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第三話 自分の足で

「お兄様っ!」

 大きな声をあげて兄を抱きしめる微風(そよかぜ)。感極まって涙まで流れる。

 その涙を隠すためではないが(おの)の胸に顔を埋めて微風は兄を抱きしめる。

「大きくなったのに甘えん坊は変わらんな、微風。……会いたかったぞ」

 泣きじゃくる妹を優しく抱いてやる。

 自衛隊に入隊して以降妹に会うのはこれが初めてだ。四年も。別れた時微風はまだランドセルを背負っていた。

 見た目は別人のようだ。しかし中身は全く変わっていない。

 こんな形で微風に会わなければならないなんて。そんな想いなど吹っ飛んでしまうほどの愛しさ。

「お兄様、微風は、心細かったです。寂しかった……」

 しゃくりながら本音を吐き出す微風。さもありなんと目取眞(めとりま)は思う。二十歳にもならない小娘が家族を離れてこんな物騒な街に住まなければならなくなる? 耐えられるわけがない。

 一方でデスタッチは微風の涙に得体の知れない衝撃を受けていた。

 俺は何が気に入らないというんだ?

 何故かわからないが、斧とかいう男が気に食わない。先程こちらを見たときのあの冷たい目が腹立だしいのはわかる。

 でも何故? 奴がこちらをどう見ようと関係ないじゃないか。

 外の人間はネクロポリスの住人、インサイダーを軽蔑することがあると、いつか目取眞の婆さんから聞いたことがある。そのときデスタッチはこう答えたものだ。

「壁の向こうの、顔も知らん奴らにどう思われようと知ったことか。俺たちインサイダーの関心ごとってのは目の前のメシと敵、それだけだ」

 目取眞と会ったばかりの、今より尚感受性の乏しいデスタッチのこの言葉はインサイダーの模範解答。

 目取眞からさまざまなことを教わり人間らしさを学んだ今でもデスタッチの意見は変わっていない。微風の兄であるこいつは味方ではないが敵でもない。微風を迎えに来たのなら結構じゃないか。

「……ん? 待て、斧とかいう奴」

 斧はデスタッチを見る。その目に軽蔑の念はもうないが興味の一片もまた感じられない。

「たしか扇塚の家は微風を追い出したんだろう。いまさら迎えに来たというのか」とデスタッチ。

「なんだ、お前は」

「デスタッチ。こいつは目取眞。そっちは水澄涼(みすみりょう)。それでどうなんだ?」

「言っとくけどあたしらは微風ちゃんの世話をしとったんだよ。答えてくれてもいいと思うがね、お兄さん」デスタッチの背中から顔を出して目取眞が言う。

 斧は涼の方を見て、老婆に答えた。

「扇塚元老院は妹の勘当を解いていない。簡単に解けるわけがない」

 兄に縋りつく微風の力が強くなる。

「だが、俺はネクロポリスなんぞに微風を任せるつもりはない。微風を外国に亡命させるつもりだ」

「外国だって?」涼が声をあげる。

「イギリスあたりが良いだろうと思う。俺を思い出さないか、水澄一等兵?」

 軍人時代の階級で呼ばれ涼は驚いた。俺を知っている?

 そして涼はすぐに斧を思い出した。

「あ! ベアー小隊の扇塚曹長! 久しぶりっすねー!」

 力能者の暴走に端を発した『水際の戦争』で涼はベアー小隊と何度も共闘した。

 まるで手加減のない花園アラン隊長をなんとかコントロールしようとしていた男だ。

 敵軍よりも嵐よりも、さらに脅威的な超人であるアラン、その暴走を何度も止めようとした斧。

「偶然ですね。微風があなたの家族とは」

「名字でピンと来なかったか、一等兵」

「インサイダーには名字自体が珍しいもんで。それと俺は退役してますよ」

「今は何をしている。前に聞いた、賭けファイトクラブか」

「そんなとこです。あとは教会のボランティアをときどき」適当に誤魔化す。教会の存在は秘密だ。

「ワタクシを、イギリスへ……?」

「そうだ。残念だが、この国にお前の居場所はない。理解してくれ、微風」

 イギリス。微風は自分がイギリスで生活するところを想像する。ロンドンのような都会、ウェールズの長閑な自然。

 どうもしっくりこない。

 微風にとってイギリスとは旅行に行く所であって住む所ではなかった。そう、まだ兄が家にいた頃、よく旅行に行った。特にイギリスは斧のお気に入りで何度も観光した。父は料理がまずいと愚痴を言っていたけれど。

 思い出の場所なのに。頼れる斧の決断なのに。

 行きたくない。

「お兄様。ワタクシのために軍を辞めてきたのですね?」

「辞められたらどんなにいいか。だが休暇をとっただけだ。微風、どうして話を逸らす?」

 微風の誤魔化しなど毛ほども効かない。口で勝てた試しはなかった。

「斧さんと言ったね。どうも微風ちゃんはイギリスに行きたくないみたいだよ」目取眞が口を挟んだ。全員が彼女に目を向ける。

「若いねえ、微風ちゃんはさ。ねぇ、どうせ隠せないなら正直に言った方がいいと、お婆ちゃん思うけどね」

「ま、待て待て。ええと、目取眞さん。あなたは微風がイギリスに行きたくないと仰るのか?」予想外なのだろう、斧は声を大きくする。この計画は微風のためになるはずだ。

「何故なのかはわからないけどね、行きたくないって顔に書いてあるよ」

 斧は、涼もデスタッチも微風を見る。

「なんでだ。せっかく外に行けるのに」と涼は問う。彼らしいまっすぐな疑問だ。

「な、何故でしょう? 目取眞さんの言う通り、イギリスに行きたくないのです」そう言う微風はしどろもどろだ。

「対話をするときは、よく考えることだ。着地点を見据えて会話を誘導していくのだ」

 小さい頃、父親によく言われたことだ。斧もそう教わった。抽象的な教えだが理想的な討論法。

 今父親のその教えは役に立っていない。微風の心中には着地点など浮かばない。

 突然兄と再会しイギリスに行けと言われても。

 それはいやだけどどうしてかわからない。

 一方斧の方も困惑。まさか断られるとは思わなかった。

 法もなく文化もなく、人の心まで死んでいるこの街を出ようとしない理由は?

 どうも本人自身わかっていないらしい。

「しかし微風。イギリスならここよりずっと安全で豊かだ。それはわかっているだろう。ここと違って人々も親切で信頼できる」

「お兄様、ここの人たちだって親切です。信頼できますわ」

 そう言って微風は気付く。自分がネクロポリスを擁護していることに。

 もちろんデスタッチたちのことは信頼している。彼らに保護されていなければ今頃どうなっていたことか。

 しかし信頼というなら斧をこそ信じているだろうに、その誘いを断ったのだ。微風は初めて兄に逆らった。

「お、お兄様。ワタクシは……決めたのです。このネクロポリスで生きて行こうと。お兄様に会えたのは嬉しいですけれど、ワタクシ、イギリスへは行けません」

「……なんだと」いつも後をついて来た微風が俺に自分の意見を。

 妹の成長を斧は認めた。小学生だった頃の微風とは別人。

 任務では常に花園アランの制御役をやっている斧は、状況を考察し客観的な評価を下す癖がついている。

 微風の成長に感動し思考を停止させた自分に内心で喝を入れる。

 成長は喜ばしい。だが微風はよりにもよってネクロポリスに住むと言い出したのだ。それはまずいだろう。

 斧は三人のインサイダーを見る。よく見ると無敵の超人であるはずの涼、その腕が義手になっている。

 考えられないことだが今考えることではない。

「お前たち、微風に何を吹き込んだ?」

「……なんだって?」

 目取眞には予想できなかった問いだ。

 意味がわからず目をぱちくりさせる涼。

 デスタッチは無言。よくわからないが悪い状況になりそうだ。

「お兄様、何を言いますの?」

 微風を放して涼たちに向き合う斧。

「見たところ、おそらく微風を労働力にしようとでも思ったのだろう。インサイダーの召使いだと? 笑い話にもならん」

「ちょ、なに言ってんだよ、扇塚さん!」

「水澄涼、お前は人が良すぎるからな。そこの二人に騙されたんじゃないのか」

 その言葉に涼は眉をひそめた。

「いくら扇塚さんでもキレるっすよ俺」

 涼を受け流して斧は目取眞を睨んだ。

「デスタッチよ、やりきれないねぇ。あたしらは外の人間からは悪党に見えるらしいよ」

「結構腹が立つもんだよな。ばあさん。というか扇塚もあんたも外から来たんだろうが」

「それで一本とったつもりかい。あの兄ちゃんはあたしらが涼をひっかけて微風ちゃんを奴隷にしようとしとる、そう言っとる、それは変わりないんだよ」

「そりゃ腹立つよ。でも目取眞の婆さん、あんたは楽しんでるだろ」

 デスタッチが指差す目取眞の顔はにやけていた。

「め、目取眞さん? どうして?」

「微風、この婆さんはさ」と涼。

「どうもこの手の騒ぎが好きみたいだ。驚いたな」涼は意外そう。

「ひっひっ。この歳になると怖いものなんかなくなってくるのさ。未練なんてないもんでね」

「失うものなどありはしない、と。見世物にされるこちらとしては、こう……」言葉を選ぶ微風、恩人を悪くは言えない。

 微風のその様子を見て、斧は認めた。

「本当に、ネクロポリスを気に入ったようだな、微風。ほんの短い間だろうに、なにがあったんだ?」

「お客さん、話をするなら茶を出すよ。さあ座りな。涼、デスタッチ、あんたらもだよ」

 老婆はいそいそと茶の用意をする。しかし斧には応じることができない。

「すまないが目取眞さん。あなたのお茶はいただけない」

 せっかく穏便に済みそうだったのにと涼は渋い顔をする。

「微風は力尽くでも連れていく。必ずだ」

 斧が身構える。

「なにが力尽くだ。暴れるなら表に出ようぜ」剣呑な空気を流してデスタッチは外を指差す。彼としても斧を蹴りたい気分。

「お兄様、どうしてそこまで?」

 斧は妹の肩に手を乗せ、しかし目を合わせない。

「それはここでは言えない。それよりまず奴らを叩く」

 見ず知らずのインサイダーらに妹の心を盗まれるというのは斧にとって耐えがたい苦痛だった。だから奴らを倒し、微風の目を覚まさせる。

 戦場においても常に冷静な判断を下してきた斧、妹の追放、そして初めて刃向かわれたことで彼は視野狭窄に陥っていた。左京丸(さきょうまる)や部下たちが驚くであろう取り乱しようだった。

 斧は手の届く距離にいる三人のインサイダーたちを憎み始めていて、それは彼の顔に既に表れていた。あらゆる邪悪がこの三人から生じているようにすら思えた。


 微風が力能の練習に使った市役所の駐車場で二人は対峙する。

 デスタッチと、斧。

「たしかデスタッチとかいったな。お前がボスか」

「べつにボスじゃねーよ。あんたもそうだろう?」

 偉そうに仕切るな、とデスタッチは言っている。

「扇塚さん、俺らの間で上下関係はないんすよ」

「涼の言う通り、俺はただあんたが気に入らない、だから戦うんだよ」デスタッチの表情は冷たくその目は斧を無感動に捉えている。その殺気を斧は軽く受け流す。

「あ、やべ」涼は斧に近付く。

「どうした?」

「ケンカの前に注意を、とですね。あいつ、デスタッチの力能は右手で触れたものをなんでも砂に変えるっていう超物騒なモンなんで間違っても触っちゃだめですよ」デスタッチの方で力能を使いはしないだろうが事故というのは油断した瞬間を待ち構えているものだ。

「あいつは力能を使う気がないのか?」意外そうな斧。

「俺と同じ、殺しは嫌いなんですって」

 ちらとデスタッチを見る。そんな甘ったれには見えない。かつての戦争で嫌と言うほど相手にした敵兵と同じ目。

「涼、俺にはなんのアドバイスもなしか?」

「扇塚さんは俺と同じ明獣爪苑流めいじゅうそうえんりゅう使いだ。強敵だぞー」抽象的なアドバイスだった。

「ちょ、ちょちょちょ、待って下さい二人とも!」

 微風が割って入る。これまで割り込む隙がなかった。

「二人が戦う意味ありませんよ!? 結果に関わらずワタクシはここを出るつもりないんですから」

 ここまで強く意見するとは。父の面影を斧は妹に見た。

「俺はお前の兄貴を蹴っ飛ばしたいが、そう言われるとな……」デスタッチとしてもムカつくからなどという理由では戦えない。まして眼前の男は戦い慣れしている。これが軍人という人種か。軽々に戦うのは馬鹿だ。

 そういえば涼も元軍人か。

「結果に関わらずか。どうしたものか」

「お兄さんよ、悩むことはないと思うがね。ひっひっ」

 四人が目取眞を見る。

「涼やデスタッチは腕っぷしであたしらを守ってる。もしもあんたに負けたら、微風ちゃんを守る道理がなくなるというもんさ」

 その言葉で斧は四人の関係を大まかに理解した。

「戦闘力と生活能力の交換? 守るだけの力がないということが守る道理がないこととイコールなのか」インサイダーらしい論理だと斧は思う。

 軍隊の起源とは専門家された用心棒集団だったろう、そう個人的に斧は思っている。

 外部の脅威から集落を守る代わりに生活を保障させる。それはまさに涼やデスタッチの生活だ。

 しかしこの老婆は一度負けた者に用心棒をやる資格はないと言ったのだ。そこが違う。

 一度でも敗北すれば、生き延びたとしても誰も用心棒として必要としなくなる。ネクロポリスの用心棒とはそういう仕事なのだと斧は理解した。勝敗は兵家の常という考えとは全く違う、ハードな思想だ。

 眼前の無愛想な男、デスタッチはすると無敗であることになる。

 戦い慣れしてはいても素人、そんな甘い見込みを斧は即座に捨てた。

「ふん、微風を囲っておこうとするだけの力はあるようだな。いいだろう。お前にその気がなかろうと関係ない。微風のために、お前を倒す」その言葉はこの状況において『お前を殺す』と同義だった。斧が勝てばデスタッチは信用を失う。微風を失う。

「別に囲おうとはしてねーよ」

 言いながらデスタッチは柔軟運動。脚を温める。

「かかってくるならしょうがねー。恨むんじゃねーぞ」

 そう言ってデスタッチは構える。右の凶腕を前に出したキック主体の体勢。我流。

 目をつぶり、二回深呼吸して慢心と邪念を追い払う斧。これは訓練ではない。遊びでもない。妹の将来がかかっている、全力でかかるべき戦いだ。

 決心をつける。足を大きく開き腕は金剛力士像のように。

「お、ありゃ……」

「知ってるのかい、理解」

「爪苑流の『鯨顎屠(げいがくと)』っていう構えだ。威力の高い技を使いやすい攻撃的な構えだよ」実践で使うのを見るのは涼も初めてだ。危険なので街の道場では教えられない。涼も使ったことはない。

 そのまま斧はデスタッチの左側面へ回り込む、しかしその足は重い。

 攻撃偏重のせいで機動力を犠牲にした鯨顎屠ではあるが加えてデスタッチへの警戒が足を鈍らせた。一気に決める、とはいかない。

 対するデスタッチはといえば左側に回り込まれるのは慣れていた。

 麻痺して指一本動かせない、痩せた左腕。その弱点を突こうとする敵はいるもので、その対策は大昔に済ませてある。

 簡単に回り込ませたデスタッチの目に不審を感じたものの、斧はしかし大胆に踏み込んだ。間合いまであと一歩。

 どうするつもりだ、デスタッチ?

 獣爪掌(じゅうそうしょう)という突きを放つ。おたまのような形の手刀。明獣爪苑流の基礎の技。

 右の突きをかわすデスタッチの動きを斧は予測できなかった。

 伏せるように? そのままデスタッチは右腕で体を支え逆立ちし逆さまになった脚を振り下ろした。

「おお!」

 空いていた左手でこれを受ける。第二の衝撃。もう一本の脚が斧の顔面を撃ち抜いた。デスタッチは砂に包まれる。

「うわ」斧の代わりに涼が痛そうな声を。

 もろに喰らってしまった斧はわざと間合いを空けた。

「おらっ!」

 直線的な飛び蹴り。そのふくらはぎを膝で受け止め、反対の膝を下腹部に打ち込む斧。

「うわうわ」デスタッチの代わりに涼は痛そうな声を。

 下腹部を抑えてデスタッチは報復、しなる蹴りを斧はくらってしまう。

 斧はスライディングのように倒れて下から蹴り上げる。

「!」

 それをデスタッチは膝で受け止めた。

 二人の応酬を見守り目取眞は恐れた。

「まさか負けやしないだろうね、デスタッチは」そう言って涼の腕を握る。生身の左腕、血色のいい腕。

「大丈夫さ、婆さん」

「あの若いの、あんなに強いとは思わなかったんだよ、あたしゃ」

 目取眞の声は不安が混じっている。

 デスタッチが負ければ今までの生活はできないだろう。殺されずとも一度でも負けた者のもとにはトラブルが殺到する。飢えた連中があらゆるものを毟り取ろうとするのだ、そうして全てを失った者を何度人も見てきた。

 負けたデスタッチが失うのは目取眞かもしれない。

「俺に任せろよ、目取眞の婆さん」

 いざとなったら俺が飛び込んで有耶無耶にしてやるぜ。

 無計画ながら涼は楽観的だった。ベアー小隊の扇塚斧といえども超人に勝てはしない。この俺には。

 事実上両腕のない男に苦戦を強いられるとは、花園隊長に見られていたら特別訓練メニューを課せられていたろうな。命に関わる殺人訓練。

 デスタッチの左側を狙った裏拳、かわし損ねてデスタッチはふらつく。

「くそ!」

「そこ!」

 毒づくデスタッチにとどめを刺そうと距離を詰める。

「!?」

 ここしかない。デスタッチは握っていた砂を斧の目に。

 反射的に顔を覆う斧。ドロップキックのようにデスタッチは跳ぶ。

 空中で両脚を開き斧の胴を挟んでそのまま寝技の状況へ。

 かにばさみ。

「お、デスタッチの奥の手だ。もう外せない」と涼。

 激烈な圧痛。腹圧が圧迫され筋肉も内臓も悲鳴をあげた。最も下の肋骨、浮肋骨が折れそうだ。

「が、がああ!!」

 叫びながら斧はもがいた。今しなければならないのは体勢を変えることではなくこの両脚を外すことと気付いて上半身を起こし夢中でデスタッチを殴る。

「う!」

 逆に追い込まれたのはデスタッチの方。脚が塞がっている以上、防御できない。腕を使うなど論外だ。

 斧に降参を求めてデスタッチは更に力を入れた。脚が締まる。

「ああっ!!」

 明獣爪苑流の技を出す余裕などない。逃げに徹すれば世界一のベアー小隊、しかし捕まってしまえばどうしようもない。

 こんなところで俺は死ぬのか?

 脳裏にそんな想いがよぎる。

「こりゃデスタッチが勝つな」と涼。

 これは勝てる、そうデスタッチが確信した瞬間、彼の喉に斧の手刀が刺さった。気絶寸前の力ない一撃だったが気の緩んだデスタッチには十分だった。酸欠の苦しみを味わう前にデスタッチは気を失った。

 かにばさみから抜け出して立ち上がりながらデスタッチを担ぐ斧。鯨顎屠の構え。斧の意識が消えかけているのを涼は察知して焦った。あれでは手加減もクソもない、デスタッチを殺してしまう。

「しまった!」涼は駆け出す。

「明獣爪苑流、翔雷水牛衝角しょうらいすいぎゅうしょうかく!」

 デスタッチの脚に膝をかけて体勢を崩し、胴体に右肩を入れて空中へ、高く放り投げる。デスタッチは三メートル以上空を舞う。

 翔雷水牛衝角は鯨顎屠の構えから派生する投げ技で明獣爪苑流の中でも危険な部類に入るが、高く投げる性質から空中の敵に追撃をかけることができ、それが実戦となれば斧は必ず追い打ちをするだろう。

 それを知っていた涼は駆け出した。危険すぎる。

 そう、当の斧は涼の危惧のとおりに余裕を失いデスタッチの撃破以外の思考が吹っ飛んでいた。

 空中でデスタッチはなんとか闘志を取り戻そうとしていた。それは取り返しのつかない過ち。取り戻すべきはバランス感覚であり防御のために体勢をこそ整えるべきだった。

 脚は動く。敵は。見つけた。扇塚斧。斧の腕が振るわれる。速い。

 斧が放とうとする技は明獣爪苑流最終奥義ともいえる終伝果(ついでんか)霊長百獣裸掌殺れいちょうひゃくじゅうらしょうさつ。以前涼が、ディオケネス・クラブの一員、『ヒポポタムス』に放った、急所に全力を叩き込む切り札。デスタッチを守らねば。

 既に敵の体勢は崩れている。斧はデスタッチの右腕に注意してその腹に膝蹴りを、しかしその蹴りは微風に阻まれた。

 薄緑色の鱗に覆われた五メートルほどの巨体。小さな前脚からは羽毛が生えている。華奢な印象の骨格、大きく裂けた口。ガリミムスという足の速い恐竜。

 その俊足で駆け、兄に追いつくように跳躍してデスタッチを守った。

「グアゥ!」

 膝蹴りをまともに食らってガリミムスは墜落。

「な……!?」

「微風!」涼が微風をキャッチ、即座に降ろしてデスタッチも捕まえてやる。

「き、肝が冷えるね!」二人を救えて涼はため息。デスタッチを放す。だらりと伸びた腕の先で地面が砂になった。

「今、水澄、微風と言ったのか、こいつが微風?」そう指差す先の恐竜は力なく横たわっている。すぐに元の姿に戻った。

「おお……」

「恐竜に変身する。それが微風の『力能』なんです」

 斧は妹を抱き上げ謝罪した。

「すまない、微風! お前を傷つけるつもりはなかったんだ!」

「に、兄さま、痛いぃ」

 すぐに腕の力を緩める斧。楽になったというように息をつく微風。

「あんなに熱くなるお兄様は初めて見ましたわ」

「手加減していたらこちらが殺されていた」

 それはどうかな、と涼は思う。殺す気なら凶腕(デスタッチ)を使っていたろう。斧は単にデスタッチを舐めていたんだ。殺さずに勝てると。そう涼は評価した。

「お前が身を挺して誰かを守るなんて思わなかった」

 何故だ? 兄はそう問いかけている。

 微風はその答えを、心の中に探す。

「水澄一等兵、お前もだ。手出しをすればデスタッチの信用に関わるんじゃなかったのか」

 だから軍人じゃないって。 

「友人が殺されるとわかってて手を出さないバカはいないでしょ」

「もとよりデスタッチにとってはこの戦い、命をかけたもののはずだ。それはわかっていたことだろう? 用心棒の信用があって、彼は生きている」斧は口もきけないデスタッチを見る。

「守るはずの微風に守られちゃ世話ないっすよね。でも斧さん」

 涼は腰に手を当てて、爽やかに笑う。

「俺が人死にを放っておくわけないでしょ? ここでは強いやつの意見が通る。あんたも、デスタッチも、微風ちゃんもダウンして、立ってるのはこの俺」

 涼はネクロポリスの原則を語る。

「最後に立っていたこの俺が宣言するよ。この勝負は俺が預かる。文句を言うやつはブッ飛ばします」

 やられた。ハメられた。しかし涼はそこまで頭の回るヤツだったか?

「勝ち負けを問うなと、そういうことか、涼」

「そのとおり。問題は先送りだけど、デスタッチは信用を損ねなくて済む。微風ちゃんのことはまた今度決めればいいじゃないですか」

 妹を横たわらせて、全身の痛みに耐えて斧は立ち上がる。そして涼を直視する。

「時間はないぞ」

「それはおたくら、ご兄妹の問題でそ」

「そうでないとしたら」

「何が言いたいんだい、扇塚さん」と目取眞。


「ネクロポリスを潰そうという動きがある」


「……なんですって?」

「いつになるのか、誰が計画しているのか、まだわからん。しかしいの一番に俺の耳に入ったのだから政治家あたりだろう」政治を統括する扇塚元老院のネットワークのことを言っている。

「お、俺たちの、街を?」

「俺の最優先目標は微風だ。だが政府の管理をいつまでも逃れて存在できる土地領域などあるとは思えん」

「それで無理にでも妹さんを連れ出そうとした、と」

「そう。不思議なものだよな、涼。獅子氏(ししのうじ)財閥の手の届かない場所だからとここに追放したのに、そのネクロポリスを手に入れようとする動きがあるんだからな」

「…………」

「こりゃ、どうしたもんかね……」飄々としている目取眞も流石に二の句が継げない。

「俺としてはネクロポリスを護る理由はない。微風さえ脱出させられればな。そうもいかないとなれば、長期戦を覚悟するさ」と斧。

「それは、何日もかけて妹さんを説得しようと?」

「この空白地帯(ノーマンズランド)にとどまってな。俺が近くにいれば微風は安全だ」

 これが俺の妥協点だ、と斧。

 その時、デスタッチが目を覚ました。

「気を失っていたのか。俺は負けたのか?」 

「引き分けだよ。助かったな、デスタッチ」

「お前、割って入ったのか、涼?」

 少し黙り込んで、デスタッチは礼を言った。

 そしてデスタッチは起き上がり、斧の方を見た。その目に僅かに畏れが生じているのを斧は認めた。

「デスタッチ。何故、俺を殺さなかった?」

 バカ言え、そんな余裕はなかった。とは思う。では余裕があったら?

「人を殺して生きていくのはキツい。それで俺は用心棒をやってるんだ。それにあんたは扇塚の家族だろう」

 家族は大切だ、とデスタッチ。

 畏れは瞳から消えて、インサイダーらしい無感動な表情だけがそこにあった。

「しばらくお前たちに微風を任せる。たしか、目取眞さん」

「はいよ」

 斧は老婆に頭を下げる。

「どうか、微風をよろしくお願いします」

 目取眞は明るく微笑んだ。

「はいはい。あたしにできること、なんでも微風ちゃんにしてやりますよ。だから安心して下さいな」

 斧はネクロポリスに入って初めて、安心を顔に出した。

「ネクロポリスに住むったって、休暇は大丈夫なんですか?」と涼。

「問題ない。ある程度のトラブルは予想していたから長めの休暇申請をしておいた」

 本当は微風とイギリス旅行をするスケジュールだったのだが。

 簡単に体を点検。骨折といったような大きな怪我はしていない。よく無事に済んだものだ。スーツの埃を払う。安い服ではなかったが、こうなっては仕方がない。

「お兄様」

 ふらふらと微風が立ち上がる。デスタッチの無害な左肩に手をかけて。

「お兄様がさっき言ったこと、ネクロポリスを取り潰すということですがワタクシは聞き捨てなりません。それはあまりに身勝手です」

「立てるのか、扇塚?」

「どうも、デスタッチさん。コントロールできないから放棄して、コントロールできない者をそこに追放して、挙句に潰してしまおうなんて勝手が過ぎます。ワタクシの処遇にしてもそうです。扇塚家にもうワタクシの名はないはず。それならワタクシが扇塚の指図を受ける理由はありません」

「それは違うぞ、微風。俺は扇塚の意向とは関係なくここにいる。追放されても、お前は俺の妹だ、家族だ」

 だったら何故ワタクシが追放された時守ってくれなかったのか。そんな言葉を微風は飲み込んだ。

 当主である父親に勘当を言い渡されたあの日、斧は自衛隊にいた。妹を守るどころかその場に居合わせてすらいなかったのだ、微風の力能さえ今初めて見た斧を責めるのは八つ当たりでしかない。

「家族ではあっても、お兄様、もう扇塚の命令は受けない。ワタクシは自分で人生を創ります。自分の足で歩いていく。ワタクシはネクロポリスの女王になります」

 その言葉に誰もが衝撃を受けた。女王?

「ワタクシも扇塚の教育を受けた者。このままでは強引に吸収合併されるのはわかりきっています。今もインサイダーへの差別感情が人々にあるということも」

 そう。こんな未開の地を潰すことに成功しても、むしろ日本人とインサイダーの軋轢が少しとはいえ増すだけだろう。それは斧も予測していた。

「ですから合併されるのではなく一度独立し、力を蓄え、文化を涵養(かんよう)し、しかるのちに有利な条件を政府に提示して自治権を返還する。これがワタクシのヴィジョンです」

「な、なんと時間のかかる方策だ」

「そう、時間がかかる。だからこそ今ネクロポリスは破壊されてはならないのです。己を破壊する時を、ネクロポリスは自ら選ばなくては」

 差別感情か、と斧は思う。この不穏な陰謀の噂に、斧は確かにネクロポリスへの憎しみを感じていた。非論理的な勘だと否定してはいたが。

「微風、お前のマニフェストは実現困難だが、確かに最善策だ。正攻法だ」

「マジスターなら思いつかないアイデアだね」と目取眞。

「あたしもその未来は見てみたい。扇塚先生に一票いれるよ」

 老婆のジョークに微風は微笑む。

「どうやら、この街で妹をのんびり見守っていく、というわけにはいかなくなったな」

 痛む体に鞭打って斧は歩き出す。

「どちらへ? 扇塚さん」

「一度実家に帰る。そこで情報網を更新してベアー小隊も動かす。使えるものはなんでも使う、だ。涼」

「ベアー小隊をですか? 滅茶苦茶なりますよ」

「ならん。俺がそうさせん。どのみちベアー小隊は猫の手に過ぎない。情報戦は専門外だからな、俺たちは」

 斧は元来た道を戻る。

「微風、協力はするが慢心するなよ。俺たちはまだ敵が何者なのかもわかっていない、不利な状況だ。もしお前が有権者の期待を裏切ることになれば、その時こそお前をイギリスへ連れて行く。いいな」

「感謝します。お兄様」

 話しているうちに回復したのだろう、しっかりした足取りで斧は帰りの道を歩く。

「……お兄様」

 行かないで。連れていって。そんな弱音を押し殺す。

 これが扇塚の誇りなのかい、微風の心中を察した目取眞は衝撃を受けた。

 まだ子供なのに家族に捨てられ、己の道を見つけて戦おうとするとは、尋常ではない。

 年端もいかない小娘を老婆は畏れた。同時に彼女をとことん助けたい、彼女の大業をこの目で見てみたいと思った。

 初めて孫の顔を見た時を思い出す。長生きする理由ができたと思ったものだ。

「もう未練がないなんて言えないねえ。ひっひっひっ」

「そりゃいいことだ。でもなにが?」耳聡く聞いていた涼。

「微風ちゃんだよ。あの娘はネクロポリスに夢を持ち込んだんだ。インサイダーの誰も見なかった夢さ。涼、デスタッチもしっかり微風ちゃんを助けなよ」

「どうして、俺が?」

「デスタッチ、お前はなんでもどうしてとかだからとか、しょうのない子だね。でもね、あの子の夢がお前の生き方を変える、腕がなくても生きていける、そんな世界だとしたらどうだね?」 

 目取眞が語った微風の夢、それはデスタッチが夢想だにしなかった光景だ。腕のハンデがハンデにならない生活。

「そりゃ凄い。もうこの凶腕で苦労しなくて済むわけだ。だが扇塚はそんな魔法みたいなこと言ってないぜ、なあ?」

 水を向けられた微風は即座に答える。

「つまり今ワタクシや目取眞さんがあなたにしているお世話を社会制度化するということです。デスタッチさんに限らず『力能』の制御に悩んでいる人は多くいるはず。高度な社会秩序の構築に成功すればそうした福祉制度は自然に生じるものです」

 『力能』の制御に悩んでいる微風はそう断言する。

「そんなものか? セイジってのはよくわからん。ま、俺の力能の方は心配しなくていいぜ」

「はあ?」

 意外な言葉に力能は驚いた。デスタッチの人生ときたら力能との戦いそのものだろうに。

 そのデスタッチは涼に声をかける。

「俺は決めたぜ。涼、俺は『教会』につく。だるまは俺の力能を回復させると言ってたろう」

 一瞬なんのことか、と考えて涼はだるまの言葉に思い当たる。

「だるまの条件を飲むのか。俺としては助かるけれど」

 教会の戦力になる、その引き換えに力能(デスタッチ)の復活させる、と。

「だるまはなんのつもりであんなこと言ったんだ?」

 彼の力能は完璧に機能していてだからこそ苦労しているのではないか、涼はそう考える。

「俺には、実はもう一つ力能があった。この左腕は砂にしたものを元に戻す力能がある。あった、だな」

 右腕で萎びた左腕を撫でる。微風たちもまたその左腕から目を離せない。

「帯刀博士はたぶん力能の研究をしているんだ」

 だから教会へ行こう。とデスタッチ。

 彼もまた自分の人生に手をつけようとしていた。

 俺の人生は砂にはならないだろう。

 お待たせしてしまいました。

 第三話、自分の足ででした。

 話の上でではありますがネクロポリスを滅ぼそうとする勢力が登場します。

 新ミダス王奇譚、デブリ・ドラゴン・デビル、トゥモロー・パイオニア、三つのタイトルでこの勢力を中心としたクロスオーバーをやる予定です。

 こうしたクロスオーバーイベントをやるのは夢の一つでした。予定より早くしかもクロスオーバーにしては小規模ではありますがアメコミの出版形態をリスペクトして書いていますので既にワクワクしています。

 楽しみに待っていただければ幸いです。

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