アレオの魔物屋は今日も平和に絶対絶命!
僕は、アレオ。
しがない魔物ブリーダーだ。
王都の片隅で、スキル≪交配≫を活かし、依頼主の望む魔物を生み出すことで生計を立てている。
≪交配≫は、めちゃくちゃ希少なスキルだ。王国の長い歴史の中でも、確認されている使い手は、片手で数えられるほどしかいない。でも、実はけっこう有名だったりする。だって、歴史に残る伝説級の功績があるから。
昔々、とある侯爵令嬢がこの≪交配≫スキルを持っていた。その令嬢は東方の辺境伯家に嫁ぎ、やがて辺境伯夫人になった。
──ここまでは、よくある話。
でもそのあと、王国東端のフルクティス辺境伯領で、とんでもないことが起きる。
その夫人、セレナリア・フルクティスは、≪交配≫スキルで新種の動植物を次々と生み出した。
たとえば──水田がいらない稲。豚みたいに多頭出産する牛。まさしく農業革命だ。
ちょうどその頃、王国は東の隣国との戦争の真っ只中で、兵站が喉から手が出るほど欲しい状況だった。
そんななか、セレナリアは「騎乗可能な大型鳥型魔物」を開発した。“天上の神に届く”とまで言われた東の山脈を越えて、大軍を運んだのだ。
物資、補給路、機動力──それらすべてが、たった一人の女性の手によって実現された。まさに、ヴァルデンブルク王国の“聖女”。
もちろん、これは彼女一人の手柄じゃない。
スキル≪風魔法≫の名手であり、“英雄”と称されたヴァルドール伯爵による追い風のサポートや、王国騎士団の活躍もあってこその勝利だった。
山脈の向こう側、温暖で豊かな平地を手に入れた。
東の隣国は“元”隣国となり、その領土はフルクティス辺境伯領に併合。こうして王国で最も広く、最も豊かな領地が誕生した。
セレナリア夫人は、数々の伝説を残し、今でも貴族令嬢たちの「理想の女性像」として崇められている。
──で、そんなすごいスキル≪交配≫を、僕は持っている。だけど、僕は平民の息子。魔力量は……まあ、お察しください。
平民は基本的に魔力が少ない。魔力量は親からの遺伝だからね、今更どうすることもできないんだ。
王国では七歳になると、教会でスキルが授けられる。女神様からの祝福、ってやつだ。
その日、司祭様が僕のスキル名を読み上げた瞬間、教会の空気が変わった。
どよめき──からの、落胆。
……うん、わかる。こっちは泣きたいくらいだった。
すごいスキルを持ってても、魔力が少なきゃ何度も使えない。辺境伯夫人は魔力も財力も土地も家来もあって、ばんばん番を集めて≪交配≫して成果出してたけど、こっちは王都生まれの平民。金ナシ、土地ナシ、家来ナシ。全部ナシ。
教会にいた大人たちは口には出さなかったけど、顔に出てた。「もったいねぇ……」って。
だから今も、僕は王都の隅っこで、依頼書の束と、やまない鳴き声に囲まれながら、一匹一匹の魔物と向き合っている。
有用な農・畜産物は夫人が開発済み。だから、愛玩用の小型魔物の開発に特化した店を開いたってわけ。
……そして、今日もまた、新しい依頼が来た。
王国騎士団から、特殊任務指定。
「気性の荒いユニコーンを、交配・繁殖可能に」
……は? って思った。そりゃあもう。
でも──面白そうじゃないか。
伝説の夫人みたいに国を救えなくてもさ。
僕なりに、誰かの未来を、ほんの少し変えられるなら。それも、悪くない。よね?
物思いに耽っていると、店の入り口で鈴の音が軽やかに鳴った。
──あ、そうだった。
今日は、あの上得意様が来る日だ。
店内に入ってきたその男は、黒い。
ただ黒い服を着ているというだけじゃない。纏う気配そのものが黒いのだ。まるで、血と闇の色をその身に引き受けたかのように。
きっと、裏で悪いことをたくさんしているに違いない──そんな雰囲気を、全身からにじませている。
“花街の王”──イーライ。
第二都市カストルムノヴァに広がる花街。そこに軒を連ねる店々は、表向きこそ別々の経営に見えるが、実はすべて彼の所有だ。
そして、王都においても
“後宮”と称されるほどの美女たちが集う華やかな女妓の館。
“秘密の宝石箱”と呼ばれる男娼専門の館。
そのどちらもが、彼──イーライの手の内にある。
「いっ……いらっしゃいませっ!」
思わず椅子から飛び上がって挨拶してしまった。
「ふっ……とって食いやしねぇよ」
低く笑ったその声に、見上げるほど高い位置の瞳。怖い。怖すぎる。絶対、過去に何人か“食った”ことあるでしょ……?
……でも、今日は何かが違う。
その違和感の正体に気づいたのは、黒衣の大男の背後から、ひょこんと金色が顔をのぞかせたときだった。
その翠の瞳を見た瞬間──僕は、言葉を失った。
真紅のドレス、陽光のような金髪、宝石めいたエメラルドの瞳。まるで絵本の中から抜け出してきたような“お姫様”が、そこに立っていた。
今まで、貴族の邸宅に招かれて愛玩用魔物を売ったことは何度もあるけれど──こんなに綺麗な女の子は、見たことがない。
この国には王太子殿下はいるけれど、“お姫様”なんて存在しないはず。きっと、普段はお目にかかれないような“超”がつく高位貴族のご令嬢なのだろうか?
でも、なんでそんな子が“花街の王”と一緒に……?
「アダリア、大人しくしろ。ここで外套を脱いでもいいと許したが、話すことは許さないからな」
イーライ氏が、ぴしゃりと冷たい声で告げる。
アダリアと呼ばれた“お姫様”は、その黒い瞳を見上げて、翠の双眸をわずかに揺らした。
かっ……かわいい!!
あんな瞳で見つめられたら、僕ならなんでも言うこと聞いちゃうよ……。
アダリア嬢は、イーライ氏の言いつけを守るように、彼の上着の裾を華奢な手でぎゅっと握りながら、ニコニコとこちらを向いた。
……声を出してはいけない理由があるのだろうか?
外で外套を脱いではいけない理由なら分かる。あまりにも美人すぎるからだ。不埒な輩に秒で攫われるか、もしくは欲深い貴族に囲われてしまうに違いない。
……まさか、声も“可愛すぎる”のかな?
海の魔物・セイレーンだって、姿は人型でボン・キュッ・ボンだけど、男を惑わすのは“声”の方だし……。
美しすぎる声って、ほんと色々と……ね?
……って、ぼんやりしてる場合じゃない。
「え、えっと……本日は、どのようなご用件でしょうか? お手紙には特にご指示がありませんでしたので……ご所望の子がいれば、お教えいただければと!」
僕は慌てて姿勢を正して、商売用の笑顔を浮かべながら、イーライ氏に問いかけた。
「ああ、アダリアは“しっぽちゃん”──間違えた。尻尾付きスライムに興味があってな」
「えっ!? 尻尾付きスライムですか?」
思わず声が裏返った。てっきり、もっとモコモコしてて、可愛いい系の魔物を希望されるかと思っていたのに……スライム? しかも尻尾付きの方??
でも、それって──
ちらりとアダリア嬢に視線を向けると、彼女は顔の前でそっと指を組み、キラキラした瞳で、こちらをじっと見つめていた。
……うっ! お願いのポーズ……!
声を発さずとも、こちらの理性が危うくなるほどの“魅力”がある……これは反則だ……。
よ、よし、早く案内しなきゃ!
「す、すぐにご案内いたします! スライムは特別管理魔物に指定されているため、現在は三階で隔離飼育しております。少々手狭な店舗ですが、どうぞこちらへ──」
「……不満か?」
低く響く声に、心臓が跳ねた。
そっか、ここ……花街の外れにあるこの建物、持ち主はイーライ氏だった。この人、金貸しも、土地の売買も、なんでもやってる。
「い、いえいえっ! 滅相もございません。この店は、僕にはもったいないくらいでして! 王都で三階建て、しかも地下二階まである建物を、あの価格でお貸しくださったご恩、決して忘れません!」
魔物の飼育には、ある程度の広さが必要だ。それを王都でまかなうなんて、普通なら考えられない。通常は、王都を囲む隔壁の外──郊外にある農地に、魔物牧場を設けるのが主流だ。この場所での営業は、花街の王・イーライ氏の庇護がなければ実現しなかった。
おかげで、清掃用スライムや浄化槽用大型スライムを、王都中の商店や貴族の屋敷に即納することができる。
それに、尻尾付きスライムのように大量消費される魔物も、使用頻度の高いウィリディスへ徒歩で納品できる距離だ。イーライ氏がこの立地を貸してくださったのも、もしかするとそれを見越してのことだったのかもしれない。
「冗談だ。もっと広い場所が必要なら、いくらでも用意してやる。何かあれば、遠慮せずに言え」
……え?
イーライ氏が、爽やかな笑みを浮かべている。
……誰ですか、この人。
さっきまで“何人か葬ってきました”みたいな顔してたのに。まさかの、好青年っぽい笑顔。
そう、この人──めちゃくちゃ怖い雰囲気なのに、顔は色気にあふれる"超男前"なんだよね。
花街を歩けば、厳つい護衛を引き連れていても絵になるし、店の窓から顔を出した娼婦のお姉さんたちが、毎回のように黄色い声を上げてる。たまに男娼のお兄さんたちも声をかけてるし。
経営者なのに従業員から秋波を送られるって、なんなんだ……って思ってたけど。
今の笑顔、ヤバい。
ギャップがすごすぎて、男なのに恋に落ちそうになるじゃん……いや違う、これは恋じゃない。ただの恐怖。心拍数が跳ね上がってるだけ。自律神経がバグってるだけだ。
落ち着け、自分。案内、案内!
「こちらの階段から、お上がりください」
案内役として一歩前に出て、階段を上り始める。アダリア嬢も、その後ろにぴったりと続いてきた。
あっ、レディファースト……!
イーライ氏が、まるで貴族の男性のように優雅にエスコートしている。意外すぎる光景だけど、妙に様になっている。そして、そのエスコートを当然のことのように受けるアダリア嬢。動きに品があって、育ちの良さが滲み出ていた。
階段を上りながら、何度か後ろを振り返ってしまう。
アダリア嬢は、背が高い。イーライ氏の影になっていて気づかなかったけれど、僕と同じくらいあるかも? ヒールを履いているのかな? ご令嬢って、きっと色々と大変なんだろうな……
目が合うたびに、にこにこと微笑まれて、危うく恋に落ちそうになる。いけない、前を向こう……!
やっとの思いで三階にたどり着き、僕は鍵を開けて室内へ二人を招き入れた。
そこには、数百もの瓶に入れられたスライムたちが、真昼の陽光を浴びてキラキラと輝いていた。
色付きの個体もいるので、半透明の体を光が通り抜け、床に鮮やかな彩りを添えている。
これだけの数がいると、スライムが空気中の不純物まで食べてしまうので、王都にいながら山頂のような清涼な空気だ。僕はこの空間、けっこう気に入っている。
アダリア嬢は、スライムに負けないほどのキラキラした瞳で、それらを食い入るように見つめていた。
……女の子って、光るものが好きだよね。笑わなければ近づくことさえ恐れ多いくらいの美人なのに、人好きするような笑顔で、こっちの心まであったかくなる。
「こりゃ、すごいな」
イーライ氏が、感嘆の声を上げる。
「イーライ様のおかげで、スライム事業は好調です。清掃用、医療用、あとは……娼館で使用するタイプも。ここには回収したスライムが集められて、個体別に培養しています」
「再利用してるのか……臭くはねぇんだな?」
「はい。スライムは貪食性が高いので、有機物はすべて分解してエネルギーに変換し、自己増殖に利用します。なので、臭いはまったくありません。とはいえ、気分的にお嫌な方もいらっしゃると思いますので、僕の店では同じ個体を再納品することはありません。ここで分株して、子ども個体をお納めしています」
「ははっ、そのうち王都中、お前のスライムだらけになりそうだな」
イーライ氏が皮肉げに笑う。
「そ……それは、ないとは言い切れないのですが……実は最近、スライムの育ちが、妙にいいんです」
僕は、スライムを見つめる。
「それも尻尾付きが。すぐに分裂するんですよ。僕の予想だと……教会に卸している寝たきり患者の排泄物処理用尻尾付きスライムに、≪聖魔法≫持ちの方が触れて、それがスライムを活性化させたんじゃないかと……」
突然、アダリア嬢とイーライ氏が目を合わせた。
あっ……まずい!
貴族令嬢の前で話す内容じゃなかったかも!
「尻尾付きってことは、うちの娼館で使ってるのと同型か? それを教会に卸してるってことか?」
セーフ、セーフ!!
怒られなくて、よかった!
「あっ、はい。そうです。娼館向け直腸洗浄用の尻尾付きスライムは、医療用として教会にも卸してます。そのうち何体か、異様なスピードで増殖するんです」
イーライ氏の纏う“闇”が、さっきよりも濃くなった気がした。明るかった室内が、急に影を落とされたように──まるで、地下牢に閉じ込められたみたいに空気が重くなる。何が、不穏な空気の理由になったのかまったく分からない。
「……≪聖魔法≫の残滓が、残ってるってことか?」
イーライ氏の低く重い声が響いた。
そこで、僕はハッとした。
──そうだ。イーライ氏は、教会に入れないんだ。この国では、“春を売る者”は国教会の教義によって立ち入りを禁じられている。たとえお布施を払っても、≪聖魔法≫による治療は受けられない。病に倒れても、施しはなく、自力で回復するしかない。
……もしかして、≪聖魔法≫の残滓でもいいから、何かしらの癒しの効果を期待している……?
「ご期待に添える回答にはならないかもしれませんが、スライムの増殖率が上がるだけで、次世代には引き継がれませんし、治癒効果もありません。それに、回収は月に数回まとめて行うので、どの個体かも判別できません」
イーライ氏の沈黙が数秒続いたが、やがて、ほんのわずかに空気が緩んだ。
「確かに。うちも回収時は全個体まとめて壺に放り込んで渡してるな。そりゃ特定はできねぇわな。……そういや、壺の中じゃ増えねぇのか?」
話が逸れた……!
さっきは、命の危機すら感じたけど……どうやら、まだ首は繋がってるみたいだ。
少しだけ、呼吸が戻ってくる。
「あっ、それは! こうして日に当ててやらないと、増えないんですよ。だから、ガラス瓶で飼育してるんです」
僕は窓ガラス越しに差し込む陽の光のなかで、じっとしているスライムたちを見つめた。
「暗くて狭いところが好きなスライムなんですが、増殖には陽光が必要なんです。不思議な生態ですよね」
アダリア嬢も、まるで宝石を見るようにスライムたちに目を奪われている。そういえば、尻尾付きスライムに興味があるって言ってたけど……ご家族に、寝たきりの方でもいるのかな?
「二階には、小型の可愛い子たちがたくさんいますよ。ご覧になりますか?」
そのひと声に、アダリア嬢の瞳がぱっと輝いた。言葉を交わさずとも、大きな瞳が「見たい」と物語っている。
イーライ氏はふぅ、とため息を吐いたあと、
「気に入ったのがあっても、買わねぇからな」
とぼやきながら、アゴをしゃくって僕に「さっさと案内しろ」と合図してきた。
僕の後ろを、ぴょこん、ぴょこんと効果音が聞こえてきそうな足取りで、アダリア嬢が着いてくる。
ふわっと、お花畑みたいな甘い香りが漂って──うわぁ……香りまで可愛い。……と、うっかりとろけそうになったところに、ビリッと鋭い視線が刺さる。
出所は、もちろんイーライ氏だ。
は・や・く・し・ろ──と、目がはっきりそう言っていた。
僕は思わず背筋を伸ばして、恐る恐る早足で階段を下り始めた。
二階に降りると、飼育室はほんのり温かい陽射しと、乾いた木材の香りに包まれていた。
床は磨き上げられた木の板張りで、ところどころに敷かれた色とりどりのラグが、足音を柔らかく吸い込んでいく。
ガラスケースや魔力温度管理つきのケージがずらりと並び、それぞれの中で小型の魔物たちがちょこんと身を寄せ合っていた。
毛玉のように丸まった《モモン》や、瞳の奥に星がきらめく《ルナリスキャット》。音に反応して耳をピコピコ動かす《ポンポコ》……。
アダリア嬢は、目を見開いて展示ケースに駆け寄ると、手を添えて中を覗きこんだ。
その頬がふんわりとゆるむ様子は、まるでお菓子を選ぶ子どものようだった。
……あんなふうに笑うんだ。
ちょっと、いや、だいぶ……反則級に可愛いな、あれ。
僕が目を細めて見守っていると、ふと背後から鋭い視線が刺さってきた。
振り返ると、イーライ氏が腕を組んで立っていた。
魔物には一瞥もくれず、ただひとり、無言のままアダリア嬢を見つめている。
その眼差しには、獣のような警戒と、祈りにも似た静けさが同居していた。
その存在感に圧されたのか、魔物たちはいつもより落ち着きがない。
……恐るべし、花街の王。
アダリア嬢がじっと見つめている魔物に、僕もそっと視線を向けた。
「この子は、《グリモキン》といって、声真似が得意なんです。『おかえり』とか『おつかれさま』とか、愛玩用にも使い魔としても人気ですよ」
そう言ってケージを指差すと、アダリア嬢がぱっと振り向き、期待に満ちた顔で僕を見つめた。
……あっ、駄目だ。この顔されると、サービス精神が暴走する……!
「よ、よかったら、抱いてみますか? この子は森で僕が見つけた子なんです。人懐っこいから噛んだりもしませんよ」
アダリア嬢はぱぁっと顔を輝かせ、小さく何度も頷いた。
そのとき──
「おい」
低く落ち着いた声が、僕の背後から響いた。
……イーライ氏、今度は何ですか。
「絶対、噛むなよ」
えっ、僕が? いや、違う。グリモキンの話だよね、たぶん。
「……は、はいっ! 絶対に噛みません! この子、そもそも鋭い歯はありませんし、爪もきちんと研いであります……! えっと、子爵家の三歳のご令嬢が、この子の産んだ幼体を購入された実績もありますので、だ、大丈夫です!」
僕はしどろもどろになりながら、小声でまくし立てて、そっとケージの鍵を開けた。
グリモキンは、穴熊のような見た目の魔物だ。森で交配に適した個体を探していたときに偶然見つけた子だ。人懐っこくて、本当に野生で生きてたの?ってくらい懐いてた。檻にも入れず、肩に乗せて店まで帰ってきたっけな。
そんな思い出を反芻しながら、アダリア嬢にそっと手渡そうとした、
その瞬間──
「やめてくれぇえ!!」
突然、悲壮な男の叫びが室内に響き渡った。
「食べないで! 怖いよ! お母さん、助けて……!」
幼子の震える声。
「キャアァァァアアア!」
絹を裂くような、女の人の悲鳴。
「化け物──っ! あっち行け! 来るな! 来ないでくれ、来ないで──あ゛あああああああ!!」
……断末魔だった。
声の出所は、小さなグリモキン。
その体の大きさからは到底信じられないような、地の底から響く絶叫が、狭い展示室に反響する。
その“叫び”に呼応するように、飼育室中の魔物たちが一斉にガサガサと暴れだした。さっきまで愛玩魔物だったはずの彼らが、一瞬で“野生”へと変貌する。
金属のケージが軋む音、羽ばたき、吠え声……そのすべてが空間を震わせ、恐怖を何倍にも増幅させていく。
この子は──何か得体の知れない魔物が人を捕食した瞬間の“音声”を記録していた。そして、今それを再生している。だが、その“相手”は……
冷や汗が、背中をつうっと伝った。
高位貴族のご令嬢に対しての非礼──その言葉が脳裏をよぎった瞬間、思考の中に最悪の文字が浮かび上がる。
……無礼打ち。
もし、今の騒ぎが“侮辱”と取られたら?
もし、アダリア嬢が泣きでもしたら?
グリモキンも僕も、まとめて“処分”される……
いや、そこまでいかずとも、イーライ氏の機嫌を損ねたら──
考えたくない未来が、脳裏に次々とわいてきて、頭の中が冷えていく。
僕の手の中にいるグリモキンは、狂ったように暴れていた。その柔らかい体が逃げようと必死にもがき、爪のない手で僕の指をガリガリと引っ掻く。
でも、僕の指は勝手に力を込めてしまっていた。まるで溺れる人が藁をも掴むように──この小さな魔物に縋るように、手放せなかった。
全身の力が抜けかけた。
膝が、わずかに震えていた。
何か、何か言わなくてちゃ!
「え、えっと……! この子は、野生時代に覚えた言葉をたまたま再現しているだけで、意味はない、はずでして……こ、こんなことは初めてで、僕も……あの、ちょっと分からず……!」
言葉が舌の上で転がって、まとまらない。
「まぁ、こうなる気はしてたけどな。……そいつ、ゲージに戻してやれ」
イーライ氏の低い声が、落ち着き払って響いた。その声に触れて、忘れていた呼吸がようやく戻る。僕はグリモキンをケージに戻し、静かに鍵をかけた。
ハッとしてアダリア嬢に目を向けると、彼女はさっきまで差し出していた両手をそっと引っ込め、悲しそうな目をして、静かに俯いていた。
「アディ、気落ちするな。お前は、そういう“星の定め”なんだ」
「……え、えっと……?」
「悪い、驚かせちまったな。アダリアは昔から、動物に極端に嫌われるんだ。猫にも触れたことがない。スライムが平気だったから、魔物ならいけるかと思ったが……無理だったみてぇだ。先に言えばよかったな」
高位貴族のご令嬢で、動物に嫌われる……それって、もしかして──
「魔力量が多すぎて、怖がられているのかも」
思っていたことを、つい口にしてしまった。
俯いていたアダリア嬢が、ぱっと顔を上げる。
「あ……そういうことか。生き物として、強すぎて、動物や魔物に恐れられてるってことか。やっと納得がいった」
「あの……これは、魔物愛好家のあいだでは有名な話なんですが──≪風魔法≫の使い手、英雄イーリア・ヴァルドール伯爵が、鳥型魔物に騎乗せず、自身の魔法で浮遊して戦ったのは……“魔物に畏れられていたから”という言い伝えがあるんです」
イーライ氏とアダリア嬢の目が、同時に大きく見開かれた。
「その魔力量を引き継いだ現ヴァルドール伯爵も、森に入れば魔物たちが畏れ慄き、姿を消すそうです。小型の魔物は、魔力量も少ないので、自分より強い存在に対して本能的に警戒するのかもしれません」
ふたりは、納得したようにゆっくりと頷いた。
……こんな時でさえ、魔物の話になると、僕の口は止まらない。
「スライムは、知能がほとんどありませんから、そういった本能的な恐怖を感じることがないんだと思います」
そこで、少し言いよどむ。
「もしかしたら、アダリア嬢と“同等の魔力量”を持つ魔物なら触れられるかも……」
「ヴァルドール伯爵でも、触れるような魔物はいるのか?」
言葉を探していた僕に、イーライ氏が静かに問いかけてくる。
「そうですね……魔力の多い魔物といえば、ドラゴンや精霊……あっ、女性と言えば──女性の守護精霊、ユニコーンでしょうか?」
「あっ……」
イーライ氏とアダリア嬢が、また目を見合わせる。アダリア嬢は頬に指を添えて、どこかもじもじしている。
「あっ……」
今度は、こっちが声を漏らしてしまった。
──やばい、気づいちゃった。
ユニコーンは、処女の守護精霊。
そして、この反応。
ふたりの関係は……頭の中に桃色の想像が一気に溢れ出す。
「まぁ、そういうことだ。コイツはユニコーンにそっぽ向かれるだろうな。アダリア、諦めろ。お前が触れていいのは──人間だけだ」
そう言って、イーライ氏はアダリア嬢の腰を意味深に抱き寄せた。彼女も抵抗することなく、悲しそうに彼の胸元にコテンと頭を傾ける。
あ゛ーーーーーーーっ!!
妄想が当たっちゃったぁあああ!!!
花街の王が、貴族のご令嬢に手を出してる!!!
どこから攫ってきたの!?
いや、昔馴染みっぽいし、無理やりってわけじゃ
……ない……?
頭が爆発しそうになり、僕はなんとか冷静さを取り戻そうとする。
話題を、強引に──魔物の話に戻すしかない!
「あっ、あのっ! あるいは、虫型や魚型の魔物なら、触れるかもしれません!」
「ここにいるのか?」
「はい。虫型は王都では不人気なので……魚型に近いものを、地下の水槽で飼育しております」
「よし、じゃあ連れて行け」
そう言われて、僕はホッと胸を撫でおろしながら先導した。階段を降りながら、説明を続ける。
「魚と魚型魔物の違いは、動物と魔物の違いと同じです。魔力を持っていて、魔法が使える──という点ですね。水魔法を使って攻撃したり、風魔法で浮遊したりもします。あと、普通の魚より少し知能が高いので、餌付けしたり芸を覚えさせたりもできます」
地下の入り口にたどり着き、鍵を開けて扉を引く。
冷たい空気がすっと流れ込んできた。
「僕は、そういった魚型魔物に他の魔物を掛け合わせて、王都の家庭でも飼えるような種を作り出しました。実は……その中でも、今日お見せする子たちは自信作でして。こうしてご案内できて、嬉しいです──」
そう言って、僕は昼でも真っ暗な地下室に足を踏み入れる。後ろを振り返ると、ふたりの顔は影になっていて表情が読み取れない。たぶん、こう思っているだろう。
「なぜ、灯りを灯さないのか」と。
そこで、僕は声をかけた。
「明るくして」
僕の声に応えるように、光がゆっくりと灯り始める。薄明かりの中、まず目に入ったのは──ほのかな光。
青白い光がふわりと宙に浮かんでいた。クラゲ型の魔物だ。
半透明の体が淡く発光し、リズムよく揺れる触手をゆらゆらと漂わせながら、まるで重力から解き放たれたように、優雅に宙を泳いでいる。
「……わぁ」
背後から、アダリア嬢が小さく息を呑む声が聞こえた。
光に導かれるようにして、次に姿を現したのは
──長い尾と優雅な鰭を纏った、シードラゴン型の魔物。
しかし、その輪郭はどこかおぼろげで、完全に姿を捉えきれない。
それもそのはずだ。
この子たちは、海に住む魔物にゴースト系を掛け合わせて生まれた個体なのだ。
深海を泳ぐ幻の生き物が、そのまま空に浮かんでいるような──そんな幻想的な光景が、目の前に広がっていた。
クラゲ型の魔物がふわりと進み、僕たちの方へと近づいてくる。かと思えば、するりと僕の肩をすり抜け、そのままアダリア嬢の身体を通り抜けて──
光の粒だけを残し、空中を漂っていく。
シードラゴンもまた、滑るような軌道で彼女の背中を抜け、壁の向こうへと消えていった。
どちらも、何ひとつ触れずに。
まるで、この世のものではないかのように。ただ静かに、ただ美しく。
この子たちは、魚が水から出られないように、闇の中から出ることができない。だから──地上へ行ってしまう心配はない。
僕は、息を詰めたまま、しばらくその光景に見とれていた。
「これは……」
イーライ氏の声が、珍しくかすれて聞こえた。
アダリア嬢も言葉を失ったまま、ただ、微笑んでいた。
ああ──
これを、見てもらえてよかった。
この光景を知っているのが、自分ひとりじゃなくなっただけで、胸の奥がじんわりとあたたかくなっていく。
光に包まれた空間の中──アダリア嬢が、そっと一歩を踏み出した。
それは本当に、わずかな動きだった。
けれどその一歩に、クラゲ型の魔物がふわりと反応した。柔らかく発光するその体が、まるで彼女の動きを歓迎するかのように、そっと周囲を旋回する。
続いて、他の個体たちも、静かに彼女へと集まっていく。
光の触手が、髪の間をやさしくくぐり抜け──
尾を引く光の粒が、彼女の頬をかすめて──
まるで祝福のように、すべての魔物が、彼女のまわりを静かに漂いはじめた。
誰ひとり、怯えない。
逃げもしない。
ただ、静かに、やさしく
──彼女を中心に、光が巡る。
この魔物たちは、彼女を“畏れない”。
やがて、アダリア嬢の肩に、一体のクラゲ型がそっととまった。触手が彼女の髪をなぞり、きらきらと光が滴る。
それはまるで──少女が、光でできたベールを纏うような瞬間だった。
彼女の輪郭が、発光する魔物たちの光でやわらかく染められていく。
幻想的という言葉では、足りない。
夢だった。
この世のどこにもない、夢の光景だった。
「……アディ」
低く、胸の奥から絞るような声が、僕の背後から聞こえた。
振り返らずとも、それが誰の声かはわかっていた。
「……良かったな」
イーライ氏が、破顔していた。
いつものように不遜でも、狡猾でも、冗談まじりでもない。ただ、彼の本心がそのまま溢れたような──そんな、優しい笑顔だった。
彼女が手を伸ばす。
魔物が、その指先を受け入れるように漂う。
光と少女。
魔物と“秘密をまとう姫”。
そしてその姿を、静かに、心の底から愛しげに見つめる“王”。
誰にも邪魔されない、閉ざされた地下の楽園。
浮遊する光の粒が、ふたりのあいだを漂いながら、柔らかく、空気を照らしていた。
僕は思わず、息をのんでいた。
この場にいていいのか迷うほどの、“愛”に満ちた空間。
魔物たちの光は、すっかりアダリア嬢を包み込んでいた。そして彼女は、イーライ氏の方へと振り返り、
光のヴェールを揺らしながら、そっと微笑んだ。
イーライ氏は、その頬を両手で包み込む。まるで、大切な宝物を扱うように、優しく。
アダリア嬢は、拒むことなくすべてを受け入れるようなまなざしで、彼を見つめていた。
──あっ……これは、結婚式だ。
ここは教会で、僕は司祭。
これから“誓いの接吻”が始まるのでは……?
そんな予感さえ抱かせるような、甘く、静かな空気の中。
イーライ氏は、彼女の額に、
子どもにするような軽やかな口づけを落とした。
アダリア嬢は、嬉しそうに──
にこにこと、穏やかに微笑んでいる。
び、びっくりした……!!
花街の王と姫の密やかな逢瀬を見てしまったら、
もう、生きて帰れない。……たぶん。
「アレオ、ありがとな」
ぽつりと、イーライ氏がつぶやいた。
「えっ……」
あまりの衝撃に、意識が一瞬飛んだ。
そんな僕を置き去りにして、
アダリア嬢は上機嫌にイーライ氏の手を掴むと、くるりとその場で回った。
暗がりの中、魔物が放つ光に照らされ、スカートの裾がふわりと広がる。
まるで舞踏会が開かれる王宮の一室──そう見間違えるほど、美しかった。
イーライ氏も戯れに付き合って、手を高く掲げる。アダリア嬢が回りやすいように、優雅にエスコートする。
ふたりの瞳が輝きを宿し、音もなく舞が始まる。
言葉はない。けれど、目線だけで通じ合い、狭い飼育室の空間を、縦横無尽に舞い続ける。
それは、何度も同じ時間を過ごしてきた者だけが持つ、確かな絆を感じさせた。
──もし、今ここで僕が≪交配≫スキルを使ったら、何が視えるんだろう。
目に魔力を込めれば、年齢、性別、形質、種の量、卵の数、相性──さらには、スキルすら……。
でも、それを人間に対して使うのは、きっと“してはいけないこと”だ。マナー違反だと思うから、僕は一度も使ったことがない。
≪交配≫スキルが有名なのに、その詳細が語られない理由。きっとそれは──持ち主たちが、ずっと隠してきたからだ。
だから、僕も……先人たちを見習おう。
無粋なことはせず、この夢のような光景に、ただ酔っていたい。
花街の王は、まるで妖精王のように。
威厳と慈愛を湛えた瞳で、最愛を抱き、舞う。
妖精の姫は、瞳をきらきらと輝かせて──王の腕の中で、幸せそうに舞い踊る。
従属する魔物たちは、ふたりを祝福するように淡い光を灯して、舞台を彩っていた。
完璧なリードは、姫を縛るものではなく、解き放つもの。姫はすべてを王に託し、ただ美しく、心のままに舞う。
──ここは、深海か。あるいは森の奥か。人の手が届かぬ、未踏の幻想世界。
王と姫、ふたりを守る魔物たちが棲まう、異界の王国。
もしこの二柱が、番ったとしたら。
そのとき、どんな“魔物”が誕生するのか──心の隅に湧き上がる好奇心を、僕はかろうじて押し殺した。
異世界に突然巻き込まれた僕は、
ただ、その光景を、目に焼き付けることしかできなかった。
そして──ふたりは、腕を絡ませたまま静かに部屋を一周し、やがて、階段の方へと向かっていく。
慌てて僕も、そのあとを追った。
イーライ氏に優しくエスコートされたアダリア嬢を先頭に、僕たちはゆっくりと階段を登っていく。
やがて辿り着いたのは、一階。
入り口の扉の向こうには──きっと、また別の物語が待っている。
そんな、新しいものに出会える希望のような気持ちに、胸が満たされた。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました!
この物語は、ゆるっと楽しく、でもちょっとハラハラ……そんな空気を目指して書いています。楽しんでいただけたなら、これ以上の幸せはありません。
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また別のお話で、あるいはこの続き──
姫の正体や、花街の王との関係が深掘りされるお話や、
学校帰りにバイトに来る元気すぎるテイマーちゃん&
アレオを勝手に“師匠”呼びしてくるクセの強い男子(通称:歩く魔物図鑑)との、
平和なのに絶体絶命な続編でお会いできたら嬉しいです。(需要、ありますか……?)
それでは、また。