5話
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「朝音様をお慕いしているからです」
曜の言葉が、朝音の闇を照らした。朝音は曜に向き直ると、震える声で問いかけた。
「こんな、私の、どこを?」
決然とした曜は、歯切れよく述べる。
「頭脳明晰なところ、気難しい性格や、凛々しい顔、天邪鬼な態度──」
朝音は眼鏡の下で顔を覆う。冷たい両手が目頭の熱を吸い取った。ぼんやりと赤く染まった視界に、曜の言葉が響く。
「冷静で豪快な生き様も、孤独でいたがるところも、同族嫌悪なところだって」
曜の言葉を拒むように朝音は両耳を塞ぐ。自分で聞いておきながら、その羞恥に耐えられなかったのだ。
曜が明瞭に言い放つ。
「私は朝音様のすべてを、敬愛しております」
突き刺さった言葉は、熱かった。その光と温もりに朝音は顔を歪ませ、必死で言い訳を探した。
こんな私のことを敬愛するなんて、おかしい。傷つけてばかりなのに、何度も戻って来る。曜は、おかしいから、こんな事をいうの。
戻って来てくれる度に嬉しくて、違う。
天邪鬼で面倒臭い、そんな自分が鬱陶しくて許せない。そうだ。
求められること期待されることが、いつの間にか怖くなっていた。
『自分に自信がないからだ』
朝音の心境も露知らず、曜は恥ずかしげに微笑した。
「朝音様は、私の、憧れです」
朝音は呆気に取られた表情で問い直す。
「──なんで」曜は微笑を苦笑いに変える。
「私は、朝音様が持っている全てを、持っていませんから」
朝音は眉を寄せた。眼鏡を握る手に力が加わり、フレームが軋む。
『そんなことないでしょう? あなたの欲しいものを、私がもっているだけ。代わりに、あなたは私の欲しいものをもっているじゃない』
吐き出せない思いが、腹で渦巻く。笑顔を引っ込めた曜は続ける。
「朝音様に足りないのは、自信と信頼です」
頭と口が各々主張し、同時に喋る、奇妙な心地に吐き気がする。
『それは、あなたもでしょう?』
「そんなもの、私には必要ない」
引き攣った顔で一刀両断した朝音に、曜が詰め寄り優しく告げる。
「いいえ。私は、私だけは、知っていますから」
『朝音様のすべてを知っていますから』
「知らない、曜は私を知らない!」
火を吹くような否定に曜は肩をすくめ、自信を失くして俯いた。
「曜が、私を知る、なんてことは、ないの」
曜には想像もできない、蚊の泣くような声だった。
曜は自らの手で、あの朝音を追い込んでいることを実感した。全ては彼女を救うため──そんな正義感が曜を支配し、言葉を紡がせた。
その中に、僅かな優越が存在しているとも知らずに。
「……知っています」「知らない」
鋭い否定に怯まず、曜は声高に言い放つ。
「朝音様が、草祐様を──」
「知らない!」
「あの人を信頼していたこと」
後退る朝音を、追い詰める曜。朝音は黙り込み、消え入るような声で言った。
「……して、ない」
「あのように、私のことも信じて下さい」
『信じて』曜の言葉が凛と響く。傷の疼きで怒りが湧き上がり、はっきりと目が醒めた。
瞳に残る焦りと戸惑いが、闇に侵食される。眉間に深く皺を刻み、口の端を吊り上げる。
『黒い笑顔』
朝音は前触れなく曜を殴った。握りしめた拳を体の横で震わせ、嘲りを含み粗く吐息する。
「信じる? 先に裏切ったのはあなたでしょう」
衝撃で床に伏した曜は正気に戻った。今までの自分を顧みて、焦る。ありえないことをした。顔から血の気が引いた。
恐る恐る朝音を見上げる。
「その目、嫌い」
朝音は容赦なく、曜の顔面を蹴り飛ばした。
切れた口内に血が滲み、曜は自と渋面になる。曜には機嫌の悪い朝音に立ち向かう、覚悟と勇気が必要だった。その二つが欠けているため、全身は震え、耐え難い恐怖に臓物は冷えきっている。
今の曜にあるのは、恐怖と不安だけ──三年前と変わらない。変わるための三年、変えるための三年だったはずなのに。
曜は己の意気地のなさに幻滅した。ここまできて何も成せない、何ひとつ変えることができない、そんな己が許せなかった。そんな己だからこそ、伝えたかった。そんな己でも彼女を救いたいのだ。
『だから、必ず、伝える』
決起した曜は、うつ伏せのまま、握りしめた片腕から手を離す。
『自分は人間になりたい、自分に抵抗して、自分の力で』
蹴られた左頬を抑えて溢れた血を飲み込む。鼻血と、唇に流れた血痕を拭い、決意を固くする。
『朝音様に伝えてみせる』
「三年前、あなたは私を裏切った。今更信じてくれなんて虫が良すぎよ。身の程を弁えて頂戴」
冷然と告げた朝音は曜の様子を窺う。これで退くなら、それまで。期待はしないと、自分に言い聞かせる。
期待を捨てきれない自分の存在を抹消したい。
期待した分、すっかり報われたい。
どちらも朝音の本心だった。
『期待しないは、期待している、の裏言葉』
そんな思いが潜んで、朝音を天邪鬼にする。
「そのことは……申し訳ありません、ですが」
渾身の一撃を喰らっても尚、平然と立ち上がる曜。曜は朝音のことを恐れていなかった。朝音は訳もなく焦った。
元凶の曜が、自若としている。何故だか苛々して、大変気にくわない。怒りは自分に向けるべきだと、わかっている筈なのに。
『曜が、許せない』
共に居たいと望むのなら、曜がこちらに堕ちて。一緒に苦しんでくれればいい。それなのに、曜は前を向いて、闇から抜け出した──私を置いていった。私がずっと苦しんでいることを知っているのに、更に苦しめようとする。どうして一緒に苦しんでくれないのか、それを知りたかった。
ただ、曜のことを、解りたかった、だけなのに。
私には曜の言っていることが、伝えようとしてくれることが、何一つ理解できない。
前向きは、朝音にとって、苦しいくらいの光だ。光の中で苦しまずに息ができるのは、救われた人間のみだと、朝音は知っていた。かつての自分は光の中に居たのだから。
朝音は知りたかった。光の中に居て、光を宿して、そんなに輝いて、苦しくはないのか。どうやって救われたのか。どうしたら、苦しくなくなる、どうすれば、楽になれる、救われる。
身の程知らずな発言だと、曜は分かっていた。それでも口にする。命が消える覚悟で。朝音が望んでいるのだから。自分が捧げられるものなら、全てを差し出そう。
──魂を込めて、込めて、深呼吸。
「死の別れが来る時まで、共に居たいのです」
曜が全霊をもって放った言葉は、朝音に届かなかった。
朝音は曜の魂を受け止められなかった。
一度に処理できない、多くの感情を味わいすぎた。
理解不能のエラー表示が頭に張り付く。
人形の朝音が嘲笑う。
『だから、やめておけば良かったのに!』
解りたい、解りたくない、その相反する感情が朝音を渦に突き戻す。光一つ無い闇の中で、人形の自分に引かれて、朝音はグルグルと回され踊らされ。自分の感情すら処理できないことを、観客の人形に笑われる。
「きもち、わるいの、どうして」
青ざめた朝音を、人形の朝音がなじる。
『私が、こんなに苦しむのは、全部全部、曜のせい!』
人形の自分に朝音は負けた。人形の言う通りだ、そう納得してしまった。
『一緒に苦しんでくれないのなら、曜はいらない。二人の関係なんて、なかったことにすればいい』
朝音は人形に言われるがまま、曜に怒号を浴びせる。誰に向けて放ったのか判らない、刃。自分勝手で、自己中な、朝音の望み。
「曜は、あなたは──私を捨てればいいのよ!」
有り余った苦悩で、曜の襟首を掴んで薙ぎ倒した。曜は床に叩きつけられても、表情を変えなかった。それどころか、小さく笑った。
朝音は、曜がわからなくなった。わかったのは、コントロールできるはずの無害が、突然害悪になったことだけ。
曜が髪を耳に掛ける。丸い二つの瞳が朝音を貫く。
大きな瞳、幼子のような瞳、総てを見透かす瞳、嫌いな──恐ろしい瞳。
朝音は怖気づき、逃げるように立ち上がった。曜は朝音に併せて上体を起こす。曜は微笑みを崩さない。狼狽える朝音の両手を掴み、握り込む。
「朝音様と、生きたいのです」
跪いた曜が真摯に見つめる。恐れをなした朝音の後退り。両手を曜に掴まれているため、眼鏡で感情を落ち着けることができない。歪んでゆく表情には年相応な幼さが浮かぶ。形勢が逆転したのは明らかだった。
朝音が絞り出すように呟く。
「──ごめん、なさい」「私を信じて下さい」
曜の懇願を朝音は受け取れない。渦に飲まれる人形の朝音。掠れがすれ、朝音はこぼす。
「無理、誰も、信じないの」
「信じて頂けるように、私が努めます」
即座に返答した曜に、朝音は益々恐怖を覚える。
『あの曜が、前向きな光をもっている』
「私は、信じない」
「朝音様は、信じる準備をなさっていれば良いのです」
曜は信じてくれと言う。朝音は分かってしまった。
曜は光の中で苦しんで、いない。それが、嬉しくて、悔しい。
朝音は曜を直視できなくなった。俯く朝音を曜が覗き込む。朝音は顔に影を落とし、瞳を赤く染め、虚無感に戸惑っているようだった。
そっと二人の視線が絡む。朝音の視線は曜の左目に向く。
「……ごめんなさい」
何についての謝罪なのか、曜は分かっていた。朝音が溢す本音に耳を傾ける。
「曜は、赦してくれるの?」
縋り付くような、か細い声を愛おしく思う。曜は静かに深呼吸をした。
今、朝音様を救えるのは己の言葉のみ。三年前に言いそびれた、伝えるべきだった言葉。あのとき必要だったものが、今なら判るのだから。
一言一句を丁寧に紡ぐ。胸に絡まっていた、溢れる思いが形をもつ。
「私は──朝音様を信じております」
光溢れる言葉を投げられた。押し込めていた鬱憤が浄化された。張り詰めていた緊張の糸が弾けた。突然、眼の前が明るくなった。広がっていたのは鮮やかな世界。色褪せて見えていた全てが、目映く光る。
感涙。朝音は胸の苦しさと温かさに身を任せた。静かに、そっと、ただひたすらに涙した。
『信じる』
赦されたような気がした。こんなに堕ちていても、存在を許され、認められ、望まれた。それだけ。たったそれだけのことが、どうしようもなく──嬉しかった。
眩しくて、美しくて、純粋な、その一言に救われたような気がした。
『もう、いい。捻くれるのは、逃げるのは、やめてしまおう』
朝音は、ずっと恐れていたのだ。自分を知られることで、周りの理想通りでない自分を暴かれるのが。押し付けられた理想に応えられないことが。朝音は許されたことで、自分を赦せる気がしたのだった。
「曜は、私と一緒で苦しくないの?」
「何があろうと、朝音様と一緒なら、何も、何も苦しくありませんよ」
曜は優しく微笑むと、朝音の涙を拭った。
「私は曜を傷つけてばかりなのに?」
罪悪感のある朝音は、申し訳無さで一杯になった。しかし曜は呆れずに言葉を紡ぐ。
「言ったでしょう。私は朝音様のことを知っています。だから信じることができるのです。傷であろうと、何であろうと、朝音様がくれたものは、全て大切なものなんです」
朝音は曜の言葉を受け止める努力をした。解らないからと、切り捨てるのは辞めた。曜の純粋な想いを、素直に受け取りたかった。自分は惨めで醜いのだ、と見下げるのを辞めたかった。
「人形だった私に、大切という人間らしさを与えてくださったのは、朝音様ですから」
出会ってから一度も見たことがないような明るい表情で、曜は朗らかに続けた。
「慕わない理由がどこにありましょうか」
朝音は身が張り裂けそうだった。曜は優しすぎる、素直すぎる。朝音を盲信している。素直に喜べない朝音は、言い訳が欲しかった。釘を刺すように曜の気持ちを確認する。
「私は、そんなつもりじゃなかった、と言っても?」
伝えたい、解りたい、二人の気持ちが交わった。
今なら届く、今なら解る。二人は寄り添うように歩みだした。
「朝音様にその気が無かろうと、私を救ったのは、間違いなく朝音様ですから」
曜は真剣な顔で手を差し伸べる。
「もう一度、私をお傍に置いてください。貴方様の信頼できる右腕に、なってみせましょう」
『信頼』三年前に切り捨てた羨望の関係。固い絆と信頼に結ばれた主従──あの人と、その従者のような。それを今更、曜から望まれるなど夢にも思わなかった。
願っているのは自分ひとり、ではなかったことが朝音を浮上させる。
朝音は心底、曜を羨んだ。曜だけが変わっているのだ、曜だけが変わってしまった。朝音の本心が、人形の朝音が幼く嘆く。
『一人は寂しい、置いて行かないで』
曜が差し出す手を、見つめる朝音。
朝音は解らなかった、他人が自分に手を伸ばす理由が。だから差し伸べられた手を何度も振り叩いてきた。
ようやくわかった。知りたいのに理解するのを諦めていた自分がいたのだと。信じるという高い壁が、朝音の伸ばす手、朝音に伸ばされた手を阻んでいたのだと。
『置いていかない』
今は解る、その手を掴んでも良いのだと。信じて良いのだと。引きずり込むのではない、対等な力で引き合うのだ。朝音が望んだ対等な人間同士として、共に、生きて行けるのだ。
朝音が何であろうと、何になろうと、曜は受け入れてくれるのだ。それなら誠意を返そう、曜と自分に向き合おう。
『今なら』
幾度も望んだ。願っていた。
『曜と一緒にいてもいいんだ』
朝音は恐れていた曜の双眸に己を写す。
その瞳は救済を得た、純粋な輝きを纏っている。
その輝きの中に、写された朝音が居る。
その顔は迷いのなかで、光を望んでいる。
曜は澄んだ瞳を大きく見開き、自信溢れる煌めきを宿している。その光は、かつて希望を夢みた朝音自身に重なる。あの人がくれた光と同じものを、今の曜がもっている。
『──信じていい』
朝音は曜の手を、今度こそ掴んだ。絶対に離したくないというように、しっかりと。そして引っ張り上げる。対等に同じ高さの同じ目線で、互いの両手を握る。
曜の温もりが、朝音の凍てついた両手を、心を溶かす。朝音は温もりに目を細めた。曜は心底嬉しそうに微笑した。朝音は、自分の口角が緩むのを感じた。
眼の前に、曜という鏡がある。自分もきっと、同じ表情だ。
朝音は願った。この偽りのない温度がある限り、信じていたい。
『変わらない今を、今だけは信じられる』
曜は朝音に想いを伝えることができた。三年前の後悔を晴らし、胸のつかえが消えた。しかし釈然としなかった。曜は気づくことができなかった。
己が抱く感情が『慕っている』の一言だけではないことに。