第一章 旧リグネイ帝国皇室・グリーシュ家(第一部)
夏の午前の涼しい風が、鼻先を通り過ぎていった。陽が出るまで、少しだが時間がありそうだ。
高い塀に囲まれた巨大な庭には、小さな丘があった。
毎朝、その丘にあるリンゴの樹の下で本を読むのが、彼女の日課である。
二度寝してしまったことを不覚に思いながら、彼女は気だるげに身を起こした。
草の上に投げ出されていた長い金髪を波立たせ、樹の枝の間からかすかに見える空を見上げる。
───濃いエメラルドの瞳が、灰色の空に浮かぶ雲を映した。
夢の内容を、ふと思い出す。
(久しぶり……だな)
名前も忘れてしまった昔の家族を、夢に見るのは。
もう全て忘れたものと思っていた。自分の名前さえ、覚えてはいないのだから。
空に無数の光の矢が差す。
丘に届いた光に目を細め、同時に広い庭を自分の方に向かって歩いてくる人物に気づいた。
「おはよう、姉様。もう起きてたんだ」
抜群の笑顔で、金髪の少年———こちらに歩いてくる人物———は彼女に言葉を投げかける。
「お父様に許可はもらったのか? 黙って私と会った事がばれたら叱られるだろう」
たしなめるような彼女の言葉に少年は立ち止まり、いたずらがバレた時のような笑顔を見せた。
「お父様は今日一日、書類の山の相手をしなきゃいけないから、庭を見る余裕はないよ。召し使い達には口止めしてるし。それに、お母様は笑って許してくれたから大丈夫だよ、エルレア姉様」
「そうか。今日はお体の調子がいいのか?お母様は」
少年の顔からあどけない笑顔が消える。
少年はうつむいて黙り込んだ後、おずおずと小さく切り出した。
「エルレア姉様……もし……もしも、お母様がいなくなってしまったら……姉様はどうなるの?」
「この屋敷から追い出される」
考えていないわけではなかった仮定に、エルレアはズバッと結論を出した。
深い森に住んでいた少女をエルレア・ド・グリーシュとして、この裕福な屋敷に迎え入れた張本人、ハーモニア・ド・グリーシュ夫人は、二ヶ月ほど前に重い病にかかり、今も外に出るのは危ぶまれる状態にある。
夫のコーゼスは、エルレアを養女として迎え入れたことを良く思っていない。
息子をエルレアから隔離させる程、彼はエルレアを嫌っている。
だから、ハーモニアに万が一の事が起きれば、自分が追い出されるのは間違いないとエルレアは考えていた。
今にも泣きそうな顔をしている弟に気づき、彼女はかすかに苦笑した。
自分とさして歳の違わないこの少年は、血のつながりのない他人の事でも一喜一憂する。
その性分が、エルレアにはおかしくて愛しいのだった。
自分にはそんな優しさも幼さも、在りはしないから。
「おいで。何か話をしよう」
淡々と、しかしできる限りの親しみを込めて、彼女は言った。
悲しみと不安の色を映していた少年の青い瞳が、途端に輝きを取り戻す。
博学な姉から、物理や倫理論などの話を聞くのは、機会が少ない分常に少年の『楽しいことベスト1』だった。
少年はエルレアの傍に駆け寄ると、そっと隣に座った。
「今日は何の話? この前の『幽霊の肌はスベスベか』の続き?」
「いや、今日は『はりつけと火あぶりの違い』だ、セレン」
夏の一日の始まり。暖かい風に髪を揺らしながら和やかに語り合う麗しい姉弟が、よもや極刑について、という極めて物騒な話をしているなどと、誰が知るよしもなかった。
☆☆☆
広い部屋に、苦しげに咳き込む音が響いた。
皮の椅子に座った彼は、机の上に積み重なった紙の山を見やり、ため息をつく。
突き刺すような胸の痛みに顔をしかめつつ、机の一番下の引き出しの鍵を開け、一枚の小さな肖像画を取り出した。
神々しい金髪を腰まで伸ばした少女が、無邪気に微笑んでいる絵。
寂しげに呼ばれた名前が、物音一つしない部屋で空しく消えていった。