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第七話 最強の武人、拒絶の剣

 裏帳簿という確固たる武器を手に入れたマリアンたちは、次の段階として、第三の母ローザを介して、三兄エルドリアへの接触を試みた。


 ローザの尽力によりマリアンとソフィアは、公爵家の敷地外にある三男が療養と静養のために借りている、小さな別邸で彼と会う機会を得た。常に戦場にいるエルドリアに会うのは、実に数年ぶりである。


 武人の家系であるハウゼンブルクにおいて、エルドリアは父からの冷遇とは裏腹に、国内外の軍人から最も尊敬される存在だった。


 数多の戦場を転戦してきた彼の体は、右腕と右脚、左目までも失われていた。この国の進んだ医学魔術であれば、その手足を取り戻すことはできただろう。しかし彼はそうしなかった。彼は、ともに戦い死んでいった仲間の栄光と犠牲の象徴であるとして、治療を拒んだのだ。それはまさしく誉れの証であると、軍部の中で彼を貶める者は誰一人としていなかった。


 別邸に向かう馬車の中で、ソフィアは珍しく不安を滲ませていた。


「マリアン。あの裏帳簿は、父上を失脚させるには十分すぎる証拠よ。でも……」


 ソフィアは、数日前に長姉がこぼした言葉を思い出し、口にした。


「長姉さまが言っていたわ。私たち女性陣の怒りは、父個人とお前たちの問題だと言われるだろうと。エルドリア兄様は、命を賭した武人であり、国の倫理を重んじる。子が親を断罪するという行為を、兄様が認めるだろうか、と」


 マリアンもまた、その懸念を拭えずにいた。アンダーソン長兄は、家族愛と正義で動いた。しかし、エルドリアは、彼よりも遥かに、武人としての『道』に厳格な男だった。




 別邸の静かな書斎で、エルドリアは二人を待っていた。




 エルドリアは簡素な木製の義足を右脚につけ、空になった右の袖を帯で固定していた。左目には眼帯をし、その右目の視線は、マリアンたちが持参した裏帳簿よりも、二人をまっすぐに見据えていた。


 一騎当千と謳われる威圧感は、その傷ついた肉体にもかかわらず、全く衰えていなかった。


 ローザ母上が、二人が父の侮辱を聞いたこと、そして集めた証拠が、父の公爵としての不正を証明することを説明した。


 マリアンは、ローザの傍らに立ち、決意を込めた声で訴えた。


「エルドリア兄様。父上は、戦場で命を懸けたあなたを『欠陥品』と罵りました。そして、この裏帳簿を見てください。父上は公爵の権限を使い、公的な資金を横領し、私腹を肥やしていました」


 マリアンは、裏帳簿を開き、不正の金額と、怪しい協力者の名を指し示した。


「父上は、武人の家系の誇りを金で売り、私たちをただの道具だと、雌犬だと扱いました。私たちは、この不正をアンダーソン兄様に渡し、父上を公爵の座から引きずり降ろします。エルドリア兄様の軍部における人望と、この証拠を結びつければ、父上は二度と立ち上がれません。どうか、私たちに力を貸してください」


 しかし、エルドリアの反応は、マリアンたちの予想した激しい怒りでも、賛同でもなかった。彼の顔には、冷たい静寂が張り付いていた。


 エルドリアは、裏帳簿には目もくれず、ローザ母上に優しい目を向け、静かに言った。


「ローザ母上。父上があなた方を侮辱したこと、そして私の身を『欠陥品』と呼んだことに対する怒りは、私にもあります。そして、この裏帳簿が示す父上の不正が事実であることも、理解できます。事実を教えてくださったこと、まことに感謝いたします」


 しかし、マリアンに対する声は、低く、重く、その視線は猛禽のごとく鋭かった。


「だが、マリアン。お前たちの行動は、正義ではない。それは復讐であり、そして、家を崩壊させる大罪だ」


 ソフィアが思わず反論した。「兄様! 父上は公爵として失格です。不正を正すことが、どうして大罪なのですか!」


 エルドリアは、ソフィアを一瞥しただけで、その視線は再びマリアンに戻った。


「不正を正すのは、国の法であり、王権の役目だ。だが、子が親を断罪することは、武人たる私にとって、絶対の規範に反する。親の罪を暴き、地位を奪う行為は、『孝』を重んじる我が国の倫理を根底から揺るがす」


 彼はゆっくりと立ち上がり、傍らのテーブルに置かれたサーベルに触れた。


「私は武人だ。武人の剣は、正義と忠誠のために振るわれる。公爵家内部の復讐劇、マリアンや母様、姉妹たちの復讐に私の剣を貸すことはしない。それは、戦場で得た私の覚悟と、私とともに戦場で死んでいった同胞を汚す行為だ」


 エルドリアの拒絶は、鋭い刃のようにマリアンたちの心に突き刺さった。最も期待していた最強の味方が、武人としての厳格な倫理観から、協力を拒否したのだ。


「私たちは、ただ父上に、私たちが『役立たず』ではないと証明したいだけなのに……」マリアンは唇を噛み締めた。


「証明する必要などない。お前たちのすばらしさは、私が一番よく知っている」


 エルドリアは静かに言った。


「だが、家名を守るために親を討つという大義名分は、公爵家の名誉を永遠に汚す。その道はお前たちの道だ。私は関与しない」


 マリアンとソフィアは、重い沈黙の中で立ち尽くした。ローザ母上さえ、何も言えずにいた。


 協力が得られないまま、二人は書斎を後にしようとした。


 その時、エルドリアが最後の言葉を投げかけた。


「しかし、マリアン。その裏帳簿や、得られた情報は、決して手放すな」


 彼は、唯一残された右目で、マリアンを射抜いた。


「不正の証拠を握っているお前たちは、もう後戻りはできない。そして、もし父上が、その証拠を奪おうと、母上たちやお前たち姉妹に武力や非道な手段を行使することがあれば――」


 彼は自分のサーベルの柄に手を置いた。


「その時、私の剣は母上や、お前たちへの不当な危害を防ぐために、初めて動く。子が親を討つのではなく、命を守るという誓いのもとに。お前たちの計画が、単なる復讐ではなく、真に一族を守り、誇りを取り戻すための戦いだと、証明してみせろ」


 エルドリアは、協力を拒否したと同時に、マリアンたちに『公爵家を守る』という新しい道を探すという、新たな試練を与えたのだ。


 マリアンは、彼の拒絶と、その裏にある複雑な保護の意味を理解した。


 彼女は、断罪と復讐の意味を恥じていた。断罪は正義だが、復讐はただの暴力なのだ。


 それに、命が脅かされるとき、エルドリア兄様は私たちを守ってくれると言ってくれた。


 マリアンは、自分の短慮を反省し、次の行動を開始した。


(つづく)

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