サーチャとハリー 宿命の恋人たち
「ハリー、もう待ちくたびれちゃった!」
「サーチャさま、このようなことは ――」
ハリーは控えめに、諭すような口調で言った。
オリーホタシン王家の宮廷には、数え切れないほどの部屋がある。無線という連絡手段のない時代、誰がどこで何をしているのかを把握するのは容易ではない。それを逆手にとって、サーチャ王女はこっそりと、宮廷内の今は使われていない古びた一室に、お気に入りの家臣である彼を呼び出したのだ。
「いけないの? だってハリー、あなたはもともと、私のお付きの家来でしょう」
「今は陛下のもとで、政務を担当しています」
「あなたも偉くなったわね」
彼はもともと、王女お付きの家来だった。十五の頃から王女の身辺を任され、衛っていた。容姿端麗の美少年で、その頃から王女は彼を気に入って笑いかけ、時には部屋へ入れて、乳母と一緒にトランプ遊びなどをすることもあった。
王女とは七つほど年が離れていたが、王女が十二になった年、十九になったハリーはエクター国王に引き抜かれ、国王直属の家臣となった。彼は妻を娶り、次第に重用されるようになって、五年ほど経った今では、王家重臣の一人として政務をつかさどるまでにいたった。一昨年、妻との間に男子も生まれ、彼の王家での地位は揺るぎないものとなりつつあった。
「サーチャさま。他の者に見られたらどうします。貴女はオリーホタシン王家の王女さまです。いずれは高貴なお方とご一緒になり、王家の血筋を引く立派なお子を育まれる。そのようなお方が、密かに私のような家臣と……妻子を持った者とべたべたしているところを見られでもしたら ――」
「だめだっていうの?」
「当たり前です」
「ああ、そう……」
王女はため息をついた。
「そうね、私は王女なんですものね。国を立て直した英雄……中興の祖とでもいうのかしら……そのエクターの娘。王家の血筋を引く者なんですものね。オリーホタシンの青き血を! だけど、それがなんだっていうの。青い水を湛えた大河は水かさを増しながら海へとそそぐ。だけど、川上で枝分かれした小さな流れは、かわいそうなカモメの鳴く湖に流れ込むのがやっとなのよ。そんなところでカモメと……、死に際の白鳥の美しい歌声に耳を傾けているよりほかないのよ……、わかる?」
「どうにも私には」
「私は次期国王じゃないってこと!」
王女には一つ下の弟がいる。名はプライム。
彼は武芸に秀で、父親である英雄エクターにも将来を見込まれている。エクター唯一の男子ということもあり、臣下の誰もが彼を次期国王とみなしていた。
「しかし、はばかりながら……、プライム王子にもしものことがあれば、サーチャさまがお跡を継がれることにもなりえます」
「そんなこと、起こりはしないわ。……起こってほしくもないけれど」
宮廷内に時計の音が響いた。
「サーチャさま、私は長居できませんので、これで失礼いたします」
「ちょっとハリー、待ちなさいよ」
背中に王女の声を聞き、彼は思い出したように立ち止まった。そうして、熟れた果物を一つ懐から取り出し、
「これを」
「何よ、これ」
「私の領地で採れたものです」
去りゆく彼の背を見つめ、王女は真っ赤なリンゴをかじった。
オリーホタシン王国の重臣たちは王より領地を与えられ、各々による自治が認められていた。
ハリーの領地は広くはないがその境界は王都に接し、行き来が容易であった。ハリーは王から政務を任されているため王家の宮廷内に自室を持って駐在し、領地の実質的指揮権は弟のハンスに預けていた。それに、彼の妻子も。
ある夜。
夜空の大河は常と変わらず穏やかだったが、梟の声が妙にうるさく、ハリーはすぐに寝つけなかった。窓辺に目をやると、どこから入ってきたのか、茶色いコオロギが死んでいた。ハリーは舌打ちをして、真鍮のフレームのついた窓を開ける。
ようやく眠りについてから半刻も経たぬうちに、彼は宮廷内へ駆け込んできた伝令の足音に目を覚まされた。間もなく、ベルの音と伝令の声がする。
「何事だ」
扉を開けると、顔を真っ青に染めた伝令がいた。
「答えよ。何事だ」
伝令は恐る恐るその紫色に染まった唇を開き、
「陛下が……、陛下が討たれましてございますッ!」
「何ッ?!」
伝令の報告にハリーの身は震えた。主君である国王エクターが、王家重臣の一人ヒューによって殺められたというのだ。
王は先日、数名の供を連れてヒューの領地にある湯治場へと出向いた。供の数が少なかったのは、安心しきっていたのだ。ここ十数年というもの、国を立て直した英雄エクターの治める国は平和そのもので……丘には花々が咲き乱れ、川はさらさらと流れた。瑠璃色の海も穏やかで、夕刻には美しい葡萄酒色にその水面を染めた……、それは勇ましかった英雄の当時の緊張感を鈍らせるのには充分だったのだ。ヒューは大軍を率いて王を囲み、その命を奪った。享年五十。
その事実はハリーに、彼がこれまで経験したことのない恐ろしい感覚を味わわせた。……彼の脳裏に死んだコオロギが蘇る。小さな身体から、得体の知れぬ大量の何かが溢れ出る。このような虫けらに、これほど恐ろしいものが吐き出せるものか……めまいがする、気分が悪い……彼は森へ、足を踏み出した。二度と戻ることのできない道なき道を、黒い藪をかき分けて進む……一瞬、王女の声がした。それから、大きな二つの目玉が彼の目に映った。野心に満ち満ちた、貪欲な梟の瞳。そして、羽ばたきの音……、そこで彼は正気に返った。驚くほど冷静に、自分のすべきことを考える。
「王女はどこだ、私の部屋へお連れしろ。それからわが領地へ赴き、至急こちらへ来るよう弟に伝えよ」
梟の目は、オレンジ色をしている。
では、何色だっただろうか……大事を前にして武者震いをする若きハリーの両の目は。
「わしも今さっき聞いてかけつけたところだ。すぐに皆を集めなければ」
ハリーと話をしている相手は名をノーゼリンといって、エクター国王の指揮下で内乱を鎮めた武勲ある家臣だった。国王よりも年上で、軍事に関してはよき相談相手であったというが、ここ十年、すなわち国土に平和が訪れてからというもの、彼には目立った活躍の場がなかった。事件の夜、彼は偶然王都の屋敷に駐在しており、報せを受けて取るものも取りあえず宮廷へとかけつけたのだ。
「早急に皆を集め、逆臣ヒューを討つべしッ!」
「ですがノーゼリンどの、事は慎重に運ばねばなりません。陛下の無念のご最期は、瞬く間に王国全土へと知れ渡るでしょう。吹きすさぶ冬の嵐は多量の海水を一気にひっくり返し、瞬く間に大船をその黒い渦の中へと飲み込んでしまう……それに劣らず、地をかける噂の足は速いものです。それはどうしようもない。問題は、皆が陛下の訃報を聞いて何を思うかです」
「何を思うかだと」
「逆臣ヒューに味方をし、王家を見限る者が出ぬとも限らない」
「馬鹿な。そのようなこと ――」
「現にヒューはッ!」
ハリーの剣幕に、武勲の誉れ高い老将はたじろいだ。
「……現にヒューは、家臣の心の分裂を期待して事を起こしたはずです。ヒューはこの王国の安定が、陛下の偉大なるカリスマ性あってのことだと気づいています。プライム王子はまだお若く、経験もおありではない。陛下さえおられなければ家臣の忠節を揺さぶることができる……少なくとも、ヒュー自身がそう考えておらねば、謀叛など起こせるものではありません」
「しかし」
「ヒューは広大な領地を治めており、兵力もかなりのもの。風流の道にも通じ、慕っている者も少なくありません。むろん、今回の卑劣なやり口によって彼の信頼は地に落ちたとも考えられましょう。しかし、人の心は読めぬもの。誰も彼もが、ノーゼリンどののようなまっすぐなご気性であるという保証はどこにもない。であれば……、万一のことも考えなければなりません。プライム王子のお命に危険が迫らぬよう」
ノーゼリンは気圧されていた。……この若造は、ここまで骨のある人間であっただろうか。戦の仕方もわからず、陛下のお側で偉そうにしたり算盤をいじったりするほかに能のないひ弱な青二才とばかり思っていたが……。
「ではハリー、どうすればよいというのだ」
ハリーは声を低くし、まくしたてた。
「今夜のうちに王子をお連れして、ご領地へ。ノーゼリンどののご領地はヒューの居場所から遠く、また堅固な要害、屈強な戦士を多数抱えておられる。陛下亡き今、プライム王子はすでに国王となられた……そのおつもりで丁重にお連れしていただきたい。私は皆に号令をかけ、逆臣を討ちにまいります。総大将はヘントゥーどの。あのお方は陛下もお認めになった我が国における最高の功労者です。もっとも、ノーゼリンどのも武勇ではひけを取らぬとは存じておりますが……、あのお方であれば、貴方にも異存はないでしょう……」
「……よし。願わくばこの手で逆臣の首を上げたいところだが、王子の護衛も立派な任務だ。わしに任せてくれ。王女もだな」
「念には念を、運命は分けたほうがいい。王女はわが弟ハンスに託します。心もとない弟ではありますが、側には戦場を経験した者もいくらかおります。いざとなれば彼らが殿となって、ハンスは必ず王女のお命をお衛りいたしましょう。さあノーゼリンどの、早急に王子をお迎えに」
「相わかった」
足を踏み出した老将は、立ち止まって素早く振り返るとこうつけ足した。
「武運を祈る」
その背を見送り、ハリーは寝不足の目をぎらぎらと輝かせた。




