客観的
夕暮れ時、沈みかけた太陽の光が木々の隙間から差し込み、森全体を柔らかな金色に染めていた。葉の影が地面に揺れ、ゆるやかな風が土と木の温かな香りを運んでくる。
小さな丘の上で、ショーンは静かに立っていた。
人の姿で。
背筋は伸びているが、その表情は真剣で、どこか虚ろだった。彼の視線は、森と人間の村を隔てる木々の向こうへ向けられている。そこから、かすかに音が届いていた。木剣がぶつかる音、指示を飛ばす声、規則正しい足音。
王国の兵士たちが訓練をしているのだ。
ショーンは瞬きもせず、その光景を見つめていた。動きは荒削りで、決して洗練されてはいない。それでも、そこには確かな力と意志があった。彼らの身体は自由に動き、走り、跳び、攻撃する。どこにも縛られていない。
ショーンにとって、それはまるで別の世界の住人を見ているようだった。
――あんなふうに、遠くまで動ける身体とは、どんな感覚なのだろう。
――自分の力で、強くなるとは……どんな気持ちなのだろう。
そのとき、背後に人の気配があることに、彼は気づいていなかった。
「あ、あの……来たよ」
遠慮がちで、少し緊張した声。
「わっ――!」
ショーンは驚いて飛びのいた。反射的に一歩下がったが、足元の石に滑り、体勢を崩す。横に倒れ、手を地面に強くついた。
鋭い痛みが走る。
「ショーン!」
ハルタが駆け寄り、彼のそばに膝をついた。手のひらから滲む血を見て、顔色が一気に変わる。
「だ、大丈夫!?」
「だ、大丈夫だよ!」
ショーンは慌てて答えたが、声は明らかに落ち着いていなかった。
だが、ハルタが触れようとした、その瞬間。
ショーンの身体が、ふっと薄れていった。
霧が風に溶けるように、人の姿が消える。
「……え?」
ハルタは固まった。
次の瞬間、ショーンは自分の樹のそばに現れた。人の姿は完全で、傷ひとつない。さきほど血を流していた手も、何事もなかったかのように元通りだった。
ハルタは目を見開いたまま、彼を見つめる。
「……今の、なに?」
ショーンは自分の手を見てから、気まずそうに小さく笑った。
「人の姿は……消したり、出したりできるんだ。怪我してても、作り直せば……消える」
「それを普通みたいに言わないで」
ハルタは大きく息を吐いた。
「全然、普通じゃないから」
ショーンは頬をかく。
「治癒魔法も使えるし……本当に、大したことじゃないんだ」
「君にとってはね」
ハルタはじっと睨んだ。
「でも、こっちは心臓止まるかと思った」
「……ごめん」
ハルタは小さく鼻を鳴らし、立ち上がると持ってきた籠を手に取った。
「はいはい。もういいから。ほら」
籠を開ける。
「今日も、食べ物持ってきた」
ショーンの目が、分かりやすすぎるほど輝いた。
「また?」
「うん。今日は違うよ」
二人はショーンの本体である樹の、大きな根元に腰を下ろした。根は硬くなく、ほんのりと温かい。まるで脈打つ命が伝わってくるようだった。
ハルタは布に包まれた食べ物を並べる。柔らかなパン、香辛料の効いた干し肉、そして小さな甘い菓子。
ショーンは一つずつ口に運ぶ。
噛むたびに、表情が変わった。
「……おいしい」
「毎回それ言うよね」
「でも……本当にそうなんだ」
ハルタはくすっと笑った。ショーンが人間の食べ物を味わう姿を見るのが、彼女は好きだった。取り繕いも遠慮もない、純粋な反応。
気づけば、彼女の笑顔はいつもより長く続いていた。
しばらくして、ショーンが口を開く。
「……ハルタ」
「なに?」
「人間は……戦うために、学ぶの?」
ハルタは彼を見る。
「もちろん。最初から強い人なんていないよ」
ショーンは自分の手を見つめた。
「じゃあ……僕にも、教えてくれる?」
ハルタは一瞬きょとんとしてから、微笑んだ。
「大したことはできないけど、基本なら」
二人は立ち上がる。ハルタは足の位置、体重のかけ方、無駄のない動きを一つずつ見せた。
「力入れすぎないで。肩、もっと楽に」
「……こう?」
「そう。覚えるの、早いね」
ショーンの吸収は驚くほど早かった。完璧ではないが、修正すればすぐ理解する。まるで、この身体が動きを待っていたかのように。
気づけば、空はすっかり暗くなっていた。
帰ろうとするハルタの背中を見て、ショーンの笑顔が、ゆっくり消える。肩が落ち、目から光が薄れていく。
ハルタは足を止めた。
「……ショーン?」
「だ、大丈夫」
即答すぎた。
「嘘下手すぎ」
ショーンは黙り込む。
ハルタはため息をついた。
「今夜、泊まっていくよ」
「……え?」
ショーンの目が大きく開く。
「ほ、本当?」
「本当」
夜。ハルタは小さな火を魔法で灯した。ショーンは炎をじっと見つめる。
「それ……魔法?」
「うん。火の魔法」
「僕は、治癒しか知らない」
「また今度、教えてあげる」
ショーンの表情が一気に明るくなる。
焚き火を囲みながら、ショーンは小さく尋ねた。
「ハルタ……さっきの食べ物、どこから?」
「お金で買ったんだよ」
「……お金?」
ハルタはゆっくり説明した。働くこと、報酬、価値の交換。人間の生き方。
ショーンは、はっとして立ち上がった。
「だったら……もう、僕に食べ物を持ってこなくていい。ハルタの努力の結果なんだ」
ハルタは首を横に振る。
「私は、そうしたいからしてる」
「でも……」
「いいの。気にしないで」
ショーンは黙り、やがて頭を下げた。
「……ごめん」
ハルタは小さく笑った。
「優しすぎだよ、君。……木のくせに」
その夜、ハルタはショーンの樹の枝で眠った。
ただの枝ではない。
ショーンの本体である樹は、穏やかな温もりを放っていた。周囲の空気は安定し、冷えすぎることはない。微かな治癒の力が流れ、身体は自然と軽く、安心感に包まれる。
朝。
ハルタが目を覚ますと、ショーンはすでに動いていた。
動きは整い、速くなっている。
「……成長、早すぎ」
ショーンは微笑んだ。
「もう、やることは決めてるんだ」
去っていくハルタの背中を、ショーンは見送る。
その朝は――
初めて、希望に満ちていた。




