信幻の場合、少々難しい。

 俺から見れば子供だが…」


「大人でござる」と影達がすぐさま言った。


「健五郎殿も大人。

 だが才英殿は…

 辛うじて子供…」


影達は何とか言って、三人に頭を下げた。


「…いい判断だと思うよ…」と幻影が大いに眉を下げて言うと、幻影から見た子供の三人は大いに眉を下げていた。


「あとは身なりや髷」と幻影が言うと、誰もが大いにうなづいていた。


武家以外の子供の場合、髷は簡素なもので、ほとんどの家で親の仕事でもあるので、わざわざ髪結に行くことはないので比較的判断が簡単だ。


もちろんこの件は伏せておくことが前提でもあるが、それほどせこい行為をする者はこの辺りには住んでいない。


「では、竜胆は?」と幻影が影達に聞くと、「大人と判断しているのは元忠殿だけでござるので子供です」とすぐさま答えた。


「そうだね、そういう判断も重要だね」と幻影は機嫌よく言った。


「では、家老にこの大役をお願いしておこう」


幻影の無碍な言葉に、影達は大いに眉を下げていた。


「家老は光秀と幻影もじゃ」と信長が言うと、三人は一斉に頭を下げた。


「それに、ワシも担当する。

 理由は涼しいから!」


信長は言って大いに笑った。



「韋駄天競争?」と蘭丸が言って、街道を見た。


この関の地は大きな街道が二本あり、御殿の前の街道と、御殿の裏の一段低い場所にもある。


上の街道が祭りを行う街道で、下の街道を使って寺の境内までの足の速さを競う催し物をすると幻影が言い始めたのだ。


「それぞれの地の特別な催し物があってなかなかよい」と信長は言って何度もうなづいた。


「中にはとんでもない足腰を持った者がいるやもと」


幻影の言葉に、「ああ、楽しみじゃわい」と信長は機嫌よく言った。


「だが、街道から折れて寺の山門に入るから、内と外では条件が違うぞ」と蘭丸が言うと、「団子になって必死になって走る姿もよかったのだが…」と幻影は言って、紙にその図を描いて、誰をもうならせた。


「道筋を決めて走り出す場所を違えるわけか…」と蘭丸は言って納得していた。


「寺の山門前を終点にしてもいいんだが、

 山門を終点にした方が勝負が見えづらくていいと思ってな。

 外の者が大差をつけているように見えて実は違うという効果がある」


「おー…」と誰もがうなって、大いに納得していた。


「さらには速やかに競技を始めるために、

 走者の前に門を置く」


幻影は言って、その門と仕組みを簡単に描いた。


「我先にと飛び出すことはできんわけだ…」と蘭丸は言って大いにうなづいている。


「この方が競技を早く進められて厳正だからな」と幻影は言った。


「…まずは、ワシらでやるぞぉー…」と信長が大いに燃えていた。


装置などは簡単に作り上げて、街道の地面に白い布で線を敷いた。


そして装置を建てて、測量も終えた。


距離は五十間ほどが妥当だとした。


どの枠も寺の門まで均等な長さとなっている。


ここは信長が指名して五人を並ばせた。


やはり注目は一番内側にいる幻影だ。


「準備!」と信長が叫ぶと、誰もがそれぞれの方法で、目の前にある門を見据えた。


『バンッ!!』という音とともに扉が開き、目の前が明るくなり、誰もが一斉に走り始めた。


すると幻影はもう終点に到達していたので、見ている者は誰もが眉を下げていた。


「…あやつは手加減を知らぬな…」と信長は言って苦笑いを浮かべた。


「…邪魔してやりたいができないぃー…」と蘭丸は言って、一番外の枠に陣取った。


剣術の実力と走る速さは比例しているようで、決勝に残ったのは全員が免許皆伝者かその師匠だった。


忍びである草太と竜胆は大いにうなだれていたが、忍びの腕も一級品ではないと免許皆伝を頂けないと思い知っていた。


決勝は、幻影、蘭丸、弁慶、源次、そして信幻の五人だ。


そして全員一斉に走り始めて、山門では団子状態で五人全員が走り込んだ。


すると雀が幻影の頭に止まって囀り始め、勝利者が決まった。


「一直線ではなかったのかぁ?!」と蘭丸は大いに悔しがった。


長春は動物たちと話しをして、簡素な絵を描いた。


「二番手でもなかったぁ―――っ!!!」と蘭丸だけが大いにうるさかった。


二番手は信幻で、大いに気合を入れて吠えていた。


三番手に蘭丸、そして源次、弁慶の順だったが、それぞれが一寸の差しかなかった。


「門が開いて飛び出した順番だと思う」と幻影が言うと、長春が動物たちと話を始めて、「…当たりぃー…」と言って烏の頭をなでた。


「さすが免許皆伝者とその師匠じゃ!」と信長は五人全員を大いに褒めた。


「…祭りの日に再戦だぁー…」と蘭丸が大いにうなった。


「御屋形様の守りは?」と幻影が聞くと、「門下生全員で囲ませるからいいんだぁー…」と蘭丸は幻影をにらみつけて言うと、信長は大いに苦笑いを浮かべていた。


「おまえの神の剣を阿利渚に持たせておけぇー…」と蘭丸がうなると、「あ、そういうのもあったな…」と幻影は今更ながらに思い出した。


「御屋形様をお守りします!」と阿利渚が真剣な目をして叫ぶと、「ああ、守ってくれ」と信長は機嫌よく言って阿利渚の頭をなでた。


すると子供たちが妙栄尼を囲んで、何があるのかを聞きだして、「商品などは用意するのかしら?」と妙栄尼が幻影に聞いた。


「いつもと同じで参加者は駄賃で、高成績者は褒美を出す予定です」


幻影の言葉に、子供たちは大いに喜んで、街道を走り始めた。


街道全てを占有しているわけではないので、通行の妨げにはならないように造られているので、これも子供たちの遊び場のようなものだ。


「どうやって分けるんだ?」と信長が聞くと、「今回は身長で組み分けをしようと思っています」と幻影が答えると、信長は笑みを浮かべてうなづいている。


幻影は忘れないようにと、阿利渚を抱いて、火の国九州の高千穂岳に飛んだ。



ちょっとした旅はまさに快適で、下界が夏だとは思えないほど、上空は涼しかった。


高千穂の山頂も大いに涼しく、阿利渚を地面に下ろすとすぐに石組に近づいて、「お仕事よ!」と叫ぶと、洋剣は小さくなった。


阿利渚は笑みを浮かべて小さな洋剣を持ったが、「…あー… 十字架…」とつぶやくと、盾に変身した。


「まるで生きているようだな」と幻影は言って阿利渚の頭をなでた。


「…噴火とかしないでくれよ…」と幻影は眉を下げて言ってから、阿利渚を抱いて関に戻った。


問題はこの時点で起こっていた。


幻影が阿利渚を地面に下ろすと、眉を下げて泣き顔になって、「…盾がないぃー…」と大いに嘆いたのだ。


「いや、あるぞ」と幻影は言って、阿利渚の着物の前を少し開けると、「あっ!」と阿利渚が叫んだ。


「着物、脱いでみな」と幻影が眉を下げて言うと、阿利渚は勢い勇んで着物を脱いだ。


すると阿利渚の鎧が、まさに盾と同じ模様を帯びていたのだ。


「ちゃっかりと同化しやがった」と幻影が悪態をつくと、琵琶一族は集合して、まずは阿利渚を抱き上げようとしたが無理だった。


もちろん蘭丸も同じだったので、「かーちゃんは免除」と幻影が言ったとたんに、蘭丸は阿利渚を抱き上げた。


「…危険だ…」と弁慶が大いに眉を下げて言うと、「…そうだな、危険だな…」と幻影は言ってから少し考えて、「生物に危害を加えるな」と阿利渚の鎧に命令した。


「あっ」と蘭丸が言ってから、「…軽くなった気が…」と言って幻影に阿利渚を抱かせた。


幻影が弁慶に阿利渚を抱かせると、「…重くなくなった…」と言って笑みを浮かべた。


幻影は木刀を持って来て、その両端を押さえて、「腕で折ってみな」と幻影が言うと、阿利渚は腕を振り上げて簡単に木刀を折ってしまった。


「じゃ、壊さないと念じてやってみな」


幻影の言葉に、阿利渚は神妙にうなづいてから、半分になった木刀を叩いたが、『カンッ!』という軽い音がして折れることはなかった。


「なんだか阿利渚の修行のようになったが、まあいい」という幻影の言葉に、阿利渚は大いに喜んだが、誰もが大いに眉を下げていた。


「…あーでも、御屋形様をお守りしなきゃ…」と阿利渚が言ったとたんに、阿利渚の目の前に巨大な盾が現れた。


「前が見えないよ!」と阿利渚が叫ぶと、盾は消えた。


「盾と遊んでやんな」と幻影が言うと、「はーい!」と阿利渚は陽気に答えて、盾や剣を出したり引っ込めたり大きさを指示したりした。


「…俺のじゃなく阿利渚のものか…」と幻影が言ったが、「いや、お前のものだとワシは思う」と信長は大いに苦笑いを浮かべて言った。


「幻影が持っていてもそれほど意味がないと思ったんじゃろう。

 だったら阿利渚に使われた方が役に立つとでも思ったんじゃろうて。

 もしも咄嗟の時に命令でもすれば、阿利渚から離れるはずじゃ」


「…はあ、その通りのようですね…

 ここに持って来て、ようやくヤツの正体を知ったと思います」


幻影の言葉に、誰もが目を見開いた。


「ヤツは、イエス・キリストです」


幻影の言葉に、阿利渚が動かなくなった。


「この程度で戸惑うな」と幻影が言うと、阿利渚は拘束を解かれた。


「まずは、改名させる必要があります。

 さすがにイエス・キリストではまずいので」


「…うう… それはそうじゃ…」と信長は大いに眉を下げて言った。


「童話のアリスの手下の名前」と幻影が言うと、「泣き虫な獅子!」とアリスは笑みを浮かべて答えた。


「獅子丸でいいでしょう」と幻影が言うと、誰もが大いに苦笑いを浮かべたが、「獅子丸君!」と阿利渚は陽気に言ってまた遊び始めた。


「改名を受け付けたようです」と幻影が言うと、「…ああ、受け付けたな…」と信長は大いに眉を下げて言った。


「…幻武丸とどっちが強いか勝負だぁー…」と蘭丸がうなって幻武丸の柄を握ると、「やめろぉー…」と幻影はすぐさま止めた。


「…神は何に宿るかわかったものじゃないようですね…」と幻影が眉を下げて言うと、「大地まで創ったことになっておるからな」と信長は鼻で笑って言った。


「実際は長い時間をかけた地殻変動のようですから。

 人間の短い人生では、それを見た者はいませんから、

 証明は難しいのです。

 ですが、阿蘇山や浅間山の岩神の飛び石のように、

 変化があったと知らしめるものは残っていますから、

 想像はできそうですね」


「そういえば、そんな書簡があったな…

 かなり高い標高の山に、二枚貝が埋まっていたとか…」


「はい、火山だけではなく、大地が隆起してできた山もあるようです。

 そのようにして形を変えて

 今のところは現状で落ち着いているように見えるだけでしょう。

 淀の巨大な巨椋池など、我らが生きているうちに、

 ほとんどが消えてなくなってしまいましたからね」


「ああ、それもあったな…

 大なり小なり、変化をしていることはよくわかった」


幻影と信長の話を聞いて、誰もが大いに勉強になっていた。



幻影は卓上送風機を二台、関の法源院屋に格安で売った。


冬は極寒の地だが、夏が涼しいというわけでもなく、比較的穏やかな生実と比べて、関の方が暑い日もある。


一台は外の売り子が使い、もう一台は店内の番頭や店主が使う。


まさに変わった一品に、法源院屋は大いに驚いていて喜んでいる。


祭りの期日がようやく決まり、夜に花火の仕打ちが始まった。


「花火が近いぃー…」と長春は笑みを浮かべて言って両腕を延ばした。


「今回は少々近いから、それほど大きなものは打ち上げないが、

 連射が可能だ」


幻影が言って指笛を拭くと、しばらく間を開けて、『ババババババンッ!!』と数十の花火が一気に上がって、「豪快じゃ!」と信長は叫んで大いに手を叩いた。


「…ここの中くらいの花火大会がいいなぁー…」と長春が言うと、「ほかは大きな水辺から打ち上げるけど、ここでは無理だからこじんまりとだ」と幻影が言うと、長春は笑みを浮かべて納得した。


「しかも、今までの倍ほど打ち上げられるが、

 大花火大会と同じ時間やるぞ」


「…ここの花火大会が好きぃー…」と長春は笑みを浮かべて言った。


仕打ちが終わって商店の一軒になった冷製甘味処はまさに大盛況だった。


子供たちには情操教育上いいようで、様々な冷えた菓子をひとつ食ってはまた並ぶ。


この冷蔵小屋は夜の短時間だけ、試しとして開店させていが、大いに繁盛しているし、持ち帰りもかなりの数が売れている。


持ち帰り用の冷えた水だけでも相当の値段がするはずだからだ。


そして売り上げはすべて妙栄尼の懐に入るようになっている。



祭り当日の朝はまさに快晴だが、琵琶御殿の目の前の街道はかなり涼しい。


雨除けの屋根を出して影を作り、幻影特製の巨大な送風機で街道中に風を送っているからだ。


どこにもない祭りが始まると、特に子供たちは浮足立っているが、廃品選別作業場も祭りのようになっていた。


誰もが少しでも多く金を手にして、大いに楽しみたいからだ。


特に親は子のためと思って大いに働いている。


そして脚自慢は下の街道で予選が始まった。


予選は昼餉のあと一時ほど行われて、ここで出場者の締め切りをする。


よって寺の回りも大勢の人でにぎわっている。


さらには軽業興行も始まって、まさに祭りは最高潮となっていた。


昼餉には、腐りにくい弁当の販売も始まって、涼しい日陰の広い工房前は人であふれ返っていた。


納涼甘味屋も大いに売り上げを伸ばしている。


特に食べ物は底なしによく売れた。


肝心の商品は、昨日の夜から本腰を入れて作り上げていたので売り切れることはない。


さらには近隣の藩からの視察団も現れて、どこにも存在しない祭りに目を見開いている。


特に送風機と甘味処が注目の的になっていた。


そして夕刻近くになって、神輿や山車が街道を練り歩いて、現楽涅槃寺を何往復もした。


そして注目の韋駄天競争だが、見知らぬ少年が琵琶家の者たちの目を奪っていた。


身長五尺以下の組にいて、まさに韋駄天の速さで一番手に決まった。


年令はほぼ身長相当で、まだ十三だった。


名前は十河信栄といい、どうやら侍の出らしいが、身なりは町人だった。


「…ふむ… 金目当てか…」と信長は腕組みをして少年を見入っている。


「韋駄天決定戦でも多分一番手でしょう。

 それまで様子を見ましょうか」


全ての身長別の競争が終わってから、最後の最後にそれぞれの一番手がもう一度走って真の韋駄天を決めるのだ。


その賞金は十両で、しばらくであれば食い繋げて行けるほどの金額だ。



三回目の軽業興業が終わってすぐに、韋駄天の最終決戦の準備が始まった。


その前に、『萬幻武流韋駄天決定戦』が始まり、蘭丸と阿利渚が大いに緊張を始めた。


幻影はすべてを探り終えていて、―― 問題なし ―― としていたが、油断はしていない。


しかし全ては門下生と阿利渚に託してあるので全く問題はない。


「準備!」と大いに守られている信長の声とともに、誰もが大いに緊張した。


そして影達が一気に綱を引いて門を開くと、まさに一斉に五人が飛び出していった。


まさかの素早さに誰もが目を見開いて、誰が一番手なのか全く判断ができなかった。


しかし、頭の上で雀が鳴いたのは、またもや幻影で、もちろん大いに喜んでいた。


「…さすが、萬幻武流だぁー…」と見守っていた者たちは目を見開いたまま拍手をしていた。


二番手は今回は蘭丸で、三番手以降は同着と判断された。


まさに師匠としての面目を保ったようなものだった。


そして、韋駄天競争の最終戦が始まり、誰もが固唾をのんでいる。


「準備!」と信長が言ったとたんに、怪訝な空気が辺りに流れ込んできた。


もうすでに阿利渚の盾が半透明の巨大化をしていた。


幻影はそれに対する方向にすっ飛んで行って、何の騒動も起すことなく、遠距離用の妙に真新しい単筒を簡単に奪って、忍びたちに捕縛させた。


韋駄天競争は何事もなく開始されて、十河信栄が一番手となって大いに気合を入れて喜んでいる。


幻影は信長の元に戻って、「…賊を捕らえました…」と小声で言って、信長の背後を見た。


「…ワシではなく、ほかの大名どもか…」と信長が言うと、「…あわよくば、やもしれませぬ…」と幻影は答えた。


「…とにかく大名であれば誰でもよかった?」と信長が言いかえると、「御意」と幻影は答えた。


「我らがうなるほどのカネをばらまいて祭りをしていると、

 どこかから聞いていたようです」


「迷惑な話じゃ!」と信長は叫んで、まずは表彰式に出て、十河信栄の勝利を称えて賞品を授与した。


「よう頑張った。

 この先も雄々しく生きよ」


信長の言葉に、信栄はすぐさま怪訝そうな顔をした。


「そう簡単に琵琶家の一員になれるものか」と信長が鼻で笑うと、信栄はわなわなと震えた。


「おまえはそそのかされたのじゃ。

 我ら琵琶家と諸大名たちは暗殺の標的になっておったからな。

 じゃが、お主はその仲間ではないようじゃ」


信栄は大いに目を見開いて、すぐさま首を横に振った。


少年とはいえ、ある程度の世間の風当たりの強さは知っている。


そしてこの関に来るまでの話を思い出し、信栄が目を見張るほどの活躍をすれば隙が生まれ、何らかの策略をもって、この祭りを台無しにしたのだろうと察した。


「じゃが、お主も信栄と申すのだな。

 ワシは琵琶信影。

 字は違うが読みは同じ。

 これも何かの縁じゃ。

 萬幻武流の門下生となりて、大いに奮起して見せよ。

 もちろん、使えぬのならばすぐに放り出すからな」


信長の言葉に、信栄はゆっくりと満面の笑みを浮かべて、「ありがとうございます!」と始めて言葉を口にした。


「…なんだ、女子か…」と信長は眉を下げて言ったが、「まあよいよい」となんでもないことのように言った。


「知っての通り、女子でも師範代が三人もおるからな。

 別に珍しくもないことじゃ」


「信栄は父の名です!」と信栄は叫んで頭を下げた。


「堂々と父の名を名乗れることほど、もったいないことはないものじゃ」


信長は言って幻影を呼んで、門下生の試験をするように申し付けた。


「殿様は外れの方の佐竹家のようだな」と幻影が言うと、「はい、佐竹喜直様です」と信栄は胸を張って言った。


「君の本当の名は?」


「…栄子ですぅー…」とバツが悪そうな顔をして名乗った。


幻影が、「まずは祭りを楽しむことが、我が流派の修行」と言うと、栄子は大いに戸惑ったが、「はい! 楽しんできます!」と笑みを浮かべて叫ぶと、早速長春たち女子に連れ去られた。


「値の張るものを買わされるのではなかろうか…」と信長が眉を下げて言うと、「その時は補填しましょう」と幻影は笑みを浮かべて言った。


この関の地は高価な工芸品などが多く、特に反物は有名で、女性であれば袖を通したいものはわんさかとある。


さらには幻影は髪留めやかんざしなどを卸しているので、まさに天下一の姫様が出来上がってしまうほど高いものをそろえている。


それに加えて、肌に低刺激の紅や頬紅なども工房で作っていて、まさに目を剥くほどに高いものを卸していることもあり、金に糸目をつけない場合は、簡単に上質な姫様が出来上がってしまう。


もっとも、琵琶家の女性たちは、一生一度として、気に入ったものをひと揃え信長に買わせている前歴があるので、信長が大いに心配しているのだ。


韋駄天競争の全ての賞金は十一両なのだが、その十倍ほど持っていても足りないほどだ。


すると都合よく、物見遊山で加藤嘉明と藤堂高虎が悠々と馬に乗ってやってきて、街道の東の端にある厩に消えた。


その厩から出た途端に、ふたりは歩を止めるだろうと思い、幻影は巨大送風機の前で待機した。


案の定、ふたりは厩から出て来てすぐに送風機を見上げたまま固まった。


「だからここはこれほどに涼しいのか?!」と高虎が大いに叫ぶと、幻影は大いに笑った。


嘉明と高虎はすぐに幻影の存在に気付いて走ってやってきた。


「日陰であれば、炎天下であっても涼しいぜ」と幻影が自慢げに言うと、「…くっ!」と高虎は悔しそうに言った。


「江戸城では小さいものを一台五十両で買ってくれた。

 奥では必需品と認定されたそうだからな。

 とんでもないものを作ってくれたと、苦情を言われたよ!」


幻影は叫んで大いに笑った。


その小さいものが法源院屋の店先の出店にあるので、ふたりを案内すると、どちらも商品を買うことなく送風機を見入っていた。


「すっごく涼しいですよ!」と売り子の女中が自慢げに言うと、「この奇妙な機械はいかほどだぁー…」と高虎が低い声で聴いた。


もちろん売り物ではないと女中が断ると、「…五十両かぁー…」と高虎は頭を抱え込んで大いに嘆いた。


「特に、夏場の書き物ははかどるぜぇー…」と幻影がさらに追い打ちをかけると、「…一台二台だけでは済まされんー…」と高虎は大いにうなった。


「会津城に十台頼む」と今まで黙っていた嘉明は即決した。


「冬でも使えますから。

 天井に向ければ、暖かい空気を下げることもできますから」


「ほう! なるほどな!」と嘉明は機嫌よく言った。


「特に熱が出た時は効果覿面で、

 濡れた手ぬぐいの効果が大いに上がります。

 思ったよりも、温度が下がるのでね」


「…色々と使い勝手はあるようじゃ…」と嘉明は笑みを浮かべて何度もうなづいた。


「贅沢は敵じゃ!

 …敵、なのじゃ…」


高虎は初めは威勢がよかったが、徐々にしおれていった。


「すぐに決めることはない。

 買うのなら鳩を飛ばしてくれたら持っていく」


「…お、おう…」と高虎は力なく言ってうなだれた。


「しかし、やけに勧めるんだな」と嘉明が聞くと、「…金が要りようになりそうなので…」と幻影は眉を下げて言って、高級呉服屋を見入って、事情説明をした。


「…沙織のやつも…」と嘉明は言って幻影に頭を下げた。


「御屋形様がお認めになられたので、特に問題はないのです」と幻影の言葉に、嘉明は救われた気分になった。


「…むむむ… その分、送風機にしてくれ!」と高虎が叫ぶと、「首を縦に振ると思う?」と幻影が聞くと、「…うう…」と高虎はうなっただけだ。


沙織はもうすでに琵琶家の一員なので、信長としては当然のこととして買い与えているのだ。


高虎の血縁者が琵琶家にいないことだけを高虎は悲しんだが、自分自身が琵琶家の一員となれば、今治にも津にもその恩恵を授けられると思ったが、信長はそれを許さないことはもう聞かされていたので大いにうなだれた。



するとやはり、着飾った栄子が呉服屋から出てきて、化粧まで施されていた。


「…総額、百二十両…

 銭、どうしたんだろ…」


幻影はすぐさま品定めをして、眉を下げて言った。


すると、妙栄尼にも出てきたので、一気に解決した。


「…母ちゃんが払ってくれたようです…」と幻影はほっと胸をなでおろした。


「…どこぞの姫だ…」と高虎はじっと栄子を見入っている。


幻影が事情を説明すると、「…弘前の佐竹か…」と高虎は言って鼻で笑った。


「そこの家臣の十河信栄の娘だ。

 親父は家老のようだから、身分不相応でもないな…

 だが、この件は大いに尾を引く。

 琵琶家どころか、大名の殿様たちを亡き者にしようとしたんだから」


「なんと?!」と嘉明と高虎は声をそろえで叫んだ。


「阿利渚が見事に守ったんだぜ」と幻影が自慢げに言うと、「…まだ四つの子に何ができるというんだぁー…」と高虎がうなった。


「神が味方に憑いたんだよ」


幻影の言葉に、嘉明も高虎も目を見開いた。


「ふたりには自慢げに見せてくれるだろう」と幻影は言って、妙栄尼に近づいて行った。


「万が一のために、姫のひとりやふたり、でっちあげることはできます」


妙栄尼の言葉に、幻影は大いに笑った。


「加藤様! 藤堂様!」と阿利渚が叫んでやってきて、ふたりに丁寧にあいさつをした。


「御屋形様をお守りしたんだって?」と嘉明が聞くと、「はい!」と叫んで、半透明の盾を嘉明の目の前に出した。


まさに昼間に夢を見ているような顔を嘉明と高虎がしていたので、幻影は大いに笑った。


その盾は消えて、今は阿利渚の右の腕輪となっていた。


「仲良くなったようだな」と幻影が言うと、「はい! とと様!」と阿利渚は満面の笑みを浮かべて答えた。


「この腕輪は、神獅子丸という」


幻影の言葉に、嘉明と高虎は柏手を打って拝んだ。


「実態があるようでなく、触れることはできるが、

 認められないと持ち上げられないという不思議な存在だから、

 まさに神」


幻影の言葉に、「…一体どうやって…」と嘉明がうなると、「薩摩と日向の境にある高千穂の山に刺さっていた剣でした」と幻影は簡単に説明した。


「薩摩からも調査に来ていたから、公にはなっていますが、

 持ち出したことは伝えておいた方がいいだろうなぁー…」


「もう伝えたって言ってるよ?」と阿利渚が言うと、「そうか。でも祭りが終わったら、直接言いに行こう」と幻影が言うと、「はい! とと様!」と阿利渚は答えて、栄子たちを追いかけて行った。


「神なので、人物が特定できれば、

 頭に直接語りかけられるようです」


幻影の言葉に、「…まさに神…」と嘉明は言って手のひらを合わせた。



本日最後の軽業興業は無事に終わって、琵琶家一同は軽業興業所の貴賓室に陣取って、夕餉を摂りながら、いつ終わるとも知れない花火も大いに堪能した。


役目を終えた忍びたちは信長につぶさに現状を報告してから、萬幻武流の集まりの一員になって夕食を楽しんでいる。


目に見える警備は幕府から雇っているので、何があったとしてもそれほど大きな騒ぎにはならない。


もっとも大きな騒ぎになりそうだったが、幻影が速やかに処理をしたし、今は全く不穏な空気を感じない。


弘前の佐竹家の件は、もうすでに秀忠と家光の耳に入っていて、ふたりは山形の鳥居家と仙台の伊達家に調査に出るように鳩を飛ばしていた。


特に伊達家は狙われたのが琵琶家だと知って、騎馬百を引き連れて、もうすでに山形に入っている。


命令した側は、成果のほどはまだ知らされていないので、政宗としてはできれば今日中に弘前に入りたいようだ。


よってその武器となる、反射板付きの提灯も持参していたので、鳥居家としても速やかに任務を遂行することに決め、総勢三百の騎馬隊が山形城を出た。


「政宗が出陣したようです」と幻影は書を読んで信長に報告した。


「…行ってもらった方がよさそうじゃな…」と信長が言うと、幻影は草太を連れて夜空を飛んだ。


幻影は山道を走る強い光を見つけて、「やあ、ご苦労さん」と政宗に挨拶をすると、「兄者も来られたか!!」と大いに陽気に叫んだ。


「見届け役とお前らの護衛だ。

 新型の武器を持っている可能性がある。

 飛び道具で、火を使わない新しい単筒だ」


「鉄扇を出した方がよさそうじゃ!」と政宗は高揚感を上げて言って、左腕から鉄棒を出して広げた。


「先に武器だけ押さえて来るが、

 油断すんなよ」


「おう!」と政宗は大いに気合を入れて答えた。



幻影と草太の目の前に、月の光に照らされた弘前城が見えたが、不穏な空気は城下町になく、少し南側にある武家屋敷にあった。


「…宣教師が密輸して単筒を売ったらしい…」と幻影はつぶやいた。


「…単筒を押さえます…」と草太が真剣な目をして言うと、「…銃口の前に立つなよ…」と幻影も真剣な目をして指示を出した。


さすがに相手が琵琶家なので、どうやら寝ずの番で警備に当たっているようだが、幻影と草太でその警備をすべて縛り上げて、本陣に入場した。


そしてわずかに騒がしくなったが、一気に諦めの感情が流れた。


武器という武器は、幻影と草太のふたりですべてを押さえて、庭に突き立てているからだ。


そしてこの本陣からは出られないように細工をしたので、牢獄と全く同じようなものになっていた。


幻影はこの場で花火を上げて、政宗たちに居場所を知らせた。


「十河信栄はいるか?!」と幻影が叫ぶと、まさに家老然とした者が歯ぎしりをして幻影をにらみつけた。


「いや、お前は違う」と幻影は言ってから、男を宙に浮かべた。


すると草太がひとりの男を連れてきて、「…地下の牢におりました…」と小声で報告した。


すると馬の蹄の音が聞こえたので、一番大きい門を開けて、騎馬隊を迎え入れた。


「幕府直属の命を受け駆け付けた、仙台藩主伊達政宗である!」という言葉に、屋敷にいた者すべてが膝を折ってうなだれた。


「おまえの手柄か?!」と幻影が叫ぶと、山形藩主の鳥居忠政は愉快そうに笑っていた。


「天雲大名である琵琶家筆頭家老、琵琶高願様の供として参った!

 新型の短銃を使って騒ぎを起こそうとしたことは明白じゃ!」


政宗が叫ぶと、「これな」と幻影は言って地面に指を差した。


「…変わった作物じゃ…」と忠政が言うと、幻影は愉快そうに笑った。


「…琵琶家が、この地を訪れんから悪いんじゃ…」と佐竹某がつぶやいたが、幻影は無視した。


ただの逆恨みのようなものなので、何を言ってもその耳には届かないはずだ。


「この藩も天領だろうな…

 松平は腐るほどいるからな…」


幻影の言葉には、政宗も忠政も苦笑いを浮かべるだけでなにも言わなかった。


「…信幻にやらせてみるか…」と幻影がつぶやくと、「…おおー…」と三百の騎馬隊が一斉にうなった。


「…家臣であればいくらでも出そうぞぉー…」と政宗が気合を入れて言うと、「まずは父親代わりの嘉明様にお伺いを立ててからだよ」と幻影が気さくに言うと、「…加藤家も、腐るほどいるし… 顔見知りばかりだし…」と政宗は言ってうなだれた。


「もっとも、信幻がその気にならないだろうから、

 しばらくは先かなぁー…

 今は、琵琶家の家族の一員でいることが、

 居心地がいいらしい」


もちろんこの話は政宗も忠政も知っているのでうなづいていた。


「…同じ、佐竹のはずなのに…」と佐竹某がまたうなって、何か行動を起こそうとしたが、動けないことを知って目を見開いた。


「よい志がないおまえなどが徳川を名乗っても、誰も相手にせぬ。

 さらには旗本まで落とされるか、蟄居、だろうな。

 徳川幕府はそれほど甘くはねえぞ」


「…秀忠が」と佐竹某が言って口をつぐんだ。


「ほう! 余計なことを言ったのは天海か!」と幻影が叫ぶと、佐竹某は大いに戸惑い、「…偽物じゃないか…」と政宗は眉を下げて言った。


「偽物だと公表したわけじゃないけど、間違いなく偽物だ」と幻影が言うと、「…そんな坊主を放っておく幕府が悪い…」と佐竹某は言い始めた。


「うまそうな餌に飛びつくお前が一番悪い。

 そして大馬鹿野郎だ。

 お前には藩主は無理。

 明日以降、この地に琵琶家が入って色々と掃除をしてやろう。

 お前が騒ぎを起こしたおかげで、

 この地の住人たちは苦痛から解放されるだろう。

 だがな、幕府がこの程度のことを知らなかったとでも思っているのか?

 幕府はな、知っていても知らぬふりをして問題を起こすのを待っているんだ。

 そうすれば、簡単に首を切れるからな。

 平和になった現在、殿様のよき知恵が全てを左右するんだよ。

 大馬鹿のお前には無理な話だ」


「…明日は我が身じゃ…」と忠政は言って背筋を震わせた。


「話は終わりだ!

 政宗、城の開城を。

 何やらたくらみがあるようだから気をつけろよ」


幻影の言葉に、「…危険、ですよね?」と政宗が眉を下げて言うと、「一戦交える気が満々のやつらが千ほど、それだけだ」と幻影が答えると、政宗は大いに眉を下げたが、この場は忠政に任せて、「開城に行くぞ!」と政宗は勇ましく叫んで、屋敷を出て行った。


「明かりを照らせばなんも見えん」と忠政が言うと、「ええ、それだけで終わったも同然でしょう」と幻影は明るく言った。


「くそっ! くそっ!」と佐竹某は悔しがるだけで何もできない自分を始めて恥じていた。


幻影は屋敷を解体して、簡素な屋根付きの牢屋に改造した。


「…お見事…」と忠政は大いに苦笑いを浮かべて言って、幻影を称えた。


「では、我らは帰ります」と幻影が言うと、「…一度、じっくりと…」と忠政は笑みを浮かべて言って頭を下げた。



幻影と草太は無傷で関に戻り、信長にすべてを説明した。


「…あの偽坊主…」と信長は嫌悪感をあらわにしてうなった。


「蝦夷の内地の山奥にでも飛ばしますよ」と幻影が言うと、「…やりそうだな…」と信長は眉を下げて言ったが大いに笑った、


「さらには宣教師も悪事の一端を担っていました。

 これも由々しき問題でしょう。

 今回はさすがに正式な罰として打ち首でしょうね」


「火縄ではない銃は脅威だな…」と信長は言って、捕まえた者から奪った銃を見ている。


「強制的に火薬を圧縮させて爆発させる方法ですね。

 花火の一種の癇癪玉のような仕組みです。

 この平和な日の国には、あってはならないものです」


幻影の言葉に、「…武器も、このように進化していくのじゃな…」と信長は言って頭を振った。


「ですが萬幻武流は、どのような武器にも負けません」と幻影が堂々と言うと、琵琶家一同はすぐさま頭を下げた。



翌朝一番に幻影は江戸城に向けて鳩を飛ばした。


大まかな顛末と、怪僧天海を捕らえるように書に認めたのだ。


そして琵琶家は北の地に飛んで、大いに迫害されていた農民たちの心の安寧を誘い始めた。


まさに祭り一歩手前の催し物に、どの庄屋も琵琶家に愛想よく接した。


そしてうまい食べ物に生まれ変わった農作物に感謝をして、涙を流しながら大いに食らった。


特に子供たちの心の闇は根深く、精神疾患を起こしそうな子が大勢いた。


しかしここは動物たちの愛らしさが、多くの子供たちを救った。


そしてうまいものを大いに食べ、大いに遊び始めた。


そんな中、ひとりだけどす黒い雰囲気を纏った、十河栄子がいた。


今日はさすがに着飾っていないが、とんでもなく値が張る着物などを買ってもらったことに、罪悪感を抱いていたのだ。


「昨日買ってもらった一式、百二十両だということは知ってるよな?」


幻影の言葉に、栄子は今にも泣き出しそうな顔をした。


「ちなみに、全てを売って百二十両を手にしたって、

 この藩の全ての者に配っても、

 一人当たり一朱になるかどうか…

 だが、その程度の銭でもあれば、

 生き残れた子もいたはずだ。

 だがな、この日の国には生まれもっての格差というものがある。

 その頂点にいる武家は、きらびやかな着物などを持っておくべきなんだ。

 そして自分自身が頂点にいることを再確認して、

 できれば労働によって全ての者に幸せを与えること。

 これも、萬幻武流の教えでもある」


幻影の言葉に、栄子はようやく暗い隧道から出られたように感じて、何とか幻影に笑みを向けた。


「それに、自分の銭を使ったわけじゃないんだから、

 ありがたくもらっておけばいい。

 その千倍ほど働いた時に、

 心からの笑みを浮かべることができるはずだ」


「はい! お師様!」と栄子は笑みを浮かべて大声で叫んで頭を下げた。



この翌日、幻影は阿利渚を連れてまた火の国に向かって飛んだ。


今回は高千穂岳ではなく鶴丸城に用がある。


もちろん、高千穂岳の山頂に突き刺さっていた洋剣の件だ。


ここではさすがに門番に名乗って、大いに慌てられたが、速やかに城主の島津忠恒との謁見が叶った。


謁見の間には、山頂で出会った役人がいて、どうやら家老のひとりだったようだ。


「実は高千穂岳山頂にあった洋剣は形を変え、

 我が娘の腕にある」


幻影が言うと、誰もが一斉に阿利渚の右腕を見た。


「重くならずに元に戻って」と阿利渚が言うと、腕輪は阿利渚の背丈よりも長い剣に姿を変えた。


「…おおー…」とこの場にいる誰もがうなって剣を見入っている。


「手品や術ではないことだけは先に言っておく」


幻影の言葉に、忠恒は目を見開いたまま何とかうなづいた。


「少々困ったことに、俺の娘が気に入ったようでな。

 さらには山頂に突き刺しておいても何も起こらないことはよくわかっているんだ。

 だからなんとか使ってやろうと思って、

 越後の関に持って帰ったとたんに、

 早速素晴らしい働きをしてくれた」


「…幕府から、書簡が届いた…」と忠恒はまるで夢見心地のような目をしてつぶやいた。


「事が起こる前に阻止できたから、

 正確には天雲大名である琵琶信影様をさらにお守りしただけとなったが、

 もしも俺が気づかなかった時は、

 周りにいた大名たちもただでは済まなかった。

 よってここに来たのは、この剣が誰のものかということだけにある」


すると剣は勝手に形を変えて阿利渚の腕輪に戻った。


「…報告を受けていた通り、高願殿と阿利渚殿にしか扱えん代物じゃ。

 好きになさって構わん」


忠恒は大いに寛大な裁定を下した。


「カネを出せなどともいうつもりもなさそうだな?

 何故だ?」


幻影が問い詰めるように言うと、「…敵になることだけは避けたいからじゃ…」と忠恒は言って顔見知りの家老を見た。


「できれば名乗っていただきたかった。

 赤い疾風、真田幻影殿」


家老の言葉に、「琵琶高願も間違いじゃないぞ」と幻影が言うと、家老は大いに眉を下げていた。


「そののちの件も、法源院屋からお聞きした。

 幕府とは手を組んでいるようでそうではない。

 一番の問題はキリシタンの弾圧じゃ。

 琵琶家は幕府の意向に従い、

 キリシタンを開放して回っている。

 じゃが幕府は…」


家老が悔しそうに言うと、「次に見せしめの殺戮をした場合、徳川とは縁を切ることになっている」という幻影の言葉に、家老は笑みを浮かべてうなづいた。


「幕府の言っていることは間違いないことで、

 ただの人身売買の切欠としてのキリスト教の布教活動なのはわかっているんだ。

 それをできる限り幕府の思惑通りに、平和に変えたいんだよ。

 これは徳川家康にもできなかったことだ。

 できれば、家光の代できれいにしてやりたいのだが…

 ま、人は弱いからなぁー…

 その地の殿様の考えひとつで大いに変わることでもあるからなぁー…」


「…我は、妙栄尼様の信者じゃ…」と忠恒がホホを赤らめて言った。


「俺の母親だが?」と幻影が言うと、この場にいる誰もが大いに驚いて目を見開いた。


「本当の名を上杉阿国。

 この名は二代目で、初代が上杉謙信の側室。

 阿国さんは二代に渡って、

 仏教の布教活動に従事していると言ってもいいんだけど、

 妙栄尼様は仏陀の真実を追いかけている研究者なんだ。

 はっきり言って宗教家ではなく学者だね」


「…ち… ちなみに…

 高願殿のお父上は…」


家老が大いに戸惑いながら聞くと、「武田信玄」と幻影は背筋を伸ばしていった。


「俺の父親が病で倒れなけでば、

 今頃は武田を名乗っていたと思うし、

 琵琶家もなかったはずだ。

 琵琶家の殿様は織田信長」


幻影の言葉に、この場の時間が止まった。


島津家にとって、織田信長はまだまだ脅威の存在だったからだ。


「現在は影の将軍として君臨していただいている。

 そしてご本人も、大いに力仕事をされている。

 頭を使うのは、三人の家老に任せっきりなんだよ。

 もちろん、決断するのは御屋形様の仕事だけどな。

 ああ、その家老のうちの一人が明智光秀」


「…驚くのも飽きた…」と家老は言ってにやりと笑った。


「俺たち琵琶家は、

 不条理のない平和をつかむために働いているつもりだ。

 よって、今回の寛大な沙汰に感謝する」


幻影は言って忠恒に頭を下げると、忠恒は大いに恐縮しながらも頭を下げた。


「もしもよかったら…

 この薩摩にも我らの町を作り上げたい。

 もっとのその土地は琵琶家の領地になってしまうから、

 人がそれなりに住んでいて、

 いらない土地でもあれば見繕って欲しいんだ。

 なければ肥後に」


幻影がここまで言うと、「ある! 土地はある!」と忠恒は幻影の言葉を遮るように言った。


「指宿辺りだと温泉もあるしいいなぁー…

 もちろん、少々離れていても構わないんだけどなぁー…」


幻影の言葉に、家老が地図を広げて、その場所を示唆した。


「一等地じゃない分、やる気が出てきた」という幻影の明るい言葉に、家老も忠恒もほっと胸をなでおろしていた。


そして琵琶家の今後の予定のことを語って、早くても半年後と聞いて、「…またとんでもないことを…」と忠恒は大いに眉を下げて言った。


「街道整備はまさに急務だからね。

 商人にとっても武家にとっても、

 歩きやすい道の方がいいから。

 さらには京にも琵琶家の町を設ける予定だし…

 知っていると思うけど、大君とは友人なもんでね」


「…初めは、険悪だったことは聞いておる…」と忠恒は言って家老を見た。


「ああ、本当にいけすかねえヤツだったけど、

 今は普通だよ。

 結局、徳川幕府に従わざるを得ない境遇を呪ったようだ。

 あいつもある意味籠の鳥でかわいそうなやつだ…

 もしも上洛の予定があるのなら、

 今俺がした話をしてやって欲しい。

 そうすればころりと感情が変わるはずだから」


「…そこは利用させていただこう…」と忠恒は穏やかに言った。


「では、琵琶家の町になる予定の地を見学してから帰るよ」と幻影は言って阿利渚を抱き上げた。


「…あ、阿利渚殿には、もう許嫁が…」と忠恒は聞きづらいことを何とか聞いた。


「本人が気に入ったやつの嫁に行くはずだ。

 今のところは、父である俺らしい」


幻影の言葉に、「あいわかった」と忠恒は笑みを浮かべて答えた。



幻影は指宿温泉から少々北に飛んで、ほぼ荒れ地という場所にやって来て笑みを浮かべてうなづいた。


「掘ってみないと何とも言えないが、

 なかなかいい場所だと思う。

 桜島からも程よく離れているから、

 噴火してもそれほど被害はないだろう。

 問題は、この地を農地に変えるのは至難の業だが、

 やりがいはあるな」


「きちんと手伝うよ!」と阿利渚は機嫌よく言った。


「獅子丸にも、街道工事の手伝いができればいいんだけどな」


幻影は言って高度を上げてから関に戻った。



幻影が全てを信長に報告すると、「…酒どころ…」と言ってにやりと笑うと、幻影は大いに苦笑いを浮かべた。


その土地によりけりだが、このような生産物などの武器を持っている藩はそれほどの税を課する必要はない。


それほど欲を持つことなく、民の立場に立って政を行うのだ。


琵琶家が家を建てることで、それがさらに盤石となる。


「生実に帰るぞ」と信長が言って立ち上がると、家族全員がすぐさま従った。


「…お酒くらい、買って来ればいいではありませんか…」と濃姫が言うと、信長は大いに眉を下げていた。


信長としては一時でも早く薩摩に御殿を構えるつもり満々だったわけだ。


そのためには東海道と中山道の街道整備と、京に琵琶家の町を興すことが最低条件となる。


「…巖剛の出番もあるからな…」と信長が眉を下げて言うと、『…ウォーウ…』と小声で鳴いた。


「薩摩は大いにあることでしょう。

 京の方が出番を見つけるのは難しいようですけどね」


幻影の言葉に、巖剛はすがるような目を幻影に向けた。



この翌日から琵琶家一同は、まずは夜間工事に徹した。


そして音を立てることと振動を与えることは厳禁として、まさに修行のような日々をひと月間も過ごした。


すると武蔵の国の回りの街道全てが生まれ変わっていた。


秀忠と家光はこの素晴らしい事業の成果に大いに感動して、琵琶家を褒めたたえ、諸藩への面目も保てるようになった。


もちろん、多くの大名家の者たちが江戸に住んでいるからだ。


それを実感して、誰もが国に帰って殿様に報告をする。


天雲大名琵琶家を抱えた徳川幕府は安泰だと。



琵琶家はついに西に向かって東海道の街道整備を始めたが、今のところは生活を変えずに夜間の作業に徹した。


しかしそれは相模を抜けるまでの我慢で、伊豆半島に差し掛かってすぐに、温泉地で休養をとることになった。


伊豆の法源院屋は大いに琵琶家を労い、そして大いに喜んだ。


さらには天領ということもあって、秀忠もちゃっかりと同席していた。


何も言わなくても近隣の旗本たちが警備を担うからだ。


こういった刺激も必要だろうと、幻影は心を新たにして笑みを浮かべていた。


しかし琵琶家の休養とは名ばかりで、温泉地の街道整備を始めたので、誰もが大いに眉を下げていた。


―― 休養に来たのではないのか… ―― と誰もを驚かせていた。


もちろん、休養前のひと仕事で、広い街道ではないので琵琶家としてはなんでもないことだった。


武器のひとつでもある巖剛は幻影にねだって、元からあった温泉から湯を引いてもらってご満悦になっている。


『琵琶熊様の湯』という看板を元湯の所有者たちが早速立てて、物見遊山の者たちに安全であることをきちんと説明した。


特に説明の必要はなく、巖剛が多くの小動物を従えていることで、誰もが心も癒されていた。


ようやく自我を形成した小春も、小さいながらに威厳を発するが、長春にはさすがに逆らえないようで、長春と巖剛を代わる代わる上目づかいで見ている。


「…お前はいい子じゃないようだなぁー…」と幻影がうなると、小春はいい子になっていたので、長春は大いに眉を下げていた。


やはり怖い存在は必要で、巖剛までが幻影に少し怯えているほどだった。


もちろん、幻影が小春を嫌っているわけではなく、琵琶家の一員でもあるのなら、極力動物の本能を出させないようにすることが目的だ。


特に熊は猛獣なので、もしも誰かに危害を加えた場合、一緒には暮せなくなるからだ。


その小春の好敵手は狼の才牙で、名前には似合わずに、まさに愛想のいい犬でしかなかった。


そして長春のそばにいるとまさに警備員と変わって、体毛を逆立てて緊張する。


「…おまえはお蘭のようだな…」と幻影が少し笑いながら言うと、琵琶家一同は愉快そうに大いに笑った。


「…すっごくよく分かったぁー…」と長春は眉を下げて信長と蘭丸を交互に見た。


「…俺の真似をしやがってぇー…」と蘭丸がうなったが、才牙としてはどこ行く風で、知らん振りを決め込んでいた。


「…お蘭よりも出来はいいかもな…

 犬という忠誠心に満ちた感情がある分、

 才牙の方が安心して見ていられる」


幻影の言葉に、「…くっそぉー…」と蘭丸は苦情を言うことなく大いにうなった。


「どちらも優秀じゃ!」と信長がほめると、蘭丸は破顔して頭を下げた。



幻影たちは近くの農家で大量の作物を買い付け、海に出て魚を捕った。


秋になりかけていて辺りはすっかり涼しくなっていたので、働き甲斐もあるというものだ。


本来ならば勝手に漁はできないのだが、ここは大殿様の秀忠に献上するということでなんの騒ぎも起らなかった。


さらにはその恩恵も大いに受けて、法源院屋で魚の切り身などの販売が始まった。


誰もが大いに冷えている大きな廿楽を不思議そうに見て、安い魚を買っていく。


多くある宿屋も駆けつけてきたが、大量に仕入れられないことを知って大いにうなだれた。


しかしここは期間限定という秀忠のありがたいお言葉によって、数日間は琵琶家が直接宿屋などに魚を卸すことに決まった。


「…税がたんまりと上がってくるぅー…」という秀忠の言葉に、琵琶家一同は白い目で見ていた。


「今に始まったことじゃないさ。

 時には諦めも肝心だ」


幻影の言葉に、秀忠は大いに眉を下げたが、琵琶家一同は控え目に笑っていた。



数日間は伊豆で穏やかな日々を過ごして、東海道の街道工事を再開した。


大きな川には新たに橋を架け、さらに往来がたやすくなる。


もちろん大名行列とも出くわすのだが、大名たちの方が道を譲っているほどだった。


そしてさらに歩きやすくなった街道に出くわして、歩みの速度が上がっていた。


駿府は何事もなく抜けたが、終わりに入って早々に、名古屋城に登城した。


もちろん、信幻の御三家への表敬訪問の意味もあるが、天雲大名としての信長の威厳の方が大きい。


徳川義直は大いに恐縮して、信長と信幻に向けて等しく対応した。


さらには今回も天狗でもある幻影がいることで、義直としては落ち着かない。


できれば、琵琶家から猛者を譲り受けたいほどだったからだ。


「あまり欲張っていると、形原城の城門のように、

 この名古屋城の城門も切り刻まれるぜ」


幻影の言葉に、家老たちが一斉に怯え、「…阿修羅でもあらせられたかぁー…」と小声でうなった。


「それは俺とお蘭の仕業だ。

 なんなら、証拠を見せてやってもいいぞ?

 今度は城ごと切って捨ててもいい」


幻影の言葉に、蘭丸は幻武丸を立てて持ち大いに気合が入っていたが、家老たちはすぐさま頭を下げた。


「…その城門の一部を、この名古屋城に保管しておりまする…」


家老の言葉に、「証明の必要はないようだ」と幻影が言うと、蘭丸は大いに悔しそうな顔をして、幻武丸を畳の上に置いた。


「萬幻武流の奥義で斬り捨てたから、かなり貴重だぜ」


幻影の言葉に、「…おー…」と家老たちはうなって笑みを浮かべた。


「…三尺もある太い柱が斜めにすっぱりと切れておりますから…

 大工たちも首をひねっておりました…」


松平縁の家老の言葉に、「阿修羅袈裟斬り」と蘭丸は今名前を付けて言った。


「…阿修羅袈裟斬り…」と家老たちは言って大いに感動していた。


「我が夫幻影の肩に乗り、阿修羅となりて斬り捨てたのじゃ」


蘭丸の雄々しき言葉に、「…おー…」と家老たちはさらに感心してうなった。


「という、とんでもないやつを義直は欲しいようだ。

 この件は上様にご報告、だな…」


幻影の言葉に、「それほど脅さずともよい」と信長は機嫌よく言った。


義直は気分が優れなくなったということを理由に、謁見はお開きとなった。


「ヤツはどこにいたんじゃ?」と信長が大いに言葉を省略して聞くと、「秀忠の背後を」と幻影は答えた。


もちろん、大坂での最後の戦いでの布陣の件だ。


「ほう…

 なのに家康には目前も背後も守りがおらんかった…

 意味があると思うか?」


「この件も、井伊直孝の野望のひとつかと」と幻影は答えると、「あの時の家康はいらんかったか」と信長は鼻で笑って言った。


「明智三千に織田五十で対抗するようなものです」


幻影の例えが面白かったようで、信長は大いに笑ったが、その役に充てられてしまった光秀は大いに苦笑いを浮かべていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ