1話
緑木家領地の片隅。森林塀の一角に一軒の廃れた家があった。かろうじて家の形を保っているように見えるボロ小屋には、深紫の長髪を持った少女が住んでいた。少女は人の住む地ではないこの林に、隔離されるようにして暮らしている。
十五歳という年齢にしては背丈のあるツリ目の少女は、瞳の色や髪色から見て朝顔家の者だ。背中にかかる長い三つ編みは纏りがなく、いくつもの後れ毛が這い出ている。もはや三つ編みの原形を保っていなかった。ツヤのない三つ編みは何日も洗われておらず、枯れた小枝のようにゴワゴワとしている。何週間も同じ服を着ているのか、純白だったシャツは黄ばんでいた。
彼女は怪しげに光る瓶を磨いている。瓶の液体から放たれる蛍光グリーンの光が、彼女の顔を照らし出す。
血の気がなく、目元には深いくまがあった。今紫の瞳は光を宿しておらず、どこまでも深い闇を秘めているようだ。
彼女は死人のような表情で淡々と作業をしている。寄せられた眉間のシワは、歳不相応に深く刻まれており、どこか不機嫌な様子だった。
強い風が吹いたなら、すぐに壊れてしまいそうな頼りない扉が、控えめに叩かれた。少女は目を細めて扉を見る。吊目や整った顔の造りも相まって、凶悪で冷酷な表情になる。
顔を会わせるのも恐ろしい表情な少女に、誰かが会いに来たようだ。好き好んで人が訪れるような場所ではない、ぼろ小屋だ。ましてや、こんな夜更けに誰が来るというのだろうか。
しかし、少女には心当たりがあった。
「なんで来るの? 曜」
殺意のこもった声が響く。恐る恐るというように扉が開かれ、渋緑の長い前髪が覗いた。曜と呼ばれた人物は体を半分だけ扉の隙間から覗かせる。
「申し訳ありません朝音様。お父様からの言伝がございます」
扉を半開きで支え、曜は告げた。
少女──朝音は眼鏡の縁を軽く握ると、曜を睨んだ。
「扉。壊れるから入って」
顔をうつむかせていた曜が、おもわず顔を上げる。驚きに染まった表情だった。
曜の顔は左目が前髪で隠れていることもあり、中性的だ。平均的な背丈と、しなやかな体つきが、性別の判断を困難にしている。
逆らうことなく家に入り、扉を閉めた曜は再び下を向く。
うつむいた曜は、仕事柄の由縁で部屋の観察をする。
床には砂埃が積もっていた。足元には砂泥が固まっている。隙間のある扉だ。風で入り込んだのか、枯れ葉や草が踊っている。
入り口の右手にある、シミが目立つ簡易的なベッドは、使われていないようだ。埃で灰色になったシーツの上に、いくつもの木箱が乗せられている。埃を被った、ズレのない蓋を見る限り、長い間放置されているのだろう。
朝音のいる机周りには、物が積み上がっている。床には本、小箱、瓶、紙の束、薬草、荒れた鉢、染みのついた紙袋、使い捨ての布切れ……足の踏み場がない程に物が散乱していた。人が暮らしているとは思えない状態だ。
見ると部屋全体に、うっすらと埃が積もっている。面倒臭がりの朝音は、一に片付け二に掃除を嫌う。掃除等、一切やっていないのだ。
全体を把握した曜は部屋の惨状に呆れた。この部屋は、まるで物置のよう。確かに元は物置小屋だったが、朝音が住めるように一通り整えた。たったの三年で、朝音は満点の物置小屋を復活させたのだ。
曜は朝音の生活力が皆無なことを知っていた。三年、言われるがまま主を放置した。時々食事を置いて、声をかけずに帰ることもした。
曜の想定を上回り、朝音は落ちぶれた。汚部屋になることは分かっていた。しかし生活の基本を、ここまで疎かにするとは思わずにいた。
失礼だと理解している。だが、我慢できなかった。部屋全体に充満している臭いと、朝音個人から漂う臭いに。鼻をつく臭いに耐えられなくなった曜は、片手で鼻を覆う。
「朝音様……最後に身を清めたのは何ヶ月前でしょうか」
曜の質問に朝音は答えず、自分の袖を嗅ぐ。訝しげに首をかしげる。薬瓶を机に置くと自分の髪を掴み、鼻を近づけた。みるみる朝音の表情が悪くなる。
「まだ、半月しか経っていないはず……」
絞り出された声に、曜が反応した。
「何月何日ですか、それは」「確か、七月三日」
曜は溜息を押し殺す。相変わらずな主への安堵と、呆れを含んだ溜息だった。曜は溜息と引き換えに、今日の日付を教える。
「本日は七月の三十日でございます」
「……は?」
朝音の威圧的な疑問系に、曜は反射的に謝罪する。
「っ申し訳ありません」
「謝罪不要、相変わらず面倒な……」
朝音は言いかけで口をつぐみ、微動だにしない曜を眺めた。しばらくして、曜に飽きた朝音は手元の薬瓶磨きを再開する。薬瓶には、改良中の薬が入っている。
朝音は緑木家当主直々の頼み事を承っていた。死者復活が目的の、蕾花研究。送られてきた本を基に生成した、貴重な薬。薬としての蕾花力を漏らさないために、小まめな手入れが必要なのだ。
しかし、どれだけ手塩にかけても薬は完成しない。朝音一人では薬の効能記録がとれないのだ。研究は行き詰まっているのが現状。大きな壁は実験体不足。
有志は全員、死なせてしまったから。本で釣った、ならず者も全員、無惨に……殺した。薬で、命を救うための物で、多くの命をむしりとった。研究は……行き詰まっている。
蕾花は一人につき一つ。蕾花の研究には蕾花持ちが不可欠だった。五大家階級最上位でも、余っている蕾花持ちは少数。薬を形にする試行錯誤の段階で、使える蕾花持ちは全員使い潰した。
試薬できる実験体は、もういない。
お父様の言伝は実験の催促だろうと、朝音は推測していた。実験が行き詰まり、研究者としてのプライドも投げ捨ててやりたい程、朝音は追い詰められていた。
寝食を返上し実験に没頭する生活は、一ヶ月以上続いている。様々な事象が重なり、朝音は苛立ちに溢れていた。
苛立ちの矛先は、押し掛けてきた身でありながら役目を果たさない曜に向かう。静かな夜に似合う沈黙は、朝音の一声で終わりを迎えた。
「うざい。……お父様の言伝」
一向に喋ろうとしない曜に、朝音が目的を果たすよう促す。曜は朝音を見ることなく、ただ仕事をする。
「はい。『夜音の命を救ってくれ』だそうです」
朝音は口の端をつり上げた。誰に見せるでもなく嫌味に満ちた表情をつくり、軽く嗤う。
実験の催促は無し、命を救ってくれ。
……そう、なるほどね。愛娘すら、最愛の人には敵わない。お父様の命令は、裏を返せば意味がでる。
あの日から、そう。ずっと、疑い続けている。
朝音は曜を睨んだ。睨みたいのは曜ではない。曜を通して父を睨んでいるのだ。凍てついた表情とは裏腹に、朝音は面白がるような声で呟く。
「それが三年越しの、娘への挨拶ってわけ?」
顔を伏せている曜に朝音の形相は見えていないが、殺気だけで身が縮む。朝音の殺意溢れた視線に射抜かれ、恐怖に喉を潰されそうだ。
「……夜音様は現在、家督の座にあります。しかし病に侵され生死の境で生きています。朝顔家、将来の安泰のために朝音様にお力を貸して頂きたく存じます」
「そう、よく言えたものね」
明るい声色で吐き捨てた朝音に、曜は震える。長い付き合いのある曜は知っていた、彼女が黒い笑顔を張り付けていることを。
朝音は薬瓶を箱に戻し、棚の整頓を始めた。朝音は自嘲する。
朝顔家から除籍した私を頼るなんて、お父様は変わりない。聞いていた通りだわ。朝顔家の病──開花病。私より先に彼女が発症したのね。予想通り……ざまあないわ。朝顔家の安泰なんてどうでもいい。早く滅べばいいのに。
開花病とは、蕾花が意思とは関係無く勝手に命を吸い取る病気で、蕾花力が蕾花のある位置──心臓に集まり固まる事で心臓が圧縮され、不規則な心拍を刻む。
放置し続けると心臓が止まって死に至り、蕾花が開花し、死体を肥料にして種をつくる。原因は不明。緑木家配下の家系が発症しやすい病歴があり、何十、何百人を死に追いやった病だ。
朝音の母は、この病気で死んだ。
部屋に招き入れられた曜は、朝音と沈黙を共有していた。曜の伝えた用件に応じようとしない朝音と、朝音を見ない曜。沈黙が続く中、曜は朝音との対面を懐かしんでいた。
主従として会話をしたのは三年前。曜が最後の命令を破ることはない。曜は忠実に、命令を遵守している。
「私に二度と話しかけるな」
「私の前に姿を現さないで」
似ているようで違う、完全なる拒絶。
本気で望まれた、絶縁のための命令。
当時は酷く狼狽えたが、それは己の未熟さ故だ。今の曜は、どんな命令でも平静な気持ちで受諾する。三年もあれば十二分に成長する。曜は最優秀従者として従者教育機関を出たのだから。
優秀な従者には、誠実が求められる。機関では、曜が主を変更することができない規則がある。主を変えることは、主従契約に違反してしまうのだ。
曜は朝音に何を言われようが、どんな仕打ちを受けようが、主を変える気は起きなかった。実家に戻るより、朝音様と御一緒したい。朝音様以外を、主として慕うことはできない。返しきれない恩と罪を、曜は今も背負っている。
朝音は曜が嫌いだ。忠実で素直で従順。従者として満点な曜。優等生、模範的、こんな言葉がよく似合う。まるで昔の私。朝音は同族嫌悪なのだ。誰の前でも、朝音の渋面は崩れない。二度と、笑いたいとは思えない。嗤われて嗤って、それで十分愉しいのだ。
入室時から変化のない姿勢で思い更ける曜を傍目に、朝音は呟く。
「もう、いい。命令撤回。あなたは不必要」
朝音は曜を散々に虐めてやろうと思った。自分で突き放すのではなく、曜が自身の意思を持ち、私から放れることを願って。
曜は驚きを抑え込み、顔を上げずに尋ねた。
「なぜ、撤回するのですか?」
届いていない。朝音は曜に投げつける。心を込めた一言を。曜の心が折れるように、自分の願いが伝わるように。
「飽きたの」
朝音の迷いない言葉は、曜を混乱させた。
飽きた? もう一度主従として付き添って良い、ということだろうか。……主従関係を、辞めるということだろうか。
朝音様は頑固なお方だ、何か心境の変化があったのだろう。詮索は余計だ。気まぐれな朝音様のこと、私の対応次第では命令撤回を撤回しかねない。
平常心でどのような命令も受諾する心構えがあったというのに、こんなにも戸惑うとは……まだまだ未熟だ。
そうか、考える必要などない。何を言われようが私は朝音様の従者だ。曜は懐疑を殺し、命令を受けた。
「……承知しました」
朝音様が何を願っているのか解っている。従者として正しいのは、主の願いを汲み取り、叶えること。曜の回路は、正しい答えを提示した。
『違う……私は』
曜の糸が、型外れの動きに、ひし、と軋む。
曜は顔を上げ、朝音の目を真っ直ぐに、見る。
『私は、貴方と共に居たい』
想いのこもった意思ある瞳が、朝音を捉える。朝音は渋っ面で曜を見たが、その目を逸らすことはなかった。
曜は糸に吊られている。その筈だ。しかし。
机から離れない朝音に、曜が歩み寄る。
足の踏み場がない床を、物に込められた想いを踏みつけないように、慎重に進んで。曜と朝音の間に立ちふさがる、積み上がった全てを越えて。
『主の、朝音の手を、二度と放さないために』
曜は手を伸ばした。
「行きましょう、朝音様」
変わらぬ渋面に、光が差した。
差し出された手と、曜を交互に見る朝音。
『なんで、伝わっていない』
朝音は戸惑う。曜は朝音と居ることを自身の意思で選んだ。
『嬉しい、なんで、悲しい』
正反対の想いが、傷を蝕む。
瞳の闇が、躊躇いに揺らぐ。
瞼を伏せ、眼鏡の縁を握る。
『もう一度』微かに望んだ。望んでしまった。
朝音は曜の手を取らず、それを軽く叩き払う。気怠そうに、しかし、はっきりとした返事を添えて。
「……はいはい」