憧れの宮廷生活は、針のむしろ?
極小で、無数。燃えているわけではない。熱を帯びているわけでもない。だが、それは火種だった。
きらきらと光る無垢な刺客は、鼻腔の奥へ音もなく侵入する。
それは平穏を保っていた生体組織の防壁を静かにすり抜け、神経の末端へ、微弱ながらも決定的な「点火」をもたらした。
一瞬の静寂。
肺胞に蓄えられた大気は、急激な圧縮を経て臨界点へと達する。
横隔膜の震えは導火線を走る火花となり、逃げ場を失ったエネルギーが、物理的な必然として肉体の外へ解き放たれた。
「くしゅん!」
静寂が、砕けた。
調合台の端に積んでいた素材の瓶が二本、ドミノのように倒れていく。エリカは「あっ」と声を上げ、両手で押さえようとしたが一本遅く、瓶は棚の角に当たって石床に落ちた。割れる音が、朝の研究室に鋭く響く。
床に広がる液体。砕けたガラスの欠片。触媒の素材だ。
エリカは割れた瓶を見つめたまま、固まった。
「……エリカさん」
声は、穏やかだった。
足音が近づいてくる。エリカが恐る恐る顔を上げると、リオンが隣に立っていた。叱るでもなく、呆れた顔を作るでもなく、ただ静かに床の破片を見下ろしている。
「怪我はないですか?」
「な、ないです……」
「ならよかった」
それだけだった。リオンは棚から布巾を二枚取り出し、一枚をエリカに差し出した。
「一緒に片付けましょう」
「で、でも、わたしがやります……! リオンさんまで——」
「二人でやれば半分の時間で済みます」
有無を言わさぬ論理だった。エリカは布巾を受け取り、小さく「……すみません」と頭を下げた。
二人並んで膝をつき、黙々と破片を拾い始める。しばらくして、リオンが静かに口を開いた。
「くしゃみをするとき、調合台から離れてください」
「は、はい……」
「咄嗟には難しいと思います。ですから、鼻がむずむずし始めた時点で離れる。それだけでいい」
命令ではなかった。提案だった。エリカはその言い方に少し驚いて、リオンの横顔を見た。
「……リオンさんって、怒らないんですね」
「怒っても瓶は元に戻りません」
「そ、そうですけど……」
「それに」とリオンは続けた。破片をまとめながら、ごく自然に。「あなたが一番、残念に思っているでしょう」
エリカは、返事ができなかった。
その通りだったから。壊すつもりなんてなかった。くしゃみが来るとは思っていなかった。いつだってそうだ——エリカが「やってしまう」瞬間は、エリカ自身が一番驚いている。
目の端が、少し熱くなった。泣くほどのことでもないと思いながら、それでも鼻の奥がつんとした。
「……わたし、また」
「また、ですね」とリオンが言った。否定も肯定もない、ただ事実を確認する声。「でも今日は、爆発しませんでした」
「瓶が割れました」
「爆発ではありません」
その言い分に、エリカは思わず小さく笑ってしまった。笑いながら目の端を拭った。変なの、と自分で思った。
布巾の中に破片が集まる。二人分の手があると、確かに早かった。
これがエリカ・フォン・ノイマンの、宮廷錬金術師としての朝だった。
夢にまで見た宮廷の研究室だった。
高い天井からシャンデリアが下がり、その光を受けて磨き上げられた石床が鏡のように輝く。壁一面に並ぶ棚には色とりどりの触媒素材が整然と収められ、中央には職人が一本一本吹いたガラス製の蒸留器や精密フラスコが、まるで美術品のように並んでいる。
こんな場所が、自分に与えられた。
エリカ・フォン・ノイマンは入り口に立ったまま、両目をきらきらと輝かせてその光景を見渡した。
「す、すごいです……! 本物の宮廷錬金術師の研究室です……!」
感動で声が微かに震える。胸に手を当ててみると、心臓がどきどきと忙しなく跳ねていた。三年間、王立錬金術学校の試験に落ち続けた自分が——あの「爆発のエリカ」が——こうして宮廷に足を踏み入れているのが、未だに夢のようだった。
隣に立つリオンが、静かな目でそんなエリカを見下ろしていた。
「……感動するのは構いませんが、足元にお気をつけください。段差があります」
「は、はい! 気をつけます!」
元気よく返事をしてから一歩踏み出した瞬間、エリカは入り口の石段につま先を引っかけ、上半身が前のめりに崩れた。
リオンの手が素早く伸びて、エリカの腕を掴む。
「……今すぐ」
「す、すみません……!」
謝罪が口をついて出るのはもはや反射だった。エリカは赤くなった顔を上げ、助けてくれたリオンに頭を下げる。リオンは特に表情を変えることなく「慣れてください、早急に」とだけ言って手を離した。冷たい言い方ではあるが、それが彼の優しさだとエリカはもう知っている。
研究室の「専属指導役」としてリオンがエリカに付いたのは、エリカが王子の難病を治した翌日のことだった。
正確には「指導役」というより「監視役兼フォロー役兼損害賠償交渉役」に近かったが、リオン本人は何も言わなかった。
宮廷内では、エリカを巡って静かな綱引きが続いていた。
軍部の人間は、廊下に立ったり窓から見えたりする形で、研究室を遠巻きに観察していた。彼らの目的はエリカには分からなかったが、リオンはたまにそちらへ視線を向け、何かを考えるように目を細めていた。文官たちはといえば、エリカが廊下を歩くたびに「くれぐれも爆発しないように」と口を酸っぱくして告げてくる。言われるたびにエリカは「は、はい! します——じゃなくて、しません!」と噛みながら答えた。
そんな環境の中、エリカへの最初の任務が下りてきたのは、着任から三日目のことだった。
「王妃殿下主催の『高貴な癒やしの茶会』にて、芳香の触媒を生成し、披露すること」
リオンが手元の羊皮紙を読み上げると、エリカは目をぱちぱちさせた。
「……お茶会、ですか」
「そうです。場の空気を和らげる芳香成分を含む霧状の触媒——通称『微風香霧』です。穏やかな香りと微細な浄化作用を持ち、高位貴族の集まりでは演出として使われることがある。難易度は……錬金術師の格付けで言えば中級上位、といったところでしょうか」
「中級上位!」
エリカの声が裏返った。三年間試験に落ち続けていた自分には、まだ遠い域だ。
「大丈夫です」とリオンは言った。「あなたは王子殿下の難病に対応した薬を単独で生成しました。基礎的な素材の配合ができれば問題ありません。ただし——」
そこで彼は一度言葉を切り、エリカを真正面から見た。
「絶対に、爆発させないでください」
声は静かだった。しかしその目に込められた意思の強さが、エリカをすくませた。
「は……はい……!」
「もう一度」
「ぜ、絶対に、爆発させません……!」
「宜しい。では今日から特訓を始めます」
特訓は、即日から始まった。
そして即日から、エリカは高価なフラスコを割り始めた。
「す、すみません……!」
一本目は、素材棚の引き出しを引っ張ったら勢いあまって棚ごと揺れ、上に置いてあったフラスコが転がり落ちた。
「……十二万ルーナです」とリオンが淡々と言った。「宮廷の備品として処理します。ただし二本目からは——」
ガシャン。
エリカが「あ」と声を上げた瞬間には、もう二本目が床に落ちていた。引き出しを戻そうとした際にぶつけた肘が、隣の棚のフラスコを巻き添えにしたのだ。
リオンは目を閉じた。数秒、深呼吸をした。
「……二本目も処理します」
「ほ、本当に申し訳ございません……!」
三本目は翌朝だった。蒸留器の管をつなごうとして、ゴム管を引っ張りすぎてフラスコが飛んだ。
四本目はその十分後。転んだ拍子にぶつかった。
五本目は午後。くしゃみのタイミングが最悪だった。
一日の終わりに、リオンは書類の端に静かに何かを書いた。エリカがそっと覗くと「本日の損害:フラスコ五本、備品三点、石床一枚(角が欠けた)」と記録されていた。その下に薄く「胃痛:継続中」と書き添えられているのを、エリカは見なかったことにした。
三日目の午後、エリカは棚の整理を言いつかった。
微風香霧の生成に使う素材を種類別に並べ直す作業で、難しいことは何もない。エリカは丁寧に、慎重に——今日こそ何も壊さないぞと心に決めて作業を進めていた。
棚の奥の方に手を伸ばしたとき、指先が何かに触れた。
「あれ……?」
引っ張り出してみると、それは小指の先ほどの造花の飾りだった。花の形をした薄い金属細工に、青いガラスのビーズがいくつかついている。落とし物だろうか。埃を被っているところを見ると、だいぶ前からそこにあったようだ。
「宮廷って、細かい飾りが多いんですね」
エリカはそれをつまんで、棚の隅の空いたスペースにそっと置いた。捨てるのも何となく気が引けたし、持ち主が探しているかもしれない。
リオンが向こうで書類を確認しながら「何かありましたか」と声をかけてきた。
「いえ、造花の飾りが落ちていただけです。棚に戻しておきました」
「……そうですか」
それだけで会話は終わった。リオンが廊下に目をやり、窓の向こうに見える軍服姿の人物へ一瞬だけ視線を向けたことに、エリカは気づかなかった。
特訓は五日間続いた。
その間、エリカは調合の基礎を繰り返した。素材を量って混ぜる。火加減を調整する。攪拌のタイミングを覚える。普通の錬金術師なら当然できることを、エリカは「普通に」やろうと必死になった。
できないわけではなかった。ただ、何かが起きる。
窓から蝶が一匹入ってきてエリカの鼻先でふわりと舞うと、くしゃみが出た。くしゃみで手元が狂い、素材の量が変わった。結果、釜から紫色の煙が上がった(幸い爆発はしなかったが、煙が三日取れなかった)。
廊下の近衛騎士が急に敬礼の練習を始め、その音に驚いたエリカが飛び上がり、手に持っていた触媒瓶を天井に向けて放り投げた(瓶は奇跡的に割れず、リオンが片手でキャッチした)。
リオンがため息をつく回数が、着実に増えていった。しかし彼は一度も「もうやめろ」とは言わなかった。ため息の後に必ず「もう一度やりましょう」と言った。
エリカはその度に「は、はい!」と答えた。
五日目の夕方、微風香霧の試作がついて完成した。
正確には、リオンが「今回の出来であれば合格点です」と判定した。釜の中には薄い白色の霧が漂い、ほのかに花の香りがした。普通の微風香霧だった。エリカが普通に作れば、普通のものができる——ということが証明された瞬間だった。
「で、できました……!」
「できました。ただし」とリオンはすぐに付け加えた。「茶会本番は、今より参列者の人数が多く、雑音も多く、緊張も高まります。普通の環境で普通にできても、本番で普通にできるとは限らない」
「……つまり?」
「まだ油断しないでください、ということです」
「は、はい……」
エリカはうなずきながら、脳裏に茶会の光景を思い浮かべた。華やかなドレスを着た貴族たち。王妃様。整然と並ぶ茶器。そこで自分が——爆発の代名詞のような自分が——触媒を生成する。
胃がきゅっとなった。
「リオンさん」
「何ですか」
「……爆発、絶対にしません」
リオンはしばらくエリカを見てから、静かに言った。
「あなたが普通にやれば、普通にできます。それで十分です」
慰めなのか、事実の確認なのか、エリカには判断がつかなかった。でも、それがリオンなりの励ましだということは分かった。
茶会当日の朝、エリカは鏡の前に立って、宮廷から支給された正装に袖を通した。
レースの縁取りのある白いブラウスに、深緑のベスト。腰には道具袋。いつもより少し綺麗な服だが、道具袋だけはどうしても外せなかった。錬金術師はいつでも道具を持ち歩くものだ——そう思っていたら、リオンに「本番中は道具袋を調合台に置いてください」と言われた。
「な、なんで……!」
「あなたが袋を持ったまま動き回ると、確率が上がります」
何の確率か、エリカには分かった。
鏡の中の自分は、それでも少しだけ錬金術師らしく見えた。金髪が今日はちゃんと整っている。煤もついていない。
まだ、ついていない。
「行きましょう、エリカさん」
リオンの声に、エリカは頷いた。
「——はい!」
そして深呼吸を一つして、研究室を出た。
廊下を歩く途中、壁沿いに立つ軍服姿の男たちが、さりげなく——しかしどう見てもさりげなくない視線でエリカを見送っているのに気づいた。リオンがその方向を一瞬だけ見て、すぐ前を向いた。
今日も監視されている。
でも今は、そんなことより、茶会のことを考えなければ。
絶対に爆発させない。絶対に。
エリカは心の中でそう繰り返しながら、歩を進めた。




