廃棄実験室送り
王立錬金術学校の敷地の最奥、誰も近づかない場所に、その建物はあった。
「ここが……廃棄実験室……」
エリカは呟いた。
目の前にそびえるのは、古ぼけた石造りの建物。窓ガラスは半分以上割れており、壁には無数のひび割れと、焦げ跡が刻まれている。まるで、何度も爆発に耐えてきたかのような佇まいだ。
「かつて、危険な実験を行うための施設でした」
リオンが説明する。
「二十年前の大爆発事故以来、使用禁止になっていましたが……今回、特別に使用許可が下りました」
「大爆発事故って……」
「死者は出ませんでしたが、建物の半分が吹き飛びました。以来、『呪われた実験室』と呼ばれています」
二十年前、この実験室では「賢者の核」と呼ばれる人工触媒の生成が極秘に進められていた。
あらゆる属性を中和し、理論上はどんな物質変換も可能にする夢の触媒。
しかし完成間近、核は自律的に周囲の魔素を吸収し始め、術式が制御を失い、暴走した錬成陣は床と壁を溶かし、空間そのものを歪め、爆ぜた。
教師と研究生は咄嗟に緊急封印を重ね、被害を最小限に抑えたと、報告書には記されている。
「ちょ、ちょっと待ってください! そんな危ない場所で実験するんですか!?」
「安全な場所で、あなたが実験できると思いますか?」
リオンの問いに、エリカは言葉を失った。
確かに、普通の実習室では無理だ。
これまで彼女が破壊してきた実験器具の総額は、貴族の年収に匹敵する。
もっとも、この学園にとって問題は金額そのものではなかった。
大陸有数の資産を持つ名門校にとって、器具の買い替えなど痛手ですらない。
恐れているのは、ただ一つ。
「完璧な教育管理を誇る名門」という評判に、傷がつくことだった。
彼女が実習に入るたび、器具が壊れ、建物を修繕しなければならない。理由は「初期不良」や「設備更新」として処理される。居合わせた生徒は別室へ移され、教員は口を閉ざす。そうして、その日の出来事は何事もなかったかのように消されていく。
学園は、彼女の失敗を金で覆い隠し続けてきた。
だが――
いかに資産が潤沢でも、いかに名門でも、
いつまでも「何も起きていないふり」を続けられるわけではない。
これ以上、学校の予算と評判を圧迫するわけにはいかなかった。
「それに、ここなら思う存分爆発できます」
「できなくていいです!」
エリカの叫びに、リオンは苦笑した。
「冗談です。さあ、中を見ましょう」
重い扉を開くと、埃っぽい空気が流れ出た。中は予想以上に広い。天井は高く、実験台が十基ほど並んでいる。全てが古びて、錆びついているが、まだ使える。
「うわ……」
奥の壁には、巨大な焦げ跡があった。人の背丈ほどもある黒い痕跡。二十年前の事故の名残だろう。
「リオン先輩、本当にここは大丈夫なんですか……?」
「大丈夫です。それより、こちらを」
リオンは大きな木箱を運び込んだ。中には、ぎっしりと実験器具が詰まっている。
「学校から借用した器材です。全て破損前提の、安価なものばかりですが」
「破損前提って……」
「現実的に考えましょう、エリカさん」
リオンは真顔で言った。
「あなたの爆発を止めることは、おそらく不可能です。ならば、爆発を前提として研究する。それが合理的判断です」
エリカはがっくりと肩を落とした。
自分でも分かっている。ドジは治らない。幼い頃からずっとそうだった。普通に歩いていても転ぶ。お茶を注げば溢れる。本を読めば、なぜか違うページを開いている。
「でも、リオン先輩は……私の爆発に価値があるって……」
「ええ、今でもそう思っています」
リオンは実験台に、昨日の結晶を置いた。精製治癒結晶。エリカの失敗が生み出した、奇跡の産物。
「これを見てください。純度九十八パーセント。市場に流通している最高級品でも、八十パーセント程度です」
「でも、それって偶然……」
「偶然を二度再現できれば、それは必然になります」
リオンは新しいフラスコを取り出した。
「今日の実験は簡単です。昨日と同じことをしてください」
「同じこと……」
「はい。基礎治癒薬の調合です」
リオンは材料を並べた。月光草、聖水、火精石の粉末。昨日と全く同じ材料だ。
「ただし、今回は一つ条件があります」
「条件?」
「私が全てを記録します」
リオンはノートを開いた。几帳面な文字で、既に昨日の状況が詳細に書き込まれている。
『第一回観察記録:基礎治癒薬実習における異常現象』 『時刻:午後二時三十七分』 『気温:摂氏十八度』 『材料:月光草(三枚)、聖水(量不明)、火精石粉末(量不明)』 『結果:爆発後、精製治癒結晶を確認』
「量不明……って、私が適当にやったからですね……」
「責めているわけではありません。ただ、今回は全てを測定します」
リオンは懐中時計、天秤、メジャー、温度計など、様々な計測器具を並べた。
「あなたが何をするのか。どの順番で、どれくらいの量を、どのように扱うのか。全てを記録します」
「そんなの恥ずかしい……」
「科学に恥ずかしさは不要です」
リオンはペンを構えた。
「では、始めてください」
エリカは深呼吸した。
昨日と同じように? でも、昨日何をしたか覚えていない。いや、覚えていないことが問題なのだ。
「えっと……まず、月光草を……」
手に取る。三枚の薬草。教本によれば、時計回りに配置するらしい。
「時計回りって、どっちだっけ……」
「右回りです」
「あ、そうでした」
エリカは月光草を置いた——が、気づくと反時計回りになっていた。
「あれ?」
「記録:月光草を反時計回りに配置」
リオンが冷静に書き込む。
「ち、違います! 今やり直しますから!」
「いえ、そのまま続けてください」
「え!?」
「昨日も、おそらく間違えたはずです。間違えることが、あなたの自然な行動です」
「自然って……」
エリカは泣きそうになった。間違えることが自然って、それはつまり、自分が根本的にダメだと言われているようなものだ。
「次、聖水を五十ミリリットル」
「はい……」
エリカはビーカーを手に取った。目盛りを確認しながら、慎重に注ぐ。五十……六十……あれ?
「あ」
溢れた。
「記録:聖水、約七十ミリリットル。うち二十ミリリットルが実験台に流出」
「す、すみません!」
「謝らなくていいです。続けてください」
リオンの声は穏やかだが、ペンを走らせる手は止まらない。
エリカは涙目で次の工程へ進んだ。魔力を込めながら攪拌。七回……のはずが、途中で数を忘れる。
「えっと、今何回目?」
「十二回攪拌しています」
「多い!」
「記録:攪拌十二回。教本規定の一・七倍」
そして最後、火精石の粉末。一つまみ……のはずが、手が滑って大量に入った。
「あああああ!」
その瞬間、実験室の空気は密度を変えた。
硝子の吐息
フラスコの喉元から溢れ出したのは、この世で最も不純な「白」だった。
それは意志を持つ生き物のように、滑らかな曲線を描いて重力に逆らい始める。
「来ます! 伏せてください、エリカさん!」
リオンの声が空間を切り裂く。
直後、衝撃は音よりも先に色彩として現れた。
ドォンッ!
破裂したフラスコは、一瞬にして数千の銀の鱗へと姿を変える。
飛び散る破片は光を乱反射させ、実験室の薄暗い天井に短い星座を刻みつけた。
爆音の余韻を置き去りにして、膨張した白煙がゆったりと、あまりにも優雅に空間を侵食していく。
それはまるで、真冬の湖面から立ち昇る朝霧のようでもあり、あるいは天から舞い降りた巨大な真綿の怪物のようでもあった。
やがて沈黙が戻る。
「はぁ……はぁ……すみません、リオン先輩……」
「謝らないでください。予想通りです」
リオンは立ち上がり、実験台を確認した。フラスコの破片が散らばり、薬草は黒焦げ。ボロボロの実験室は、意外なほど姿を変えていなかった。
そして——
「ありました」
実験台の中央。昨日と同じように、小さな結晶が残っていた。
「また……できてる……」
エリカは信じられない思いで見つめた。
淡い青色に輝く結晶。間違いなく、精製治癒結晶だ。しかも、昨日のものと酷似している。
「純度を測定します」
リオンは結晶を専用の器具にセットした。錬金術における純度測定は、魔力の反応速度で判定する。数値が高いほど、高純度だ。
器具が淡く光る。そして——
「九十七パーセント」
リオンの声が震えた。
「昨日が九十八パーセント。今日が九十七パーセント。誤差範囲内です」
「つまり……」
「再現されました」
リオンはエリカを見た。その目には、興奮が宿っている。
「エリカさん、あなたの爆発は、偶然ではありません。何らかの法則性がある」
「法則……?」
「ええ。まだ理由は分かりません。でも、確実に言えることがあります」
リオンはノートに書き込んだ。
『結論:被験者エリカの『失敗』は、一定の条件下で高純度結晶を生成する』
「これは……錬金術史上、前例のない現象です」
その時、実験室の扉が開いた。
「失礼するぞ」
入ってきたのは、初老の男性だった。白髪に白髭、深い皺が刻まれた顔。しかし、その目は鋭い。
「学院長!?」
リオンが驚愕の声を上げた。
王立錬金術学校学院長、アルバート・フォン・ベルンシュタイン。かつて宮廷首席錬金術師を務めた、この国最高の錬金術師だ。
「リオン君、君の研究申請書を読ませてもらった」
「は、はい……」
「『被験者エリカの失敗に関する体系的研究』だったか」
学院長は実験台に近づいた。そして、結晶を手に取る。
「ほう……」
長い沈黙。
エリカは緊張で心臓が破裂しそうだった。学院長自らの視察。これは、つまり……
「面白い」
学院長が呟いた。
「三百年間、誰も疑問に思わなかった。なぜ教本の手順が正しいのか。なぜその順番なのか。我々は、ただ暗記していただけだ」
「学院長……」
「だが、この娘は違う」
学院長はエリカを見た。
「手順を守れない。だから、未知の領域に踏み込んだ」
「あの……それって、褒められてるんでしょうか……」
エリカの問いに、学院長は笑った。
「褒めているとも。無知こそが、時として最大の武器になる」
「む、無知って……」
「リオン君」
学院長は真剣な表情になった。
「君の研究を、正式に承認する。予算も付けよう」
「本当ですか!?」
「ただし、条件がある」
学院長は窓の外を見た。遠くに、学校の本館が見える。
「この研究は、極秘だ。他の教官にも、生徒にも知らせるな」
「なぜですか?」
「錬金術は伝統の学問だ。三百年の歴史がある」
学院長は苦い表情を浮かべた。
「その伝統を、一人の少女の『失敗』が覆すとなれば……保守派は黙っていない」
「つまり……」
「政治だよ、リオン君。科学と政治は、常に表裏一体だ」
リオンは黙って頷いた。
「分かりました。秘密裏に進めます」
「うむ。期待しているぞ」
学院長は去り際、エリカに声をかけた。
「エリカ君。君は不合格だ」
「え……」
「実技試験は、これからも全て不合格にする」
エリカの顔が青ざめた。やはり、自分は見捨てられる。価値がない。そう思った瞬間——
「だが、研究員としては優秀だ」
「え?」
「リオン君の助手として、正式に雇用する。給与も出そう」
エリカは耳を疑った。
「きゅ、給与!?」
「月に銀貨三十枚だ。研究が進めば、増額も検討する」
「さんじゅう……」
銀貨三十枚。それは、一般家庭の月収に匹敵する金額だ。
「ありがとうございます!」
エリカは深々と頭を下げた。
学院長は満足げに頷き、扉へと向かった。だが、去り際にこう付け加えた。
「ただし、爆発には気をつけろ。この建物は既にボロボロだ。あまり派手にやると、本当に崩壊するぞ」
扉が閉まる。
静寂が戻った実験室で、エリカとリオンは顔を見合わせた。
「リオン先輩……私、研究員になっちゃいました……」
「ええ。おめでとうございます」
「でも、私……何も分からないのに……」
「大丈夫です」
リオンは微笑んだ。
「分からないことを、一緒に解明していきましょう。それが研究です」
エリカは頷いた。
廃棄実験室。呪われた場所。誰も近づかない、隔離された空間。
だが、ここが——
「さて、では本格的に始めましょうか」
リオンがノートを開いた。
「明日からは、系統的な実験です。様々な薬を、様々な方法で失敗してもらいます」
「失敗してもらいますって……」
「あなたの失敗は、誰かの成功の種なんです」
その言葉に、エリカは不思議な感覚を覚えた。
失敗が、価値を持つ。
ドジが、意味を持つ。
そんな世界が、本当にあるのだろうか。
「エリカさん、一つ聞いていいですか」
「はい?」
「あなたは、なぜ錬金術師になりたいんですか?」
エリカは少し考えた。そして、静かに答えた。
「母を……救えなかったから」
「お母さんを?」
「病気でした。誰も治せなかった。錬金術師でも、医者でも。だから私は、もっと良い薬を作りたいんです。誰も治せない病気を、治せる薬を」
リオンは黙って聞いていた。
「でも、私はドジで……薬を作ろうとすると、爆発して……」
「エリカさん」
リオンが遮った。
「もしかしたら、あなたの爆発が、その答えかもしれません」
「え?」
「誰も作れない薬。それは、誰も試さない方法からしか生まれない」
リオンは結晶を見つめた。
「教本通りでは、たどり着けない場所がある。あなたは、その場所に行ける」
エリカの目に、希望の光が灯った。
もしかしたら。
もしかしたら、自分のドジは——
「呪いじゃなくて、才能なのかもしれませんね」
リオンの言葉に、エリカは初めて、自分を肯定できた気がした。
廃棄実験室。
明日から、ここが彼女の戦場になる。
失敗の記録を刻む、実験の日々が始まる。
そして、エリカはまだ知らない。
自分の次の爆発が、錬金術界を震撼させる発見につながることを。




