2-4 訓練初日
早朝、異世界のジルカ王国郊外に位置する広大な森の丘にて。
俺はイリナと対峙していた。
「それじゃ、訓練を始めるわよ」
「.......はいっ!」
「と言っても最初だからね、今日は激しい事はしないつもりよ。何事にも、基礎からが大事って言うし」
「.......」
イリナは、俺の若干不安を孕んだ視線を意に介さず、手元のメモを読み上げる。
「まずは、今日からの三日間の訓練における注意事項。この三日間、この森が訓練場です。森とはいえ、王国の領地です。無闇に自然を荒らさないようにしましょう」
「.......」
「返事は?」
「ハイッ!」
「森ですから、多少危険な場所もあります。そういった所はその都度教えるので、近づかないようにしましょう」
「ハイッ!」
「訓練中、教官の言葉、つまりはあたしの事ね。教官の言葉は絶対です。遵守しましょう」
「ハイッ!」
「訓練中、森に住む動物達に遭遇した場合は、教官の指示に従いましょう。許可無しに戦ったり、殺したりしてはなりません」
「ハイッ!」
「.......とまあ、こんな所かしらね。最低限これだけは守ってくれれば何も問題ないと思うわ」
どの注意も俺の住んでる世界と大して変わらない、常識の範疇である。これならまあ、破ることはなさそうだ。
「それではいよいよ訓練へ移ります。まずはそうね、あそこの崖の上にひと回り大きな木があるのはわかるかしら?」
イリナが崖の上に生えている木を指さした。
確かにそこには他の木より幹と身長の大きい木が、崖の上に雄々しく立っていた。
「赤い実がなっているあの木?」
「そう。全力ダッシュであそこまで行って帰ってきて」
往復するのか。ざっと見た感じ、百メートルくらいじゃなかろうか。
走る、か。
あんまり走るのは好きじゃない。が、やれと言われたのなら、やらなきゃいけないのだろう。
「わかった」
「わたしが合図するから、それに合わせてスタートして。緊張する必要なんてないわ。全力でやってくれればそれでいいわよ」
言いながらイリナはポケットからストップウォッチを取り出した。
「それじゃいくわよ、三、二、一.......」
俺はゆっくりと腰を落としてクラウチングスタートの体制を取り、先を見据えた。
「ゴー!」
瞬間、弾かれたように飛び出した。そのまま足を素早く前へ出し、地面を強く蹴る。程なくして赤い実のなる木までたどり着くと、すぐに体を捻って折り返し、イリナめがけて突進する。
イリナの横を通り過ぎた瞬間、ピッと言う機械音が鳴った。それを聞いて減速する。
「うーん、14.79秒ね...。うちの騎士団の平均より少し遅いぐらいかしら」
そう言いながら、イリナは手元のメモに俺のタイムを小さく書き込んだ。
なんだか体育の授業でテストを受けてるような感じがしてきた。
「あの、イリナ。これで良かったのか…?」
少し速くなった心臓の鼓動を落ち着かせながら、イリナに尋ねる。するとイリナは即座に顔を上げ、
「問題ないわ。さ、次いきましょう!」
活発そうな表情でそう答えた。
***
どれだけの汗を流して身体を酷使しただろうか。相変わらず美しい黄金色に輝く夕陽が浮かぶ橙色の空の下で、俺は大の字になって息を切らし、仰向けに寝転んでいた。
「お疲れ様。初日にしてはなかなか頑張ったじゃない。一度も音を挙げなかったのは大したものよ」
イリナはそう言いながら木箱の中から一本の瓶を取り出し、俺の側に置いた。ゆっくりと手を伸ばして瓶を掴み、乾ききった喉に少しずつ水を馴染ませていく。
あれから、腹筋、背筋、腕立て伏せ、スクワット、腿上げジャンプをそれぞれ二百回ずつこなし、トドメと言わんばかりに、三十分間のマラソンをさせられた。
いやいやこれくらい俺ら部活で毎日やってるしー、とか謎の威張りを披露する同級生も数人は居そうなものだが、考えて欲しい。つい先日までゲーセン通いで運動なんて滅多にしない、万年帰宅部エース筆頭であるこの俺にいきなりこのハードエクササイズである。
運動神経が無い訳では無いので、背筋あたりまでは何とか楽しみながらやっていたのだが、腕立て伏せが百回を超えた辺りから、急速にテンションが下がり、何度も心が折れそうになった。
イリナから「それじゃ、三十分走ろっか!」と告げられた時に彼女が浮かべた笑顔はきっと忘れられないだろうな。死ななかったのが不思議な程だ。よく耐えた俺。よく頑張った俺。これは素直に自分を褒めてやりたい、うん。
「見た感じ、伸び代はかなりありそうね。上手いこと訓練が実を結べば、かなりいいものになるんじゃないかしら。鍛えがいがあるってものね」
若干、満足そうな表情を浮かべて頷くイリナに、
「.......俺は、エニアグラムの三代目瑠璃に、本当にふさわしい人間なのか.......?」
無意識にそう聞いていた。
「.......?そうね、射撃に関しては私達よりかは確実に上よ。でもそれ以外は全然ダメね。まだウチの騎士達の方が遥かに良いわ。ま、これからのあなたの頑張り次第ね」
「.......」
「彼らは国を守るという大役を担ってもらっているからね、中途半端な訓練じゃ意味が無いと思って、今日やった鍛錬はそれぞれ五百回を要求したんだけど.......」
一週間も持たなかった、と。
騎士団より下。
まあ当然の結果で、わかってはいたのだが、ミシェルの言っていた、騎士団が耐えられなかった訓練に、いずれは自分も耐えられなければならないことと、まず騎士団と同じ訓練を受けられるまでレベルアップしなければならないことに軽く絶望する。
「まあ、アヤトはいずれ、国よりももっと重要なものを守らなければならない立場になるから、覚悟はしておいた方がいいわよ」
騎士団以上の訓練に覚悟するのか、これからの己の運命に覚悟するのか。恐らく、いや確実に両方においてのことなんだろう。
「と言っても、今この時から覚悟を決める必要は無いから、気楽にいなさい。まだ早すぎるわ。正直に言って、私もそんな覚悟は無いし」
.......ダメだ。まだ心臓の鼓動が激しい。荒い息もなかなか落ち着かない。夕方の森に吹く涼しげな風が、身体から吹き出た汗水を撫でていく。濡れた場所から徐々に冷えていくのが心地良い。
「だいぶ参ってるみたいね。取り敢えず今日の鍛錬はここまでよ、お疲れ様。身体をゆっくり休めて明日に備えておきなさい」
訓練中から、その言葉が早く聞きたかった。言われなくても休む。もう今日は動かない、否、動けない。
「私も明日の訓練の準備があるから一度王都へ戻って来るわ。それじゃあ、また後でね」
「おー」
森の真ん中で大の字になったまま、全身にかかる疲労感から生み出される睡魔のなすがままに、俺は静かに目を閉じた。
***
どれくらい眠っていたのだろうか。気が付けば辺りは真っ暗だった。ハッと体を起こし、周囲を見渡してみると、先程まで自分が運動していた場所であることはなんとなくわかった。
しかし何だろうか。真っ暗な夜というものは、生まれて幾度も経験しているはずなのだが、違和感を感じる。その正体はすぐにわかった。
夜空である。
俺の住む世界より幾らか文明が発達していないこの国では、街の灯りがかほとんど無いため、星の光を遮るものがないのだ。
色とりどりに煌めくたくさんの星が、見上げた夜空の端から端一面にこれでもかと言わんばかりに儚げに輝いている。その中に大きな存在感を醸し出す、俺の世界の月よりも一回り以上大きな衛星が白い輝きを放っている。
広大な夜空を眺めていると、急に自分がどれだけ矮小な存在なのかを自然と感じ、吸い込まれそうな不安を錯覚してしまう。
生まれて初めて見た圧巻の景色に、綺麗とか美しいとか、そういった感情抜きにただただ見蕩れていた。
「.......すげ」
だがいつまでも放心しているわけにはいかない。急速に寒気が全身の肌を撫で、鳥肌が立つ。
当たり前だ。あの激しい訓練で汗をかいたまま寝てしまったのだ。しかも夜の森で。俺も早く帰って風呂入って飯食ってしっかり寝て明日に備えなきゃならない。
だいぶ遅くなってしまったが、両親は殆ど家にいないから心配ない。さて、イリナと早く帰らねば。
と思ったその時だった。俺は大変な事に気付いた。
イリナがいない。
つまり、今、自分の世界に帰る手段がない。
あの風になびく赤髪の姿がどこにもないのである。あるのは、イリナが持ってきた木箱のみ。
開けてみるとそこには一枚の紙とナイフと石ころ、寝袋が入っていた。なんじゃこりゃ。
俺は一枚の紙を月明かり(月じゃないけど)に照らして見た。そこにはこう書かれていた。
『今日の鍛錬は終わり、と言ったけど、訓練は終わり、とは一言も言ってません。夜の間はこちらの世界でサバイバルしてお過ごし下さい。一応、ナイフと火打石と寝袋を入れておきます。明日も今日と同じ鍛錬をしますからそのつもりで。イリナ』
「ウッソダロオイ.......」
絶望感満載の言葉と共に、俺は暫く思考回路停止することしかできなかった。
***
〜ジルカ王国城内 エニアグラム本拠地〜
「初日から野宿を要求するなんて、なかなかエグい事考えますわね。流石は鬼教官イリナちゃんね」
ついさっき帰ってきたばかりのミシェルが、部屋から見える城下町の夜景をガラス越しに眺めながら、コーヒー片手に嬉々としていた。
「これでもだいぶ手加減してる方よ。本来ならもっとハードルは高いんだけどね」
言いながらイリナは昼間開いていたメモに視線を落とす。
「え、なになに?その紙」
ミシェルが興味を示し、イリナが右手を差し出して見せる。そこには、綾人が昼間に行った鍛錬メニューが、回数まできっちりと指定されていた。
「.......へぇ。これは意外ね」
「流石に、『絶対にやりすぎるなよ?』って念を押されながら渡されると、どうしても.......」
「今までエニアグラムメンバーの中では一番の後輩ポジションでしたから、新しい後輩が出来て嬉しいんでしょうね」
「ま、そんなところかしらね。そんな事気にかけなくても、エニアグラムの一人として充分強いのに、可愛い所あるのね」
「またイジリがいがありそうな予感がしちゃいますわ」
「イジったらまた嫌われるわよ」
「うふふ」
現在、任務でここにはいない者の仲間思いな一面に、二人してにんまりする。だがそれは一瞬の事で、イリナはスッと真面目な表情に戻し、仲間の業績確認に移る。
「で、どんな感じだった?そっちの任務は」
「ジルカの森の南側で怪しい人影をやっと見つけましたわ。遠くにいたから見失っちゃいましたけど、次は逃がしませんよ」
「え、じゃあ任務のターゲットもう見つかったの?」
「焦らないで。まだそうと決まったわけじゃないですよ。でも、近隣の住民が前々から寄せていた目撃情報と割と合ってたっぽいから、十中八九間違いないでしょうね」
「天災に関わるものじゃなければ良いんだけど…」
「捕らえて話を聞くまでわかりませんね。そうでないことを祈るばかりです」
「じゃあミシェルが訓練に同席するのはもうすぐの事ね」
「まだ解決した訳じゃないから、あまり期待はしないで頂戴」
「そうだったわね。任務、気を付けてね」
「ええ。まぁ大丈夫だとは思うけれど、早めに片付けてそっちへ向かいます」
「お願いね」
ミシェルはコーヒーを一口飲んで一息ついた時、きゅう、と言う可愛らしい音を聞いた。見れば、イリナが若干頬を朱に染めながら右手で腹部をさすっていた。
「そういえば、午後から何も口にしていなかったわね.......」
「言われてみれば、夕飯の用意がされていませんね。今日の食事当番は誰でしたかしら?」
言いながらミシェルはキッチンへ向かい、小さな冷蔵庫横の紙を眺める。
「.......うふふっ。これは早速お仕置きが必要ですかね」
そんな言葉と共に、ミシェルは子供が見れば間違いなく恐怖で震え上がってしまうような歪んだ笑顔を浮かべた。
気になってイリナも紙を覗き込むと、
「.......必要ね」
小さくそうポツリと呟いた。
小さな冷蔵庫横の紙──もとい、食事当番表には、ゾフィと書かれた所にしっかりと赤マルが描かれていた。
***
~ジルカ王国城内 騎士団専用訓練場~
剣や槍が激しくぶつかり合い、金属特有の甲高い音があちこちから聞こえて止まない。ここ騎士団専用訓練場では、厳しい入団テストを合格した屈強な男達が、自国を立派に守れる実力をつけるため、日々汗を流して精進している。そんな、未来の英雄を排出するかもしれない活気溢れる場所にて。
「ふぇくしゅっ」
「あの、ヴァーミリオン様。先程から、その、くしゃみが酷いようですが、大丈夫ですか?ティッシュ要ります?」
訓練監督開始時から何の異常もなかったゾフィが、ほんの数刻前からくしゃみが止まらないことを心配して、騎士団員の一人が思わず声を掛け、ティッシュを差し出す。
「っせーな、大丈夫だよこれくらい。あたしは体調管理は完璧だからな、決して寒気なんて感じてなんか無い。.............でもくれると言うなら貰っておく」
最後の一言だけ、蚊の鳴くような声で言った後、差し出されたティッシュをひったくるようにして取る。
その時、その場にいた訓練兵達は皆思った。
((((意地張らずに、素直に言えばもっと可愛げあるのになぁ.......))))
でも誰も口には出さなかった。
ようやくくしゃみが止まり、訓練監督を再開するが、丁度その時、訓練終了を告げる鐘の音が訓練場に重く響き渡った。
「よし、今日はここまで。自分の訓練用具はきちんと片付けとけよ。解散!」
「「「「お疲れ様でしたー!」」」」
うん、決まったな。とか内心思いながら踵を返してエニアグラムの本拠地にある自室に帰ろうとしたその時、また騎士団員の一人が恐る恐る声を掛けた。
「あの、ヴァーミリオン様.......」
「あん?」
「髪留めが、両方とも切れましたよ...?」
言われてゾフィは慌てて訓練場の脇に立て掛けてある鏡に目をやると、そこに映っていたのは、雑に結ばれた色褪せた桃色のツインテールが特徴のキリッとした自分......ではなく、ボサボサのロングヘアーでぼけーっと突っ立っている自分の姿だった。
一つならまだしも、二つ同時に切れてしまうことってあるのだろうか。いや、あったからこそ、今の自分の長髪姿があるのか。世の中奇妙な事もあるものだ。
「ああ、そうか。悪いな、ありがとう」
そう言って騎士団員から切れた髪留めを受け取ると、そのまま髪をいじくりながら訓練場から出ていった。
その時、その場にいた訓練兵は皆思った。
((((あれ絶対何か不吉なことの予兆だよなぁ))))
でも誰も口には出さなかった。
この数時間後、場内のごく限られた場所で、青い顔した涙目のボサボサ桃色ロングヘアーの目撃情報があったとか無かったとか。着ている普段着もヨレヨレだったとかそうでなかったとか。
何にせよ、その事についてはまた別の話である。




