水面が揺れるとき
電車が止まった。それも、朝八時というまさに混雑する時間帯に。伝言掲示板に映る四文字に苛立ちを覚えながらも、もう今日や明日に怯える必要がなくなったその誰かに対して、羨ましいという感情を抱いた。
明日が怖い特別な理由はない。いや、何もないから怖いのかもしれない。大人に近づくにつれて気づかされた「俺には何もない」という事実。特技も、長所も、将来の夢も、生きる意味も。
一限の講義は何だったかと、スマホに保存した時間割を確認する。
「あーあ、朝から最悪。気分わるっ」
「まあ授業サボれるのはラッキーだけどね」
「たしかに」
後ろに並んでいた女子高生の話し声が聞こえた。
なんて不真面目で不謹慎な会話なのだろうと思ったけれど、思い返せば自分だって不謹慎なことを考えていた。女子高生のことを咎めることが出来る立場ではない。
振替輸送をするというアナウンスが鳴った。生憎、自分の大学の最寄り駅はこの路線しか通っていない。高額なタクシー代を払えるような金も持ち合わせていなかったため、ここで運転再開を待つしか無いようだった。
「おじさん、振替輸送あるって」
少女が声をかけている相手が自分だと気がつくのに時間がかかった。
「……教えてくれてありがとう。だけど、お兄さんはこの路線しか目的地に到着する手段がないんだ」
「そうなんだ」
なぜか満足げな顔でそう言うと、少女は改札の方へと立ち去っていった。
「お前、一限来なくて良かったな。教授が不機嫌すぎてマジ地獄だった」
「そうだったんだ」
道理で健幸のノートに落書きが一つも無いわけだ、と心の中で納得した。落書きしているのが見つかって怒りの矛先が自らに向いたら、それこそ地獄の始まりと言えるだろう。
「そう言えばさ、タケは三年のゼミどこにするか決めた?」
「俺は広中ゼミにしようと思ってる。あそこ緩くて楽だって先輩が言ってたんだよね」
「へー、あのゼミ楽なんだ」
「結翔もそこにすれば」
「んー、考えとく」
窓の外から雨音が聞こえてきた。
「まじか。傘持ってないんだけど」
「偶然だな、俺もだ」
「カサ忘れて、なんでそんな元気なんだよ」
内容と言い方がおまりにも対照的すぎて面白く感じた。
「ていうか、今日部活あるから一緒に帰れないんだよね」
「そうなんだ、了解」
タケが所属している水泳部は毎年全国進出を果たす強豪部活で、水泳部に入りたいが為にここの大学を受験する人もいる。そんな強者揃いのメンバーの中でもタケは期待の選手らしいと風の噂で聞いた。
「結翔は行かないのかよ、写真サークル」
ギクリとした。
「まあ、気が向いたら」
「それ、絶対行かないやつじゃん」
ケラケラと笑うタケに合わせて口角を上げた。
パーカーのフードを深くかぶって駅まで走った。駅に着いた頃にはもう、全身びしょ濡れになっていた。電車の座席は幾つか空いていたが、自分が座ったら次の人が座れなくなるのは目に見えていたので諦めて入り口の側で立っていた。
何駅か過ぎた頃、中年のおばさんが数名、話しながら入ってきた。
「そう言えば中野さん家の息子さん、最終的に旦那さんの会社を継ぐことにしたそうよ」
「あら、そうなの。あんなに嫌がっていたのに」
「でも良かったわよね。ミュージシャンになるって豪語していたときはどうなることかと思ったわ」
「そうね。道を踏み外さなくて良かったって、他人の子ながら思っちゃうわ」
このおばさん達は迷惑そうな視線を一切感じていないのか、それとも気づいていながら会話を続けられる強靱なメンタルの持ち主なのだろうか。電車内で始まった井戸端会議は当分止みそうに無かった。赤の他人の世間話から逃げるように、イヤホンを耳につけた。熱い歌詞がバンドサウンドに溶け込んでいた。
一人暮らしをしているアパートの最寄り駅についた。電車から降りて鞄の奥深くに落ちていった定期券を探していると、肩を二回叩かれた。
「おじさん、また会ったね」
「……せめてお兄さんって呼んでくれないかな」
「おじさんに指示される筋合いないんだけど」
俺だって知らない少女におじさん呼ばわりされる筋合いはない。喉まで出かかったその言葉は理性によって押し込まれた。
「カサささないと風邪引くよ」
「忘れたんだよ」
「おじさんバカだね」
嘲笑うかのような表情で少女は言った。その物言いが酷く頭にきた。
「君さ、さっきから初対面の人に向かって失礼な態度を取ってるってわかってる?」
俺が怒ると予想していなかったのか、少女の顔から笑みが消えた。これ以上少女と一緒にいる必要はない。その場を後にしようとすると、少女がパーカーの裾を引っ張った。
「……ごめんなさい」
涙目で言った。
「いいよ、もう。でもこれからは気をつけるんだよ」
少女がコクリと頷く。
「じゃあね」
「まって!!」
パーカーの裾をさっきよりも強く握る。
「おねがいがあるの」
「……なに」
「私を家まで送ってほしい」
少女が一体何を言っているのか理解できなかった。ただ、ふざけているようには見えなかった。
「迷子?」
少女は何の反応も示さなかった。
「最寄り駅は?」
「ここじゃない」
そういって少女が口にした駅名はここから二時間かかる場所だった。時計を見ると、もう既に六時を過ぎていた。
「とりあえず君のご両親に連絡してあげるから」
「ダメ!」
いきなり大声を出すものだから、俺は肩をビクリと震わせた。
「……おかあさん、体調悪いの。電話して起こしたくない」
「でもさ、今日平日だし、学校ならもう終わってる時間だろ。それなのに帰ってきてなかったら心配してる可能性だってあるし」
「今日は学校休みだったし、おそくなるって言ってるから大丈夫」
そう言って聞かなかった。
時間は危ういが、子供をこのまま駅に置いていくのも非情なように思えた。
「まあ、いいよ。送っていく」
「ほんと! ありがと」
子供らしい笑顔だった。
電車に乗っても少女は俺のパーカーの裾を握り続けていた。
「おいて逃げたりしないからさ。そろそろ離してくれないかな」
周りに迷惑にならない程度の声量でそう懇願しても、少女は「やだ」の一点張りだった。
「あの駅から少し歩いたところに水族館があるの知ってる?」
「まあ、聞いたことはあるよ」
「むかし家族三人で行ったんだ。おかあさんとおとうさんが初めて会った場所なんだって。二人の楽しい思い出が沢山詰まった場所だって、そう言ってた」
「いいね、そういうの」
少女は満面の笑みを浮かべながらうなずいた。
「あ、そうそう。パシフィックシーネットルもそこで初めて知ったんだ」
「なに、そのパシフィック……」
「パシフィックシーネットル! クラゲだよ」
楽しそうに海の生き物の解説を始めた。
「ほんとに好きなんだな」
「もちろん」
「今日も朝からそこに行ってたの?」
そう聞いた途端に少女の顔が曇った。
「……おかあさんとおとうさん、最近仲悪いの。仲良くしてほしいんだけど、どうすればいいかわからなくて。二人の楽しい思い出が詰まった場所に行ったらなにか思いつくかなって」
俺はなんて声をかけてあげるべきかわからなかった。
そこから二駅ほど行ったところで乗り換えをすることになった。駅構内はだいぶ複雑な作りをしていた。
「よくあの駅まで来れたね。かなり乗り換え難しくない?」
「えっとね、がんばった」
「それなら帰りも頑張ってほしかったんだけど」
「スマホの充電がきれちゃった」
それにはもう苦笑いを浮かべるしかなかった。
少女は眠かったのか、電車に乗るとすぐに俺の肩に寄りかかってまぶたを閉じた。
一駅進むごとに乗客数は減っていった。
俺はどうして、名前も知らない少女を家まで送り届けているのだろう。普通に考えたらおかしな話だ。それよりもおかしいのが、迷惑に思いつつもわくわくしている自分がいることだった。
少女の家の最寄り駅まであと一駅になった。気持ちよさそうに眠る少女の肩を叩く。
「もう着くよ」
「ん……」
少女は目をこすりながら俺の方を見た。
「眠いの?」
少女は首を横に振った。
「なんかわかんないけど寝ちゃった」
「あ、あるよね。電車とか車に乗ってると眠くなるやつ」
「んー、多分ちがう」
はにかみながらそう言った。
少女の家の最寄り駅の周りは普通の住宅街だった。
「ここからは一人で帰れるよね?」
「お礼したいから、家まで来て」
「いいよ、お礼なんて」
「おねがい! いいでしょ?」
「……わかったよ」
駅から十五分ほど歩いて到着した少女の家は、白を基調とした綺麗な一軒家だった。
「チャイム鳴らさないの?」
家の前で突っ立ったままの少女に聞いた。
「最後のおねがい。お兄さんがチャイムおして」
「なんで」
「いいから、おねがい」
仕方なくチャイムを押した。
中から女の人が出てきた。彼女が少女の母親なのだとしたら、母親が体調を崩しているという話は本当なのかもしれない。少しやつれているように見えた。
「あの、何のご用件でしょうか」
「お宅の娘さんが僕の家の最寄り駅にいて、家まで送ってほしいということだったので」
女性は不快そうな顔で俺のことを見た。
「嫌がらせですか」
「えっ、違います。この子が……」
俺はようやく気がついた。
女性の目が自分にしか向いていないことに。
「やっぱり」
少女は女性のことをジッと見つめていた。
「駅から帰れなくなって、みんなに無視されて。変だなって思ってたんだ」
少女は俺の方を見上げて、涙目のまま、力なくはにかんだ。
「ありがとう。ごめんね」
ずっと握っていた裾を離そうとした。
だから、俺は少女の手をつかんだ。離れたら全てが終わってしまう気がしたから。
「これだけ巻き込んだんだから、最後まで責任持ってここにいろ」
「でも、これ以上は悪いよ」
「今までの言動全て思い出してみろ。今更何に遠慮するんだ」
少女は少し迷ったそぶりを見せたあと、俺の手を握り返した。
「あの、もういいですか。これ以上いるなら警察呼びますよ」
女性はスマホを手に取ってそう言った。それがいかにまずい状況かは俺にもわかった。
もう怪しまれてもいい。逃げ道の無いところまで足を突っ込んでしまったのだから。
「小さな水族館。そこで貴方と旦那さんは出会ったんですよね」
女性が目を丸くした。やはり、隣にいる少女と本当によく似ていた。
「なんであなたがそんなことを……」
「昔連れて行ってくれたって、娘さんが言ってました。あと、そこで初めて見たクラゲがいるらしくて。なんだっけな。えっと、たしか、パシフィック……」
「シーネットル、ですよね」
先ほどまでの警戒心の籠もった声とは打って変わって、優しい声だった。
「本当、なんですね」
俺は頷いた。
リビングに案内されて座っていると、紅茶を出してくれた。
「娘は、今どこにいますか」
「僕の隣に足を伸ばして座っていますよ。……紅茶を取ろうとするなよ」
「それ、娘が好きなものですから」
笑いながら女性は言った。
ばらされたことが恥ずかしかったのか、少女は頬を赤く染めて唇をとがらせていた。
「あの一つ聞いて良いですか」
女性は真剣なまなざしで俺の方を見た。
「娘は事故に遭って、意識不明の状態なんです。でも、今そこに娘がいると言うことは、そういうことですよね」
「……もしかして」
俺は少女を見た。
「君はもしかしたら生き霊なのかも。それならまだ間に合うかもしれない」
少女が目を輝かせた。
「どうすればいいの」
「そんなの俺がわかると思うか?! でも、そうだな。例えば、帰るべき場所を思い浮かべる、とか」
「そうすればいいのか」
「いや、あくまでフィクションを元にして考えた解決策だし、過度な期待はするなよ」
「なんか、お兄さんが言うならいける気がする」
少女は目を閉じ、祈り始めた。
どれくらい経っただろうか。少女を温かい光が包み込んだ。
「……まなみ……」
涙声で言った女性の視線は確実に少女の方に注がれていた。
「……帰っておいで」
少女は笑顔でコクリと頷いて、消えた。
録画しておいたドラマをつけて、紅茶を飲みながら一人リビングでくつろいでいた。運命がどうとか、生きる意味がどうとか、そういう類いの恋愛話だった。内容は難しくてよくわからなかったけれど、感受性の塊のような人間だからか、酷く泣いてしまった。
玄関の開く音がした。私は玄関まで行き、彼に抱きつく。
彼は柄にもなく顔を赤くして狼狽えていた。
「おかえり」
顔を見上げながらそう言うと、彼は苦笑いを浮かべた。
「ただいま」
生きる意味なんてわからない。もしかしたらそんなもの無いのかもしれない。
ただ、彼が生きている世界に生きていること。
今はそれだけでいい。