城塞都市ブルーノ まとめ読み用【26,000字程度】
プロローグから城塞都市ブルーノ①から⑪までを一気に読めます。
●プロローグ
父親が有名な剣士であった俺は幼いころから剣術の修行に明け暮れていた。
修行は辛いことも多く決して楽しくはなかったが自分が強くなっていくことだけは楽しかった。
やがて道場の大人達との仕合でも負けることはなくなり道場破りの相手も俺がすることになった。
それでも父親にはなかなか勝てなかった。あと少し、もう一手、というところでいつも負ける。だから自分が父親よりも弱いとは思っていなかった。
12歳になったある日、父親は俺にあることを打ち明けた。いわゆる出生の秘密というやつだ。
俺は自分を受け入れることが出来ず、怒り、錯乱した。そしてその日、父親を半殺しにした。
そのまま家を飛び出して剣術で食いつなぎながらヒノモトの国中を旅してまわった。
そして俺はいつしか天下無双と呼ばれるようになっていた。
天下無双、良い響きだがすでに泰平の世を迎えたヒノモトでは剣術は金にならず仕官の口もない。
それでも俺を倒せば仕官出来ると信じた荒くれ者たちが俺の命を狙う。
堂々と名乗りを挙げる者、徒党を組んで襲う者、毒や吹き矢で暗殺を謀る者、あらゆる手段で俺は命を狙われるようになった。
殺し合いの毎日にうんざりした俺は天下無双とよばれる強さを手に入れた二刀流を封じ、改めて剣術を磨くことを志し、ヒノモトを出て西へ向かうことにした。
父親を半殺しにした頃から俺はある夢を見るようになった。
その夢では俺はどこか分からない場所で横になって夜空を見上げている。体に感覚は無く動くことは出来ない。
空にはいくつもの星が流れているが美しいとか綺麗とか形容できるような光景ではなく、この世の終わりを告げているような光景だった。
ふと横を見れば少女が立っている。金色の髪、白い肌は薄く光を帯びている。顔ははっきりとは見えないが泣いているのだろうか、激しい風が髪と、纏った洋物の黒いローブをたなびかせている。
少女は振り向くと何かを訴えるように話しかけてくるが、その声は風にかき消され聞こえない。
そして少女は俺にすがりつき、何かを必死に叫んでいる。
何度も繰り返し見る夢だがこの声を聞くことは出来ず、ここで夢は終わる。
どうしてこの夢を繰り返し見るのか、まったくもって見当も付かないが少女のまとった黒いローブは遙か西の国々で魔法遣いの装束としてよく着られていることが分かった。
ヒノモトにも黒いローブをまとった西の魔法遣いが訪れていたという記録が残っている。
そこで俺は西の国を目指すことにした。海を渡り大陸に上陸してからは行商人たちの用心棒をしながら西を目指す。
強盗や魔物に狙われる商人たちを守りながらの道中は楽しかった。
誰かを守るために剣術を使う、これこそが自分の目指した剣術なのだと喜びを噛み締める毎日だった。
そんな旅の日々が続いていたある日、あの魔法遣いに出会った。
●城塞都市ブルーノ
空は青く晴れ渡りちぎれ雲が流れ、道端には小さな花がそよ風に揺れている。
軽快なリズムを刻む馬の足音が響き小さな荷馬車が進んでいた。
荷馬車が轍に突き出た石を踏み、がたんと荷台が跳ねる。
おかげで俺は飛び起きた、荷台の後ろで横になっていたらいつの間にか眠っていたようだ。思い切り腕と背筋を伸ばしてノビをする。
ふと気付くと涙が流れていた。またあの夢を見ていた。思わず苦笑いがこぼれる。
繰り返し繰り返し見る夢は悲しい夢ではあるが不思議と嫌では無かった。
夢の中の少女と運命の出会いでもすれば見なくなるのだろうかな。
つまらないことを考えていると突然に馬車は止まった。何事かと前をのぞき込んでみると、馬車の行く手を阻むように並ぶ男達がいた。
見るからに物騒な野郎共が剣を持って立っている。どうやら仕事のようだ。俺は馬車を降りた。
御者台の横まで進むとこの荷馬車の主であるアバントが怯えた様子で必死に馬をなだめている。
「ああ剣士さま、いけません、相手は七人とても敵いませんよ」
やれやれ、自分の雇った用心棒だというのに見くびられたものだ。ヒノモトではこの程度の人数に狙われるのはしょっちゅうだった。
あの頃と違うのは二刀流を封じただけのこと。
「心配されるなアバント殿、四十七人までは相手をしたことがある」
「よ…四十七人ですと?!」
俺は馬の鼻を撫でてやり、前へと進み出た。
「お前が用心棒か?」
野盗共の頭らしき男が尋ねる。大きな体躯にひときわでかい剣を背中に帯びている。
「ああ、そうだ。お前らにくれてやる物は無い」
「いい度胸だがこの人数相手に勝てると思っているのか? おとなしく金目の物を置いていけば命までは取らんがどうする?」
まさに野盗が吐くセリフだな。
「お前らこそ七人いれば俺を倒せるとでも思ってるのか?」
頭の表情が変わった。
「マルコ、トリーノ、かかれ!」
二人の男が抜刀し、俺を挟むように進み出てきた。
何度となく複数を相手に戦ってきた経験から俺はすぐに分かった。こいつらはこういうことに慣れている。
試しに数歩進んでみると、俺が進んだだけ二人は退る。なるほど、やっぱりだ。
「お前ら、こういうの慣れてるな?」
返事は無かったが少しの動揺は見て取れた。
「どうした? 剣を抜かないか?」
頭が俺に向かって怒鳴った。
「俺のことは構わんからさっさとかかってこい!」
俺が鞘に手を添え鍔に親指をかけると空気が変わった。鎺を抜き、いつでも抜ける態勢で二人を睨みつけた。
二人はじりじりと間合いを詰めていた。探るように少しずつだ。
俺は誘うようにわざと視線を外してスキを作ってみせるが簡単には乗ってこない。やはり慣れてやがる。
それでも焦ったか、しびれを切らしたか、俺の手が柄に触れた瞬間同時に斬りかかってきた。
右が先か、左が先か、俺は同時に観察する。わずかに右が速い、定石通りか。
斬るつもりだったが刹那に気が変わり、鞘を回して刃を裏返す。
こいつらスジはいいが俺を相手にするには遅い、地を蹴り二人の間をすり抜けながら右からの剣をくぐりながら剣を抜きざま刀身を奔らせ背中を打ち、振り向きざまに左の背中も打った。
再び刀身を鞘に収めると二人は同時に地面に倒れた。
「全員同時でも良かったんだぜ? 次は五人でくるか?」
頭を睨みながら言ってやった。
しばらくの間倒れた二人を無言で見ていたが俺に向き直るとこう言った。
「どうやら我らはお前を見くびっていた、ということらしいな」
俺は肩をすくめて見せる。
「そういうことだな」
頭は背中の大剣を抜いた。
「我が名はユハ・マツーダ! またの名を剛腕のユハ! 剣士よ!我と尋常に勝負せよ!」
俺は思わず笑いが出た。
「野盗風情が名乗りを挙げて尋常に勝負だあ?」
「我が負けた時には残った者らには寛大な処遇を頼みたい」
「えらくムシのいい頼みだな。だが、まあいいぜ、そういうのも嫌いじゃない」
小さな声だったがたしかに聞こえた返事は「かたじけない」だった。
「だが、俺は名乗らねえぞ。野盗風情に名乗る名はないからな」
頭は頷くと「いざ!」と声を上げた。
この男、野盗なんかにしては綺麗に構えやがる。野盗ってのはもっと粗暴な剣術ともいえないような振り回し方をするもんだ。剣なんてものよりも鈍器に近いような大剣を持ちながらこの構えだ。違和感しか感じねえ。
俺は今度は剣を抜いて中段に構えた。応じるように男は脇構えに移行する、攻撃的な構えだ。
睨み合いが続くが今度は小細工はしなかった。あちらが仕掛けてきた勝負だ、あちらの機会に任せることにしたからだ。
すぐに機会はやってきた。薙ぎ払うように打ち込んできた。
俺は一歩退き切っ先をかわす。すぐに返しながら打ち込んできた。
スジは悪くないのだがやはり遅すぎる。もう一歩退いて切っ先をかわした刹那、懐に飛び込み男の喉に刃を食い込ませる。
頭は観念したのか目を閉じた。
「……やれ」
「やだね」
俺は剣を収めた。
「勝負は着いただろ? 俺の勝ちだ」
頭は崩れ落ちるように膝をついた。
「分かったらあそこでノビてる二人も連れてさっさと消えな」
勝負を見守っていた野盗の手下どもが倒れた二人にかけよるとうめき声が漏れた。
「どういうことだ」
「峰打ちってやつだ。まあ骨くらいは折れてるかもしれんが死にはしない」
二人は抱えられて何とか立ち上がり、よろよろと歩き出す。
頭はそんな手下どもを見つめている。
「お前は……いったい?」
俺は頭を掻いた。
「あー、なんていうかな、俺はずっと剣術の修行をしてきたんだ。だから剣を交えると相手のことがだいたい分かる。お前ら野盗にしては上品すぎるんだよ、ちゃんと剣術を学んできたんだろ? 詮索はしねえが食っていかなきゃならんからこういうことしてるんじゃねえかって思ったんだよ。合ってるかどうかは答えなくていい、だから早く消えろ」
野盗共はこちらをちらちらと見ながら退散を始めた。頭も怪訝な顔を何度もこちらに向けながら歩き出す。
「待ちな」
俺はふところから銭の入った巾着を取り出すと頭に向けて投げた。
受け取った頭はそれが銀貨のつまった袋だと分かるとさらに怪訝な顔になる。
「大金じゃあねえが七人少しの間なら食ってけるくらいはあるだろ。こんな街の近くで野盗なんかやってたらいずれ自警団に狩られる。誇がまだあるならやり直せ」
頭は手下たちを振り返る。そしてまた俺に向き直ると片膝を着いて深く頭を下げると、立ち去って行った。
「剣士さま! さすがです! ありがとうございました」
荷馬車の主アバントは大喜びで駆け寄ってきた。
「しかし、どうして奴らを逃がしてしまわれたのです?」
「あんなのは自警団に任しておけばいいんだよ」
「ま、それもそうですな。では出発しましょう、今からなら昼過ぎにはブルーノに到着できるでしょう」
馬車の支度を待っているとどこからか声が聞こえてきた。
「そこな剣士よ!」
声の方を向けば少し離れた高台にある岩の上に少女の姿があった。
自分の姿を認めたことを確認したのか声の主は続きをはじめる。
「魔法遣いローテアウゼンが問う! 祖は誰や!」
俺は思わず息を呑んだ。少女は黒いローブを纏っていた。一瞬夢の少女が現れたかと思ったがそんなはずはない。俺は大きく息を吸ってから答える。
「我が名はタケゾウ! 東の国ヒノモトより参りし剣士なり!」
少女は満足そうな表情を浮かべると応じてこう言った。
「剣士タケゾウ! その名、我が心に刻もう!」
そう言うと岩の反対側に飛び下りて姿を消してしまった。
突然のことに俺は事態を呑み込めなかった。なんなんだあいつは? 心に刻もうって、えらく大袈裟だな。
しかし俺にとって重要なのは黒いローブを纏った魔法遣いが現れたということだ。
名前、なんていったっけ? ロー……廊下安全? いや、違うな……まあいいか。
俺はなぜかまた会えるような気がしていた。
ブルーノの街に着いたのは予定よりも早く、昼前には到着していた。
荷馬車の主であるアバントどのはブルーノでは常連の行商人であり城壁の中に入る検問での手続きは手慣れたもので、また守衛からの信頼もあってすんなりと街へ入ることが出来た。
行商人たちは街に入ると所属する商会へ向かい商品の納入などの取引を行うらしい。まあ詳しいことは分からないが用心棒代を貰うまでは付き合わなければならない。なんせ野盗どもに有り金全部渡してしまったから一文無しだ。
外でしばらく待っているとアバントどのがえらく上機嫌で出てこられた。思っていたよりも高く取引が出来たそうで用心棒代も約束の倍払うと言ってくれたのだが丁重に断らせてもらった。
俺には大金は必要ないからな、少しの間食っていけたらそれでいい。
アバントどのと別れてからとりあえず空腹であったので市場の屋台でパンと芋を茹でた料理を軽く食った。
不味くはないが正直なところヒノモトの飯が恋しくなる。
とりあえずブルーノの街を歩いてみることにした。
この城塞都市はでかい街だ、アバントどのに聞いた話では城壁の内側の街には七万人余りが暮らしているそうだ。
この辺り一帯の交易の中心地でもあり毎日多くの行商人が訪れ、商品を卸し、買い付けて去っていくのだとか。
確かに街には活気があり豊かに暮らしているように見える。
大道芸を見たり、武器屋で剣を見たり、昼寝をしたりと過ごしているとすぐに日が暮れてきた。そろそろ今夜の寝床を決めなければならない。
宿場通りを歩いていると客引きがやたらと声をかけてくる、俺は一番安いところでいいんだがな。適当にあしらいながら歩いていると後ろから呼び止められた。
「また会うたのう、タケゾウよ」
この声は。振り向くと黒いローブを纏った少女、魔法遣いがいた。
「ああ、あんたか。この街に住んでるのか?」
「まあな」
そう答えると魔法遣いはローブのフードを外した。紅い大きな瞳の美しい娘の顔があらわになり瞳のように紅い長い髪が見えた。金色の髪の少女ではなかった。
「んん? 貴様いまがっかりせんかったか?」
「え? いやいや、なんでがっかりするんだよ」
なんという鋭い奴だろうか、しつこく疑惑の視線を俺に向けている。
「んー、まあよいか。ところでタケゾウよ、行くところがないのか?」
「そうだな、まだ決めてはいないかな、一番安い宿にしようかと思っている」
「そうか、ならば儂と夕餉でも食わぬか。馴染の店に案内するぞ」
とりあえず断る理由もないし誘いに乗ることにしてみた。
「構わないが、法外な料金を請求されたり怖いお兄さんが出てきたりする店じゃないよな」
「たわけ! そもそも貴様なぞ連れて行ったら返り討ちにしてしまうじゃろうが」
「ははは、そうだな」
「黙って付いてこい、貴様の好みは分かっておる」
魔法遣いに着いていくと宿場通りから通りをひとつ渡った。そこは酒場通りとなっていて酒場や飯屋が並んでいた。
「ここじゃ、入るぞ」
周囲の店と比べて特に立派とかいうわけでもなく、本当にただ馴染みの店のようだった。中に入るとすぐに大きな声で歓迎された。
「いらっしゃいませ! あら、魔導師さん今日はお二人?」
「うむ、まあ、ちょっとな」
「奥のテーブルにどうぞ、すぐにうかがいますね」
まさに常連客らしいもてなしだった。元気のいい給仕の娘も好印象だ。
「ほれ、突っ立ってないで席にいくぞ」
「ああ」
テーブルに着くとすぐに給仕の娘がやってきた。
「この男はヒノモトから来たのじゃ、いつものやつをコースで二人分頼む」
給仕は身体をのけぞらして厨房に向かって叫んだ。
「マスター! 魔導師さんがいつものやつをコースで二人前大丈夫~?」
給仕はにっこりと笑う。
「大丈夫だって、大至急で調理やっちゃうね! それから今日は魚のいいやつ、入ってるわよ」
「おお、そうか、では魚も例のアレで頼もうかの」
「一人前でいい? 二人前、いっちゃう?」
「二人前じゃ」
「はーい、ありがとうございまーす、お飲み物は?」
「そうじゃな、エールをふたつ」
「ご注文は以上でいいですか?」
「うむ」
「では、少々お待ちください」
給仕の娘は快活で見ていて清々しい、制服はディアンドルとよばれる民族衣装らしいが胸元を強調した服は目のやり場に困る。
斜め向かいに座る魔法遣いはローブを纏っているおかげで身体の線ははっきりせず胸の膨らみもあるのかないのか分からなかった。
「貴様、いま儂の体を不埒な目で見んかったか?」
「はあ? そんなわけないだろ」
不審そうな目を向ける魔法遣いから目を背ける。
妙に勘がいいというか鋭いやつだ、こんな奴と共に食事となるとある意味では真剣勝負といってもいい。
覚悟が必要だと思わず息を呑んだ。
待っているとすぐに給仕がエールと呼ばれる飲み物を持ってきた。
ジョッキという小さな樽形の器から白い泡が溢れてこぼれている、魔法遣いの顔を見るとにやりと笑った。
「これを貴様に飲ませたかったのじゃ、ぐいっといけ、ぐいっと」
そう言うとこれが手本だとばかりにぐいっと飲んで見せる。
俺も負けじと喉の奥に流し込む、爽やかな飲み口にほのかな苦みが心地よく思わず喉を鳴らして一気に飲んでしまう。
「ぷっはぁ~!」
思わずこぼれた言葉は二人同時だった。
「どうじゃ、いけるじゃろう」
「ああ、美味い! もう一杯だ!」
「わしもじゃ」
給仕を呼ぶとすぐにおかわりを持ってきた。
「そういえば乾杯がまだじゃったな」
「そうだな」
「んむ、では儂と貴様の出会いに乾杯」
出会い? まあいいか。
「乾杯」
乾杯してすぐに最初の料理が運ばれてきた。
「はーい、お待たせしました、次の料理もすぐ出来ますからねー」
テーブルに置かれた料理は見たことのあるものだった。
「これは?」
魔法遣いはやや自慢げな笑顔を見せてから答えた。
「刺身じゃ、近くの川で捕れる鱒がな、刺身にすると美味いのじゃ」
「へえ、驚いたな、ヒノモト以外の国では生で魚は食わないと聞いていたが」
「ここでこれを頼むのは儂くらいじゃ。そのままでは臭いからの、儂と店主で調理法を研究したのじゃ。まあ食ってみよ」
久しぶりの刺身だ、ちゃんと薬味も醤油も添えてある。
「うん、美味い」
続けてエールを流し込むとこれがまた美味い、料理との相性も最高だ。
魔法遣いも美味そうに食べて、そして飲んでいる。続けて提供される料理は食材こそこの地のものだが調理法や味付けをヒノモトに近くしてあってどれも最高に美味かった。
魔法遣いは俺に料理の説明をその都度してくれる。ヒノモトの食べ物に詳しいようで調理法など店主と研究してきたそうだ。
「あんたはヒノモトの料理に詳しいんだな、行ったことでもあるのか?」
「ああん?」
魔法遣いは少し酔っているようだ、顔も赤いし目が少し据わっている。
「行ったことじゃと? あるに決まっておろうが。それよりも、じゃ」
魔法遣いは俺の首根っこを掴んで引き寄せた。
「儂の名はあんたではない、名乗りを交わしておるのじゃ、名前で呼んでくれんかの」
「ん、あー、そうだな名前でな、あー、名前な」
まずいな、確かにあの時聞いたのだが異国の名前はピンと来なくて覚えにくいんだよな。
「あ? なんじゃその曖昧な態度は? タケゾウ、貴様まさか?」
「何言ってるんだ、大丈夫だ、ちゃんと覚えてるぞ、漏斗安全」
魔法遣いの表情が一気に冷たくなった。はっきりいって怖い。掴んだ首根っこを思い切り突き放した。
「儂の、儂の名を聞いておらんかったのか?」
「聞いてたとも、ちゃんと聞いた、だが異国の名は覚えにくいんだよ、だいたい合ってただろ」
魔法遣いの怖かった顔が一瞬だけ切なげな表情に変わった、ような気がしたのだがすぐに怖い顔に戻る。
「ではもう一度名乗ってやろう、儂の名は……………」
魔法遣いは言いかけて固まってしまう。少し考えてから意を決したように口を開く。
「儂の名は、シャ……………」
今度ははっきりと切ない顔を俺に向けた、だがまた言いかけて固まってしまう。その訴えるような顔が一瞬、夢の中の少女と重なった。
まさかな、俺も酔いが回ったようだ。
魔法遣いは大きく深呼吸をして、そしてこう言い放った。
「良いかよく聞け、儂の名はローテアウゼン、ローテアウゼンじゃ」
「お、おう、今度はよく分かった。ロ、ローテアウ、アウゼン、だ。少し呼びにくいな」
魔法遣いを見ると遠くを見るような目で俺を見ている。
「どうした?」
我に返ったように目を逸らす。
「な、ならば好きなように呼べばよい」
「そうだな、ローテ…ロ…ロ……んー、ではロッタでどうだ?」
目を見開いた間抜けな顔で俺を見ている。なかなか表情豊かな奴のようだ。
「そ、そうじゃな、んむ、ロッタか、ではそう呼ぶがよい」
何故かは分からないがどこか嬉しそうにエールをぐいっとあおった。
「すまぬがエールをもう一杯、お代わりじゃ!」
俺も付き合ってエールをあおる。
この後、何を話したのかよく覚えてはいないが後に給仕の娘に聞いた話ではかなり二人とも盛り上がっていたそうだ。
少しだけ開かれた窓から涼しいそよ風が頬を撫でる。
それはとても心地よくまどろみの中ゆっくりと覚醒する意識を自覚しながら目を開くと見慣れぬ天井が見えた。
寝床に横たわっているがどこの寝床なのかが思い出せない。確かロッタとエールを飲み交わしながら色々と語ったような覚えはあるがいつお開きとなったのか、俺はどうやってここに辿り着いたのか思い出せない。
視線を天井から横へと移動すると穏やかな表情で俺を見つめるロッタの姿があった………???
「うわああああああっ!」
思わず飛び起きた。
「お、お、おま、お前、何してるっ?」
「ん? 寝顔を見ておったんじゃよ、かわいい寝顔をしおってからに」
全く状況が分からない。なんでロッタが枕元で俺の寝顔を見ている?
「ふふふ、そう騒ぐな、ヒノモトでは色々あったのじゃろうがな、ここに来て随分と険が取れたのではないか? 良かったのう」
ヒノモトでの事を俺はロッタに話したのか? よく覚えていないな……………
「ここは、どこなんだ?」
「ここか? 儂の家じゃ、心配せんでもとって食うたりはせん」
そんな心配はしていないんだが……とりあえず辺りを見回すとあまり使わない部屋なのだろうか生活感のない質素な部屋で俺の寝ていたベッドと空の棚がひとつあるだけだった。そして枕元には俺の唯一の荷物といえる剣が置いてあった。
「起きたのなら風呂に入るがいい、さっぱりするぞ。儂もさっき上がったばかりじゃ」
風呂か……ありがたいな。
「ああ、ありがたい。そうさせて貰おう」
「どれ、少し追焚きしてやろう」
そして階下にある風呂場へと案内された。
「服も洗うてやるから脱いだらこの籠へ入れておけ。上がるまでに代わりの服を置いておく、覗いたりはせんからゆっくり入るがいい」
そう言うとからからと笑いながら出て行った。
風呂は一週間ぶりくらいだろうか、いやもっと長いか……とにかく久しぶりの風呂は気持ちよかった。
じっくりと暖まり上がってみると脱衣場には浴衣が置いてあった。ヒノモトかぶれかとも最初は思ったが、ロッタなりに精一杯に俺をもてなしてくれているのかもしれない。きっとそうだろう。
そうすると何故俺にそこまで? という疑念がわく。
あるいはヒノモトから来た者にはずっとこのようにもてなし続けてきたのか……? しかしそれも考えにくい。
いろいろ考えていると猛烈な睡魔が襲ってきた。もう考えることも面倒になって俺は二階の部屋に戻るとベッドに潜り込み、すぐに混濁の中に沈んだ。
甘く香ばしい薫り、食欲をそそる朝の薫り。
この匂いはよく知っている。飯を炊く匂いだ。そう思ったら猛烈な空腹感を感じて目が覚めた。
少しだけ開かれたままになっている窓から明かりが差し込んでいる。
もう朝だ。
俺はゆっくりと体を起こし思い切り伸びながら大きなあくびを一発かます。
薫りに誘われ階下へ下りる支度を調えていると、突然大声が聞こえる。
「待て!待て待て、マルソー! こらぁ!」
ロッタのやつ、一人で何を騒いでいるのか。
階段を下りていくとロッタだけではない声が聞こえてきた。
「おはよう、朝から賑やかだな」
何やらロッタと押し問答をしているらしき声の主は紫色のローブを纏った少女だった。ちょうどロッタの背中越しに目が合った。
「はあぁぁぁーーーーーーーーーーーーーーっっっ!!!!!!!!」
俺を見た少女が叫び声をあげる。
「師匠が、お、お、お、オトコを、つつつっつ連れ込んでるっ! いやああああぁぁあぁぁぁっ!」
「たわけ! 落ち着かんかマルソー、連れ込んでるとはなんじゃ」
しかしまあ、普通に考えれば女の暮らす家で男が出てくれば驚きもするだろうな、とは思う。
「驚かせてすまんな、俺も事情はよく覚えてないんだが昨夜はここに泊めてもらった。すぐに支度して出ていくつもりだ」
マルソーと呼ばれた少女は怪訝な顔で俺を睨みつける。ロッタにも疑念の溢れる視線を向けた。
「マルソー、そういうことじゃ。飲んだくれて倒れておるのを放ってもおけまい」
「ええっ、そうだったのか?」
ロッタは頷いた。
「……すまん」
「まあよい、それよりもマルソーに頼みがある」
「わたしにですか?」
「頼みというか、おつかいじゃな。領主のファンデンベルグ候に面会の予約を入れてきてほしいのじゃ」
「はあ、それはお安い御用ですが……」
マルソーはまた俺を睨んだ。
「あなた、早く出ていきなさい。師匠が優しいからって甘えてちゃダメよ!」
そう言い放って出て行った。
マルソーを追い出したロッタは肩で大きくため息を吐いた。
「すまんの」
俺の方を向いてそう言ったロッタの顔は心底疲れたいった感じだった。
「師匠と呼ばれていたが、弟子なのか?」
ロッタはこくりと頷いた。
「とりあえず朝餉にせんか、ちょうど出来たところじゃ」
「そうだな、いい匂いに誘われて腹ぺこなんだ」
ロッタに案内され食卓に着くとヒノモトでは当たり前のような朝餉の支度が整えられていた。
白い飯に味噌汁、浅漬け、干物、豆腐が並べられている。どれも美味そうだ。
「さあ、召し上がれ」
俺は手を合わせた。
「いただきます」
うん、美味い。俺の食いっぷりが良かったのか俺を見るロッタの表情は満足そうだ。
「おかわりもあるでな、落ち着いて食べるがよいぞ」
早速、飯のおかわりを貰った。
「ここでヒノモトと同じ朝餉が食えるとは思わなかった」
ロッタは飯をよそいながら笑った。
「米は東から来た行商人に分けてもらった種もみを植えて少ないが家の裏で作っておる。味噌や醤油は儂の手製じゃ。あとは昔にヒノモトで習ったやり方を思い出して見よう見まねじゃ」
ロッタがヒノモトにやって来たという話には少し興味が沸いた。料理を教わりに行ったというわけではあるまい。
ロッタもタケゾウと同じようにきれいに箸を使い、ヒノモトの娘と同じような所作で飯を食っている。
「その……」
「なんじゃ?」
話しかけたものの質問の糸口が見つからずどうしたものかと考え込んでしまった。
「えーと、弟子は……その、よかったのか?」
「ああ、マルソーか。騒がしくてすまんかったのう、あれはああ見えても真面目じゃし物覚えも良い、儂の後継ぎとなるであろう一番弟子じゃ」
「そうなのか、朝は何をあんなに大声をしていたんだ?」
ロッタは少し難しい顔をした。
「んー、それはのう…………」
ロッタはひとつため息を吐いてから話し始めた。
「魔法遣いは魔法遣いらしい食事を摂らねばならん、とな、そういう古臭いことを言うのじゃ。それもまあ若さゆえという部分もあるのじゃがな」
「魔法遣いらしいとは例えばどんな……」
「そうじゃな、例えば薬草と穀物を煮込んだ雑炊とかな、トカゲの尻尾だの魔物の肉だのそういうものじゃな」
「美味いのか?」
「まあ、工夫すればそれなりに食えるものにはなるんじゃが、食材の問題ではないのじゃ、あ、いや別にあれの料理が不味いというわけではないぞ。決してな、不味いことはないんじゃ、不味くはな…………」
と言うがその表情からはそうとうに不味いのだとはっきり分かる。
「それで儂がヒノモトの料理を作るのがどうにも気に入らんらしくてな、儂が料理をしているのを見つけるたびに薬草だのトカゲだのを入れて改良しようとするのじゃ」
ロッタはまた大きなため息を吐いた。
弟子がかわいいからこその悩みだろうと分かるその物言いが微笑ましくて俺はついくすりと笑ってしまった。
「それでそのヒノモトの料理はどこで教わったんだ?」
ロッタは俺を怪訝な表情で見つめる。
「儂がどこで教わったのか、貴様は知らんのか?」
「ん?……知るわけないだろう」
「ふむ、そうか………」
ロッタは少し考えるような素振りを見せる。
「ではどこから話せばよいかの…そうじゃな……魔法遣いは男も女も12歳から14歳くらいで家を出て独り立ちをするのじゃ。もちろんそれまでに独り立ちに必要な術を叩き込まれる。
もちろん儂も同じじゃったが少し事情が違った、儂は里の首領となる家の生まれじゃった。そして儂は天才と呼ばれ才能ある子供に向けられるありとあらゆる称賛の対象であった。
実際に魔法に関するあらゆることが思うがままに出来たし誰よりも上手かったし、禁忌とされる魔法のいくつかすらもそつなく行使できた。自分でも我が身の才能を疑うことはなかった。それは今からにすれば思い上がりであったし実際のところ儂は有頂天であった。
儂から見れば拙い術しか使えぬ同い年の子らが次々と里から巣立っていくのに、儂は皆が里から出てはならぬ、お前は里に留まり魔法の理を紐解き磨くのじゃと引き留めるのじゃ。
儂にはそれが我慢ならんかった。儂はこの世界のどこに行ってもやっていける、魔法遣いの里をもう一つや二つ建国してみせると思っておったのじゃ。
おとなしく皆の言うことを聞くふりをして過ごしながら15になった頃、儂は里を抜けた。
東の国には違った体系の魔法が多くあると書物で読んで知り、儂の興味は東の国に向いておったからの、東の果てまで行ってやろうと思っておったのじゃ」
一気に語ったロッタはぐいっと茶をすすった。
長い話だったが、要するにロッタにはよき理解者がなく孤独であったのだなと理解した。
「それでヒノモトへ辿り着き、そこで料理も覚えたということか」
「まあそういうことじゃ」
俺は箸を置いて手を合わせた。
「ごちそうさま」
「もうよいのか?」
「久しぶりに美味いものを食わせてもらった。ありがとう」
「うむ、お粗末様」
そう言うとロッタは湯呑に茶を注いでくれた。
「儂も、タケゾウには聞かねばならぬことがある」
「俺にか? なんだ?」
「この街には何をしに来たのじゃ?」
「何をしに来たわけでもないが、旅の途中で立ち寄ったに過ぎない」
ロッタは妙な笑顔のままで固まっている。
「はあぁぁぁ?」
「どうした?」
「何かあるじゃろうが、もっとこう……運命を感じたとか誰かが待っているような気がしたとか……のう?」
俺は少しぎくりとしたが、夢の少女のことは特にアテがあったわけじゃないしましてやこの街にいると思って目指してきたわけじゃない。何よりそんなことをロッタの前で口にすれば何を言われるか分かったものではない。
「特にないが」
輩が睨みつけるような顔でロッタは俺を睨む。なんて顔をしてやがるんだ。
「ちょっと手を見せてみい」
手を差し出すとロッタは小さな手で包み込むように握った。触れた瞬間、神経に何かが触れたような感覚が奔った。
「剣士の手じゃの、大きくて力強い……貴様、人間か?」
「はあ? 俺が人間以外の何に見えるってんだ」
「ふむ……まあよいわ、そういうことか……」
ロッタは握っていた俺の手からそっと手を離した。
「で? これからどうするつもりじゃ」
「そうだなあ、特に考えてはいないが」
「そうか、では儂の護衛を頼まれてはくれんか」
「護衛?」
「そうじゃ、儂は里帰りをするのじゃ。今日これから支度をしてすぐに発つ」
「そうかあ、俺はもう少しこの街に留まってみようかと思うんだが……」
「はあぁぁぁ?」
またこの顔か。
「ちゃんと聞いておったか? 儂が、この儂が里帰りをすると言うたのじゃぞ?」
「聞いてたが、何か?」
「ああそうか、そういうことか、なるほどなるほど、うんうん、そういうことか、どうにもおかしいと思ったんじゃ……」
「だいたいロッタには護衛なんかいらんだろ。さっき魔法遣いとして天才とか言ってたじゃないか」
「自分で自分を天才とかそんな風の悪いことなど言うておらんわ」
ロッタはローブの袖をまくって俺に見せた。腕輪のようなアクセサリーがいくつか手首に着けてある。
「この腕輪は力を制限する封印じゃ。両腕と両足にも着けてあってな、自分で課したものじゃが自分では外すことが出来ん。今の儂はそこらの魔法遣いと変わらぬ程度の力しか行使できぬ」
「なんでまたそんな封印を?」
ロッタは大きな溜息を吐いた。
「ヒノモトでな、儂は激情にまかせて禁忌を行使してしもうたのじゃ。そしてこの世界を滅ぼしかけた。以来、儂は戒めとして自分では外せぬ封印を課したのじゃ」
なかなか物騒な話だが、さっきの話からすると幼い頃のロッタであったならそういう自棄を起こしても不思議ではないような気がするな。そのロッタをして汎用な力しか行使できないような制限を自らに課すというのは余程のことがあったのだろう。
「どうじゃ? これでも儂の護衛よりもこの街の観光がしたいか?」
返事を渋る俺に業を煮やしたらしい。
「分かった、金か? いくら欲しい?」
「いや、金はいらん」
「ならば何か……剣か、剣ならばどうじゃ? 何でも斬れる魔剣じゃ」
「魔剣? 魂とか吸われたりするのか?」
「せんわ! 何でも斬れる魔剣、それだけじゃ」
魔剣か、まあそれもいいか。この魔法遣いとの旅も面白そうだ。
「分かった、里帰りの護衛、承った」
「よし、言ったな? 確かに言ったな? 待っておれすぐに支度するでな、貴様も服を洗ってあるでな着替えて待っておれよ」
そう言うとロッタは物凄い勢いで食器を片付け、何やら独り言を叫びながら支度を始めた。
慌ただしい魔法遣いだな。
息を切らしながらロッタは大きな櫃を背負って現れた。
「ま……待たせたのう」
肩で息をしながらどこか嬉しそうな顔でタケゾウを見ている。薬売りか何かの行商人のようだ。
「なんじゃ? どうかしたのか?」
「いや、何でもない」
「よし、では行くとするか」
「行くのはいいが、その……誰かに挨拶をするとか、ないのか? このまま出ていくと夜逃げみたいだぞ」
「領主には挨拶をしていかねばなるまい、ちょうどマルソーに面会の予約を取りにいかせたでな」
そういえばそうだったな。
「じゃあ行くか」
「んむ!」
家を出て通りを領主の住まう城へと歩きだした。
「ロッタ、その櫃を下ろせ、俺が持ってやろう」
「そうか? では頼むとするかの」
俺が櫃を背負うとロッタは少し照れ臭そうに俺を見た。
領主ファンデンベルグ候の屋敷の前に着くとロッタは門番に声をかけた。門番は深くお辞儀をした後、すぐに門を開いて招き入れた。
ロッタに続いて入ると門番は俺にも深くお辞儀をしてくれた。この街でロッタが厚遇されているのだと察することができる。
玄関の巨大な扉を開けてもらうといよいよ屋敷の中に入る。玄関の中は謁見の待合室となっているらしく、何人かが簡素なソファーに腰掛けているのが見える。
「師匠!」
マルソーもその中にいた。ロッタを見つけて駆け寄ってきたが同伴する俺の姿を認めると睨んできた。
「ちょっと貴方、まだ……ってゆーかこんな所にまで師匠と一緒にやってくるなんて何て厚かましいのかしら」
むう、厚かましいとまで言われるようないわれは無いのだが、かといって怒るようなことでもなし……
「マルソーよ、この男は儂の護衛として同行してもらったのじゃ。失礼は詫びねばならんぞ」
マルソーは愕然としている。
「いやいや、そこまでは……分かって貰えれば構わんよ」
「いいえ、師匠が詫びよと言うのです。甘える訳には参りません。事情を知らぬ事とはいえ大変失礼なこと申し訳ありませんでした」
「そういう素直な所はいいと思うぞ、別に怒ってるわけでもないし構わん」
マルソーは俺を見るとぷいっとそっぽを向いた。
「師匠、領主様は師匠の到着次第すぐにお会いになられるそうです」
「そうか、ご苦労だったな。マルソーよ後から話がある、このままここで待っておってくれ」
良からぬ事を察したのか、マルソーの顔は一瞬で暗くなる。
「分かりました」
「紅の大魔導士ローテアウゼン様、謁見の間へどうぞ」
謁見の間へと通された俺たちは二十人は座れそうな長いテーブルの末席へと案内された。
席について間もなく領主が現れた。
想像していたよりも領主は若く、見たところせいぜい30歳前後といったところだろうか。
「おはようございますローテアウゼン様、ご無沙汰しており申し訳ありません」
「おはようございますフィンセント・ファンデンベルグ候、こちらこそ長らく挨拶も出来ず恐縮の極み」
ロッタは深く頭を垂れた。
「ローテアウゼン様、何やら急ぎの用があるとのこと使者の方から聞きましたが本日はどのような御用でしょうか」
「恐れながら、この身は里帰り致すこととなりまして、急なこととは承知なれど本日これよりこの街を離れることに致しました」
しばらく待っても領主は返答をしなかった。見れば驚きのあまりに目を見開いたまま、ぽかんとあっけにとられていた。
「し、失礼しました。今、里帰りとおっしゃいましたか?」
「はい、里帰りにございます」
「なんと、里帰りとは……まさか私の代でこの時が来ようとは…………」
領主はこめかみを押さえながら頭を振った。
「ローテアウゼン様、私の父上、いや祖父、曾祖父からも幼き頃より聞かされてきた家訓に貴方のことも伝えられてきております。それは大魔道士が街を去る時はどんなことをしてでも引き留めよ、しかしその理由が里帰りであったなら決して引き留めてはならない、です」
曾祖父から伝えられただと? ロッタはいったいこの街に何年住んでいるというのだ? 見た目には十七、八の娘だというのにいったい?
「我が領土の安定と繁栄はあなた様あってのものです。農業、漁業、その他多くの経済や戦でもあなた様の知恵、魔法などにより支えられてきました。先代からの伝聞通り引き留めることは致しません、しかし一つだけお願いを聞いてはもらえぬだろうか」
「どのようなことでしょうか」
「このままあなた様を誰にも知られず送り出すわけには参りません、これよりすぐに感謝の宴の支度をしますゆえ、どうか出発を一日だけ伸ばしては貰えまいか」
ロッタは深々と頭を垂れる。
「申し訳ありませぬ、これはもう決めたことゆえ、どうか」
「なんと、一日だけでも伸ばすことは出来ぬとおっしゃいますか」
「恐れながら、この身は……」
いかんな。これはいかん。
「ロッタよ」
俺はロッタの返答を遮った。ロッタは少し怒り気味の視線を俺に向けた。
「よそ者の俺が言うことではないかもしれんが、そうむげに断ってはこの男に恥をかかせてしまうがそれでよいのか?」
ロッタの表情が変わった、目を丸くして領主のほうを見た。
「一日くらい伸ばしてはどうだ? ゆっくりと別れをせねばならん相手もいるだろう」
ロッタは考え込むように俯いた。
「フィンセント・ファンデンベルグ候、では明日の早朝に出発ということで」
「そうですか! わがままをお聞きいただきありがとうございます!」
領主はすぐに側近を呼んだ。
「宴の用意だ! 公務は後回しで構わん、最優先で支度するのだ!」
俺たちは謁見の間から出た。
ロッタは無口になり俯いたままだった。
「師匠!」
マルソーが駆け寄ってくる。
ロッタは少しの間マルソーを見つめていたが意を決したように話し始める。
「マルソーよ、儂は……」
「し、師匠、今日は熱さましの薬の製法で聞きたいことがあって……」
「マルソーよ、聞くのじゃ」
「あの、私なりに工夫もしてみたんです、ヨモギとマーガレットの配合で……」
「マルソー!」
ロッタはマルソーの肩を掴んだ。
「イヤです! 聞きたくありません!」
ロッタの様子から何やらただならぬ雰囲気を察したのだろう、両手で耳を塞ぎ頑なにロッタの話を聞こうとしない。
ロッタも困った様子でそれ以上声をかけられないでいる。俺もどうしたものかと頭を掻いているとロッタは穏やかに言い聞かせるように話し始めた。
「マルソー、儂は里帰りをすることにした、これからはお前1人で生きていくのだ。そうして聞きたくないものから逃げるのならばそうしているといい」
それだけ言うとロッタは歩き始めた。
「行くぞ、タケゾウ」
「お、おう」
俺はロッタを追う。振り返るとマルソーはしゃがみこんでしまっていた。
ファンデンベルグ邸を出るとマルソーが走って追ってきた。
「師匠! 待ってください!」
ロッタは振り向かなかった。
「師匠、いま診察中の患者さんのリスト、処方、とにかく全て私が引き継ぎます」
ロッタは立ち止まり静かに頷いた。
「お前以外に誰が引き継ぐのじゃ、着いて参れ」
「はいっ」
俺はなんとなく一安心出来た。
「ロッタはあれか? 医者なのか?」
「儂はもともと水術系の魔法遣いなのじゃ、水術の上位魔法が回復治癒術系の魔法でな、その知識を活かして普通の医者では手が付けられんような病気や怪我の治療をやっておる」
「なかなか頼もしい魔法遣いだな」
「師匠は水術の他にも火、土、風、電と全ての術とその上位魔法をマスターしておられるのです、最高の魔法遣いなのです」
少し涙ぐんだ瞳でマルソーは俺を睨んだ。
「いい師匠についたんだな」
俺が言うとマルソーはそっぽを向いた。強がりでもしていなければ泣き崩れてしまいそうなのかも知れないな。
宴の支度が出来次第に使者を使わすとファンデンベルグ候は言っていた。ロッタの家に戻り使者のくるまでを過ごすことにした。
ロッタの家ではロッタの診ている患者の容態から治療方針、処方など書き溜められたリストを見ながらマルソーへと伝えられていた。仲睦まじい師弟の姿が微笑ましかった。
ファンデンベルグ候からの使者が来たのはちょうど日の沈む頃だった。
馬車を一緒に寄越してくれたので俺たちはロッタとマルソーも一緒に三人で乗り込みファンデンベルグ邸まで案内された。
ファンデンベルグ邸の広い庭園はステージが設けられ派手な装飾も施されていた。送別会というよりはちょっとした祭りのようである。
屋台もいくつか並んでおりおいしそうな匂いが漂ってくる。
何よりももう日が暮れるというのにいくつものランプやランタンが灯されていて夕暮れ時と変わらぬほど明るかった。
「ローテアウゼン様、ようこそいらっしゃいました。控室へご案内します、お付きの方もどうぞこちらへ」
執事に案内され廷内の控室へと通された。
控室には領主も居た。領主はすぐに立ち上がり、床に膝をついて頭を下げた。
「ローテアウゼン様、お引き留め致しまして申し訳ありませんでした。今宵は貴女様への感謝の宴を催してございます。心ばかりの料理と酒を用意しました、また領民達より感謝を述べたいと申す者が大勢ございます。少しずつでもお聞き届けください」
ロッタも頭を垂れて返答する。
「このような宴を用意して頂き恐縮にございます。未熟なこの身には過ぎたるもので感謝の言葉もございません」
領主は静かに微笑んで頷いた。
「正直なところ私の代で里帰りをなさるとは思いも寄りませんでした。貴女をこのまま送り出すなど先代からの伝聞が無ければ出来ないことです」
その表情から複雑な想いが見て取れる。
「これからは弟子のマルソーがこの身に代わり領主様のお役に立つでしょう、ただ若さゆえ至らぬ所にはどうか手を差し伸べて頂ければ幸いに思います」
「約束しましょう」
見るとマルソーは小さくなって俯いていた。
「旦那様、そろそろお時間にございます」
執事が領主にそっと告げた。
「うむ、では行こうか、ローテアウゼン様はすぐにお呼び致します故こちらで控えていてください」
領主は立ち上がり、扉に向かい颯爽と歩き出す。
俺には少し寂しげにも見えたのは気のせいなのだろうか。
扉の向こうでは領主が領民達にロッタのことを話しているのがところどころ聞こえてくる。
突然のことに驚きの声やどよめきが聞こえる。
扉の側で様子を覗っていた執事がロッタを呼んだ。
「ローテアウゼン様、こちらへ」
領主に招かれロッタが壇上に姿を現すと集まった街の人々から拍手と喝采が浴びせられた。
ロッタが面食らっているとバグパイプの低音が響き始める。
続けてギターの小気味良いリズムが響く。
ロッタの見知った小楽団の演奏が始まったのだった。フィドルを構えた少女が弓で楽団員たちに合図を出すとタイミングを取って弓を弾く。
フィドルは低音に乗り、唄うようにメロディーを弾く。観客たちはメロディーに乗って手をたたく、ロッタも思わず頭が揺れる。
メロディーが盛り上がるとリコーダーがフィドルに代わりメロディーを奏でる。やがてバグパイプ、フィドルもメロディーに加わり最高潮を迎え、足を踏み鳴らしながらの演奏となる。
こうして夜は盛り上がりの中、料理や酒が振舞われ一人の魔法遣いとの別れを惜しむ宴は進行していった。
俺はよそ者らしくロッタとは離れて弟子のマルソーの安全も含め見張っていた。一応は護衛なのだから何かあれば参じねばならないからな、酒も控えていたさ。領主の家の使用人たちはそんな俺にも同じように料理を提供してくれたし二人を見張りやすい場所も用意してくれた。至れり尽くせりだ。
夜は更けて宴もお開きとなった。
使用人たちが片付けをする中ロッタと領主はなにやら込み入った話をしている。
ロッタが頭を下げると領主も頭を下げた、妙に切なげな表情を浮かべていたが、俺の方を見ると俺にもまた深く頭を下げるので俺も同じように頭を下げて応える。
「領主様がの、今夜はここに泊まっていけと言うてくれたのじゃがの、出立の用意があるからと断ったのじゃ。マルソーは送って貰うたし、タケゾウよ、お前だけでも泊めてもらうか?」
「ここにか? 領主どのからすれば俺などただのよそ者だろう? それはちょっと厚かましいというか……」
ロッタはからからと笑った。
「お前だけ泊めてやってくれと言うのもちょっと風が悪いでな、連れて帰ると言うたわ、タケゾウは儂の荷物持ちじゃからの、家に居ってもらわねば困る」
酒のせいか少し機嫌の良いロッタは頭を揺らしながら歩いていく。
「この街の皆、いい人たちだな。出発を延ばして良かったじゃないか」
ロッタはぴたと足を止めて俺に振り返った。穏やかで優しい笑顔だ。
「あの時タケゾウが止めてくれなんだら、儂はとんでもない不義理を、この街に残して発つところじゃったわ。ありがとうの、タケゾウよ」
あまりにも素直なその謝辞に思わず俺は口よどんでしまう。
「お、おう。まあ、あれだ、ちゃんと別れの挨拶が出来たなら良かったじゃないか」
僅かに笑顔を見せてからロッタはまた歩き出した。
「いい歳をして儂は何を浮かれておったのか、長う生きるばかりで儂もまだまだじゃの」
呟くようにロッタはごちた。
「そういえばロッタよ、ひとつ聞きたいのだが」
「ん? なんじゃ」
「この街に何年住んでいたんだ?」
「この街にか?」
「ああ、その……俺とそう変わらないようにしか見えないんだが……」
「なんじゃ、そんな遠回りな聞き方で儂の年齢を聞きたいのか?」
「いやいや、そういうわけじゃないが」
ロッタはからからと笑う。
「ヒ☆ミ☆ツじゃ」
「えぇぇぇ…………」
ロッタの家に着くと俺はまた昨夜と同じ部屋で寝床に就いた。今日はいろいろあったがまたここに戻ってきた。
布団に潜りなんとなく天井を眺めているといつの間にか眠っていた。またあいつが寝顔を見に来るのだろうか。
甘く香ばしい、飯を炊く薫りに誘われ目が覚めた。
いい匂いだ、俺は思いきり伸びをすると目をこすりこすり体を起こした。
枕元には着替えが置いてある、やはり寝顔を見に来ていたのだろうか。寝ている間に枕元に人が来て気付きもしないで寝ていたなんてヒノモトに居た頃にはあり得ないことだ。
俺は思わず苦笑いをするしかなかった。
寝間着から着替えて階下に下りるとロッタが食卓で茶を飲んでいた。
「おはよう」
「うむ、おはようタケゾウ」
「あらタケゾウさん、おはようございます」
「ああ、おはよう……んん???」
ん? タケゾウ……さん?
台所に立っているのはマルソーだった。にしても、さん付けだと? 何があったんだ?
「どうかしましたか?」
首をかしげるマルソーは昨日までの印象とは違いえらくしおらしい。
「あ、いや別に」
「すぐに出来ますから座っていてください」
「あ、ああ」
ロッタを見ると頬杖をつき穏やかな表情でマルソーの背中を眺めている。俺の視線に気付くと静かに微笑んだ。
「大丈夫なのか?」
俺は声が漏れないように口を動かしてロッタに尋ねた。ロッタはにこりと微笑むと顎でくいっとマルソーの背中を差す。
マルソーは怪しげな食材を投入するような素振りもなくヒノモトでは当たり前にあるような朝餉の美味そうな薫りを漂わせている。包丁を使う音も小気味良く安心して見ていられる。
ほどなくマルソーは汁を椀によそい、飯もよそって食卓に運んでくる。
ロッタと俺、そして自分の分と食卓に並べ、最後に魚の切り身を運んできた。
「おお、これは美味そうだな」
思わず口に出てしまった。
「塩漬けにした鱒の切り身を焼いてみました、味が薄ければ醤油をかけてください」
配膳を終えるとロッタの隣にマルソーは座った。
「さあどうぞ、召し上がってください」
「うむ、いただきます」
「いただきます」
ロッタの話を聞いていた俺は少し不安はあったがご飯を箸でつまみ恐る恐る口に運んでみる。
「うん、美味い」
水加減もよく焦げてもいなければ芯もない、ふっくらと美味しい飯だった。汁はほどよく味噌がきき、具には食べたことのない野菜が入っていたが僅かな苦みが食欲をそそる。そして切り身は塩加減もよく醤油は必要ない。実に美味い。
「どうですか? 師匠」
「そうじゃな、飯は満点じゃ、炊き加減もいいし味も申し分ない。味噌汁にはセリを入れたのか、これは苦みが効いてなかなかに美味い、良い工夫じゃ。そしてこの切り身は絶品じゃな、干物を炙るよりも格段に美味い、トカゲやムカデを炙って出されたらどうしようかと思っておったが」
「やめてください! 師匠、そういうのはなんだか急に恥ずかしくなってしまって……昨日までのわたしはどうかしてたんです!」
ロッタはからからと笑う。俺もつられて笑ってしまった。
「マルソー、俺の国ではそういうのは黒歴史とか中二病とか言うんだ」
「なんですかそれ? なんかすごい的確に言われたような気がしてむかつく!」
「思春期にかかる流行り病のようなもんだ、気にするな」
マルソーは口をとがらせぷいっとそっぽを向いた。このほうが俺にとってはマルソーらしくていい。
「うまく出来たのは分かりましたから二人ともさっさと食べてください!」
楽しい団欒だった。どうやらマルソーにはこういう場を明るくする才があるようだ。さっきからロッタが少しうれしそうなのはロッタもそういう何かを感じているのかもしれない。
「ところで師匠、食事がすんだら患者さん用の新しいカルテを作ったのでうちから運びたいのですが、タケゾウさんに手伝ってもらってもいいですか?」
「ん? そうじゃな儂も荷物を支度する間があるでな、儂は構わんが、タケゾウよ少し手伝ってやってくれるか?」
「力仕事ならお安い御用だ」
「はい、力仕事です。ではよろしくお願いします」
マルソーは片付けを終えるとえらく急かした様子で俺を連れ出した。まあ師匠に気を使って急いでいるのだろうとその時は思った。
マルソーの家はロッタの家からほど近く、間に十数件を挟んだ程度だった。
家の前には小さな荷車が置いてあり、玄関を開けるとすぐの所にいくつかの木箱が積んであった。
「これを積めばいいのか?」
「タケゾウさん、ちょっと中へ」
「中にも荷物があるのか?」
「いいから!」
俺は腕を掴まれ強引に家の中に引っ張られた。
「なんなんだよ?」
マルソーは険しい表情で睨みつける。
「師匠の、体のことはなにか聞いていませんか?」
「は? 体のことって…いったい?」
俺にはなんのことかさっぱりだった。
「魔力の循環や供給、あるいは封印とかいった話をされたことはありませんか?」
それならひとつだけ思い当たることがある。
「腕輪のことか?」
「それです!」
「それが何か?」
マルソーは俺の肩を掴んでいた手を離すと椅子に座るよう促した。
「いいですか? 師匠は最高の魔法遣いですがとても弱いのです。少しくらい力のある魔法遣いだからといって師匠には勝てないでしょう。師匠は魔法の使い方が、その……巧み、なのです」
「老獪とか狡猾って意味でか?」
「む……言葉は悪いですがそういうことです。伝え聞くところによれば師匠はその気にさえなれば世界を滅ぼすことすら可能と言われるほどの魔法遣いでした」
そういえば世界を滅ぼしかけたとか言ってたようなことを思い出したがマルソーには告げなかった。
「ですが今の師匠は封印のせいでまったく力を発揮することが出来ません。ですからタケゾウさん、あなたにこれを託します」
そう言って渡されたものは親指の先ほどの小さな黒い直方体だった。
「これは師匠がピンチの時に師匠に渡してください」
俺は直方体を受け取ると懐に収めた。
「ピンチってのはどういう時のことだ?」
「具体的にいえば魔法が使えなくなった時です。師匠のことですから魔法が使えないなどとは決して言わないでしょうがあなたならそれを察することが出来るでしょう、だからお願いします。その時が来たらこれを師匠に渡して。師匠が見ればこれが何なのか、どう使うものなのか分かるから」
マルソーの様子からロッタは俺の知らないことで魔法遣いにとって深刻な弱点を抱えているということが分かる。
「ひとつ聞いていいか?」
「はい」
「これは何度でも使えるものか?」
「いいえ、一度だけです。本当はたくさん作れればいいのだけどわたしの力では一つ作るので精一杯。もうひとつ付け加えると、これのことは師匠には絶対黙っておいて」
なるほど、そのために俺を連れ出したのだな。
「分かった。約束しよう」
これを使うためには俺は魔法遣いのことをもっと知らねばならない。マルソーの真摯な願いのためにも必要なことだと悟った。
ロッタは荷物をまとめた櫃を床に置くと満足げにぱんぱんと手を叩いてから腰に手を当て俺を見た。
今度の櫃は昨日のやつより少し大きい、俺に持たせることを見越してのことだとあからさまに分かる。
「そろそろ行くかの、タケゾウ」
「おう」
俺は櫃を風呂敷に包み、背負ってから肩で風呂敷を結んで止めた。
俺の準備を待ってからロッタは歩き始めた。
「師匠、門まで送ります」
ロッタは振り返ると何も言わず頷いた。
マルソーは俺の後ろを着いてきた。いかんな。
「マルソー、しっかり師匠に着いて歩け、見送るんだろ?」
マルソーはぺこりと頭を下げ小走りでロッタの後ろに着いた。
ロッタはちらとだけ後ろを見るとそのまま歩き続けた。
そういえば朝もいい時間になるのだが街の中に人気がない。もうそろそろ人々が動き出してもいいはずの時間だが一人も見かけない。
あやしいな、だが俺はぴんときていた。街の連中は何かを企んでいるんだろう。
俺たちの目指す西門へと続く大通りはこの先の角を曲がったところだ。その角に子供が一人立っていた。こちらに気付くと大通りの方へと駆けだした。
「来たよー!」
そう叫びながら駆けていった。
通りへ出ると壮観な眺めだった。
俺たちが大通りに入ると、西門にかけて沿道は人で埋め尽くされていた。
ロッタが驚きのあまり思わず立ち尽くしてしまったほどだ。
沿道の人々は、ある者は感謝の声をかけ、ある者は泣きながら拍手で送ろうとした。
「すげえな」
俺が思わず口にした言葉が聞こえたのか聞こえなかったのか、ロッタは何も言わず通りを進んでいった。
西門には領主のファンデンベルグ候が待っていた。
「ローテアウゼン様、本当に行かれるのですね」
「長い間、本当に世話になりました。この御恩は生涯忘れることは無いでしょう」
領主は目を潤ませている。
「私は……実は……いや、これは告げぬ方がよいでしょう、ですが一つだけ言わせて頂きたい。貴女の連れの方、タケゾウと言いましたかな」
「ああ、そうだ」
「君には感謝している、君があの時口添えをしてくれねば彼女は早々にこの街を発っていたかもしれない、本当に感謝している。そして、これからの彼女をしっかりと守ってあげてほしい」
俺は頷いた。
「たしかに承った」
領主はこくりと頷いた。
「ローテアウゼン様、このフィンセント・ファンデンベルグから心ばかりの餞別を用意しました。どうかお受け取りください」
そう言って指した先には馬の繋がれた馬車があった。幌付きの立派なものだ。
「当面必要となりそうな水と保存のきく食料も積んであります。毛布なども積んであります」
ロッタが俺をちらと見た。これは遠慮せずもらったほうがいいだろうと俺は思い、小さく頷いてみせた。
「それではありがたく頂戴します」
ならば俺も櫃を背負って歩く必要もないわけだ。さっそく櫃を降ろして馬車に積み込んだ。
領主の使用人たちが馬車の荷台にあがるためのタラップを用意してくれた。
ロッタがその階段に足をかけた時、マルソーの声が聞こえた。
「師匠!」
ロッタは振り返る。
「師匠、わたしに…名前を、どうか名前をいただけないでしょうか!」
ロッタは微笑んだ。
「よいぞ」
「名前?……マルソーってのは名前じゃないのか?」
素朴な疑問だった。
「タケゾウ、マルソーはこの娘の名前に相違はない、じゃがマルソーが言っておるのは魔法遣いとしての名じゃ」
「へー」
合点のいかない俺にロッタは続けて言った。
「魔法遣いは一人前と認められると師匠や長といった立場の者から魔法遣いとしての名を与えられ、以後はその名で生きていくのじゃ。まあ大抵はその人となりを表すような名が付けられる」
「するとロッタもそうなんだな」
「わしは紅い瞳という意味の名じゃ。この名を持つ以前は別の名があった」
「そうなのか」
返事をしたあともロッタは俺を見つめ続けていた。
「どうした?」
「なんでもない」
ロッタはマルソーの前に立つと何やら装飾品を取り出した。
「実はマルソーには儂が名を与えるつもりで考えておったのじゃ」
「ほんとですか!」
マルソーは嬉しそうにロッタを見つける。
「マルソーが弟子に来てからの毎日、儂は結構楽しかった。特にお前の作る料理はスリルがあってのう、たまらんかったわ。そこで儂が考えたお前の名はメシマズ魔女じゃ」
「え?………………ええぇぇぇぇぇぇ!!!」
ロッタはからからと笑った。
「冗談じゃ」
こんな時にこんな冗談が言えるロッタはすげえなと俺は横で見ていてしみじみ思った。
「儂もな、娘の時分には雑草を湯がいてみたり見た目の悪いキノコやら虫の類いを食うておった」
「……ほんとですか?」
ロッタは頷いた。
「見た目が小娘では舐められると思ってな、わざわざ老婆の姿になってみたりもしたものじゃ」
「分かります! わたしもちょっと低い声で喋ってみたりしますもん」
「魔法遣いなら皆同じような時期に同じようなことをやってみるものじゃ。そういう黒歴史を皆持っておるのじゃ」
「もう、師匠までそんなこと言うんですか!」
ロッタは笑った。
「お前にふさわしい名は何が良いじゃろうかとずっと考えておった。なかなか決まらんかったがタケゾウが来てからふと思い出したことがあってな、やっと決まった」
マルソーは胸の前で両手を握りしめてロッタの言葉を待った。
「マルソー、お前はもう一人前じゃ。よってこの名を与える。オウカ」
聞き慣れない言葉にマルソーはとまどっていた。
「オウカ?」
「うむ、ヒノモトの言葉でな、桜の花を意味する言葉じゃ。桜の花が咲くと人々は皆周りに集まってくる。儚く美しい花を愛で、つかの間の春を皆謳歌するのじゃ。お前にはそういう人が集まる華がある。きっとこれからもお前の周りに人が集まり笑顔が集うじゃろう」
マルソーはよほど嬉しいのか、噛み締めるように目を閉じて手を合わせている。
ロッタはさっき出した装飾品を掲げた。
「魔法遣いローテアウゼンの名において、この者マルソー・トーテリに名を授ける。祖はオウカ!」
ロッタが告げると装飾品は光り、その表面に文字が浮かび上がった。ロッタはその装飾品をマルソーに手渡した。
「これを持て」
マルソーは装飾品を受け取ると表面に浮かんだ文字を読んだ。
「オウカ……これが、わたしの名前……」
マルソーは何度も繰り返し文字の表面を指でなぞった。
「ファンデンベルグ候、そういうわけでこの者オウカをこの身の代わりによろしく頼みます」
領主は頷いた。
「では行くとするか、タケゾウ」
ロッタを馬車に乗せ、俺は御者台に向かおうとしたところマルソー、いやオウカが俺の手を取った。
「タケゾウさん、師匠のことどうか頼みます」
「おう、任せとけ、必ず無事に送り届ける」
「それも、絶対無くさないで」
それ、とはあの直方体のことだ。懐にしまったのだがそれでは無くさないか心配だと言って首から提げておける小さな巾着袋を魔法でこしらえて持たせてくれた。
「この通り、大丈夫だ」
ふとロッタを見るともの凄い顔でこっちを見ている。
「きっ……きさまらっ! ちょっと見ん間にな…何があった!」
「はあ? なにもないが?」
「わ……若いのがいいのか! 若いほうがっ」
「いや、なに言ってんだ?」
「な……なんでもないわ!」
よく分からないやつだ。
「まあ、ほのぼのやってても何だし、そろそろ行くか」
「そ、そうじゃな、出発するとするか」
俺は馬車の御者台に座った。手綱を持ち、軽く叩いて馬車を走らせる。
馬車が動き出すとロッタを見送りに来た街の人たちから別れを告げる声があがる。もちろんオウカも大きく手を振りながら何かを叫んでいる。
だんだんと遠くなるが泣きながら手を振っているのがはっきりと分かる。
ロッタは馬車の後ろから遠くなっていくブルーノの街をずっと見ていた。
「オウカのことなら心配いらんだろ。なかなか逞しそうなヤツだし街の皆もよくしてくれるだろう」
ロッタは返事をしなかった。もう城壁の一部しか見えなくなったブルーノをずっと見ている。
「……泣いてるのか?」
ロッタは被っていたフードを外し、紅い髪を手ですいて風に泳がせる。
「儂がブルーノに来て五百余年、はじめの百年は毎日泣いて暮らしておったのじゃ」
ロッタは振り向いた。
「涙などとうに枯れておる」
ロッタは俺に向いて笑ってみせるが、その笑顔はどこか寂しげだった。
「のう、タケゾウよ」
「なんだ?」
「隣に……座ってもよいかのう」
「構わんが」
ロッタは御者台にやってきた。
「ちょっと寄らんか」
ロッタが手でしっしっと急かす、俺は尻をちょいとずらす。空いた隙間にロッタがすとんと腰を下ろした。
ロッタはずっと先、この川沿いの道が続く先を見つめていた。
「とりあえず、どこを目指したらいいんだ?」
「西じゃ、ずっと西、首都プラーハを目指すのじゃが少し北に寄り道をして会いたい人物がおるのじゃ」
「なるほど、しばらくは首都を目指しておけばいいんだな」
「そういうことじゃな」
これからは長い時間をロッタと過ごすことになる、話をする機会も増えるわけだが急にそうなってもなかなか話すことがない。
そういえば魔法遣いのことは魔法遣いに聞くのが早い、何か聞いてみようかとロッタを見ると今度は険しい顔で遠くを睨んでいた。何を見ているのかとロッタの視線の先を見ると、カラスが一羽飛び立っていった。
「カラスがどうかしたのか?」
「ん? いや……なんでもない」
こうして魔法遣いローテアウゼンは城塞都市ブルーノを旅立っていった。
彼女がこの街に住み着いてから524年後の春だった。




