第二章:泥の中の咆哮 ——カイの物語——
世界が真っ黒に塗り潰されたあの日、俺の時間は止まった。
俺はかつて、港町の小さな家で、温かな「家族」を守る猟犬だった。主人の笑い声、赤ん坊の匂い、夕暮れの潮風。それが俺のすべてだった。だが、巨大な「黒い壁」がすべてを飲み込んだ。俺を繋いでいた鎖は、家族を救うための自由を奪い、俺を冷たい泥の底へと引きずり込んだ。
水が引いたあとの世界は、かつての美しさを失っていた。俺の目の前にあるのは、無惨に壊れた「家」の残骸と、もう動かなくなった「家族」の姿だけ。俺は首を絞めつける鎖を何度も引きちぎろうとしたが、鉄の輪は無情にも俺をその場所に繋ぎ止め続けた。
「……ウォォォォン!」
俺は吠えた。天に向かって、泥に向かって。それは守れなかった者への謝罪であり、自分を見捨てた神への呪いだった。俺の毛並みは泥で固まり、肉は痩せ細り、咆哮は次第に掠れた。俺は、いつしか自分を「死者の守護者」だと錯覚するようになった。この場所で、かつて家族だった「モノ」たちが土に還るまで、俺も一緒に朽ち果てるのだ。
そんな俺の前に、一人の少女が現れた。
琥珀色の布で目を覆い、おぼつかない足取りで、けれど真っ直ぐに俺へと近づいてくる少女。俺は牙を剥き、喉の奥から低い唸り声を上げた。「来るな。ここは死者の場所だ。生きてる奴はここへ来るな」
だが、少女は怯まなかった。それどころか、彼女は泥の中に膝をつき、汚れを厭わず俺を力いっぱい抱きしめたのだ。
「……あなたも、海にすべてを奪われたのね」
その声は、かつての主人のように優しく、けれどどこかこの世のものとは思えない熱を帯びていた。少女の腕から、信じられないほどの「赤」い波動が伝ってくる。目隠しの向こう側、彼女が見ている世界の熱が、俺の閉ざされた心へとなだれ込んできた。
俺の心眼に映ったのは、瓦礫の山から無数に立ち昇る、燃えるような紅葉の光だった。かつての家族が、悲しみではなく、温かな光の粒となって俺を包み込んでいる。
「別れを、出会いにするの。あなたのその愛を、絶望のまま終わらせないで。……私と一緒に来てくれない? あなたのその強さを、新しい命を守るために使ってほしいの」
少女が俺の鎖に触れた。不思議なことに、あんなに強固だった鉄の輪が、彼女の手が触れただけで、まるで枯れ葉のように脆く砕け散った。
自由になった俺は、初めて自分の足で大地を踏みしめた。俺はもう「死者の番犬」ではない。この少女が見る、美しすぎる世界の案内人になるのだ。俺は彼女の首筋に顔を埋め、子供のように鼻を鳴らした。
海は、俺の額を優しく撫で、こう言った。
「今日からあなたは、私の大地。名は『カイ』。私たちが歩く道の、確かな光になって」
俺は短く一声吠えて、少女の横に並んだ。俺の旅が、ここから始まった。




