天空都市でメイドに就職して頑張ります!
タイトルイラスト:相内 充希さま
その日、事故現場を目撃した人々は大騒ぎだった。
道の真ん中に突然、何か大きな影のようなものが現れ、それを避けようとした赤い軽自動車が事故にあったのだ。
だが、大騒ぎになった理由は事故そのものではない。
事故の直後、その車も謎の影も、現場から忽然と姿を消したのだ。
一瞬夢でも見てたのかと、お互いに顔を見合わせる通行人たち。
付近にいた人の証言や、後続車や反対車線にいた車のドライブレコーダーの映像を見ても、黒い影と事故の瞬間がはっきり残っているのに、何かのトリック映像のように車も謎の影も消えている。影にしか見えないものが何なのか、なぜ車が忽然と消えたのか。科学的に検証しても原因はつかめなかった。
事故現場に残ったブレーキ痕と、粉々に砕けたガラスだけが、それが夢ではなかったことを示していた。
★
目が覚めたとき、最初に目に入った天井を見て女はふっと眉を寄せた。
周囲は薄暗いが、それは寝台の周りを厚手のカーテンが覆っているからだと気付く。
「ここ、どこ?」
誰にともなく言ってから、口内の違和感に顔をしかめた。目の上にも大きなガーゼが貼ってあるし、あちこちが痛い。
裸足のまま寝台を降り、カーテンを開け一歩踏み出すと、右膝にも痛みを感じる。着ていた寝巻をまくりあげると、膝に大きなガーゼが貼ってあるのがわかった。少しだけはがしてみるとそこにはこぶし大の瘡蓋があり、固まったそれが歩くたびに肌を刺して痛むのだということが分かる。
(何があったんだっけ)
戸惑いつつ寝台を振り返ると、それは天蓋付の大きなベッドだった。全体に施された彫刻が飴色に輝いていて、まるでお姫様仕様だ。
周囲の家具も同じようなデザインで上品にまとめられていて、女は首をかしげる。
窓辺に立って外を見てみると、そこはよく手入れされた緑豊かな庭園だった。
「ホテル?」
あちこちの痛みから病院かと思ったものの、それにしてはすべてが豪華すぎる気がする。
一瞬目の端に何かが見え、よく見るため窓を開けようと思ったが、見慣れない錠で開け方がわからない。
「お嬢様、お目覚めですか」
軽いノックのあと、許可も聞かずに入ってきた女性にそう尋ねられ女はビクッとするが、女性は何も気にした様子もなく女ににっこりと笑いかけた。
紺色のロングワンピースに白いエプロン姿の女性は、看護師ではなく上品なメイドのように見える。
「朝食の前に傷の消毒をしましょうね。こちらにお座りいただけますか」
女は彼女の優しい声に従いベッド側の椅子に腰をかけた。すると、彼女はおもむろに女の服の裾をめくり、膝の上まで足をむき出しにすると、丁寧にガーゼを取り、慣れた手つきで軟膏を塗ってガーゼを貼りなおす。続いて右の手の甲や瞼の上も同様にした。
傷の感じから、ケガをしたのは何日も前だということはわかる。
だが何があったのかさっぱりわからない。
女性の態度は、何日も意識がなかった者相手にするものではないので、たぶん自分が忘れてしまっているだけなのだろうと見当をつけるが、それにしても、ここまでわからないと言葉を発することさえ怖くなる。
それでも顔に傷があるというのはショックで、鏡がないかと周囲を見回していると女性がそれに気づき、「鏡をご覧になりますか?」と聞いてくれたので素直に頷いた。
手鏡程度のつもりだったのだ。
女性がベルを鳴らすと、間もなく縦横それぞれ二メートルはあるのではないかと言うような大きな鏡がガラガラと入ってきた。それは奇妙なことに歯車がたくさんついていて、誰もついていないのにひとりでに部屋に入ってくると女の前で止まった。
(何これ。鏡のロボット?)
女はその大きさと大袈裟ささに驚きつつ、恐る恐る鏡を覗きこみ、貼ってもらったばかりのガーゼを外した。
まぶたの上、眉の下辺りに三センチほどの傷跡があり、縫った糸がまだ残っている。唇は下唇の一部が腫れてしこりのように硬くなっていた。唇の裏を見ると五センチくらいの傷があり、こちらも縫ったようだ。
胸元あたりの肌の色が違うように見えて襟ぐりから覗きこんでみると、黄色くなりかけた紫の大きなアザが鎖骨下から胸の真ん中を走っていた。
「お顔の傷は目立たなくなるとお医者様も言ってましたし、そんなに毎日鏡を見ても治る速度は変わりませんよ?」
と女性にいたずらっぽく言われ、毎日見てたのかと女は不思議な気持ちになった。
女性の気安い態度にちょっと落ち着き、思い切って
「あの、一体なにがあったのでしょうか?」
と尋ねてみる。少なくともここ何日か分の記憶はすっぽり抜けている。
入院してるなら親は見舞いに来るだろう。その時聞いてみればいいかとも思ったが、知ってるようで知らない、そんな違和感にどんどん不安が募っていったのだ。
アンティーク調の部屋なのに、歯車の見える機械が多いこの空間は、まるで以前見た時間をテーマにしたお芝居の舞台のように思える。この病院の院長の趣味だろうか。一体どこの病院なんだろう?
「お嬢様?」
「あと、ここは一体どこなんでしょう?」
はじめの質問には戸惑った様子だった女性は、女の二つ目の質問で顔色を変え、誰か人を呼んでくると足早に部屋を出ていってしまった。
その様子に女は急に心細くなったが、そのあとの大騒ぎに心細さなど感じている暇がなくなった。
女性に呼ばれた侍従医とかいう白髪の男性医者に色々質問攻めにあい、女は戸惑いつつも正直にそれに答える。その後、なぜかドレスを着ている見知らぬ中年女性が現れると、その女性に力一杯抱き締められボロボロと泣かれてしまい、女は訳がわからず途方にくれてしまった。
その中年女性とお医者さんの説明を受け、女は愕然とした。
「あなたがご自分の記憶だと思っているものは、すべて夢です」
「夢、ですか?」
まさかそんなことを医者から言われる日が来るとは夢にも思わず、しばし呆然としたあと、頭を整理しようと黙り込むと、そんな女に二人は様々な話をしてきた。
まず女はこの屋敷の娘、一条絵梨花だという。
絵梨花には幼少のころから許嫁がいたのだが、十八歳になったある日突然婚約を破棄をされ、そのショックから引きこもってしまったのだそうだ。
この辺りでは女は二十歳までに嫁ぐのが普通で、通常十六歳までに婚約を整え、花嫁修業を経て二十歳までに結婚する。十八歳で婚約破棄となると結婚相手を見つけるのが難しくなり、二十歳までに家庭を持たない女性はまた違う道を選ばざるをえない。
一年近くふさぎ込んだ絵梨花が、六日前、周りの勧めでやっと外に出るようになった矢先事故にあったのだそうだ。
婚約破棄と事故のショックで今までのことをすべて忘れた――それが医者の説明だった。
なんと、昨日まではふさぎ込んでいても普通に会話もしていたらしい。
ドレスの女性は絵梨花の母親だそうで、アルバムを差し出して、女――絵梨花に様々な写真を見せてきた。
白黒写真ではあったが、写っているのは確かに自分に見える。だが一緒に写る人も場所も全く見覚えがない。ただ自分や友人らしき少女達が着ている、着物や袴をアレンジしたような普段着風のドレスを見て
(なにこれ、可愛い!)
と思ったくらいだ。
顔も覚えていない元婚約者の写真は、絵梨花が捨ててしまったそうで一枚もなかった。微かに胸が痛んだものの、記憶にない男より可愛いドレスに夢中だったのであまり気にならなかった。ただ――
(傷はあるけど自分の顔だってわかる。エリカと呼ばれてもあまり違和感はない。でもそれ以外の記憶のすべてが夢? 家族も友達も学校も? 生まれ育った家の窓の開け方ひとつわからない方が現実?)
混乱し、動揺する絵梨花を車いすに乗せ、気分転換しましょうと最初に会った女性(紅という名前で、この家のメイドの一人らしい)は庭を散策してくれた。東屋につくと、やはりメイド服を着た女性がそこでお茶と軽食の準備をしていた。
絵梨花は車いすのままテーブルにつき、用意された温かいお茶を飲み、まだ何も食べてなかったなことを思い出す。
ふと、上空に何か大きなものが浮かんでいるのが見えた。さっき確認しようと思ったものだと思い出し、目を凝らし、一度目をつむって開いて見直し、目をこすってもう一度見る。
大きな雲なら驚かない。が、
(あれはどう見ても雲ではないよ、ね?)
自分の記憶に自信がなくなってきた絵梨花は、目もおかしくなったのかもしれないと不安になってくる。
「あの……あれはなんですか?」
今まで声をかけずにそばにいてくれた紅は、絵梨花の指さすほうを見て
「都市ですよ」
と答えた。
当たり前に言われても、なぜ「都市」が空にある。
「都市ですか?」
「ああ、本当に何もかも忘れてしまわれたのですね。無理もないです」
いえ、今は同情より情報がほしいのだと催促すると
「この国の天空都市、ラピュータです」
と言い直した。
この国は円を描くようにいくつかの島があり、その中央は海になっている。その海の上空に都市があるのだそうだ。
(ガリバー旅行記? それとも……)
絵梨花は子供のころ読んだ本とアニメ映画を思い浮かべ、あのセリフを言うべき? と一瞬迷うが、
(絶対通じないよね)
と思い、他の疑問を口にした。
「都市にはどうやって行くんですか?」
「勿論汽車です」
「汽車?」
驚いてよく見ると、なるほど空に線路が見え、そこを汽車らしきものが走るのが見える。その非現実的な現実に
(やっぱりこっちが夢かドッキリじゃ?)
と思う。だって……
「あの都市、どうやって浮いてるの?」




