01.私と「死神」
左右の耳孔にねじ込んだイヤホンから流れる歌声が、外の世界と私を隔離している。甘いテノールに、時折入る、吐息交じりの英詩。通学時の喧騒も、雑踏も。この声が流れる二つの栓をしてしまえば、どこを歩いていようが、私ひとりの世界に入ることができるのだ。
そんなことを考えながら、私――――藤野ちづこは、今日もひとり、往復二年目となった通学路を黙々と歩いていく。四月はまだ頭だが桜はもうすでに舞い散り、昨年の今頃にはまだ桃色の花をまとっていた木は、太陽の光を浴びながら青々と茂っていた。
昨日までだったら、この時間は余裕で寝ていたが、今日からそれは叶わない。重力になんとか逆らうため、まぶたを引っ張る。周りの目を憚らず、大きな欠伸をした。もっと早く寝ておけばよかったと、昨晩、徹夜でシノさんのCDを聴き漁っていた自分を恨んだ。
六條 篠。愛称は「シノ」「ろく」等。昨年デビューした、シンガーソングライターだ。芯のある力強いロックから、甘く囁くようなラヴソングまで、幅広いジャンルを手がけている。そんな彼は、今まで、一切メディアに姿を明かしたことがない、覆面人気歌手なのだ。ライブなども行うことはなく、CDも、聞いたことないような名前の会社から出されている。それでも人気は落ちず、むしろ右肩上がりだ。女性人気が凄まじいが、男性への人気も中々のものだ。
そして、何を隠そう私はこの方…シノさんの大ファンなのだ。ジャケットが綺麗だからと、ほんの出来心で買ったCDに、まさかこんなに魅了されるなんて。志望校の受験に落ち、滑り止めに受けた今の高校に合格したとき。若干落ち込んだ気分も、彼のおかげで急上昇した。
そんなことをきっかけに、私はシノさんにずぶずぶハマっていったのだ。リリースされたCDは全て、初回限定盤を買い、携帯のアラームもシノさんの曲に設定してある。登校中も、本当は持ち込み禁止になっているミュージックプレイヤーを持参してまで聴いている。六條マニアへと成長していった私から、友達はどんどん距離を置いていった。元から友達は少なかったが、この性質が拍車をかけたのだ。まぁ、別に関係ないのだけれど。大好きなものを捨てるほど、彼女たちとの縁は深くなかったのだ。
私と同じ制服を着た人たちが増えてきたあたりで、名残惜しい気持ちを堪えながら、ミュージックプレイヤーの停止ボタンを押す。歌声が止まった。イヤホンを耳から外せば、私ひとりの隔離世界は、見慣れた制服の波に吞まれて、完全に消え去った。
門をくぐると同時に、盛大な溜息をついた。地面と睨めっこしていた顔を上げれば、眼前に待ち受けるのは「みんなを待っていたんだよ」とでも言ったように玄関が開け放たれている校舎。私には、どうしてもRPGでラスボスが待ち構えている城にしか見えない。聞け、校舎よ。私はお前のことが憎くて仕方ないのだ。今すぐ崩れ去ってくれ。そんな風にしばらく睨んだが、春の日差しを反射する白が目に痛いだけだった。追い打ちをかけられた気分だ。
そして、視界に入るのは、受験という大きな壁を破壊してきた初々しい新入生たち。あぁ、懐かしい。私もあんなイキイキとした表情だったんだろうなぁ。今となってはこんな体たらくだが。
時の流れに舌打ちをしながら、玄関のサイドにならべられたパネルへと向かう。二年のパネルには、水色の模造紙に印刷されたクラス表が貼ってある。
各学年八クラスで編成されているうちの学校。模造紙八枚、一クラス約三十人。そんな中から自分の名前を捜索しなければならないのだ。ただ探すだけならいい。問題は、それに群がっている人数だ。今ここを見ても、確実に百人はいるだろう。とんでもない。
そんなふうに氏名大捜索戦争を行っている二、三年を後目に、新入生たちはすいすいと校舎内へ入っていく。昨日入学式を行った一年生は、すでにクラス表を目にしているのだ。状況としては変わらなかっただろうが、羨ましい気持ちを隠しきれない。
あぁ、さっさと自分の名前を探さなくては…。この群れにいつまでも留まっていたい私ではない。できることなら一刻も早く教室へと向かい、早急に始業式を終わらせたい。
我ながら怠惰的思考を巡らせている私を現実に引き戻したのは、ひとり男子生徒の上げた声だった。
「ヤベェぞ!!『死神』、今年も四組だ!!!」
その声に、その場にいた生徒は静まり返り、次いで、先程より騒がしくなった。一瞬にして四組の模造紙へ、生徒が集中する。そのうちに、私は四組より離れた場所の模造紙たちに視線を走らせた。こういう時、人というのは不思議なもので。狡猾な思考に駆られた私は、驚くべき動体視力を発揮した。恐らく、プロのスポーツ選手が時折体験する「ゾーン」と相違ないだろう。絶対にこんな安っぽいものではないと確信しているが。
しかしながら、そこに私の名前はなかった。残っているのは、三、四、五、の三つだ。
四組周囲が空くのを待つ。その間に、私の前を、絶望的な表情で通っていく者と、嬉々とした表情で他のクラス表を見に行く者がいた。なんとも面白い現象である。
目の前で繰り広げられる喜劇、悲劇を見ながら、私は『死神』のことを思い出した。
四ツ塚九条。それが『死神』と呼ばれている彼の名前だ。毛先を金髪に染めたツートンカラーの頭。左耳にはチェーン付のピアス。常に狭い眉間と、鋭い目つき。どことなく、ライオンをイメージさせる。
基本的に周りの情報に疎い私でも、彼のことは知っていた。私の耳に入るくらい、四ツ塚九条の噂は大量に流れていたのだ。
大きな噂が流れたのは、入学してから一週間も経たない日だった。
ツートンヘア、ピアス、それから鋭い目つきの彼は、ガラの悪いセンパイたちに呼び出された。恐らく、喧嘩っ早そうなオーラを放つ四ツ塚を、シメようとでもしたのだろう。だが、シメられたのはなぜかセンパイたちのほうだった。全員、全治一か月、またはそれ以上のケガを負い、口をそろえて「アイツは『死神』だ」と言ったそうだ。ご愁傷様です。
それ以来、彼は「死神」と呼ばれた。たぶん、名前に四と九が入ってることもあったのだろうが。名前に関しては、私も正直驚いたが。物騒なことだ。
とにかく、生徒や教師たちの間で流れる四ツ塚関連の噂は、お世辞にも好印象なものはなかった。
私自身、四ツ塚のことをそんなに悪いヤツだとは思っていなかった。一度だけだが、図書室で遭遇したことがあるからだ。
去年の秋ごろ、気まぐれで図書室を訪れたときのこと。放課後のそこは閑散としていて、仕事があるはずの図書委員の生徒までいなかった。何を目当てにするわけでもなく、棚ごとに分類されている本の背表紙を眺め歩いていた。すると、文学ジャンルのところで、棚に寄りかかりながら一冊の本を見ている四ツ塚を発見した。
私は「ギャッ」とも「ウオォッ」とも聞こえない、とりあえず年頃の女が上げるべきではない声を上げたのだろう。四ツ塚は一瞬ピクリと肩を揺らしてから、こちらを振り向いた。眉間が狭いのは相変わらずだったが、その目には、少なからず驚きが混じっていたと思う。オッサン臭い声をあげた私を、彼は凝視していた。そんな彼を、私の持っている本を、私は凝視していた。
なんと、恋愛小説だったのだ。ピンク色の表紙に見覚えがあったのは、私がそれを持っているからだった。
無言で、彼に近寄る。そんな私の行動を、四ツ塚は目で追っていた。
手元を覗き込めば、丁度、私が読みながら身悶えたシーンだった。主人公が片思いの男の子にキスされてしまうシーンだ。サラリとそれを読み流してから、四ツ塚の顔に目をやる。いつもの仏頂面。
人は見かけで判断しない私だが、さすがにこれは不思議すぎた。
ライオンのような獰猛な男が、女子が読むような恋愛小説を仏頂面で読んでいる。
「………変わってるね、あんた」
そう言った私に、四ツ塚は表情を変えずに言い返した。
「お前も大概な」
「仏頂面で恋愛小説読んでるあんたに言われたくないけどね」
私の言葉に、四ツ塚の口元が緩んだ。笑った、というには程遠いが。
「周りのヤツらは俺に近寄らねぇけど。図書委員もどっか行っちまったし」
図書委員の生徒は、四ツ塚が来たから退室したのか。
「お前はどっか行かねぇのな」
「この状況見る限り、あんたが噂の『死神』とは到底思えないし。むやみやたらに喧嘩ふっかけるようには見えないしね」
「あ、そ」
短い返事を聞いて、チャイムが鳴ったのを合図に、私は帰路につくため、図書室を出たのだった。
それから彼と話したことはなかったのだが、あの場面を見ると、そんなに凶暴なヤツとは思えなかった。
一昔前のことに思いを馳せているうちに、模造紙の前の人はまばらになっていた。近くにある時計を見ると、そろそろ教室にいないとマズい時間になっている。
一気に見通しの良くなったクラス表。とりあえず、目の前の四組の模造紙を上から見ていくと。
「あ」
あった。私の名前が、そこに存在していた。
同じクラスか、ピンクの死神と。そう思って横に目をやると。
「オオゥッ!?」
四ツ塚が立っていた。相変わらずのツートンヘアに、ピアス。鋭い目つきに狭い眉間。久々に見た彼が長身だということに、今更気づいた。スカイツリーだ。
女らしくない声に振り向いた四ツ塚は、あの時のように少しだけ口元を緩めた。
そんな彼を見て、私も、右端の口角が上がって、ニヤリと笑う。
それから、一言。
「「よろしく」」
どうもkokeshi屋です。恋愛してます。たぶん。
四ツ塚くんの名前は、たまたま4と9が入ってしまっただけなんですけど、あまりの偶然にネタにしました。彼に苗字をつけてから大分経ってから気づきました。どうでもいい話ですが、歯磨きしてからお風呂に入るタイプです。
今後もよろしくお願いします。