勘違いの天才、陰謀を照らす
近衛騎士の隊長は、一秒だけ迷った。
「今すぐ確認してください」——王妃の席の下を。それは、王妃殿下が現在着座している席の、真下を確認せよ、ということだ。つまりテーブルをどかすか、あるいはひっくり返すかしなければならない。王妃臨席の茶会の場で、そんなことをすれば大変な無礼になる。だが——
天井の光の図面に映し出されたあの赤黒い塊を、隊長も見ていた。
「——動け」
隊長は部下へ指示を飛ばし、自分も足を踏み出した。参列者の間をすり抜け、王妃の円卓へ向かう。その動きを見た貴族たちがざわめき始めたが、リオンの静かな視線がそのざわめきを制した。
王妃は動かなかった。
騎士たちが卓に近づき、「殿下、失礼いたします」と短く告げる。王妃はただ一度、小さく頷いた。
テーブルクロスが引き上げられ、卓がずらされた。
最初に気づいたのは、隊長の副官だった。
「……これは」
声が、低く落ちた。
テーブルの裏面——白いクロスの裏地に、何かが縫い込まれていた。細い糸で刺繍のように施された紋様が、布の内側にびっしりと走っている。ただの刺繍ではない。魔力紋だ。しかも、精緻に設計された、起動式を内包した術式紋だ。
それ自体はまだ、青白く光っていた。脈打つように、じわじわと。
リオンが卓に近づき、一瞥した。目が細くなる。
「カース・ウィーヴ」
その二語が、静かに会場に落ちた。
参列者たちが、一斉に息を飲む。
呪殺装置だ——と理解した者の顔から、みるみると血の気が引いていった。
しかし、混乱は、短かった。
近衛騎士たちの動きが速かった。隊長の指示一つで部下が散り、出入り口が封鎖される。侍女や従者たちが壁際に誘導され、参列者の貴族たちには「その場でお待ちください」と静かに、しかし有無を言わさぬ口調で告げられた。
そして魔力紋の照合が始まった。
術式紋には必ず、それを施した者の魔力の痕跡が残る。専門の紋官が持ち歩く照合板にカース・ウィーヴの紋様を写し取り、会場内の人間と順番に照らし合わせていく。
時間はかからなかった。
会場の隅、壁際に控えていた侍女たちの列。その中の一人——王妃付きの侍女のひとりが、照合板を向けられた瞬間、紋官が「一致」と短く言った。
侍女は、その言葉を聞いた瞬間に、崩れ落ちた。
膝から、ゆっくりと。まるで体の中の何かが抜けてしまったように。騎士二人が両脇を支えて立たせる。侍女の目は虚ろで、唇だけが微かに震えていた。
壁際のフローラル・アーカイブも、同時に回収された。
花台の根元、生け花の水に浸かった状態で発見された小型の金属細工——花型の装飾品を、騎士が手袋越しに取り出す。一つ、二つ、三つ。会場の三箇所から合計三個。
それを見た軍部の士官数名が、顔色を変えた。
それまで壁際に立って静かに観察していた彼らが、初めて動揺を見せた瞬間だった。数名が視線を交わし合い、一名が出口の方へ向かおうとしたところを、騎士に「お待ちください」と静止された。
リオンはその様子を横目で見て、何も言わなかった。
エリカは、調合台の前に正座していた。
正座、というのが正確かどうか分からないが、膝を折って台の前に縮こまっていた。両手を膝の上に揃えて、背中を丸めて、視線を落として。
会場がざわついているのは分かる。騎士たちが動いているのも分かる。何か大変なことが起きているのも、なんとなく分かる。
でも自分がやったのは、くしゃみをして、転んで、花瓶を倒して、釜に色々なものを落としただけだ。
「す、すみません……」
誰に言うでもなく、エリカは呟いた。
「光が出すぎてみなさんを驚かせてしまいました……」
お茶会の雰囲気を、完全に台無しにした。王妃殿下の茶会で、大きな音は立てなかったけれど、代わりに会場中に謎の光を充満させた。どちらがマシかと言えば、恐らく、どちらも良くなかった。
「せっかくのお茶会だったのに……台無しにしました……」
膝の上の手がきゅっと固まる。
涙が出そうになるのを、エリカは懸命にこらえた。泣いたって何も解決しない。でも、あんなに特訓して、あんなに「絶対に爆発させない」と誓ったのに、結局くしゃみ一つで全部崩れてしまった。
自分はやっぱり、どこまでいっても役立たずなのかもしれない。
気配がして、顔を上げた。
リオンが、目の前にしゃがんでいた。
立ったまま見下ろすのではなく、エリカの目線に合わせるようにして、膝を折って。その姿勢で、静かにエリカを見ていた。
エリカは、その目を見て、少し驚いた。
いつものリオンの目は、冷静で、何かを計算するように動いている。でも今の目は少し違った。何かを——大切に扱おうとするような、慎重さがあった。
「エリカさん」
「……はい」
「説明します。聞いていてください」
エリカは小さく頷いた。
「あなたが生成した霧は、フローラル・アーカイブが記録していた魔力情報を解放し、会場全体の魔力の流れを一瞬だけ可視化しました」
フローラル・アーカイブ、という言葉は初めて聞いた。でもリオンが続けるので、エリカは黙って聞いた。
「会場に仕込まれていた三つの装飾品——花型の金属細工が、それです。本来は音声を記録するスパイ道具ですが、あなたの錬金術が発生させた過負荷によって、記録していた魔力情報ごと解放された。その結果、会場全体の魔力の流れが、天井に投影された」
「……天井の、光の図面、ですか」
「そうです」
リオンは一息置いた。
「その図面の中に、二種類の異質な反応が映し出された。壁際の青白い点滅がフローラル・アーカイブの本体。そして——王妃殿下の席の真下、赤黒く蠢いていた光が、カース・ウィーヴ、つまり呪殺装置の魔力反応でした」
エリカは、目をぱちぱちさせた。
呪殺装置。王妃の席の下に。それが、あの赤黒い光だった。
「……あの、」
「はい」
「じゃあ、わたしが光を出したから、呪殺装置が見つかった、ということですか……?」
「そうです」
エリカは少し間を置いてから、もう一度瞬いた。
「……くしゃみをして、転んで、花瓶を倒したから……?」
「そうです」
「……蝶のせいで、くしゃみをしたから……?」
「結果的には」
エリカは、釜の方に視線をやった。釜の底では、まだ虹色の円盤がかすかに輝いている。
リオンが、静かに言った。
「つまり、あなたは光で、場の嘘を全部照らした」
その言葉が、ゆっくりとエリカの中に落ちていった。
場の嘘を、照らした。
エリカは、目をぱちぱちさせた。それ以外の反応が、すぐには出てこなかった。
「て、照らした……?」
「はい」
「わたし、くしゃみをしただけ……」
「結果が全てです」
「で、でも……」
エリカは言葉に詰まった。自分がやったことの「意味」と、自分がやったことの「実態」が、どうしても繋がらなかった。くしゃみをして転んだことが、呪殺装置の発見に繋がった。その二つの間に、どれほどの距離があるか。
でも、繋がっていることは、事実だった。
リオンが「結果が全てです」と言うなら、きっとそうなのだろう。リオンはこういうことで嘘をつかない。
エリカは視線を落として、小さく「……そう、なんですか」と呟いた。涙が出そうなのはまだ変わらなかったけれど、さっきとは少し、理由が変わっていた。
リオンが立ち上がり、釜に近づいた。
中を覗き込み、棒でそっと底をかき回す。虹色の円盤が、ゆっくりと浮かび上がってきた。リオンが小型のトングでそれを取り出し、光にかざした。
七色が、光の角度によって変わる。薄く、軽く、それ自体に重さはほとんどなさそうだった。直径は掌ほど。表面に細かい紋様が自然に形成されており、それが魔力紋の役割を果たしているように見えた。
リオンは、長い間それを見ていた。
「……フローラル・アーカイブの素材と、錬金素材が融合している」
独り言のようだったが、エリカには聞こえた。
「一定範囲内の魔力の流れを可視化し、投影する——おそらく、繰り返し使用できる触媒板です」
エリカは立ち上がって、恐る恐るリオンの隣に並んだ。虹色の円盤を覗き込む。
「……それ、すごいんですか」
「軍が長年研究してきた『魔力可視化装置』の、完全上位互換です」
エリカは、軍の士官たちの方へ視線をやった。彼らはまだ、騎士に囲まれたまま、顔色のない顔でこちらを見ていた。
「……あの人たちが、ずっと作ろうとしていたものが、できちゃった、ということですか」
「そうです」
「……くしゃみで」
「そうです」
エリカはしばらく沈黙した。
「……怒られますか」
「軍には、怒る資格がありません。彼らはフローラル・アーカイブを仕込んでいた側です」
そうですね、とエリカは思ったが、口には出さなかった。
王妃が、立ち上がった。
会場の全員が、その気配に気づいて視線を向けた。王妃は乱れた様子を少しも見せず、騒ぎの中でもずっと背筋を伸ばしたままだった。侍女を一人連れ、ゆっくりとエリカの方へ歩いてくる。
エリカは反射的に背筋を伸ばし、頭を下げようとした。
「顔を上げてください」
王妃の声は穏やかだった。エリカが恐る恐る顔を上げると、王妃はエリカの前に立ち、その手を、両手でそっと包んだ。
エリカは固まった。王妃殿下が、自分の手を、持っている。
「あなたは光で、この場の全ての影を照らし出した」
王妃はエリカの目を見て、ゆっくりと言った。
「——錬金術とは、こういうものだったのかしら」
エリカは、瞬きをした。
「ち、違います」
「……違う?」
「く、くしゃみと、転んだだけです……! 蝶が来て、くしゃみが出て、転んで、花瓶を引っ掛けただけで、光を出そうとか、呪殺装置を見つけようとか、そういうことは何も——」
「それでも」と王妃は静かに遮った。「照らした事実は、変わらない」
エリカは口を閉じた。
王妃がわずかに笑う。人生の長さを積み重ねた、穏やかな笑いだった。
「光に理由は要りません。照らされた者には、照らされた事実だけが残る」
エリカには、その言葉の全てがすぐには理解できなかった。でも、包まれている手の温かさは分かった。それだけで、今は十分な気がした。
涙が、零れた。
泣くつもりはなかったのに。「違います、くしゃみをしただけです」と言い続けながら、エリカは涙が頬を伝うのを止められなかった。周囲の誰も、その涙の意味を訂正しなかった。
会場の端、拘束された侍女を囲む騎士たちの輪の中で、尋問が始まっていた。
侍女は放心したような表情のまま、か細い声で答えていた。名前、所属、カース・ウィーヴを入手した経路——騎士の問いに一つ一つ応じていたが、「依頼者」の部分に差し掛かったとき、侍女の声が変わった。
「……私に依頼したのは」
騎士が前に乗り出す。
「軍でも……使節団でも……」
そこで、侍女は口を閉じた。
意図的に、ではなかった。何かを恐れるように、喉の奥で言葉が止まった。侍女自身も、口を開こうとして、でも開けなくて、震える唇のまま俯いた。
離れた位置でその様子を見ていたリオンの目が、細くなった。
軍でも、外国の使節団でもない。
第三の勢力。
宮廷の内部を熟知し、王妃付きの侍女に接触できる立場にあり、呪術式の魔道具を調達できる——そして、自分の名を声に出させないほどの抑止力を持つ、何か。
リオンは何も言わなかった。ただ、静かに目を細めたまま、そのことを頭の中に刻んだ。
会場の後片付けが始まる中、エリカは釜の前に戻り、底に残った虹色の円盤をそっとつまみ上げた。
軽かった。羽根のように。しかしその表面に走る細かい紋様は、見れば見るほど精密で、どこかに作為のようなものを感じた。でも誰かが意図して作ったわけではない。くしゃみと転倒と、成り行きの産物だ。
光に当てると、七色が柔らかく滲んだ。
エリカはそれをしばらく眺めてから、首を傾げた。
「あれ……?」
独り言だった。でもリオンには聞こえたらしく、「何ですか」と声が飛んでくる。
「……なんだか、すごいのができちゃいました……?」
そう言いながらも、エリカの声には「すごい」という実感はまだなかった。
ただ、虹色の円盤は、確かに手の中で輝いていた。
穏やかに。静かに。くしゃみから生まれたとは思えないほど、美しく。
窓の外、午後の光が長くなっていた。
茶会は、お茶が一口も飲まれないまま終わった。でも白い花々は無事だった。カース・ウィーヴは回収された。フローラル・アーカイブも回収された。軍の士官たちは別室に連行された。侍女は騎士に付き添われて退場した。
残されたのは、静かになった広間と、残り香のような金色の光の欠片と——虹色の円盤を手に持って、まだ首を傾げているエリカだけだった。
リオンが隣に立ち、エリカが手に持つ円盤を見下ろした。
「……持ち帰ります。分析が必要です」
「は、はい」
「それと」
「……はい」
「今日の件、報告書を書く必要があります。あなたにも署名が必要ですので」
「は、はい」
「夕食後、研究室で」
「は、はい」
エリカは頷きながら、ふと思った。
報告書に何と書けばいいのだろう。「くしゃみをして転んだら呪殺装置が発見されました」では、どうにも信憑性に欠ける気がする。
「……あの、リオンさん」
「何ですか」
「報告書、どう書けばいいですか」
リオンは少しの間沈黙した。
「……事実を書いてください」
「く、くしゃみをして転んだことも、ですか」
「特に、それを書いてください」
エリカは、眉をしかめた。それを書いたら、絶対にみんなに笑われると思った。でも、リオンがそう言うなら、そうするしかない。
「……分かりました」
エリカはもう一度、虹色の円盤を見た。
くしゃみから生まれた、軍の長年の夢の上位互換。
場の嘘を全部照らした、くしゃみと転倒の副産物。
エリカには、それがまだ自分の「失敗」なのか「成功」なのか、よく分からなかった。
ただ、リオンが「結果が全てです」と言った。
王妃が「照らした事実は変わらない」と言った。
それならきっと、くしゃみをしたことの意味も、どこかにある。
エリカは虹色の円盤を大切に道具袋にしまい、深呼吸をした。
「——次は、爆発させないようにします」
「それはそうですね」とリオンが即答した。「ただし」
「……はい」
「今日の件も、爆発はしていません」
「え……あ、そうですね。そうです。してませんでした!」
「ええ」
リオンは、それだけ言って前を向いた。その横顔には、何の表情もなかった。
でも、エリカには、なんとなく分かった。
彼は、少しだけ安心したのだ、と。
——くしゃみと転倒だけで、今日は済んだ、ということに。




