王妃の茶杯は、すべてを映す
アデライド・フォン・エルスハイムは、鏡が嫌いだった。
正確には、鏡そのものが嫌いなのではない。鏡の中の自分を見ることが、嫌いだった。否、嫌いになった。
王妃宮の化粧台に据えられた大きな鏡は、毎朝アデライドの顔を映す。白髪が増えた。目の端の皺が深くなった。頬の肉が少し落ちた。老いることは恥ではない——と頭では分かっている。でも鏡は正直すぎて、時々うんざりする。
今朝も侍女たちが髪を整え、化粧を施し、衣を着せた。セレナが後ろに立って、いつも通り丁寧に髪を梳いた。
アデライドは鏡の中で自分を見た。
そして、鏡の中のセレナを見た。
気づいたのは、五日前だった。
別に劇的な瞬間があったわけではない。朝の支度中、セレナの手が一度だけ止まった。ほんの一瞬、髪を梳く動きが途切れた。それだけだった。
普通の主人なら見逃す。アデライドも、見逃すつもりだった。
でもその夜、執務室で書類を読んでいたとき、ふとセレナの顔を思い出した。
七年間、アデライドはセレナの顔を見てきた。確か、地方貴族の三女。気立てはよく、仕事ぶりは可もなく不可もなく。
怒ったとき、疲れたとき、嬉しいとき。侍女というのは表情を隠す訓練を受けるが、それでも七年も側にいれば、隠しきれないものが見えてくる。
五日前のセレナの目は——怯えていた。
それも、怒られることへの怯えや、失敗への怯えではない。もっと根の深い、追い詰められた者の目だった。
アデライドは書類を置いて、しばらく天井を見た。
翌朝、アデライドはさりげなくセレナの仕事の配置を確認した。
王妃付きの侍女の仕事は細かく決められている。朝の支度、食事の給仕、書状の整理、来客時の案内、就寝前の片付け——それぞれ担当と手順がある。
セレナは「茶会の準備全般」を任されていた。
会場の設営確認、花の手配、テーブルの配置、クロスの管理。
テーブルクロスの管理。
アデライドは、その項目で少しだけ目を止めた。
それだけで、何かを決めつけるには早すぎる。でも、アデライドは長年宮廷で生きてきた。宮廷とは、疑うことを覚えなければ生き残れない場所だ。愛した人間を疑うことも、その例外ではない。
アデライドは何も言わなかった。
ただ、一つだけ動いた。
呼んだのは、宮廷顧問のヴァルター老人だった。
八十を超えた老顧問は、アデライドが王妃として宮廷に入った日から仕えている。物覚えが悪くなり、足が遅くなり、補聴器を使うようになったが、それでも頭の回転だけは現役の頃と変わらない。何より、口が堅かった。
「ヴァルター」
「はい、殿下」
「今度の茶会のことですが」
「はい」
「少し、念のための準備をしておきたい」
アデライドは短く、要点だけを告げた。ヴァルターは静かに聞き、静かに頷いた。余計な問いを立てなかった。こういうとき、老顧問の無駄のなさが有難かった。
「承知いたしました」とヴァルターは言った。「ただ一点だけ、よろしいでしょうか」
「何ですか」
「殿下は、何かをご存知の上で、それでも茶会を予定通り開催されるおつもりですか」
アデライドは少しの間、老顧問を見た。
「そうです」
「……理由をお聞きしても」
「網を張るのに、魚に知らせる必要はない」
ヴァルターは頭を下げた。「御意」と言い、退室した。
茶会を中止する選択肢は、最初からなかった。
理由は二つある。
一つは、単純に証拠がないからだ。セレナの目が怯えていた、テーブルクロスの管理を担当している——それだけでは何も言えない。疑いを行動に移すには、根拠が必要だ。
もう一つの理由は——これがアデライドにとって本質だったが——茶会を中止すれば、何も分からないからだ。
セレナが誰かに動かされているとすれば、その「誰か」が何を望んでいるのかを知りたかった。軍なのか、外国勢力なのか、あるいは宮廷の内側の誰かなのか。魚を逃がせば、釣り糸の先が分からない。
アデライドは茶会を「舞台」として使うことにした。
役者は全員、そこに揃っている。
茶会の三日前、もう一つの懸念が持ち上がった。
「爆発の錬金術師」の話は、宮廷中に広まっていた。王子の難病を治したことで宮廷錬金術師に抜擢された若い女性が、しかし制御不能な爆発を繰り返す危険人物であるという評判が、文官の間で急速に膨らんでいた。
茶会の演出として彼女に触媒の生成を依頼したのは、アデライドの判断だった。
側近の文官たちは猛反対した。「爆発させる気ですか」「会場が吹き飛びます」「賓客に何かあれば——」。アデライドは全員の反対意見を最後まで聞いてから「分かりました」と答え、それでも予定を変えなかった。
理由を問われれば、アデライドはこう答えた。「彼女の錬金術を、自分の目で見たい」
それは本当のことだった。ただし全部ではなかった。
エリカ・フォン・ノイマンについて、アデライドが知っていることは多くなかった。
王子の難病を治した薬を生成したこと。学校では三年連続で試験に落ちていたこと。爆発が起きるたびに煤けた顔で「すみません」と言う癖があること。指導役のリオンという青年が、彼女を静かに庇い続けていること。
そして——軍が彼女の技術に強い関心を持っていること。
アデライドは、その最後の一点を重く見ていた。
軍が欲しがるものには、必ず理由がある。軍は実用的な組織だ。役に立たないものに関心を持たない。彼女の「爆発」が兵器になると判断したのか、あるいは別の何かが目当てなのか。
いずれにせよ、軍が動いているのなら、アデライドも動く必要があった。
茶会は、その「場」として機能する。
前日の夜、アデライドは一人で執務室にいた。
書類仕事は既に終えていた。ただ、眠れなかった。
蝋燭の火を見つめながら、アデライドは様々なことを考えた。
セレナのことを考えた。七年間、よく仕えてくれた侍女だった。怠けたことがなく、気が利き、体調の悪い日に率先して動いてくれた。あの目の奥の怯えが何に由来するのか——誰かに脅されているのか、弱みを握られているのか。
もしそうなら、セレナは被害者だ。命じた側に責任がある。
でも同時に、アデライドは自分が明日、何かに晒される可能性があることも知っていた。茶会を舞台にする、ということは、自分が釣り餌になる、ということだ。
怖くないか、と問われれば——怖くないとは言えない。
でも宮廷で四十年近く生きてきたアデライドには、分かっていることがある。恐れたまま前へ進むことと、恐れを感じないことは、全く別のことだ。
蝋燭の火が、風もないのにわずかに揺れた。
アデライドはそれを見てから、目を閉じた。
茶会当日の朝。
セレナが髪を梳いていた。
鏡の中で、アデライドはセレナの顔を見た。昨日より顔色が悪かった。目の下に隈がある。眠れなかったのだろう。
「今日は少し顔色が悪いわね」とアデライドは言った。
「……申し訳ございません。少し眠れませんでした」
「茶会の準備で気を張っているのかしら」
セレナが「恐れ入ります」と頭を下げた。
アデライドは鏡の中のセレナから視線を外した。
これが最後の言葉交わしになるかもしれない、と思った。
それでも——セレナが謝れるうちに謝れるよう、セレナが誰かの名を言えるようになるまで、生きていなければならない。
アデライドは背筋を伸ばした。
会場に入ったとき、アデライドは最初に花の配置を確認した。
白い花が、あちこちに飾られている。花台の数が、いつもより多かった。
アデライドは何も言わなかった。
席に着いた。背筋を伸ばし、参列者を見渡し、穏やかに微笑んだ。
隅の調合台を一度だけ見た。金髪の若い錬金術師が、硬直した顔で素材の瓶を並べていた。隣に立つリオンという青年が、「右の瓶を」と小声で何か言っている。
アデライドは、その二人を一度見てから、視線を戻した。
さて、と思った。
今日、何が起きるのかは分からない。
でも——あの娘の錬金術が、どんな結果をもたらすのかは、少し楽しみだった。
純粋に、楽しみだった。
王妃として四十年、楽しみというものを感じる機会が、アデライドには少なかった。義務と責任と政治の間で、純粋な好奇心を持てる時間は限られていた。
あの娘が生成した薬が、長年誰も解けなかった王子の難病を治した。
その事実だけで、アデライドには十分だった。失敗から何かが生まれる——そういうものを、自分の目で見たかった。




