シャノワの憂鬱 6
それからしばらく経って三人は心暖まる夕餉をして、別れの時刻がきた。夜道は危ないから、とアルバが彼女を広場まで送ると言う。朝からの雨は折しくも降り続いている。少しでも長くアルバと時間を共有したい。いつまでもその時間が続いて欲しい。そう思いつつ彼女が凱旋通りを歩いていく。ふと、彼女の前に大きな水たまりが現れた。どうしようかと彼女が逡巡していると、つとアルバが水たまりを飛び超えた。そうしてこちらに手を差し出すではないか。仕事をして、絵を描いて、料理を作った手だ。そうしてまだ穢れを知らないアルバの手だ。自分はもう穢れてしまっている。そんな自分を知ってもアルバは果たして受け入れてくれるだろうか。
恐る恐る、アルバの手を握る。細いその手は雨で濡れて冷たい。だが感触はまさしく男のそれだ。アルバの掛け声をきっかけに彼女が水たまりを飛び越える。着地した刹那、倒れそうになる彼女をアルバが受け止めてくれた。力強い二の腕、耳と頬に当たる胸板、そうしてとっさに出た片腕はあの引き締まった腹筋に絡んでいる。少しく見上げればアルバの顔が目と鼻の先にある。透き通るような碧青の瞳。紅潮をさした双頬。そして雨に濡れた白い首筋。このまま自身の欲望を火にくべて、一つに溶けてしまえたら……。しかるにアルバは体を離して先を歩いていく。そうして広場に着くと、胸中に炎を燻らせつつ彼女は家路についた。
梅雨は明け、赤き太陽は盛り、気の早い向日葵がその光を一身に受けようと、つま先立ちになって天を仰いでいる。アルバを想うと不思議と力が湧き起こり、仕事にも精気がみなぎってくるのを彼女は感じていた。そうして待ちに待った休日である。好きなアルバに会える日だ!
日頃の研究成果を発揮すべく、彼女はこの日の為に店で買った、自ら選んだ服を着て、意気軒昂に歩みを弾ませて凱旋通りをいく。兄弟の住むアパートに着くと、高鳴る鼓動を抑えるために一つ深呼吸をして、それからチャイムを押す。声がして、ドアが開かれた。アルバだ! 千秋、思い描いていた彼はいつも凛々しい。そうして見せる笑顔は可愛らしい。愛しいアルバに促されてソファに座ると、栗色のおかっぱ頭をしたキューピッドが弾丸のように玄関を飛び出していった。
アルバと二人きりになって、彼女は考えた。今こそ、千番に一番の好機ではないか。今を於いて、二人の仲を親密のものにする絶好の機会ではないか。しかし自分と彼はまだ大人ではないのだから、それなりに節度を守らなければならない。だがせめて、彼と口づけを交わすことを神様は許してくれるかも知れない。御屋形様は許してくれないだろうけど。自分のほうが年上なのだから、こういう事は自分から先導していかなくては。こうしてシャノワは約一年もの間に悩み、鬱々としていた欲求を解放すべく、足しげくアルバの暮らすアパートに通う日々を続けた。
アルバとシャノワにとって、薔薇色に染められた恋愛の日々が風のように流れていった。そんな二人の恋愛とはいかなるものだったか。それは互いに相手の心に光り輝くものを認め、育むものだった。そこから相手を尊び、敬う気持ちが生まれた。互いに相手にとって素晴らしい存在になるべく、仕事や勉強といったものに精励して、自身の内にある宮殿を磨いていた。そうして切磋琢磨して苦労を分かち合い、助け合い、喜びを共有していた。
恋は人を盲目にすると誰かが言ったが、一部を除いてではあるが、二人に照らしてみればそうとも言えない。例えるなら車に乗るようなものだ。運転席にアルバが座り、助手席にシャノワが座る。その車は情熱という名のガソリンを燃料にしている。アルバがエンジンキーを管理していたが、なぜかキーを回すのはシャノワの役目だ。そうして車が動き出し、アルバはしっかりとハンドルを握って、シャノワが道案内をしていく。故意か偶然か、時折シャノワが道を間違えそうになったが、アルバの内気なる性情が適度にブレーキを踏ませていたので、事故には至らなかった。もちろん、アルバもアクセルを踏んで速度を上げたい衝動に駆られる時もあった。だが彼女の外見が、中身が、喋り方が、仕草が、魂の色や形が好きだったゆえに安全運転を心がけていたのである。とはいえ時にシャノワはもどかしかさを感じたものだが、そこにアルバの優しさと温もりを感じ、魂に触れ、アルバの愛を一身に浴びていた。
二人の恋の行方、何処へ往かんとするか。烏兎久しく中天を駆け廻る。早一年が経過した。




