1-14 嘆きの果て
迫り来る黒い右手を薙ぎ払い、その勢いを殺さずに化物の口内の水晶を砕く。
「.......これで、十四」
霧散する化物を見ながらイリナは辺りを見回す。戦い始めた当初からすると、化物の闊歩する気配はほとんど無くなり、耳障りな叫び声もかなり減っていた。
さて、どうしようか、と悩んでいると、聞きなれたエンジン音が聞こえてくる。
黒く流麗なフォルムの車体、ミゼリターがイリナの前で停車する。
「おつかれさん。レーダーの化物の反応はあと一箇所、この大通りをまっすぐ南に向かったところだね」
運転席の窓からエティオが顔を覗かせた。
「.......そう。なら早いとこ仕留めましょう」
「だなー。流石に今回は被害が大きすぎたな。死人も出てるみたいだし」
エティオが眉をひそめながら言う。
「これだけの数が出たんだもの。こればっかりは仕方ないわ」
「相変わらず冷えた性格だねー。情熱の赤って言葉が一番似合ってない人だね、君は」
「失礼ね。私だって情熱を持つことくらいあるわよ」
「何か食べ物を前にした時、食べ物に関する事件の時くらい、でしょ」
「.......行くわよ」
「はいはいっと」
イリナはエティオから顔を背けて、ミゼリターの後部座席に乗り込んだ。
エティオが重みのある鈍いエンジン音を響かせ、ミゼリターを発進させる。
「何体やったの?」
往復するワイパーの通った、水気のないフロントガラスに映る景色から目を離さないまま、エティオが聞いてきた。
「さっきので十四ね」
「なっ!あー、僕は十三だよ。一体負けたなー」
「勝負する約束なんてした覚えないわよ」
「それでも数は競ってみたいじゃん?」
「別に興味はないわね。目的が達成さえできれば、それでいいわ」
「ほんっとに冷たいねー。でもま、イリナらしい考えだね。」
明るい声でエティオが言う。その明るさに水を刺すかのように、イリナが疑問を呈する。
「それにしても、今回の化物、街の南側に集中していたわね。なにか理由があるのかしら」
「さあ.......。言われてみるとそうだね。南側に固まっていた記憶があるよ。.......なんでだろ?」
しばらく黙考して、エティオは尋ねる。
「あの化物、イリナは知らないよね?」
「ええ。昨日あなたから、ここに何か出るって聞いて、初めて見たわ」
「実を言うと俺も初めて見たよ。何かの新種か、変異種か、或いは.......。」
「.......人が生み出したのか、とでも?」
「恐らくはね。どんな方法で現れたのかは知らないけど、人為的に生み出されたとなると、どうも穏やかな目的じゃ無さそうだね」
一瞬、車の中に沈黙が降りるも、イリナがそれを破る。
「南側に、何か化物の好む物でもあったのかしら」
「さあねぇ。この街は首都とは言え、南側には大して目玉になりそうなものなんてなかったと思うけど.......」
「.......」
「.......」
再び、今度は別の沈黙が車内に降りる。またしても、イリナが破る。
「答えが出そうにないなら、考えてたって仕方ないわ」
「それもそうだねー。まだ若いってのにハゲたくなんてないし。それじゃ、最後の一体は僕が仕留めさせてもらうよー。これで、引き分けだね!」
そう言いながら、エティオは車体の先端を、路地から出てきた化物の口に狙いを定め、一気に加速させた。
「.......好きにすればいいわ」
イリナは眉をひそめて横の窓に視線を逸らし、雨の降る街中に不機嫌そうに目を向けた。
顔を横に向ける際、後ろからとても小さな舌打ちを聞いたエティオはニヤリと笑い、
「ひゃっほーーーい!」
と奇声を上げながら化物の口に突っ込んだ。
***
少女の小さな足が化物の口に引きずり込まれて行く様を、濡れた地にへたり込みながら、ただ見つめることしか出来なかった。
仇を討とう、なんて思わなかった。いや、思えなかった。
助けられなかった、不注意で死なせてしまった、という現実を認めたくなかった。
化物は俺には気付かず、そのまま背を向けて路地の出口から大通りへ出ていった。
まるで滝のように降り注ぐ雨の中、俺はゆっくりと項垂れる。
幼い命が目の前で凄惨に散っていったことに深く絶望する。立ち上がる勇気なんて、力なんて、戦う覚悟なんて、ひどく打ち砕かれ、もう微塵も残っていなかった。
足腰を捉えて離さない水浸しの石畳から伝わる、感覚がなくなるほどの冷感と石の硬い感触が、他人事のように思えた。
石畳の小さな窪みを見つめたまま無数の水滴を顎から落とし、激しい雨音を何も考えず自失状態で聞いていたその耳に、聞き慣れたエンジン音が飛び込んできた。
僅かに顔を上げ、目を動かして路地の出口を見ると、先ほどの化物の口の中に激突する黒い物体が見えた。
そのまま、化物とともに路地の死角へ消え去ろうとしたその刹那、ガラス越しに赤い少女の顔と目が合った。
通り過ぎた車は、一瞬小さくなったエンジン音をすぐに大きくさせ、路地に姿を現し、そのまま俺の手前で停車する。
「やあ!なんとか生きてるみたいだね!」
エティオが窓から顔を出して陽気な声を掛けてきた。
たった今、人が死んだんだぞ?どうして、お前は笑ってるんだ?
俺が虚ろな目で見上げる。
後部座席から降りてきたイリナが、
「その表情、嫌なものを沢山見てきたみたいね」
「.......れは...」
「?」
「.......俺は、救えなかった。あの家族も、俺に少女を託した母親も、その少女も.......。みんな、目の前で.......。俺は、なにも、できなくて...」
口から己の情けなさを吐露していくうちに、涙が少しずつ滲んできた。
「.......いきなり辛い事に巻き込んでしまって、本当にごめんなさい。本来なら、お試しでこんな事は絶対にさせないわ」
わかっている。イリナやエティオのせいじゃない。エニアグラム体験のせいじゃない。
俺のせいだ。
俺に勇気がなかったから、半端な覚悟しか無かったから、目も当てられない程に情けない結果になってしまったことは、よくわかっている。
しかし俺は、瓦礫の下の家族を見た時、母親の鮮血を見た時、足だけになった少女を見た時、何をすればよかったのだろう。答えが見つからない。見つからないからこそ、俺は悲観し続けることしかできなかった。
「でもね、これだけは覚えておいて。エニアグラムで戦うとなると、少なからず自分の非力さ、運命の残酷さに心が挫けそうになる時があるわ。それを克服しろ、なんてそんな非道なことは言わない。むしろ嘆きなさい。嘆いて、自分を見つめ直してこそ、自分の一番の糧になるの。出来なかったことも、出来なかった自分も、決して無駄になんてなりはしないわ」
俺はイリナを見上げる。そこには、雨で乱れ、頬や肩に張り付いた赤髪を全く意に介さず、厳格な、しかしどこか優しげな表情を浮かべた綺麗な顔があった。赤く輝く瞳で、真っ直ぐに俺を見つめている。
「エニアグラムに来なさい。今を十分に嘆いているあなたなら、私達とともに嘆き、悲しみ、笑い、戦い、強くなるのに相応しいわ。あなたは必ず、人を助ける力を身につけることが出来る」
そんなものは、ただの理屈に過ぎない。自己満足させる理由に過ぎない。
けれど、どうしてだろう。
イリナのその言葉を聞いて、やっと、涙が頬を流れ始めた。固まっていた表情がほぐれて、泣きっ面になった瞬間、涙が後から後から溢れ出てきた。
すごく悲しいはずなのに、惨めなはずなのに、イリナに言われた言葉が、少し、自分の救いになったような気がした。
「ごめん.......ごめんな.......。助けて、やれなくて.......!」
唇と奥歯を噛み締め、降りしきる雨の中、俺は静かに嗚咽を漏らした。