2話
曜は朝音を朝顔家に連行することにした。朝音に詳細を伝え、必要になる物を揃えさせる。
「では、ご準備をお願いします」
詳細を聞き流した朝音は、事の重大さに気がつき、げんなりした。
実験の成功が夜音に懸かっている。彼女の命を救うことができれば実験は成功。当主の依頼は達成される。大事、慎重に、失敗は許されない。そんな重圧感が朝音は苦手だ。
「めんどくさ……」
何気なく、風の吹き付けるままに窓の外を眺める。半月にも三日月にもなりきれていない、不格好な月が浮かんでいた。窓枠に切り抜かれた夜空の月が、いつか見た美麗な思い出を蘇らせる。ああ、降り注ぐ光が眩しくて。
月の光は心を凪ぐ──朝音のような偏屈者も例外ではない。あの人が好きだったものは、朝音も等しく好きなのだ。
朝音が動かずにいると、曜は聞かせるように言った。
「何が必要になりますか? 私がまとめますよ」
見兼ねた曜は朝音の代わりに、荷物をまとめようと床の物を整頓し始める。床を一通り片付けた曜は、窓の外をぼんやりと眺め続ける朝音の目を盗み、棚に近付いた。
棚には、何も植わっていない植木鉢が並べられていた。曜は不思議に思い、雷花力を眼に籠める。瞳が淡い緑の光──雷花力を帯びる。
鉢の土には蕾花力が大量に含まれていた。自然界に存在する土の、数十倍もある雷花力量だった。曜は不審に思う。一体何のための鉢植えなのだろうと、隣に視線を移す。そこには、数粒の種が入ったペトリ皿が置かれていた。
種は無色透明の水に沈められており、水には蕾花力が一切含まれていなかった。蕾花力の含まれていない、透明な水は大変貴重だ。こんな貴重な水に、なんの変哲もない花の種を入れるとは。曜は、再び眼に雷花力を籠めた。種は非常に強い蕾花力を留めていた。
種の蕾花力量を見た曜は、顔を引きつらせた。見覚えがあったのだ。
この種を、種になった死体を。
曜は、その種に触れようとして足元の木箱に躓いた。乾いた物音が響き渡る。朝音が驚きに振り向く。実験に関わる大切なものが詰め込まれた棚や引き出しが、勝手に漁られている。そう感じた朝音は、慌てた様子で叫ぶ。
「え、かっ、勝手に触らないで!」
自分の声量に驚いた朝音は、反射的に両耳を塞いだ。直後、自分の声だと理解した彼女は、手を喉と眼鏡に滑らせる。
「じ……自分でやるから」
朝音は、いつも通りの声にトーンを落とした。曜を一瞥すると気まずそうに眉を寄せ、目を伏せる。過去からの不安に駆られた朝音は、眼鏡の縁をより強く握り、バツが悪そうに萎れた。
「朝音様……大丈夫ですか」
言葉に迷いつつも、態度で示した曜。その表情が今迄とは違うことに、朝音は苛立つ。
『あなただけが勝手に変わるなんて』
厳しく睨みつけられた曜は、怖気づく。朝音の、曜を見る目色が違ったのだ。まるで羨んでいるような、色ある光を宿した羨望の眼差し。それが、自分に向けられている──足がすくんだ。
「──申し訳ありません」
逃げの謝罪──居たたまれなくなった曜は手を引いた。
手を引いた曜を見るなり、朝音は眼鏡から手を離す。研究に関わる大切な物ばかりの棚を、護れたことに安堵したのだ。
緊張の抜けた背筋が猫背に戻る。非難の色を浮かべた半眼で、朝音は曜に文句を言う。
「人の物に断りもなく触れるなんて、最低」
「申し訳ありません。朝音様が、面倒だと仰ったので」
謝罪を述べた曜が、朝音は気に食わなかった。
朝音自身が、自分に非があることを自覚していたためだ。非難されたかった朝音は渋々非を認め、てきとうに返す。
「はいはい、私が悪かった」
謝罪満面な曜が、ぎこちなく出口に向かう。朝音と距離をとり冷静になった曜は、不貞腐れる朝音を困ったように見つめた。
自分は何か間違ったことをしてしまったのだろうか。危惧すべきは、自分のどれが朝音様の機嫌を損ねたのか判らないことだ。今は、何をするのが正しいのだろうか。
加害者顔をする曜に、朝音は苛立ちを募らせる。
優秀で真面目な人間は、いつだって自分に欠点を見出だそうとする。どんな状況でも自分を卑下し、申し訳ない気分に浸っている。無実を有罪にして、冤罪を謳歌する。
それが、とても、腹立たしい。
『そんなとこばかり、私と似ている』
朝音は腹の虫が収まらず、不機嫌に眼鏡の縁を握った。準備をするのが億劫な事も後押しし、いつもの癖で曜に憎まれ口を叩く。
「あなたは昔からそんなね。余計なことばかりして、面倒を自分で増やしてる。あの時もそう。あれ、全部棄てたから。ざまあないわ、お疲れ様」
自分の放った言葉が、グサグサと刺さる。朝音は眼鏡の縁を強く握った。
曜は返す言葉を考えるように目を泳がせる。ぎこちなく伏せた瞳で、見つからない言葉を諦めた。そして機械仕掛けの謝罪を絞り出す。
「いえ……申し訳ありません」
事ある毎に謝罪を述べる曜。誰に向けた謝罪なのか、朝音は知ろうともしない。厳しい教育が曜を動かしている。解ききれない糸に吊られた曜は、未だに人形のまま。
「めんどくさ……」
朝音は呟き、気が抜けたように眼鏡から手を離した。
虐めに失敗した朝音は、諦めて準備をする。棚の木箱を用いて、中に必要な物を詰め込む。先程磨いた薬瓶、蕾花力を多く含んだ蕾花水、ナイフや布。
曜には、それらの必要性が理解できなかった。蕾花について詳しく知る者は少数だ。開花病は広く知られているが、治療法は誰も知らない。雷花研究を通し、朝音は治療法を生み出した。それも、当主から本を頂いた最近の事だ。
治療法を生み出せたところで、その治療法が確立できなければ意味がない。治療法確立のための治療薬で足踏みしていたのだから、今回の生贄は有難い。実の妹だろうと、思い入れも容赦もない。朝顔家、呪い呪われた憎き家。
『夜音を殺せば、解放される』
そんな思いで、朝音は木箱の蓋を乱暴に閉めた。
木箱に一通り詰め終わり、荷造りは終了。最後、朝音は棚の鉢植えを加えた。例の何も植えられていない、雷花力を含んだ鉢だ。
「何に使うのですか?」
曜が箱に入らなかった鉢を、指差し問う。好奇心に負けた様子の曜は、僅かに瞳を煌めかせていた。
朝音は視線を鉢に向けて答える。
「育てるの」『何を?』
曜は好奇心からなる疑問を呑み込んだ。
荷造りを終えた朝音と、曜は朝顔家に向かう。家の外に出た朝音は、月光に眼を細めた。遮る物のない眩い光が、如何せん鬱陶しかった。ひんやりと冷たい光が、血色の悪い朝音の顔を蒼白に照らし出す。眼を細めた彼女の表情は、やはり厳しく恐ろしいものだった。
玄関口に停められている自転車へ、木箱を乗せる。自転車は所々錆び付いており、きしきしと、立て付けの悪い音がする。後方の荷台に木箱を縛りつけて固定し、前かごには鉢を乗せた。
自転車に乗る気がない様子の朝音を見兼ねた曜は、代わりに自転車を押した。
「行きますよ、朝音様」「……面倒」
森林塀を抜ける道を、朝音は眼鏡の縁を握って眺めた──朝音は怯えていた。
代わり映えしない家に引きこもっていた所為だろう。自我のない昔に戻るのが恐ろしかった。こんな感情を抱く自分が恐ろしかった。
実家に戻り、仕事をして──様々な感情に出会ってしまう。知りたくもない、鬱陶しいだけの感情に。
それが、面倒臭い。
それが、とても気持ち悪い。
森を抜けた先は、広大な田畑が広がっている。緑木家領地は、五大家階級最上位だ。称号に恥じず領地面積が広い。領地の中心には大樹が聳え立ち、それを囲むように田園が広がっている。
大樹に近い方から順々に上位花家、中級花家、下級花家、無所属庶民と階級が分けられ、きっちりと棲み分けがなされている。町らしい、まとまった建築物はなく住居は疎らだ。ぽつぽつ小さな倉庫ばかり。
見渡す限り田畑、田畑。点在する大きな家は、田園風景に似つかわしくない洋風の家だ。和風な建築物は数少なく、庶民の住むような家は見当たらない。これは、当主の命で建築許可規定が細かく定められており、配下になるものには厳しい選別があるためだ。みすぼらしい家を建てられるわけもなく、そんな家に住まうような者を緑木が配下にすることもない、と言う訳だ。
田園風景に点在する大家は、目を引く。しかし何より目立つのは、領地の中心部に聳え立つ大樹だ。空は枝葉で覆われているが、月光は地上に届いている。空を覆うそれらは、蕾花力で出来ているのだ。蕾花無しの人間……主に無所属庶民には、大樹以外が見えることはない。
大樹には緑木家の人間が住んでいる。当主万緑を始めとする、緑木一家。当主は高い所を好む。規定にもあるように、大樹より高い建築は禁止されており、二階以上ある建物は建ててはならない。だが大樹は、そう簡単には超えることのできない高さを誇っている。
花に囲まれ埋もれるようにして建っている家は、花家と呼ばれている。雷花が特定の花である者達が住んでいる家の通称だ。朝音の雷花は朝顔であり、生まれも育ちも朝顔家。所属は、もちろん朝顔家だった。ある事の報いとして、朝顔家から除籍されたが、紛れもなく朝顔家の血を引いている。
両サイド田畑の、舗装された道を二人は歩いた。朝顔本家は上位花家なため、大樹に近い土地を領地としている。家までは十二キロある。日が昇る前に家へ着くために、二人は走ることにした。
朝音は自分の自転車に乗り、曜は隣を走る。朝音は曜に目もくれず自転車を漕ぐ。曜を引き離すように、ぐんぐんとスピードを上げている。曜は離れ過ぎないように、一定の距離を保ち続けて走る、走る。
曜は朝音を盗み見た。彼女の夜闇に溶ける深い紫が、風に揺れる。隙間から覗く闇に染まった瞳で、夜空を見上げていた。煌めく無数の輝きすら、瞳の闇には敵わず。輝きは鈍く濁り、消えて、映らない。
月光に照らされた蒼白な肌。冷酷な表情が際立ち、やけに冷たく見えた。彼女は、冷たく黒かった。
まるで死神のように。
一声、烏が鳴いた。夜鳴き烏は哀れに鳴き続けた。朝音と曜の、拗れた関係を嘆くように。
歪な月が、いつまでも二人を見守っていた。
互いに口を交わさず黙々と走り続け、二人は朝顔本家に到着した。
朝顔が家を覆うように蔓を延ばしている朝顔本家、緑木家配下の花家。青々とした朝顔の蔓に閉ざされた監獄。朝顔に支配された人形たちのドールハウス。この家には、朝音の罪が残っている──
来月次話投稿……予定。