第一章 旧リグネイ帝国皇室・グリーシュ家(第二部)
「こらあああああぁぁぁっ、ニリィィィ!!」
ピアノのレッスンを受けに屋敷に戻ろうとしたエルレアとセレンは、(おそらく)女の尋常ではない叫び声に足を止めた。
(……何だ?)
庭園に響いたその声の主を探そうと、エルレアがセレンから離れた。
その瞬間。
「う、うわああああっっ!?」
同じく尋常ではない悲鳴がセレンの方から聞こえた。
何事か、と藍色のスカートを揺らして振り向いたエルレアは、不幸にも、旋律の恐怖映像をそのエメラルドの瞳に映した———映してしまった。
わさわさわさ。
影も形も残さないほど、セレンの体にくっついているもの。
わさわさわさ。
かしかしかし。
何を隠そう、大量のゴキブリとムカデであった。
わさわさわさ。
かしかしかしかし。
おまけに、恐怖の大魔王の大群は、弟を救出すべくそこにあったほうきを構えたエルレアまで呑み込もうとする。エルレアは自分の身を守るだけで必死だった。表情には表れなかったが。
「セレン……気を」しっかり持て。そう言いかけた時、新たな声が聞こえてきた。
「アリスー! ジェシカー! ミリー!」
そう叫びながら猛烈ダッシュしてくる茶髪の少年に、エルレアは見覚えが無かった。
少年と言っても、エルレアよりも年上だとはっきり分かるくらい、がっしりとした大きな体つきである。少年とも青年とも呼べるような見た目だった。
不思議なことに、キャロル、アンジェリカ、セシルなど、少年が様々な名前を呼ぶ度に、セレンについていた虫が次々にはがれていく。
エルレアが呆然とする中、ようやく少年が全ての虫の名前を呼び終え、セレンは悪しき呪縛から解き放たれた。そして、地面に膝をつくと魂のない小さな声で、
「心臓が止まるかと思った……」とつぶやく。
エルレアもセレンも知るはずないのだが、実は事実、彼の心臓は10秒程止まっていた。
セレンの件は解決したとして。
……問題は、突然どこからともなく爆走してきて、あまつゴキブリとムカデにラブリーな名前をつけている少年の方である。
「……姉様……、だ、誰なの? 人間?」
ゴキブリとムカデの大群にすっかりびびってしまったセレンは、姉の右腕にしがみつき、背中に隠れながら震える声で尋ねた。
セレンとは対照的に、謎の少年の行動を慎重に観察するエルレア。
「……ん?」と少年。
「嬢さんに、坊ちゃん? 何でここに?」
しゃがんだ姿勢で顔を上げ、虫たちをどこからか取り出した箱に入れながら明るく問う少年。
健康そうな肌の色。愛嬌のある茶色の瞳が、こちらを見上げている。
「グリーシュの下男と見たが、違いないか?」
エルレアがわざと尊大に問い返すと、少年は眉を上げ、驚きの表情を作った。そしてすぐにニヒッとした顔になる。
「そ。俺、ニリウス・ジャグラムってんだ。呼ぶならニリでいいぞ」
(下男にしては態度が軽すぎる)
と、不審感もあらわに疑いの目を向けるエルレア。
「どこの担当だ。本邸か?」
「オパールさ。まあ、知らなくて当然だけどな。たかが別邸の召し使いなんて、知ってる方が凄いぜ」
ケラケラと笑う少年。
やけに砕けた性格の少年に、セレンはキョトンとして姉を仰ぎ見る。
エルレアは勿論セレンも、この少年を知らなかった。
確かに少年の言う通り、グリーシュ邸全ての召し使いの顔と名前を覚えられたなら、それはとんでもないことかもしれない。
かつてこの大陸を支配した、今は亡き古代大帝国『リグネイ』。グリーシュ家は、このリグネイ帝国皇帝の流れを汲む由緒正しい家柄である。
帝国が滅んだ理由は未だに解明されていない。反乱軍は存在したが、庶民の力に倒れる程皇帝の力は微弱ではなかった。
気候にも何も問題なく、飢饉などが起こった訳ではないと遺跡研究家は語っている。
───滅んだ帝国に残った一族。
平民が激減し、ほぼ廃墟の国と化したリグネイに、少数の皇族、つまり、グリーシュ家の先祖が生き残っていた。
別の大陸から渡ってきたオルヴェル民族は、グリーシュ家に様々な制約を与え、オルヴェル帝国皇帝の臣下に下る事を許した。
そしてグリーシュ家は、皇族ではなく貴族という形で、今を生きている。
以前王宮であった古城を本邸とし、王宮を円状に取り囲むようにあった12の離宮を別邸にして、帝国時代の皇室領に比べればかなり狭い土地を、グリーシュ家は治めている。
べらぼーにでかい本邸に、古株の召し使いを500人。別邸には、それぞれ150人ずつ。計、約2300人の召し使いを、グリーシュは抱えている。
「なるほど、知らないはずだ。本邸の召し使いならとりあえず顔は覚えているつもりだからな」
「……坊ちゃん?何隠れてんだ?」
姉の腕にすがりついて隠れているセレンを見て、不思議そうにニリウス少年。
「先ほどの虫たちを恐れているんだ。セレン、男なら女の後ろに隠れるな」
「……僕、女でもいい」
「ああ、坊ちゃんたちから花の匂いがしてんだろ。こいつら、何でか花の匂いが大好きだからな」
ようやく箱に虫を入れ終わった少年は、エルレアとセレンにガキ大将のような笑顔を見せた。
そして思い出したように、
「あ、やべえっ、こんなとこクィーゼルに見られたら殴られる!! じゃーな、嬢さんに坊ちゃん!!」
と早口に告げると、箱を抱えて足早に去っていった。
───その日から、エルレアとセレンの愛用のシャンプーと入浴剤が、花の香りからミルクの香りになったのは、言うまでもない。
まさかこの訳の分からない虫好き少年が、数日後に再び目の前に現れるとは、エルレアもセレンも思っていなかった。