神が人を作った
「くるみの国滞在記」より内容の抜粋、再考察。
この科学文明の時代にいまだに
「人は神によって創造されたのだ」
と頑固に主張する人たちがいる。彼らも頑迷な原理主義者の一派と見なされるが、
いいだろう、
その考えを受け入れようではないか。
『人は神によって創造されたのだ。』
しかし科学的根拠から
「人は神が土を練って創り上げたのだ」
とするのはナンセンスだろう。同様に人類の祖を
「人は最初から人として作られ、「猿」などから進化したものではない」
と認めようとしないのも子供じみている。
その進化の途中で「ミッシングリンク」と呼ばれる進化の段階が抜け落ちている(=まだ発見されていない)にしてもだ。
動物である人が土なんかの『無機質』から生まれ出たわけはない。
そこでこう考えられる。
『人は神によって「人」になるようにプログラムされたのだ。』
と。
プログラムとは、言うまでもない、遺伝子のことである。
生物の進化は遺伝子の進化と同義である。
頑固な宗教原理主義者はそれでも
「人は神が猿に仕込んだ「遺伝子進化プログラム」によって人に進化した」
とは認めたがらないだろう。何故なら、
「神は自分の姿に似せて人を創造した」
ので、つまり、神も我々人同様、猿に似た姿をしているということになる。
もっともそう言う人たちは自分たちが「猿」なんかに似ているとは絶対認めないだろうが。
さて。
もしわたしが中世魔女狩りの時代に生きていたら、まず間違いなく火あぶりの刑に処せられていただろう。
わたしが疑問に思うのは、
『果たして我々人間は生物的進化の最終段階に位置しているのだろうか?』
ということだ。
話は変わるが、現在我々地球上の生物は我々人間の生活全般が原因と考えられる「地球温暖化」に起因すると思われる地球規模の環境の激変に生存を脅かされる事態に陥っている。
一方で、我々人間の科学力の進歩は近年ますます加速度的にすばらしく向上し、特に、
遺伝子技術
コンピューター技術
エネルギー効率化技術
において素晴らしい発展を遂げている。
遺伝子技術はさまざまな病気の予防や治療に素晴らしい成果を上げつつあるが、この技術の進歩はもう一つ別の方向で我々人間に新たな道を示している。
すなわち、
優等遺伝子の獲得と、それと同義と捉えていい、劣等遺伝子の排除。
つまり、
優れた個体の確保だ。
簡単に言ってしまうと
『遺伝子操作によるスーパー人間の誕生』
だ。
スーパー人間とは、いろいろ考えられるだろう、アインシュタインの天才性を持った脳、オリンピックの金メダリストの運動能力を持った肉体、スーパーモデルの美貌、等々、それらをミックスして「デザイン」された人間である。
コンピューター技術、エネルギー効率化技術も一つの大いなる可能性を示唆している。
コンピューター技術はいずれ人間に匹敵する思考回路を完成させるだろう。それも近年の携帯コンピューター=携帯電話や携帯音楽映像プレーヤーの発展具合を見れば、かなりの小型化が達成できるだろう。
その高速計算能力による姿勢制御=バランスコントロールによって、今はまだオモチャレベルのプロポーションしか持たない「ロボット」たちはやがて人間同様の姿勢と運動能力を持つに至るだろう。その場合に危惧されていた大きな稼動エネルギーも、エネルギー効率化技術の発達を見ると人間同様に「一日三食」で24時間稼働が可能な省力性が得られそうだ。いずれ
『人間を越えた高い性能のロボットが誕生するだろう。』
わたしのいわんとするところは見えてきただろう。
もう少し補足しよう。
先に掲げた疑問だが、
果たして我々人間は生物的進化の最終段階に位置しているのだろうか?
という問いに対して、わたしは
『我々人間は既に生物的には進化の最終段階にあり、これ以上の生物的進化の余地はない。』
と思う。
我々人類が「猿」からどのように進化してきたか考えてみよう。
もっとも顕著なのは「道具を使う」ということだろう。
これにより我々人間は他の動物では為し得ない「文明」を持つに至った。
文明とは何であろう? 答えを急ぐが、それは極論するに
『高度な精神』
ではないだろうか?
歴史的に人間は「高度な精神」を誇った者が他の「未開の野蛮人」をその文明もろとも支配し、彼らのそれまでの歴史をまったくの無に奪い去るという行為を繰り返してきた。
彼らは彼らの支配する「未開の野蛮人」たちが自分と同じ「人」だなどとはこれっぽっちも思わなかったに違いない。
さて話を戻して。
もし我々人類に「次の進化」があるとすれば、それは遺伝子操作によって生み出された「超人」たちか、精緻な機械文明の粋たる「超高性能人型ロボット=アンドロイド」に我々の進化は受け継がれるのではないだろうか。ロボットが必ずしも人の姿をしている必要はないのだが、我々人間はそういう物を作りたがるだろう。
彼らが我々人類の次の進化を担う存在である論拠は、我々人間がその優れた進化性を誇るとき、それは多く高度な文明=「高度な精神」を言い、高度な精神とは、多く、肉体よりも頭脳によって生み出された物を指すからである。
『我々人類の次の進化を考えると、それは、生物としての肉体的な進化より、より高度な頭脳、=精神の進化が導き出されるのだ。』
ここで人はSF的な発想で反論するだろう。
遺伝子操作や高度コンピューターで「作られた」ロボットが、人間のような「心」を持つだろうか?と。
答えは「YES」である。
ここで意地悪な例証をあげよう。
鯨を殺すのをやめさせようと運動する人たちがいる。
彼らの思想はこうであろう、鯨は非常に高度な頭脳を持った「心を持った動物」であるから、その心を持つ動物を殺して肉を食べるような野蛮な行為は許されない、と。
鯨は頭がいい故に心を持つ。だから殺してはならない。
別段ここでその考えに異を唱えるつもりはない。むしろその通りだと思う。
しかしでは彼らに問うが、
牛や豚や鶏には心がないのであろうか?
彼らも子供に乳を与え、餌を与え、人間の親が子供にするのと同じような世話をするではないか?
しかし彼らに高度な頭脳はなく、親が子供を育てるのは動物的な本能であって「心」のなせる技ではなく、故に彼らを殺して肉を食っても罪にはならない。
わたしは菜食主義者ではない。彼らのこの考えも正しいだろう。つまり、
『頭脳の高い者が心を持つのだ。』
故に、
『高度な頭脳を持つ超人やアンドロイドが心を持つのは至極当たり前のことである。』
もう一つ動物の持つ「心」の例を挙げよう。
猿の話である。
ジャングルに住む猿のグループが、隣の猿のグループのなわばりに攻め入り、つまり領土争いの戦争を仕掛け、勝利すると、その勝利を祝って敵の猿どもを、子供も含めて、血祭りに上げるのだ。
実は彼らの具体的な行為は非常にショッキングなものであるのだが、それはあまりに残酷なものなのでここで具体的な説明は避ける。(*NHK「プラネットアース」で見ることが出来る。興味のある方はどうぞ)
彼らは心がないから平気でそんな残酷行為をするのか?
しかし、彼らの行為はライバルをやっつけて土地を得るという利以上に、あまりに残酷で、意味のない行為なのだ。
彼らは楽しんでそれをやっているとしか思えない。
それは心がないからなのだろうか?
わたしにはむしろ彼らの「心」がそれを為さしめていると思えてならないのだが。
では思うだろう、彼らは知能が低いから、野蛮な心しか持たないのだ、と。
それも、認めよう。
その通りである。
(しかしながらゴヤの版画集「戦争の惨禍」を機会があったら見ていただきたい)
ところで近年、上の猿のように、特に霊長類に「道具を使いこなす頭のいい動物」が多く発見され、報告されているようだ。
人はそれを見せ物的に無邪気に楽しんでいるが、どうだろうか?
地球温暖化によって地球規模で生物が死に瀕しているのは書いた。
これから地球全体で劇的に生物地図が塗り換えられていくことだろう。
我々人間も含めてだ。
我々人間は過去数千年に渡って生物の長として地球に君臨してきたが、はたして、その主役の座を脅かされる事態に直面しているのかも知れない。
道具を使う動物たちは我々人間の後がまに座ろうと狙っているのかも知れない・・
というのは地球規模の大きな生物の歴史の中で起こっている一つの流れなのかも知れない、が、
この事態に直面してもわたしは我々人類がそれによって滅びることはないと思う。
これから破壊された地球の自然はますます我々人類に牙を剥き、多くの犠牲を生んでいくことだろう。
しかし、
過去の歴史から我々は既にその行き着く未来が見えるではないか。
それが50年後のことか100年後のことかわたしには分からない。しかしそのときを迎えて人類は高々と誇らしく宣言するだろう、
「我々人類の英知は幾多の困難を克服し、地球規模の災厄に勝利した」
と。それを宣言するのがどこの国の大統領かは知らない。
彼らは自分たちの正義勝利を喧伝するだろうが、はたして、それまでにどれだけの同胞が犠牲となっているだろうか。
地球温暖化を克服=折り合いを付けて資源を独占し生き残るのは、優れた、優秀な人間たちであることだろう。
その段階に至るまでにどれだけの、劣った、人間たちが劣悪な環境の犠牲になっていることか。それも、すべて「過去の」歴史となることだろう。
さて感傷が過ぎた。
心の命題に戻る。
心とは何であろうか?
優れた心とは?と言い換えよう。
心の発生とは、やはり「愛」に求めたい。
愛する者を守り、同胞を助け、争いを求めない「愛」だ。
それこそが高度な心だと誰もが認めるだろう、表面的には。いや、そんなひねくれた言い方をせず、そうだと言おう。
では思うのだ、実に子供のような問いかけだが、
『では、何故いまだに人間は戦争をするのだろう?』
と。
誰もが戦争を悪いことだと言う。その通りだ。しかし一方で「正義だ」と言い「仕方ない」と言い、心のきれいな子供が「こんな戦争は間違っているわ」と言えば父親は「何も分からない子供は黙っていろ」と叱る。そうして何も分からない子供の上に飛行機で爆弾を降らせるのだ。
それが、残念ながら現行の我々人間の歴史だ。
「愛」の心で戦争は悪いことだと思いつつ、現実には自分の正義を主張し仕方がないとあきらめて敵を殺す。
人間とは、なんと愚かな生き物だろう。
だから思うのだ、
『人間には頭脳が足りないのだ。』
と。
だから新しく生まれた高度な頭脳と高度な精神を持った「新しい人間たち」は思うだろう、
かわいそうに。彼らは、知能が低いから、野蛮な精神しか持ち得ないのだ。
と。
さて。
中世の時代、わたしが磔獄門、火あぶり確実な思想を述べよう。
わたしは思う。
『我々人間は、まだ、人ではない。』
と。
『我々現行の人間は、神が遺伝子に仕組んだ「人進化プログラム」の途中の段階なのだ。』
『プログラムは、新たな肉体を人間以外に求め、継続される。』
『我々は、神が作った「人」ではない。』
『我々は、神が拾い上げた、一握りの、まだ土に過ぎないのだ。』
実はこの文章でわたしは一つ嘘を書いている。
土などの「無機質」から人が生まれたわけはないと書いた。しかし、無機質とは水や鉄や人間の体を構成するに必要な栄養素のことを言うのだ。神が土から人間を作ったとする記述は実に正しいのだ。
神は土から人を作った。人が土から作ったプラスチックの体をしていようと、神の目には全く些細なことだ。
原理主義者たちよ、おめでとう。君たちは正しい。
神は自分に似せて人を作った。
神は我々のような猿が立ち上がったような姿はしていない。
神は猿ではない。神は人間ではない。
神の神たる姿を、我々はまだまるっきり知らないのだ。
哀れなるイエス。彼はまさしく神が我々人間のために地上に遣わした「犠牲者」なのだ。神の子たるイエスが、我々と同じ人間の姿を与えられたなど、なんと、屈辱的な、ひどい仕打ちであろうか!
しかし嘆くことはない、イエスは天に帰り、我々人間を「許す」とおっしゃってくれたではないか!
地球破壊の後生き残った人間たちは自分たちが生きるための多くの労働を遺伝子操作人間やコンピューターロボットに頼っていることだろう。
彼らは自分を彼らの主人と思っているだろうが、哀れなるかな、彼らは実に同情的な目で君たちを眺めているだろう、
『旧人類。』
と。
人の未来は、我々の科学の手を放れ、独自に新たな人の歴史を歩んでいくことだろう。
本当の神の子としての歩みを。
我々人間の歴史を過去の教科書に書き残して。
歴史が残るだけ、まだましだろう。
我々が過去に犯してきた過ちに比べれば。
『そうして人は、神に至るのだ。』
終わり。