第一章 旧リグネイ帝国皇室・グリーシュ家(第四部)
「さあ」
その皿を、と、エルレアは右手をまっすぐに差し出した。剣士が挑戦するかのように。
エルレアの深い緑の瞳に気圧されたセレンは、震える足でジリ、と後ずさる。
「セレン」
静かに、そして低く、エルレアは呟く。
一歩。エルレアが踏み出し、セレンが後退する。
「駄目……」
かすれた声でかろうじて答え、頭を横に振るセレン。
姉の健康のためにも自分の心臓のためにも、皿を渡すわけにはいかない。
「セレン」
「駄目―ッ!!」
たまらず、セレンは皿ごと暖炉へ放り投げた。
そのとき、暖炉の中に黒い影が現れた事にも気付かずに。
ばしゃああん、ガンッッ。
「ぬおっっ」
頭から血をかぶり、皿に顔面アタックをされたその人物は、そのまま後ろへ倒れかける。
突然の第三者の介入に、鬼気迫る表情で見つめ合っていた姉弟は呆然とした。
茶髪。ボロボロでつぎはぎだらけの黒いズボン。体つきから見て男のようだ。
顔の上に乗った皿をどかし、血のついた目を服の袖でぐいぐいっ、とぬぐうと、その男は二人を見て束の間驚いた顔をした。そして、すすと血のついた顔にニカッと爽やかな笑顔を浮かべ、片手を上げる。
「ニリ!」
「ニリウス!?」
思わず、と言うように同時に声を張り上げる二人を、「シーっ」と人差し指で制す。
「何故、こんな所へ?」
すぐに平静を取り戻したエルレアが、自分のハンカチを取り出してニリウスに歩み寄った。さすがに牛肉の事は諦めたらしい。
「おお、ちょっと油断した間にロザリーが逃げ出しちまってな」
エルレアから受け取った白いハンカチで顔や服を拭きながら、ニリウス・ジャグラムは暖炉から出てきた。
(ロザリー……?)
とても嫌な予感がする。
エルレアとセレンは身をこわばらせた。
「アルフレッドに聞いたら、こっちの方ににおいが続いてるって言うんだ」
(アルフレッド……?)
セレンがギュッとエルレアの袖を握る。
「ほら、こいつがアルフレッド」
くるっ、とニリウスは後ろを向き、自分の背中を指差した。
今度は熊蜂でも連れてきたのか、と思った二人は逃げる体勢をとったが、そこにいたのは意外にも恐れているような生物ではなかった。
茶色の毛玉。最初はそれにしか見えなかった。
「マングースだな、これは」
ネコ目マングース科。つぶらな瞳と長い尻尾が愛らしい動物である。
しかしニリウスが連れてきたマングースは子供に落書きでもされたのか、太すぎる眉を目の上に描かれていた。眉間に描かれたしわが、養父コーゼスに似ている、とエルレアはこっそり思った。
「ほらアルフレッド、友達を探して来い」
眉のせいでやけに気合が入っているように見えるマングースは、ニリウスの背中から降りると部屋の中を駆け回る。
「それで、ロザリーというのは?」
思い出したように問うエルレアに、ニリウスは至って笑顔で答えた。
「ハブだ」
「ひいいいいっっ!!」
蒼白になるセレン。
「それらしい動物は見かけていないが……ん……?」
アルフレッドの様子がおかしい事に、エルレアは気付く。
先ほどからテーブルの周りをうろうろしているのだ。
「おー、見つかったか?」
(まさか)と、エルレアとセレンが『ロザリー』の登場を待っていると。
シャーッ。
ピロッ、ピロッ、と二つに割れた舌を出し入れしながら、爬虫類のロザリーは現れた。……テーブルの下から。
そして、アルフレッドと再会の抱擁を交わす。
実は、ロザリーがアルフレッドを締め上げているだけだった。
「……も、もしかしてずっとテーブルの下にいたの……?」
「そうらしいな。これからは足元にも気を払うことにしよう……」
「良かった良かった」
と笑っていたニリウスは、エルレアの左手に巻かれたハンカチに気付いてキョトンとする。
「どうしたんだ?嬢さんの左手」
「ああ、これは食事用のナイフで切った」
「見かけによらず鈍感なんだな嬢さん。普通はそこまでひどい怪我しねえだろ?」
白かったはずのハンカチは、既に半分以上赤く染まっている。
なるほど、さっきの血は……と納得するニリウス。
「こんな結び方じゃ駄目だ。血が止まらねえ」
手慣れた様子でハンカチを結び直す。
シュルシュル……キュッ。
でかい図体に似合わぬ器用さで結び上げた。
「よし」
軽くポン、とエルレアの手の甲を叩くと、またニカッと笑う。
「こういうことは得意なのか?」
「知り合いに、やたらめったら怪我ばっかする奴がいるからな」
と、苦笑いを浮かべる。
「あ、そーいや嬢さん、次の生誕記念祭に出席するようにって、皇帝陛下直々のご指名があったんだってな。今日クィーゼルが言ってたぞ。良かったじゃん」
良かった、の一言に、エルレアは目を細めた。
「何が"良い"んだ?ニリウス・ジャグラム」
フルネームで呼ばれたことに、ニリウスは目を大きく開く。質問より、エルレアの記憶力に驚いているようだ。
少しの空白の後。
「あ……ああ、だってさ、皇帝陛下に直接、って事は、もしかすると縁談の話かもしれねえぞ? 何て言ったっけなー、ほら、第二皇子さん……ス……スング?」
「スウィング皇子の事?」
ロザリーとアルフレッドにおびえながら、おそるおそるセレン。
「そうそう! 第一皇子さんはもう婚約決定してるから、いまどきの娘さん達は皆第二皇子を狙ってるってさ。その皇子さんと……」
「ありえない」
ニリウスの言葉を、エルレアが強く遮った。
「私の記憶に違いが無ければ、オルヴェル帝国の法律上、皇子の婚姻は皇族もしくは皇族を五親等内に持つ上流貴族とのみ許されている。グリーシュは確かに上流貴族で、お養母様は皇族の娘だが……」
堰をきったようにそこまで話したエルレアは、クッ、と言いかけた言葉を止め、俯いた。
滅多に揺らぐことの無い緑の瞳が、悲しげに揺れる。
セレンの母であり、コーゼス卿の妻であるハーモニア・ド・グリーシュは、皇族の血を濃く受け継いでいた。今の皇帝の兄の娘。つまり、皇帝の姪にあたる。
本来ハーモニアは皇女の地位に居るはずだった。しかし彼女の父親であった皇太子は、ある日突然姿を消す。
皇太子が失踪する直前、皇宮で事件が起こっていた。皇太子の実の息子であり、ハーモニアの兄であった親王フーガの謎の死。この事件の全貌は明らかにされていないが、タイミングから見て皇太子が犯人ではないかという噂が流れた。
その後、皇女の地位を剥奪されたハーモニアには母親のグリーシュの姓が与えられた。
血筋から言えばセレンは、オルヴェル帝国の他の有力貴族達に比べてもかなり上の方にいる。
だが自分は……。
(私は養女だ)