1話
これは本編1話の前の話です。これを踏まえて1話を読むと……
皆様の楽しみ方が増えることを願っています。
潤葉は今日も手紙を書いていた。ある人物への懇願を綴った手紙だ。
『朝顔朝音様へ──』
既に送った何通もの想いは、ことごとく切り捨てられ、彼女に届くことはなかった。
手紙を送り始めて早一週間、未だ一通の返事も無い。それでも毎日のように手紙を書いては送った。藁にも縋る思いで書き続けてきた。
しかし、もう時間がない。一刻も早い改善を要する、予断を許さない事態に発展してしまったのだ。一縷の望みを掛けて、潤葉は朝音へ会いに行く事にした。
夜音が開花する前に。助かる命に間に合うように。
潤葉の生活圏内から遠く離れた、森林塀へと足を踏み入れる。緑木家に拾われて朝顔家に仕え始めて以来、来ることが無くなった場所で、潤葉にとっては昔の庭である。
鬱蒼とした林の影に身を溶かし、目的地までを観覧する。懐郷の念から昔との相違点を探す。森林内は人工物の存在が目立つようになっていた。人家が増えた影響か、道が変化している。
なにも無かった影と闇ばかりの森には、まばらに覗く家々からの息吹きが増えた。死んでいた空気に、人肌を感じた。
潤葉は心底ほっとした。地図を持ってきて正解だった、という安堵からではない。朝音が孤独の中に生きているわけではない、と知ったからだ。己が彼女の環境さえも孤独にしていたら、どう贖罪すべきか悩む事もあったのだ。潤葉なりに朝音のことは気に掛けている。
朝音の家を見つけた潤葉は、柄にもなく少々戸惑った。人の、元朝顔家のお嬢様という身分高いお人が、住む家には見えなかったのだ。傾斜の効いた歪んだ家は、まるで朽ちかけた物置小屋。まさかと思い地図を確認する。
潤葉が持ってきた地図は特殊で希少な物だった。地図には緑木家に所属している全員の蕾花力が登録されており、登録済みの蕾花力を感知すると自動で地図を生成し、誰がどこに居るのかを示す仕組みになっている。
地図は朝音の蕾花力を潤葉の側に示していた。つまり、ここが朝音の住居だと。
我に返った潤葉は、自身の平静を保つために身なりを正した。朝音の左遷先、住所を調べるために照合した書類に間違いは無かったのだから、住所はここで間違いないのだ。蕾花をアテにした地図に不正が働けるはずも無いだろう。眼前の今にも崩れそうな小屋が朝音の家だ。紛れもなく。
潤葉は自身の力加減を不安に思いつつ、張り切って扉を叩いた。何度目かで扉が開く。扉の軋みが家鳴りを呼んで、潤葉の訪問は森全体に響いた。朝音は潤葉を鼻で笑って出迎え、潤葉の羞恥心は小さく疼いた。
「貴方の呆けた顔なんて、いつ振りかしらね。いい土産じゃないの、どうぞ、お入り」
「ええ、はい……お恥ずかしいものをお見せしてしまいましたね、申し訳ありません」
「失礼します」と断りを入れ一礼し家に入る。部屋の中も案の定、潤葉の想像以上にゴミ溜めだった。足の踏み場がない、あるはずの床がない、道が見えない。ないないない、あるものといえば、これ。潤葉は呼吸を忘れ、異臭に鼻を曲げた。
朝音は道なき道を掻き分けてつくったスペースを指差し、座るよう促した。埃が舞い上がり、先程とは違う臭いが広がる。潤葉は必死に首を振って断り、戸前から動かない事にした。
朝音は無機質な声音で「そう」と呟いた。それから書類の積み上がった机の側に行き、近くに置かれていた木箱をひっくり返した。その上に座ったかと思うと、床に広がった木箱の中身を拾い始める。
潤葉は終始ギョッとしてしまった。突然荒々しく木箱をひっくり返したのはもちろん、朝音が拾っている物は自身の送った手紙だったのだ。
汚部屋も、潤葉のぎこちないポーカーフェイスも、気に留めない様子の朝音は気怠げに訊ねる。
「で、用があるんでしょ? 手短に話すだけ話して、さっさと帰りなさい」
自虐的な笑みを湛え警告を付け足す。
「こんなところにいたら、卑しい空気が染み着いてしまうわよ、朝顔家二代目家長の従者サマ」
刺のある言葉を少しも気にせず、無感情に受け流し本題を捩じ込みにかかる。
「はは、それくらいのことは構いませんよ。ところで、手紙はご覧頂けましたか」
潤葉は手紙の事を皮切りに、本題を語った。朝顔家の現状、夜音の病、朝音に開花病を治療してもらいたいと、夜音の命を救って欲しいと。
相槌はおろか見向きもされないが、潤葉は淡々とした口調で伝えた。朝音は全てを聞き終えると、手元に積み上がった紙切れをひとつにまとめて、潤葉に投げつけた。潤葉が話している間に、彼女が破いていた物だった。
「知ってる、そんなこと。貴方がそれで教えてきたでしょう」
投げつけられた衝撃で紙切れは炸裂し、足元の砂埃が舞い上がった。潤葉は眉を寄せ、口を覆いたい衝動を抑え、口元に片手を添えるに留める。
「……はい、そうですね。ご一読下さっていたのなら、お返事を頂きたかったですね」
嫌味を交わし、暫時微笑み合う。静かな戦いが繰り広げられ、部屋の空気は糸を張った。
砂埃が収まった頃、潤葉は添えていた手を下ろした。変わり果てた姿の手紙たちを見下ろしながら、静かに相手の出方を待つ。
「嫌。めんどうくさい。これが私のお返事よ。満足したかしら」
「はは、なにをお望みでしょう」
「貴方、相変わらず厭らしいわね。判っていて言わせたいんでしょう? 曜の所属を私に戻して頂戴。できないようなら、お返事は変わらないわよ」
潤葉にとっては想定済みの事態。これほど簡単に辿り着くとは考えていなかったため、黙り込む。朝音の曜──朝曜の答は既に得ている。
朝音の気が変わらない内に、最良案を呑んでもらうため、ルート確保の心算を立てる。
「他の何かでは、釣り合わないのでしょうか」
「そうね。貴方が私ごときに土下座でもしたら、釣り合いが取れてしまうかもしれないわ」
小馬鹿にした笑い声を混ぜた冗談だった。悪い、冗談だった。潤葉の思惑成就まで後ひと押しでもあった。逡巡の末、潤葉は伏した。夜音を救えるのなら安い対価であると、ほくそ笑む。真に受けるしかない振りを演じる事に徹する。
自身の足元に手を添え頭をつけて、体を折り曲げて小さくなった。潤葉の下には紙切れ、枯れ葉、砂、土、砂利、埃に湿気。ありとあらゆる汚れがあった。
衣装や髪がゴミに塗れようと躊躇わず、床に全身を、額をも擦り付けた。潤葉は文字通り塵に身を埋めて懇願した。
「夜音様を、彼女の命を、どうかお救い下さい」
「ほんと……嫌になる、辞めて頂戴」
「良い返事を頂けるまで、辞めるつもりは御座いません」
潤葉の土下座が予想外だったのか、己の誤算に気付いたのか、眼鏡をギリギリと握り、朝音は焦り始める。
「そ、そんなところで喋ったら、何を吸い込むかわかったものじゃないわよ」
「ご心配には及びません、私のことより、どうか夜音様を」
潤葉が綺麗好きと察している朝音は、彼がここまでする理由が理解できなかった。理解できずとも、覚悟だけは伝わった。
「もう、わかったわよ! 早く顔を上げなさい」
「ありがとうございます、朝音様。貴女様なら、そう仰って下さると信じておりました」
顔を起こす動きに併せて手の甲で額を拭き、毒気の無い笑顔を上げて感謝を述べる潤葉。埃が舞わないように気を払いながら、ゆっくりと立ち上がる。気取られぬように後ろ手を組み、両手を擦り合わせて汚れを落とす。潤葉は衣装の汚れを払わずに、朝音との約束を確認する。
「では、手紙の通りに本日含め七日後に──」
「手紙に従っても良いのだけれど、ひとつ条件があるの」
「わたくしの土下座では、やはり、釣り合いが取れなかった、と?」
「鬱陶しいわね、相応しい譲歩くらいするわよ。曜の所属を私に戻すのは過大要求だったもの。曜を取り返す事は諦めるわ」
「それはそれは。大変ものわかりの良い、ありがたきお言葉にございますね」
潤葉は敢えて煽り続けた。しつこい挑発に苛立った朝音は、あからさまな舌打ちをする。
「……期日の最終日に曜が私を迎えに来ること。最終日は日付が変わってからよ。最終日より早い、曜以外が来た。そういうことがあったら約束は白紙、いかが?」
画策したかいあってか、人に揉まれず鈍ったか、珍しく誘導に嵌まる。朝音が自ら提案した事は、潤葉の描いていた理想であった。彼にとって最善な決着がついた、この戦いは潤葉の勝利である。
「はい、承知致しました。言質は頂きましたからね……違わぬように、お気を付け下さい。約束の日に、きっとお会いしましょう、それでは」
潤葉は顔の前に小指を軽く掲げ、朝音に向かって「指切りげんまん」の振りをしてみせる。朝音が不服そうな表情で、それを眺めていると「絶対に守れよ」とでも言いたげな、作った笑顔で念を押される。
その後、潤葉は「失礼しました」と言って朝音への一礼を律儀に済ませ、慎重に扉を引いて帰って行った。
一人に戻った朝音は手近な書類の山を拳で叩き、憤慨を顕に呟く。
「何よあれ、脅しのつもり? すっかり馬鹿にしてくれちゃって。釘を刺すなら曜にでしょう?」
慣れない独り言に身震いし、眼鏡を握り、いつものように胸の内へ吐き出す。
『信じる、そんなこと……いえ、きっと来ないわ』
「曜なんか、来ないわ」
口をついて出た、物欲しげな言葉を一笑する。
「はあ、最悪……最っ低」
朝音は自己嫌悪に顔を歪め、自身が掛けている眼鏡を強く握るのだった。
一方の潤葉は外に出た後は扉の前を動かず、朝音の悶絶を盗み聞いていた。興味深そうに、冷めた瞳を細めて頬を撫で、唇だけで呟く。
『幼くなられたようで、まあ、一興、一興』
視線を傾けた先で目に留まった、前髪の埃を摘むと笑みを深める。早く身を清めなければね、と胸の内で呟く。
潤葉は木漏れ日に足を踏み出して、軽やかな足取りで帰路を辿り始めた。
謎多き人物、その名も潤葉! あのウルガの従者を務める、器量の持ち主ッ! 何をしでかすか、わかったもんじゃねぇ〜腹の底が知れないドス黒不思議ちゃん! 潤葉! イエ〜イ!
(あだ名はジャンパー、じゅんばって響きに近かったから。気に入っています。)