釣り糸の先
足から力が抜けた。
膝が折れた。騎士が両脇を支えた。
セレナは、床を見ていた。深紅の絨毯が、目の前にあった。
騎士に何かを問われた。答えた。答えながら、頭の中は不思議なほど静かだった。名前。所属。素材の入手経路。機械的に答えた。
「依頼者は」という問いが来たとき、セレナは一瞬だけ迷った。
言えば、弟はどうなるのか。
言わなければ、何かが変わるのか。
どちらにしても、もう終わりだ、とセレナには分かっていた。弟を助けることも、王妃を守ることも、自分の手の届く場所にはない。
「……私に依頼したのは」
声を出したとき、喉が詰まった。
軍でも、使節団でもない。あの男の背後にいる「何か」の名前を、言おうとした。
でも、言えなかった。
言葉が、喉の奥で固まった。恐怖ではなかった——少なくとも、セレナにはそう思えた。ただ、言ったところで何が変わるのかが分からなくて、言葉が出なかった。
口を閉じた。
俯いた。
騎士に連れられて退場するとき、セレナは一度だけ振り返った。
会場はまだ騒然としていた。軍の士官たちが囲まれていた。金髪の錬金術師が調合台の前で何かを手に持って、首を傾げていた。
王妃は、立っていた。
優雅に、毅然と、何事もなかったかのように背筋を伸ばして。
セレナは、その背中を最後に見た。
七年間仕えた背中だった。
髪を梳くとき、後ろから何度も見た背中だった。
——申し訳ございません、と、声には出さずに思った。
声に出す資格が、もうセレナにはなかった。
廊下に出ると、夕暮れ前の光が差し込んでいた。
連行されながら、セレナはぼんやりと考えた。
弟は、どうなるのだろう。
自分が失敗したと分かれば、あの男は約束を反故にするだろうか。もともと約束を守るつもりがあったのかどうかも、セレナには分からない。信じたくて信じていただけで、本当のことは何も分からなかった。
ただ一つだけ確かなことがある。
王妃は、生きている。
カース・ウィーヴは起動しなかった。金髪の錬金術師のくしゃみと転倒が、全てを暴いた。あの虹色の光が、茶会の場の嘘を照らし出した。
王妃は、生きている。
その事実が、セレナの胸の中で、罪悪感と安堵の両方として、同時に存在していた。
どちらが大きいのかは、分からなかった。
たぶん、これからも分からないまま過ごすことになるのだろうと、セレナは思った。
廊下の角を曲がる直前、セレナは空を見た。
窓の外、夕暮れの空に薄い雲が流れていた。
月が出るにはまだ早い時刻だった。
——くしゃみの音が聞こえたとき、アデライドは内心で「来た」と思った。
錬金術師が転んだ。花瓶が倒れた。
爆発を覚悟した参列者たちが身をすくませる中、アデライドは背筋を伸ばしたまま動かなかった。騎士たちが王妃の方へ踏み出したが、アデライドは手の動きだけで制した。
そして光が来た。
金色と青の霧が、会場を包んだ。
アデライドは、その光の中で、静かに息を吐いた。
綺麗だ、と思った。
爆発ではなかった。光だった。
失敗が、光になった。
天井に図面が現れたとき、アデライドはすぐに二箇所を見た。
壁際の青白い点滅。
そして——自分の席の真下、赤黒く蠢く光の塊。
長い間、アデライドはその赤黒い光を見ていた。
予想していた。していたが、実際に目で見ると、胸の奥に冷たいものが落ちた。
そこに何かがある。自分を殺すための何かが。
アデライドは視線を上げて、壁際のセレナを見た。
セレナは、赤黒い光を見ていた。
その目が、アデライドには分かった。
恐れていた。でも同時に——安堵していた。
見つかってしまった、という安堵だった。
もう、止められない、という安堵だった。
アデライドは、その目の意味を理解した瞬間、セレナへの怒りが——湧かなかった。
ただ、静かな痛みが来た。
テーブルが動かされ、カース・ウィーヴが発見された。
侍女たちが騒めいた。騎士たちが動いた。照合が行われた。
セレナが崩れ落ちた。
アデライドはその様子を、真っ直ぐに背筋を伸ばしたまま見ていた。
崩れ落ちるセレナを見て、立ち上がって助けに行きたかった。七年間仕えてくれた侍女だ。でも今は、それをする立場にない。
アデライドは動かなかった。
ただ、セレナが連行されていく前に、一度だけ目が合った。
セレナの目には、涙があった。
アデライドは、そのセレナの目を、真正面から受け止めた。
何も言わなかった。何も言えなかった。
でも、目を逸らさなかった。
それだけが、アデライドに今できる唯一のことだった。
金髪の錬金術師が、調合台の前に正座していた。
震えながら「光が出すぎてみなさんを驚かせてしまいました」と呟いているのが、アデライドのいる位置からも聞こえた。
アデライドは立ち上がり、その娘のところへ歩いた。
混乱している会場を横切りながら、アデライドは思った。
あなたのくしゃみが、今日、私の命を救った。
あなたの転倒が、今日、場の嘘を全部照らした。
失敗が光になると、信じてよかった。
錬金術師の手を、両手で包んだ。
小さな手だった。指先に細かい傷がある。実験を繰り返してきた手だ。
「あなたは光で、この場の全ての影を照らし出した」
アデライドはその目を見て、言った。
「——錬金術とは、こういうものだったのかしら」
錬金術師は「ち、違います」と言い始めた。くしゃみと転んだだけです、蝶が来ただけです、と。
アデライドは「それでも」と静かに遮った。
「照らした事実は、変わらない」
錬金術師が、黙った。
その目に、涙が滲んだ。
アデライドは、包んだ手を少しだけ強く握った。
この娘は、自分がやったことの意味をまだ分かっていない。分かっていないまま、誰かの命を救い、誰かの陰謀を砕き、そして泣いている。
それでいい、とアデライドは思った。
意味など、後から分かればいい。今は、泣けばいい。
茶会は、お茶が一口も飲まれないまま終わった。
会場が静かになってから、アデライドは自分の席に戻り、誰もいなくなったテーブルの上の茶杯を一つ手に取った。
中はもちろん空だった。
アデライドはその茶杯を、ただ手の中で持っていた。
今日、何かが動いた。軍の仕込みが露わになった。第三の勢力の影が現れた。そしてセレナが——
セレナのことは、アデライドが自分で動く必要がある。彼女を利用した者の名前を、セレナから聞き出さなければならない。騎士の尋問に任せれば、セレナは法に則って処罰されるだけだ。でもアデライドが知りたいのは、その先だ。
依頼した者が誰で、何を目的としているのか。
茶会は「舞台」だった。魚は釣れた。でも釣り糸の先が、まだ見えない。
アデライドは茶杯を、静かにテーブルに戻した。
窓の外、夕暮れが近づいていた。
その夜、アデライドは侍女棟の一室を訪ねた。
一人で行った。護衛も連れなかった。廊下に騎士が一人立っていたが、アデライドは手で下がらせた。
扉を開けると、セレナが小さな椅子に座っていた。まだ拘束はされていないが、部屋から出ることは許可されていない。顔を上げたセレナが、アデライドを見て固まった。
「……殿下」
「座っていなさい」
セレナが立とうとしたのを制し、アデライドは向かいの椅子に座った。二人の間に、小さなテーブルがあった。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
「……なぜ」とセレナが、ようやく口を開いた。「なぜ、殿下が——」
「あなたに会いに来ました」とアデライドは言った。「名前を聞きに来たのではありません」
セレナが目を伏せた。
「ただ、一つだけ教えてください」
「……」
「弟さんのことですか」
セレナの顔が、崩れた。
声を殺して、泣き始めた。肩が震え、両手で口を押さえて、でも嗚咽が漏れた。
アデライドは何も言わなかった。
セレナが泣き止むのを、静かに待った。
しばらくして、セレナが「……はい」と答えた。
「弟は、どこですか」
「分かりません。場所を教えられなくて……」
「名前は」
「カイン・ヴォーンです。私の弟です」
アデライドは、その名前を頭に刻んだ。
「依頼した男の顔は覚えていますか」
「……はい」
「話せますか」
セレナは少しの間、俯いていた。それから、ゆっくりと顔を上げた。
「……殿下は、なぜ私に会いに来たのですか」
「あなたが弟のために動いたなら、あなたを責める前に、私がやることがある」
セレナは、その言葉の意味を理解するまでに、少し時間がかかったようだった。
「……私は、殿下を殺そうとした」
「知っています」
「なのに——」
「セレナ」
アデライドは、静かに遮った。
「あなたは今日、茶会の場でカース・ウィーヴが起動するより前に、私が死んでいたら楽だったと思いましたか」
セレナが、息を飲んだ。
「……思いませんでした」
「そうですか」とアデライドは言った。「それで十分です」
セレナが、ぽつりぽつりと話し始めた。
男の顔。接触してきた場所。カース・ウィーヴを渡された状況。依頼の言葉。
アデライドは全てを聞いた。
「依頼した者の名前」の部分で、セレナは再び口が止まった。知らない、と言った。男は名前を名乗らなかった。でも、一度だけ、男が懐から出した書状に紋章が見えた——と。
「どんな紋章ですか」
「……白い薔薇に、二本の剣が交差した、紋章でした」
アデライドは、表情を変えなかった。
ただ、胸の奥で、何かが冷えた。
白い薔薇に二本の剣。それは宮廷の中の、ある一人の人間が使う紋章だった。
軍でも、外国でも、ない。
宮廷の、内側。
「分かりました」とアデライドは言った。「よく話してくれました」
立ち上がり、扉へ向かった。
「……殿下」
呼ばれて、アデライドは振り返った。
「弟は……」
「探します」とアデライドは言った。「約束はできません。でも、探します」
セレナが、深く頭を下げた。
アデライドは、それ以上何も言わずに扉を閉めた。
廊下に出ると、夜の空気が冷たかった。
アデライドは少し立ち止まり、窓の外の夜空を見た。
白い薔薇に二本の剣。
その名前を、アデライドはまだ誰にも告げるつもりはなかった。証拠を積み上げ、逃げ道を塞ぎ、それから動く。四十年、宮廷で生きてきたやり方だ。
今日、金髪の錬金術師のくしゃみが、糸口を作った。
あとは、アデライドが引いていく。
静かに、丁寧に、一本ずつ。
釣り糸の先にいる者が、自分の名前を気づかないうちに、網の中に入るように。
アデライドは歩き出した。
廊下の蝋燭の火が、一つ一つ、彼女の影を後ろへ流した。




