第二章 生誕記念祭(第三部)
皇帝に『眼をつけた』エルレアは、貴族達の目から逃れるように、大広間の横に位置する広い庭園の奥に隠れた。
庭園にある噴水のそばに、エルレアは腰を下ろす。
満天の星空を映す水をすくいあげては、指の隙間から宝石のように零れ落ちていく透明な雫を見つめるエルレア。
エルレアに興味をなくして、他の人間の噂話をしている貴族達。彼らの話は好きではないし、好きになろうとも思わない。好き勝手に他人の事をべらべらと話す人間が、エルレアは嫌いだった。
(お養母様……)
エルレアは、ハーモニアが自分に告げた言葉を思い出した。
『グリーシュの姓を名乗る限り、貴方はグリーシュの人間よ。あの人……コーゼスのせいで、貴方は少し私達に引け目を感じているかもしれないけれど……いい? エルレア。自分がグリーシュに貰われて来た人間だなんて思わないで。貴方は立派なグリーシュ家の娘。他の家のお嬢様がたと並んでも見劣りしないわ。宴では決して、自分が養女だなんて言ってはだめよ』
養母が心配しなくとも、自分は貴族達と言葉を交わす気はなかった。
今はただ、一刻も早くグリーシュ邸に戻ることだけが望みだ。
ふぅ、と、ため息を空に飛ばしたその時。
バッ、と人の気配を感じてエルレアは振り返った。
「エルレア・ド・グリーシュ?」
声をかけてきた相手の顔には驚きの感情がうかがわれた。が、それも一瞬で、すぐに疑う様な顔になる。
「君が?」
失礼極まりないその人物は、蜜のような濃い金の髪と深い青の瞳を持つ少年だった。髪と瞳の色が近いせいか、少し弟のセレンに似通って見える。セレンは薄い色の金の髪と水色の瞳を持っていた。
きちんと整えられた身なりから見て、この少年もどこかの上流貴族の家の子息だろう。
エルレアはつまらなそうに受けあう。
「人に名前を尋ねる時は、普通自分の名前を先に名乗らないか?」
「僕の名前? ……聞いても多分、何の得もしないと思うよ?」
「ああ、そうか。ではこちらも、礼儀を知らない者と話す筋合いはない」
エルレアは、できるだけ他の貴族との関わりを持ちたくなかったため、あくまで冷たく答えた。
少年は思案するような表情を浮かべる。
少年は驚くほど整った顔立ちをしていた。エルレアがこの宴で見かけたどの男性より端整で、高貴な雰囲気が漂っている。
しかしエルレアには、たとえ金髪碧眼の美少年の顔だろうがニリウスの飼っている(と思われる)マングースのアルフレッドの顔だろうが、同じただの顔にしか見えない。エルレアにとっては顔の美醜など、何の意味もない要素の一つだった。
「分かった、言うよ。僕はスウィング。スウィング・セレナーデ・ノクターン・ド・リズム・ソルフェージュ」
スウィングと聞いたとき、エルレアはピク、と美しい眉を震わせた。
スウィング。第二皇子の名前が確かそんな名前であった。そして、疑いようも無いソルフェージュという家名。それはオルヴェル帝国の皇族達が持つ家名である。
この位置が貴族達から見えずに良かった、とエルレアは内心ホッとする。大広間からは遠く、よほど意識してこちらに近寄らなければ自分達の様子は見えないはずである。皇子と二人きりでいる所を誰かに見られでもしたら、ややこしいことになりかねない。
エルレアは横に置いていた扇を取って立ち上がり、少年にばれない程度に身構えた。
「確かに、私はエルレア・ド・グリーシュだ」
話し方を変えないエルレアを、少年は咎めなかった。ただ意外そうな顔をして呟く。
「僕の素性を知っても態度を変えない人間は初めてだよ、変わってるね。その勇気はほめるよ。けど……ごめんね」
「?」
エルレアは、少年の最後の言葉に眉をひそめる。
少年はふと、風が吹く方向に瞳を閉じ、そしてすぐにエルレアを見据えた———何かを決意するように。
澄んだ青い瞳に、鋭い月の光が宿った。
低い声で。
「試させてもらう」
言うが速いか腰の剣を抜くと、少年はエルレアに斬りかかる。
バアン!!
エルレアは右手に構えていた扇で、かろうじて初太刀を叩き落した。
リィィィンッ……
ブレスレットの鈴が高く鳴り響く。
(速い)
自分と皇子の間には、馬車が一台丸ごと入ってしまう程度には距離はあった。
それなのに、まばたきをする瞬間に彼は十分な間合いをつめていた。並の速さではない。
そのまま斜めに斬り上げられた剣を、エルレアは何とかよけた。
長い金髪がわずかに遅れ、剣圧で切られた数本が空に散る。
「何のつもりだ!」
叫んだエルレアの声は噴水の音にかき消され、大広間にいる人間達には聞こえない。
(逃げられない……大広間まで逃げるには、相手が速すぎる)
左上からの払いを受けとめた扇の布が破れ、舞う。
払いの勢いを殺すその一瞬で、エルレアは代わりの道具を目の端に捕らえた。
「!!」
力いっぱい扇を投げつけられ、少年は体勢を崩す。
エルレアは、側の植え込みに挿してあった数本の鉄の棒の内一本を引き抜く。
両手で構えた鉄の棒に、間髪いれずに横なぎの斬撃が来る。
直に伝わる激しい衝撃で、手がしびれてきていることにエルレアは気付いた。
金属のぶつかる音が響く度、エルレアは後退していく。いや、正確に言えば、スウィングの剣の重さの全てを相殺することができずに少しずつ飛ばされているのだ。
トン、と背に抵抗を感じた。
(———壁)
刹那、剣の閃きが弧を描く。
ガアンッッ!!
無意識の内に少女が作った隙を、少年は見逃さなかった。
鉄の棒が空高く飛ばされ、遠くの方に落ちて音を立てる。
エルレアは相手の心の中を見ようとするかのように、濃い緑の瞳で少年を見上げた。
「……何故、動じない?」
静かな声でスウィングが問いかける。
スウィングの剣先は、エルレアの喉元にあった。
エルレアが少しでも動けば、剣はエルレアの喉に突き刺さるだろう。
「動じたところで状況は変わらない。そう判断したからだ」
氷のように冷たい声でエルレアが答える。
スウィングは少しの間エルレアの感情の読めない瞳を見つめ返していたが、つい、と瞳を逸らすと、
「やっぱり、君は違う」
と、剣をエルレアから引きながら呟いた。
(違う……?)
どこか寂しげなその言葉に、エルレアは小首を傾げる。
しばらくすると、スウィングはエルレアに興味をなくしたかのように踵を返し、大広間の方へと歩き出した。
リィィ……ン……。
エルレアの腕の鈴が小さく鳴る。
宮殿に向かう足を一時止め、振り返らずにスウィングは告げた。
「非礼を詫びるよ。……最後に一つ、答えてほしい」
エルレアにはその時、噴水の音がゆっくりと遠くなっていくように思えた。
スウィングは迷うように一旦口をつぐんだ後、続きを言った。
「君は……エルレア・ド・グリーシュを知っているか……?」
"知っているか?"
少女の長い髪を風がさらい、また元に戻した。
エメラルドの瞳が、ゆっくりと大きく見開かれる。
「いや……ごめん、変な質問だった」
どうか忘れて、と言い残し、少年は足早に大広間へと向かった。
庭園には、再び少女だけが残された。