第2話 遠い記憶
深い蓮の花の香りに包まれる夢を見ていた。
どこまでも無垢で、光に満ちていた頃。まだ恋も知らない幼い私。
舞の稽古場に行くと、見慣れない男の子がいた。
「お兄様、あの子はだれ?」
「ふふ、磨けば光る原石さ」
「ピカピカの宝石?」
「そうだよ。――いずれ、愛漓のものになる」
琉克の言葉に首をかしげる。あのときは、その言葉の意味は分からなかった。
「白蓮、こちらへ」
「はい」
私は、その姿を一目見た瞬間、言葉を失った。
「わぁ、すごいきれいなお顔ね」
銀糸のような艶やかな髪。陶磁器のような白い肌。折れそうなほど細い華奢な身体。伏せた睫毛の奥には、吸い込まれるような静けさが宿っていた。
「今日からここで舞の稽古をする。いずれは奏天雅集に入れる逸材だ」
「はじめまして、愛漓と申します」
私が微笑むと、白蓮は顔を赤らめ、控えめにうつむいた。
「皇女様、は、はじめまして……」
鈴のように澄んでいて、どこか儚げな声だった。
その日から、嫌いだった舞の稽古に行くのが、楽しみになった。
「愛漓様、ここはこうだよ。……ほら、手を出して」
2歳年上の彼は、いつも丁寧に教えてくれた。
「こう?」
「いいえ、こうです」
指先に触れるたび、胸が苦しくなる理由も分からなかった。
「白蓮の舞は、本当に綺麗だわ」
「ありがとうございます」
照れたように笑う。その横顔を見た瞬間。胸の奥が、きゅっと締め付けられた。
――ああ、これは。
尊敬でも、憧れでもない。やがて、これが恋だと理解した。
「お兄様が白蓮のこと、宝石みたいだって褒めてたわ」
「え、琉克様が……?」
一瞬だけ、その瞳が揺らいだ。
白蓮の表情が強張り、指先が、かすかに震えたのが分かる。
「それは……、とても光栄です」
影を落とす横顔。
あれから10年も経つのに、私は何も知らなかった。何も見えてなかった。
――そう、昨夜までは。
◆◆◆
後宮の私室には、柔らかな朝の光が差し込んでいた。
「愛漓様、お目覚めでございますか」
侍女が静かに声をかけ、寝台の帳を開ける。
「顔色がすぐれませんね」
差し出された白湯に口をつけても、喉を通る感覚は曖昧だった。
鏡に映る自分は、目の下に淡い影が落ち、唇の色もどこか頼りない。
こんな顔では……、白蓮に嫌われてしまうわ。
白蓮――。
その名を心の中で唱えるだけで、頬に血色が戻る。
昨夜の光景が、脳裏にフラッシュバックする。
兄の指に蹂躙され、恍惚とした表情でのけ反っていた、あの高潔な舞神。
思い出すだけで下腹部が熱く疼き、意識が遠のいた。
「きゃあ! 愛漓様、鼻血が!」
「だ、大丈夫ですか?」
そのとき、侍女たちの叫び声を割るように、低く通る声が響いた。
「何事か」
その場の全員が、即座にひれ伏した。
「皇太子殿下!ご機嫌麗しゅうございます」
「よい、下がれ」
琉克は侍女の前を優雅に通り過ぎた。
「おはようございます、お兄様……」
「ん?どうした、その顔は。可愛い顔が台無しではないか」
そう言って、懐から手巾を取り出すと、そっと顔を拭いてくれた。白い布が紅く滲んだ。
昨夜とは違う。いつも私を見守ってくれる、優しく穏やかな眼差し。
私には琉克を含め兄が3人いる。その中でも、長男の琉克は私を可愛がり、幼い頃から何かと面倒を見てくれた。
「朝早くから何かご用意ですか?」
「用がなければ会いに来ることもできないのか?大人になるとは寂しいものだな」
「いえ、そんなことは」
20歳の誕生日を迎えた私。来週には成人の儀が執り行われる。世間知らずで、とても大人だなんて自覚はないけれど。
「今夜は白蓮と食事をする。愛漓も同席するよう」
はっと息をのむ。
「今夜、ですか……」
「なにか不都合があるか?」
「あの、お邪魔ではありませんか? その……とても、おふたりは仲が良いようですから」
核心を避け、慎重に言葉を選んだ。
だが、琉克は私の動揺を見透かしたように、笑みを深める。
「仲が良い、か。間違いではないがな。白蓮も久しぶりに愛漓に会いたがっていたぞ」
「え……?」
「場所は玄武殿だ。必ず参加するように。これは命令だ」
私の混乱を面白がるように、琉克は意地悪く、私の鼻先を軽く突いた。




