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赤参道 akasando


   赤い幻影 akaigenei ~土着編~



     赤参道 akasando



幻影が琵琶御殿に戻ると丁度夕餉時で、家族一同はよだれを垂れ流しながら待っていた。


幻影は三種類ある鮪の切り身を手早く切って、大根のかつらむきを千切りにした大皿に手早く盛り付けた。


「…食いにくいことをするなぁー…」と真っ先に蘭丸がうなった。


「うまそうで高そうなものは、こうやって目でも食うそうだ」


幻影は料理人から聞いた言葉をそのまま言った。


「江戸のやつらはけしからんな」と信長が言って箸をつけると、全員がすぐさま手を伸ばした。


「おや?」と信長はいつもはない小皿を見た。


そこにはワサビとほぼ黒く見える液体がある。


「…これは、紫じゃないか…」と信長は大いに目を丸くして幻影を見た。


「研究して、ようやく気に入ったものが出来上がりました。

 いつもの醤油とは一味違いますよ。

 どうか刺身に浸して山葵わさびを乗せて召し上がってください」


幻影がまずは手本を見せてこめかみを押さえ、「うわぁー… うめぇ―――っ!!」と大いに喜んだ。


まさに今夜の最高にうまい魚に、誰もが大いにホホを落としながらも大いに食った。


「ああそうだ、随分と儲かりました」と幻影は言って、懐から小判を何十枚も出した。


「…これほどの高級魚か…」と信長が言うと、「それなりに安く売ってやったので、かなり貴重なものかと」と幻影はほぼ食い終わってから言ったので、家族たちは大いに頭を抱え込んでいた。


もちろん、もっと味わって食えばよかったと後悔したのだ。


「漁師たちにも手伝ってもらったので切り身を渡しました。

 法源院屋に売って、それなり以上に金を手にしたと思います。

 使いすぎなきゃ、しばらくは余裕で生活できるでしょう」


「どうして呼んでくれないの?!」と勝手に部屋に入ってきた秀忠が叫んだ。


「ほら、もう食い終わった」と幻影がからかうように言うと、秀忠は大いに落ち込んだ。


「信幻たちがまだ帰ってないから、

 あいつらの分はある」


幻影の言葉に、秀忠だけではなく、家人たちが全員懇願の目を幻影に向けた。


「…信幻に頭を下げて食わせてもらえばいいさ…」と幻影は大いにあきれ返って言って、早速調理を始めた。


信幻たちが帰ってきたのはいいのだが、家光も連れてきた。


幻影はさらに頑張って、最初に作ったものの倍のものを出すと、誰もが大いに幻影をにらんでいる。


「外できちんと働いている者たちへの労い」


幻影の言葉に、家人たちは大いにうなだれた。


秀忠も家光も満面の笑みを浮かべて、刺身を大いに食らった。


次にいつ手に入るのかわからないので、大いに味わって食っている。


幻影は手を合わせて、「わずか一匹の魚が、数百名の腹を満たしました」と言って拝むと、誰もが大いに目を見開いていた。


「…そんなにでかいのか…」と信長が聞くと、「はい、二間ほどありました」という幻影の言葉に、誰もが目を見開いた。


「…鯨じゃないの?」と長春が今にも泣きそうな顔をして言ったので、海洋生物の哺乳類と魚の違いを説明すると、長春だけではなく半数の者たちが大いに納得して何度もうなづいていた。


「料理人たちも驚ていました。

 どうやら血抜きがうまくできていたようで。

 臭みが全くないものは食ったことがなかったそうですから、

 大いに感心していて、それが小判の山に代わりました。

 ですが、行ってもあと一二回にしておきます。

 みんなの欲が見え隠れしていますから」


幻影の言葉に、誰もがすぐさまそっぽを向いた。


「…ぜいたくは敵だ…」と信長が言うと、誰もが一斉に頭を下げた。



幻影の言葉はまさに正しく、欲を持った者が大勢現れたが、すべて妙栄尼が受け持って、大いに説教をして回った。


今のところは商売などの手を広げることはないので、幻影たちは本来の剣術指南に余念がない。


食えば強くなるような者ばかりなので、幻影ひとりでは対応できなくなりつつあったので、師範代たちが大いに手と口を出す。


このような日が五日続いた後、信長と高虎の希望で家族総出で、極寒の地の関に飛んだ。


無事にたどり着き、御殿で雪を見ながらくつろいでいると、「…海も近いよ?」と長春が言い始めた。


「ああそういえば、冬になるとうまいものの水揚げがあるそうだよ。

 江戸の方ではほとんど見たことがないものだ。

 小さいものはあるけどな」


幻影は言って立ち上がって、源次を連れて漁港に行った。


「…ああ、蟹だぁー…」と源次は言って笑みを浮かべた。


ぜいたくは敵なので、庶民でも何とか買える程度のものをそれなりの量を買って、大きな釜で湯がいてから御殿に戻った。


「…何という素晴らしい潮の香り…」と高虎が真っ先に感動していた。


長い間今治という海の近くに住んでいたことで懐かしくも思うのだろうが、今住んでいる伊勢も似たようなものだ。


幻影は、硬い甲羅をやすやすと手で割って、みんなの面倒を大いに見ながら、「さあ、食え食え!」と煽った。


そして誰もが無口になった。


「うむ! ゆずと大いにあうな!」と信長は機嫌よく叫んで、酒も大いに進んでいる。


醤油と酢を混ぜて作ったたれも、大人たちには大いに好評だった。


そして幻影はせっせと殻ばかりを集めて出汁を入れて煮込み始めた。


そしてみじん切りにした野菜を持って来て、どんぶり飯の上に振りかけて、土鍋の蟹の味がしみ出した出汁をかけた。


「ほら! 飯だ! 食え食え!」とまた煽る。


まさにこれも修行のようなものだが、「…ああ… うますぎるぅー…」と真っ先に重胤が言って笑みを浮かべた。


「…これはいい…

 まさに冬だと感じさせるなぁー…」


信長は大いに機嫌よく言った。


「一般の庶民でも買えるものを選びました。

 ですのでそれほど贅沢ではありませんから」


幻影の言葉に、誰もが心置きなく大いに食った。


「蟹風味のおせんべい、できないかなぁー…」と濃姫が言い始めたので、早速試作をした。


気温は低いが空気が乾燥しているので、薄く伸ばしたせんべいは普段の数倍の速さで乾燥を終えた。


そして軽くあぶって食べると、まさに潮の香りが満載の素晴らしいものになっていた。


「…このおせんべいに出会えた幸せに感謝するわ…」と濃姫は涙を流して感動しながら言った。


誰もが大いに眉を下げていたが、こういったものは人それぞれだし、うまい菓子には違いない。


「…ぶつぶつ…」と阿利渚がつぶやいて腕をかき始めた。


「ああ、拒絶反応だ」と幻影は言って、阿利渚の腕を軽くなでただけで発疹が消えた。


「甲殻類にはよくあることだ。

 特に子供はなりやすいらしい。

 大人になると抵抗力が上がるから、

 治療しなくてもほとんどの者が起こらなくなるから、

 それほど問題はないぞ」


幻影の言葉に、「お医者さん、ありがと!」と阿利渚は笑みを浮かべて言って、幻影に抱きついた。


「…ああ、海老でもなる子はいたわ…

 でも酷い時は死に至るって…」


沙織の言葉に、「…ふむ… 嫌な予感がするから見回ってこよう…」と、幻影は今回は弁慶を連れて防寒着を着てから近隣の村を回った。


ほとんどの家から蟹のにおいがする。


やはりこの季節は食卓に蟹が出るようだ。


やはり不幸があって、長屋から子供の名前を大声で呼んでいる声が聞こえる。


幻影は迷うことなく玄関を開け、ぐったりとしている子供にすぐさま手のひらをかざして、問題がなくなったことを確認して外に飛び出した。


親たちは一体何が起こったのかわからなかったが、玄関に向かって手を合わせた。


三百軒ほど回って、不幸があったのは五軒だったが、死に至ることはなかった。


関に戻る前に寺があったので、住職に蟹の拒絶反応の不幸がないか聞くと、やはり年に何件もあるようで、住職は手のひらを合わせた。


仏教徒は基本肉類は食べないので、なまぐさ坊主以外はかかることはないが、実は不幸があったそうだ。


やはりあのすばらしい香りの誘惑には勝てないようだ。


幻影はほっと胸をなでおろして帰路についた時に、また不幸に見舞われた子供たちを数名救ってから御殿に戻った。


「…仏を超えました…」と妙栄尼は涙を流しながら幻影に手のひらを合わせた。


「なにより、それほど苦しまなくてよかったです。

 やはり病にかかった子もつらいのですが、

 見ていることしかできない親もつらいので」



この翌日の昼餉のあと、『烏賊の神が蟹の毒を退治して回っていた!』という噂が立った。


幻影はこれを聞いて大いに笑った。


頭もすっぽりと覆う防寒着は確かに干した烏賊の形に見えなくはない。


よって顔はほとんど見えなかったようだ。


しかしその翌日は、琵琶高願だったとうわさが流れた時、琵琶家一行は生実に戻っていたので、この噂を聞くことはなかった。


もちろんうわさを正したのは寺の住職だ。


よって大いにうわさが流れたことで、人々は子供たちに蟹を与える場合、大いに気を付けるようになったようだ。


「…城の世継たちの死の原因のひとつか…」と幻影がつぶやくと、「大いにあろうな」と信長はうなづきながら言った。


「うまいものには毒がある、と言ったところじゃろうて。

 庶民よりも口にすることは多いはずじゃ。

 体が弱く成長してしまう原因のひとつかもしれん」


「…平五郎は大丈夫だろうか…」と重胤がつぶやくと、「え?」と誰もが言って重胤を見た。


「あ、子がいるのです」という今更ながらの言葉に、「…えー…」と正実が大いに嘆いた。


「…まあ、子いても問題のない年齢だからね…

 聞かなかった方が悪い」


幻影は言って正実を見た。


「呼べばよい。

 母とともにおるのか?」


信長の言葉に、「いえ、親身になってくださっている寺に預けています」と重胤は答えた。


「妻は残念ながら、産後の日達が悪く…」と重胤は言って、手のひらを合わせた。


正実は何とか立ち直れたが、重胤の子の平五郎とうまくやっていけるのか、大いに不安になった。


「いくつなの?」と幻影が興味を持って聞くと、「六つになったばかりです」と重胤は笑みを浮かべて言った。


「申し訳ございません。

 迎えに行ってまいります」


重胤は言って立ち上がった。


「もしも遠いのなら、幻影が連れて行ってやれ」


信長の言葉に、「いえ、ほんの一刻で戻ってこられますので」と重胤が言うと、特に女性たちに白い目で見られていた。


「…薄情な親で申し訳ございません…」と重胤は女官たちの苦言を察して頭を下げた。


「ここでやっていける自信がついたからだよ」


幻影の言葉に、「…ああ、そういこと…」と真っ先に政江が言った。


「はい… 私が放り出された時、平五郎がかわいそうですので…」と重胤は大いに眉を下げて言った。



「越後村上藩の堀直寄が多くの病を治したと言ってきたんだけど?」


重胤と入れ替わりでやってきた秀忠が眉を下げて幻影に聞いた。


「ふーん… そんな話になったんだな」と幻影が真顔で答えた。


「俺たちが聞いた噂は、烏賊の神が蟹の毒を消した、だったんだが…

 しかも治したのは、村上藩はほんの一部で、ほとんどが米沢藩領内で、

 わずかに新発田藩も含んでいたはずだから、

 ほかの藩の住人の面倒まで見たことになるな。

 なかなか素晴らしい御仁だ」


「…嘘をついて何がしたいんだと思う?」


「そんなもの簡単だろ、俺に叱られたいだけさ」


幻影の言葉に、誰もが大いに笑った。


「武者諸法度に引っかかる部分があるんだ。

 ありもしない事実を吹聴する行為」


「調べ上げて正せばいいじゃん…

 あの時烏賊の神が話をしたのは、

 方正寺の住職だけだ。

 内密に忍びでも送れば?」


幻影は言って、防寒着を出して広げた。


「…烏賊だぁー…」と秀忠は言って腹を抱えて笑った。


「あっちはかなり寒いから、渡してやってくれ。

 それに梮も必要だから、あとで渡す」


「…もうすっかり、雪国の住人なんだね…」と秀忠は悲しそうに言った。


「今は別宅扱いだよ。

 だけど春になったら、あっちが本宅かなぁー…

 だけど雪がなくなったら、

 前橋に町を作ることは決まっているからね」


「…うん、読んだし、許可したよ?」と秀忠は寂しそうに言った。


「平和にするために必要な生活拠点だ。

 できれば今回のように、

 少しでも誰かの役に立ちたいんだよ。

 決して、神だ仏だと崇めてもらいたいわけじゃない。

 雪の中、大声を上げて逞しく遊ぶ子供たちの笑みを見たいじゃないか」


「…その純粋な気持ちを利用するようなヤツに、

 どんな罰を与えてやろうかぁー…」


秀忠は小声でうなったが、「そういったヤツの相手はしないに限る」と幻影は言った。


「…さすがに実力行使はしないだろうけどね…

 それをした場合、村上藩を取り上げるから…

 やはり、遠くて閉鎖しているような土地は、

 欲が沸きやすいんだろうか…」


「基本暇だから。

 だからよからぬことばかり考えるものなんだよ。

 欲に欲を重ねるから収拾がつかなくなる。

 だが、何か対策は必要だろう。

 住人たちがそれに振り回されてちゃたまったもんじゃない…

 俺だったら、村上藩からひとり残らず住人を消すだろうな」


「…はは… 前にも言ってたし、君ならやるだろう…」


秀忠は言って立ち上がった。


幻影も立ち上がって、秀忠を連れて工房に行った。


「…そろそろ、秀忠も我らとともにあるか…」と信長が言うと、「…心から信頼のおける友のそばにいたいことはよくわかりますわ…」と妙栄尼は薄笑みを浮かべて答えた。


「私も、友が欲しいのですが…」と妙栄尼が言うと、長春たちがすぐさま寄り添った。


「大勢いてよかったな」と信長は言って笑みを浮かべて何度もうなづいた。



しばらくして、幻影は子供を連れた重胤とともに戻ってきた。


まだ幼いのだが、寺に預けていただけあって、利発そうな子だった。


それなり以上の教育を受けていたと、誰もが笑みを浮かべて千葉平五郎を迎え入れた。


幻影は庭側の障子の前に、重胤と平五郎は信長の目の前に座って頭を下げた。


まさに親子で、重胤が若返った分、年の離れた兄弟のようにも見えた。


「まず、父ではないと言われてしまい申した」


眉を下げている重胤の言葉に、家人たちは大いに笑った。


「だが、今は父であると認めておる。

 平五郎、その神髄はなんじゃ?」


信長の言葉に、「千葉平五郎でございます」と平五郎は子供らしからぬ姿勢のいい姿で名乗ってから頭を下げた。


「見た目で人を見てはいけないと、

 和尚様からお聞きしておりました。

 ですので落ち着いてとても長く感じることにしました。

 見た目はとと様ではなくなっておりますが、

 とと様でしかないと思い至りました。

 そして、和尚様がとても動揺しておられる姿に、

 笑ってしまいました」


平五郎の言葉に、家人たちはさらに笑った。


「重胤は好きか?」と信長が重胤に対して厳しい言葉を告げると、「…何もできない私は、待っていることだけが仕事でした…」とここは子供らしく悲しそうな声で言った。


しかし平五郎は笑みを浮かべた顔を上げ、「巷で噂のこの琵琶様の邸宅で生活できることを誇りに思っております」と堂々と言って頭を下げた。


「ですので、とと様が好きです」


満面の笑みを浮かべて言った平五郎に、「なかなか言いよるわ!!」と信長が大いに叫んで大いに笑うと、誰もが追従した。


重胤としては恐縮仕切りだった。


すると正実が平五郎の隣に座って、信長に頭を下げた。


「千葉平五郎を我が子に」と心に決めた目をして、信長を見て言った。


「それはワシに報告する必要などない。

 ふたりと話しあえばよいだけじゃ。

 じゃが、言わずにはいられなかったことはよくわかる」


信長の言葉に、誰もが笑みを浮かべて三人に笑みを向けた。



平五郎はまさに兄のような池田健五郎たちとすぐに仲良くなって、基本的には男子だけの集まりに守られるようになった。


この生実にも寺子屋ができたので、ともに勉学を学ぶ。


そして剣術の方はまさに父譲りで、幻影は笑みを浮かべるばかりだ。


さらに弓の腕も馬術もまさに父譲りで、どこに出しても恥ずかしくない子供だったことで、健五郎たちが焦ったほどだった。


そして初めての体験があると大いに喜んでじっくりと観察してから手を出すことに、もう何年もここで暮らしていたような平五郎は、一瞬にして琵琶家の家族の一員となっていた。


だがここで、重胤と正実の親としての戦いが始まってしまったのだ。


「まずはどこかに仕官されるべきです!」と正実が平五郎のためを思って言うと、「その時代はもう古いと思っておる」と重胤は堂々と答える。


重胤の方が少々常識外れだが、この琵琶家では常識の範疇だ。


「お役目についてはおりませんが、

 働いておられますので、

 私はとと様につきます」


平五郎のこの言葉に、正実は大いに眉をひそめた。


「現在の城の仕組みをよく知っておる者がいる。

 そやつから講義を受けるだけで、

 城の中のことはすべて知ることは可能じゃ。

 城での労働も必要かもしれんが、

 それは小さな入れ物にしかすぎぬ。

 ワシらとともにあることで、

 大きな世界を知ることもできるのじゃ。

 ワシは平五郎の意見を尊重しよう」


信長の言葉に、正実は大いにうなだれた。


「これが、琵琶家の常識さ」と幻影にまで言われて、正実はさらに落ち込んだ。


「その体験ができる家族もいる。

 信幻に願い出れば簡単に叶うだろう。

 じゃが、重胤は近づかんことを推奨しておこうか」


信長が言ってにやりと笑うと、「仕官の意志はござらん」と重胤は堂々と言って頭を下げた。


「信幻は話が分かるヤツだからまだいい。

 問題はその姉じゃ…」


信長はまさに恐ろし気な目をしてこの話を聞いている志乃に目を向けた。


「…女はめんどくさい…」という重胤の言葉に、正実は大いに慌てた。


「琵琶家の場合、武家気質が高いのは志乃さんと正実姫だけだから、

 女官ひとまとめの発言は良くないよ」


幻影の指摘に重胤は大いに動揺して心を改めることにした。


「…正実様と志乃様はめんどくさい…」という重胤に言いかえた言葉に、幻影は腹を抱えて笑った。


「だが俺はある意味差別化をしているから。

 信幻と家臣たちは外で働いている者として崇めているから特別使いだ。

 我らは働いていると言っても手助け。

 束縛をとるか自由をとるかという意味で、

 武家と農民ほどの格差があると思っておいてもらっていいから」


「さすれば自由の方に」と重胤が言うと、幻影は笑みを浮かべてうなづいた。


「…ま、素晴らしい比喩じゃな…」と信長は苦笑いを浮かべて言った。


「…俺の立場が厳しいだろうがぁー…」と蘭丸が幻影に向けてうなると、「御屋形様の護衛」と幻影は一言で片づけた。


蘭丸は納得したようで、瞳を閉じて何度もうなづいた。


「蘭丸は頼もしく思っておる」


まさに信長のお褒めの言葉に、「ありがたき幸せ!」と蘭丸は高揚感を上げて答えた。


「では、少々長い話を平五郎にしよう。

 覚悟はいいかい?」


幻影のやさしい言葉に、平五郎は少し怯えた。


しかし幻影をまっすぐに見て、「お師様! お願いします!」と堂々と答えた。


幻影はまさに長い話をした。


琵琶家が出来上がる前の、安土城があったころから今に至るまでの昔話だ。


琵琶家の神髄を知った平五郎は、「手助けの道を歩みます!」と堂々と言った。


幻影は何度もうなづいて、重胤を見た。


「私も御屋形様とお師様とともに」と重胤は気持ちを変えることなく頭を下げた。


「…琵琶家は、究極の進化を遂げた武家ではありませんか…」と正実だけは少々想いが違うようだ。


「ある意味その通りだが、

 現在の人が生きる道とは少々違うからね。

 世間からつまはじきにされてもおかしくない家だから。

 手助けをしていることで、それを維持できていると言っていい。

 ある意味、信幻様は大いなる選択をして世間に倣った。

 さらには女に惚れて藩主になった者までいる。

 わずかずつだが世間の在り方を変える不穏分子、

 と言っても過言ではないだろう。

 だが全ては徳川家の言いつけを守って行動をしている。

 琵琶家が独断で決めて好き勝手をしているわけではない。

 …さらなる未来、琵琶家はこの日の国の平和を見届けて、

 海を渡り大陸に行く。

 外の世界の全てを平和にしてようやく、

 この琵琶家の役目を終えるのだ」


幻影が語ると、誰もが頭を下げた。


現実的な志乃も正実も頭を下げたので、理屈は理解できたようだ。



数日後、最近はまた毎日この生実にやってきている秀忠が妙な笑みを浮かべてやってきた。


「堀直寄を大人しくさせたよ!」と陽気に言うと、「ほう、そうかい」と幻影は言っただけだ。


堀直寄とは、越後村上藩の藩主だ。


「…なんだよ… 気になんないの?」


「平和であればそれでいい。

 俺たちが逐一首を突っ込まなくていいのなら、

 それが一番いい」


「…頑張って、無い知恵を絞ったのにぃー…」と秀忠は言ってうなだれた。


「自慢話を聞いてやるよ…」と幻影がため息交じりに言うと、秀忠は陽気に話し始めた。


話を聞き終えた幻影は、「…ふん… 面倒事がまた起こりそうだが、対応は変えない」と幻影はめんどくさそうに言った。


「…対応を変えて仲良くしてやってよぉー…」


「なつかれることがイヤに決まってるだろ…

 まさか烏賊の神は俺の名を語ってはいないだろうな?」


幻影の言葉に、「…語ったと思うぅー…」と秀忠は言って大いに眉を下げた。


「さすが半蔵の仕事だ、全てが穴だらけ。

 ほら、簡単に捕まった」


巖剛が誇らしげな顔をして、網に入っている者を転がしてやってきた。


「しばらくそうしてろ」と幻影は言ったが、服部刑部半蔵は悔しそうな目をして幻影をにらんでいるだけだ。


「蹴鞠?」と秀忠が言うと、「その通りだ!」と幻影は陽気に笑った。


「ま、偽物だけどな」と幻影が言うと、巖剛が捕らえた忍びを開放した。


「今度は、本物と思しきやつを捕らえた」と幻影は言って秀忠に双眼鏡を渡して西の塀際の木々を見た。


「今光った場所だ」と幻影がいうと、秀忠は双眼鏡を覗いて、「…うう… 木に縛られてる…」と大いに苦笑いを浮かべて言った。


「二重の変装も剥いだから、多分本物。

 不穏分子の忍びはいないようだけど、

 警戒は解いていない。

 これも、我ら忍びの修行のようなものだからたまにはいい」


「…いい訓練になってるようでよかったよ…」と秀忠は眉を下げて言った。


幻影は術を使って秀忠を宙に浮かべた。


「ようやく尻尾を見せてくれた。

 なかなか素晴らしい気配の消し方だ」


幻影が宙に浮かんでいる秀忠を見て言うと、「降ろしてぇー…」と半蔵そのものの女性の声で嘆いた。


「巖剛、食ってやれ!

 あ、腹を壊すから、爪でひっかいてやれ」


巖剛は立ち上がって、柔らかく半蔵を叩き始めて、さらに陽気になって庭を走り回った。


「…ふむ… 何もかも秀忠になっておったわけか…」と信長がうなるように言うと、「はい、先ほどの状態では疑うことなく秀忠でした」と幻影は言って頭を下げた。


「では、何かをしようとした時点で見破ったわけだな」


「ええ、私を抱き締めようとでも思ったようです」


幻影の言葉に、信長は大いに笑ったが、蘭丸が無表情で立ち上がって、幻武丸を担いで、「あとは任せた」と言って庭に降りた。


「これからお仕置きですね」と幻影が言うと、「ま、あやつならするな…」と信長は眉を下げて言った。



「…母様がご迷惑をおかけしましたぁー…」と竜胆が泣きそうな顔をして幻影に謝った。


「困った母親だ」と幻影は言って竜胆の頭をなでた。


「お前はお前、半蔵は半蔵。

 ふたりは別の人だから。

 母子といえ、

 ひとまとめの考えは俺にはないから」


「はい、幻影様ぁー」と竜胆は満面の笑みを浮かべて言った。


そして幻影を抱きしめた。


「おまえまさか…

 俺に抱きついていることを半蔵に話したのか?」


幻影の言葉に、「…自慢して、言っちゃいましたぁー…」と竜胆は大いに眉を下げて答えた。


「…その母が幻影に抱きついていい道理はない…」と信長は瞳を閉じたまま言った。


「…謝ったんだけど、聞いてくれてた?」と本物の秀忠が眉を下げて言った。


幻影手製の割符を見入って、「割符は本物だな」と言った。


「…我も本物だよぉー…」と秀忠は大いに眉を下げて言った。


「半蔵は本当に恐ろしいやつだ。

 しばらく前にここにいた半蔵はまさにおまえだったからな。

 問題は、その後継を育てられるかだけにかかっているようなものだ」


「竜胆がいるじゃん…」


「竜胆は服部家とは別で、萬幻武流の門下生だ。

 竜胆は竜胆として生きて行ってもらいたい」


幻影が竜胆の頭をなでると、「お父様、大好きですぅー…」と言って瞳を閉じた。


幻影がそっと信長に手渡すと、「畏れ多い!」と竜胆は言って飛び起きたが、「よいよい」と信長は好々爺に変身して竜胆を膝の上に座らせた。


「本当に眠ったと思わせる時は、

 もっと体の力を抜け。

 そうしないとすぐにばれるぞ」


「…ご指導、ありがとうございますぅー…」と竜胆は大いに眉を下げて言った。


「…それで、簡単に見破られていたのね…」と政江が今更ながらに言うと、幻影、弁慶、源次は愉快そうに腹を抱えて笑った。



数日後に、また高虎の願いを聞き入れて関に飛んだ。


今回はようやくの冬の晴れ間で、屋敷に数名だけ残して、幻影たちは至るところの雪かきを手伝った。


特に屋根は幻影だけが受け持って、建物に負荷を与えずに雪を降ろす。


屋根に乗った時点で家が押しつぶされると目も当てられないからだ。


幻影たちは村上藩の領地内は立ち入らなかったが、特に山側の積雪が多い、南の地の新発田藩の領内の雪かきも手伝った。


雪は庄屋たちの許可を得て、雪に埋もれている畑など、極力一カ所に集めた。


巨大な雪山ができたので、子供たちのいい遊び場になっていた。


すると、雪煙を上げて走ってくる者たちがいた。


どう見ても武家のようだった。


「琵琶家の方たちか?!」と老人といえる者がまさに叱る勢いで叫んだ。


「ええ、そうです」と幻影はごく普通に答えて、屋根から飛び降りてふわりと街道に降りた。


老人は辺りを見回して笑みを浮かべて、「新発田藩藩主の溝口宣勝じゃ」と言って素早く頭を下げた。


「琵琶高願です」と幻影も挨拶をして頭を下げると、宣勝は屋根を見てから幻影の足元を見た。


「…天狗の術でござるか…」と宣勝が感慨深げに言うと、「ええ、飛び降りた時と着地の時に一瞬だけ」とありのままを言った。


「鍛え上げた忍びでも、今の芸当はたぶん無理ですから」


幻影の言葉に宣勝は何度もうなづいて、雪かきの礼を言い始めた。


例年だと、ほとんど雪かきをせず、積もった雪が凍ってしまうので、何か手立てがないかと思っていたようだが、やはり雪かきをすることが一番いいと、ようやく結論に達したようだ。


そして雪の重みで家が倒壊する事故も数件起きているそうだ。


「琵琶御殿の街道沿いの視察はされましたか?」


「…まさか、街道ごと屋根で覆うとはな…」と宣勝は言って大いに苦笑いを浮かべた。


「あまりに積もると、生活に支障がありますから。

 かなりの昔、この地を訪れた時は、

 夏でしたのでこうなることは知りませんでした。

 ですが街道の近くの山すそに、本堂がつぶれた寺があって、

 とんでもない量の雪が降ると思って、

 関の住人たちにも確認してから、

 屋根の設置工事をしたのです。

 過ごしやすいようで胸をなでおろしていたところです。

 余りにも手を出し過ぎるのも問題ですので、

 今日はこの程度にしておきます」


幻影は宣勝に頭を下げて仲間たちを呼んで、琵琶御殿への帰路についた。


弁慶が幻影に寄り添って、「…来ませんね…」と小声で言うと、「…色々と考えることがあるんじゃないの?」と幻影も小声で答えた。


「溝口宣勝も大阪の最後の戦いにいたからね。

 俺を赤い疾風ではないかと考えているようだ。

 もっとも、屋敷に来たら来たで、

 高虎につかまって話はできないと思う」


幻影の言葉に、弁慶は愉快そうに笑った。


「高願殿!」と宣勝は一声叫んで走ってきた。


「どうか、琵琶家ご当主に目通り願えんか?」


「客が来ておりますが、

 溝口様も旧知の仲だと思いますので、

 それでよろしければ」


幻影の言葉に、宣勝は少し怯えたように見えた。


「藤堂高虎です」という幻影の言葉に、一瞬ほっとしたが、そのあとすぐに背筋を震わせた。


「…ま… まさかのご縁ですなぁー…

 …ああ、以前は伊予におられたご縁か…」


「いえ、その前からの悪友です」という幻影の言葉に、宣勝はさらに苦悩を始めた。


「たぶん、私は溝口様よりも年を重ねていると思います。

 間もなく五十ですので」


幻影の言葉に、「…まさかであった…」と宣勝は言ってから、大いにうなだれた。


「どうされます?」という幻影の言葉に、宣勝は腹をくくって、「どうか、ご招待賜りますよう」と少々言葉遣いが変わってきた。


一行は歩きやすくなった街道を行き、屋根付きの街道に差し掛かって、さらに歩きやすくなった。


そしてやはり温かい。


だが宣勝は暑いのか汗が出ている。


それほどに、高虎が怖い存在なのだろうと幻影は察した。



琵琶御殿に到着して、幻影は信長と高虎に、宣勝を紹介した。


「…ふん、もう爺いだな、宣勝…」という高虎の言葉に、宣勝は大いに震えていたが、「藤堂様はご健勝で何より」と何とか答えた。


「そこにいる悪友のおかげで、

 健勝になったようなものじゃ」


高虎は言って幻影を見た。


「今頃は、目が見えなくなっていただろうからな」と幻影が言うと、「…お、おう…」と高虎は言って、湯飲みの酒を飲みほした。


「…あら? 高願様はそのようなことも?」と妙栄尼は高虎の湯飲みに酒を注ぎながら聞いた。


もちろん、知っていて聞いたのだ。


「それほどの自慢でもありません。

 こやつは目を治す前に私を殴りよったのです」


幻影の言葉に、この件は知らなかったようで、「まあ、藤堂様…」と妙栄尼が眉を下げて言うと、「…面目次第もござらん…」と高虎は小さくなって言って、湯飲みの酒をちびりと飲んだ。


「…いい年をして母親に言いつけるな…」と高虎が小声で言うと、宣勝は大いに目を見開いていた。


妙栄尼はどう見ても、まだ生娘にしか見えないほどに若いのだ。


幻影が五十であれば、妙栄尼は確実に六十をはるかに超えているはずだ。


「ささ、溝口様も、ご一献」と妙栄尼は言って、宣勝の湯飲みに酒を注いだ。


―― 化け物屋敷か… ―― と宣勝は思いながら、酒を一気に飲み干した。


しかし高虎は年相応にしか見えない。


そして機嫌がいい頭首の琵琶信影も、どう考えても三十になっていないように見える。


「…本来ならばここに村上もおったろうに…」と高虎は大いにうなだれて言った。


村上忠勝は幕府への粗相が判明して丹波篠山に流刑となっている。


「ここから北の地にはよからぬものでも住んでおるのか?」


ようやく口を開いた信長の言葉に、「…なぜ村上という藩名なのかという問題があるそうです…」と宣勝の少々おどろおどろしい言葉に、誰もが背筋を凍らせた。


「村上某がつけた藩名ではないのか?」と信長が聞くと、「まだ世が足利初期のころ、村上某が落ちた地が、この北の辺りだと… さらには源氏平家の頃にも、村上某が落ちた地だとも言われておるのです…」と宣勝が語った。


「村上某の怨霊… ねえ…」と幻影はつぶやいた。


「高願様! 拝んできてくださいませ!」と妙栄尼が大いに慌てて言った。


話の流れ上、少々怯えてもこれはごく普通のことだ。


「…はあ、それもいいのですが…

 ちょいと丹波篠山に行ってきた方がよさそうですね…

 幕府だとこのような話はそれほど動きませんが、

 琵琶家は動きます。

 守山に頼んでもいいのですが、

 村上忠勝があの世に行くかもしれませんから、

 急いだ方がいいでしょう」


「…守山とは、あの、守山兵衛殿か?」と宣勝が幻影に聞くと、「ええ、上様の命で様々な不思議を調べ回っているやつで、琵琶家の一員で私たちの友人です」と幻影が言うと、宣勝は、「はー…」と深いため息をついた。


守山もそれなりの有名人だったと幻影は思い、少し鼻が高くなっていた。



幻影は素早く支度をして、空に飛び上がり一気に南西に飛んだ。


そして丹波篠山の村上忠勝が収監されている施設に行ったが、―― もう長くないな… ―― と幻影は思い、目を閉じて眠っているように言える忠勝を見た。


すると唇が、『むらかみくろまろ』と動いたように見えた。


―― くろまろ… 前部黒麻呂か… ―― と幻影は思い、しばし考えた。


この前部黒麻呂は今から千年も前の人物で、村上家の創始者と思しき人物だ。


「…そろそろ機嫌を直して昇天しな…」


何の確証もないが、幻影はただただつぶやいただけだ。


すると忠勝の顔色がよくなったように見えた。


―― わかってやれる者がひとりでもいれば… ―― 幻影は思い天井を見上げた。


もちろん何もいないが、笑みを浮かべて手を合わせた。



幻影が関に戻ると、まるで春のように暖かだった。


「…雪かきをしておいてよかった…」と幻影はつぶやいて御殿に入った。


もしも放っておくと、放射冷却によって底の方から凍っていたかもしれないからだ。


幻影が謁見の間に顔を出すと、「一体、何をされたのです?!」と妙栄尼が叫んだ。


「いえ変わったことは何も」と幻影は言って、村上忠勝に会ったことと、前部黒麻呂の話をした。


「…それほどに大昔の怨霊だったのかもしれないわけだ…」と信長は目を見開いて言った。


「理由はわかりませんが、

 無関係とはいえないでしょう。

 日ノ本中の村上氏たちには、

 さらに頑張っていただいた方がよさそうですね」


妙栄尼は話を聞きながらも、小声で経を唱えている。


「さらに言えば、

 前部黒麻呂こと村上黒麻呂のことを知っている人物を探す方が困難だと思います。

 知っているのは一部の公家と大君だけでしょうから。

 下手をすると知らないかもしれませんけどね」


幻影の言葉に、「それをどうやって調べたのかは聞かない方がいいか?」と信長が聞くと、「いえ、構いません」と幻影は陽気に言って種明かしをした。


「…軽業興業の礼に公家の子供たちに、家宝を見せてもらった…」と信長は目を見開いて言った。


「あの子たちの勉強道具ですが、

 一般庶民で見た者はそれほどいないはずです。

 ですので偶然でも、村上黒麻呂の名は出ないと思うのです」


すると、妙栄尼の経の声量が大いに上がっていった。


「…妙栄尼様に怖いものがおありだったようだ…」と幻影は言って笑みを浮かべた。


「…弱みを持っているのが人間だ…」と信長は笑みを浮かべてつぶやいた。


しかし眉をひそめて、「…滝川のやつも村上の血を引いていたはずだ…」とつぶやいた。


滝川とは滝川一益のことだ。


「…勝ったり負けたり…

 まるで取り憑かれたように戦っていましたね…」


幻影の言葉に、信長は渋い顔をしてうなづいた。


「猿のやつ…

 一益が余りにも鬼気迫るものがあったから、

 越前に蟄居させたんじゃないのか?」


信長は鼻で笑って言った。


「…ですが今の気まぐれな天気のように、

 清々しい日常であってもらいたいものです…」


幻影が笑みを浮かべて言うと、「…高願様の力だもぉーん…」と妙栄尼がまるで子供のように言ったので、幻影は大いに笑った。



村上藩とひと悶着あるかと思っていたのだが、それは起こらなかった。


しかし訪問者はいて、どこから聞きつけたのか、上杉定勝がやってきた。


高虎と宣勝が来ているとは知らなかったようで、定勝は大いに恐縮していたが、信長は機嫌よく酒を勧めた。


「…前回訪れた時、もうお帰りになられたあとでした…」と定勝は眉を下げて言った。


「移動は天候によるからな。

 じゃから、天気がいいうちに帰ろうと思っていたところじゃ」


信長のこの話は嘘ではない。


女官たちはもうすでに帰り支度を終えていた。


定勝は信長の言葉を無視するように、「実は、キリスト教徒がいることが判明したのです」と真剣な目をして言った。


「その件は幕府の指示を仰いでほしい。

 宗教騒動に琵琶家を巻き込まないでいただきたい」


幻影の厳しい言葉に、定勝は大いにうなだれた。


「我が琵琶家にはその只中の肥後大村に婿に行ったやつがおるほどじゃ。

 あっちの方がここの数十倍ほどいるはずじゃから、かなり大変だぞ。

 よって幕府の指示通りに動けばよいだけじゃ。

 何を困ることがあろうか」


信長の叱咤の言葉に、「…なにか、良き知恵をと…」と定勝が言うと、「すべて秀忠に伝えてあるから聞いてくれ」と幻影がさらに厳しい口調で言った。


信長は何度もうなづいて、「命令系統は一本化が理想じゃからな。ワシたちが口を挟むとややこしいことになるはずじゃ」と穏やかに言った。


「…高願様… 幻影様だって上杉の血縁者じゃないか…」


定勝が唇を尖らせて言うと、「今一度武田を復活させて戦ってやろうか? ああん?」と幻影が大いに悪態をついてうなると、定勝は大いに震えあがっていた。


「今はお前が殿様だ!

 家を継がなかった者に頼るな!

 嫌なら家を捨てっちまえ!」


幻影の心からの叫びに、「…おまえ、ほんと血縁者には厳しいな…」と信長は大いに眉を下げて言った。


「この程度のこと、どこの家にでもあることでございます!」と幻影はついに信長にまで噛みつき始めた。


定勝は礼だけ言ってそそくさと帰って行った。


「…やれやれめんどくさい…」と幻影は大いにあきれ返って言った。


「…怖いやつを亭主にしてしまった…」と蘭丸は言ってにやりと笑った。


更に惚れ直したという余裕の笑みだ。


「とと様を怒らせるから悪いんだよ?」と阿利渚が小首をかしげて蘭丸に言うと、「ええ、そうね」と蘭丸は穏やかに言って、阿利渚を抱き上げた。


「では、帰るか」と信長は言って立ち上がった。



生実に帰って数日後に、秀忠が和紙をひらひらさせて、琵琶御殿のくつろぎの間に入ってきた。


「…おまえも、何かややこしいことを言いに来たんじゃないんだろうなぁー…」と幻影が秀忠を大いに睨んでうなると、「…そ… そんなんじゃないよ?」と疑問形で答えた。


そして和紙を机の上に置いた。


「ほう… どうしてこうなった…」と信長が聞くと、「第一に金と銀が出ること」と秀忠が少し胸を張って言った。


「第二は?」と幻影が聞くと、「幻影を怒らせたから」と秀忠は更に胸を張って答えた。


「超常現象的なことは聞いてるよ。

 丹波篠山からも報告があった。

 真田幻影様の魂を鎮めるために、

 関は天領とした」


幻影はあきれてものが言えなくなったが、それはそれでいいと思いながら、「警備は?」と聞いた。


「今のところは新発田藩から。

 そのうち、松平を見繕って管理させるから」


幻影は何度もうなづいて、「旗本だったらなおいいね」と機嫌よく言った。


「でさ、その松平なんだけど…」と秀忠は言って、今日の案内役の影達を見た。


「まだ師範代になってないから却下」


「…はあ… やっぱり…」と秀忠は言って大いにうなだれた。


「どこに出しても恥ずかしくない者しか出さない。

 それも、萬幻武流の極意だ。

 影達は体で覚え込む性格だ。

 だから時間がかかるが、

 誰よりも強くなる資質は一番手だ」


幻影の誉め言葉に、影達は声に出さずに全身で高揚感をあらわにした。


「もっと簡単に言えば、

 あまり賢くないから、

 更に勉学を積ませる修行もあるという理由」


幻影の言葉に、誰もが影達から目を背けて、反対側を向いて笑うと、影達は大いに気合を抜いて眉を下げていた。


「しかし勘はいいから、相手の言葉には騙されない。

 詐欺師まがいのようなヤツは、簡単に見抜くからな。

 それは立ち合いでも同じだ。

 持って生まれたような覇者の構え。

 これは萬幻武流にはあえて入れていないが、

 禁止としていない。

 もしもさらに磨きがかかった時、

 俺の後継者は影達になるかもしれないんだ」


「…幻影がそこまでいうんだぁー…」と秀忠は言って、尊敬の目を影達に向けた。


「後継者になったら、

 影達は琵琶家から抜けることは不可能」


幻影の言葉に、秀忠は大いに眉を下げた。


「だからだ。

 師範代になって、後継者になる期間は自由というわけだ。

 まあ、そう簡単には継がせないからな。

 それに、兄としてはできれば弁慶か源次に継いでもらいたいんだ。

 特に弁慶は、俺と同じように天狗になれるかもしれない。

 いや、心の底からそう願っているんだ」


幻影は笑みを浮かべて弁慶を見た。


まさに、三十五年前のやさしい兄の笑みだった。


「兄者のご期待に添うように、

 更に修練を積みましょうぞ」


弁慶は大いに気合を入れていた。


「…もしも願いが叶ったら、幻影様はやはり仏陀…」と妙栄尼がつぶやくと、「…関係ありませんから…」と幻影は大いに眉を下げて言った。


「ちなみにです。

 私が経を上げている時、

 どのようなことをお考えです?」


妙栄尼が真剣な目をして聞くと、「んー… まだ甘いなぁー…」と幻影が答えると、妙栄尼は大いにうなだれた。


「母上は少々優し過ぎるのが欠点でしょうね。

 誰もが改心するわけではないのです。

 それがたとえ、死に直面したとしても、

 改心しない者もいるはずなのです。

 もう一歩厳しくなり、対する相手から多少引けば、

 改心に近づかせることができるかもしれません」


幻影の説教に、妙栄尼は薄笑みを浮かべて頭を下げた。


「…経が倍ほどになってしまいました…」と妙栄尼は大いに嘆いた。


「それを翻訳してみんなに渡してください。

 何かを感じる者もいるかもしれませんから」


「はい、仰せの通りに」と妙栄尼は穏やかに言って頭を下げた。


「かわいい動物を探しに行きたいんだけどなぁ!」といきなり長春が叫んだ。


「いつもよりも厳しい長春?」と幻影が聞くと、「あはは! そう! 政江ちゃんの真似!」と長春は陽気に言うと、政江は大いに長春をにらんでいた。


「かわいい動物…

 この近隣は?」


幻影の言葉に、長春は大いに眉を下げたので、いないということだ。


「…ふむ… だが冬だから、どこに行ってもそれほど」と幻影は言って少し考えてから、「わざわざ出てくるからこそか」と幻影は言って、庭を飛び跳ねている白兎を見入った。


「迎えに行くって感じ?」と長春が言うと、「まだ行っていない場所で考えてみよう」と幻影は言って、日ノ本の地図を広げた。


しかしすぐに、「巖剛と再会した北ノ庄辺りにもう一度行ってみるかい?」と幻影が言うと、「行きたぁーい!」と長春はすぐに答えた。


「あっちもそこそこ雪が積もってるはずだからな。

 それなりに寒いぞ」


幻影が言うと、長春はそそくさと防寒着を着た。


もちろん藤十郎も笑みを浮かべて着ている。



幻影はふたりを連れて空を飛び、少々懐かしく思う、越前の盗賊が出た森にいた。


「…うわぁー… なーんにもいないぃー…」と長春が言うと、幻影と藤十郎は大いに笑った。


「ほぼ冬眠中だろうな」と幻影は言いながらも集中して生命力を探した。


「この木の中に、栗鼠の家族がいる」と幻影が言うと、「…どこから入ったんだろー…」と長春は言いながらも楽しそうにしている。


「さすがに熊は冬眠中だろうなぁー…」


「あ」と長春が言ってその目の前に月の輪熊の子熊がいた。


「お母さん、死んじゃったんだってぇー…」と長春は悲しそうに言った。


「じゃ、連れて帰るか」と幻影は言って子熊に近づいたが逃げることなく、幻影が腕を近づけると前足でつかむようにしてぶら下がってきた。


抱き上げると、なんと眠ってしまったのだ。


「…安心したんだぁー…」と長春は言って子熊に笑みを向けた。


幻影たちは早々に生実に戻った。



巖剛がすぐさま幻影が抱き上げている子熊を見つけて、首根っこをくわえて巖剛の寝床に連れて行って、一緒になって眠ってしまった。


「自分の子供にした」と幻影が眉を下げて言うと、「よかったぁー…」と長春は言って子熊と巖剛をやさしくなでた。


「この季節に子熊と出会うとはな…

 まあ、なくはないが…」


「長春によると、母熊は死んだそうです。

 ですのでうまく冬眠ができなかったんでしょう。

 もし行かなければ、

 あの子は数日後には生きていなかったかもしれません」


信長は何度もうなづいて、「まずは行動を起こさないと何も変わらないものだな」と感慨深く言った。


信長の言葉に、幻影はキリスト教徒のことを考えたが、もうするべきことはしたと自分自身に言い聞かせた。


もちろん幻影自身が行動することに意味があると思っているが、この場合、動くと逆に大事になる可能性もあると感じている。


わざわざさらに不幸にすることはないと思い、ひどいことだけにはならないようにと、今は願うしかなかった。


―― イエス・キリストよ… お前はどう考える? ―― と幻影は考えた。


もちろん返答などを期待したわけではない。


動かないのなら、考えるくらいはいいだろうと思っただけだ。


―― 高千穂岳の神よ… よい考えがあるのなら教えて欲しい… ―― などとも考えた。


そして、―― 空雲和尚よ、あんたはどうだ? 仏陀よ、あんたはどうだ? ―― と思った瞬間に、誰もが目を見開いて幻影を見ていた。


「…まさか、仏陀様と交信されたのですか?」と妙栄尼が目を見開いたまま聞いた。


「あれ? まさか口に出してた?」と幻影が大いに眉を下げて聞くと、「いえ、兄者は何も話しておられません」という弁慶の言葉に、「…聞こえたよ?」と長春が言った。


「…また、新たな気功術の技が沸いたようだ…」と幻影はにやりと笑って外を見たまま蘭丸にだけ集中して念を送ると、蘭丸は顔を真っ赤にして立ち上がり憤慨して幻影に向かって歩いて、幻影の頭を拳で殴って、「恥ずかしいこと言ってんじゃあねえ!」と叫んだ。


「…夫婦だったら普通じゃないか…」と幻影は痛む頭をなでながら言った。


「…恥ずかしいことってなによ?」と政江が蘭丸に聞くと、「…恥ずかしいから言えないぃー…」と蘭丸は一瞬にして少女に戻って体をくねらせた。


「なるほどな…

 蘭丸にだけ念を送ったわけだ」


信長の言葉に、「はい、そうです」と幻影は笑みを浮かべて答えた。


「だから面白いことができます。

 どうやら、会ったことがある者には念を送れるようです。

 秀忠がこの御殿に近づいてきています。

 その背後に、護衛として半蔵もいます。

 もしも半蔵に念話を送れば、

 条件によりますが、半蔵は役を解かれることもあるやもしれません」


「ほう、面白い」と信長は言ってにやりと笑った。


「位置もよくわかります。

 半蔵は今屋根の上にいます。

 秀忠は今は玄関です」


すると、「来たよ!」という秀忠の陽気な声が聞こえると、「おー…」と家人たちは大いに感心して拍手をした。


「いやぁー… こんなに歓迎されてるなんて、照れるなぁー…」と秀忠は大いに照れてくつろぎの間に入ってきた。


「いや、勘違いだ」と幻影が言うと、家人たちは大いに笑った。


「今半蔵は屋根の上にいる」と幻影が言うと、「そうなんだ」と秀忠は驚くことになく言った。


「その半蔵を、俺がここを動かずに庭に下ろすことができると思うか?」


「そんな術、持ってるの?」と秀忠が聞くと、「操れるのは、視界に入っている者だけだ」と幻影は言って、秀忠を立たせて背筋を伸ばさせた。


「さすがに見えていないものは操れない」と幻影は言って、術を解いた。


「それに、話は聞こえていると思うから、

 きっと反抗して何を言ってもおりてこないだろう」


幻影はここまで言って、半蔵に念を送ると、その半蔵が庭に姿を見せて、「さっさと出せ!」と叫んだのだ。


「人にものをもらう態度じゃないな」と幻影は言って、最新型の手裏剣一式が入った布製の小物入れを投げた。


半蔵は包みを開けて、「…これはいい…」と笑みを浮かべて言ってから消えた。


「礼ぐらい言ってから消えろ」と幻影が言うと、「…それは申し訳なかった…」とだけ、小さな声が聞こえた。


「さて…」と幻影は言って、庭の小石を数個宙に浮かべて、部屋から玄関経由でさらに宙に浮かべて、的確に半蔵にぶつけた。


「はは、命中」と幻影がにやりと笑うと、今の石の動きを見ていた家人たちは大いに拍手をした。


「おっ さすがに俺のせいとは思わなかったようだ」と幻影は言って、また同じように石を投げて半蔵にぶつけた。


「ヤツは降りてきて、俺たちのせいにする」と幻影が予言をすると、半蔵は庭に降りてきて、「おまえら! とんでもない者に狙われているのに気づかないのか?!」と叫ぶと、誰もが大いに笑って幻影に拍手を送った。


「大丈夫だ。

 おまえに何度も石をぶつけたのは俺だ」


幻影がにやりと笑うと半蔵は大いに悔しそうな顔をしてから消えた。


「ま、会ったことのあるヤツにしか使えないけどな。

 だけど面倒なやつには効果的だろう。

 だから半蔵がどんなに巧みな変装をしても、

 俺にはすぐにわかる。

 やつは俺の術も欲しがるだろうが、

 修行を積まないとそれは無理だし、

 素直じゃないヤツには修行をつけてやらん」


幻影はここまで言ってから、「…詳しく知ることができるかもしれない…」と別の件で希望を持った。


「秀忠、江戸城にキリスト教徒を捕らえてないか?」と幻影が早口で聞くと、「うん、何人かいるよ」と答えた。


幻影は信長に頭を下げて、「江戸城に行ってまいります」と言って、秀忠を抱えたまま消えた。


「直接頭に訴えて、

 相手の素直な本心を聞き出す算段だ。

 そこに欲があるのなら、

 更生は比較的簡単だろう。

 もちろん、脅しなどは使わず聞き出すだけだ。

 しかも相手が誰なのかどこにいるのかわからない。

 何かの神が聞いてきたのかと大いに戸惑うはずだ。

 だがもし、心の奥底まで探れるとすれば…」


信長の言葉に、家族たちは笑みを浮かべて、幻影に大いに期待した。



幻影と秀忠はキリスト教徒を捕らえている施設にやってきた。


幻影はその廊下を歩いて姿を見ただけで念話を送れると判断して、見張り番の控室に入った。


「一の部屋は、宣教師だな。

 はは、欲まみれ。

 もちろん出世欲。

 キリストなどいるわけがない。

 ただの出世欲の塊だ。

 詳しい信者の情報と、接触していた者たちもすべてわかるぞ。

 だが、改心するかどうかは別物だ」


幻影は紙と筆を出して、知りえたことすべてを書いてから、宣教師に念話を送った。


もちろん相手は大いに驚き、そして怯えた。


全てを言い当てられ、一瞬にして憔悴した。


「あんた、キリスト教徒を抜けないと消されるぞ」という幻影の言葉に、『抜ける! 抜けるから助けてくれ!』と念話でも部屋から漏れ出た声でも確認ができた。


「…暗闇に黒い船か…」と秀忠は鬼のような顔をしてつぶやいた。


「夜だと気づかれにくいからな。

 場所と時間さえわかれば簡単に捕らえられるはずだ」


幻影はわずか一時で、十五名いたキリスト教徒たちをこの牢から出すことに成功した。


「ある意味拷問に近いが、

 それほど心の負担はなかったと思う。

 俺は大いに感情を殺していたからな。

 とりあえず、江戸だけは何とかしよう。

 あとは手伝いでいいよな?」


「…生涯をかけて礼をする…」と秀忠は言って頭を下げた。


幻影は秀忠を置いて琵琶御殿に戻った。



「中途半端に時間がかかったな」


幻影は信長に笑みを浮かべて迎えられた。


「色々と問題ありです。

 ですので、江戸だけは仕事を請け負いました」


幻影は言って書を信長に手渡した。


信長は素早く読んで、「…ひどいな… キリストが知ったら大いに嘆くだろう…」と眉をひそめて言った。


「その供述は、信者には効果があります。

 この日の国で起こっているキリスト教は宗教ではありません。

 禁止事項の理由にあるように、

 人身売買だけにありました。

 男は屈強な者、女は美形の者」


「…うわあ、狙われちゃうわぁー…」と政江が真っ先に言うと、幻影は愉快そうに大いに笑った。


もちろん、宣教師たちは琵琶家を狙っていた。


だが、とんでもなく悪い見返りがあると思い、近づいてこなくなっていた。


もしもそれをやるとすれば、敬虔な信者でしかない。


だが幻影が公言している通り、幕府からのお達しを破っている者で犯罪者としているので、さすがに近づく者はいない。


更には常に寄り添っている公称僧侶の妙栄尼の存在も大きい。


キリスト教徒であっても、妙栄尼を敬っている者も少なくないのだ。


その妙栄尼が幻影に仏門に入れと言っているのだから、道としては間違っていない。


だが幻影としてはこれも公称している通り、『うつつしか見ない』ので、宗教に属するつもりは毛頭ない。


もちろん、神も仏もいないことはわかっているが、祈りを捧げることはある。


だがそれは何かにではなく、ただ漠然とだ。


純粋なその想いが前向きで希望があるということだけにある。


よって萬幻武流の教えの中にもこの件は組み込まれているので、門下生に敬虔な宗教の信者はひとりとしていない。



幻影は信長に許可を得て、江戸城に登城するついでにキリスト教徒を探す。


探せばやはりいて、その場で脳内を探り、更生しては宣教師にたどり着く。


一応はどこの誰なのかだけは報告義務が発生数するので、書に認めて秀忠に提出する。


すると幻影はついつい見つけてしまった。


米沢藩江戸居留地に信者がいたのだ。


もちろん、今までと同じように更生の道を歩ませて、宣教師の名を知った。


やはり米沢城にも深く根付いているようで、定勝が嘆くこともうなづけた。


幻影はこの場から、『琵琶高願だ、江戸にいるお前の配下にキリスト教徒と宣教師がいたから』と定勝に念話を送った。


定勝は大いに驚いたが、『さすが高願殿…』と言って何とか落ち着いた。


そして江戸での任務として、キリスト教徒の更生を受け持つことになったと説明して、定勝に理解させた。


もちろん、『恩に着ます』と定勝は心を込めて幻影に礼を言った。


幻影のこの活動は報われて、元の信者や宣教師たちが幻影のありがたい言葉を広げ始めた。


よって江戸では急速にキリスト教信者の激減が見えてきたのだ。


幻影は多少は眉を下げたのだが、秀忠がこの事実を江戸中に流し始めた。


『琵琶高願の目からは免れない』


まさに効果が大いに見え、信者も宣教師も江戸に入ってくることはなくなっていた。



幻影は自分勝手なことだが、肥前大村に飛んで、酒井勝虎と面会して、藩主の仕事を手伝った。


ほんの数日後に、大村藩からはキリスト教徒が消えたのだ。


まさにキリスト教徒が多くいた場所でもあったので、この事実は九州中に広まり、キリスト教徒は窮地に立たされたことになる。


そして真夜中の黒い船が何隻も拿捕された。


本場の北九州辺りでは、まさに隠れて信仰を続ける必要が余儀なくされていった。


「しばし休息します」と大いに眠そうな幻影が言うと、「ああ、よくやった」と信長は素晴らしい息子を抱きしめて、そして軽々と抱え上げて寝所で眠らせた。


「…うらやましいですぅー…」と蘭丸が大いにねだると、信長は蘭丸と阿利渚も幻影と同じように扱って寝所で寝かせた。


幻影はまるで死んでしまったかのように丸一日眠っていて、目覚めたのは翌日の夕方だった。


「仏門に入ることも覚悟したわ」と蘭丸がにやりと笑って言うと、「心配かけた」と幻影は言って頭を下げて、阿利渚を抱き上げた。



暦は弥生に入り、冬の隧道も抜けかけたころ、琵琶一族はようやく前橋の地を踏んだ。


この辺りにも積雪はあったのだが、越後のようなとんでもない積雪量はない。


だが、合間にやっていた関でのせんべいの出来が良く、特に江戸近辺の法源院屋に一斉に卸した。


特に高級志向の、『紫溜まりせんべい』は武家の間で大いに話題となった。


この前橋にわずかにいただけでよくわかったのだが、どうやら味噌がこの地の特産らしく、『味噌まんじゅう』なるものが人気が高い。


もちろん琵琶家も吟味して、様々な意見が飛び交い、琵琶家が作るのではなく、製造元に考察した結果を書に認めて手渡した。


この菓子工房は寝耳に水の降って湧いたような棚からぼた餅に大いに喜んで、早速まんじゅうの改良を始めた。


厩橋まやばしの法源院屋も大いに納得して、近隣の法源院屋にも卸し始め、『厩橋味噌まんじゅう』は前橋名菓として認知されていった。


しかし、『うまやはどうか』という話になり、元からあったこの地の台地を示した前橋を用い、『前橋味噌まんじゅう』と変更された。


「赤味噌を何とかしろ」という信長の命令に、「はあ、多少薄めて砂糖で煮詰めた浸けだれなどいかがでしょう」と幻影は言って、この辺りではこれも特産のこんにゃくの田楽を二種類作った。


加工したみそをただ塗ったものと塗って焼いたものだ。


幻影は大根などの野菜とさつま揚げなどの天ぷら類を出し入りの土鍋に入れ込んで、様々な食材に塗ったり、塗って焼いたりして食った。


「祭りで出せ!」と信長は満面の笑みを浮かべて言った。


赤味噌は尾張、美濃では必需品と言っていいみそなので、琵琶家の食卓には毎日のように味噌汁として出されていた。


それを手軽に、みそ汁以外で何とかして欲しかったようだ。


「…おかずのような、お菓子のような…」と長春は言って笑みを浮かべて食べている。



この前橋台地は安土の地とよく似ていた。


ただ厩橋城が異様に近い場所にあることだけがあまり気に入らないようだが、ここは藩主の意思を汲んで苦情を申し出ることはなかった。


さらにはなぜか高虎が手伝いに来ている。


最近はよく現れるのだが、今回は無関係ではなく、酒井家の姫が高虎の息子に輿入れしている関係もある。


さらに言えば、真田信之の家にも嫁いでいるので、酒井家とは縁が深いと言える。


しかし問題はこのような平和的なものではなかった。


「この厩橋は兄上が継ぐはずだったのだ!」と、厩橋藩主の酒井忠世が酒井寅三郎に指を差して叫んだ。


「今更ながらだな與四郎よしろう」と寅三郎はうんざりした表情をして言った。


「…学業も剣術も何もかも兄上には勝てないワシが世継など…」と與四郎と呼ばれた忠世は言ってうなだれた。


「今のこの世に、そのような非常識がまかり通ることはなかろう」という寅三郎の言葉に、忠世はさらにうなだれた。


「…ありゃ、こりゃまずかった…」と幻影は言って大いに眉を下げた。


「真田幻影殿は逃げないでいただきたい!」と忠世に釘を刺されてしまい、幻影は大いに眉を下げた。


「…忠世が一番近くで見ておったか…」と信長が察して言うと、「…追いつかれませんでしたが追いかけて来た唯一でしたから…」と幻影はバツが悪そうな顔を知って言った。


もちろん、大坂での最後の戦いで、忠世とは同じ戦場にいたからだ。


寅三郎は外でできた子だが、家のことは無頓着で、ご落胤のような扱いを受けることが嫌で、酒井家とは知り合いだった佐竹家へ仕官したのだ。


父家忠は許したが、息子としては優秀な兄とともに家を守りたかったのだ。


「…父上の最後の言葉です…」と忠世は穏やかに言って寅三郎を見た。


そして、「寅三郎は家忠と名乗れ」と忠世は言った。


「…うわぁー… まさかここでぇー…」と秀忠は言ってすぐさま口をふさいだ。


「家康に秀忠、か…」と幻影は言って大いに苦笑いを浮かべた。


「…まあ、先代自らの名を、不憫な長男に与えたかったんだろうね…」と秀忠は眉を下げて言った。


「畏れ多すぎるからいらん!」と寅三郎が叫ぶと、幻影は腹を抱えて大いに笑った。


「…嫌がって当然だけど、徳川家の家老なんだから別にいいと思う…」と秀忠はまた眉を下げてつぶやいた。


「寅三郎、ありがたく頂戴しろ」と信幻が堂々と言うと、さすがに逆らえないようで、寅三郎はすぐさま頭を下げた。


「この度は我が家臣に過剰な褒美を誠にありがとうございます」と信幻は真剣な目をして忠世に言って頭を下げた。


「…い、いや… 先代の遺言を伝えただけですのでぇー…」と忠世は大いに恐縮していた。


「我らの別宅もこちらに構えさせていただきます。

 できれば、我ら旗本徳川方も酒井家を盛り立てて行きたいのです」


信幻の言葉に、忠世は大いに感動して、「はっ! ありがたき幸せ!」と叫んで頭を下げた。


「…はあ… 立派な殿だぁー…」と高虎は大いに感動して信幻を見ていた。


「あのぉー…」と忠世はかなり言いづらそうに口を開いたが、ここは覚悟を決めて、「もうすでに正室などはぁー…」とまさに申し訳なさそうに信幻に聞くと、「はい、決めております」と信幻は堂々と言った。


琵琶家も寝耳に水で、長春に至っては、「…だれだろぉー…」などと眉を下げて言い始めたので、忠世が大いに戸惑い始めた。


「我らも聞かされとらん。

 じゃが、信幻の決めたことに、

 意見を言うかもしれんが反対はせん」


信長の堂々とした言葉に、「はっ 御屋形様! ありがとうございます!」と信幻は答えてから、満面の笑みを浮かべた。


「…知らないの?」と秀忠が幻影に聞くと、「…はは、ついつい… 今知った…」と幻影は言って大いに苦笑いを浮かべた。


目的物が目の前にいる場合、もしも何かに興味を持ってしまうと、簡単にその想いが流れ込んでしまうのだ。


幻影は、この先は意識しないことを修行とすることにした。


「だけど、長春もわかったんじゃないの?」と幻影が聞くと、「…不得意分野ぁー…」と眉を下げて言った。


よって、様々な潜在能力は判断できるが、想いまではそれほど察することはできないといったところだろうと、幻影は察しておくことにした。


「ですが信幻様」と幻影が声を上げると、信幻は大いに眉をひそめた。


「一抹の不安もおありのようだ。

 できれば、家光様と十分にお話をされた方がよろしいかと」


幻影の言葉に、「…そんなにすごい姫がどこにいるんだよぉー…」と秀忠が大いに眉を下げて言ったが、「あ、いた」と簡単に理解して、今はそっぽを向いておくことにしたようだ。


「年頃となられた時、姫は私が側室を持つことを拒むと察しています」と信幻が言うと、「それは大いにあるな」と幻影は変わり身早く、今は信幻の父となっていて、何度もうなづいた。


「よって、家光様にはふさわしくない、か…」と幻影は言ってこれ見よがしに秀忠を見た。


「姉に叱られたとしても、この意地だけは押し通します」


さらなる信幻の決意の言葉に、「ああ、応援しよう」と幻影は言って、信幻の頭をなでた。


その姉もここにいるのだが、さすがに蘭丸が怖いので今は何も言えなかった。


その当事者の阿利渚は、白兎と戯れているので、全くの無関心だ。


もう少し成長してから、信幻に興味が沸くようにと、幻影は心の中で祈っておいた。



今日のところは、厩橋城の回りと主となる街道の舗装工事と、建築物を建てる基礎工事だけを行って、生実に帰った。


忠世としては城に迎え入れて歓迎の宴をもちろん考えていたのだが、昼餉をごちそうになった時点で、何を用意しても満足してもらえないと思ったようで、琵琶家の思うままに行動してもらった。


琵琶一家が生実に到着したと同時に、西から鳩が飛んできた。


「加藤様だな…

 何かあったのか…」


幻影は大いに心配して、長春から書簡を受け取った。


「…明石の鯛…」と幻影がつぶやくと、「…ぜいたくは敵だが、紫を何とか消費せねばな…」と信長はうまい鯛を食べたい一心で言った。


幻影はその紫と山葵を持って、松山城に飛んだ。


そして嘉明に謁見して、とんでもない量の鯛をもらった。


まずは味見とばかり、幻影が鯛をさばいて、嘉明とともに食し、ふたりとも涙を流すほどに感動した。


「問題はすぐに食さねばならないことじゃ…」と嘉明が大いに眉を下げて言うと、「いえ、問題ありません」と幻影は言って、一旦松山を出て、近江の北西部の雪にまみれた山間部に飛んだ。


保温性に富んだ巨大な廿楽をふたつ用意して、廿楽の隙間に雪を詰め込んだ。


内側は金属製で、まさによく冷えていた。


最低でも明日までなら十分に持つだろうと思い、松山に戻った。


幻影が技で凍らせてもよかったのだが、まずは自然物に頼ることにしてみただけだ。


室内の冷暗所に廿楽を置いて、調理人たちに説明すると、大いに感動していた。


できれば真夏でも雪が降っている場所があれば何とでもなると思ったようだが、幻影は氷を作れるのでうらやましく思ったようだ。


しかし夏の場合は溶けるのが早い。


さすがにそればかりに神経を削るのもどうだろうと思い、今まではやらなかった。


だがこの先、何か考えようと思い、この場で食いごたえのありそうな鯛をさばいて、それ以外は塩焼きにすることにした。


幻影は嘉明と高官たちの食事だけを用意して、巨大な保冷箱を担いで生実に戻った。



「…ぜいたくは敵だぁ―――っ!!」と信長は叫びながらも、鯛の刺身と塩焼きを大いに食っている。


もちろん家族たちも満面の笑みだ。


「…明日も食べられるのね…」と長春は大いに感動しながら言った。


「大事に食べれば、明後日まで食べらせるように保存するけど、

 鮮度が落ちるから今よりもおいしくないと思う。

 だから早めに食べた方がお得だろうな」


幻影も食べてはいるが、調理もしている。


今は酢飯を握って、鯛の刺身を乗せて、家族たちの皿の上に置いている。


まさに最高級の鯛の握り寿司だ。


「…なるほどな…

 こうやって食せば、それほどすぐにはなくならない」


信長は機嫌よく言って、鯛の握りずしを満面の笑みを浮かべて食らった。


「魚は内海の方がうまい魚は多いですから。

 一度調べて、時には買い付けに行きます」


「よきに計らえ!」と信長は上機嫌で叫んだ。


「…城よりもうまいもの、いつも食べてるよね…」と秀忠は大いに苦情を言いながらも、満面の笑みを浮かべて寿司を口に放り込んだ。


「今回はもらいものだから。

 もしよかったら、加藤嘉明様に令状を書いて送っておいてくれ」


「…そうしとこ…」と秀忠は答えて、鯛の塩焼きと格闘を始めた。


やはりなま物の流通はむずかしく、特に温かくなると腐ってしまうので、海でつながっている播磨と松山であれば、問題なく流通は可能なのだ。


「…藤堂様に対抗してるのかしら…」と沙織が言うと、「…多少はあるのかなぁー… だけど会った時はごく自然だったよ」と幻影は答えた。


「幻影様に会いたかったのね…」


「…俺目的か…」と幻影は答えて大いに反省した。


それほど疎遠にはなっていないが、最近は関にかかりっきりだったので、松山も安土にも足が遠のいていた。


前橋の工事を中断してでも松山と安土を回ろうと幻影は決めて、信長に話した。


「前回は夏か…

 できれば、三月に一度ほどは戻った方がいいな」


信長の言葉に、この先の天候も考慮に入れて、暫定的だが予定を立てた。


やはりここは、浮遊装置をさらに使えるものにしようと思い、幻影が負担にならない巨大な装置を考案した。


まずは模型で試して、阿利渚だけを乗せると、見事に宙に浮いた。


「飛行に問題はないが、装置が大きくなるのが問題だなぁー…

 燃料もそれなりに必要だし…

 やはり、楽じゃない方法の方がいいか…

 いや、根本的にすべて作り直すか…」


幻影は言いながら折り紙をしている。


折ったものは鶴で、ふわりと投げるとクルクルと旋回しながら地面に落ちた。


「…なるほど… 滑空の変形か…」と言いながら、幻影はとんでもない折り紙を作り上げて、今度は力を入れて投げた。


「飛んでるぅ―――っ?!」と阿利渚が叫んで、折り紙を追って行った。


今度は翼が大きいものを折って、ふわりと投げると、ゆっくりと滑空して地面に落ちた。


「…上昇させて滑空… この繰り返しでも十分だな…

 翼は細くない方がいい…

 空気を多く取り込めるように…

 もしも力尽きても、かじ取りだけで滑空して地面に降りられるように…

 車輪は、水をかくように改造…

 …あとは防水…

 翼は収納できる方がいいが、

 弱くならないように…」


幻影は陸海空すべてを網羅できる乗り物を考案した。


そしてまずは、ひとりか二人だけで移動できるものをいとも簡単に作り上げた。


「弁慶、俺に命を預けろ!」と幻影はかなり厳しいことを言ったが、「…どう考えても生きて帰れますから…」と弁慶は大いに眉を下げて言った。


幻影と弁慶は子供のころに戻ったように、陸、海そして空を縦横無尽に移動して、大いに高揚感を上げていた。


「静止した状態から飛び上がることが難しいことはわかったが、

 走っている状態からだと簡単に浮いたことに感動した」


幻影の言葉に弁慶は笑みを浮かべて同意した。


「飛ぶの?」と阿利渚が長春のように疑問形で言うと、幻影は大いに眉を下げて、幻影と弁慶の間に座らせて、陸海空を大いに堪能した。


「だから折り紙、飛ばしてたんだぁー…」と阿利渚は笑みを浮かべて言った。


「まあな…

 ちょっとした遊びからすごいものができた」


幻影は機嫌よく言って、二人乗りの水陸空戦車を軽く叩いた。


幻影は一度分解して、部品の確認をしたが問題はないようだった。


そして三十人乗りの長さがある大きな戦車をまたいとも簡単に作り上げると、夕餉の時間となった。


「初飛行は明日だな」と幻影は言って、弁慶とふたりして最新型の戦車をこいで、格納庫に入れ込んだ。


「全員が動力源というところがいいですね」と弁慶が言うと、「中央にいるやつらだけが本気で漕いでくれたらそれでいいはずだ」と幻影は笑みを浮かべて言った。


「阿利渚が多分許さないと思います」


「はは、言いそうだ」と幻影は言って弁慶と肩を組んで琵琶御殿に戻った。



翌朝、朝餉の後に、琵琶家全員が新型戦車に乗り込んだ。


今回は荷物をそれほど積まずに移動することにした。


まずはゆっくりと走らせて、一瞬翼を広げただけでふわりと宙に浮いた。


そして車体を地面にゆっくりと下ろしてから、旋回して力を入れて踏み込んだ。


するととんでもない速度ですっ飛んだが、翼を広げると簡単に空を飛んだ。


そして景色を楽しむことなく、上昇してから、遥か眼下に鳴門海峡が見えた時、漕ぐのをやめて滑空を始めた。


「速度が上がり過ぎたから、ゆっくりと漕いでくれ」


幻影が指示を与えると、まるで無重力になったように、戦車の速度が落ちた。


松山の琵琶御殿が見えたところで、ゆっくりと旋回してから、工房前の広場を目指して体制を整えて、ゆっくりと垂直に下降を始めた。


「力を抜いてこいでいいぞ」と幻影が指示すると、車輪がゆっくりと地面についた。


「大成功!」と幻影は叫んで、体中に力を入れて大いに喜んだ。


「…早かったな…」と信長は言って、真っ先に戦車を降りた。


すると大勢のお付きを連れた嘉明が馬に乗ってやってきた。


すぐさま下馬して新しい戦車を見上げて、「とんでもないものを作ったもんだ…」と言った。


「動力が普通の人間だと多分飛びません」


幻影の言葉に、「…そうだろうなぁー…」と嘉明は言って、逞しい琵琶家一同を見入った。


嘉明は大いに歓迎して、そして愛娘と妙に他人行儀に挨拶をした。


嘉明としてはできれば婿として弁慶と接したいところなのだ。


弁慶は決して不愛想ではないのだが、気さくというわけでもなく、まさに厳しい武士そのものだ。


できれば孫を、などと考えている。


さらには公家だった同じ源を持つ斉昭もそばにいることで、この琵琶家の中で雄々しき光を放っているようにも見えるのだ。


もちろん、今更公家として再起することはないのだろうが、やはりその子には大いに興味がある。


しかしその前に、大切なことを思い出していた。


弁慶と沙織は婚礼の儀をまだ行っていない。


そういったことも相まって、嘉明としては愛娘にすら、妙に他人行儀なのだ。


この空気を察した弁慶が眉を下げながら嘉明に近づいて、「ご健勝で何よりでございます」と弁慶が声をかけた途端、嘉明は破顔した。


「あら? 私よりも弁慶様の方が、まるで血を分けた息子のようだわ」と沙織がすぐさま指摘すると、「…お前の婿になられるかもしれんのだろ?」と嘉明は少し眉を下げて答えた。


「私は、お聞きしておりません」と沙織が少し弁慶をにらんで言うと、「結果を出してからです」と弁慶は薄笑みを浮かべて言った。


ある意味、今の言葉は、弁慶が沙織に対して好意があり、まだ修行不足として求愛ができないといったにも等しいひと言だった。


「兄者に期待されている私にとって、

 今は個人的な幸せを求めるべきではないと思っています。

 いえ、思っていたのです…」


弁慶はいきなり声を落として大いに照れ始めた。


「幻影様の教えその一。

 人の器を大きくするのは、

 誰かの上に立ち、誰にも負けないほどの様々な強さを手に入れること。

 師匠は弟子の手前、

 誰にも負けるわけにはいかないという気概」


沙織の言葉に、「…むむ… それは大いにある…」と嘉明は言って何度もうなづいた。


「その二に、家族を持ち、そして子を持ち、

 師匠と同じような立場となって子とも接すること。

 よって、親として子の手前、

 そして守るという意味も含めて誰にも負けるわけにはいかない」


「…ええ… そういう考えに変わってきています…」と少し顔を赤らめた弁慶は言って、沙織に頭を下げた。


「ですが、それは考えることではないのです。

 兄者を見ていると、それは当たり前のことなのです。

 まさに心の底からそれはもう決まっていること。

 私にはまだまだその器が出来上がっていないと思っています。

 ですが日々の修行を積み上げてもほとんど変わらない今、

 何かを変えないと成長はないものかと。

 兄者は姉さんと婚姻してから、

 爆発的に力を上げています。

 弟として、まだまだ兄のあとを追いかけようと思っているのです。

 …どうか沙織様にも、できれば、ご協力、願えない、かと…」


弁慶が大いに戸惑いながら言うと、「嫌です!」と沙織は目尻を上げて叫ぶと、嘉明はすぐさま頭を抱え込んだ。


「…女性としては、私にはもったいないお方…

 …まだまだ旅をして、私に最適な方を探し出そうと思います…」


弁慶は少し落ち込んでホホを赤らめて言って、沙織に頭を下げた。


「私のことを好きなの嫌いなの?!」と沙織が目を吊り上げて叫び、弁慶に詰め寄った。


「…大いに、好意を持っております…」と弁慶は言って頭を下げた。


「じゃ、協力してあげるぅー…」と沙織は今までで一番素晴らしい笑みを弁慶に向けて言った。


幻影はすぐさま拍手をして、弁慶と沙織を祝福して、「どうなることかと思った!」と叫んで大いに笑った。


「おまえだって人のことは言えない」と蘭丸はにやりと笑って言った。


「俺の打った幻武丸に嫉妬されていたからじゃねえの?」


「…うう… 俺のせいでもあったかぁー…」と蘭丸は言って、笑みを浮かべて幻武丸にほおずりをした。


「この松山で祝言を上げろ。

 だが、今すぐにとは言わんから安心しろ」


信長の言葉に、弁慶と沙織はすぐさま礼を言って頭を下げた。


「源次様も告白してくださいませ!」と志乃が叫ぶと、「…やだよ…」と源次に即言われて、志乃は大いにうなだれた。


「お志乃ちゃんは政治の道具として使われる身だよ?

 それ、きちんとわかってんの?」


源次らしからぬ言葉に、幻影だけがにやりと笑った。


志乃は源次の言ったことに気付き、立ち直れない程に落ち込んだ。


「…好きな人のところに嫁ぎたいもぉーん…」と志乃は大いに気弱に言った。


「その気持ちを持って、信幻様にも接してもらいたいもんだ。

 お志乃ちゃんは自分以外に、

 特に信幻様には厳し過ぎると俺は思ってる」


「…だって、信幻って、頼りなく見えちゃうんだもぉーん…」と志乃が言うと、源次は大いに笑った。


「そこは我慢して見守る。

 だが、間違っていると判断すれば指摘すればいいさ。

 それも家族の愛だと俺は思いたいね」


「…どうしても、言っちゃうぅー…」と志乃が言うと、「じゃ、政治のための駒だね」と源次が言うと、志乃はついに泣き出し始めた。


「…源次君の言葉は優しいのに、誰よりも厳しいぃー…」と長春が大いに眉を下げて言うと、「…よくわかっていたつもりだけど、今こそよーくわかったと思うわ…」と政江は笑みを浮かべて源次を見た。


「俺がお志乃ちゃんを気に入らない唯一が、

 信幻様への態度だから。

 それが治らない限り、俺たちはずっと平行線だから。

 家族の親しさはそれほど出さず、見守る愛を養ってもらいたいんだ。

 その第一として、信幻ではなく信幻様とお呼びすること」


源次の言葉に、「…守っていきますぅー…」と志乃は懇願の目を源次に向けた。


「そして、これが難しいんだ。

 家族だけのくつろぎの時には、

 信幻様のように家族の親しさを出すこと。

 それを容認できる心を養うこと。

 信幻様は兄者を父としているからね。

 時には誰かに頼りたくなることも、

 人間らしくていいと、俺は思うんだ」


「…そこも腹たつぅー…」と志乃がうなると、源次と幻影が大いに笑った。


「じゃ、俺の気に入らない態度に出たら政治の駒決定だよ。

 これは今からだ」


まさに志乃は大いなる修行を課せられたことになってしまった。


だが、この心地良い縛りは何だと、志乃は思い始めていた。


これほどに源次が語ってくれたことはなかったからだ。


まさに志乃だけに話しかける、源次をさらに好きになっていた。


「さすがのワシも、この件に関しては口出しできぬ。

 佐竹家は信幻の家だからな」


信長の言葉に、志乃はそれにも気づいて、「…御相談役でぇー…」と信長に懇願した。


「源次でいいではないか…

 これほどに親身な源次を見たことがない」


「…でも、嫁に出されそうで嫌ですぅー…」と志乃が大いに甘えると、信長は大いに笑った。


「言っとくが、決めるのは信幻なんだぞ?」と信長が言うと、源次が大いに眉を下げた。


この話の大きな落とし穴がこの件だ。


「…さぁーて… 信幻がどのような結果を出すのかが楽しみじゃわい…」


信長の言葉に、志乃は大いに戸惑って、源次にすがる眼を向けた。


「あのさ、今の感情って、

 信幻様を信用していない証拠のようなものだって思わない?

 まだまだ子ども扱いが抜けていないように見えるんだよ。

 ひとりの大人として接することも重要だと思う。

 信幻様は政治の道具としてお志乃ちゃんを嫁には出さない」


源次の力強い言葉に、志乃はほっと胸をなでおろした。


「珍しく断言したな。

 その根拠は?」


信長が聞くと、「信幻様にとってお志乃ちゃんは母でもあるからです」という源次の回答に、幻影が大いに拍手をした。


「…母を嫁に出す武家はそれほどはいない、か…」と信長は言って何度もうなづいた。


「…それほどってところが気になるぅー…」と志乃は大いに眉を下げて言った。


「その母自らが進んで政治の道具となるためじゃ。

 まさに、武家の女子の覚悟じゃて」


信長の言葉に、「…覚悟したくありませんー…」と志乃が答えると、誰もが大いに笑った。


「さらによくよく考えて、

 源次に気に入ってもらえるようになることが最善じゃ」


信長のやさしい言葉に、志乃はすぐさま信長に頭を下げてから源次に向けて、「よろしくご指導願いますぅー…」と言って頭を下げてから、懇願の目を向けた。


「かなり柔らかくなったけど、

 きっと口に出すから。

 だけどその時は俺も口を出す。

 お志乃ちゃんには味方がいなくなると思っておいてもらいたい。

 その時は自分が間違っていると思ってもらえれば幸いだね」


「…急にやさしくなったぁー…」と長春が笑みを浮かべて言うと、「…余計なことを言うでない…」と信長は大いに眉を下げて言った。


志乃はできる限り信幻にやさしくなろうと心がけることにした。


そして自らをさらに鍛え上げようと決心した。


「これでよい。

 嘉明たちを温かいもので、もてなしてやってくれ」


信長の穏やかな言葉に、幻影たちはすぐさま従った。



「…あっちもうまいと思っていたが、これが熟練の技か…」


などと嘉明は言いながらも、幻影たちが打った麺を大いに堪能している。


まだ寒いことには変わらないのだが、信長は冷えたものも好む。


麺は同じものだが、冷えると少し硬くなるので、その食感を気に入っているのだ。


さらには出汁に山葵や葱や胡麻を入れ、様々な味を楽しむ。


温かいうどんには小麦で上げた蝦などの天ぷらを乗せて、出汁を吸わせて食うとうまいと気づいたようで、誰もが真似をしてホホをほころばせる。


嘉明があまりにも大勢の家臣を連れてきたので、御殿ではなく工房の外の広場で食事会が行われていた。


「鮪となっ?!」と嘉明が叫んだ。


「まともなものは先の上様しか食ったことがないと評判だったようだぞ」と信長が言うと、「…冥途の土産に…」と嘉明は言って幻影を見た。


「ここは一肌脱ぎましょう」と幻影が言って立ち上がると、長春が涙を流して喜んでいた。


まさにそれほどのものだったのだろうと、嘉明は大いに期待したが、「捕まえられたらついていたと思っておいて下さい」という幻影の言葉に、嘉明は大いにうなだれた。


幻影はあっという間に姿を消して、ほんの一刻後に、一間ほどある巨大な魚を両手に握って戻ってきた。


「これが鮪だ。

 まだたくさんいたが、

 欲張ると罰が当たりそうだったからな」


幻影の言葉など誰も聞いていなかった。


幻影たちは早速鮪を解体して、大きな船盛を嘉明に披露した。


もう一匹は待ち構えていた法源院屋の店主に売った。


もちろん店主は舌が肥えていて、ようやく流通が始まった小判三十枚を幻影に渡し、機嫌よく大八車にたくさんの切り身を乗せて店に戻って行った。


「ほら、もう金持ち」と幻影は言って妙栄尼に小判を渡して手を合わせた。


もうこの時点で、この金は嘉明の懐に入ったもの同然だった。


鮪も好評だったが、紫と山葵も誰もが大いに気に入って、もりもりと食べる。


そして幻影がまた寿司を握り始めると、誰もが大いに陽気になった。


そして行き交う人々にも一貫ずつ振舞って、大いに目を見開かせ、金持ちはすぐさま法源院屋に駆け込んで行った。


腹ごしらえが終わった幻影たちは、早速今までの積み重ねをここで披露して、法源院屋は売り物であふれかえっていた。


だが夕方になるころには、乾物以外は何も残っていなかった。


この辺りの住人たちは、『この日を待っていた!』などと思い、カネを貯めていたのだろう。


祭りではないが、まさに祭りのような一日を終えた。



その翌日は嘉明に別れを告げて安土に飛んで、松山と同じようなことをやった。


食ってはしっかりと働いたので、誰もが陽気になっている。


もちろん琵琶家がやってきたことを彦根藩城主の井伊直勝は気付いていて、今は鮪の握り寿司を食らって陽気になっている。


今回は近くに来たこともあり、幻影は京の御所にも飛んで、鮪の切り身を献上した。


大君後水尾は、「よい冥途の土産となった」と喜んで、幻影とその家族たちに強制的に官位を渡した。


特に徳川信幻には従四位上という、城主にでも藩主にでも簡単になれる位を与えた。


そして幻影には、「わが友として」と言って、主二位の位を授けた。


「俺は神じゃあねえけどな」と言いながらも笑みを浮かべて、官位ではなく大君の想いを受け取った。


「やるものはそんなものしかないからな。

 受け取ってもらえて助かった」


まさに友の言葉に幻影は満足して安土に戻ったのだ。



幻影は真剣な目をして、「大久保某に会わせて欲しい」と直勝に言うと、大いに目を見開いた。


「あ、姫様は?」と幻影が今度は気さくに聞くと、「ここに来るのに気づかれたが置いてきた…」と直勝は言って眉を下げた。


「元気なようでなによりだ。

 使えるやつは使ってやって欲しいね」


幻影は気の強そうな将代と忍びの草太を思い浮かべていた。


「では行くか…」と直勝は残念そうな目をして手を合わせてから、妙栄尼に向き直ってまた手を合わせた。


そして信長にも丁重に礼を言って、幻影とともに彦根城に向かった。


幻影は滞りなく大久保忠隣と面会を果たした。


まさに訝し気に信用ならないような目をして幻影を見ている。


「あんたは確証はつかんでいないが、今の徳川幕府を疑っている」


幻影は開口一番に言うと、忠隣の表情が一転して目を見開いた。


「あんたは家康の影武者の供をしていた。

 その護衛の相手がいつの間にか家康になっていた。

 もちろん、その職を外されてから、

 城持ちになっていた。

 こんなことを誰かに言えるわけもない。

 もしも騒げば、消されることは必定」


幻影の言葉に、「…さすが天狗じゃ…」と忠隣は言ってうなだれた。


「あんたには包み隠さずに伝えることが一番いいだろう。

 もっとも、これを知ったところで、

 あんたの立場が変わるわけでもない。

 だが、言いふらしたとしても何も起こらない。

 俺は秀忠とともにすべてを調べ上げて、

 秀忠が納得できる結果を見出している。

 秀忠もすべてを知って、息子である家光に、

 胸を張って将軍の地位に立たせたんだ。

 ここには押さえつける必要のあるものや嘘は一切ない。

 秀忠は間違いなく、松平元康の数少ない血縁者だ」


忠隣は顔を上げ、また目を見開いている。


「よって、家光は間違いなく秀忠の子なので、

 松平元康とは血縁関係だ」


幻影の言葉に、「…詳しく、教えて下され…」と忠隣は言って頭を垂れた。


幻影は松平元康と井伊直孝の策略について全てを話した。


話すたびに忠隣は言葉を失っていく。


そして琵琶家が幕府に肩入れする理由も、心の底から理解できた。


「…今の、この平和を見据えての行いだった…」と忠隣は言って、大いにうなだれた。


「まだまだ平和とはいいがたい。

 俺たちの家がこの安土にあるからこその平和だ。

 しかも直勝も協力的だからこそだ。

 好条件が備わっている場所にのみ平和はあるんだよ」


「…ワシはただただひねくれていただけか…」と言ってうなだれた。


「いや、あの場にいて疑わないヤツなどどこにもいないだろう。

 俺だってそのために、大いに手を汚したからな。

 もちろん、その時は松平元康の詳しい思惑など知らなかった。

 だが、家康が影武者であることは知っていた。

 何気なく、琵琶家と同じことをやっているのだろうと察していただけだ。

 その確証は我が師の松平元康に対する怨念のようなものだった。

 元康はかの昔の長篠の戦いで、首を落とされていたからな」


「…それほどの遥か昔に…

 …いや、その想いは井伊直孝によって受け継がれた…

 …よくぞやり切ったと褒め称えたいほどじゃ…」


忠隣は言って大いに肩を落とした。


「問題は、徳川に関係のない御三家にあるが、

 それ以外の徳川は皆本物だ。

 これは秀忠が調べ尽したから確実だろう。

 御三家を持つことは、直孝の考えだ。

 これはすべての家老たちの一致した意見だから、

 秀忠が反抗するわけにはいかなかった。

 だから家光は確実に世継をもうける必要がある。

 だが、三代も続けられたら、将軍はもう誰だっていい。

 戦がほとんどなくなった今、

 武家の血筋争いが新たな戦いを呼ぶようなものだからな。

 そこには確実に不幸はあるものだ。

 誰もが納得する者が将軍になるべきだし、

 この格差社会も一掃する必要があるはずなんだ。

 それをしていかないと、武家はまた武器を持って、

 不幸しか生まない戦いを繰り返すはず。

 それを何とか阻止したいんだ」


幻影の言葉に、忠隣も賛同するように何度もうなづいた。


「…武家を捨て、仏門に入る…」と忠隣は言って、幻影に頭を下げた。



この件はすぐさま直勝に伝えられて、忠隣は拘束から放たれる身となった。


あとは秀忠からの回答待ちだ。


その家族も自由の身となって、将代は大いに目を吊り上げて幻影と再会を果たした。


「あんたはいらないけど、草太は欲しい」という幻影の言葉に、「あげないわよ!」と将代は大いに悪態をついた。


「あのさ、あんたの親はもう武士じゃないんだぜ?

 すると自動的に、あんたも武家の娘じゃない。

 だが草太は忍びだ。

 草太の次の職を、俺が見繕ってやって何が悪いんだ?」


「…ど… どこかの、養女にぃー…」と将代は大いに悔しがって言ったが、「その伝がないだろ?」と幻影は常識的見解を述べた。


すると草太が姿を見せて、「長らく、お世話になりました」と将代に言って頭を下げた。


「草太が稼いで、母の面倒を見るわけだな?」


幻影の言葉に、将代は目を見開いた。


「御意」と草太は答えて、満面の笑みを浮かべた。


「草太は将代様をとりあえずどうするんだ?」


「できれば、家を買って住んでいただきます。

 だから、頑張って働きたいのですが…」


「ああ、それまでの家がないな…

 まずは俺たちの安土の屋敷に住んでもらってもいいぜ。

 どうせ明日は生実に戻るからな。

 将代様のめんどうは、俺の知り合いに頼んでおくし、

 仕事もさせることになるからな。

 それができないのなら出て行ってもらうだけだ」


「将代様、全てを受け入れてくださいますように」と草太は言って頭を下げた。


「その試験に合格したら、

 由緒正しい家に紹介して養女となってもらってもいい。

 織田、森、真田、源、前田、北条、明智、上杉、武田、伊達、松平、酒井など、

 名家ぞろいだぞ」


「…うう… そ、それはぁー…」と将代も草太も大いに戸惑った。


「草太は姓がないのなら真田を名乗ってくれ。

 俺の本当の名は、真田幻影だ」


「…真田、げんえい、様…」と草太は笑みを浮かべて復唱した。


「あ、こういう字を書く」と幻影は言って、『琵琶高願』『真田幻影』『織田幻影』と三つの名前を書いた。


「すべて偽りのない名だが、

 真田幻影が本当の名だ」


「…あのぉー… 噂話でしかないと思っていたのですがぁー…

 赤い疾風というお方が、真田幻影様ではないかと…」


草太が大いに戸惑いながら言うと、「そのうわさが流れても当然だ」と幻影は言って着物を脱いで、真っ赤な鎧の身となって、兜をかぶった。


「…噂は、本当だったぁー…」と草太は言って、満面の笑みを浮かべた。


「草太にはあとで作ってやるからな」


幻影のまさに父の言葉に、「はい! ありがたき幸せ!」と草太は大いに高揚感を上げて、まさに子供に戻って、幻影の鎧に触れ回った。


「さて、問題は将代様のお付きの方々だ。

 俺から直勝に仕官の口を願い出ておこう。

 だが、あんたについて行くというのなら無理は言わない」


「…考えるわ…」と将代は言って、幻影に額が畳につくほど頭を下げた。



幻影は将代の身辺整理の件だけを願い出て、安土に戻って、琵琶家と関係の深い者たちに屋敷に住みつく者がいるかもしれないとだけ話をした。


もちろん二つ返事で引き受けて、「誰かが住んでいた方が働き甲斐も上がります」と誰もが口を開いては明るく言ったことを幻影は喜んだ。


全てを信長に話してから、幻影たちはまた小さな祭りを始めた。


まるで安土の町が生き返ったように、素晴らしい高揚感をもって沸き上がった。


幻影は内海の魚河岸などを回って、それなりの魚をかなり仕入れてきて、まさにお祭り騒ぎは大いに広がって行った。


また直勝がやって来て、うまい魚とうまい紫と山葵に舌鼓を打った。


「これ、持って帰ってくれ」と幻影は言って、大きな保冷の廿楽に指を差して言った。


「何とかして持って帰る!」と中身は見ていないが堂々と直勝は答えた。


この近江の北西部の山にも雪が大いに積もっているので、冷やすものは事欠かない。


山に囲まれている場所で海の幸を食すのもまた一興だった。



すると自由の身となった将代が頼りなげにひとりでやってきた。


幻影はまずは将代を世話係たちに紹介して回った。


すると早速屋敷にやって来て、面倒を見始めた。


一方草太は、幻影に赤い鎧をもらって、着ることなく笑みを浮かべてずっと見ているだけだ。


「草太、多少は重いから着て慣らした方がいいぞ」


幻影の言葉に、草太は笑みを浮かべてこの場で着物を脱いで鎧をつけて、満面の笑みを幻影に向けた。


「あ、重い」と草太はつぶやいてから、鎧を自分のものにするためにゆっくりと辺りを走り始めた。


「…かわいいぃー…」と長春が眉を下げて言って、草太を見ている。


「今は真田草太だ」


「…織田草太にするぅー…」と長春が言ったが、「話しあって決めてくれ」と幻影は藤十郎を見て言った。


「真田草太でも別にいいと思います」と同じ真田の藤十郎は長春に早速言い始めた。


「織田草太だ!」とここに信長が乱入してきたが、ただただ孫のような草太をかわいがりたいだけだ。


「…大きな子供だこと…」と濃姫は大いに呆れて言って、うまい刺身を時間をかけてゆっくりと食していた。



琵琶一家は予定通り前橋に行き、前回観察をしなかった不思議な場所に全員で行った。


厩橋城からは南に二里ほど離れた場所で、琵琶家が預かり受けた街道沿いの南の端のさらに南にある真新しい岩神稲荷神社だ。


神社とは名ばかりで、社は小さいものだったのだが、その風景が異様だ。


「赤城の山の噴火した時の落とし物」と信長が言うと、誰もが賛同した。


目の前には小山と表現するには小さい、とてつもなくでかい岩が鎮座していた。


「…神と言っても差し支えありませんが、

 巖剛がいません」


幻影の言葉に、誰もが巖剛を探し、かなり離れた場所から幻影たちを見ている。


「…あまり良くないって…」と長春は眉を下げて言った。


「火山が抱えているものはいいものばかりじゃないからね。

 安定して見えていても、

 実は人体にとって毒になるものを放出している場合があるんだ。

 巖剛はそれを察知して近づかないのかもしれない」


すると家族全員が巖剛のいる位置まで下がった。


離れて見るとさらに異様で、その岩の大きさがさらによくわかる。


「だから、火山から飛び出してきたものには違いないと思う。

 できれば、きちんと柵を作って、中に入らないようにした方がいいのかも。

 川に近いこともあって家が建っていない。

 長い歴史の中で、なんとなく危険だと知っているからなのかもしれないね」


「この近隣の家を回るぞ」と信長は言って一番近い家に向かって歩いて行った。



住人たちに話を聞くと、やはり神を畏れるような話を大勢の者たちから聞いた。


そして妙な病などにかかっていないかと聞くと、今までに数名いたそうだ。


詳しい話を近くにある寺の住職に聞くと、特に子供が病にかかりやすいことがあったそうだ。


「…岩神の飛び石のせいにはしたくはないのだが、

 みなさんがここに来たということは関係がおありのようだ…」


「まずは動物たちが嫌がりました」と幻影が言うと住職は巖剛を見て、「…熊がご家族とは思わなんだぁー…」とつぶやいて腰を抜かしそうになった。


「もしも、変わった病にかかっている人をご存じでしたら

 教えてもらいたかったのですが、

 今のところはいないようですね」


「ああ、ワシの子供のころは朝起きてこなかったやつらが何人かいた…

 悪ガキたちが岩神に登って、

 根性試しと言わんばかりに遊んでおったからかもしれん…

 じゃが、神のような岩だから、誰もこの話はせぬようにしとるようじゃ…

 祟りがあるなどと思っておるようじゃから…」


「…ですが入れなくするとさらに興味が沸いて入ろうとする…

 ですので、入らないようにする理由が欲しかったのです。

 祟りとは関係ない病にかかるという証拠があればいいと…

 ですので、藩主が立ち入り厳禁として、

 入れば罰を受けるおふれを出してもらった方がよさそうです。

 ですが藩主が動くかどうかは、

 少々微妙ですけどね…」


「何かあってからでは遅い。

 ワシも行って」


住職はここまで言って、初めて妙栄尼を視界にとらえた。


すぐさま手を合わせて、「…お会いできて光栄でございます…」と小声で言った。


もちろん妙栄尼も手を合わせて、「どうかご一緒に」と穏やかに言って住職を仲間に引き込んだ。


だが幻影はもう一度岩神の飛び石に近づいた。


そして地面やら岩やらを確認して、何度もうなづいている。


確たる証拠にはならないが、理由のひとつにはなると思い、まだ何とか動いている昆虫に触れた。


すると小さな昆虫は飛び起きるようにして動き始め、岩神の飛び石から遠のいて行った。


もうこれだけで十分だった。


幻影は自分自身の体にも手のひらを触れてさらに確証を得た。


そして家族たちの元に戻って、施術を行った。


「死にかけていた昆虫が復活しました」と幻影が言うと、誰もが大いに目を見開いた。


「その毒素と、私たちの体にまとわりついていたものは同じだと感じました。

 もちろん、人体の方が優秀ですので、

 すぐにどうにかなることはないでしょうが、

 ずっとあの場所にいれば、

 ただでは済まないと思います。

 毒素は蓄積するはずですので」


「…わ… ワシにもやってくださらんか…」と住職が言うと、幻影は笑みを浮かべて住職の体に手のひらを近づけた。


「やはり、私たちよりは濃いようですが、問題はないようです。

 ですが、酒は少々控えた方がいいようです」


幻影の言葉に、誰もが大いに笑ったが、住職は大いに眉を下げていた。



琵琶家一同で登城すると、直勝はすぐさまやってきた。


そして岩神の飛び石の件を詳しく話すと、「父がその病だったかもしれぬ」と言ってうなだれた。


不治の病だったようで、病名は癌だった。


「ですがあれだけ大きな岩です。

 今までに社のひとつも建っていてもおかしくないと思ったのですが」


「詳しい話はワシにもわからんが、不自然には違いない」と直勝は言って、幻影の言葉通りおふれを出して、岩を囲む塀を作ることに決まった。


決まったのはいいのだが、大工たちが大いに嫌がったそうで、ここは琵琶家が一肌脱ぐことになった。


嫌がった理由は、「…祟りがある…」だった。


できれば近づきたくないようで、この地の住人たちの暗黙の了解となっていたそうだ。


この件は人を割いて調べてもらうことに決まった。


その費用は琵琶家が払うと言ったのだが、直勝はすぐに断った。


よって塀を作る仕事は奉仕ということに決まり、それぞれの仕事を始めた。



塀は景観を壊さないようにそれほど高いものでは囲わなかった。


子供が出入りできないほどの高さ程度で構わないのだ。


そして四方にお触れの札をたてた。


やじ馬が大勢いたので、琵琶一族は声を張って繰り返し説明した。


するとやじ馬たちは安堵の笑みを浮かべたのだ。


誰かが管理してくれることを待っていたと言わんばかりだった。


せっかくなので、少々立派な稲荷神社を建立して、無病息災を祈願した。


今日は本来の仕事にならなかったので、遅い昼餉を河原で食べてから戦車に乗り込んだ。


ここまでは何もなかったのだが、戦車を上空に浮かべると幻影は眼下を見入った。


「もっと上空に!」と幻影が叫んだので、誰もが必死になってこいで、かなりの上空まで上がった時に、「…浅間の山の岩かもしれない…」と幻影がつぶやいた。


そして誰もが少し足を緩めて眼下を見入ると、まさにその可能性が大いにあると理解した。


浅間の山からの稜線が、前橋から南に向かって伸びていたのだ。


とんでもない山津波があったと、確実に誰もが思うことだろう。


「みんなありがとう。

 これで何かがわかるわけでもないんだけど、

 一度浅間に行って、

 今日のように聞き込みをした方がよさそうだ」


ここからはほとんど体力を使うことなく、ほぼ滑空して生実に戻った。



幻影は帰って早々に、上空から見た絵を描いた。


「…本当に感心する…」と信長は絵を見入って何度もうなづいている。


「赤城の山よりも浅間の山の方が暴れん坊のようですね」


幻影の言葉に、誰もが愉快そうに笑った。


「最近は大人しいが、何度も大きな噴火があったようじゃから、

 またないとは限らん。

 じゃが、人が住んでいる限り、

 もしも不幸があれば手助けをするべきだろう」


「もちろん、山の恩恵も大いにあるはずですからね。

 特に温泉は心までやすらぎますから。

 また巖剛が源泉を探し当ててくれることを期待しておきましょう」


幻影の言葉に、『…ウォーウ…』と巖剛が小さく鳴くと、「任せておけって!」と長春が笑みを浮かべて通訳した。


「じゃがな、前橋の地は我らにとっても無関係ではない土地じゃ。

 特に幻影など、父方も母方もあの地の厩橋城に陣を構えておったからな。

 何気ない発想だったようじゃが、上田も近いこともあり、

 もちろんワシらが住む条件も見合ったあの地を訪れたかったのではないかと、

 ワシは漠然と考えた。

 もちろんワシも厩橋城に入城したことはあるし、

 一益はあの地で育ったようじゃからな」


「…戦乱の世に、大いに振り回された地、

 と言ってよさそうです」


幻影の言葉に、「…耳が痛い…」と信長は小声で言ってから大いに笑った。


「だからこそ、親身になってすべてを癒すことに決めました。

 前橋は少々長居をするやもしれません」


「ああ、それでよいよい」と信長は機嫌よく言った。


「ひょっとすると、侍を毛嫌いしているかもしれません…

 それは感じませんでしたが、

 我らを歓迎していない者も多いかもしれません…

 ですが、文拓和尚と出会えてよかったのかもしれません。

 大いに頼って、色々と聞き出しましょう」


幻影の言葉に、信長は笑みを浮かべてうなづいた。


なまぐさ坊主だからこその親近感が大いにあったからだ。


「…飲みすぎ… とか言っておったが…」と信長は今度は大いに自分の体の心配を始めた。


「いえ、御屋形様は健康そのものですので、

 酒量の調整は必要ないと思います」


幻影が答えると、「今よりも増やすなということですよ」と濃姫に信長は釘を刺されて、「…あいわかった…」と答えてうなだれた。


「血行を良くするには多少は嗜んだ方がいいのです。

 特に我らは見た目が若いだけではなく、

 青年そのもので、身体の代謝が激しいのです。

 ですので誰よりもよく食べて、

 誰よりもよく動けるのです。

 酒は薬を飲むように、少しは嗜んだ方がいいでしょう」


幻影の言葉に、誰もが感慨深げにうなづいて、まさに薬を飲むようにを守って嗜もうと決めた。



翌日からは前橋に飛び、御殿建設を中心として作業を行い、三日後には琵琶御殿と徳川信幻の別宅、萬幻武流の道場と関連施設の建築を完了させ、早速御殿で寛いだ。


しかし、庭にいる巖剛は少し不貞腐れているように見える。


この辺りには温泉の源泉がないようなので、少々足を延ばす必要があるようだ。


翌日の早朝の朝餉前に、幻影は巖剛と子熊を抱いて低空で空を飛んだ。


巖剛はひとしきり地上を観察している。


すると、琵琶御殿から二里ほど北に差し掛かると、巖剛が反応を示したのですぐに降りた。


ここは河原で、もしも温泉が見つかれば工事は簡単だった。


もちろん、色々と申請は必要だが、そのようなものはあっという間に終えることができる。


巖剛は川から離れた少し土手になっている部分に興味を示し、そしてついに掘り始めたので幻影が手伝った。


幻影はもう気づいていた。


この辺りだけが少々温かいと感じたのだ。


幻影は確信して、穴を横に広げて石を積んで囲っていく。


すると巖剛は穴から出てしまった。


「こりゃ、沸かさなくても済みそうだ」と幻影は言って、石を積みながらもどんどん掘っていく。


すると熱い湯がしみだしてきたので、幻影も外に出て、長く硬い鉄の棒を使って穴を少し広げた。


湯は留まることを知らないようで、ついには囲いからあふれ出て、川に向かって流れ出し始めた。


幻影はすぐさま石で水路を作って、川の近くに大きな露天風呂を作り上げて、わずかに川の水を引いた。


巖剛は湯加減を確認してから、子熊とともに飛び込んで、まさに気持ちよさそうな表情をして瞳を閉じた。


幻影は念話を使って信長に連絡をした。


そして城にも伝えるように頼んだ。


琵琶家一同は戦車を使わず走ってやってきた。


そしてまずはここで朝餉を始めた。


「寅三郎が城に行ったの?」と幻影が信幻に聞くと、「はい、御屋形様のご命令ですので」と信幻は笑みを浮かべて言った。


「藩が取り上げることはなかろうて…

 もっとも、ワシたちのものにしようなどとは考えてはおらぬけどな。

 なんなら、銭を払って湯を引かせてもらってもよいほどじゃ。

 今回も松山のように少々距離はあるが、条件はよいな」


「組み上げる装置が必要になりますが、

 そうならないように設計してもいいです。

 標高としてはこちらの方が随分と高いので。

 城内にもおすそ分けできそうですから」


「それでよいよい!」と信長は陽気に言って、温かいうどんをすすった。


寅三郎が役人を連れてきて、早速見分を始めた。


この藩の条例にかかることはなく、採掘した琵琶家に権利があると、この場で証文を書いて、恭しく信長に渡した。


「城にも温泉水を引く計画をしているのだが?」という信長の言葉に、役人の代表者が大いに喜んで、工事全般を琵琶家が引き受けることになった。


この件は何とでもいいわけが利く。


この地の大工たちは岩神の飛び石の塀を作ることを渋ったからだ。


さらには松山や駿府の水路を視察に行った者もいて、琵琶家に任せれば何もかもうまくいくと進言した。


岩は城の補強のための石切り場があるので、そこを借りることに決まった。


そしてついに、わらわらと見物人がやってきた。


しかし巖剛が湯に入っていることで、近づくことはなかった。


今のところは湯量は問題はないのだが、数日間は様子を見ることに決まった。


幻影はそれを早く知ることができないかと考えながら、朝餉は終わりにして、源泉の近くの地面に手のひらを添えた。


―― おうっ?! なんと素晴らしい雄々しさ… あ、地下水も問題ないな… ―― と幻影は思い、「やはりこれから水路を引きます」と幻影は自信を持って言った。


「おっ! やる気をそがれなくてよかった」と信長はうどんの出汁を飲み干してから着物を脱いだ。


ここからは石切りと水路の基礎に分かれて作業を行い、昼餉前には城まで水路を繋げて、幻影手製の加熱装置を備え付けた。


そして夕餉前に、御殿まで水路を引き終えて、御殿の風呂で温泉を楽しめるようになった。


河原の方は、簡素な小屋と衝立を建てて、誰でも入浴できるようにした。


まさに琵琶家の名を知らしめる第一歩だ。


もちろん、苦情を言ってくる者もいるはずなので、その対応策は考えているが、城下よりも少々離れていることで、それほど利用客はいないかもしれない。


しかし、やじ馬はそれなりに集まっていたので、多少の覚悟はしておいた。



この日は何事もなく、琵琶家一同は街道沿いの基礎工事を始めた。


ここからはそれほど急ぐことはないので、余裕の笑みで作業を行う。


本来の街道は東側にあり、前橋の法源院屋もそこにある。


すると昨日も来たのだが、今日も法源院屋の主人がやってきて、温泉の件を大いに褒め称えた。


さすがに今のところは商品のおねだりはできないのだが、琵琶家に寄り添っていることが今の仕事のようなものだ。


「この辺りは山の幸だけで過ごしているんですよね?」と幻影が店主に質問した。


「はい、基本はそうなります。

 海の幸はさすがにお高いので手を出しておりません。

 魚は川魚をわずかばかり…

 それほど大量に獲るわけにもいかないので」


「じゃ、こちらの都合がついたら、

 現地と同じ価格で海の幸を提供してもらいたいんです。

 運搬は琵琶家が受け持ちますから」


まさに降って湧いた朗報に、店主は大いに礼を言った。


「…それからひとつ聞きたいことが…」と幻影は小声で言って、武家と住民の確執が何かないかと聞いた。


「私はこの地の者ではありませんので、

 なにかあることはわかっております。

 この地は落ち着くことなく、

 かの昔より常に戦場となっていましたから。

 城下に住んでいても、

 武家からはかなり距離を置いているのです。

 それが体に染みついているように思えてならないのです」


「…今が平和とわかっていても、

 それは一時的なものなのかもしれない…

 また誰かが諍いを始めたら、

 またここが戦場になってしまう…」


幻影がつぶやくように言うと、店主は何度もうなづいた。


「みぐるみをはぐような税の徴収もあったんだろうなぁー…

 それほどに武家が集まれば、

 兵糧を集めるだけでも苦労したはずだ。

 ある意味迫害を受けていた、か…」


「まずは近隣の庄屋に行って、その洗礼を受けるか」と信長が言うと、「受けそうですね」と幻影は即答した。


「農家との交流はいかがなものです?」と幻影が店主に聞くと、「安くは仕入れられません」と渋い顔をして答えた。


「売り物にならないものでも、

 通常品と同じ値段だろうなぁー…

 まあ、だったら買わないだけだ。

 上田にでも行って買い付けよう」


「上田にお知り合いでも?」


「私の故郷ですから」と幻影は懐かしそうな顔をして言った。


「昼餉が終わったら庄屋を回るぞ。

 そのあとにでも上田に足を延ばすか」


信長の言葉に、誰もが不安を持ちつつも素早くうなづいた。



やはり法源院屋の店主の言葉は正しく、どの庄屋に行ってもほとんどが門前払いだ。


その元凶は、幻武丸を担いでいる蘭丸だが、家人たちは誰も何も言わない。


この琵琶家の姿はいつも通りの琵琶家なので、何も隠す必要はないからだ。


すると、御殿から南西のかなり離れた場所にそれなりの農地があり、庄屋が監督していない土地があった。


「なるほどな… 何かがあって、ここに追いやられたのだろう」と信長は察して言った。


しかし、この農地の持ち主の夫婦は朗らかで、数は少ないが売り物になりづらいものをすべて売ってくれた。


なぜこの夫婦がこの辺鄙な場所に飛ばされたのかは、話をしてすぐに気づいた。


幻影たちは大いに礼を言ってから御殿に戻って、早速菓子などの加工をして味見をすると、かなりうまいものに変身していたことに驚いた。


数が少ないとは言えども、売り物にできるほどに出来上がったので、早速法源院屋で味見をしてもらうと、「…うまい…」と店主はつぶやいて、ずっと天井を見入っていた。


「どこかの姫とともに暮らしている武家の農地で買ったのです」


幻影の言葉に、「…あんなことろまで行かれたのか…」と店主は大いに目を見開いた。


「我らにとっては普通ですから」という幻影の言葉に、「…さすが琵琶家…」と店主は言って笑みを浮かべて、幻影の言った通り、客に味見をさせて販売促進に励むことにした。


「だが、法源院屋が買っていないとすれば、

 どこに売りに行ってるんだ?

 まさか小諸まで行商に行っているのではないだろうか」


信長の言葉に、「ありそうですね」と幻影はすぐに答えた。


「武士の逞しさに農夫の逞しさを感じました。

 あれほどの農地があれば自給自足もある程度はできるでしょう。

 銭が必要な時には、行商に行っているのかもしれません」


家人たちは納得してうなづいている。



幻影は顔見せとばかりに上田に飛んで、懐かしんでいる時間を惜しんで庄屋の家を訪ね歩いた。


まさに売り物にならないものを買ってもらいたいようで、腹に入れてもいいのだが、できれば銭に替えたいようだ。


琵琶家にとっては明るい情報だったので、夕餉を終えて早々に眠りについた。


翌日は朝餉を終えてすぐに戦車に乗って上田の庄屋の家を回って、多くの農作物を手に入れた。


もしも前橋で売れなくても生実か関で売ればいいと思いながら過剰に作り上げたが、ほとんど売れてしまった。


法源院屋の店主は、『この日を待っていた!』と言わんばかりに喜んでいる。


これが数日も続けば買って当たり前となる。


そして琵琶家が作り上げたものと公表したとたんに、客足が止まった。


法源院屋は大いに嘆いたが、すぐに売る必要があるものはすべて関で売ってもらったので、何の損害も出なかった。


「なかなか手ごわいが、まあいい」と信長は言って、ついに最高にうまい天ぷらを法源院屋に卸した。


これには武家たちは大いに食らいついた。


「これがわずか四銭か?!」とまるで宣伝をするように言いふらしてくれる。


そのついでに菓子なども大いに売れて、武家が法源院屋を訪れることが普通になって行った。


「いつまで続くか根競べじゃ」と信長の言葉はかなり明るい。


まさに戦乱の武将そのものとなっていた。



まず変化が起こったのは庶民の子供たちだ。


子供たちの手持ちの銭でも買えるものは多くある。


こっそりと買っても問題が起こらないように、店側でそれなりの仕掛けを作った。


「…ふふふ、庶民どもよ… 我らにひれ伏すがよいわぁ―――っ!!」と信長の機嫌もすこぶるよくなった。


街道の方は、まずは麺屋を開店させ、多くの武家が毎日来るようになった。


そして幻影のたっての願いで、不定期に開店する握り寿司屋も大いに客を呼んだ。


日によって魚介の種類は色々なので、こういったことも客は大いに好んだようだ。


するとぽつりぽつりと庶民の大人も肩をすぼめながらも、食いにやってくるようになった。


店内では武家も庶民も関係なく、「うまい!」の声ばかりが響くようになった。


「よし! 勝ったっ!」と信長はついに勝利宣言を出し、「祭りじゃ!」と陽気に言った。


琵琶一家が登城して直勝に謁見すると、まずは礼を言われた。


そして祭りの内容の話をすると、「岩神稲荷神社の祭り…」とつぶやいて深い笑みを浮かべた。


出し物は長春の動物芸と、幻影たちの大道芸と軽微な軽業興業だ。


その極めつけに、久々に大花火大会を行うとして、その見積金額を直勝に見せると、腰を抜かした。


「これだけかかると見せただけじゃ。

 カネは一切取らん」


信長の言葉に、直勝は大いに苦笑いを浮かべていた。


しかし祭りの主宰は直勝なので、参加しない者は花火も見てはならないことになる。


もちろんそんなことは言わないが、まだまだ多くの庶民はそのつもりでいるのだ。


しかし子供たちはそうはいかない。


言い聞かせても聞くものではない。


そしてついに、信長が真の意味で待っていたこの日がやってきた。


「なんだ、一揆か?」と蘭丸が言って、街道にやってきた大勢の庶民の前で幻武丸を抜いて刃を庶民たちに向けた。


「一揆を起こせば斬り捨てごめん。

 その程度は知っておろう」


あまりの蘭丸の威厳に、苦言を言いに来た者たちは一斉に退いて行った。


「じゃ、試し斬りな」と幻影は言って、多くの藁人形を街道に並べた。


「ふん、この程度のもの」と蘭丸は言って、ただひと振り水平に振っただけで、すべての藁人形を横に真っ二つにした。


「おー… さすが、すげえなぁー…」と幻影は大いに感動して蘭丸に拍手をした。


「…侍ですら怯えておるわ…」と信長は言って、庶民たちと反対側にいる侍たちを見た。


「俺たちは侍ではあるが、商人でもあり工員でもあり農民でもあり、

 時には漁師だ。

 俺たちは侍の味方でも庶民の味方でもねえ。

 ただ、騒ぎだけは起こすな。

 今のお前たちは、

 ここで繰り返し起こした侍たちの戦をやっていることと何も変わらねえ」


幻影の言葉は静まりかえっている街道にはよく響いていた。


庶民たちは踵を返して、街道から消えて行った。


「脅しただけじゃねえの?」と蘭丸が幻影に聞くと、「静かにさせたかっただけさ、心の奥底までな」と幻影は言って、蘭丸の頭をなでた。


「ま、もう勝ち戦じゃから何も問題はない」と信長は機嫌よく言った。



祭りの宣伝は前橋の法源院屋から日ノ本中に宣伝された。


特に江戸近郊からは、大勢の物見遊山の者たちがやってくるようだ。


祭りの前日は宿屋は大入りとなり、琵琶家が作った安い簡易宿舎も大盛況となった。


もうこれだけでも、厩橋藩は大いに潤ったことになる。


祭り当日は素晴らしい晴天で、幻影は一日中快晴と胸を張って言った。


祭りの鎮守である岩神稲荷神社も大盛況で、何度も行われる軽業興業も大盛況だ。


物販も作り続ける必要があるほど飛ぶように売れた。


特に腹持ちのいいさつま揚げの田楽は大人気となった。


大花火大会が始まる前に、岩神の飛び石の囲いの前で、幻影は大きな一枚の絵を立てかけた。


「空から見た、赤城の山とここから西にある浅間の山だ。

 見ての通り、この岩は浅間の山の噴火によって、

 ここまで転げ落ちてきたものだろうと推測した。

 浅間の山は一枚岩の巨大な岩盤を吹き飛ばすほどの威力がある火山だ。

 この巨大な岩がここに鎮座していてもおかしくはないだろう。

 もう何度も噴火しては、多数の犠牲者を出している。

 だがこれを鎮める術はない。

 まさに神でも、この力を止めることはできないのだ。

 だが、それほどに過酷なこの近隣に住んでいる人は大勢いる。

 もっと安全な場所は、この日ノ本中にまだまだいくらでもある。

 しかし、この場にいる半数以上の者たちはこの地で暮らしている。

 やはり、子供のころから生まれ育った

 この地を離れるわけにはいかなかったのだろうし、

 新しい場所に行って、平和に暮らせるとは限らない。

 この厩橋の住人たちの武家以外はまだまだ平和ではない。

 それはこの厩橋が何度も戦禍に巻かれたからだ。

 今は暫定的に平和と言ってもいいだろう。

 だがしかし、場所によっては宗教問題や税の徴収に苦しむ人たちが大勢いる。

 それは、平和になっているなどとは言えないと俺は思っている。

 誰もが笑みを浮かべて毎日を生活できる環境こそが平和といえるだろう。

 この前橋台地に住む武家以外も、

 できれば笑みを浮かべて生活してもらいたいものだ。

 俺は今の言葉を、岩神稲荷神社に祈願した。

 できれば多くの人々も、願ってやってもらいたいものだ」


幻影は大いに語って、その姿は消えた。


大勢の者たちは大いにどよめいたが、子供たちが満面の笑みで拍手を始めると、誰もが大いに拍手をした。


そしてぞろぞろと、岩神稲荷神社の参道に向かって歩いて行った。


一時ほどして間隔を開けて花火が上がり始めた。


誰もが空に浮かんでいる大輪の花を見て笑みを浮かべた。


しばらくすると、うるさいほどに花火が打ち上がり、ついには昼のような明るさになっていた。


初めて花火を見た者も大勢いるので、目と口を開いたまま空を仰いでいる。


今のこの瞬間を瞼に焼き付けるようにして見入っていた。


そして、―― すべてが平和になりますように… ―― と手を合わせた者は、一人や二人ではなかったことに、幻影は満足の笑みを浮かべた。



「仏陀として名乗りなさい!」と少々酔っぱらっている妙栄尼が幻影に絡み始めたが、蘭丸に抱かれたまま眠ってしまった。


すると、「…とと様…」と寝言で妙栄尼に言われてしまった蘭丸は大いに苦笑いを浮かべた。


「…かーちゃんは飲酒禁止だ…」と幻影は言って大いに苦笑いを浮かべた。


「大いに反省したさ」と信長は言って、猪口の酒を飲みほした。


「じゃが、飛び石の話からよく平和の話に繋がったものじゃ。

 最後の最後は、心がひとつになっていたように見えたが?」


「…花火、きれーだったぁー…」と酒を飲んでホホを桜色にしている長春が言った。


「効果はあったように思います」と幻影は信長の意見に賛成した。


「しばらくはこの地に留まるぞ。

 個人的な小さな恨み節でも聞いてやった方がいいだろう。

 それで盤石な平和をつかめるのであれば安いものだ」


「御意」と幻影は答えて頭を下げた。


「ここで気になってきたのは南に住んでいた農地の夫婦です」


「どこぞの殿様の姫じゃろうな。

 案外、幻影とは同じような血筋やもしれぬぞ」


「その可能性もありそうですね。

 ですがそれは本来の上杉の血筋かも…」


信長は何度もうなづいた。


「謙信のやつは養子じゃからな。

 本来の血筋ではない。

 確たる証拠でもあれば、支援のしようもあろうが…」


「ちょっと行ってきます」と幻影は言ってその姿は消えた。



今はまさに漆黒の夜だが、幻影は方位磁石を持ってるので道に迷うことはないし、空を飛べばあっという間に到着する程度の距離でしかない。


家に明かりが灯っているので、まだ起きているようで、幻影は、「こんばんは」と声をかけた。


すると愛想のいい男が玄関を開けて、「いらっしゃいませ、琵琶高願様」と言って笑みを浮かべた。


「姫様にお話をお聞きしたいと思いまして」


幻影の言葉に、男は一瞬目を見開いたが自然な笑みに戻って、「ささ、どうぞ」と愛想よく言って幻影を家に誘った。


幻影と女子は膝を突き合わせた。


「姫は上杉憲政様の血を受け継ぐ者として、

 ご先祖様たちはずっとこの地で過ごされておられました」


幻影はすぐさまこのふたりを探って、「明日の朝にでも裏の森を探って、その証拠を掘り出しましょう」という幻影の言葉に、男も女子も目を見開いた。


しかしここで自己紹介を始めて、男は山内耕造と名乗り、女子は上杉於継と名乗った。


「於継様は覚えてられないようですが、

 あなたの心に刻まれているのです。

 しかし耕造殿はそれを望まれておりませんが、

 どうされます?」


幻影の言葉に、ふたりは目を見開いた。


「…耕造さんと、夫婦がいいですぅー…」と於継の言葉に、幻影は笑みを浮かべてうなづいた。


「おふたりの身は琵琶家が預かりましょう。

 ここの農地は人を雇って琵琶家が管理いたします。

 ですが、姫の真実を知っておくことは重要。

 もちろん、琵琶家以外の者に知られることはありません。

 どうか、ご夫婦として過ごされるように。

 それが平和というものですから」


於継は穏やかに頭を下げ、耕造は床に額がつくほどに頭を下げた。


「私は本家長尾上杉という血筋ですから、

 於継様とは、かなり遠いですが親戚関係と言っていいでしょう。

 ですがその血も、母と私、娘だけになってしまいました」


「…ああ、それは心強い…」と耕造は顔を上げて笑みを浮かべて言った。


「私たち琵琶一族は、

 堂々としながらも隠れ住んでいるようなものですから。

 あなた方と何ら変わりはありません」


幻影の言葉に、於継も耕造も心からの笑みを浮かべた。


幻影はこのまま家を出て、少し宙に浮かんでから森を見た。


目印になるようなものはなさそうだが、上杉の血が、『それはある』と語っているように感じて、月の光に照らされている方位磁石を確認してから、北東に向かって飛んだ。



翌日、琵琶一家は朝餉を終えてから、上杉の隠れ里の廿楽に戦艦に乗って飛んでいき、於継と耕造に挨拶をした後、森の発掘調査を始めようとしたが、「ここここ!」ともう長春が探し当てた。


そこには何もなく多少草が薄く伸びている場所だ。


もちろん琵琶一家が疑うことなく慎重に掘り進め、完全に形を保った大きな瓶がいくつも出てきた。


「…お宝…」と幻影はひとつの瓶を開けて言うと、「…うふふふ…」と長春は笑みを浮かべて笑った。


長春は砂金などが詰まっている瓶だけを認識して掘らせただけだった。


本来の宝はまさに公家のものと言っていいほどに雅なものばかりだった。


その系図もあり、まさにかなり古いもので、今から二百年は前のものだと幻影は判断した。


しかし残念ながら山内耕造の出生の証拠になるものはなく、幻影は父方と母方の姓を聞くと、母方が滝川と答えた瞬間に、信長がすぐさま寄り添って陽気に話を始めた。


「おまえの親せきのようなヤツと知り合いじゃ!」とまさに信長は陽気になっていた。


藤堂高虎ほどではないが、耕造も逞しい肉体をしていた。


その姿は、滝川一益と重なったのだろう。


ふたりだけになってしまった理由もあり、戦に出た者とこの地を守る者すべてが倒れてしまったからだ。


まさにこの地を死守したと言っていい。


さらには武家にも戻れず、農民にも受け入れられない不幸が訪れたが、それは外から見てだけのことで、当人同士はふたりの生活は平和そのものだった。


そして琵琶家の家族となってもそれは守られる。


心の安定は保たれ、生活環境が一変する程度のことでしかない。


この場ですべてを調査して、瓶はこの場で作った箱に厳重に収めて戦車に乗せた。


昼時になったので、家の前で昼餉の席を設けた。


この食事会は、まるで於継と耕造の祝言のようだった。



琵琶御殿に戻ると、女官たちは大いに於継の面倒を見始め、早速風呂に連れて行った。


上杉家のお宝は、御殿の地下にある貯蔵庫に運ばれた。


このような隠し部屋が全ての御殿にあるので、かなり安心して過ごせるのだ。


「金も眠らせてしまうのですか?」と耕造が聞くと、「この程度のカネ、この後に働けばすぐに手にできるさ」と幻影は気さくに言った。


まさに有言実行で、琵琶一族は大いに働き、全員で今日の儲けの大金を囲んだ。


まさに幻影の言葉通りだったことで、耕造はあきれ返っていた。


「城に寄付して、理由のない口止めの材料にしておくんだ。

 もちろん於継様と耕造さんのことを話すつもりはないから。

 後ろめたさを抱かせておくことで、

 自然に仲間に引き込む手だよ。

 良心的で、それほど悪いことでもないから、

 俺たちに罪悪感が沸くことはそれほどない」


「…は、はい… その通りだと感じました…」と耕造は言って丁寧に礼を言った。


「夕餉じゃ夕餉!」と信長は大いに陽気に叫んで、耕造を手下のように従わせた。


翌日は、廿楽の地の農夫探しをして、十名を正式に雇って新築した家を与えた。


元あった家は幻影たちが手入れをして、於継と耕造の帰る実家とした。


そしてさらに農地を広げて、調味材料の畑とした。


やはり唐黍とうきびは買うよりも育てた方が商品を安く売れることもあり、貴重品ともいえる砂糖の自給自足もすることになった。


今回、商品にしたものはほとんどこの農地から収穫したもので賄った。


まさに出来が良く、法源院屋の店主のホホも緩んでいた。


するとぽつりぽつりと、売り物にならない作物を売りに来る庄屋たちが現れ始め、それ相応の金額で買い取った。


わざわざ琵琶御殿までやってきた駄賃として、うまい菓子や保存食を必ず分けてやる。


これはちょっとした餌付けのようなものだし、売りに来る者たちを増やす手でもある。


琵琶一族はしばらくはここに留まることに決めたので、面倒なことは何もない。


しかし幻影たちは少人数で戦車を操って、日ごとに安土、松山、生実、関の地を飛び回るので、全ての地に定期的に戻るような生活になって行った。


しかも五カ所の町で、ほぼ均等に同じものを売り始めたことで飽きが来なくなるし、ひとつのものを何度も買いに来る者も現れる。


しかし基本は、子供たちが笑みになればそれでいいので、幻影としては大人が銭を使う分には何の感慨も浮かばない。


時には妙栄尼が子供たちに簡単な仕事を与えて、それに見合う駄賃を渡しているので、子供たちの笑みが消えることはない。



もちろん流派の修行も続けてはいるものの、影達の成長は日進月歩だ。


だが成長はしているので、幻影は何も言わないが、影達自身が大いに落ち込む。


性格上、小手先の器用さを強要される忍びの修行が大の不得意だ。


その点、馬術と弓に関してはどこぞかの流派であれば確実に免許皆伝の腕前だ。


そんな中、大いに成長を遂げた柳生宗矩がついに師範代の称号を得たことで、焦りは最高潮となっていた。


こういった者はまず下を見ることはない。


下の方はさらに悲惨で、「そろそろ別の流派に移るかい?」と穏やかに幻影が言う。


それを見ていないだけ、影達の成長が止まることはなかった。


その影達の目の上の瘤が、入門したばかりの千葉重胤だ。


馬術と弓はさることながら、忍びの技にも大いに切れがある。


まさに師範代となった重胤だが、それほどうれしそうではない。


できればずっと琵琶家に同行したいのだが、そうも言っていられない事態もあるやもしれぬとどうしても考えてしまうのだ。


免許皆伝者に藩主がひとり、徳川を背負った若者がひとりいることで、強制ではなくてもこの琵琶家を離れるような何かがあるやもしれぬと、この件だけを大いに杞憂に思っているのだ。


この少々落ち込んでいるふたりが、仲が良くなることにそれほどの時間はかからなかった。



「悪いんだけどこれ、考えておいてもらえないかな?」と今日の幻影は秀忠に対してやけに低姿勢だ。


秀忠は大いに疑いながらも異様に厚みのある冊子を手に取りながら幻影を見入っている。


秀忠は表紙を見て大いに目を見開き、冊子の内容を食い入るように見入った。


「…上田城跡に琵琶御殿を建てるのはかなり考えたけど許可するよ…」と秀忠は、『パタン』と音を立てて冊子を閉じて、「まさか琵琶家だけでやっちゃうの?」と秀忠が大いに眉を下げて聞いた。


「直接の工事はその通り。

 その方が夏が終わる前に出来上がるはずだ」


幻影は自信を持って言った。


もちろん土地の所有権などがあるので、測量と検地などは幕府側の仕事となるので、今すぐに作業に取りかかれるわけではない。


「交通の不便さはよくわかっていたんだ…

 ありがとう…」


秀忠は礼を言って頭を下げた。


幻影はこの北関東一帯を広い街道で繋げることを提案した。


この前橋を中心にして、上田、新発田、関、会津、米沢、水戸、仙台、さらにはそこから江戸までつなげる大工事となる。


この街道に関わる藩は決して懐が切迫しているわけではないが、余計な銭を使うわけにはいかない。


かといって普請工事にしてしまうと、わずかであっても様々な藩に負担がかかってくる。


秀忠としてはこの街道整備も頭痛の種となっていたのだが、幻影の提案に乗ることで全てが一掃されると自信を持った。


秀忠は幻影に机を借りて、諸藩に対してお触れを出し、測量の件と対象の藩に琵琶一族が現れた時は邪魔をするなという警告文を書いた。


もちろん工事内容もすべて書いてあるので、関係がある藩とない藩とでは明暗が分かれることになる。


だが、水戸と仙台、さらには江戸が関係する工事なので、苦情を言うわけにもいかないはずだ。


「二度天下を取った気分だ!」と秀忠はすべてを書き終えて、側用人を連れて飛脚屋に行った。


「多少は字がうまくなったぞ」と幻影はお静を見てにやりと笑うと、「それはようございました」とお静は薄笑みを浮かべて答えただけだ。


「あれだけ書かされてうまくならない方がおかしい」と信長はにやりと笑って言った。


「あいつは背中を押さないと何もできないのが欠点です。

 もっとも、この日ノ本に、

 あいつに意見できる者がほとんどいないことも不幸のひとつなんですけどね」


「いつ見ても頼りなさそうなのに、そうでもないわけね?」と珍しく濃姫が話に口を挟んできた。


「ええ…

 ヤツは放っておくと、厳しい俺と同じで残忍ですから。

 ですがそれでこそ征夷大将軍であるといえるわけですから。

 ですがその残忍さも、

 ヤツが好んで出しているわけではないのです。

 それはひとえに、頼りになる者がいないので、

 苦汁を飲んだ選択なのです。

 我が琵琶家がいなくても、あいつだけの力で平和はつかめるでしょうが、

 あいつの寿命がそれを許しませんから。

 我らがいることで、できれば家光までは大いに手伝ってやろうという、

 御屋形様のお考えでもあるのです」


「あら? この人はひと言もそんなことを言ってないわよ?」と濃姫は信長をにらみつけて聞いた。


「常に確認する必要などないのです。

 私の提案に御屋形様が賛成してくださったことで、

 私の考えと同じといっても過言ではないからです」


信長は何も言わずに笑みを浮かべているだけだ。


しかし濃姫を見てにやりと笑った。


「…できのいい家老を持ったものだわ…」と濃姫は穏やかに言って、頭を下げた。


「私の親族として、もっと頑張ってもらいたいところだったけど…」と濃姫は言って光秀を見た。


「幻影殿おひとりに任せられないこともございますれば」と光秀が答えると、「我ら三人が、影の征夷大将軍じゃ」と信長は機嫌よく言った。


「…政治の話には首を突っ込まないでおくわ…」と濃姫は言って笑みを浮かべて紫せんべいをはみ始めた。



秀忠はそれなりの数の測量士と交渉役を任命して、まずは前橋から上田に続く街道の目算が立った。


この時点で琵琶一家は厳しい街道づくりの旅に出ることになったが、誰もが鼻歌交じりで作業に従事する。


まさに力自慢ばかりなので、有り余った力を大いに発散できることにもなる。


さらには排水用の側溝づくりのほとんどは女官たちに託した。


そのための準備もすべて終えていたので、全てにおいて素早い対応が可能だ。


わずか一日で厩橋城から信濃小諸までの街道が完成して、視察に来ていた秀忠は有頂天になった。


しかしこのままでは測量、検地が大いに遅れるが、上田につけば少々時間がかかることはわかっている。


最低でも琵琶御殿を建てるのに三日はかかるからだ。


さらには上田に住む者たちも、琵琶御殿の完成を大いに楽しみにしていた。


生実や前橋の恩恵に授かれると思い疑ってもいないからだ。


しかし、完成予想図を見て誰もがうなだれた。


ここに町ができるのではなく、ほぼ御殿だけだったからだ。


しかし法源院屋の出張所と麺屋はできるようなので、それだけでも大いに期待した。


一日雨を挟んで十分に休養した後、琵琶家一同は上田の地に足を踏み入れ、まずは会津に続く街道の基礎工事を行いつつ、琵琶御殿などの基礎工事も始まった。


幻影は崩れ落ちている上田城の残骸の解体工事を行い始めた。


これも、今回の予定のひとつでもあったからだ。


しかし思い出に浸る暇はそれほど与えられないこととなった。


現在の上田藩藩主の仙石忠政がやってきたのだ。


ますは琵琶頭首の信長と穏やかに話し合い、幻影とも挨拶を交わした。


「ここに上田城があるべきだと思っておる」


忠政の言葉に、「ありがとうございます」と幻影は真田の一員として礼を言った。


そして幻影の正体を明かした。


もちろん真田幻影と名乗っただけだ。


「赤い疾風は幻影殿であったか…」と忠政はうなだれながら言った。


「はい、お師様のお手伝いに出向いておりました」


「…そちらに行くべきだった…」と忠政は言ってうなだれた。


忠政は目の前に迫る敵を誰よりも多く打ち、徳川家からの多大なる褒美を受けていたほどの猛将だった。


「この城には難儀した…」と解体が続く上田城を見上げて感慨深げに言った。


「もしも上田城を再建するのであれば、我が手で作り上げたいですね」


幻影の言葉に、「ああ、お任せしたい」と忠政は言って頭を下げた。


信長は忠政を歓迎して、昼餉の会が始まった。


「これほどにうまい店がここにできるのか?!」と忠政は大いに喜びながら様々な料理を大いに堪能した。


「この地にも管理人が必要ですが、

 あ、来てしまった…」


幻影が大いに嘆くと、佐田与助が姿を見せた。


「…まだ生きてたんだね…」と幻影が眉を下げて言うと、「死んでたまりますか!」と与助は叫んで大いに笑った。


「ここに琵琶御殿を建てるから、管理人になってもらいたいんだよ」


間髪入れずに、「御意」と与助は恭しく頭を下げた。


「強制じゃないけど、仙石様のお力にもなってもらいたい」


幻影の言葉に、忠政は目を見開いた。


どう考えてもかなり威厳があり優秀な忍びを幻影に紹介されて驚かない者はいない。


「はっ 承りました」と与助は心の底から喜んで言った。


「話をさらに進めることといたしましょう。

 琵琶御殿はそのまま残るように上田城を建てる算段のようですな」


忠政の言葉に、「ええ、忍びたちの休憩場所としてでも使ってもらいます」と幻影は笑みを浮かべて答えた。


琵琶御殿は城の敷地の外にあるのでほとんど問題はない。



昼餉のあとは忠政の許可を得て、庄屋たちを回って、様々な食材を手に入れて加工処理を行い、半分ほどは法源院屋に卸した。


残った半分のその半分を忠政に献上すると大いに喜び、上田城再建の筆の運びも早くなった。


残ったものは庄屋の家々を巡って配って回った。


もうすでに幻影の正体は明かしていたので、幻影を、『殿』と呼ぶようになっていた。


この上田の農家は忠政によって大いに優遇されていた。


まさに士農工商そのままの位置付けだと幻影は感じていたのだ。


よってどの農家も温厚でもあったので、この地にも唐黍栽培などを願い出た。


もちろん、琵琶家専用の農地としてだ。


これだけでもこの上田の地は安泰となるのだ。



翌朝には与助の手のものの忍びたちも上田に集結して、御殿建設と上田城解体の手伝いを大いに行って、御殿は明日にでも完成できる算段となった。


幻影は与助に、庄屋との橋渡しを頼んだ。


もちろんふたつ返事で与助は快く引き受けた。


「この上田は、今まで以上に栄えますなぁー…」と与助は感慨深く言って、土台だけになった石垣を見つめた。


「叔父ちゃんが大いに怒りそうだけど、まあいい…」と幻影は言って大いに眉を下げた。


ここが終われば、その叔父ちゃんが統治している松代に行くことになる。


翌日に琵琶御殿を完成させて、一日休養を入れたあと、松代に向かって街道工事を再開した。


上田と松代の中間点で、数羽の鳩がやってきた。


前橋、生実、関にいる忍びからの連絡だ。


全て同じ内容の報告を確認してから幻影が、「品薄になったそうです」と信長に伝えると、「一度前橋に戻る」と言い渡した。


ここからは三日間ほどは加工と修行の日々が続き、一日休養してから街道工事を再開した。



ようやく松代に辿りつき、待ち構えていた真田信之と挨拶を交わした。


その後ろには控え目に小野於通が立っていた。


「悪さ、していませんか?」と幻影が於通を見て言うと、「いや、何も」と信之は笑みを浮かべて振り返って於通を見た。


「上田城の話は聞いたが、住めば都、だなぁー…」と古い歴史ある松代の城下を見渡して言った。


この信之の言葉と想いに偽りはないと幻影は感じた。



松代を出て三日後に大陸との狭間の大灘と言っていいのか内海といえばいいのか大海に出て、越後高田藩に入り、ここから北上して新発田藩に入った。


そのまま雪崩込むようにして琵琶一族は関にたどり着き、御殿で貪るようにして睡眠をとり、十分な休息をとった。


松代を出てから十五日が経っていて、誰もが今までの作業で一番きつかったと感じたようだ。


二日ほど休んでから、街道の確認を兼ねて戦車で走って米沢に行き、ようやく全行程の三分の一を終えた。


当初の予定通り、夏が終わるまでには江戸に帰り着くことができそうだった。



この三日後に会津に辿りついた。


しばし休息した後、琵琶一家は会津城下の街道工事を再開した。


「温泉地でもありますからね。

 ここは土産として、新たな温泉でも掘り当てますか」


幻影の言葉に、巖剛が体を揺らして一番に喜んでいる。


「場所によっては、琵琶御殿も構えようと思っているのです。

 さらに休養の地が必要ですのでね」


幻影の言葉に、信長は笑みを浮かべて何度もうなづいた。


まずは城下の主な街道工事を終わらせて、家族総出で城下に近い猪苗代湖に向かって歩き出した途端に巖剛が陽気に体を揺らし始めた。


そして慌てるように走っていって、地面を掘り始めた。


「空き地で助かったぁー…」と幻影は言いながらも、巖剛を手伝って、なかなかいい湯加減の温泉がわき出した。


巖剛は子熊とともにそのまま湯に浸って、幸せそうな顔をした。


幻影は若松城に行き会津藩主である蒲生忠郷と謁見して事情を説明すると、忠郷はすぐさま検地を指示して、大まかな区画整理を行った。


幻影が必要になるものすべてを書き記して忠郷に提出した。


「武者諸法度はほんに面倒じゃ」と信長は言いながらも、温泉水で濡らした手拭いで顔の汗を拭いている。


「この件だけは、さすがに特別扱いはしたくないので。

 面倒ではありますが、

 武家を縛り付けるいい制度には違いありませんから。

 書類が出来上がったら、江戸城に行ってきます。

 今回は少し長めの逗留でもいいでしょう」


「ああ、そうしよう」と信長は笑みを浮かべて言ってから、猪苗代湖を見つめ、磐梯山を見上げた。



翌日、幻影は影達だけを連れて二人乗りの空飛ぶ大八車に乗って空を飛んで江戸城に到着した。


今回は大門の前に降りて、門に向かって、「たのもぉ―――っ!!」と叫ぶと、影達は腹を抱えて笑った。


「どうか、早々に入って下され…」と顔見知りの門番が眉を下げて言って大門が開いた。


いつもは門をくぐって城に入ることはないので、まさに珍しいことでもあった。


幻影はすぐさま秀忠、家光と謁見して、側には信幻を座らせた。


本題の件は難なく承諾され、「…会津に行く楽しみができた…」と秀忠は機嫌よく言った。


「悪いな、今回は二人乗りできたから連れて行けない」と幻影が言うと、秀忠は大いにうなだれた。


そして秀忠は廊下に出て庭を見下ろして、「…ほんとだぁー…」と言ってうなだれた。


「そんな詰まらん嘘をつくわけないだろ…」と幻影は眉を下げて言った。


「乗れる余地がないかなぁー… とか…」


「お前ひとりならんとでもなるが、それはさすがにできんからな」と幻影は答えて側用人たちを見た。


「大御所様はお遊びが過ぎまする」と側用人は幻影に言いつけて頭を下げた。


「ま、上田の礼もあるし、近々迎えに来る。

 会津に御殿が建ったら、

 しばし休養することに決まったから」


「三日後じゃな?!」と秀忠は勢い勇んで聞いてきたので、「…鳩を飛ばすから…」と幻影は眉を下げて答えた。


「だが、新型戦車は乗り込んだ者は全員、動力源になってもらうからな。

 力が足りないと落ちるぞ」


幻影の言葉に、「…うー…」と秀忠は大いにうなった。


「…見分を広げるためにもぉー…」と家光は懇願の目を信幻に向けた。


「悪いが同時には無理だから交代制だ。

 それほど大勢は乗せられないという理由」


幻影に断わりの理由まで告げられたので、家忠も家光も反論の言葉も出なかった。


ここは親子で穏やかに話し合って、まずは秀忠が会津に行き、その二日後に返す刀で家光を連れて行くことに決まった。


「お忍びか公用か決めておいてくれよ。

 藩主の蒲生忠郷様にも伝える必要があるからな」


幻影の言葉に、秀忠は少し笑ったように見えた。


「…お忍び…」と秀忠が恐る恐る側用人たちに顔を向けながら言うと、側用人たち五人はそろって首を横に振った。


「岩代福島藩と二本松藩あたりから警護を出してもらえばいい。

 どちらにも頼めば、ほぼ問題はないと思うけど?」


「兵数を決めて要請いたします」と側用人が幻影に向けて答えると、「…俺への報告はいらないから…」と幻影は大いに眉を下げて言った。


「…だけど、宿舎は用意するよ…」と幻影は大いに眉を下げて言った。


「琵琶家を頼ることも含めて、双方合わせて千でお願い申す」


「わかった」と幻影は答えてから用は終わったとして立ち上がった。


「じゃあ、またな」と幻影は気さくに言って、影達と肩を組んで、天守から飛び降りた。


すると一瞬にして小型人力飛行機が浮き上がってきた。


飛行機はその場で旋回してから、北西に向けて飛んで行った。


「…すごいけど、誰にも動かせないんだよね?」と秀忠が飛んでいく大八車を見ながら側用人に聞くと、「どれほどの力自慢でも無理でございました」と側用人は言って頭を下げた。


「その者たちって、萬幻武流に誘われてないんだよね?」


「信幻様のご判断で、否とご返答がございました」


「…はぁー…」と秀忠は大きなため息をついた。


「今参られた松平影達殿を召し抱えられればよろしいのですが…」


側用人の言葉に、「…しまった… 忘れてたぁー…」と秀忠は言って大いに頭を抱え込んだ。


「恐れながら、師範代にならない限り、

 仕官させないという決まりが萬幻武流にはございます」


信幻の言葉に、「…そうだったね…」と秀忠は答えて、大いにうなだれた。


「信幻はどうするのさ?」


「我らは家光様とともに」と幻影が言って家光を見ると、笑みを浮かべてうなづいた。


「…半分、分けて欲しい…」と秀忠は言ってうなだれた。


そうなる存在が影達しかいないので、秀忠としては歯がゆいばかりだ。


「ですが総合的に見て、

 千葉重胤殿は、師範代に近いと思っております」


重胤はすでに師範代になっているのだが、公表されていないので、信幻の見た目で言ったまでだ。


「おう! 下総の千葉家かっ?!」と秀忠は珍しく声を張って叫んだ。


「ご存じの通り、

 何度か同行を許したご子息も我が門下生の一員となりました。

 この先の千葉家は、大いに頼もしいと感じます」


「…会津に行ったら交渉するぅー…」と秀忠は大いに野望をもってうなった。


しかし、「…あ… 幻影に叱られない?」と秀忠が大いに眉を下げて信幻に聞くと、「千葉様ご本人の気持ちひとつです」と信幻は萬幻武流の教え通り答えた。


「…断られませんように…」と秀忠は手のひらを合わせて仏に祈った。



幻影たちは三日間で琵琶御殿と温泉の湯治場としての広大な宿泊施設を作り上げ、その翌日の朝餉の後に江戸城に向けて鳩を放った。


書簡には明日に迎えに行くとだけある。


猪苗代湖畔の温泉の湯量はかなり多く、大きな湯殿をいくつも造り上げた。


この近隣からの物見遊山の者たちが多く現れるはずだ。


秀忠と家光の湯治が終わってから、法源院屋経由で公表することに決めていた。


幻影たちは気分転換に若松城に行き、まだ若い藩主の蒲生忠郷を連れ出した。


そして庄屋などから安い作物を買い取って、菓子などに加工して法源院屋に卸した途端に、子供たちの素晴らしい笑みを見ることができて、大いに心が癒された。


その礼に、城下町からわずかに離れている、琵琶御殿の近くの今回の工事区画の一部に子供たちの遊び場を作り上げた。


まさに小さな忍びを育成するような施設だが、もちろん安全なものだ。


「…こういうものも作っておったか…」と忠郷は言って、この広場内の長い腰掛に座って、大いに遊び始めた子供たちを見て薄笑みを浮かべた。


琵琶家の子供たちも陽気になって、現地の子供たちと友人になって大いに遊び始めた。


「…全員、忍び修行を…」と忠郷が言って幻影を見上げると、「もちろん萬幻武流の門下生たちですから」とさも当然のように答えた。


忠郷は首を横に振りながら、「…誰もが強いはずじゃ…」とつぶやいた。


そしてまた子供たちを見入って、「…本職もおるではないか…」と忠郷は大いに嘆いた。


「最近、私の子にした真田草太です」と幻影が笑みを浮かべて答えると、忠郷は目の色を変えて立ち上がって、草太めがけて走って行った。


そして肩を落として戻ってきた。


どうやら養子にでもしたかったようだ。


「母が我が家族ですからね」と幻影が補足説明をすると、「…はっきりと笑みで断られるはずじゃ…」と忠郷はうなだれた。


「その母は、今は安土の御殿に住まわせて、

 家主をしてもらっています。

 あの大久保忠親様のご息女です」


「…ほう、そうかい…」とついに忠郷の機嫌が悪くなってきた。


一連の事情は秀忠からの書簡で知っていたが、ここまでは知らされていない。



幻影は、藤十郎の隣にいてやけに陽気な長春を見た。


今は、初夏の小花火大会をやると言って、藤十郎を困らせていた。


「花火の作り置きがないし、ここは湿度が高すぎるから造れないぞ!」と幻影が叫ぶと、長春は大いにうなだれた。


長春は藤十郎を引っ張ってやってきて、「…関に行って作ってきてぇー…」と大いに懇願された。


関であればまだ涼しいし、湿度も高くないので、作業をするにはいい環境だ。


「だったら仙台でもいいぞ。

 あそこにはでかい花火をまた打ち上げてやりたいからな」


「…今は小さいのだけでいいぃー…」と長春はわがままぶりを発揮した。


「明日からは秀忠のせいで忙しい。

 少しは我慢しろ」


信長の言葉に、長春はみるみるホホを膨らませた。


「いえ、一度安土に戻って材料を取りに行くついでに姫の様子を見てきます。

 小さいものなら数が多くてもいくらでも作れますので」


幻影は眉を下げて言うと、「…すまんな…」と信長も眉を下げて幻影に詫びた。



幻影は家族の中にいる花火職人役の数名を飛行戦艦に乗せて安土に飛んだ。


すると様子を見に来た幻影の目当ての姫は、井戸端会議中で愉快そうに笑っていた。


そして地上にいる一同は空を見上げてすぐに拝み始めた。


戦艦は工房の敷地内の広場に降り立つと、大久保将代は走ってやってきた。


「仲良く暮らしているようで何よりだ」と幻影が言うと、「ご機嫌よろしゅう」とだけ言って頭を下げた。


幻影たちが工房に入ると、目的が将代ではなかったことを知って少しうなだれた。


幻影は外に出て、戦艦の格納庫を開けて材料などを運び入れた。


「今日は急いでいるから、また来る!」と幻影が叫ぶと、戦艦は大空に浮かんだ。


「…相変わらずお忙しいが、必ずここに戻ってこられる…」と将代の世話たちは笑みを浮かべてつぶやいた。


「なにをしに来られたのだっ!」と街道の馬上から井伊直勝が叫んだ。


「資材を取りに来られただけのようです」と世話係のひとりが答えた。


「…またとんでもないものをお造りになられたもんだ…」と直勝はつぶやいて、ほとんど見えなくなった空飛ぶ戦艦を見上げた。



幻影たちはまだかなり涼しい関の工房で、様々な花火を大量に作り上げて、子供たちの笑みを思い浮かべながら会津に戻った。


まだ辺りは明るいが、子供たちの広場で仕打ちをして、問題がないことを確認した。


「夜になったらここで花火大会やるよぉー!!」と長春が陽気に叫ぶと、子供たちは大いに喜んで長春に礼を言った。


「…機嫌が直ってよかった…」と信長は大いに眉を下げて言った。


「できることがわかっているので。

 なかなか人使いの荒いお方です…」


幻影の言葉に、「…怠けるな、か…」と信長はため息交じりに言った。


「母ちゃんは元気そうだったぞ」と幻影が草太に言うと、「よかったです!」と草太は満面の笑みを幻影に向けた。


「もし寂しそうだったら、

 草太を届けてやってもよかったが、

 それが全くなかった。

 なかなか薄情な母だ」


「いえ、母上らしいので、本当によかったです!」と草太が笑みを浮かべて答えると、長春が草太を隠すようにして抱きしめた。


「正式には俺の子だ」と幻影が言うと、「…お爺様が弱いのが悪いぃー…」と長春は信長をにらみつけた。


「…本人の意思を尊重…」と信長は大いに眉を下げながら言うと、長春も大いに眉を下げていた。


「もう俺の養子にしたんだ。

 この先の草太の人生は草太が決める。

 俺たちは間違えない道をきちんと歩めるように育て上げるだけだ」


「免許皆伝になるまで、ご一緒させてください!」と草太はさらに心を決めて幻影に向けて言霊を放った。


「ああ、それで全然かまわないさ」と幻影は言って、草太の頭をなでた。


「長春様、申し訳ございません」と蘭丸は言って、阿利渚と草太を抱き上げた。


まさに雄々しき母に、子供たちは大いに陽気になっていた。


「俺は師匠役で、お蘭は父と母の役」と幻影が言うと、信長は愉快そうに笑ってから、「夕餉じゃ!」と叫んで琵琶御殿に向かって歩いて行った。



翌日、幻影たちは江戸城に戦艦を飛ばして、秀忠と側用人たちを乗せ、二本松と福島の上空をゆっくりと経由してから会津に戻った。


しばらくしてから砂煙を上げて武者装束の者たちがやってきた。


まさに取り決め通り、福島と二本松を合わせて千名の猛者たちだ。


どちらも藩主の旗本のようで、『この日を待っていた!』とばかり気合が入っていた。


そして数十名が源弁慶にその視線を向けていた。


二回連続の日ノ本一の猛者を知らない武士はどこにもいないだろう。


そして、試合の試験官役の幻武丸を担いでいる蘭丸に大いに怯えていた。


『我らはいらないのでは?!』と千名の半数ほどは同じ気持ちになっていた。


しかし、幕府のお達しなので、逆らうわけにはいかないし、大御所としては警備は必要ないという想いは一致しているのだが、幕府側の催しという意味もあり、付き合わないわけにはいかないのだ。


さらには、秀忠と蒲生忠郷は仲が悪いという噂だが、どちらも笑みを浮かべて語らっているので、『噂話はあてにならない』と誰もが大いに感じていた。


もちろん、そういう理由もあって、秀忠は警護を要請したと書簡にも記されていた。


よって秀忠の会津訪問は、日ノ本中の注目の的となっていた。


しかしそこには、もうひとつの秀忠の思惑もあった。



すると藤堂高虎が五十のきらびやかな騎馬隊を引き連れてやってきた。


「よう、来たな」と幻影が気さくに言うと、「知らせてくれて感謝する」と言って下馬してから、秀忠に挨拶をした。


高虎は伊勢にいたのだが、幕府が雇った警備の監視役を高虎に頼んだのだ。


そして同じく五十の騎馬隊を引き連れた加藤嘉明は、こちらは江戸からやってきた。


琵琶家とは切っても切れない間柄の藩主たちなので、この場にいても違和感はない。


さらには嘉明は信幻の後見人でもあるので、しばらくはこの会津に逗留することになる。


「…むむ、嘉明…」と高虎は顔を歪めてうなった。


「秀忠の次は家光だ…

 信幻も同行するからという理由…」


幻影のため息交じりに言葉に、「…それはやむなし…」と高虎は少し悔しそうに言った。


「おまえの子の元服の後継人」と高虎がぶっきら棒に聞くと、「まあ、可能性があるのは次は英才、かなぁー…」と幻影が言うと、高虎はすぐさま顔見知りでもある英才がいる子供たちに寄り添った。


「むむ! 幻影殿、ほかにはおられぬか?!」と嘉明が勢い勇んで聞くと、「それほどいると我らが大変ですから…」と幻影は大いに眉を下げて言った。


「なんとあの千葉家の正統後継者なのか?!」と高虎が叫ぶと、嘉明はすぐさま高虎の仲間に加わった。


秀忠はその千葉重胤と接触しようとしたが、「まずは落ち着くぞ」と幻影に言われて、「…よきにはからえぇー…」と小声で言った。



ここからは警備の者が琵琶御殿を囲んだ。


全員ではなく半数は休息の時として、宿舎で寛ぎ始めた。


温泉宿そのものなので、普段の疲れを癒すには最適な場所でもあった。


秀忠も温泉を大いに楽しんでから、うまい昼餉に満足げにうなづいている。


「…だけど、堅苦し過ぎない?」と秀忠は大いに眉を下げて言った。


秀忠の回りには側用人たちだけがいて、かなり離れた場所に信長たちがほぼ宴会をしている。


「公務だ」という幻影の言葉に、真っ先に側用人たちはうなづいた。


「だったらそこで宴会しないで!」と秀忠が叫んだが、「ここは琵琶の家で、俺たちは警護官ではない」と幻影がにやりと笑って言うと、「…反論、できないぃー…」と秀忠は言ってうなだれた。


「こちらにいてくださるだけで心強く思います」と側用人が言うと、「…それはそうだけどぉー…」と秀忠は大いに眉を下げて言った。



琵琶一家は食事を終えて、今後の予定を話し始めた。


発言はほとんどが長春で、まさに子供でしかないが、才英たち子供が長春の心強い味方なので、幻影たちは従わざるをえなかった。


まずは工房で長春お気に入りの菓子を作り始めて、半分は法源院屋に卸した。


すでに品薄状態なので、多くの納品があると見せつけると、誰もが法源院屋に立ち寄るのだ。


長春は満足げな笑みを浮かべて、子供たちの広場に行って、動物の芸を見せつけながらも少量の菓子を配る。


「動物たちの芸を見てくれるお礼だよ!」という長春の言葉に、子供たちは誰もが甘えて菓子をもらう。


「…大人から見れば逆だよね…」と秀忠は大いに眉を下げて言った。


「それが琵琶家の使命のようなものさ」と幻影は穏やかに言った。


「決して、大人になって同じことをやれとは言っていない。

 できれば、同じようなことを広めてもらいたいという願いを込めているんだよ。

 だからその予定を踏みにじられると猛然と機嫌が悪くなって怒るんだ。

 この先、大いに覚悟しておいた方がいいぞ。

 襲うことはないが、長春と一緒になって巖剛もにらむからな」


「…うう… 十分に気をつけるぅー…」と秀忠は大いに眉を下げてつぶやいた。


秀忠は側用人と護衛を連れて若松城に登城した。


「…何かを企んでいるようなんですよねぇー…

 嘉明様にこの会津を見守らせたいような…

 ご本人にもう打診はあったようですし…」


「あの影すら薄い姿… 長くはないような気がするな…」と信長は眉を下げて言った。


もちろん、この会津藩の藩主の蒲生忠郷の話だ。


「…侍独自の病ですか…」と幻影は言って大いに苦笑いを浮かべた。


「家臣たちが手をかけすぎじゃ。

 おちおち眠ってもおられんのではないのか?

 そんなやつにこの重要な地の藩主を任せられんのじゃろうて」


感情の起伏が激しい原因もその辺りにあるのだろうと幻影は思って同情した。


幻影は何度もうなづいて、「でしたら高虎でもいいような気がするのですが…」と幻影がつぶやくように言うと、「ここには海がない」と信長が答えると、幻影は大いに笑った。


「しかも蒲生には世継がおらぬ。

 このままではお取りつぶしも覚悟しておく必要があろう。

 そういったもろもろの話し合いじゃろうて。

 意地になってしまうと、何もいいことはないはずじゃ。

 上に立つ者がそれでは大いに問題があるだろう」


「…定めを見守るのも、少々辛いものがありますね…」


よって幻影は、忠郷の治療をはなっからするつもりは毛頭ない。


無謀でしかない者に共感ができないからだ。


「…秀忠の言葉が届くことだけを祈っておきますか…」


幻影の言葉に、信長は同意するようにうなづいた。



秀忠は早々に若松城を出て、琵琶家の工房までやってきた。


お目当ての千葉重胤は現在甘味材料の皮むき作業中だ。


まさに手際よく、調理人でしかない手さばきだ。


ここは秀忠が行くのではなく、側用人が重胤に話しかけた。


作業をしたままでいいのならと言って、側用人を驚かせた。


失礼な奴などということではなく、今の早さで皮をむきながら話をできるのかと、驚かされてしまったのだ。


「大御所様がたいそうそなたに興味をお持ちだ。

 できれば旗本にでもとおっしゃっている。

 我ら側用人も、それぞれの流派の免許皆伝者ではあるものの、

 萬幻武流の厳しさは群を抜いておる。

 もちろん、免許皆伝者の徳川信幻様とはお手合わせを願って赤子扱いじゃった。

 まさに情けない話なのじゃが、

 できれば旗本となり、最終的には側用人となっていただきたいのじゃ」


「お断わり申す」と重胤はひとことで結論を出した。


側用人は気分を害することなく、「できればその理由をお聞かせ願いたい」と聞くと、「側用人職は我が萬幻武流の教えに反する役職であるからだ」と重胤は全く動じることなく答えた。


この回答は、信幻と全く同じものだった。


「では、信幻様と同じく、旗本となりて、

 日中だけでも護衛の職を務めていただきたい」


「お断わり申す」と重胤はまたすぐさま答えて、「理由は信幻様の立場と私の立場の違いだけだ」と堂々と答えた。


「…それは… もし同じ徳川であれば、お守りする義務があると言われるか?」


「その通り。

 信幻様は己の運命に従ったのみ。

 じゃが、ワシにはその運命はまだ見えぬ。

 見えぬが、お守りしたい方はおる」


「…琵琶信影様ということでよいのか?」


「いかにも」と重胤はすぐさま答えた。


「我がお師様の主人を守りたいと思うのは、

 琵琶一族であれば誰もが心をひとつにしておる。

 さらには、できれば武士としては生きて行きたくはない。

 できることであれば、今のようにすべての仕事を請け負ってみたい。

 まずは父として胸を張って生きて行きたいからじゃ」


側用人は決意は固いと思い、重胤に礼を言って踵を返した。


「玉砕いたしました」と側用人はまず結果を言ってから、詳しい内容を秀忠に話した。


「…琵琶家の誰もが、同じことを言いよるだろうなぁー…」と秀忠はうなだれた。


「では、松平影達はどうされますか?

 ある意味、信幻様と同じ立場にあると思いますが…」


「…聞くだけ聞いてきて?」と秀忠は大いに眉を下げて言った。



影達は菓子作りの基本になる、水あめなどの調合を受け持っていた。


重胤とは違い、動きが少し遅いように側用人は感じたが、ここは重胤と同じ質問をぶつけてみた。


やはり何もかもが同じで、最後の松平を背負うものでは、「姓を替えたいほどでござる」とまで言われてしまった。


さらには、師範代すらまだかなり怪しいと言われてしまうと、先に続ける言葉が出なかった。


「失礼なことかもしれぬが、千葉重胤殿は師範代になられたのか?」と側用人が聞くと、影達は、「お答えできませぬ」と何の感情の変化もなく答えられてしまった。


やはり流派内のことについては公言厳禁であることはよく理解できた。


側用人は礼を言って、また全てを秀忠に話した。


「…それ、少々まずいなぁー…

 信幻の気持ちが変わるかもしれない…」


「…元服はされたが、大人か子供かと問えば、

 まだ子供だから…」


側用人の言葉に、秀忠は眉を下げてうなづいた。


「きっと、我が家光を認めた時、

 信幻は家光から離れるやもしれぬ…

 いや、それは必要なことやもしれぬ…

 ほかの旗本の立場もあろうから…

 信幻も、流派の教えを忠実に守り、

 側用人にはならぬと答えておるからなぁー…」


「…どのような理由があろうとも、犠牲になってはならない…

 …主従関係としては、今の武家社会からはかけ離れておる考え方…

 だからこそ、琵琶家の面々は強いのではないかとも考えてしまいます…」


「…今のある程度平和になった時代…

 …追い腹はならぬとふれまわるか…

 …やはり、家族を一番に考えてもらった方がよさそうじゃ…

 できれば生きて、困っている人々の手助けを、

 ひとりでも多くやってもらいたいものじゃ…」


秀忠の言葉は側用人には十分に届いた。


その理由は簡単で、側用人たちは幻影の弟子のようなものだからだ。


「…どっちにしても、我の護衛役は、琵琶家から出ぬことはよくわかったよ…」


秀忠は言って大いにうなだれた。


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