悔悟
「兄上」
執務室に足を踏み入れたレアンに、ミカエルはチラリと視線を向けた後、羽ペンを置き、すぅっと両手を組んで机の上に肘を乗せた。苛立ったように瞳を細め、僅かにため息を漏らす。
「なにさ?」
「お変わりございませんか?」
レアンは、これはファメールではなくこの世界で創成されたミカエルなのだから、聞いたところで仕方が無いと分かっていながらも、兄が心配で声を掛けずにはいられなかった。
——アルカが昏睡状態になったばかりの時の、焦燥しきったファメールの様子は本当に酷いものだった。
『ガブリエル、カインがこのまま目を覚まさないのなら、僕は何一つ前に進む事が出来ない。いいや、何処にも道なんか無い。閉ざしてしまったのは僕自身だ。カインに償いをしなければならないのに』
意識の戻らないまま横たわるアルカの前で、ファメールは白い顔を下に向けたまま力無く言った。
『……カインが旅立つ時、僕はキミに知らせなかった』
眉を寄せたレアンに、ファメールは肩を震わせながら続けた。
『居なくなって欲しかったんだ。カインに。でも、まさかこんな……』
『兄上?』
『ガブリエル。カインを救う為に、僕の穢れ切ったこの身体でも役に立つだろうか?』
『……どういう意味です?』
『カインは襲撃の時、心臓を損傷したと言っていただろう?』
その言葉を聞いた時、レアンは反射的にファメールの肩を掴んだ。『そんな事を、カインは望んでなどいません!』と、怒鳴り付けようとしたレアンよりも早く、ファメールが声を上げた。
『僕に生きる価値など無いっ!!』
金色の瞳を見開き、怯え切った様に身体を震わせ小さく蹲るファメールに、レアンは唖然とした。
いつでも毅然として揺るぎないあの兄が壊れてしまったと……。
「変わりないどころか、ありまくりさ」
ミカエルのうんざりとした様な声色に、レアンはハッとして顔を上げた。明らかに顔色の悪いレアンを見て眉を寄せ、「キミの方こそ大丈夫かい?」と、溜息をつくミカエルに、レアンは僅かにホッとして頷いた。
「あの娘の事だろう? 僕がわざわざキミに預けるような真似をしたものだから、理由を聞きに来たんだろう?」
「……ええ。兄上が直ぐに裁かずにああいった行動に出るのは珍しいと思いまして」
「まったく、嫌んなっちゃうよね」
ミカエルは苛立った様に組んでいた手を解いて、トントンと白い大理石製の机を人差し指で叩きながら、「サマエルのバカのせいさ」と口早に言った。
「……サマエルですか?」
レアンはミカエルの言った名をそう繰り返しながら、ハッとした。サマエル。つまり、アルカはこのアルマゲドンの創成者だ。つまりミカエルと会話をしていたサマエルは、カインの記憶も、そしてアルカの記憶もあるはずだ。だとすれば、当然里桜の事も覚えているはず……。ミカエルの性分を熟知しているアルカならば、万が一里桜がダイブしたときを想定して何かしらの手を打っていても不思議はない。
「ああ、そうだよ。サマエルが言ったのさ。『もしも、ブルージルコンの瞳をした少女が現れたのなら、オレ達を救ってくれるかもしれない』ってね。あの娘が本当にサマエルの言った娘なのか気になってね。まぁ、僕達には救って貰いたい事なんか無いんだから、何を言いたかったのかサッパリ分からないんだけれど」
フンとつまらなそうに鼻を鳴らしながらミカエルは言うと、「ただ……」と、付け加えた。
「サマエルは、あれでいて感が鋭いからね」
ミカエルの言葉を聞きながら、レアンは確信した。その『サマエル』は、間違いなくアルカであり、カインである、と。
「しかし驚いたよ。キミに拒絶反応は現れなかったみたいだね。確かにサマエルの言った娘に間違い無さそうだ」
クスリと笑い金色の瞳を細めたミカエルに、レアンは口をへの字に曲げた。
「兄上も人が悪い。彼女がサマエルの言った娘かどうか、私で確かめたのですか?」
「すまなかった。けれどその確認方法はサマエルが言ったんだよ。僕は疑い深いからね。『同じ様な瞳の娘だなんて星の数程居るだろう。どう確かめればいい?』と聞いたら、キミが拒絶反応を起こさないはずだとサマエルは言い切った。何故だい?」
どう伝えるべきか、と考えて、レアンは首を左右に振った。少なくとも、アルマゲドンのガブリエルと里桜は初見のはずだ。「わかりません」とだけ伝えると、ミカエルは大きくため息をついた。
「そうか。それなのによく受け入れようと思ったね。僕の意図を酌んだからかい?」
「勿論」
「なんだか悔しいじゃないか。サマエルに一杯食わされた気分だよ」
「兄上。サマエルは一体どちらに?」
アルカの居場所を早く里桜に知らせたい。安心させてやりたい、という思いがレアンを焦らせた。ミカエルは眉を寄せ、不審そうにレアンを見つめたので、レアンは失言だった事に気が付いた。
「……引き続きあの娘の監視を頼むよ、ガブリエル」
レアンの質問には答えずに、ミカエルはサラリとそう言い放つと、羽ペンを手に取った。つまり、気分を害した為、用が済んだのなら早く出て行けという事なのだろう。
これ以上の問答は危険だとレアンは判断した。アルマゲドンのミカエルは、ファメールとは決定的に違う要素がある。
それは、この世界の天使達が心から忠誠を誓う絶対的な存在、『神』に完全服従しているという点だ。ファメールの性格から、誰かにそうして屈する事など無いはずなのだ。ただ、その絶対的な存在にはミカエルのみが謁見を赦されている為、レアンはその姿を目にしたことが無い。神が何者なのか、どのような人物なのか、全く分からないのだ。
もしも神が、危険な存在だったとしたら……? そうだとすれば、里桜にとっても危険が及ぶ可能性がある。今は未だ、むやみに里桜の存在を他に知られる訳にはいかない。
チラリとレアンはミカエルの首元を見つめた。『A』の文字を認め、当然兄はダイブしていないのだと納得し、瞳を閉じた。
「……また来ます」
小さく会釈をし、執務室から出て行こうと踵を返した。
「ガブリエル」
ミカエルの呼び止めに振り向こうとする前に、まるで振り向くなと言わんばかりにミカエルが言葉を放った。
「サマエルの代わりは居ない」
振り向くのを止め、ミカエルに背を向けたままレアンはその言葉に耳を傾けた。
ミカエルは、何が言いたいのか……? サマエルの居場所を聞いた時は答えるどころかはぐらかしたというのに。
躊躇う様に間を空けて、ミカエルはか細い声で言った。
「……ガブリエル。サマエルを救う為に、僕の穢れ切ったこの身体でも役に立つだろうか?」
ドキリとし、レアンは身体を強張らせた。
——このミカエルは、何故現実世界のファメールと同じ言葉を放ったのだろうか? それは、サマエルも現実世界のアルカ同様に昏睡状態の様な、何らかのトラブル状態にあるのだと言っているのだろう。
ベッドで滾々と眠り続けるアルカ。縛り付けられ、養父に負荷をかけられ苦しむ姿に比べればどれほどに安らかな事か。
だからこそ魂だけは自由であって欲しかった。
エデンはアルカにとって理想郷だったはず。それなのに、アルマゲドンは彼を蝕む世界の様だ。一体何故……? そして、まるでそれは自分の責任だとでも言いたげに、何故ミカエルは自分を卑下してまでもアルカを救おうと言うのだろうか。
「……熾天使の兄上が、穢れなどと何故おっしゃるのです?」
——兄上。貴方もまた、アルマゲドンでは心が囚われている……。
と、レアンは悲しみでいっぱいになった。
まるで、その地獄の様な苦しみから救い出して欲しい、と、藁にも縋る思いで無意識のうちにも里桜を庇いたかったのではないか? 助けてくれと、本心では叫んでいるのに、それを表に出す事ができない。
アルマゲドンというシステムの中で、『熾天使ミカエル』という与えられたロールを全うする為の制御が何かしら働いているのかもしれない。
この世界では、『神』が絶対的な存在であり、私達天使はただのプログラムに過ぎないのだと、そう言いたいのだろうか。
「……あの娘。リオは、サマエルの言う通り、恐らく私達を救ってくれる唯一の希望となるやもしれません」
レアンの言葉にミカエルは自嘲ぎみに笑った。
「救いは、僕達が求めるのではなく、求められる側だというのに。おかしな話だね」
「天使は見返りを求めません。ですが、こうして自由意思を持ち、心を持ち、誰の操り人形でも無い存在なのですから…」
そう。私達は、養父の実験体として生まれたわけでは無い。誰かが主人公となる世界で、その付属品として生まれたわけではないのだ。自分の意思を、心を持って生きている。だからこそ、自分という存在を認め、微笑みを向けてくれる里桜という存在が眩くて仕方が無いのだ。
里桜の慈悲を乞う。この世界の『神』という支配者ではなく、一人の女性から認められる事こそが存在意義なのだ。
「リオの慈悲は、私達を癒してくれるでしょう」
「神以外ノ慈悲ハ要ラナイ」
突然、ミカエルの声色が変わった様に思えた。まるで、喉の奥から自動再生されたかの様に発した言葉に違和感を覚えながら、レアンはそれ以上話すのを止め、口を閉じた。
「天使トハ、神ノ慈悲ヲ乞ウ存在ナノダ」
ゾクリと、鳥肌が立つ感覚にレアンは恐怖を感じて拳を握りしめた。
「……兄上?」
「さて、そろそろ持ち場に戻りなよ。キミも暇じゃないはずだけれど?」
元のミカエルの声色に戻り、会話を続けたので、レアンは何も言わずに頷く事が精いっぱいだった。
今、このアルマゲドンという世界にダイブしている以上、自分も神に対して絶対的な服従状態にあることには違いない。いつ、自分の喉の奥からミカエルが放った言葉と同様の単語が出るかと思うと、ゾッとしないはずがない。
この世界で最も権力のある最強のプログラムであろう、『神』には決して逆らえない。もしも里桜に危害を加える命令を受けたのならば、自分はどうなってしまうだろうか? それを考えただけでも恐ろしくて仕方がない。
「ガブリエル?」
微動だにしないレアンに、ミカエルが声を掛けた。「何でもありません」とだけ返すと、ミカエルは「そう? まあ、いいけれど」と、小さくため息をついた。
「頼りにしているよ、ガブリエル」
執務室を出ようと一歩だけ進み、レアンは足を止めた。振り返らないまま、ミカエルに言葉を放った。
「兄上。私は、いつでも貴方のお側に」
ミカエルが哀れでならない。この世界の設定として『神』に絶対的な服従をしていながらも、性格上どうしても受け入れる事ができず。それでも抗う術もなく……。
複雑に絡み合う茨の棘を受けながらも悶え、心が壊れかけている様だと、レアンはミカエルが不憫に思えてならなかった。
「……消えゆく時は共に」
例え、どれほどの罪を犯そうとも、両手が血に塗れて汚れようとも。私達兄弟は皆、同じ穴の狢なのだ。
ミカエルが傷つけば傷つく程、ファメールがダイブしたときに、その痛みを全て背負う事になってしまう。もう既に壊れかけている彼の様子から、レアンはファメールがダイブしない事を願わずにはいられなかった。




