2-1 戻ってきた日常
お待たせしました、新章です。
静かな教室にカツカツとチョークが黒板に叩きつけられる乾いた音が響く。
窓際で、机に突っ伏して寝ている純也の前の席に座っていた俺は、黒板に白い文字や記号が羅列されていくのをボケーッと眺めていた。
心ここに在らず。
「それじゃあ、ここの数列の問題だが、この問題を解くために必要なことはなんだ?えー、泉」
山岡先生に指名されたことで漸く我に返った俺は、慌てて黒板を見るも、そこには問題がいくつも書かれており、どの問題について聞かれているのか分からなかった。
「すみません、わかりません」
「あれ、答えられない?.......じゃあ、高崎」
「はい、えーと、n/2(n+1)の二乗です」
「そうだな。いいか?ここにΣ整数の三乗があるから.......」
鈴奈が不思議そうな目でチラリとこちらを見てきた。いつものあやとならこれくらい答えられるじゃんどしたの?とでも言いたげな表情で。
気不味い表情で鈴奈から目を逸らして、態度で応えておいた。
静かな教室に水をさすかのように、チャイムの音が大きく鳴り響き始めた。
「お、じゃあ今日はここまでだな。よし、号令」
「起立、気を付け、礼」
「「「「ありがとうございましたー」」」」
学級委員長の賢吾の号令で挨拶をすると、授業が終わった途端に元気になった純也が、
「なああやとー、学食でうどん食おーぜ!」
そそくさと財布を取り出しながらそう言った。
「あ、じゃああたしも行こうかなー」
「僕も行こうか」
鈴奈と賢吾もそれに便乗してきた。三人が行くというのなら、俺も行こう。ぼっちめしやだ。
「おっけ。なら、さっさと行こうぜ。早く行かないと長いこと待たされるかも」
「うちの高校人数多いからねー。こーしちゃいられないよ」
鈴奈が言いながら、灰色でダボダボのスクールカーディガンの袖を捲りながら、その目に活力を漲らせていた。
「お、高崎サーン、走る気マンマンですな?」
「さあ柿田クンにお二方、高校生活の醍醐味、学食ダッシュといこうじゃないか!」
「いや待て、いくら急がなくてはならなくとも、校内走るのは危な.......」
「つべこべ言わずに走れよおらぁ!」
純也が賢吾の腕をそれぞれ掴んで走り出した。純也がやる気に満ち溢れた笑顔を浮かべて走っているその後ろを、慌てふためいた様子で学級委員長がフラフラと引っ張られていく。
男二人が手を繋いで走っていくという、なんとも絵にならない光景をなんとも言えない心情で眺めていると、スタートの構えをしたまま顔だけこちらに向けて、鈴菜が俺を見上げていた。
「どしたの?行かないの?」
「いや、行くよ」
「純くんいきなり行っちゃったからタイミング逃しちゃったなー」
その言葉を聞いた俺はすぐさま教室を勢い良く出て、廊下を駆け出した。
「あー!ちょっとーー!」
***
俺が食堂にたどり着いたとき、純也と賢吾は既に俺の分の食券を買っていたらしく、スッと手渡してくれた。
「お、遅かったな?先買っといたぞ」
「金は後でいい」
「お、助かる。あれ、鈴奈の分は?」
手渡された食券は1枚だった。
「悪い、金がなかった」
受け取った俺は食券をポケットに入れて、列に並ぼうとする。
「あれ、すずは?」
純也がきょろきょろ当たりを見回した。
「後ろから来てると思うけど?」
そう言って三人で後ろを見ると、ボブカットの黒髪を激しく乱し、ゼェゼェと肩で荒い息をしながら、膝に手を着いている鈴奈がいた。右手にはしっかりと食券が握りしめられている。すごい根性、女の子らしくない。
「はぁ、はぁ.......。もう、急に行かないでよ、このばかぁ.......」
「いやいや、走る準備万端だったじゃん」
「あたし女の子だよ?気遣うとか、普通思わないわけぇ?」
「幼馴染みのお前に今更気遣いを求められてもなぁ」
鈴奈とは、礼儀もまだろくに知らない幼稚園の頃から一緒だった。家が比較的近く、両親の中もすごく良かったため、仲良く遊ぶ、家族ぐるみで旅行に行く、一緒に風呂に入る、今思えば実にくだらない理由で喧嘩するなどなど、幼い時から沢山の時間を鈴奈と過ごしてきた。だから、互いに気を遣うことは殆ど無かった。
「お、あそこのカウンター空いたかな?よし、食券渡してこよう」
「じゃああたしテーブル確保しとくね〜」
鈴奈は俺に食券を何も言わずに差し出し、俺がその食券に目を向けることなく自然な流れで受け取った時には、既に空き席に向かって歩き出していた。
「相変わらず息ピッタリだな、あの二人」
「男女間でのああいう行動は別に特別な訳でもなんでもないのだが、あそこまで言葉もなしにサラリとやれるというのは凄いな」
「てゆーことあいつらに伝えると、え、別にフツーじゃん?みたいな顔するんよな。腹立つわ」
「幼馴染みのなせる技、だな」
テーブル求めてテコテコ歩き去っていく鈴奈と、食堂のおばちゃんにうどん二つ注文する綾人を眺めながら、純也と賢吾はボヤく。
「あーあ、俺にもすずみたいな幼馴染みいねーかなー」
「いたとしても、お前の場合あそこまで仲良くはならんだろうよ」
「俺は綾人みたいな素っ気ない態度は取らないぜ?毎日優しく色んな話に付き合ってやるよ!」
「お前の場合、それはただのウザ絡みだからな?」
「はいよ、肉うどん二つ」
「お、あざーす」「ありがとうございます」
肉とつゆの混じった甘い香りの湯気を立ち上らせる温かい肉うどんを受け取り、二人でテーブル席をうろついていると、
「純くーん、賢ちゃーん!こっちこっちー」
鈴奈が四人がけのテーブル席に座って手を振っていた。
「悪いな、助かるよ」
「いいっていいってー。昼休みはどうしても人多くなっちゃうもんね」
「この水すずが持ってきたのか?」
見るとテーブルには冷えた水の入った四つのコップが置かれていた。
「そだよー」
「気が利くなぁ、さんきゅ!」
「どういたしまして」
鈴奈が微笑みながら純也に言葉を返したところで、両手にお盆とうどんを抱えた綾人が戻ってきた。
「ほれ」
「どもー」
鈴奈の前にお盆を置いて、自分のも置くのと同時に腰を下ろす。
「そんじゃあ早速いただきますか!」
「「「「いただきます」」」」
割り箸の割れる小さな乾いた音が四つ鳴り、白く艶のある、程よい弾力をもつ麺が四人の口の中にズルルと吸い込まれていく。うまい。
暫く箸を動かしたところで、水を一口飲んだ賢吾が口を開く。
「しかし本当に、お前らは仲がいいな」
「いや、仲がいいというよりも、お互いを信頼している.......と言った方がなんつーかこう、しっくりくるな」
純也が付け加える。
口の中の麺をつるっと飲み込むと、俺は言った。
「まあ、そうかな。幼少時から一緒にいりゃそりゃ仲良くもなるさ」
「幼少の時から知り合ってたのか!?」
「ふぇっ、まひで!?」
賢吾と純也が驚いた表情をする。純也よ、行儀悪いから口から麺垂らしたまま言うんじゃない。面白い顔になってるぞ。
しかし、あれ、言ってなかったっけか。
「俺と鈴奈とは小学校以前からの付き合いでな、家も近いし親同士の仲も良かったから頻繁に遊んでたな」
「あの頃は楽しかったねー。家族みんなで山へキャンプしに行ったことは今でもよく覚えてるかなー」
「ああ、草むらから突然飛びかかってきたネコにビックリしてコケた挙句、ネコに引っかかれてお前が大泣きしてたアレか」
「そうそう、綾人が花火で火傷しちゃって大泣きしてたアレ」
「あの時は散々だったな。どうやらネコはお前のポーチに付いてたストラップを餌と勘違いしただけだったしな。泣いてる鈴奈をあやすのが大変だったよ」
「まさかあやすのに線香花火つけるとは思ってなかったけど、手元狂って自分の膝の上に落として火傷しちゃうんだもん。おっかしくて笑っちゃったよ」
醜い毒の吐き合いである。しかし、
「ほんと、仲がいいんだな」「羨ましいわー」
向かい合ってそのやり取りを眺めていた二人は感心と羨望の眼差しを向けていた。
「幼少時からの付き合いってことはさ、やっぱ風呂とか一緒に入ってたりしたわけ?」
若干鼻息を荒くさせながら純也が身を乗り出す。
「物心ついてない小さい頃は、入ってたな。時たまにだけど」
「なん…だと…!?」
「他にも色々あったな。肝試しですっかり冷えて一緒に縮こまって寝たりとか、近所の一つか二つくらい上のガキグループと喧嘩したりとか」
「凄いな。おおよそ幼馴染み特有の体験は殆ど経ている様だな」
「まあ、小さい時からそんだけ付き合ってれば自然とね、そういうことにもなるよ」
「今じゃほとんど無くなっちゃったけどねー」
「すずとあやとは一緒に遊んだりとかもうしてないのか?」
「中学入ってからはめっきりなくなったな」
「お互い忙しくなっちゃったしねー」
「まあ昔と違って、自由時間は少なくなったからな」
「俺達は学生なんだ。仕方ないさ」
「だねー」
小学校まではよく遊んでいたのだが、中学に入って鈴奈はバスケットボール部に入部し、俺も俺でその頃に稼働開始したFPS、『BULLET of RAINFALL』通称BRの虜となってしまった。かと言って全然会っていなかったわけでもなく、一緒に登下校した回数は数え切れない。
「んー...。そうだ、確か来週の月曜日は祝日だったよな?久々に四人でどっか遊びに行こーぜ?」
純也が少し考える素振りを見せた後、嬉々として遊びの提案をしてきた。
「え、こないだ鈴奈の家にお邪魔したばかりじゃないか」
すると純也は、キリッと引き締まった表情で突然立ち上がり、
「ばか、あれは課題をお前ら二人に教えてもらうために、帰りに寄っただけであってな、実質全然遊べていないわけなのですよ!」と言った。
ほう、あの勉強嫌いの純也が自分から勉強する意欲を見せるとは。これは俺もうかうかしてられないかもしれない。
「とか言いながら、お前はゲームして遊んでたじゃないか」
あれ?
「あたしのクッキー大半は純也が食べちゃったし」
あれれ?
「やっと課題に手をつけ始めたと思ったら、すぐに手に握ってるものがペンじゃなくて携帯になってるし」
あれれれれ?
「結局プリントの半面が埋まっただけでお開きになっちゃったよねー」
れれれのれ。
衝撃、ではなく案の定の告白を聞いて、俺は冷めた目を純也に向ける。
左の賢吾と正面の鈴奈から代わる代わる口撃をうけ、自分の言葉と行動の矛盾を突かれた純也は、依然としてキリッとした表情のままご起立なされていた。
大量の冷や汗をその表面に垂らしながら。
あ、視線が横にずれた。