学習できない
「ばっかじゃねえの」と言ってやった。女は直角に曲げた腰をそのままに顔だけ上げて俺を見た。俺はもう一度、はっきりと言ってやる。
「ばっかじゃねえの、お前」
女はこちらを見たまま硬直している。きっと俺がそんなこと言うとは微塵も思ってなかったのだろう。普段大きな瞳がさらに大きく見開かれ、目薬でもさしたかのようにじわりと湿り気を帯びて来る。こりゃあ、泣くかも知れないな、とどうでもいいことに気づく。でも謝ってなどやらない。俺が悪いわけじゃない。悪いのはこいつだ。こいつが俺の言うことを無視して、勝手な事をして、勝手に俺につっかかってきたのが悪い。ああ、本当にこの女は、馬鹿だ。まるで自分のやることが全て正しく、全て他人のためになり、全て感謝されることだと思い込んでいる。そんなことありえないと何度言っても分からない。全く学習する気がない。
だから俺は泣きそうになる女を見ながらさらに追い打ちをかけるように言ってやった。
「お前馬鹿だよ。もう、本当、死ねばいいのに」
昔から、女らしい女と言うのが大の苦手で大嫌いだった。変に好意を振りまいてはキャーキャー喚いて去っていく。どこに行くにしても常にだれかと一緒。意味の分からないことを意味の分からない言葉で伝える。あいつらの言葉を理解するくらいなら、宇宙人の言葉でも理解していた方がまだマシだとは良く思う。逆か、あいつらの言葉を理解できるなら宇宙人の言葉も理解できるかもしれない。
だから俺はもっと細々と生きていきたいんだよ、と頭の中にあったひたすら汚い言葉でひたすら口汚く女を罵って、まるでさぞそれが正論であるかのように胸を張ってそう言いまとめると、ユウは「はあ?」と若干腑に落ちていないような不機嫌な返事をして俺を睨みつけた。
「それって要するに、あんたがヘタレってことでしょ」
「おい、今のどこをどう解釈したらそうなる」
俺は女が嫌いだと言うことをひたすら語っただけだ。それなのに、やっぱりどうしてもこいつと来たら何かにつけて無駄に曲解して俺をヘタレ扱いしてきやがる。
「だって、“女らしい女”とか言ってる時点で、女の子を自分から切り離して考えようとしてるじゃん。もうその時点でヘタレだって」
これだから、女と言う奴は訳が分からない。お前は俺の何を理解してると言うのだ。
不満を思い切り顔に出して睨み返してやったがユウはそんな物言わぬ俺の態度はあっさり受け流して、ほれほれ、と人差し指で机を叩く。その先にあるのは数Ⅱの教科書。端的に要点だけがまとめられた楽しくない内容のそれが、数日後に中間テストを控えている俺たちに、そんな話題で盛り上がる時間はない、と暗に告げている。
「さっさと分かんないところ教えなさい。ありがたくもあたしがあんたに解説してあげる、って言ってるんだから」
ああ、もうこれだから女と言う奴は面倒くさい、と思ってはみても謎の強制力に動かされて押し付けられた教科書をパラパラめくってみる。が、授業中さぼりにさぼったツケは相当にデカかった。そもそもどこが分からないのかが、分からない。俺は早々に教科書を投げ捨てた、もとい、ユウに投げ返した。
「あ」
「あー、やっぱ俺には無理だわ。お前一人で勝手にやってろ」
「ちょ、何それ」
鞄を肩から引っ提げて椅子から立ち上がると、俺を追いかけようとしてユウも机に手をかけた。おいおい、教科書置きっぱなしだぜ、そんなんじゃ学級代表の名が廃るだろ。俺なんかに構ってるくらいならさっさと一人で勉強しろよ。
「待ちなさい」
そういう風に言うときってのは待たないって相場が決まってるんだよ、本当馬鹿だな。追いかけようとするユウを振り払うように歩くスピードを早め、勉強部屋を後にしてそのあとは半ば競歩のようにさらに歩みを早めた。その俺をさらに早い速度でユウが追いかける。それを見てさらに俺の足は早くなる。もう最後には徒競走のような駆け合いになり、気が付くといつの間にか人気のない裏路地まで来てしまっていた。
「おい、しつこいぞ」
息を絶え絶えにしながら俺が尚も罵倒すると、ユウも肩で深呼吸をして返す。
「このくらいでへばってどうすんの」
「お節介なんだよ、馬鹿。そんなに勉強したきゃ自分でやってりゃいいじゃねえか」
「あんたのためを思って、言ってやってるんだってば」
有難迷惑と言うのはこういうときのための言葉なんだと一つ学んだ。ああ、もうウザったい。
「なんでそんなに付きまとうんだよ」
そこで声を荒げた俺に対して、ユウは一瞬だけ息を詰まらせた。
「……何だよ」
いきなり黙りこまれて今度は俺の方が口を閉じそうになる。ユウは先ほどのふざけて苛立った表情から一転、何だか寂しげな顔をしていた。今にも泣きそう、といった感じだった。なんで突然こんな顔するんだ。
「なんでって、それ、言っていいの?」
意味が分からない。これだから、女は苦手なんだよ。
「言っていいも何も、そんなのお前の好きにすりゃあいいじゃねえか」
「じゃあ好きにする」
涙が出そうな顔をそのままに、ユウはキッと俺に向き直って何やら決意を固めているらしかった。とりあえず俺はユウが何を言いだすのか少し待ってみることにした。が、ユウはなかなか口を割ろうとしなかい。もう面倒にも程があった。どうしてこんなにも女と言うのは――
「好きだから」
馬鹿なのだろう、と思う。その答えを聞いてさらに強くそう思った。
「あんた鈍いから気付いてないみたいだけどさ、あたし小さい頃からずっと好きだったんだ。いつ言おうか、って迷ってたんだけど」
ああ、それがきっと俺のためになると思って言ってるんだろうな、こいつは、とそう考えた。頭が真っ白になるのと同時に。
「ずっとあんたの近くにいれば、そのチャンスがいつか来るかなって思ってたんだよ。だからいた。一緒にいたかった、それだけ」
やめろって、そんな風に言うのは。お前がしたいことを素直にやれよ。お前みたいな頭固い奴の隣に、俺みたいな半分不良に足突っ込んでる奴なんかが合うわけないだろう。もっと良い所のボンボン捕まえて、俺なんかよりよっぽど出世して将来有望そうな男捕まえて、それで幸せになればいいじゃねえか。
「だから、そのチャンスが来た今、ちょっとカッコつけさせて」
やめろって、馬鹿。やめろ。
そう思う俺に構わず、ユウはしっかり腰を九十度に曲げて、お辞儀をした。泣きそうな顔だったし、あるいは半分泣いていたかもしれない。
「私と付き合って下さい」
もうわけがわからなかった。俺はユウをどうしたいのか。俺は今までユウのことをどう思っていたのか。もう何もかもが分からなくなってしまった。だから俺は、何も考えられず、ただただ反射的にありのままを言ってしまった。
「ばっかじゃねえの」
ユウは直角に曲げた腰をそのままに、顔だけ上げて俺を見た。俺はもう一度、はっきりと言ってやる。
「ばっかじゃねえの、お前」
ユウはこちらを見たまま硬直している。きっと俺がそんなこと言うとは微塵も思ってなかったのだろう。普段大きな瞳がさらに大きく見開かれ、目薬でもさしたかのようにじわりと湿り気を帯びて来る。こりゃあ、泣くかも知れないな、とどうでもいいことに気づく。いや、もう泣いているんだ、きっと。でも謝ってなどやらない。俺が悪いわけじゃない。悪いのはこいつだ。こいつが俺の言うことを無視して、勝手な事をして、勝手に俺につっかかってきたのが悪い。
「それって」
「黙れ」
言葉にならない感情が思わず声になって現れる。ユウがびくっと身を振るわせる。
「うざいんだよ、お前」
ああ、本当にこの女は、馬鹿だ。まるで自分のやることが全て正しく、全て他人のためになり、全て感謝されることだと思い込んでいる。そんなことありえないと何度言っても分からない。全く学習する気がない。
だから俺は泣きそうになるユウを見ながらさらに追い打ちをかけるように言ってやった。
「お前馬鹿だよ。もう、本当、死ねばいいのに」
だけど、とふと脳裏に響く否定語。泣きそうになるユウを見ながら、それがどうしても頭から消えない、消えてくれない。なぜか、どんなに罵倒してもユウは泣き声をあげようとはしなかった。こういうときでさえ、女はこんな面倒な反応をしてくるものなのか。顔を背けた俺の後ろで、ユウがさっと動いて近づいてくるのが分かった。駄目だ。分かっているからこそ、俺はユウを罵倒する以外にない。
「ねえ」
「黙れ」
「それってさ本当は」
「黙れって言ってるだろう」
「駄目ってわけじゃ」
「うるさい」
「ないんでしょ」
次に言葉に詰まったのは多分、俺の方だ。
「駄目って言ってないもん、さっきから」
ユウは今までの泣き顔から一転して、にっと俺の方を向いて笑っていた。どう反応すればいい。このあと俺が出来ることは一体何なんだ。
「あんたのことだから、素直に返ってくるとは、最初から思ってないよ」
ああ、もう本当に、こいつはこういう奴だって、なんで学習できなかったんだろう。
「大丈夫。あたしなら、よくわかってるからさ」
頭固い癖にお節介で、お人好しで、簡単にこういうことを平気で他人に言える、そんな人間だと、どうして俺も、何年もこいつの近くにいて学習出来ないんだろう。
「だからもう、そんなに強がらなくてもいいって」
ユウは背伸びして馬鹿だ馬鹿だと罵倒し続けた俺の顔をまじまじと覗きこんだ。俺はひどく取り乱していた。顔が変に火照って熱く、自分でもよく分からないもやもやした気持ちが心の中で渦巻いていた。意味も分からず爪先で地面を叩いた。落ち着かない。落ち着きたい気持ちで、とりあえず、この場から早く立ち去りたかった。
「いいじゃん、もっと素直になっちゃいなって」
「うるさい」
その言葉にすら、ユウは笑みを浮かべて、俺をしたり顔で見つめる。俺はまた顔を背ける。ユウがそれを追いかける。そのあとはもう、逃げて迫って逃げて迫っての繰り返し。ああ、本当に女と言うのは面倒くさい、馬鹿な生き物だ。人の言うことも聞かずに勝手に期待して勝手に盛り上がる。キャーキャー変なことを言って喚き立てる。奴らの使う言葉を理解するくらいなら、宇宙人の言葉を理解していた方がまだマシだ。俺は間違いなく女が苦手だし、馬鹿だと思ってる。それは今でも変わらない。
でも、もしかしたら本当に馬鹿だったのは俺の方なのかもしれない。俺を見てはしゃぐユウを見ながら、少しだけ、そんな気がした。
2011.6 大学時代の文藝部にて執筆した小説です。