第一章:琥珀の誓い ——海の物語——
かつての彼女は、海を愛し、海に愛される普通の少女だった。名は同じ「海」であったが、当時の彼女にとって、その名は穏やかな波しぶきと銀色の魚、実る黄金の稲穂、水平線を黄金色に染め上げる穏やかな夕映えの象徴だった。
しかし、あの日、運命は予告なく形を変えた。牙を剥いた巨大な波は、彼女の家族も、友人も、昨日まであった日常も、すべてを等しく黒い泥の底へと引きずり込んだ。
生き残った海を待っていたのは、色彩の死に絶えた世界だった。
「どうして私だけ……。こんな冷たい世界、もう見たくない」
彼女は、すべてをさらった「海」という自らの名を呪った。光を憎み、瓦礫の中で膝を抱えていた彼女の前に、一人の老巡礼者が現れた。
老人は、かつて世界を巡った者の証である「琥珀の目隠し」を手にしていた。
「娘よ。お前の目は、失われたものを探して、ただ空虚な闇を彷徨っているな」
「……探しても何もないわ。海が、全部持っていったのよ」
海は枯れた声で応えた。老巡礼者は静かに彼女の横に腰を下ろし、琥珀の布を陽の光に透かした。
「形あるものは、波にさらわれる定めにある。だが、想いまでさらわれることはない。魂の目で見れば、彼らは今もここにいる。……お前には、それを見る勇気があるか?」
「魂の目……?」
「そうだ。だが、そのためには今の視力を捨てねばならぬ。肉眼で見える『死』という絶望を消し、目隠しの向こう側に、目に見えぬ絆の輝きを映し出すのだ。一度目隠しをすれば、二度と光は戻らぬ。それでも、お前は巡礼者となるか?」
海は震える手で、老人の差し出す琥珀の布に触れた。その布からは、微かに紅葉の、燃えるような熱が伝ってきた。
「……今のまま、真っ暗な絶望を見続けるよりはいい。あの子たちの……本当の姿が見えるのなら」
海が決意し、琥珀の布を自らの目に当てた瞬間だった。
瞳の奥に、灼熱の火花が散ったような衝撃が走った。肉眼の光が永遠に途絶え、完全な静寂が訪れる。しかし、その直後。目隠しの向こう側、漆黒の闇だった場所に、ポッと小さな火が灯った。
一つ、また一つ。
瓦礫の隙間から、泥の底から、そして冷たい大気の中から。亡くなった人々の想いが、鮮やかな紅葉の光となって立ち昇り、天地を埋め尽くしていったのだ。それは、この世のどんな色彩よりも鮮烈で、生きている者の鼓動よりも熱い「赤」だった。
「……ああっ、見えるわ。みんな、消えてなんていない」
海は、光の粒子が舞う世界の中で、老人の声を聴いた。
「海よ、覚えておきなさい。それが『いのちのおのずからさ』だ。お前の旅はここから始まる。どうしようもない運命を、美しい自由な創造に。別れを出会いに、死を生に。夢や幻を、永遠の真実にするのだ。 お前の人生そのものが、この世界を染め上げる一枚の紅葉なのだから」
老巡礼者は、海に一本の杖を預け、風のように去っていった。
以来、海は一度も目隠しを外していない。彼女は「海」という名を捨てず、むしろその名を持って、命を抱擁し、還していく巡礼の道を選んだ。




