泡沫の祈り、針の罪
セレナは、今日も朝の五時に目を覚ました。
王妃宮の侍女棟は、夜明け前が一番静かだ。廊下を歩く足音もなく、隣室の寝息だけが薄い壁越しに聞こえる。セレナは天井を見上げたまま、しばらく動かなかった。
今日だ、と思った。
今日、茶会がある。
今日、終わる。
セレナ・ヴォーンが王妃宮に上がったのは、七年前のことだった。
地方貴族の三女。嫁ぐには持参金が足りず、修道院に入るには信仰が足りず、残った選択肢が宮廷の侍女だった。自分で選んだというより、残り物の道に入った、という感覚の方が近かった。
でも宮廷は、セレナが思っていたよりずっと美しかった。
王妃は厳しかったが、公平だった。怒るときは理由を告げ、褒めるときは人前で褒めた。セレナが体を壊して二週間休んだとき、王妃は見舞いの果物を自ら選んで届けさせた。そんな主君は、セレナの人生の中で初めてだった。
だから七年間、仕えることができた。
ほんとうは、もっと仕えたかった。
あの男が声をかけてきたのは、三ヶ月前だった。
非番の日に街へ出たとき、見知らぬ男が隣に並んだ。三十代か四十代か、よく分からない顔立ちの男だった。目が薄く、特徴がなく、すれ違っても翌日には顔を思い出せないような男。
「セレナ・ヴォーンさん」
名を呼ばれた瞬間、足が止まった。
「あなたの弟さんのことです」
それだけで、セレナの全身が冷えた。
弟のことは、誰にも話したことがなかった。
カイン・ヴォーン。セレナより七つ下の、末っ子の弟。幼い頃から頭が良く、笑顔が愛らしく、家族の誰もが溺愛した子だった。セレナが宮廷に上がるとき、一番泣いたのもカインだった。
その弟が、今、ある貴族の私設牢に入れられている。
理由はセレナにも完全には分からない。商会の取引で損失を出した、という話だったが、実際のところは、権力者に目をつけられた、ということだと思っていた。弟は口が立ち、賢く、そして少しだけ、正しいことを言いすぎる性質があった。
男は淡々と告げた。
「王妃を排除すれば、弟さんは解放されます」
断れるはずがなかった。
いや、断ろうとした。本当に。
その夜、セレナは何時間も天井を見つめた。できない、と思った。七年間仕えた主君だ。公平で、厳しく、果物を届けてくれた人だ。その人を殺すなんて、できない。
でもカインの顔が浮かんだ。
七つ下の、笑顔が愛らしい弟。宮廷に上がるとき、一番泣いた弟。
一週間、セレナは悩んだ。
八日目の朝、男に返事をした。
カース・ウィーヴが手元に届いたのは、その翌日だった。
小さな布切れに見えた。縦横十センチほど、薄い生成り色の布に、細い糸で紋様が刺繍されている。受け取ったとき、セレナの指先がわずかに震えた。
「仕込む場所は、王妃殿下の席の真下」と男は言った。「テーブルクロスの裏地に縫い込んでください。茶会が始まり、場に魔力が満ちれば、自動で起動します。あなたは何もしなくていい」
何もしなくていい。
その言葉が、どれほど残酷な慰めか、男は知っているのだろうか。
縫い込む針を持つのは、セレナ自身だ。
縫い込む手を動かすのも、セレナ自身だ。
何もしなくていい、などということはない。
前日の夜、セレナは一人で茶会の準備室に入った。
会場の設営は全て整っていた。テーブルクロスもかけられ、花も活けられ、茶器も並べられている。あとは当日を待つだけ、という状態だった。
セレナは王妃の席に近づいた。
膝をついて、テーブルクロスの端を持ち上げた。
手が震えた。
七年間、この手で王妃の髪を梳いた。朝の着替えを手伝った。体調の悪い日は側に付き添った。王妃が笑うときは一緒に笑い、王妃が憂うときは少し離れた場所でそっと見守った。
その手で、今、針を持っている。
セレナは目を閉じた。
カインの顔を思い浮かべた。
目を開けた。
針を、動かした。
縫い込みながら、セレナは一度だけ泣いた。
声は出なかった。ただ、針を持つ手の甲に、涙が一粒落ちた。それを拭わずにそのまま縫い続けた。泣く資格があるのかどうか、セレナには分からなかったけれど、涙は止まらなかった。
縫い終わって、クロスを戻した。
立ち上がって、準備室を出た。
廊下に出ると、夜の空気が冷たかった。月が出ていた。セレナはそれを一度だけ見上げてから、侍女棟に戻った。
その夜は、眠れなかった。
茶会当日の朝。
セレナは他の侍女たちと一緒に、いつも通り王妃の朝の支度を手伝った。
髪を梳いた。今日で最後かもしれない、と思いながら、丁寧に梳いた。
王妃が鏡の中でセレナを見た。
「今日は少し顔色が悪いわね」
「……申し訳ございません。少し眠れませんでした」
「茶会の準備で気を張っているのかしら」と王妃は言った。「あなたはいつも真面目すぎるわ」
セレナは「恐れ入ります」と頭を下げた。
自分の声が、自分のものに聞こえなかった。
茶会が始まり、セレナは壁際に控えた。
会場のあちこちに、男が言っていた「音声記録の装置」が仕込まれているらしかった。軍が仕込んだものだと男は言っていた。それがこの依頼とどう絡むのか、セレナには教えられなかった。ただ、余計なことに気づくなと暗に言われたような気がして、セレナは会場の装飾を見ないようにした。
壁際に立ったまま、セレナは王妃だけを見ていた。
王妃は美しかった。いつも通り、背筋を伸ばして、穏やかに参列者を見渡している。あと少ししたら、それが——
そのとき、調合台の方で音がした。
くしゃみの音だった。
セレナは、その後に起きたことを、壁際から全て見ていた。
金髪の若い錬金術師が、盛大に転んだ。素材が釜に落ちた。花瓶が倒れた。花型の飾りが釜に落ちた。
爆発を覚悟した。でも爆発はしなかった。
代わりに、光が来た。
金色と青の霧が、会場を満たした。
セレナは、その光の美しさに、息を呑んだ。
そして天井に図面が現れた瞬間、セレナは——自分でも気づかないうちに——王妃の席の方を見た。
赤黒い光が、テーブルの真下で蠢いていた。
セレナが縫い込んだ、カース・ウィーヴの魔力反応だった。
会場中の全員の目に、それが映っていた。
セレナは、動けなかった。
逃げればよかった。茶会の混乱に乗じて、出口へ向かえばよかった。でも足が動かなかった。
光の図面が消え、リオンという男が「確認してください」と言い、騎士たちが動き出した。テーブルが動かされ、クロスがめくられた。
侍女たちの間でざわめきが上がった。隣に立っていた侍女がセレナの方を見た——なぜかは分からない。でもその視線に、セレナは横を向けなかった。
紋官が照合板を持ってやってきた。
セレナの前に立ったとき、板が青白く光った。
「一致」
その一語が、空気を割った。




