Whenever, Forever 四
四
「ねえ、インちゃん」
中部国際空港から、知多半島道路を東進中、バイ・タクシー。私は右後部座席に座るインちゃんに、首を捻って振り返って訊ねる。因みに私は助手席で、インちゃんの左に頼さん、直。運転手のおじさんから見れば奇妙な二人組に見えただろうこの席順は、要するに昨晩歌舞伎町から私のアパートに向かい、私のアパートから新宿駅近くの超高級ホテルに行ったときと、今朝その超高級ホテルから東京駅に向かったときのタクシーの席順と同じだ。
「はい、何でしょう?」
彼女は無感動に先を促す。――運転手さんは、空気を読んで無言でいてくれる。
「頼さんは、世界最強なんだよね?」
「はい」
即答――信頼の証。
「ならさ、頼さんが五十二歳の姿で顕現しているのは、その歳が〝史上最強〟の歳だったってことなの?」
直が二十歳の姿で顕現しているのは、彼が二十歳で死んだからだと思うのだけれど。
「そうですね、実は直さんの場合も、霊の性質――未練の性質、といいますか、それが似たりよったりなので、だいたい同じなのですが」
と、インちゃんは屍姫を彷彿とさせるような前置きを言って。
「直さんと頼の場合、自身の〝史上最強〟の体調・体格・体質と、自身が死んだ年齢が等しいのです。ですから、直さんの場合は、死んだ年齢でありかつ、彼史上最強だった年齢である二十歳の状態で、頼の場合は、死んだ年齢でありかつ、彼史上最強だった年齢である五十二歳の状態で、顕現しているのです」
「それは……頼さんは、死ぬまで成長していたってこと?」
「ああ、そうだな。私はこの歳で死ななかったらたぶん寿命まで成長していただろうな」
頼さんが横から口を挟む。
「そのうち『車輪の書』でも書こうと思ってた」
「バンプかよ」
直が横から口を挟む。
「ふーん……」
……頼さんがなんで死んじゃったかは、スルーの方向で。
「そういえば、娘さんがいらっしゃったんでしたよね?」
「ああ――」
私がそう訊ねると、頼さんは遠い目をして。
「あれは私が生きている頃の――世界が一巡する前の話だ」
「なにそれ『天国の扉』っ?!」
私が言うと頼さんは、
「いろいろ――ほんとうにいろいろ突っ込みたいところはあるが」
「二穴同時!」
「ひどい!」
「或いは三穴?」
「やめろ!」
私が二度叫んだその度に運転手さんがびくっとし、直がその運転手がびくっとなるそのタイミングで二度ツッコんだ。
「何を!」
「別に今はボケてない!」
「話を戻したいんだが……」
私と直の下ネタ合戦に、溜息混じりに頼さんが混ざろうとする。
「混ざろうとなどしていない!」
あの冷静な頼さんが語気を荒らげてしまうほど、
「ツンデレったんですね!」
「……もうそれでいいよ」
どうやら、彼は自分の心に素直になったようだ。
「違います! 大勢に関わらないことにムキになることが虚しくなったのです!」
あの冷静なインちゃんが語気を荒らげてしまうほど――私にもわかる――
――それはただの。
……どうやら、さっきの頼さんのボケ? に対しては、
「What a wonderful world!」
と返すのが正解だったようである。
あと幾つか――少なくとも三つは、彼は言いたいことがあったようだけれどそれはさておき。
「……娘がいたんだ。それはそれはもう可愛い娘が。世界よりも大事な娘がいたんだ」
と、気を取り直して頼さんは始めた。
「そうなんですかあ」
「世界一大事なのは嫁だけどな」
私の疑問を先取りして頼さんは答える。
「しかしな、陽――娘のことだが――十六のときに男と付き合い始めてな……」
…………あ。
もしかして:地雷踏んだ?
「……」
無言で私を刺すような視線で見つめてくるインちゃんを見ていられなくて、私は正面を見る。途切れ途切れの白線と、途切れることなく降り注ぐ光の波が、コンクリートロードを黒く照らす。対向車線と違って空いている下り車線を、タクシーは快適に五速で進んでいく――
「くそ……あの男、勝手に死ななかったら私が殺していたな……!」
さらっとすごいこと言ったよこのお父さん! しかも娘婿も勝手に殺してるし!
「娘婿じゃない!」
「ほんとに死んだの?!」
「……冗談だよ。勿論、私も陽の彼氏を殺してなどいない」
「……そうですか」
……なんだか複雑な親娘関係は、スルーで。
「話を戻すけど」
と、私は自ら逸らした話を元の道に戻す。
「頼さんは、世界最強なんだよね?」
「はい」
またもインちゃんが即答する。
「それならさ、何で頼さんは剣で闘ってるの?」
「……鋭い質問ですね」
彼女は「だからあなたは怖いんです」とでも言いたげだ。
「…………」
彼女は無言で、一つ息を吐く。――頼さんも直も、今度は口を挟まない。
「頼が剣で闘うのは、わたくしの――というよりは〝藍〟=〝幽霊〟という能力の制限なのです」
「処女ってやつ?」
「それもそうですが」
彼女は間髪入れずに相槌を打ち、
「触れる霊触れる霊次々浄化していく――それでは、〝祓魔師〟ではなくてただの殺人鬼――〝殺霊鬼〟、です。わたくしたちは〝祓魔師〟で、霊のための存在なのです。霊を想い、霊の思いを満たしてやる――それがわたくしたちの仕事なのです」
「最初は不意打ちしたのに? ……でもあれ? 不意打ちする前に自己紹介したよね? それじゃあ不意打ちじゃないのか……?」
混乱してきた。
「……浄化にもいろいろあって、わたくしたちの場合、霊がたとえばあなたに憑依している状態ではなく単独で顕現していなければ浄化できないのです。だからわたくしが名乗って結界を強固に張って、直さんを顕現させる必要がありました」
私は黙って頷く。
「また、その浄化には未練や怨恨も含まれるのです。つまり、霊を浄化した後に諍いや復讐が起こらない。それに、相手に気付かれなければ気付かれない方がいいのです。結局忘れてしまうのですから、余計にその人の胸を騒がせずに、また世間を騒がせずに、済んでしまえばその方がいいので」
一割ぐらいは、失敗するのですけれどね、と彼女は付け加えた。おそらく、「支部」ではなく彼女に割り振られている――いや、〝Colours〟からインちゃんに〝依頼〟されて、それを「支部」に割り振るか自分で担当するかはインちゃんが決めるのか?――どちらにせよ、インちゃんが相手する霊の強さは、やはり半端ないのだろう。直のことも褒めていることは言うまでもない。
「でもそんなんじゃ、仕事は――霊の数は、減らないんじゃ」
「……そうですね。だからわたくしたちは、世界各地に支部を作っています。わたくしたちが出張るのは、重要案件だけです。それでも、週に一日休めればいいほうですが」
「それは……」
ブラック企業だなあ。
「それでも、頼と二人で世界を旅するのは、楽しいですよ」
彼女はそう言って、少し照れながら微笑んだ。頼さんは無言で、ほんの少しだけ目を伏せている。……恥ずかしさを、我慢しているような、そんな感じ。
「ふーむふむふむ」
私はちょっと嫉妬しながら相槌を打つ。
「……話を戻しますね。要するに、頼の能力――これは身体能力とか技術ですね――に〝藍〟=〝幽霊〟の能力がついていっていないのです。この能力で〝霊の浄化〟という能力をつけられるのは身体か或いはその武器の一部だけなのです。頼は何を持たせても――何も持たずとも人類最強です。だから右の掌だとかに能力を付与してもいいわけですけれど――」
私の趣味に合わせたのかな?
「――『私は剣がいいね』と、彼が初めて召喚されたときに、言われたそうです」
「……そうだったな、そういえば」
「毎回、頼は〝藍〟が移り変わる度に――移り変わって初めての召喚のときに、そう言うのだそうです」
頼さんが重そうに口を挟み、インちゃんは、運転手さんが聞いても不自然ではないように話をつなげる。別に運転手さんにとって話がつながらなくても大丈夫だと――というかそっちのほうがいいように思うのだけれど。〝Colours〟の機密的に。
ただ、「彼が初めて召喚されたときに、言われた」、ということは。
「それって――」
「はい。この〝Colours〟が生まれたときの話です」
「……」
それは、どれくらい昔のことなのだろう。
「さあ……頼も覚えていないそうです――長すぎて」
「……」
彼はどんな気持ちで、ここに留まっているのだろう。
頼さんは、無言だった。
「ときどき、『早く私より強い奴が現れないかな』っていう寝言を零しています」
インちゃんにそう言われても、頼さんは無言で、また恥ずかしそうに少しだけ目を伏せて。
そしてそう言うインちゃんは、大切な家族――父親の話をするときのような、そんな温かくて柔らかい微笑みを、そのまだまだ幼い顔に浮かべた。
……彼女も、家族はいないのだろうか。
「いますよ。……いますけれど。こんな能力――霊を呼び――悪魔を呼ぶ能力のせいで、わたくしは教会へ捨てられました。けれど教会でも、やはりこの能力のせいで、あまりよく扱ってはもらえませんでしたが。……でも今は――」
彼女は、私を見上げてにっこりと、満面の笑みで。
「頼が一緒に寝て、頭を撫でてくれるので」
大丈夫です。
彼女は高らかに――そう言った。
頼さんはそれを聞いて、やっぱり恥ずかしそうに、ふふっと微笑んだ――まるで、娘を想う父親のように。
――ああ、彼女は、永遠のパートナーと共にいるのだな、と。
そして、処女を頑なに守る理由も。
たとえ頼さんを愛しても。
それは――
「それは、言わない約束ですよ」
インちゃんは寂しげに微笑んで。
――彼女の恋は、叶わぬ恋で。
――変わらぬ愛に、敵わぬ恋で。
恋人としてのパートナーよりも。
保護者として――親としての、パートナー。
共にいる人。
インちゃんは、少し照れくさそうに。
――十七歳の、恋する少女のように。
彼女は静かに、また笑った。
*
早めのお昼ご飯をとって、今は昼寝の時間だ。勿論私たちのではない、子どもたちの、だ。
「美紀先生おやすみー」
「はい、おやすみー」
さっきまで勉強していた私の担当の深結以外の五人は、口々にそう言って、敷かれた布団にもそもそと潜っていった。真夏だからといってもさすがに昼寝中は冷房は切っているので、風通しのよい日本家屋なこの施設でも暑いのだけれど、体を冷やさないようにみなタオルケットを被って眠っている。私の教育がいいせいだろう。
「それはないと思います美紀先輩」
椅子に座っている私の隣の椅子に座っている紫苑が、ツッコむ。
「さっきも思ったが、お前いつの間に読心術を?!」
「……美紀先輩、〝Colours〟って知ってます?」
彼女は突然――妖艶な、表情で。
「知ってる……けど」
あれだ、なんか、世界平和のために闘う秘密結社、みたいな。
「そうそう、それです」
「だからなんで――」
「私、〝Colours〟の一員なんですよ」
彼女はそう言って、私の目を、上目遣いで、覗き込む。
――息が、荒れる。呼吸が、乱れる。
「マジで――」
「冗談です」
そう言って彼女は、いつものような深窓の令嬢のような微笑みをたたえる。
「……本当に冗談?」
「はい。今の〝紫〟の人は、ロシア人のイクラ・フィアリェータヴィの筈ですし」
「……なんで知ってるの?」
「冗談ですよ」
そう言って彼女はふふふと微笑み――目は、笑っていなかった。黒々とハイライトのない瞳が私をじっと見つめていた。
「……ところで、昼食をとってこんなに時間を開けずに昼寝をしていたら、逆流性食道炎になると思うんですけど、美紀先輩」
彼女は凄まじいハンドル捌きで話を替えた。
「……確かにね」
紫苑からこんな闇っぽい話をあまり聞きたくないので、私は彼女の話題転換に乗ることにした。
因みに逆流性食道炎というのは、食道に胃液とかが逆流して、食道に炎症、ひどいと食道癌になる、というものだ。簡単にいうと。原因にはストレスとかいろいろとあるが、精神的なものではなく直接的な、たとえば食べすぎるとか、食べてすぐ寝るとか、ゲップや嘔吐というものもある。
「私もいつだったか先輩に進言したこともあったが、聞き入れられなかったよ。現状で何も問題が起こっていないんだから、って」
役所かよ。
「……確かに、そうですね」
紫苑も、そう言って頷いて。
あー、言い忘れていたけど、紫苑の膝の上には深結が座っている。
「ねえ、深結」
「……なんですか、美紀先生?」
深結は、そこまで興味のなさそうな目で、私を見やる。ぼさぼさの髪にいつも眠そうな目。彼が興味をもつものは、一体何なのだろう。
「深結、うちの子にならない? ――私と、本当の家族に、ならない?」
――思ったより、冷静に言えた。
「えー、マジすか?! てか話変わりすぎです! 超展開です!」
そう言ったのは当然深結――ではなく、紫苑であった。
「……なにその反応」
このことは――実は深結がここに来たときから、言おうと決めていたことだった。深結が、少なくとも外見上は、自分で自分の意思決定をできるようになる年齢になるまで待って、だけれど。
なんというか、今言わなきゃいけないような、今言わなきゃ一生訊くことができないような――そんな気がした。
「べっつにー?」
紫苑は私にそう答えて、膝の上に座った深結の頭に顎を乗せて、彼を背中から抱き締めるような形になりながらぶっすーと頬を膨らませて、顔は私に向けながらも視線だけは細めて他の方を見る。……あざといポーズその一。
「……可愛いなあ、こいつめ」
そう言いながら私は右手でわしわしと彼女の頭を撫でて。
「――で、深結、……答えは?」
……いかんいかん、ちょっと焦っている。
「……美紀先生、すこし、かんがえさせてください」
深結は俯いて――紫苑が自分の頭に彼女の頭を乗せているからというのもあるだろうが――小さい声で、しかしはっきりと、そう言った。
「……そう」
私も、小さく、はっきりと、そう言った。
……言えた、と思う。
「……なんだか美紀先輩、すごい眠いですね」
「うん? こんなとこで――」
「違います、ただ単純に眠いんです」
唐突に話を逸らした彼女は、頬を膨らませて、両手を握り拳にして甲をこちらに向けて顎の下にセット。……あざといポーズその二。
「……可愛いなあ、こいつめ」
そう言いながら私は右手でわしわしと彼女の頭を撫でて。
「そう言われると、なんだか眠いな――」
言い終わらない内に、私の意識は飛ん――
*
ぼくは、美紀先生や紫苑先輩がねむってしまったすきをついて、ひるねるーむをぬけだしました。いつも美紀先生に「わたしのめのとどかないところにいくな」といわれているけれど。
ぺたぺたとりのりうむのろうかをとおって、なんとなく、いかなければいけないきがして、ぼくはげんかんからそとのぐらうんどをめざしました。うんよくほかのせんせいとも、こどもともあわず、ぼくはげんかんにたどりつきました。げんかんでうわぐつからそとぐつにはきかえて、ぼくはとびらをおしあけて、そとにでました。
そこには、はじめましてだけれど、なんとなくなつかしい、そんなおんなのひとが、ぼくをやさしいめで――美紀先生のやさしいめとはすこしちがうめで、ぼくをみつめていました。
*
私たちは、私たちの目的地――児童養護施設に到着した。インちゃんは、到着してすぐに。
「――この建物の周囲に結界を張りました。わたくしたち以外、この敷地内で起きている者はいません」
呪文とか、魔方陣とか、聖書とか、そういったいかにも魔術的なものを一切使わずに、そう言って、この施設を結界内の空間にした。
「この十字架が媒介となって頼のありあまる能力を魔術に変換するシステムを構築しているのです」
と彼女は自身がアクセサリーのようになだらかな胸にぶら下げている十字架を優しく掴みながら簡単にそう言ったけれど、さっぱりわからなかったので理解を放棄した。
――小さめの小学校というか、大きめの保育園というか、そのような外観。
六年前から、何も変わっていない。
そして、空は、闇。決して夜になったわけではなく、インちゃんの結界の力だ。なんで闇にする必要があったかといえば――グラウンドというには少し手狭なそれ、真っ暗闇のグラウンドで唯一照らされているのは、幅二メートル、長さ十四メートルの、銀色に輝く戦場。
あの日の――九年前の体育館を思い出す、空調の効いた体育館のような空気。
さらに、施設の玄関――昇降口、というのだろうか。がちゃりと、扉が開いて。
「……深結」
「深結……!」
私と直は、そちらを見て、息を呑む。
「……あなたがたは……」
深結は、ぼさぼさの黒髪に眠気眼、服装は簡単なTシャツに半ズボンという少年っぽいっちゃあ少年っぽい格好。直の癖っ毛と、私のぼうっとした雰囲気をしっかりと受け継いでいる。
彼は昇降口から出て――けれど、こちらに歩み寄ろうとはしなかった。
「……おかあさんと、おとうさん?」
……どうやら、直も、深結には見えているようだ。
「インディの結界内だからな」
頼さんが答える――インちゃんの言う「わたくしたち」には、深結も含まれていたようだ。
「うん、私はあなたのお母さんで、結って名前。で、ここにいるのが直っていって、あなたのお父さん――死んじゃった、お父さん」
「しんじゃった――?」
「うん、死んじゃった。だから私は深結を育てられなくって、深結を美紀に預けることにした」
「……そうだったんですか」
深結は敬語で、そう答えた。言葉を聞いただけだと、それは距離を感じるものだったけれど、それはたぶん、誰に対しても、そうなのだろう。
……というか、深結は六歳にしてもう「死」を理解しているのか。それが標準的なのか、早熟なのかは、「子ども」を知らない私にはわからなかったけれど。
「美紀は、元気?」
私が少しぎこちなく微笑みながらそう訊ねると、
「美紀先生は、げんきです。紫苑先輩とまいにちいちゃいちゃするほどです」
深結は真剣な表情で、真剣に答える。
「……そう」
私は苦笑い。紫苑、って確か彼女の旦那ではない。しかも名前からして女の子と見た。……あいつも、雑食だなあ。
「深結」
そして私は、世間話を終えて。
「私は、深結を愛してる」
言い訳を――始める。
「でも私はあなたを育てられない。直に似たあなたを育てられない。たぶん、私は、あなたを見るたびに直を思い出して――死んだ直を思い出して、辛くて、生きていけない」
深結は、六歳とは思えないほど真剣に、泣きも喚きもせず、私の話に耳を傾けている。
「私はその代わり、あなたへの愛を、お金に替えて、美紀に預けてあるから、いつでも、何かほしいものがあったら彼女に言って」
「はい、おかあさん」
深結は、従順に――純粋に、頷く。
まあたぶん、美紀はちゃんと弁えているから、深結が欲しがっても適度に深結の要求と欲求を窘めてくれるだろう――彼女の場合、ぺろぺろもしかねないけれど。
「おかあさん」
深結が、心配そうに私の顔を見る――そして、彼はしっかりとした足どりで、小さな歩幅で、私の――私たちのもとへと走り寄ってくる。
「おかあさん、ぼくとあってかなしいのですか?」
彼は、私まで辿り着いて、私の足にしがみつく。ちょうど頭が腰ほどの、まだまだ小さな身長――そこから顎を上げて視線を私の顔に向けて。
「そんな……そんなこと……」
私を見上げる――私の深結。私の愛する深結。その額に、ぽたぽたと、滴が落ちる。
「そんなこと、あるわけないじゃない……!」
ひっく、と私はしゃくりあげて、ふたつしゃくりあげて――
「ふええええええぇぇぇぇ」
私はまるで子どものように、泣きだしてしまった――膝から崩れ落ちて、深結をぎゅっと抱き締める。
「みゅう~~~~、会いたかったよぅ~、ふぇぇ」
私はそんな、声にならない声を。
「おかあさん、ありがとう、ぼくも――あいたかった」
深結も、少し涙に滲んだ声を。
いつの間にか直の気配が私の後ろにあって、彼も私と深結の二人を抱き締めるポーズをしていた。
――一通り、二人で泣きあって、抱き合って。存分に頬ずりして、ぺろぺろして、頭をなでなでして、頭をおっぱいでぎゅううううっとして、そして。
「深結」
「なに、おかあさん」
深結は、敬語を捨てて、私に答えてくれる――ああ、幸せだ。
幸せだ。
畢竟――私はこの七年間、このために生きてきたのだ。
直を失ってもなんとかこの世に留まって――生きてきたのだ。
深結のため。深結の笑顔のため。深結の将来のため。
深結の、幸せのため。
――私は、親に迷惑をかけるのが嫌で。
親に怒られるのが嫌で。
直のことを悪く言われるのが嫌で。
そんな自分が嫌で。
でも自分は大好きで。
直のことも大好きで。
深結も勿論大好きで。
でも親に怒られるのは嫌で。
そして、こんなに中途半端な位置に、私は留まっている。
とどのつまり。
けれど。
「愛してる、深結」
それは、本当だ――本当だから迷い、立ち止まる。
「ぼくも、あいしてる、おかあさん」
「……ありがとう」
また私は、ぎゅうううっと深結を力一杯抱き締めて。
「深結、ハルちゃん――本城昼ちゃんと、仲良くね」
「?」
深結は、かくんと首を傾げて、怪訝そうな表情を私に向ける。
「……わからなくっていいよ」
そう言って私は、ウルちゃんの鉄扇の下の微笑みを思い浮かべながら。
飛行機の中で、賭博の話をした後――飛行機が着陸する少し前にした、ウルちゃんとの会話を、思い出しながら。
『あら、わかったようですね――さっきまで「さっぱり」だったみたいですのに』
とウルちゃんは、今度はその眼を――〝闇に浮かぶ満月〟のような眼を、すうっと開いて、機内で少し離れた、でも隣っちゃあ隣の席の私に、そう言った。
『寝てたら閃いたんだよ』
『……そうですか。まあ、だから何だという話でもないですが』
と彼女はあくまで冷製に。
『パスタかよ』
……ちゃんとツッコんでくださいました。
『今の〝昼〟=〝過去〟の名は――』
『ひる、ちゃんでしょ?』
『少し違います、ハル――ハル・ホンジョーです。漢字で書くと、〝本城昼〟』
……なぜか口頭で伝えられたのにちゃんと漢字がわかった。ってかまあ、当てずっぽうだったけれど。真昼ちゃんが本命だった。
『じゃあなぜそれを言わなかったんです?!』
ウルちゃんに全力でツッコまれた。
『……まあ、そこまでわかっていれば――わかりますよね』
『……はい』
私は頷いて、ウルちゃんは少し――ほんの少しだけ同情を滲ませて微笑み、またアイマスクを装着した。
『ああ、そういえば、因みに紫苑さんはあまり関係ありません』
……この段階では私は紫苑ちゃんという美紀の愛人の存在を知らない。
『紫苑ちゃんって誰ぞ?』
『彼女は市役所の公務員です』
『市役所の公務員?』
『そうです、高卒でもなれる地方公務員です』
『公務員って高卒でもなれるの?』
『なれますよ、無知ですね』
『でしょ? 私のぼでーはむちむちでしょ?』
『……はいはい』
雑!
『できればツッコんで!』
『……』
……彼女は私を黙殺した。
『……で、紫苑ちゃんって誰ぞ?』
気を取り直して私が訊ねると。
『英語で〝誰(who)?〟と訊ねられたら職業を答えるのが普通です』
『知らんがな!』
『紫苑さん――赤井紫苑さんは、今の〝赤〟=〝記憶〟の姪にあたる人です』
『ふーん……だから誰ぞ?』
『……あなたには、あまり関係のない話ですが――』
彼女は一通り話して一つ溜息を吐いた後、その数秒後に静かに寝息を立て始めた。
WUO――〝Colours〟。
インディゴ・インスキエンティス・インテレクトゥス――〝藍〟。
レイ・ホワイテス――〝白〟。
イクラ・フィアリェータヴィ――〝紫〟。
ウル・ソワール――〝夜〟。
本城昼――〝昼〟。
そして。
金沢深結――……。
石川県金沢市の「金沢」に、「深く結ぶ」で「金沢深結」。
……そういえば、美紀は地理が苦手だったなー。高校のときも、
『「金沢」って「金沢県」の?』
とか言っていたし。
どうでもいいけど。
六歳の少女――少年。二人は、どんな形で出会って、どんな風に愛し合うのだろう。
本城昼――金沢深結。二人は、どんな生活――性活をして、どんな風に支え合うのだろう。
世界はどんなピンチに陥って、二人はどうやって世界を救ってくれるのだろうか。
私が見ることはないだろうし――私が知ることはないだろうけれど。
せめて、私たちのような――私と直と、それに美紀のような、結末に至らざらんことを。
『あなたの息子である金沢深結は、いずれ〝Colours〟の仲間になって、〝Colours〟の未来と、世界を救うんです』
そんな、力強いウルちゃんの言葉が脳内に凛と、未だに響いている。
――インちゃんの暗く静謐な結界の中、私はまた、深結を抱き締めて。その髪に、鼻を埋めて。
「私が母親としてしてあげられるのはあまりないけれど――それこそ、お金しかないけれど」
「……でんわ、してもいい?」
「それは――」
ちらりとインちゃんを――ピストの私の側とは反対側に、つまり、頼さんの背側に、ぽつんと立っている彼女を――見上げる。
彼女は。
「……」
インちゃんは、フードに包まれた頭を、横に振る。
「全てを忘れることが、あなたの精神の安定のためにもっとも有効なのです」
と、インちゃんは、こちらを見ずに――俯いて、そう言った。たぶん、彼女がこんなに言いづらそうに、視線まで合わせずに言うのは、今日になって、彼女と出会って、初めてだ。
「そう……」
私が相槌を打つと、
「ミュウくんはあなたのこともナオさんのことも忘れませんが」
……それは最初のルール説明であった話だ。
『わたくしたちの祓魔の能力で霊が成仏した場合、霊が憑かれていたことによる精神的な疲れ――ダメージを失くすために、その霊が憑いていた人間の、その霊に関する全ての記憶を失います』
「あなたたちと会ったことを『夢だった』ようにすることもできますけれど……」
私はそう相槌を打ちながら、すっと立ち上がる――深結と、手を繋いで。
「じゃあそれで」
私がそう言って。
……もう、深結の話も、深結との話も、お終い。
話せば話すほど、忘れるのが辛くなるから。忘れる前が、辛いから。
そんな、私と深結との会話が終わったのを見計らって、直が口を開く。
「深結……」
深結は頷いて続きの言葉を待っている。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
彼はただ一言そう告げて、微笑んで、ぽろり、ぽろりと、涙を零した。
「おとうさん……」
深結が心配そうに、直を見上げる。
ああ、可愛いなあ。すごく真っ当に、育ってくれた。
美紀のおかげだ――感謝しなくては。
「……ぼくのほうこそ、ありがとう」
深結もそう言って。
また三人で抱き合って、泣いた。
……そうしてまた一通り泣いて、落ち着いたところで。
ふと、深結はぼやくように。
「ぼくには、ちゃんと――おかあさんとおとうさんがいたんだね」
ぼくには、ちゃんとしたおかあさんとおとうさんがいたんだね。
そう言って、深結はにっこりと――直そっくりに、微笑んだ。
今度こそ、これで、深結の話は終わり。
「ただ――」
と、インちゃんが躊躇いがちに何かを言い始める。はっとした表情というか、真剣な表情というか、困った表情というか、方法的には可能だけれど心情的には無理というか――そんな、困惑と同情とが入り混じった、複雑な表情をして。
「――頼と直さんの話を、聞いてもらえれば、わかります」
と、インちゃんは、また俯いて、そう言った。
私は彼女のその言葉を聞いて、いつの間にかピスト上にいた直と頼さんの二人を見遣る。
……直に関していえば、本当に「いつの間にか」である。
二人は、今にもフェンシングの試合をしそうな格好で。
上半身は、触るとざらざらする、ノースリーブのジャケット。その下には真っ白な長袖。
下半身は、野球みたいな白のズボンと、白いソックス、踝まで覆うハイカットのシューズ。
金属のマスク――剣道の面の網目をものすごく細かくしたようなの――を被り、専用の手袋をした彼らの利き手――左手には銀色に光る、細い剣。
そんな、いかにもフェンシングの試合をしそうな格好で。
「フェンシング――一本勝負で、今日毎度邪魔が入った決着をつけようじゃないか」
と、頼さんが言う。確かに、毎度邪魔は入っていた気はするけれど、二人が剣を抜いたのは昨晩に夜の街で二回と今朝噴水広場で一回の計三回で、そのうち邪魔が入ったのは二回なので、「邪魔が入った」という印象はそこまで強くはない。
「まあ、それでいいよ」
と、直は何もツッコまずに答える。……もう二人だけの世界に入っているようだ。
「俺と殺陣をしてたら、俺も強くて長引いてそちらさんが困るんだろ? そっちの都合に乗るのは癪だが、結は忘れることをよしとしてるしな……。それに、条件のこともある」
直はそう、きりりと引き締まった表情で、頼さんに向けて言う。
――そう、私は十一年前の高校一年生のあの夏――彼と出会ったあの夏、この横顔に、惚れたのだ。
……ヤバい! 胸が千パーセントキュンキュンしてる!
直ちょーかっこいい! さすが私の彼! 惚れ直した!
「ありがとう、結」
直はちらりとこちらを見て微笑む――口の端から、キラリと零れる白い歯。
濡れるッ!
私がそんなことを感じている間にも、男たち二人は話を続ける。
「審判は――ま、やっている私たちの方がわかるだろう」
頼さんが言い、
「そうだな、じゃあ初めの掛け声だけ、結、頼む」
その声でふっと現実に戻ってきた私は、
「……りょーかいっ!」
っと元気に返事。
そして、直かっこいい! と思うと同時に。
「……男の、世界だなあ」
小さく、溜息を吐く。
そしてもう一つ、と頼さんが言う。
「条件の確認なんだが――私が勝ったら、坊主は消滅する」
「俺が勝ったら、俺があんたに成り代わる――俺がインディゴ嬢の遣い霊に成り代わる」
直も続く――え?
「――――え?」
さっきのかっこいい台詞にもあった「条件」という言葉。さっきはキュンキュンしていて気に留めなかったけれど――それって。
もしかしたら、私と直が、別れなくて済むってこと?
「……そういうことです」
と、インちゃんが、先程の表情のまま、言う。
「ま、私が負けたら世界最強じゃなくなるからな、万に一つ――京に一つ、そんなことがあったら、の話だが」
「……すげー自信だな」
「まあ、現役時代、フェンシングでは他の奴に金メダルを譲ったことはなかったな。近代五種やら十種は――どうだったかな」
「……」
直も――インカレの決勝までは行ったのだ。
決勝は――思い出したくもない。
股木くんとの、あの試合は。
「そういえば、なぜ直さんはわざわざ広島の大学に入学したんですか? インハイは、優勝したのでしょう? 地元の私立でも引く手数多だったでしょうに」
思い出したように、インちゃんが私に訊ねる。
「簡単に言うと、〝フェンシング留学〟だね」
「……?」
インちゃんは小鳥のように小首を傾げる。
「日本には、選抜高校野球大会と全国高校野球選手権大会っていう、年二回の高校野球の全国大会があるんだけど、後者は都道府県につき一校しか出られないのに都道府県によって学校の数に大きな差があるんだ」
私は具体的な例を挙げる。
「愛知・東京・大阪・北海道は特に多くて、鳥取とか島根は少ないから、その全国大会に出るために、競争率が少ない都道府県の高校に行く――いわば〝留学〟することがある。これを俗に〝野球留学〟っていうんだけど、それのフェンシングヴァージョン、ってところ」
……例が日本的すぎてインちゃんには伝わりづらかったしもしれない。
「関東、中部、関西は私立大学が全国から強い選手を集めてくるから、インカレにしろ国体にしろ、競争率がどえりゃー高い。でも中国四国、九州も含めていいかな、つまり関西以西はその競争率ががっくーんと下がるの」
そこでインちゃんは一つ頷いた。直も頼さんも、私のどうでもいい解説を地道に待ってくれている。
「で、直は中部の強豪に行かずに広島の大学に行ったってわけ。そのおかげで、インカレにはフリーパスだよ。……一年目のインカレでは決勝トーナメントまで行けずに予選落ちしたけれど。あと国体は、フルーレの他にもう一個、隔年でサーブルかエペしなきゃいけないから微妙なんだよね」
「……そうなんですか」
興味がなくなった、というよりは興醒めした、といった調子でインちゃんはそう言って。
「ただ、それでも直さんはインカレでは決勝まで行っていますもんね」
けれど少しだけ、期待と、寂しさの入り混じったようなそんな表情で、彼女はぼやく。
と。
――唐突に。
「『この俺様がッ! 世界で一番ッ! 強いってことなんだよッ!!!』」
「……」
頼さんが叫んだそれは、懐かしい、私たちが好きでよくやったゲームのラスボスの台詞。
「この台詞、私は大好きなんだよ。青くて、力が漲っていて――その自信は、独りよがりじゃない。これまでの過程と努力が全て、自身の自信に繋がっていて、さ」
そう言って、頼さんはぎらぎらと目と歯を光らさせて笑い。
「――腕が鳴るねえ!」
直はそう言って指をこきこきと鳴らして、にやにやと――台詞をつけるのなら、『オラ、わくわくすっぞ』――だろうか。
スポーツマンなら――格闘家なら――どこかで、闘ったことのある人なら。
上を目指し――頂点を志す者なら。
誰しもが望む――自分より強い者を。
その者を倒し――臨む景色を。
「――じゃあ、始めようか」
「――おうよ」
頼さんと直は二人で――十年来の親友のように、戦友のように――笑った。
ちょっと嫉妬して、だいぶ羨ましかったのは――秘密だ。
結論から先に述べるのは、「報告」における大前提だ。
この場合の「前提」と「結論」が何なのかは知らないけれど。
つまるところこの戦いは、一瞬――だった。
それこそ、一つの瞬きをする間もなく。
決着までほんの一瞬で。
たった数手で、終局した。
――闇の中に浮かび上がる、白く細長いステージ。
「構え」
そこで二人は二メートル離れて対峙して、利き手である左手を前にした半身で、剣先を相手に向けて、がに股でぐっと腰を落とした構えを取る。
「用意はいいか? 始め!」
ルールはいまいちわかっていないけれど、私がひとまず審判の紛い物のようなことをする。はじめの声掛けだけだけれど。
私の合図と同時に前に出たのは、直だった。
直は半歩ぬるりと前進した後リズムを変えるように短く一歩前進しファンデヴ――腕を伸ばして剣を出して後ろ足(左利きの彼らの場合右足)で地を蹴り、前足(左利きの彼らの場合左足)を相手に一歩踏み出し相手を突く、フェンシングの基本技にして極めればこれだけで勝てる最強の必殺技だ――を繰り出し、しかしそれを頼さんは剣を動かす――剣で叩くまでもなくぎりぎりで距離を切ることによって躱す。
直の考えとしては、実力差が明確なこの闘いで勝利するには、小細工よりは不意を突いて一気に決めるほうが賭けるには分がある、といったところだろう。
一本勝負なら尚更だ。
実際、大抵の人は――あの股木くんでも今のマルシェファンデヴで不意を突かれるのだけれど。頼さんはものともせずにそれを躱す。
「攻撃権」をもった頼さんは、その直後に腕を伸ばして剣を出して返突しにいく。がそれを直は後退して頼さんから距離を取り体勢を立て直しながら、自身の剣で頼さんの剣を叩いて「攻撃権」を取らんとする――が、退がる速度も剣を振る速度も、頼さんの速度には及ばなかった。
たとえ直がどちらかに専念していたとしても、結局は頼さんには敵わなかっただろう。
頼さんは直が剣を叩くのを悠々と躱して直の左脇腹を深々と突き刺した。
――勝敗は、決した。
直は、敗北した。
敗北したが――
「――物足りねーな!」
マスクを脱いで(脱いだ瞬間消滅した――と同時に服装や剣も元に戻った)、頼さんはどこから取り出したのか、白い手袋を直に向かって投げつけた。
にやりと口角を上げて――その全ての牙を、綺麗に並んだ歯を剥き出しにして。
「……そうだな」
直もマスクを脱ぎ捨てる――こちらも蒸発したように消滅し、服装も剣も戻った。
「ちょっと頼! 何考えているのです!」
直の溜息混じりの笑みとともに零れた返事に被りながら、インちゃんは頼さんに向かって叫ぶ。
「これで仕事は」
「少し、付き合ってくれよ」
まるで、買い物に飽きた子どもに謝る父親のように。
「いくら私にこれだけのハンデがあるからって」
と、彼は少し自嘲しながら。
「私と渡り合えるのは、彼が久方ぶりなんだ」
懇願した。
「頼む」
恐らくは、両親に「みなに頼られるような、頼もしい人物になるように」という想いを込めてつけられたのであろう頼さんが、そう言った。
「……」
彼女は、無言で肯定した。
なぜならそれは――
「それは、私の存在証明だから」
なぜか、頼さんが私のモノローグを引き継いだ。
「他人に私の内面を語られるのは嫌なんだ」
たとえ当たっていてもね。
頼さんは微笑みもせずに、そう付け加えた。
「このままだと私は、ただの大学生フェンサーに勝っただけのおっさんだ、と言われても反論できないからな」
……確かに結局のところ、頼さんの強さは、私にとっては「直に真剣勝負では勝てないけどフェンシングっていう自分の得意分野で勝ったおじさま」なのである。現状。
「……」
誰しもが黙った。
「少なくともフェンシングは俺の最・得意分野だったよ」
直が頼さんのフォローに入った。
「私の――存在証明を、しよう」
頼さんは、そう言って、血ぶりの要領で剣を右肩に構えてから左足の外へと振り抜く。
彼の姿が――喪服のような――というかまんま喪服だった黒いスーツから。
真っ白な軍服――金色の肩章、バリバリな肩幅、分厚い胸板、きっちりと折り目のついたスラックス――ばっさり一言で表して――著してしまうのなら、白い学蘭である。ボタンは一列で、装飾はないと言っても過言ではない。
ただ一つ、右肩から右腕全体を覆うように羽織られた、真っ赤な緞帳のようなマントを除いて。
……剣は変わらず、鍔が十字の真っ白なレイピアだったけれど。
――『世界最強』。
「『最強』って何なんだ?」
と、直が頼さんに訊ねる。
「『強さとは、弱さを知ることだ』ってよく言うけれど」
「『世界最強』ってのは――『強さ』とは」
頼さんは。
「ただ、『強い』ってことだ――『世界で一番ッ! 強いってことだッ!』」
全ての等階級を、制覇することだ――と。
ぼそりと、威張りも、声を張り上げもせず、ただ切なそうに、言った。
「……帝国軍人だったのか?」
と、直が、何らかの空気を察したのか、話を変えた。
「いや――違うよ」
と、頼さんは答えた。
「私は、君たちが歴史で学んだところの、『現代人』だよ。西暦でいえば一九〇〇年代から二〇〇〇年代の人間だ」
「……」
私と直と――そしてインちゃんも、じっと聴き入っている。
「インディにも、言うのは初めてか……」
頼さんは、一つ溜息を吐いて。
「さっきも言ったが――世界は、一巡した」
『あれは私が生きている頃の――世界が一巡する前の話だ』
「有体に言えば、『世界は一度終わった』」
私たちは、黙って彼の話を聴いている。
まだ、この養護施設を包む結界は健在で、夜中のような闇の中、ピストが煌々と何らかの光によって照らされている。
その上に、軍服姿の頼さんと、私服姿の直がいる。
そこを少し見上げて、私とインちゃんが立っている。
頼さんは、ぎゅっと目を――眼を瞑って。
「その引き金が、私だった。世界の頂点にいた、私だった」
ゆっくりと――眼を開く。
その瞳は。
さっきまでの普通の、日本人的だった黒めの茶色だった瞳が――
――本来白眼である部分は黒く、瞳は黄色い。
〝闇に浮かぶ満月〟。
それは――さっきまでいた、鉄扇を構えた彼女と同じ。
頼――よる――〝夜〟。
「まあ、『世界最強』の基準には、この能力によるところのものは除かれるんだけどな」
と、彼は何の感慨もなさそうに言う。
「私の統治が終わり、世界は徹底的に終わった」
『統治が終わった』というのは――それはつまり。
「死んだのさ。この瞳が見ることができる〝未来〟は、持ち主が死ぬまでなんだ。自身の死から先は見えないし、また自身の〝未来〟については自身の死しか――揺るぎない、逃れられない死しか見ることができない」
……あれ?
「君は気付かないと思ったが」
頼さんは感心しながらそう私に言う。
『自身の死から先は見えない』
「私は今、視力は全くないんだ」
「……」
四人分の沈黙が下りる。
「でも今までまるで周りが見えているみたいだったじゃ――」
「感覚器官で」
と頼さんは私の言葉を遮って。
「最も感覚する範囲が広いものは何だと思う?」
彼は訊ねる。
「……視界?」
「違うよ」
頼さんは私の回答を一蹴する。
「というかせめて『視覚』と答えてくれよ」
彼は溜息混じりで。
「触覚だよ。全身の皮膚その全てがその感覚器官だ。私はそれを以て周囲を把握し、把捉し、認識する」
……風の流法とかそういうことだろうか。
「まあ、そんなところだと思ってくれればいいさ」
頼さんは、第四次ライダーみたいな図体をしてそんなことを言った。
「……要するに私は、自身の死を眼にして以来――何も瞳に写していないということだよ」
――逃れられない死を目の前にして。
彼は何を思い、誰を想ったのだろう。
「話を戻そう――そうして徹底的に世界は終わり、生き残ったのは、たった――百三人」
百三人。
三人と、百人。
「三人は、もともと世界にいた、〝過去〟、〝現在〟、〝未来〟」
人類を何とかするために、いつの間にか生まれた三人の異能者。
世界を何とかするために、死との狭間で生まれた百人の能力者。
「それがWUOと、〝Colours〟」
もともと、彼が頂点にいた、世界の頂点にいた組織は「WUO」という名だったのだろうか。
「違うけれど――どうでもいい話さ」
……頼さんはどこで「自身が死んでからのこと」を知ったのだろう。
「初代の〝藍〟からだよ――藍松章子という日本人だった」
と、頼さんは懐かしそうに。
「インディには言っていなかったし、これからも言うつもりはなかったんだが」
と、頼さんは、少しだけびくびくしながら。
『さあ……頼も覚えていないそうです――長すぎて』
けれどインちゃんは、黙って聴いていた。
「最初の女ってのは、男なら誰だって覚えているものだろう?」
と、にやりと頼さんは直に微笑みかける。
けれど。
「……、そういうものだな」
直は、頼さんから目を逸らして、ただ、そう一つぼそりと。
いつもなら私とのセックスのこととかをいじったりするのに。
いつもなら私とのセックスのこととかをいじったりするのに。
「それは……いらないフリをしてしまったか……」
頼さんは本当に申し訳なさそうに、謝った。
「……ねえ、直。……本当なの?」
私は直に――直に。
「……ああ。そうだよ。ずっと言わないつもりだったけれど」
墓まで持っていくつもりで、ちゃんと墓まで持っていったのだけれど――
「俺の初体験は、美紀だ」
彼は白状した。
「……」
私は、どうしてとも、なんでとも、思わなかった。
私が逆の立場だったら、彼と出会う前にたぶん処女なんて捨てていたから。
「一回きりだ。そのせいでその後余計に俺と美紀の仲は気まずい感じになったし」
と、完全に言い訳をした。
「……中学の頃――俺も、美紀も、精神的にどうしようもなくなった」
と、直は言い訳をするように。
「どうしようもなくなって、慰めあって、そのまま、体育倉庫で――」
「そこまで詳細な説明はいらないけど! 今私と慰めお詫びセックスしてくれるならともかく!」
「……」
彼は、何も言わなかった。何も、謝らなかった。
それは「今ではどうしようもないし取り返しもつかないから」だとでも言わんばかりに。
「……話を戻していいかな」
と、頼さんは罪悪感をありありと表情に出しながら、頭を掻きながら、そう話を切り出した。
「ええと、どこまで言ったのかな……そうそう、私が死んで、世界は一度終わって、〝Colours〟が生まれて、まで言ったのか」
彼は自分で思い出して、話を再開する。
「――そして世界は『元通り』、私が世界を統治する前の状態に、およそ二百年かけて、元に戻った。私の統治から世界の終わり、そしてその再生までが『なかったこと』になって」
だから君たちは歴史で学んでいない。
「文化も、偉人も、全て、私の娘が高校生だった当時のままだ」
私たちの誰もが知る芸能人も、今はもういないけれど、知識として、知ってはいるのだ。
私たちの誰もが知る所謂「サブカル」も、知識として、娯楽として、知っているのだ。
「いろいろ訊きたいことはありますけれど」
その『二百年』によってずれた年代とか、その周知とか歴史とか、その他諸々。
「……すまないが、もう時間がないんだ。君たちのせいでね」
と、頼さんはこれまで全く見せなかった厭味ったらしさを見せつつそう言った。
「さて、……そろそろ本題に入ろうか」
頼さんは言う。自分語りをやめて。
人間をやめて――幽霊となった彼が。
「……わかったよ」
直は、そっとフルーレ剣の鍔に口づけする。
彼は、まるで西洋の騎士のように――全身を銀色の甲冑で固めた。剣は、片手用レイピアだけれど、その鍔は大きく、持ち手を包み込むように緩やかに曲線を描いている。
「……そう来たか」
そして二人は数歩ずつ後退し、およそ五メートルほどの距離を取る。
「じゃあ、始めようか――勿論私はこの眼で〝未来〟は読めないさ――なぜなら『〝未来〟の瞳は自身の死より先は見えないから』。名残で瞳の色を変えることはできるが」
頼さんは、ふっと一つ息を吐き。
「用意はいいか?」
直に訊ねる。
「ああ。あんたは?」
「勿論だとも」
そして二人は、口角を吊り上げて笑いあって。
「「始めよう」」
二人は同時に大地を蹴る。
たった二歩で二人の間合いは詰まり、頼さんの刺突を直が剣の鍔で受けたところから闘いは始まった。
「鍔で受ける」――
フェンシングをやったことのある人間ならわかると思うけれど。
「お前エペ人なんだな」
頼さんが、弾かれた剣をすかさずまた直の胸部に突きたてようとしながら叫ぶ。
直はそう、フルーレ以上にエペが得意なフェンサー――だったのだ(サーブルはからきしだったけれど)。
しかも先行逃げきりタイプの。
……こんな場面で説明を加えなければならないのが残念だけれど、エペというのは、相手の体のどこを突いても得点になり、攻撃権はないが同時に刺突があった場合両者に得点があるという、
まさに殺し合いだ。
先行逃げきりタイプだった彼だからこそ、『闘いが長引く』のだ。
守ることには特化している。
「ガンガン攻める」闘い方ではなく「隙を突く」闘い方をする。
私と、それにインちゃんは固唾を呑んでその様子を見守っている。
頼さんはけれどマントを靡かせガンガンとその剣で刺突を繰り返す。
それらを直は後退しながら一つ一つガードで受け流し、或いは躱し――ていたけれど。
少しずつ鎧を掠るようになり、少しずつ、鎧が削られ、軋み、ギャリギャリと音をたて始める。
まだ関節部分などの隙間は直は守っているけれど、直は押され気味で、そして頼さんは勢いづいている――が。
一つ、少し、ここまでの刺突より大きく踏み込んだ突きを、頼さんが繰り出した――突き出した。その分剣速は上がるが――それを受ければ、そこには僅かな隙ができるだろう。
「隙を突く」。
直は頼さんの剣を「自身の剣で巻き取って相手の剣先を自身の体から逸らしかつ自身の剣先を相手に向ける」――「シャンゼ」という技を繰り出し――頼さんの剣を逸らし僅かに――ほんの僅かだが頼さんのバランスを崩すことに成功する。
隙を突く――直はその自身の剣先を頼さんの真っ白で分厚い胸板に向ける――
にやり、と頼さんが笑ったように見えた。
見えただけで、戦闘中ずっと頼さんも、そして直も全く真剣に楽しそうに口角を吊り上げながら笑っていたのだけれど――
「直――!」
私は思わず叫ぶ。
頼さんは突き出した左腕に持った剣を巻き取られた(「取られた」といっても頼さんの剣が僅かな時間直の支配に移ったということであって頼さんの手から奪われたということではない)ことで左半身が少し前に傾ぎ、直の剣先が迫る――
頼さんは、そのまま右の拳を無理矢理振り抜き、直の握る剣の腹を殴りつける。
体勢も悪く腰の捻りもなく咄嗟な動作に見えたのに、その拳は悠々と直の剣を真っ二つに折り、そしてその折れてもしかし鋭利な剣先が胸に到達する直前で左足を踏ん張ることで体勢を立て直して後方に踏み切り、切り返した。
切り返した――直の体から逸らされた筈の頼さんの剣は――地面に垂直に天上方向に振り切られた頼さんの剣は、彼の退き際に、引き際に、直の左腕の甲冑の肩関節部分の隙間を正確に捉え、そして、
直の利き腕を切り落とした――切り上げた関係上、その腕は宙をくるくると虚しく舞う。
「ああああああああああああああ」
直の痛みに叫ぶ声が――
「いやあああああああああ」
私は頭を抱えて膝から崩れ落ち(もう深結も私の感覚の外にいた)、けれど彼から、彼らから目を離すことができない。
直は右腕で左肩を押さえる。血は出ていなかったが、そこからはしゅーしゅーと煙が上がっていた。
あの頼さんが見せたほんの僅かな「隙」。
「攻撃をするとき、それを躱せば相手に隙が生まれる」。
頼さんが見せた「隙」は、それは「守」を主にしている直を攻撃へと転化させるための罠。
「守」状態では頼さんでも倒しきれない直を、確実に、そして短時間で葬るための罠。
「いやああああああああああああなおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
私は立ち上がって走った直を助ける直死なないで直と頼さんの間に立ち塞――
「終わりです」
私の前にインちゃんが立ち塞がってそしてまるで時間が止まったかのように私の体は動かない。
まるで時が止まったように――
「終わりだ」
――目に映る光景が、ゆっくりと流れて脳に焼きついていく。
頼さんは――直から五メートル程距離を取っていた彼は、天空から舞い降りてくる直のものではなくなってしまったその腕を――折れた剣を握ったままのその腕を、彼の膝の高さで、左足で直に向けてシュートする。
美しいフォームで蹴られたその腕は。
真っ直ぐ直に向けて飛んで行く。
回転することなく――動くことのできない直に向けて。
直は目を見開いて――その瞬間を見つめていた。
吸い込まれるように、その折れた剣先は直の甲冑の首関節の隙間に突き刺さり――
直の脳髄を貫いた。
「直――行っちゃやだ――」
――何の奇跡も、起こることはなく。
天を見上げ、呆然と立ち尽くす直――もはや痛みさえ、感じられない様子で。
そんな直に頼さんは、その剣で以て、十字を切った。
それは試合終了の挨拶であり。
また今生の別れの挨拶でもあり。
霊への愛ゆえの殺害――愛殺でもあった。
「それは……」
直は、「サムイ」か「イタイ」かどちらかをぼそりと呟いた。
首から脳へと|through(通過して)、剣を突き刺したまま。
直はもう左腕を抑えていた右腕を、力なくだらりと下ろし。
「ありがとう」
と直が言うと同時に、直の身体が足元から泡となって消えだし――
「えっ」
私から何も声をかける間もなく――「えっ」という間に、彼はしゅわしゅわっと、天に消え去った。
「えっ」
こういうのって普通『さよなら』とか『ありがとう』とか最後の挨拶的なものがあるんじゃないの?!
――そんな心の声は空に消え。
ピストはグラウンドから一瞬で消え去り、闇に包まれていた天はさあっと晴れて、元の真夏の太陽を称えた明るい青空になる――湿った空気、生温い風。校門から見えるアスファルトの道路には小規模な蜃気楼。蝉の鳴き声、肌にはべたつく汗。
何の言葉も出てこない。
いつの間にかまたへたり込むようにぐったりと座り込んでいた私を背後から優しく、首に腕を回して、深結が抱き締めてくれている。首だけで振り向くと、深結も涙を流して、ぼんやりと焦点もあわずに前方を――ピストがあった場所を見つめている。
私は胸の前で深結の手を握る。綺麗な深結の顔。直にそっくりな深結の顔――私の深結。
愛する深結。
「直――」
「お勤めご苦労さまです」
そんな私を傍目に、インちゃんが多少むすっとしながら頼さんに向かってそう言い、
「おうよ」
と頼さんが答えながら自身の剣をまた血ぶりの要領で振ると、彼の姿は元のむちむち喪服姿に戻って――そして彼は剣を鞘に納める。
「私は、ちゃんと私が最強たる証明を――私の存在証明を、することができたかな」
頼さんがしみじみとそう言って。
それを視界に捉えたところで――
ぐらり
と私の頭が――体が――脳が揺れ、その場に仰向けに倒れ――そうになって、頼さんにお姫様抱っこ的な感じで受け止められる。深結は、インちゃんに受け止められ――抱っこされている。……ああ、深結を抱っこするのを忘れてた……。
そんな、朦朧とした意識の中。
「……時間だよ」
と、頼さんは言った。
「ちゃあんと、坊主との別れの時間はあるから」
蕩けていく感覚の中、そんな頼さんの声に安心する。
「一つ、……あいつを私たちが脅威だと思っていた理由だが」
と、頼さんは言う。
「あいつはあのままだと、インディの結界なしで完全に顕現して、そして世界のバランスを崩すことになっていただろうからだ」
……さすが、私の直だ。
「あとこれからのことだが、不安を感じずに記憶を失えるように言っておこう」
と、頼さんは一つ息を吐いて。
「嬢ちゃんは彼に関する全てを、目が覚めたら忘れている。目が覚めたらちゃんと嬢ちゃんは私たちが用意した新しい家で眠っているし、タクシーを呼べば職場まですぐだ。勿論荷物も移してある……まあ、そんなもんかな」
ぼんやりと――逆光の中にいるかのような頼さんのいいおじ様な顔を見ながら意識が薄れ――
*
――どうやら俺は、二度目の死を迎えたらしかった。
しかも何の因果か――唯の因果なのか、その死因は同じだ。
真っ暗闇の中。
何も見えない、或いは視覚器官がないのかもしれない、そんな状態で、俺は漂う。
なんとなく、俺の目の前には俺の嫁がいる気がする。
……が、一旦無視して、一通り、俺のモノローグを――モノガタリを、済ましてしまおう。
俺のこの一連のモノガタリを。
俺は物心つくころにはあの施設にいた。
俺にとって我が家とはあそこであり、故郷とはあそこであった。
父親のことも、母親のことも、何も記憶にない。
脳が、身体が、精神が、その防衛機制から忘却したのかもしれない。
よって、俺にとって語られる自分とは、そこまで大きいものではない。
高校時代まで、ずっと美紀と――当時小庵美紀と、一緒だったこと。
彼女は幼馴染みであり、友であり、親友であり、彼女にいろいろとだいぶ救われた。
それは母親に対する感情に似ているのかもしれないし、姉に対する感情に近いのかもしれない。
――けれど、高校のとき、やっと初体験の気まずさも薄れて告白したあの日、彼女の言葉を真に受けてから、俺はその横にいた結に恋をした。
……こういうとまるで目移りしたかのように聞こえるから不思議だ。
それに、まるで未練なんてないかのように言っているけれど。
ご覧の通り未練たらたらだ。
『結』
俺は、彼女の名前を呼ぶ。
『……直?』
『そうだよ』
俺は、笑って頷いた。笑って頷いたつもりでいるが――彼女にはそのように伝わっただろうか。電話でも、笑顔で発話すれば、或いは逆ならば逆が伝わるというし――
ちゃんと、通じただろうが。
あとこんな俺の心境とは関係なく絶対に今彼女は、どうでもいい下ネタを考えている、
に、決まっている。
『ねえ、直?』
『なに?』
『……なんだか、明かりを消したベッドの上、みたいだね』
『……』
あの日――俺が一度目の死を迎えてから初めて結の元に文字通り姿を現したあの日。
あの怪しい二人組――飛頼とインディゴ・インスキエンティス・インテレクトゥスに出会った、昨晩のこと(まだ昨晩なんだな)。
例の新宿のホテルの一室で、インディゴ嬢と結が眠った後、飛頼と話したのだ。じっくりと朝まで。
――例えば、この世界の誰かが、或るモノガタリの主人公だったとして。
――或いは例えば、俺が、俺自身のモノガタリの主人公だったとして。
そして俺がもし仮に、ずっとリアルタイムに俺の人生を誰かに語っているとしたならば。
もし仮に、このモノガタリ中ずっと、俺の視点とモノローグで展開または転回されていたならば――無論俺が天界に送られるというエンドは免れなかっただろうが――ちゃんとあの場面のすぐ後に、時系列的に、描写していただろうに。
あんな時系列が破綻した――というよりはむしろ「時系列」を敵に回した、或いは「時系列」なんて概念がまるで存在しないかのようなモノローグにはならなかっただろうに。
ただこれは仮定法過去の話であって、実際そうであったのであれば。
たぶん恐らくこれは、俺のモノガタリではなかったのだろう。
――……そんな、そんなどうしようもないことはさておこう。
そんな俺の人生みたいにどうしようもないことはさておこう。
俺と頼の二人は、酒を飲み躱しながら――飲み交わしながら。
『俺の力は、インディの能力を超えることはできないんだ』
という、どうでもいい話を、頼は言い訳染みた口調で呟く。
『だから、君を一撃目で成仏せられなかった』
『……』
俺は返す言葉もない。日本語に多少無理があることに対しても。
『俺の力――文字通り『世界最強』の力は、現状、生前の五割がせいぜいだ』
筋力、体力、忍耐力、技術力、知力、知略、支配力、支配欲。
『まあ、こんな話――こんな愚痴、インディが眠っている間にしか言えないんだが』
と彼は自嘲的に――自重しながら笑う。
『もっと術力の高い〝藍〟が俺を召喚すれば、俺を倒せるものは誰もいなくなるだろう』
まあ、だから何なんだって話なんだが。
彼はそう付け加えた。
『ただ、例えば体力や筋力以外の学力テストだったり、あまり長い時間掛からないスポーツだったりなら、現状でも誰にも後れを取らないよ』
頼はにやりと笑って。
『蓋し、フェンシング(エスクリム)なんかじゃ、誰にも負けない』
――一気に、熱燗をとっくりから呷った。
そんな伏線じみた会話もあったのだ。
そんな伏線じみた会話をしながら俺がフェンシングで勝負することを認めたのは、逆に俺自身が一番自信をもっているのがどうしようもなくそれだったからで。
そしてそんな伏線じみた会話なんて、今となってはもうどうしようもないけれど。
……いや。
俺が高校だったときは、そんな回想ばかりのモノローグをしていた気がするな……。
『……ねえ、「なんだか、明かりを消したベッドの上、みたいだね」って』
『……』
彼女とは短い付き合いだったけれど、彼女がどんな人間かは、もうだいぶ解っていたのだ。
端からは見ていなかったけれど、傍からはずっと見ていたのだ。
彼女の心境全てを、俺がここで詳細に解説してもいいのだが――まあ、黙っておこう。
……黙っておこうと思ったけれど。
二言で端的にいってしまうと、「直、愛してる」と「直セックスしたい」だけれど。
彼女は俺の気持ちどころか――客体の全てを、都合よくしか解釈しない。
そんなこといったらこの世の人類の全てがそうだけれど。
黙っておこうと思ったけれど。
彼女はずっと、危ういバランスで人生を歩んできていて、それでもここまで歩んでこられたのは、彼女をよく理解した彼女の家族や、或いは美紀や――俺の支えがあったからだ。
彼女の軸がブレブレであっても、俺たちが支えていたからだ。
そしてその危ういバランスが崩れたのは、俺が死んだからだ。
けれど、俺が死んだのは誰のせいでも無い。彼女のせいでも、俺のせいでも、股木のせいでも、ない。
それは事故で、偶然で――どこかの誰かにとっては、必然であるのかもしれないけれど。
『あれ? 直? いなくなった?』
『いるよ』
と、俺は変わらぬ声の調子で、彼女に答える。
『直――ねえ、直?』
『なに?』
『直は、私が深結を捨てたこと――怒ってないの?』
彼女は、そんな今更どうしようもないことを言った。
『今日一日ずっと、訊きたかったんだけど』
例えば、自身のモノローグを他人に披露する機会があったとして。
その中で自身を美化することは、無意識だろうと有意識だろうと確実だろう。
彼女は、全く悪びれることなく、自身の悪いところを表現しないし、たとえ悪いところがしかたなく表現されざるを得ない状況に陥ったとしても、それは環境や社会や世界が原因であるものだと、断言する。
彼女は――……うん、もういいか。
一つ、言っておきたいことがある。
どうして俺と結や、美紀とその旦那に、あんな時期に子どもができてしまったか。
気持ちよかったからだ。
一言で、ばっさりといってしまうと。
たぶん、誰も本能には逆らえないのではないだろうか……。
あと、まあ、俺の場合は、なんというか、死の予感ではないけれど、少し、生き急いでいたのかもしれない。逝き急いでいたのかもしれないし、イキ急いでいたといってもあながち間違いではないのかもしれない。
まあ、うん、言い訳はそんなところだ。
話を戻して。
『うーん……怒ってはいないよ』
俺は優しく言う。
彼女はずっと、どこか欠けていた。それは先天的なものなのかもしれないし、環境や教育によるものなのかもしれない。
彼女は天然ものの天然だった。
浮き世離れしたふわふわした雰囲気を纏う彼女。
憂き世から離れようと憂きことを忘れていく彼女。
……ときどき、結が幽霊なんじゃないかって本当に思っていたことがあるが。
当時はまさか、俺が幽霊になっしまうとは、本当に思っていなかったけれど。
そして、嫌なこと――彼女の理解と異なることがあると、彼女は一瞬でそれを忘れた。
忘れようとしていた。目を瞑り、目を逸らした。
だから俺は、彼女にその「彼女が恐れること、畏れること」を敢えて告げるような真似は、しなかった。誰だって嫌なことを告げられるのは嫌だし、そんな嫌なことを補うのがパートナーだと、俺は思っていたからだ。
勿論、俺も彼女にずっと助けられていた。
彼女は、俺の人生に舞い降りた救いの女神だった。
それならば、榊田美紀は、天使ということになるのだろうか。
親に捨てられ、施設にいた俺が、普通に学校に行って、普通の青春をして、普通に恋をして。
そんな普通を、彼女は俺に与えてくれたから。
それだけで、俺の人生は、幸せだった。
幸せだった――と、思うより仕方がない。
『怒ってる、って言っても、死者の声なんて聞いたって詮ないことだし、どうせ結は忘れちゃうだろうけど』
どうせ忘れちゃうだろうけれど。
『――怒ってない、っていうのは本音』
怒っても仕方がないっていうのが本音。
『怒って「は」、ってことは、なにかあるの?』
『うん、言いたいことはある』
ちょっとだけ俺は、真剣な雰囲気を醸し出して。
『深結を俺みたいに結が愛して、いつか俺を思い出にできたらいいって、思ってた』
長い溜息が口をついて出る。
『でも、深結を見ていて俺を思い出して辛いのなら――仕方がないよね』
と言って俺は笑った――自嘲的に笑った。
本当は――本当は。
ずっと君と一緒に、深結が成長していくのを見ながら、或いはまた子どもを作って、その子が成長していくのを見ながら、「深結は昔こういう子どもだったんだよ」と高校生になった深結に聞かせたりとか、「娘が『お父さん嫌い』って言い出して困る」と会社の同僚に笑顔で言ったりとか、「娘さんをぼくにください」と、或いは「息子さんを私にください」と、言ってくれる人が現れるのを結と二人で待ったりとか。
そして二人でまったり――縁側に座って。
「幸せな人生だった」と――言いたかった。
死んでしまった俺が言うのは無責任にも程があるけれど、結には、責任をもって、深結を育ててほしかった。
ほしかったけれど――俺は言わない。
言ったところで、何の意味もないことだから。
『実際美紀は深結を間近で見ていて――いや、ま、その話はいいか』
『えっちょっと気になる』
『ちょっとって、……正直だな』
『下の口は?』
『正直だな!』
そう言って俺は、ふふっと笑い声を零してしまった。
『美紀で思い出したけど』
と、結は少し棘のある言い方で。……表情が見えたら俺は確実に「しまった」という顔をしてしまっていた。
『どうして美紀とセックスした話を黙ってたの?』
『それは……』
俺は言おうか言うまいか少しだけ迷って。
『高校時代のあの君にそんなこと発表したら発狂しただろう?』
『……』
彼女は無言だった。
『そのまま言うタイミングを逃した――というか、言う必要性を感じなくなったというか』
言ったら、君を不用意に不必要に傷つけることになると思ったから。
『……で聞いても私が忘れてしまうタイミングでカミングアウトなんて』
ずるいね。
と、彼女はただ真っ直ぐに言葉をぶつけた。
『ごめん』
『いいよ、直。だってそれは、私が今の直に、「なんでヘルスの子とセックスしたんだ?」って責められるようなものだもんね』
と、なんだか結らしい、自身の心への納得と決着のつけ方をして。
そんなタイミングで、俺の中に何かが告げる。
『時間切れ』
楽しい時間は、もう終わりだ。
悲しい時間も、もう終わりだ。
一つ、彼女に問い質したいことがあったけれど。
「本当に、俺を忘れてもいいと思っていたのか」。
けれどそれは――訊かないでおこう。
「知らぬが仏」というように――仏(死者)が知っても、しようのないことだから。
――俺は、嘘偽りなく彼女を愛していた。
同情していた部分もあれば、愛情を注いでいた部分もある(下ネタでもある)。俺がいないとダメだな――と、扶養家族であった高校時代でさえ思ったのだ。女性がショタを好きになる言い訳で使う「母性本能」と、同じような感情もあった。
「人を愛する理由」なんて、「失敗したときの言い訳」と同じで後付けサクサクの結果論だけれど。
彼女は寂しそうに。
『――さよなら?』
『うん、さよならだ。記憶にも残らない。本当に、さよならだ』
『アリアリアリアリ?』
『アリーヴェデルチ』
直訳すると、これは「また会いましょう」っていう挨拶らしいけれど。
『アリアリアリアリ?』
『ありがとう』
『こちらこそ、ありがとう』
と、俺たちはいつも交わしていた挨拶をして。
『それじゃあ、二度と会うこともないだろうけれど』
もう二度と、会うこともないだろうけれど。
『うん、さよなら、直』
俺たちは――というよりは、俺が一方的に、理解している関係だけれど。
そんな少し歪で、一方的だけど相互的に見える、幸せな関係は。
特に彼女から俺に向けられた感情に関しては、言葉など要らない関係――
『直、愛してるよっ』
言っちゃった!
『だって最期に、言葉で確認したかったから』
『……ああ、そうだな』
俺はまた、自嘲的な笑みを零しながら――自重しながら。
『結、愛してるよ』
『私も、愛してる』
生きて会うことはなかった我が息子よ――
『ん? 今直なんか下ネタ言わなかった?』
『言ってない。断じて』
『だんじり?』
『だんじりは下ネタじゃない!』
『男尻!』
『やめろ!』
年甲斐もなく怒鳴ってしまった。
『ごめん……』
『いや、そんな怒ってないから。いつものツッコミが、声だけなせいでなんか強く感じられただけだから』
『そっか! よかった!』
……。
『ところで「ちんあつ」って何か膣にそうにゅ』
『「鎮圧」!』
『じゃあ「まんじり」ってさ』
『「マン尻」じゃないぞ!』
『それなら「モロ挿し」は』
『変に当て字するな!』
『ちんあつ! まんじり! もろざし!』
『やめい!』
それじゃあまるで「ちん○○あつくてまん○と美尻にもろざし」ではないか!
『二穴同時!』
『双差し!』
……、……、……。
――結局生きて会うことのなかった我が息子よ。
深結――今の時代にしては、まともなほうか。
俺の名前が全く入っていないこととかは、あまり気にしていないけれど――実は「直結」と書いて「ナオユキ」という名前をつけようとしていたとかそんなことはないけれど――
――全く関係ないけれど、「結」という漢字に「エロ」って入っているけれど――
深結。
あの〝未来〟を見据える少女が言っていた「世界」という言葉は、俺の見た限り、人類は含まれていないように思われたけれど――むしろ『「世界」を人類から守る』という意味に聞こえたけれど。
或いは、あの少女が言っていた『深結が救う「世界」』に、深結がいないように――俺は聞こえたけれど。
深結。
無責任に死んでしまった俺を許さなくても、恨んでくれてもいい。
けれど俺は、君が生まれてきてくれて本当によかったと思っている。
結はあんな感じで本当にすまないが――
俺にはもう何もできないが――
どうか。
どうかお前が救う世界に、俺の愛する結もいますように。
どうかお前が救う世界に、俺の愛する君(You)もいますように。
どうか君が――君たちが、幸せになりますように。