4話
冷めた目頭と、ひりつく拳。酸素の足りない頭。夢心地のような初夏の深夜。曜が朝音を呼ぶ声が聞こえる。耳の奥でこだまする微かな曜の声で、朝音は我に返った。
足元に転がる壊れた額縁と一枚の絵。虚ろな表情で、それらを眺める。しばらく経って状況を把握した朝音は、思いついたように絵を踏みつけた。
絵を踵で力一杯に踏みつけ、床と擦り合わせる。絵はガラスの破片で傷つき、やがて破けた。勢い余った踵が床を滑り、木の額が壁に衝突する。ガラスの破片は流水音を立てて一点に流れた。
気の済まない朝音は、苛立ちに任せて床に転がった額縁を蹴り続けた。壊れるまで、粉々になるまで、跡形を消すまで。
朝音は許せなかったのだ。この、すべてを。
真夜中に不相応な騒々しい音を聞きつけた曜が、ついに朝音を見つけた。
「朝音様、突然ど──」
小言の一つでも言ってやろうと息巻いていた曜だったが、思わぬ惨状に目を疑う他なかった。開いた口が塞がらず、言葉を飲み込むのが精一杯だった。
朝音が朝顔家の装飾を破壊するなど、想定していなかったのだ。朝音が嫌いなものは、あくまで朝顔家の人間だ。朝顔家の物は、嫌悪の対象外だと踏んでいた。先程までは大人しく、朝顔家内の装飾を無関心な眼差しで見定めていたはず。どうしたものかと内心、頭を抱える。
曜に気がついた朝音は、気怠げに床の屑を足で蹴散らした。助走の付いた破片が曜の足元に迫る。驚愕に身が竦んでしまった曜は、直立不動で瞬きを忘れた。
破片が靴の先に衝突する。鈍い音と痛みが爪先で生じた。声も上げずに鈍痛をこらえる曜。寄せられた眉と引き攣った頬、体の前で片腕を握っている。曜が不安感を示す時の癖だった。
見覚えのある曜の動きに、朝音はハッとして顔を歪めた。三年前に、あの時に似ている。明確な情景が現状に重なる。
『あの時、私は曜を──』
刺すような痛みが、記憶の靄を晴らす。自分が曜と共にいられない、共にいては、いけない理由を再認識した。
渦巻く感情が鬱陶しい。現実逃避、自尊心、自己嫌悪。そう、苦しむのは自業自得だ。しかし曜が自分と同じように苦しむのは間違いなのだ。曜を引きずり込んではいけないと解っている。
『しかし、しかし。一人は寂しい』
「はっ。ざまあないわ──くだらない……!」
朝音は誰に向かうでもない言葉を投げ棄てる。気づいてしまった感情に蓋をするために。朝音の利己的な、行く宛のない言葉を、曜が拾ってしまう。
「申し訳、ありません」『貴方に向けた言葉じゃない』
朝音の開きかけた口は、紡ぐべき言葉をすり替えてしまう。
「──めんどくさい」
朝音は曜と共にいてはいけないと解っていた。曜と共にいたいと願っていた。二つの矛盾した感情が朝音を酩酊させる。
曜に向き合いきれないのは「未熟」のせい。曜に曖昧な態度ばかり取ってしまうのは「矛盾」を抱えているから。矛盾が苦しいから、苦しみに足掻く醜い自分を知られたくないから、曜を突き放す。
自分のことは解っている。だが、曜のことが解らない。曜がどこまで自分を知っているのか判らない。信じることが本当に正しいのか分からず、漠然とした不安で光が霞む。
人間昇格願望を抱く曜に、何を預けていいのか判別つかないのだ。
『曜が、ここまでして私を求める理由が解らない』
自分や他人、掴みかけた光さえ、朝音は疑っている。両親の裏切りを知った幼き日から、誰一人信用できない。あの人のことも、結局信じることができなかった。自分は何も信じることはできないのだと、失望に身を任せていた。
『少しでも、何かを、信じることができたなら』
朝音は希望に目が眩んでいた。曜が歩み寄ってくれた、共にいたいと手を差し伸べてくれた。それらは、失意に沈んでいる朝音を消し去る程の光だった。
変わりたい変われない変わってはいけないと、人形の糸で縛りつける。
葛藤をそのままに、硬直状態の曜へ掴みかかる。一、二歩踏み込み、曜を壁に叩きつけた。壁に跳ね返された曜は小さく唸り、壁際に佇む。息を呑んだ曜は、怯えの滲む表情で朝音から目を逸らす。
曜は恐怖心故に身動きが取れない。教育という名の暴行が、日常的に行われている身分社会。緑木家は身分重視の恐怖政治体制だ。暴力が横行する従者教育機関の正しい教えによって、人形達を支配するのは恐怖だった。
曜も例外ではなく何度も暴力を振るわれていた。上の人間には畏怖の念をもっており、人の機嫌には敏感である。
しかし朝音の機嫌は春風のようで、中々読めなかった。彼女の機嫌次第で曜の命は簡単に消える、という事実に基づく恐怖。
機嫌の悪い朝音の行動は常軌を逸しており、怖気づいてしまうのも仕方がなかった。
物を破壊するのが通常運転で最悪、家の壁まで破壊する。それでも気が収まらない時は、手身近な物を曜に投げつける。育ちの良い朝顔家のお嬢様とは思えない程に、手癖が悪くなる。
経験上、この流れは暴力の予兆だった。ところが朝音は、焦点の合わない瞳で曜の前髪に触れた。隠されていた曜の左目が朝音を捉える。虚ろな左目が大きく見開かれた。白濁としたスクリーンに朝音を映す。
朝音が曜の左眼球の蕾花力を確認しようとした、その瞬間、曜は弾かれたように抵抗し始めた。
「朝音様っ、お止めください!」
悲痛な叫びを上げ、失礼を承知で朝音の腕を掴み、振り払う。よろけて離れる朝音、曜は慌てて謝罪する。
「もっ、申し訳ありません身の程をわきまえずに、朝音様に大変失礼をいっ」
朝音の手が曜の口を押さえつけた。曜は思わず呼吸を止めた。朝音に差し出すつもりだった両手が行き場を失い、胸の前で浮く。
朝音が不機嫌に笑って、黒い笑顔を貼り付けた。
「よくまわる口ね。普段からそうして喋ればいいのに」
焦点の合わない瞳、黒い笑顔、取り繕ったような明るい声……朝音が本気で苛立っている時の特徴だ。
漆黒の両目から逃れることができない。曜の存在許可は朝音の気分次第で失くなってしまうのだから。ひしひしと感じる強力な圧の殺気に、震えることが精一杯だった。
自分を殺される感覚は、人間が恐れるもの。曜は中途半端に人形なのだと自覚する。
朝音は曜の大きな瞳が嫌いだ。普段は伏し目がちで鋭い目つきをしているが、開眼すると丸目がちで幼い印象を受ける。こうした曜の表情は幼子のようで、酷く虐めてやりたくなる。
そう思い、憎しみと握力を強めた。すると曜が可哀想な程、顔を歪めるので可笑しくて嗤ってやる。朝音は疼く心を抑えて、曜を手放した。
そのまま眼鏡の縁を握り、曜を嘲笑する。
「相変わらず、嫌なことされても文句一つ言わないのね。あなたは」
曜は返答に困り謝罪を述べる。
「……もう、し、わけ、ありません」
立場が上の人間は、下の人間に何をしようと許される。下の人間は上の人間に歯向かってはいけない。それが緑木家のルールだ。
「申しわけ、ありません」
曜は厳正に躾られていた。曜の頭は人形さながら、教えられた文言を繰り返し唱えていた。
「申し訳ありま、せん」
『上の人間には頭を上げてはいけません、下げ続けなさい。お前たちは呼吸一つでも謝罪の対象なのだから、常に謝りなさい、申し訳なく在りなさい。上の人間の不快は、全て己に罪があると考えましょう』
「申し、わけありません」
曜は朝音の気持ちを落ち着けようと、平身低頭で謝罪を繰り返す。自分の罪の有無は関係ない。これ以外の方法を知らない、教えられていないのだ。謝罪以外の方法がこの世にあろうと、学ぶことは許されない。
身の程知らずな行為は、死に直結する。それが他人の人生における曜の立場だった。
曜の中身なき謝罪はいつもの事だが、朝音は今とても機嫌が悪い。機械仕掛けの謝罪は、この上なく不愉快だった。言い逃れなく朝音が悪いことは明白である。しかし見当違いにも謝り続ける曜は、大変鬱陶しかった。
朝音は苛立ちを抑えきれず、曜の襟首を絞り上げる。強制的に黙らせようと思ったのだ。壁に押し付けられ喉を潰された曜は、朝音の殺気に息を呑む。
「っう、もうしわけ、ありま」「黙って」
渾身の謝罪を断ち切られた曜は、瞳を滲ませる。脳裏には従者教育機関の躾が蘇っていた。
『個人の自覚は要りません。消えるまで復唱しましょう、立派な人形になりましよう。人間の成底ないに抵抗は許されていません。人間だけが、みっともなく抗う権利を持っているのです』
『人形を辞めたい、人間になりたい──』
切実な願いが、譲れない決意が、糸を軋ませ、曜を突き動かした。
『人形を圧し殺し、人間として精一杯の抵抗を!』
朝音の腕を叩き落とし、喉の自由を取り戻す。軽く咳き込むと、不安げに朝音を睨んだ。曜を見て、叩き落とされた腕を見る朝音。不気味に笑う彼女が手を挙げる。
曜は反射的に腕で顔を覆い隠したが、それも虚しく朝音は曜の腕ごと壁に押し上げた。強引に前髪を掻き上げられ、曜の半顔が露になった。
曜の左目には大きな傷痕があった。目と耳の間を切り裂いたような傷、左目を縦に通っている傷……左側の顔は傷痕だらけだった。降り注ぐ破片に、切り刻まれたかのような傷痕だった。
泣き出しそうな曜が、両目で朝音に訴える。
「──みないで、ください」
朝音が曜の左目に触れる。右目と比べ、白く濁ったような色味をしている。曜の溢れた涙を指で拭い、呟く。
「この眼、見えてるの?」「み、ないでください」
正しく回答しない曜に、少し嫌気が差した。朝音が怒りを滲ませ吐息する。彼女の一挙一動に、曜は身を縮こめる。
曜が嫌がるから言葉を使っている。譲歩を無下にするのなら、強行手段に移すまで。
朝音は瞳に蕾花力を籠め、曜の左眼球を見た。曜の左目は微かに蕾花力が感じられた。
朝音は曜が失明していないことに安堵したと共に、罪悪感の渦に堕ちる。感情任せな行為で、曜を深く傷つけた。三年経っても消えない傷痕を残してしまった。後悔と懺悔の念が、ひとつの事実を照らし出す。
『赦されないことをした。これは罪、罪だ』
朝音は曜から、ふらりと身を引く。眼鏡の縁が手に食い込む。冷めた頭が縋りつく答え。ただ、朝音は知りたかった。
「……答えて。こんな酷いことをした私を選ぶのは、どうして?」
曜が瞬きをした。パクパクと人形のように急ぐ口を、から回す。顔を迷いに染め、朝音の顔色を伺い──光を見つけた。
『朝音様の願いは私の望み』
滾る思いが、結び直した口が、迷いを断ち切る。
「それは、それは──」