神様、その転生は意味ないです
天国を『理想の楽園』だと定義するならば、私が今いる場所はまさしく天国だ。
傍らに立っているのは狼の獣人。もちろん人間に耳と尻尾を付けただけの亜人などではなく、狼がそのまま二足歩行を始めたタイプの獣人だ。細長い口先はきりりと引き締まり、鋭い眼光は獲物を捕らえる獣の輝き。尖った耳は上に伸び、口元には鋭い牙がある。なにより、全身が茶色の毛で覆われていた。触ってみると見た目以上に柔らかく、手のひらが完全に埋まってしまうほど毛足が長い。特に胸元の毛はもっふもふのふわふわで、顔を埋めて頬ずりすると幸せな気分に浸れる。
「スムルシュ博士、いい加減にしたらどうだ? ルーグも困っている」
上から呆れたような声が降ってきて、私は毛並みから離れた。声の主は大柄な竜人だ。全身は黒緑色の鱗で覆われ、腕も足も強靱そうな見た目をしている。私は不機嫌に彼、ノワーテを睨み付ける。
「いいじゃない、別に。ねえ、ルーグ?」
「えっ? あっ、はい」
私が同意を求めると、狼の獣人、ルーグはあたふたしながら返答した。その様子にノワーテはため息をつき、私を力ずくで引きはがしてしまう。仕方なく、私はノワーテの太い腕を見つめた。がっしりした腕は鱗で覆われており、触るとひんやりとしてなめらかな質感だ。その硬質な見た目とは裏腹に、特にお腹周りなどは突っつくとへこむくらい柔らかい。外側は固いのに内側はぷにっとしていて、そのちぐはぐな感触にゾクゾクと胸が高鳴る。
「博士、いい加減にしろって言っただろうが」
執拗に触る私の腕を、ノワーテは乱暴にはたいた。彼は一番つれなくて、なかなか触らせてもらえない。私は諦めて立ち上がり、あてがわれた研究所を見渡す。そこで働いているのは狼や虎、熊や兎といった獣人や、ノワーテのような竜人、はたまた何とも形容しがたい見た目の亜人達が作業をしていた。これだけの亜人達に囲まれて仕事をするというのは、人外好きの私にとって天職であり楽園だった。ここに来て良かったと思える。――ただ一つの不満を除いて。
私はちらと自分の腕を見た。毛皮も鱗も生えておらず、剥き出しの肌地が見える。鋭い爪すらないそれはいかにもひょろ弱そうで、簡単なことで折れてしまいそうだ。それなのに暖かな毛皮も傷害から身を守る鱗もないせいで、服なんて代わりものを着ないとやっていけない。せっかく獣人や亜人が普通にいる世界に来たというのに、私は人間のままだった。
少しややこしい話をすると、“人間”といえばどんな姿か想像できると思うが、ことこの世界において人間とは、ルーグやノワーテのような、地球で言う獣人や亜人のことを指す。そして私のような二足歩行をして文明のある動物を、彼らは“ハゲルモ”と呼んでいる。ルモというのはこの世界に存在する道具を使う動物のことで、猿とは違うがだいたいそんな位置づけの存在だ。つまり私は彼らから見て、まんま「毛のほとんどないハゲのルモ」という呼ばれ方をしているのである。なんとも酷い話だが、地球にも“ハダカデバネズミ”という和名の動物がいたりするので、たぶん感覚は同じなのだろう。
だいたい、ハゲルモなんて失礼な名前で呼びたくなるくらい、私の姿は(彼らから見て)不格好なのだ。そのことがなんとも許しがたい。こんなことなら、あのときに獣人になれるように願っておくべきだったと、今でも思ってしまう。
そう、あれは私が毛無人、サフィーエ・スムルシュではなく、日本人・白河幸恵だったころの話――
私、白河幸恵は日本のとある小さな研究施設で働いていた。それがある日、液体窒素をエレベーターに乗せたときに閉じ込められてしまった。システムがダウンしたのか、どのボタンを押しても扉は開かなかった。液体窒素といえば、テレビで見るように様々な物体を急速冷凍できるが、私は凍死したのではない。液体だった窒素が気体に変わり、エレベーターという密閉空間に充満して、私は文字通り窒息したのだった。
死んだら意識は消えて無くなるだろうと漠然と思っていた私だったが、どういうわけか、死んだ後も意識はあった。いや、意識と言うより意思感情があったと言うべきだろうか。気がつくと真っ暗な中で、ひっそり佇んでいた。奇妙な人影があること以外、何もない空間だった。
そこにいた人物は、男とも女ともつかない中性的な顔立ちをして、悲しそうに泣いていた。私がいることに気付くと、その人物は自分は神だと名乗った。電波な奴だと、平時の私なら思ったかもしれない。けれどすでに常識を逸した状況だったからか、それとも相手にただならぬ雰囲気があったからか、私はそれを嘘だとは思わなかった。
神と名乗った人物は、私に深々と頭を下げた。なんでも私がエレベーターに閉じ込められたのは一人の別の神様がいたずらをしたからで、偶然被害に遭って命まで失った私に詫びたいとのことだった。お詫びとして願いを叶えた上で生き返らせる、もしくは新たに転生させようと提案してくれた。
それを聞いた私はすかさず聞いた。別の世界、例えば獣人や亜人が住む世界に転生も可能ですか、と。神様は私の願いを快く引き受け、こうして私はサフィーエ・スムルシュになった。
ただ誤算だったのは、生前とまったく同じ姿で生まれ変わってしまったことだ。それは私が願いの中に含めなかったからだが、そう思うとあのとき願っておくべきだったと、今でも悔やむ。だが、後悔後先立たず、だ。もうあの神様と接触できない今、願っただけでは何も変わりはしない。だから私は誓ったのだ。いつか必ず、自分の力で獣化してみせる、と――