記録された魔力が、呼び起こすもの
王妃宮の大広間。天井は三階分の吹き抜けで、アーチ型の窓から午後の陽が斜めに差し込んでいる。床には深紅の絨毯が敷かれ、円卓が五つ、白いクロスをかけられて整然と並んでいた。各卓には高位貴族が四、五名ずつ着席し、それぞれの背後には侍女や従者が控えている。
花が多かった。
入り口を飾る大きな生け花から、各卓に置かれた小ぶりの花瓶まで、白とアイボリーの花が会場のあちこちに溢れていた。清楚で美しく、上品な香りが漂っている。
エリカには、その花が少し多すぎるように思えた。
「……あの、リオンさん」
壁際に設けられた調合台の前に立ちながら、エリカは小声で隣に囁いた。
「なんですか」
「お花、多くないですか。すごく多い気がするんですが」
「王妃殿下のお好みでしょう。気にしないで、集中しましょう。」
「は、はい」
エリカは前を向いた。調合台の上には、特訓で使い慣れた素材が綺麗に並んでいる。量も順番も、リオンが朝のうちに確認してくれた。あとは手順通りにやればいい。普通にやれば、普通にできる。
そう自分に言い聞かせながら、エリカは素材の瓶を一本一本、手順書と見比べた。
大丈夫。やれる。
絶対に爆発させない。
茶会は、厳かな開幕の音楽と共に始まった。
王妃殿下が最奥の席に着くと、会場全体がふわりと静まり返る。齢四十ほどの王妃は、優雅な所作で茶杯を持ち、参列者たちを見渡してゆっくりと微笑んだ。その立ち姿は絵画の中の貴人のようで、エリカはつい見惚れて口を半開きにしてしまった。
「エリカさん」
「は、はい!」
「そろそろ素材の前計量を始めてください」
「は、はいっ」
慌てて視線を戻す。調合台に向かい、素材の瓶に手を伸ばした。
大丈夫。集中。
第一素材——芳香触媒の基礎となる、乾燥ラベンダーの抽出液。蓋を開けて、小さなスポイトで量を取る。ゆっくり、ゆっくり。
順調だった。
このまま進めば、本当に普通にできる——そう思った瞬間だった。
窓の外から、一匹の蝶が入ってきた。
後で考えれば、あの蝶は一体どこから来たのか。茶会のために窓は全て閉められているはずだった。しかし確かに蝶はいた——白と黄色の小さな蝶が、エリカの鼻先でふわり、と舞った。
「——っくしゅ!」
盛大なくしゃみが出た。
スポイトを持つ手が大きく揺れた。
抽出液が、想定の三倍の量、フラスコに落ちた。
「エリカさん——!」
リオンの声が飛んだが、一歩遅かった。
体勢を立て直そうとしたエリカの肘が、調合台の端をなぎ払った。台の上に整然と並んでいた素材の瓶が、ドミノのように次々となぎ倒される。一本、二本——そして七本全てが、中央の釜の中へ、一気に落下した。
ぽちゃん、ぽちゃん、ぽちゃん——と、のどかな音が続いた。
「あ」
エリカの声は、驚くほど小さかった。
転んだ。膝をついた瞬間、手のひらが床の絨毯を掴んだ——と同時に、その手が近くの花台の脚に引っかかった。花台が傾く。上に乗っていた花瓶が、細長い弧を描いて宙を舞う。
リオンが手を伸ばした。
届かなかった。
花瓶は釜の縁に当たり、中の生け花ごとひっくり返った。白い花びらが舞い散り、花瓶の水が釜の中に注ぎ込まれる。そして花の飾り台に置かれていた小さな装飾品——花型の金属細工が三つ——が、水の流れに引きずられるようにして、釜の中へ、静かに落ちていった。
ぽちゃん。
ぽちゃん。
ぽちゃん。
会場が、息を飲んだ。
参列者たちの視線がエリカに集中する。「また爆発するのか」という顔をしている人が、半分以上いた。護衛の騎士たちが無意識に王妃の方へ一歩踏み出す。リオンが釜の前に立ち、中を覗き込んだ。
エリカは床に膝をついたまま、目をぎゅっと閉じた。
来る——爆発が来る——ごめんなさい、リオンさん、絶対にしないって言ったのに、くしゃみのせいで、蝶のせいで、でも蝶のせいにしちゃいけない、全部自分のせいで——
「……エリカさん」
リオンの声が、奇妙に静かだった。
おそるおそる目を開けると、リオンは釜を見つめたまま動かずにいた。その表情は、エリカが見たことのない種類のものだった。驚き、ではない。困惑、でもない。強いていうなら——息を飲んでいる、という表情だった。
「……見てください」
轟音を欠いたその爆発は、静謐な「創世」の貌をしていた。
釜の淵を越え、水面を割り、最初に解き放たれた金色の種子は、重力という名の摂理を軽やかに踏み越えていく。それは点から線へ、線から面へと膨張し、瞬く間に空間の密度を書き換えた。
見上げれば、天井はもはや無機質な建築物ではない。 舞い上がった無数の光粒は、見えざる指先によって配列を整えられ、そこに未知の星座を刻み始めていた。点在する金銀の星々は、悠久の時間を凝縮したかのような星渦を形作り、うねり、重なり合いながら、頭上に新造された星図を現出させる。
静止した空気の中で、新造された星図だけが、ただ淡々と、永遠に似た瞬きを繰り返していた。
——誰かが小さく声を上げた。
それだけだった。あとは、沈黙だった。
参列者たちは皆、その光の霧を見上げていた。呆気にとられたように。怯えているのとも違う、ただ、その美しさに言葉を失っているようだった。光は柔らかく、温かみがあり、会場の白い花びらの上に落ちると、まるでそこだけ異なる時間が流れているかのようにきらめいた。
エリカは膝をついたまま、口を半開きにして光を見上げた。
綺麗だ、と思った。自分が起こしたこととは、まだ実感が持てなかった。
光の霧が会場全体に満ちた後、それは起きた。
霧が、変わった。
粒の一つ一つが、急速に輝きを増す。金色の光が向きを揃えるように束になり、天井へと向かって一直線に伸びた。
そして——会場の天井に、光の図面が現れた。
金色の光の線が網の目のように走り、それが会場の壁から柱、床から天井まで、目に見えない何かの「流れ」を描き出していた。川の流れのようでもあり、血管の図のようでもある。光の線が緩やかに脈打ち、ある場所では細く、ある場所では太く、会場全体の何かを写し取っていた。
リオンだけが、すぐに動いた。
天井を見上げたまま、素早く全体を走査する。そして二箇所で、目が止まった。
一つは、会場の壁際。三点、青白い光が規則正しく点滅している。花台の近く——生け花の根元あたりに、それぞれ一つずつ。
もう一つは——王妃の席の真下、テーブルのほぼ中央。
そこだけが、違う色をしていた。
赤黒い。じわじわと、まるで何かが蠢くように広がったり縮んだりしている。光の図面の中で、そこだけが健全ではない動きをしていた。見ていると、心臓のあたりが不快になるような——悪意を凝縮したような、光だった。
リオンの顔から血の気が引いた。
会場は静止していた。
参列者も、侍女も、護衛の騎士も、誰もが天井の光の図面を見上げたまま固まっていた。王妃だけが、真っ直ぐに背筋を伸ばし、やや細めた目でその光景を見つめていた。その表情から何を考えているかは読み取れなかった。
エリカは、光の図面の中の赤黒い塊を見ていた。
あれが何なのか、エリカには分からなかった。でも、綺麗じゃない、と思った。他の光が穏やかに流れているのに、あそこだけがぐるぐると濁っていた。
「エリカさん」
リオンの声は静かだった。でも、エリカがこれまで一度も聞いたことのない、硬い声だった。
「……はい」
「下がっていてください」
エリカは何も言わずに、一歩後ろに引いた。
リオンが、会場を振り返った。その目が、入り口近くで直立している近衛騎士の隊長を、真正面から見た。
光の霧は、ゆっくりと薄れ始めていた。
金色の粒が一つ一つ消えていく。天井の図面が薄くなる。しかし誰も動かなかった。騎士も、貴族も、侍女たちも、全員がまだ天井を見上げたまま、光が消えていくのを見守っていた。
エリカだけが、視線を釜の方に落とした。
釜の中は、すっかり静かになっていた。さっきまで光の粒を噴き出していたのが嘘のように、液体の表面はなめらかで、静止している。
でも、その底に、何かが光っていた。
虹色だった。
薄く、丸く、まるで薄い円盤のような形をした何かが、釜の底でかすかに輝いている。七色が混じり合い、光の角度によって色が変わる。それはとても綺麗で、とても不思議で——エリカには、それが何なのか全く分からなかった。
エリカはその虹色の光をぼんやりと見つめながら、今自分が何をしてしまったのかを、まだ理解できないでいた。
ただ一つだけ分かることがあるとすれば——今日も、爆発はしなかった。
爆発の代わりに何が起きたのかは、全く分からないけれど。
会場の天井から最後の光の粒が消えた瞬間、リオンが口を開いた。
静かな声だったが、広間全体に届いた。
「近衛騎士団」
騎士の隊長が反射的に背筋を伸ばす。
「——王妃殿下の席の下を、今すぐ確認してください」
会場が、再び息を飲んだ。




