夏空キス
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僕は自転車に乗り、恋人の加奈と二人乗りしながら街を走り抜けた。自宅マンション近辺なら大概知っている。ゆっくりと漕ぎ続けて、走った。確かにこの蒸し暑さだと疲れる。だけど構わなかった。別に僕自身、抵抗がなかったからだ。暑いときの方が返って過ごしやすい。そう思っているのだった。ペダルに載せた足を踏み込み、走り続ける。夏バテしていた。食事はハンバーガーやフライドポテト、それにナゲットなど脂っこいものが多かったが、基本的にジャンクフードを食べる習慣は昔とほとんど変わってない。店内で食事を取ったら互いに携帯に映っている地図を見て、ゆっくりと海へ向かう。街の北側に海があるのだった。ビーチはサンダルを履いていても蒸し暑く、絶えず波が打ち寄せてくる。僕も自転車に飛び乗り、後ろに彼女を乗せて走り続けた。今いるファーストフード店のある街の中心地から北へ二十分ほど行くと海が見える。今は何でも携帯やスマホで検索したり、位置情報を確認したり出来るのだった。海へと向かう。時折笑顔を見せ合いながら……。
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「暑いわね」
「ああ。……でもこれが自然なんじゃない?夏場は蒸し暑いのが」
「そうね。あたしも汗だくだし」
加奈がそう言って着ていた長袖シャツを脱ぐ。半袖シャツの下にはおそらくブラジャー以外何も付けてないだろう。僕も着ていたTシャツを脱ぎ、裸になる。疲れていた。夏場の蒸し暑さで。だけど夏という季節はこの暑気が当たり前だ。僕も気にしていなかった。ゆっくりと波間まで走っていき、水を掛け合う。
「ほら!」
「あ、やったわね」
彼女がそう言って掛け返す。僕も応じるようにして水を掛け続けた。海水はしょっぱさがある。水に塩分が混じっているので仕方ない。掛け合った後、沖まで泳いだ。ゆっくりと沖合までクロールで海水を掻き分ける。肌が焼けてしまった。やはりこの日差しがそうさせるのだろう、蒸し暑さは極点に達していた。辺り一帯の熱ですっかり疲れてしまっている。こんなときでも、僕も加奈もバイトしながら、そのお金だけで生活していた。一緒のバイト先で知り合い、それがきっかけで今も付き合い続けているのである。別にそう生活費は掛からなかった。自宅マンションと一口に言っても、安くて狭いところをシェアしながら生活しているのである。家賃は半額ずつ出し合っていた。そして冷蔵庫と洗濯機、それにパソコンも共用にしている。それでいいのだった。バイトしながら少しずつお金を貯め、それでいろいろと買ったりする。実はつい最近二人でお金を出し合い、古い洗濯機から新しいエコ家電の洗濯機に切り替えた。それを使いながら十分満足できている。洗う時間や水も節約できるので便利だ。幾分値は張ったのだが……。要は僕も加奈も多少いい加減でも、時給がいいバイトをしながら、気楽に生活していたのである。男女の同棲というやつだった。まあ、結婚などは前提にしていなくて、単に好きなときに抱き合い、愛し合っていたのだけれど……。
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空は夏空だった。彼方まで青空で、白い雲が棚引き、辺り一帯は蒸し暑い。木々は緑である。夏という季節を象徴するビーチだった。僕も海から上がり、加奈と並んで浜辺に座り込みながら、ゆっくりとし続ける。疲労はあるのだが、さすがに二十代の若さがあった。互いに昭和の終わり頃に生まれ、平成っ子たちと感覚が近い。だからこういった気楽なバイト生活を続ける気になるのだろう。僕も正直なところ、まともに就職すらしてない自分が恥ずかしいと思うことがあるにはあった。だけど僕は大学を出ていなくて高卒だったし、彼女も最終学歴が高卒だ。今は大卒や院卒が当たり前の時代なのだが、そういったことはどうでもよかった。別に僕たちはバイト先でも上司から言われたことだけしていればそれでいいのである。そして楽しめるときに楽しんでおこうと思った。
中空にあった太陽が陰り出し、空が夕焼け色に染まる頃、僕たちはゆっくりと口付け合う。互いに唇同士が接近し合い、何度も何度も重なり合った。そしてビーチで抱き合い始める。二人以外誰もいない海辺で。ゆっくりと体を重ね合い、互いの気持ちを通じ合わせた。遠慮することはない。単に抱き合う行為だけで他に何も必要なかった。加奈の髪からは濡れた後漂うシャンプーの残り香がしている。それがやけに愛おしかった。僕たちは何の遠慮もなく抱き合う。繰り返し繰り返し。そして見つめ合った。彼女の瞳は純潔だ。濁ってない。そう感じられた。夏空の下でのキスの後、僕たちは頷き合い、また海岸の駐輪場に停めていた自転車に二人乗りした。同棲しているマンションへと帰るため。
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「食材、冷蔵庫にあった?」
「ああ。確か俺が豚肉買ってたよ。……料理するのはもちろん君だろ?」
「ええ。野菜と豆腐と卵で炒め物作ろうって思ってるから」
「任せたよ」
互いに言葉を交わし合いながら、二人乗りで走り続ける。街の空気はほとんど汚れていない。ここが大都会とはまるで違う田舎だからだろう。ゆっくりと自転車を漕ぎ続けた。加奈も横顔は笑顔でいる。走らせていった。疲れたなどとは言っていられない。今から街に戻るのだから……。
さっきのキスのときに味わった感覚はまだ唇に残っている。幾分しょっぱかったのだが、これがあの海辺で交わしたキスの余韻だ。自転車に乗って走り続ける。今時二人乗りで自転車を漕ぐのは珍しいのかもしれない。だけど僕たちはアルバイトだけで暮らしていて、基本的に貧乏生活だ。だから電話にしてもまだスマホじゃなくて、古い機種の携帯を使っている。これでも楽しいのだから、別に構わない。そう思っていた。生活面では決して楽じゃなかったのだけれど……。
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自転車をマンションの駐輪場に停めた。盗られないようチェーンを付け、マンションへと向かう。疲れていた。丸一日外出するとなると、きつい。しかも海まで行くとなると疲労が溜まってしまう。今夜は食事を取りながら、アルコールフリーのビールをきっちり一缶飲み、ゆっくりするつもりでいた。互いに食事を取って寛ぎながら、リラックスできればそれでいいと思っている。疲労はいずれ癒えるのだし。僕も加奈と一緒にシャワーを浴びながら、疲れを落とした。あの夏空の下で交わしたキスの感触も覚えているだけで、あのときに遡って味わうことは二度と出来ないのだし……。
混浴した後、二人で食事を取った。さすがに自宅は寛げる。誰も邪魔する人間はいなくて、まさに愛の巣だった。僕たちにとっては。そして今日が終われば、また明日からバイトが始まる。暑さで疲れているのは分かっていたにしても立ち仕事が続く。だけど構わない。気楽だからである。また仕事にあぶれれば、パソコンか携帯を使って新たなところを探せばいいのだから……。
(了)




