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ドジっ娘錬金術師は失敗から最適解を導く 〜なぜか私の爆発だけが世界を進化させる〜  作者: same_freq
憧れの宮廷生活は、針のむしろ?

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13/13

釣り糸の先

 足から力が抜けた。

 膝が折れた。騎士が両脇を支えた。

 セレナは、床を見ていた。深紅の絨毯が、目の前にあった。

 騎士に何かを問われた。答えた。答えながら、頭の中は不思議なほど静かだった。名前。所属。素材の入手経路。機械的に答えた。

 「依頼者は」という問いが来たとき、セレナは一瞬だけ迷った。

 言えば、弟はどうなるのか。

 言わなければ、何かが変わるのか。

 どちらにしても、もう終わりだ、とセレナには分かっていた。弟を助けることも、王妃を守ることも、自分の手の届く場所にはない。

「……私に依頼したのは」

 声を出したとき、喉が詰まった。

 軍でも、使節団でもない。あの男の背後にいる「何か」の名前を、言おうとした。

 でも、言えなかった。

 言葉が、喉の奥で固まった。恐怖ではなかった——少なくとも、セレナにはそう思えた。ただ、言ったところで何が変わるのかが分からなくて、言葉が出なかった。

 口を閉じた。

 俯いた。


 騎士に連れられて退場するとき、セレナは一度だけ振り返った。

 会場はまだ騒然としていた。軍の士官たちが囲まれていた。金髪の錬金術師が調合台の前で何かを手に持って、首を傾げていた。

 王妃は、立っていた。

 優雅に、毅然と、何事もなかったかのように背筋を伸ばして。

 セレナは、その背中を最後に見た。

 七年間仕えた背中だった。

 髪を梳くとき、後ろから何度も見た背中だった。

 ——申し訳ございません、と、声には出さずに思った。

 声に出す資格が、もうセレナにはなかった。


 廊下に出ると、夕暮れ前の光が差し込んでいた。

 連行されながら、セレナはぼんやりと考えた。

 弟は、どうなるのだろう。

 自分が失敗したと分かれば、あの男は約束を反故にするだろうか。もともと約束を守るつもりがあったのかどうかも、セレナには分からない。信じたくて信じていただけで、本当のことは何も分からなかった。

 ただ一つだけ確かなことがある。

 王妃は、生きている。

 カース・ウィーヴは起動しなかった。金髪の錬金術師のくしゃみと転倒が、全てを暴いた。あの虹色の光が、茶会の場の嘘を照らし出した。

 王妃は、生きている。

 その事実が、セレナの胸の中で、罪悪感と安堵の両方として、同時に存在していた。

 どちらが大きいのかは、分からなかった。

 たぶん、これからも分からないまま過ごすことになるのだろうと、セレナは思った。


 廊下の角を曲がる直前、セレナは空を見た。

 窓の外、夕暮れの空に薄い雲が流れていた。

 月が出るにはまだ早い時刻だった。







 ——くしゃみの音が聞こえたとき、アデライドは内心で「来た」と思った。

 錬金術師が転んだ。花瓶が倒れた。

 爆発を覚悟した参列者たちが身をすくませる中、アデライドは背筋を伸ばしたまま動かなかった。騎士たちが王妃の方へ踏み出したが、アデライドは手の動きだけで制した。

 そして光が来た。

 金色と青の霧が、会場を包んだ。

 アデライドは、その光の中で、静かに息を吐いた。

 綺麗だ、と思った。

 爆発ではなかった。光だった。

 失敗が、光になった。


 天井に図面が現れたとき、アデライドはすぐに二箇所を見た。

 壁際の青白い点滅。

 そして——自分の席の真下、赤黒く蠢く光の塊。

 長い間、アデライドはその赤黒い光を見ていた。

 予想していた。していたが、実際に目で見ると、胸の奥に冷たいものが落ちた。

 そこに何かがある。自分を殺すための何かが。

 アデライドは視線を上げて、壁際のセレナを見た。

 セレナは、赤黒い光を見ていた。

 その目が、アデライドには分かった。

 恐れていた。でも同時に——安堵していた。

 見つかってしまった、という安堵だった。

 もう、止められない、という安堵だった。

 アデライドは、その目の意味を理解した瞬間、セレナへの怒りが——湧かなかった。

 ただ、静かな痛みが来た。


 テーブルが動かされ、カース・ウィーヴが発見された。

 侍女たちが騒めいた。騎士たちが動いた。照合が行われた。

 セレナが崩れ落ちた。

 アデライドはその様子を、真っ直ぐに背筋を伸ばしたまま見ていた。

 崩れ落ちるセレナを見て、立ち上がって助けに行きたかった。七年間仕えてくれた侍女だ。でも今は、それをする立場にない。

 アデライドは動かなかった。

 ただ、セレナが連行されていく前に、一度だけ目が合った。

 セレナの目には、涙があった。

 アデライドは、そのセレナの目を、真正面から受け止めた。

 何も言わなかった。何も言えなかった。

 でも、目を逸らさなかった。

 それだけが、アデライドに今できる唯一のことだった。


 金髪の錬金術師が、調合台の前に正座していた。

 震えながら「光が出すぎてみなさんを驚かせてしまいました」と呟いているのが、アデライドのいる位置からも聞こえた。

 アデライドは立ち上がり、その娘のところへ歩いた。

 混乱している会場を横切りながら、アデライドは思った。

 あなたのくしゃみが、今日、私の命を救った。

 あなたの転倒が、今日、場の嘘を全部照らした。

 失敗が光になると、信じてよかった。


 錬金術師の手を、両手で包んだ。

 小さな手だった。指先に細かい傷がある。実験を繰り返してきた手だ。

「あなたは光で、この場の全ての影を照らし出した」

 アデライドはその目を見て、言った。

「——錬金術とは、こういうものだったのかしら」

 錬金術師は「ち、違います」と言い始めた。くしゃみと転んだだけです、蝶が来ただけです、と。

 アデライドは「それでも」と静かに遮った。

「照らした事実は、変わらない」

 錬金術師が、黙った。

 その目に、涙が滲んだ。

 アデライドは、包んだ手を少しだけ強く握った。

 この娘は、自分がやったことの意味をまだ分かっていない。分かっていないまま、誰かの命を救い、誰かの陰謀を砕き、そして泣いている。

 それでいい、とアデライドは思った。

 意味など、後から分かればいい。今は、泣けばいい。


 茶会は、お茶が一口も飲まれないまま終わった。

 会場が静かになってから、アデライドは自分の席に戻り、誰もいなくなったテーブルの上の茶杯を一つ手に取った。

 中はもちろん空だった。

 アデライドはその茶杯を、ただ手の中で持っていた。

 今日、何かが動いた。軍の仕込みが露わになった。第三の勢力の影が現れた。そしてセレナが——

 セレナのことは、アデライドが自分で動く必要がある。彼女を利用した者の名前を、セレナから聞き出さなければならない。騎士の尋問に任せれば、セレナは法に則って処罰されるだけだ。でもアデライドが知りたいのは、その先だ。

 依頼した者が誰で、何を目的としているのか。

 茶会は「舞台」だった。魚は釣れた。でも釣り糸の先が、まだ見えない。

 アデライドは茶杯を、静かにテーブルに戻した。

 窓の外、夕暮れが近づいていた。


 その夜、アデライドは侍女棟の一室を訪ねた。

 一人で行った。護衛も連れなかった。廊下に騎士が一人立っていたが、アデライドは手で下がらせた。

 扉を開けると、セレナが小さな椅子に座っていた。まだ拘束はされていないが、部屋から出ることは許可されていない。顔を上げたセレナが、アデライドを見て固まった。

「……殿下」

「座っていなさい」

 セレナが立とうとしたのを制し、アデライドは向かいの椅子に座った。二人の間に、小さなテーブルがあった。

 しばらく、どちらも何も言わなかった。

「……なぜ」とセレナが、ようやく口を開いた。「なぜ、殿下が——」

「あなたに会いに来ました」とアデライドは言った。「名前を聞きに来たのではありません」

 セレナが目を伏せた。

「ただ、一つだけ教えてください」

「……」

「弟さんのことですか」

 セレナの顔が、崩れた。

 声を殺して、泣き始めた。肩が震え、両手で口を押さえて、でも嗚咽が漏れた。

 アデライドは何も言わなかった。

 セレナが泣き止むのを、静かに待った。


 しばらくして、セレナが「……はい」と答えた。

「弟は、どこですか」

「分かりません。場所を教えられなくて……」

「名前は」

「カイン・ヴォーンです。私の弟です」

 アデライドは、その名前を頭に刻んだ。

「依頼した男の顔は覚えていますか」

「……はい」

「話せますか」

 セレナは少しの間、俯いていた。それから、ゆっくりと顔を上げた。

「……殿下は、なぜ私に会いに来たのですか」

「あなたが弟のために動いたなら、あなたを責める前に、私がやることがある」

 セレナは、その言葉の意味を理解するまでに、少し時間がかかったようだった。

「……私は、殿下を殺そうとした」

「知っています」

「なのに——」

「セレナ」

 アデライドは、静かに遮った。

「あなたは今日、茶会の場でカース・ウィーヴが起動するより前に、私が死んでいたら楽だったと思いましたか」

 セレナが、息を飲んだ。

「……思いませんでした」

「そうですか」とアデライドは言った。「それで十分です」


 セレナが、ぽつりぽつりと話し始めた。

 男の顔。接触してきた場所。カース・ウィーヴを渡された状況。依頼の言葉。

 アデライドは全てを聞いた。

 「依頼した者の名前」の部分で、セレナは再び口が止まった。知らない、と言った。男は名前を名乗らなかった。でも、一度だけ、男が懐から出した書状に紋章が見えた——と。

「どんな紋章ですか」

「……白い薔薇に、二本の剣が交差した、紋章でした」

 アデライドは、表情を変えなかった。

 ただ、胸の奥で、何かが冷えた。

 白い薔薇に二本の剣。それは宮廷の中の、ある一人の人間が使う紋章だった。

 軍でも、外国でも、ない。

 宮廷の、内側。

「分かりました」とアデライドは言った。「よく話してくれました」

 立ち上がり、扉へ向かった。

「……殿下」

 呼ばれて、アデライドは振り返った。

「弟は……」

「探します」とアデライドは言った。「約束はできません。でも、探します」

 セレナが、深く頭を下げた。

 アデライドは、それ以上何も言わずに扉を閉めた。


 廊下に出ると、夜の空気が冷たかった。

 アデライドは少し立ち止まり、窓の外の夜空を見た。

 白い薔薇に二本の剣。

 その名前を、アデライドはまだ誰にも告げるつもりはなかった。証拠を積み上げ、逃げ道を塞ぎ、それから動く。四十年、宮廷で生きてきたやり方だ。

 今日、金髪の錬金術師のくしゃみが、糸口を作った。

 あとは、アデライドが引いていく。

 静かに、丁寧に、一本ずつ。

 釣り糸の先にいる者が、自分の名前を気づかないうちに、網の中に入るように。


 アデライドは歩き出した。

 廊下の蝋燭の火が、一つ一つ、彼女の影を後ろへ流した。


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