『蜘蛛の糸』のお話、一番悪いのはお釈迦さまですよね。
「『蜘蛛の糸』のお話、一番悪いのはお釈迦さまですよね」
仕事中に突如、悪戯っぽく彼女が問い掛けてきた。少し間を空けその真意を探るように返す。
「芥川龍之介の?」
「そう。龍之介の。普通はカンダタの浅ましさがダメだっていう」
そう言われてしまえば、彼女への答えはもはや一つしかない。
柔らかく前髪が揺れるその奥に、薄灰色の瞳がしっとりとこちらを捉えている。幾分か心が吸い込まれたのを感じながら、表面的には仕方なさそう答えた。
「戯れに糸を垂らしたお釈迦さまの、その心のありようが『悪』ってことかな」
「カンダタが抱いた希望もその先の失敗も分かっていたの、きっと。だから相当の悪だと思うのよね」
彼女は目を伏せ、手元の書類をトントンと机に叩いて整えた。
「いや、むしろ『心』自体がなかったのかも」
「どういうことかな?」
「ただ純粋に『蜘蛛を助けた』報いとして『糸』を垂らしただけ。それで彼がどうなるのかまでは、まったく考えの外だったのかも知れない」
しばしの沈黙の後、紙切れを知らせるコピー機の警告音が二人の間に割り込む。
「私にとってはお釈迦さまの『糸』だったんですけど、ね……」
そう言い残した数日後、彼女は退職してしまった。
銀色だったはずの糸は少し赤みを帯びたまま、オフィスの中空に揺れていた。
書く時間が全くないのですが、一カ月にわたり何も書かないのは寂しいのでなんとか投稿いたしました。拙作をお読みいただき、ありがとうございました。パン大好き