第五章 絶対的な賭け(第一部)
シャッ、という小さな音が聞こえ、目の前の光が弱まった。
ゆっくりと目を開けると、自分の横に立っている人物に気がついた。
「おや……起こしてしまいましたか。気分はどうですか? マリア」
閉じられたカーテンの隙間から差す太陽の光が、青年の顔を更に美しく見せている。
目覚めて尚、夢の世界を漂っていた娘の意識が、急速に現実世界へと引き戻された。
熱を出して倒れ、親切な老人からもらった薬を飲んだ所までは何とか覚えているが、それからの記憶が無い。
マリアと呼ばれた娘は、自分が今居る部屋を注意深く見回した。
青年はそれを見て小さく笑う。
「心配しなくても、ここはただの宿屋ですよ。あのご老人が、ここまで送ってくださいました」
「……も、申し訳ございません……っ」
「そして、貴方は何をしようとしているんですか?」
ベッドから降りようとする娘に、青年はわずかに厳しく尋ねた。
「急がないと、追っ手が来るかもしれませんし……」
「今起きて、また倒れるつもりですか。その方が迷惑です」
黙りこんだ娘の額にそっと手をあて、口調を和らげながら青年は言った。
「今はゆっくり休みなさい。急ぐ必要はありません」
「……はい……」
柔らかく青年は微笑んだ。
「薬を飲んでおいて下さい、朝食を持ってきます。……ああ、もう昼食ですね」
「申し訳ございま……って、ええっっ!? まさかもう、昼ですか…?」
「ええ、先ほど正午になりました」
情けなさで、娘は毛布をギュッと掴んだ。
「貴方は元から身体が弱いんですから、仕方ありませんよ。少し無理をさせてしまったようですね」
「‥‥‥」
「何だか、本当に夫婦水入らずの旅をしている様な気分になってきました」
「へ……?」
「いえいえ、何でもありませんよ。ああ、そうでした。皇宮の動きは見られません。どうやら、私が宮中に居ないことも、一般市民は知らないようです。父上が何をお考えかは分かりませんが、しばらくゆっくりできますよ」
「……あの」
部屋の出入り口に向かっていた青年に、娘は声をかけた。
「何か寝言を言っていませんでしたでしょうか…私は」
あまりにも鮮明すぎる夢だった。五感の全てで感じたような。
「そういえば……起きた時少しぼんやりしていましたね。どうかしたんですか?」
窓から涼しい風が入り、カーテンを揺らした。
「……母の夢を見ていました」
木陰で微笑みを浮かべていた母を思い出すと、大きな布で包まれたような暖かさが胸を一杯にした。
「優しいかただったんですね」
「どうして、ですか?」
虚をつかれたような表情の娘に、青年は笑いかけた。
「さっきの貴方が、いつもの数倍かわいらしく見えたので」
見とれてしまいそうな笑顔でそう言われて、マリアは頬を赤く染めた。
「とても……優しい人でした。よく笑って、暖かくて……殿下のような」
「私の……ような?」
「あ、いえ、顔が似ているとか、そういうことではなく……っ」
戸惑ったような表情を浮かべた青年に、慌てて娘は訂正した。
このかたの傍にいると、いつも思い出す。遠い母の思い出。
居心地の良い空気。どんな人にも敬意を払った言葉遣い。
「私にとってのそういう存在は、貴方の方ですよ、マリア」
苦笑してそう答えると、青年は部屋から出て行った。
バタン。
閉じられたドアに軽く背をもたれさせると、
「うーん……女のかたに似ていると言われたのは初めてですねぇ」
と、オルヴェル帝国のシンフォニー皇太子殿下は一人ごちた。




