僕と親友と剣道小町と ~剣道少女の憧憬~
整理しよう。
蘇芳里和は、強さを追求した。勝利の実感を味わうために。相手を完膚なきまでに叩きのめし、勝利の恍惚に酔いしれるために。
より強い相手を求め、蘇芳は杉村恭一に目をつけた。
そして勝負を挑み、敗北を喫した。
それを機に蘇芳里和は己の本性のおぞましさに気付き、剣道を辞めた。
しかし最後にけじめをつけるため、杉村恭一との再戦を望んだ。杉村恭一を更生させるために。
「蘇芳は、自分が杉村に勝つことで、杉村を更生させられると思ったんだろうな」
それが可能だったかどうかはもう分からない。荒唐無稽な話だとは思うけれど、しかしひょっとしたら、とも思わないでもない。けど、それを考えることがそもそも無意味だ。
彼女の登場を待つまでもなく、杉村は更生してしまったからだ。
「蘇芳は、杉村との再戦を心の支えにしていたんだ」
彼女にとって、動機はどうあれ、剣道は生き甲斐だったのだ。ひたすらに、ひたむきに、剣道だけに打ち込んできた。しかし杉村に敗北したことで彼女は己の過ちを恥じ、そして剣道と決別する決意を固めた。
その決断が蘇芳にとってどれほど重かったか、僕には計り知れない。
剣道を失った蘇芳里和は、何を生き甲斐にすればよかっただろうか? 蘇芳にとって剣道は何にも代え難いものであったはずで、当然その代替物など、容易に見つかるはずもない。
だから蘇芳は、杉村恭一に縋ったのだ。
杉村恭一に勝って、更生させる。
そんな目的を掲げることで、蘇芳は一意専心自己修練に努めた。
そうでないと、空っぽになってしまうから。空虚な自分を蘇芳はよしとしなかった。
「でも、蘇芳は知ってしまった。杉村はもはや、蘇芳が再戦を望んだ杉村恭一ではなくなってしまったことを。蘇芳は失望した。剣道を辞めてからずっと、杉村に勝つことを生き甲斐にしていたのに、それも失われたんだから」
杉村が更生したことそれ自体は喜ぶべきことなのに、蘇芳が激昂した理由が、それだ。
「一体私は何のために、何をやっていたんだ」
蘇芳はそう言った。自分が今までやってきたことは、何だったのかと。
「……これが、蘇芳の『事情』だ」
蘇芳に話を聞いた翌日。
昼休み。
僕は栂椹を生徒会室に呼び出し、蘇芳から聞いた事情を彼女に報告した。
蘇芳里和が、剣道部に入ることを頑なに拒む理由。
「……そっか。そんなことが」
話を聞いている間、栂椹は時折怪訝そうな表情を浮かべながらも、真剣に聞き入っていた。
栂椹からしてみれば、蘇芳の言っていることはきっと理解が及ばなかっただろう。はっきり言って、蘇芳の言い分には合理性がない。暴力に酔いしれていたことといい、杉村に勝とうと思ったことといい、一般的には理解しがたい感情の働きだ。
「蘇芳さんは、暴力に酔っていた自分には、剣道をやる資格がないって思ってる、ってことだよね」
「そうだな、そういうことだと思う」
「……雄漂木くん、蘇芳さんは、今でも剣道をやりたいのかな」
「どうだろう。本心では、やりたいと思ってるかもしれないな」
蘇芳は、理由がなんであるにせよ、剣道が好きなはずだ。
敬意を払っている、といってもいい。そうでなければ、「自分には剣道をやる資格がない」なんて言葉は出てこない。
「……ウチね、雄漂木君。剣道を始めたの中学生の頃なんだけどさ」
伏し目がちに、栂椹は語り始めた。
「運動は好きだった。だから小学生の頃は男の子に混じってサッカーやってたんだけど、まあ、大きくなるにつれ、いろいろと難しくなるわけじゃない」
何となく、分かる気がする。思春期を迎えて、男女の距離感が難しくなるものだ。ましてスポーツは、男女が峻別されてしまうから。小学校高学年くらいになると、色々とやりづらいことだろう。中学生になってしまえば、もはや女子が男子に混じって、というのは困難だ。
「でさ、中学生になってからは色々とスポーツやってみたんだけど、長続きしなくてね。あーこんなもんかーって思いながら中学一年生のあいだはぷらぷらしてたのよ。でも、中学二年生になって、友達の剣道の試合を見に行って。そこで、ウチは蘇芳さんの試合を初めて見たんだ」
その当時。まだ、剣道に全力を注いでいた蘇芳里和。
栂椹は、思わず見蕩れたのだという。
「剣道をしているとこ、初めて見たの。カッコよかった。それに、凄くキラキラしてた。ウチも、サッカーやってた頃はすごく一生懸命だったけど、蘇芳さんはそれ以上に必死で、でも、楽しそうだった。って、防具越しになんでそんなの分かるんだって思うかもしれないけど。でもね、試合が終わった後の蘇芳さん、すごくいい顔してたんだよ」
それが、剣道小町と呼ばれた頃の蘇芳里和だったということなのだろう。
栂椹もそんな蘇芳に感銘を受け、次の日には剣道部に入っていた。
「ウチもやってみよう、って思ったの。単純だと思うかもしれないけど、ウチの中で燻ってた何かを、剣道でぶつけてみようって。剣道は凄く楽しかった。熱中した。サッカーは今でも好きだけど、今は剣道が一番好き!」
そう語る栂椹の目は、輝いている。そんなように見えた。
少し、眩しいくらいに。
「それで、ウチは蘇芳さんに憧れて、蘇芳さんと戦えたらいいななんて思ったりもしてね。まあ、蘇芳さんの中学は全国区だったから、結局一回も試合はできなかったけど、でもちょくちょく試合は観た。でも、蘇芳さんはある時期から、前みたいにキラキラしなくなってた。むしろ、辛そうに剣道をやってた」
蘇芳里和は中学三年生の夏、全国大会。彼女は個人戦で準優勝し、団体戦でも優勝という華々しい実績を残した。その当時既に蘇芳は剣道をやめる決意をしていたはずだ。
杉村に敗北して以降の蘇芳は、惰性で剣道をやっていたと言っていた。むしろ、恥ずべき自分が剣道を続けることに心苦しさすら感じていた。親や仲間、恩師への義理立てのためとはいえ。
「蘇芳さんが辛そうだった理由は、そういうことだったんだね。そっか……」
「……それで、どうする?」
僕が聞いたのは、栂椹が蘇芳を諦めるかどうか、だ。
蘇芳里和は剣道と決別してしまっている。説得をしたところで、剣道部には入らないだろう。
「……ウチはそれでも、蘇芳さんを諦めたくない」
「本人はもう剣道をするつもりはない、と言っていても?」
「蘇芳さんは本心では剣道をやりたいはずだよ!」
「分からないよ。栂椹が観た蘇芳は、辛そうに剣道をやっていたんだろ。もう蘇芳にとって剣道は辛いだけのものになってしまったんじゃない?」
ぐ、と栂椹は押し黙る。
しかし諦めきれない様子で、言った。
「……それでも、やだよ。ウチが憧れた蘇芳さんが、そんな形で剣道を諦めるなんて、やだ。ウチのわがままだよ、わかってる。でも、蘇芳さんが本気の本気で剣道を拒絶したとは、思えないの」
「じゃあ、蘇芳が剣道部に入るためには、どうすればいいと思う?」
依頼されたことだ。もちろん失敗したからといって責めを負うべきではないけれど、僕には全力を尽くす義務がある。栂椹の望むようにしてやりたい。
しかし蘇芳のこともある。本人がもし金輪際剣道は嫌だというなら、それ以上何も言えまい。
「――勝負ってのは、どうだ」
生徒会室のドアがガラリと開かれ、杉村恭一が現れる。
後ろに、蘇芳里和を連れて、だ。
「栂椹と、蘇芳。二人で剣道勝負をすればいい。栂椹が勝てば、蘇芳は剣道部に入部する」
「しょ、勝負? 私と、蘇芳さんが?」
突然の提案に、栂椹が面食らっていた。
一方僕は驚かない。なぜならこの流れは杉村と打ち合わせ通りだからだ。
勝負という手段は、分かりやすくていい。剣道ならば二人共同じ土俵だし。
「でも、蘇芳さんが勝ったら、どうするの? その勝負、ウチはともかく蘇芳さん側にメリットがないんじゃ……」
「私が栂椹先輩に勝ったら、杉村先輩が私と勝負をしてくれると」
栂椹の疑問に答えたのは、蘇芳だった。
相変わらず木刀を持っている。なんで没収されないんだと思ったら、刀袋に入れているからか。
「……今更、杉村先輩と戦ったところで、何がどうなるとも思えないが」
冴えない表情で、蘇芳が言った。
既に更生し牙の抜けた杉村恭一と戦っても、蘇芳が得るものはない。だが、このまま何もしなければどの道蘇芳の努力は無駄になるのである。ならば、再戦の機会を設けることが無意味だとは思わない。
やるだけやればいい。やらないよりは、ずっといい。
「私はもう剣道をやるつもりはないんだ、栂椹先輩。これはけじめをつけるための戦いだ。だから私は栂椹先輩にも杉村先輩にも、手加減などしない」
「……っ」
栂椹は、物怖じしているようだった。
無理もない。栂椹にとって蘇芳は憧れの存在なのだ。その蘇芳と剣道で戦って、勝てる気がしないのだろう。
しかし、何とかここで栂椹には蘇芳と戦ってほしい。二人が戦うことには、勝ち負けを超えた意味がある。どうにか勇気づけられないか、僕は考える。しかしうまい言葉は中々出てこないものだ。
「栂椹、退くな」
意外にも。
ここで栂椹に声をかけたのは杉村だった。
「迷ってるところじゃねーだろ。お前らしくもねえ」
「……杉村君」
呆気にとられた様子の栂椹だったが、しばし考え込んだ後、両の頬を勢いよくはたいた。
己の迷いを断ち切るように。
「私、やるよ。蘇芳さんと、戦う。でも、別に勝ったからといって、蘇芳さんに入部を強制したりしないよ」
「……いいの? 剣道部に新入部員が欲しいんだろ」
「欲しいよ。喉から手が出る位、ウチは蘇芳さんが欲しい。剣道部に入って、一緒に頑張りたい。でも、強制はできない。無理やり蘇芳さんを引っ張ってきたって、誰のためにもならないよ」
栂椹は、蘇芳の方をまっすぐ見据えた。
「蘇芳さんに憧れて剣道を始めたウチが、蘇芳さんの背中を追っかけて練習してきたウチが、どこまで蘇芳さんに通用するのか。それを知りたい」
「……私に憧れて、か。私にそんな価値はないが、それでも栂椹先輩の想いを無下にはできない。全力で、お相手させていただこう」
蘇芳の方も、栂椹の目をまっすぐ見て、言った。
蘇芳里和と、栂椹茉莉。
二人の剣道小町は、真剣そのものだ。