3話
朝顔家──緑木家配下の上位花家、朝音の生家。創設者兼家長はハオネ、朝音の母親だ。朝音の母親が創り、両親で大きくした朝顔家。華やかで明るく、朗らかな雰囲気の家だった。しかしハオネが亡くなってから、その雰囲気は一転した。二代目家長のウルガは厳格だった。
精神に異常をきたしていたウルガは、朝顔家に破滅の道を残し、まもなく家長を降りた。その後を継いだのが朝音だった。
朝音の実力で一時は勢力を取り戻した朝顔家だったが、事件によってその繁栄は閉ざされた。それからというもの、紆余曲折はあれど、朝顔家は衰退の一途を辿っている。
朝音が家長を降ろされ、跡継ぎが居なくなった。次期家長を決めるという大義名分は、武力衝突に発展した。朝顔本家派の敗北、それが衰退の最たる原因だった。
家内での激しい争いにより家長制度を支持する者が減少し、朝顔家は一時、絶家になりかけた。それを立て直し、現在まで引き継いだのが現家長の哩椋だ。
現在朝顔本家と名乗っているのは元昼顔家で、家長は哩椋。朝音の叔母にあたる。地位争いに勝利し、朝顔家をまとめ直した元昼顔家の権力も、家長が開花病を発症したため衰える一方だった。
跡を継がせようにも、哩椋の子は朝顔家を継ぐ気がなく、新しい家を創りたいと公言している。跡継ぎが居ないも同然だ。そのため無理矢理まとめられた朝顔家分家の者達は、虎視眈々と家長の座を狙っている。
再び次期家長争いが起こるのは、目に見えていた。
そこで、ハオネとウルガが隠し子として裏で育てていた夜音が役に立つ事となったのだ。この時の為に産まれたと言っても過言ではない夜音の存在は、圧倒的だった。
跡継ぎ問題、繁栄問題、家長制度の支持率……夜音は優秀だった。当時、八歳という年齢で表に声明を現すと同時に、それらの問題を一挙に解決して見せたのだ。才色兼備の夜音は、瞬く間に朝顔家の家督として認められた。
次期家長の座を狙っていた輩は、彼女のことを裏で『替え玉』と呼んでいる。表では支持者を装い、裏では家督への悪評をばら撒いている。夜音が弱味を見せたなら直ぐにでもつけ込み、力尽くで家長に成り上がる心算だ。
聡い夜音は、そのことを知っていた。そして弱味を見せないよう取り繕い、強く強くあろうと自己研鑽をしている。
まだ幼いその身を敵だらけの世界に投げ込まれ、常に背水の陣で生きている。産まれた時から、何から何まで朝音と比べられ較べられ。天性の才をもつ朝音を憎み、どこまでも凡庸な己を憎み、憎しみを糧に生きている。
夜音の見る世界は、憎しみに染まっている。産まれた時から、呪っている。
夜音は、朝顔が忌々しい。
夜音が朝音を憎むように、朝音は夜音が嫌いだった。朝顔家の者は一人残らず嫌悪の対象だ。同族嫌悪の朝音からすると、朝顔家の血は厭われるべきで、根絶やしにしてやるべき存在なのだ。
朝音は、朝顔が忌々しい。
『呪いも罪も、朝顔の全ては朝顔に帰る。美しく、儚い、朝顔ごときに』
朝顔家は名前の通り朝顔が家花だ。花家の部類に属するだけあって、家の外観は朝顔一色だ。レンガ造りの壁も塀も、朝顔に埋め尽くされている。この季節は蔓の成長が著しい。
外壁には朝顔の蔓。花壇からも朝顔の蔓。グリーンカーテンどろこか、家自体が朝顔の支柱になっている。朝顔家の敷地全体を囲う竹塀にも、朝顔の手は延びていた。明るい緑に覆われ、色褪せた竹塀すら真新しく見える。植物は生命力に溢れていた。
今はまだ緑に覆われている程度だか、朝顔の最盛期、真夏がやってくる頃には外壁が色鮮やかに染め上げられる。蔓のなかに覗く星の数ほどの蕾が、息を潜めてその時を待っている。
これだけの家花が生命力を留めているのだ。少しくらい頂戴しても咎める者は居ないだろう。
朝音は朝顔の蕾に近づき、瞳を閉じて深呼吸をした。蕾花に朝顔の蕾花力を吸い込ませたのだ。大量の蕾花力を一度に入荷した蕾花は、活力を取り戻す。朝音は呼吸と体が軽くなる感覚に心躍った。
朝音は蕾花力の殆どを薬で養っていた。そのため蕾花の栄養状態が貧弱で、血液の巡りが悪かった。自然の家花蕾花力を吸うことで栄養がつき、体の調子がいくらか良くなったのだ。
朝音が曜に向き直ると、合わせて止まっていた曜が朝音の顔色を確認した。
「少しは良くなりましたか?」
心なしか嬉しそうにしていた朝音は、その一言で気分を害されたようだ。恥じるように目を伏せ、言い訳のように呟いた。
「……最悪の気分は変わらない」
曜は間抜け顔をすると、朝音の正面に座り込み、顔色を再確認した。曜の行動に驚いた朝音は、強張った表情で目を見張る。見つめ合う二人の間に流れる沈黙を、やけに長く感じる。曜は訝しげな瞳で朝音の顔を見続けた。
朝音様の顔色は確実に良くなったはず。朝音様は、それを認めたくないのだろうか。それとも、誤魔化しを自分で言っておいて恥ずかしくなったのだろうか。どちらにせよ素直じゃない。朝音様は──
素直になれない朝音を可愛らしいと思ってしまった曜は、自分の口が緩んだ事に気がつき、慌てて引き締める。
朝音は曜の不審な瞳から逃れるように立ち上がった。血色が良くなったのか、わずかに赤らんでいる顔色で眼鏡の縁に手をかけると、怪訝な表情で曜を睨みつけた。負け犬面な朝音が、曜の笑いを誘う。
「何よ、文句でもあるの?」
「そ、申し訳ありません」
曜は謝罪と共に、笑みを噛み殺した。
門の入り口からしばらく歩き、朝顔の蔓に包まれた大きな洋館に近づいて行く。その間、二人は静寂を守っていた。朝顔に囲まれた庭のレンガを辿り、玄関ポーチに行き着いた。屋内から漏れでる薄明かりが、二人を淡く照らす。
扉ひとつ挟んだ先に待ち受ける、嫌悪。あの視線、あの表情、あの顔ぶれ。きっと何ひとつ変わっていないのだろう。私が変わっていないように。
朝音は眼鏡にかけていた手を、離す。そして、久しぶりの感情を切り捨てた。
ドアノブの石を見た曜が、思い出したように振り向く。家に入るための手が足りなかったのだ。曜は荷物を任せようと声をかけた。
「少しの間、預かって下さい」
「……嫌、重い、めんどくさい」
朝音はそっぽを向いた。曜は朝音が向いた方向に移動し、朝音に正面向かって告げる。
「両手が塞がっていると、家に入れません」
「片手で開けるか……家に入らなければいい」
駄々をこねる朝音に、曜は真摯に向き合う。
「本人確認は両手からの雷花力でしか感知されません。防犯対策である事、ご存知でしょう。それに朝音様は追放された身ですから、この扉を開ける事はできません。私の両手が必要なのです」
「──そうね。知ってる」
「では、お願いしますね」
朝音は嫌そうな顔をして、曜から渋々荷物を受け取った。
朝音に荷物を預けた曜は、空いた両手で扉の取っ手を握り、蕾花力を流した。薄緑の光が、ドアノブに嵌っている石を染め上げる。扉がそれを感知し鍵を開けた。曜は片側の扉を開き朝音を招き入れる。
朝音達を迎えたのは、朝顔家のメイド達だった。温かい出迎えとは言い難い空気だった。敵が陣地に侵入したとばかりの冷たい目線。彼女らは朝音をその視線で突き刺し、曜は遮るように前に出た。
曜は仕事と割り切っているようで、物怖じせずに要件を伝える。
「ただいま戻りました。お待たせしてしまい大変申し訳ありません」
曜は深く一礼すると、ロビーに常駐しているメイド長に声をかけに行った。メイド長は曜に耳を傾け、離れた玄関口にいる朝音を一瞥する。朝音に会釈をすると、メイド長は足早に去って行った。家長への報告に向かったのだ。
戻って来た曜は朝音から荷物を受け取り、小声で促した。
「行きましょう、朝音様」
待機メイド達が、通りすぎる朝音をまじまじと見る。彼女達は人形だ。あくまで騒ぎ立てるようなことはしない。ひたすら目で喋る。口にしていなくとも、朝音には聞こえていた。
『帰ってきたのね。夜音様は大丈夫かしらね。尻軽だわ。淫らな。汚い。臭いわ』
下らない。お人形なんて、相手にするだけ無駄。
意思のないふりをして、信じたいものだけを盲目的に崇拝する。それ以外はゴミ同然と、したり顔で蔑むのだ。自分達より社会的価値があろうとなかろうと、貶して貶して──排除する。素敵なドールハウスを守るために。遊んでくれる主人を、自分たちから離さないために。しつこく、何処までも。
朝音は振り向き様、ロビーを懐かしげに見渡した。人形達を睨みつけ、嫌悪感を丸出しに顔を顰める。
『下らない、人形ごときが』
朝音を連れた曜は、階段を上がり道なりに進んで行く。荷物を抱える曜は、木箱の上に乗せた鉢を落とさないように、慎重に進んでいた。朝音は曜と歩幅を合わせつつ、辺りに目を配る。
所々装飾が増えているが、三年前とほとんど変化のない我が家。一定の間隔で飾られている絵を、順々に流し見た。このまま行くと、自分の部屋に辿り着く。そんな安心にも似た高揚感に、足が早まる気がした。
曜が足を止めずに、隣を歩く朝音へ行き先を伝える。
「自室は整えてあります。本日は、そちらでお休み下さい」
ロビーから正面の階段を上がり、道なりに直進。朝音の部屋は二階、突き当りの右手にあった。朝顔家を当主直々に除籍された朝音は、朝顔本家に自分の部屋が残されているとは思っていない。
三年前の事件以来、父には見捨てられたと心底信じているのだ。父は朝音に絶望し、朝音を憎み、痕跡すらも許さない。きっとお父様は私の死を願っている。
「……お父様に、随分と無理を言ったのね」
『私も、お父様の死を願っているもの。お互いに憎しみ合っている方が楽でしょう?』
口に出さなかった胸の内。朝音の想いを知らない曜は、淡々と事実を述べた。
「いえ、前当主様は朝音様の部屋を入れ替えないようにと、命じておりましたので」
朝音はタイミング良く、自室に通された。驚きを隠せず目を見張る。三年前と変わらない昔のままな自室が、そこには在った。
ついさっきまで、誰かが暮らしていました、とでも言わんばかりに整えられた部屋。塵一つない。カーテンも布団も、朝音が勘当された十二歳の頃と変わらない。持ち出した本達の居場所も、空になった棚に残っている。
昨日のことのように思い出す、ここでの日々。あの処罰。抱いた感情のひとつひとつまでもが、鮮明に蘇る。疼く古傷が、酷く痛むような気がして、腹部を押さえる。ああ、眼鏡に手を伸ばす余裕がなかった。酷い表情をしている見られるのはまずい──眼鏡に、眼鏡に手を伸ばさないと。
立ち尽くす朝音を他所に、曜は荷物を机に運んだ。荷物を置いた曜は今後の動向を伝えようとして、振り向く素振りを見せる。朝音は未だ眼鏡に手が届かない。焦燥がチリチリと身を焼く。緊張に固まった足が、生ぬるい。曜が振り向く──背筋が、つうっと、冷えた。
「大浴場に行きます、ので──」
「めんど、くさいっ」
弾かれたように口癖でもある捨て台詞を言い放つと、朝音は逃げるように部屋を去った。曜の制止を背に朝音は足を早め、廊下の奥に姿を消した。荒々しく床を踏みつけて行く。朝音は自分を追い詰めるように思考を回し、苦しい呼吸を加速させていた。
わからない、そうねあなたに解るはずがない。
わからない、解るはずでしょうあなたは天才なの。
どうして、わかっているでしょう考えなさい。
何を、お父様はあなたを見捨てていない。
違う、もうわかっているのでしょう?
……ああ、疑問ばかりで気持ち悪い。お父様は一体、何を考えておいでなの。私が間違えたとでも? いいえ間違えるはずがない。大変立派な英才教育で、正しい答えだけ解るように仕込まれたのだから。
間違えるなんて間違えることなんて間違えることなど、そう──
『間違えることなどあってはいけない』
朝音は立ち止まる。握りしめた両手の拳に、眼を細める。ゆっくりと拳を解き、詰まっていた息を吐き出す。まだ、呪縛から逃れきれていない。
非常事態、疑問、迷い。それらに直面すると、頭が勝手に喋りだす。自分ではない誰か──糸に吊られた、蔦の絡まった、頭を朝顔に埋め尽くされた、人形の「私」が喋りだす。
たくさんに一度に一斉に喋る。今の私を否定する言葉を吐き散らす。間違いだと貶す。彼女の言うことは、常に間違っていない。視点が違うだけの、正しい答えなのだ。
それが余計にタチが悪く、朝音を苛立たせる。
深呼吸をする。俯いたまま眼鏡を握る。顔を上げた先の、目をやった壁には、朝顔の絵が飾られていた。正方形の額縁は飾り気がなく、装飾や塗装が施されていないようだ。シンプルな木の額縁に囲われたその絵は、どこか懐かしい雰囲気だった。
大きな濃紫の朝顔と、小さめの白い朝顔が、寄り添うように咲いている。その二つしか描かれていない。優しさを感じさせる絵だが、寂しい絵でもある。
なぜこんな物がここに飾られているのだろう。絵に引き寄せられた朝音は、眼鏡から手を離し、額縁を指でなぞった。隅まで眼を走らせると、絵の隅にサインがあった。
『朝顔ハオネ』
母親の名前だった。朝音は指を引っ込める。名前の下、額に半分程隠されてしまっている、それ。絵の題名のような、走り書きのような──想いのこもった字。
『親愛なる朝音と夜音』
朝音は拳を振り上げる。絵を目掛け、勢いをつけて振り落とす。額縁は床に叩きつけられた。ガラスは割れ、額縁が外れる。額に隠されていた『それ』の半分があらわになる。
朝音は顔を歪め、絵を踏み潰そうと決心する。しかし靴の底は絵に届かず、散らばるガラスの破片を踏みつけた。
朝音は、瞳に滲ませた想いが柔らかいことに気がつく。眼鏡を握り、腕を握る。崩れそうな足で踏み留まる。掃き溜めに差す光のような、希望を見てしまった。
後悔と悲しみが、胸を塗り替える。
明るい色が、朝音を塗り替える。
必死の抵抗、苦し紛れの悪足掻き、行き場のない濁流が口から飛び出す。
弱々しい一言となって。
「朝顔、なんか、大嫌いだ──」
『親愛なる朝音と夜音
……──二人の幸せを願って』