『アリたちの春、トカゲへの行進』
『アリたちの春、トカゲへの行進』
森の北東、風雨に耐えた大きな切り株の下に、アリの王国があった。
朝日が森を照らす頃、何万ものアリたちは巣から這い出て、枯れ葉や種子、花の蜜を巣へと運んでいた。
冬を越すため、子供たちを育てるため、そして森の未来のため。
汗の結晶が実りをもたらす。それが彼らの誇りであり、希望だった。
だが、最近、巣の隅々から不満のつぶやきが聞こえ始めていた。
「何かがおかしい。どれだけ働いても、蓄えが増えないんだ」
「収穫の半分が"徴収"だなんて。いつからそんな馬鹿げた決まりができたんだ?」
「このままでは、冬を乗り切れないかもしれない」
巣の中央に聳える「算木の塔」からは、月に一度「新たな徴収方針」が告げられる。
そのたびに、アリたちの蓄えはトカゲ官僚たちの「徴収袋」に吸い込まれていった。
森の掟を管理する「財務庁トカゲ局」。
鋭い視線を持つ青灰色のトカゲたちは、定期的にアリの巣を視察し、帳簿をめくりながら「森の安定した未来のため」と口実を設けては徴収を繰り返す。
さらに彼らは、自分たちの食卓には高級なカブトムシの蜜や、クマたちの特製ハチミツなど、上質な食材ばかりを並べていた。
「何かおかしいと感じている。だが、どうすればいいのか…」
年老いたアリは胸の内を吐露した。
アリたちの頭上、高い木の枝に止まったフクロウがいた。
森の知恵者として名高く、昼は眠り、夜は全てを見通す目を持つ者だ。
「なぜアリたちは反抗しないのだろう。搾取されているのは明らかなのに」
若いフクロウが問いかけた。
「怒るには、まず"気づく"必要がある。しかし森には"気づかせない仕組み"が張り巡らされているのだよ。
その仕掛けを作ったのは、あのトカゲたちだ。彼らは数字と情報を操り、偽りの正義を演じている」
老フクロウは、深い叡智を湛えた目で答えた。
そんな折、一匹の若いネズミが、アリの巣の入り口で声を上げた。
「君たち、どうして懸命に働いているのに、蓄えが減っているんだい?」
「森の未来のためさ」
「じゃあ、その"未来"はいつ訪れるんだい?」
「……」
その瞬間、アリは答えに窮し、何か大切なものが崩れ落ちる音を心の中で聞いた。真実の扉が開いてしまったのだ。
「これは…パンドラの箱を開けてしまったようなものだ」と老フクロウは後に語った。「真実という名の災いが、もう元には戻らない」
ネズミは小さな体を駆使し、森中の巣を訪ね歩き、スズメたちの「鳴き声ネットワーク」を活用して、森の住人たちにこう呼びかけた。
《三月十四日、森の中央広場で「虫たちの春」を開こう。テーマは「食糧の行方と、トカゲの腹の内」。集まって、共に考えよう!》
最初は誰も耳を貸さなかった。
しかし、草の葉の裏、朽ちた木の根元、淀んだ水たまりの傍ら……アリもリスもカエルも、次第に声を上げ始めた。
「確かにおかしいよな」
「一度くらい、行ってみてもいいかもしれない」
三月十四日。
森の広場には想像を超える数の生き物たちが集結した。
最前列には、勇気を出して巣を抜け出してきた無数のアリたち。
その背後には、小さな鳴き声を上げながら列を成すネズミたち。
木々の上ではリスたちが手作りの旗を振り、カエルたちは太鼓のように腹を叩いた。
空からはスズメやカラスも舞い降り、「これほどの集会は大嵐以来だ」と囁き合った。
そして誰かが叫んだ。
「トカゲ退治! 食糧返せ!」
その叫びは波紋のように広がり、幾千もの声が重なり合った。
「報われぬ労働に終止符を!」
「蓄えを巣に還せ!」
「トカゲの腹ばかりが膨れ上がっている!」
怒号と共に、広場を埋め尽くした生き物たちは「行進」を始めた。
幾千もの足音が大地を揺るがし、古木までも震わせる。
算木の塔の最上階では、トカゲたちが青ざめた顔で事態を見守っていた。
「何が起きているんだ! なぜ奴らがこれほど集まった? 監視していたはずだろう!」
「…ネズミの連絡網が予想以上に効率的でした。鳥たちの協力があったようです」
「これは危険だ…これ以上、彼らを怒らせてはならない。かといって妥協もできん」
「我々の正当性を、論理で示すしかありません。森の未来のために
その時、広場では、一本の木の根元に登った若いアリが熱弁を振るっていた。
「僕たちはずっと信じてきた!『未来のため』という言葉を!
でもね、未来とは、"今日"の積み重ねじゃないか?
今日の犠牲の上に"未来"を掲げるのは、欺瞞だと思う!」
「君たちは、僕たちの蓄えを"計算の帳尻合わせ"に使っている!
それで本当に、森は豊かになるのか!
いや、トカゲの腹だけが膨らむだけじゃないか!」
その訴えに、フクロウが木の上から答えた。
「アリたちよ、今こそ"怒り"を"問い"に昇華させるのだ。
単に奪い返すのではない。どうすれば共存できるかを、突きつけるのだ」
「だが、パンドラの箱から逃げ出した真実という名の災いを見た今、希望はどこにあるのだろう」とカエルが問うた。「もう元には戻れないのに」
フクロウは長い沈黙の後、ゆっくりと答えた。
「パンドラの箱の底に残されたものは何だったか、覚えているか?それは希望だ。真実を知った者だけが見出せる、本物の希望がな」
こうして森の中央での行進と演説は、夜明けまで続いた。
そしてついに、トカゲたちは新たな「森の協定」を発表せざるを得なくなった。
「徴収は、すべて"住民審議会"の承認を必要とする。
情報は全て公開し、"未来のため"という言葉を用いる際は、具体的な根拠を示さねばならない」
これに、森の仲間たちは拍手喝采で応えた。
だが、これは始まりに過ぎなかった。
トカゲたちはまだ森の隅々に潜んでおり、新たな帳簿の仕掛けも次々と編み出されていた。
けれど——
あの日、ネズミが勇気を出して声を上げたこと。
アリたちが恐れを乗り越えて巣を飛び出したこと。
フクロウが深い知恵を伝えたこと。
そして、森全体が「問いかけること」の大切さを思い出したこと。
それは、間違いなく"春"の訪れだった。
だが、開いてしまったパンドラの箱は、もう閉じることはない。
真実を知ってしまった森の住人たちは、もはや以前の生活には戻れなかった。
「真実を知った今、希望はどこにあるのだろう」
この問いが森中でささやかれた。
老フクロウは、満月の夜、こう語った。
「パンドラの箱の底に残された最後の一つ、それが希望だ。真実という名の災いを見つめた後にこそ、本当の希望は姿を現アリの女王は、巣の最深部で思った。
「希望とは、過去に戻ることではなく、知ってしまった真実と共に生きる道を見つけること」
アリたちの春。
それは、トカゲに奪われた"冬"を取り戻すための、長く熱い季節の始まりだった。
そして、開かれたパンドラの箱の底に残された希望を、共に探す旅の始まりでもあった。