ファメールの喪失
忽然と消えた里桜と、まるで魂が抜けてしまったかの様に微動だにしなくなったレアンを目の当たりにし、ファメールとヴィベルは呆然とした。
鳴り響いていたビープ音は止み、辺りは耳鳴りの様な機械音のみが発せられており、むせ返る夢現逃花の香りが煩わしく思えた。
「なんてことです……里桜……まさか肉体ごとアルマゲドンに?」
項垂れ、ポツリとヴィベルが言葉を放った。
ファメールはぎゅっと拳を握ると、黒い筐体を睨みつけた。
——里桜はアルマゲドンにダイブしたのか? そうだとするなら……
まずい……最悪な展開だ。
ファメールの額から汗がつっと伝い、顎先から零れ落ちた。
——アルマゲドンの中で、里桜にとって最も危険な存在は
『僕』だ。
アルマゲドンに『僕』が存在するのだとしたら……恐らく危険因子の里桜を排除しにかかるだろう。エデンでそうした様に、同じ事をアルマゲドンの中でも実行するはずだ。
そうだ。だから僕はキミがアルマゲドンへ行くと言った時、同行せざるを得ないと思った。『僕』を止める為に。
里桜。あの頃と同じ、目的の為にはいくらでも無慈悲になれる『僕』を見て、キミはどう思うだろうか……。
そう考えて、ファメールはゾクリと悪寒が走った。
……里桜は、『僕』を恐れるだろう。そして、今のこの僕と再会を果たした時にも、その恐れを抱いたままの目を向けるだろう。彼女の美しいブルージルコンの瞳が畏怖し、侮蔑の色を僕に向けるのだ。
『ああ、この人の本髄はどす黒い闇に支配された汚い人間なのだ』と。
手を伸ばせば届きそうな所に居た彼女が、一瞬のうちに目の前から消えてゆく。そうだ、初めからそんなものは存在していなかった。僕の前に姿を現したのは、僕を深い深淵の底へと引きずり込もうとする魔物だ。
……いいや、違う。魔物は僕の方じゃないか。僕は汚れているから、僕という汚れを当然の様に払い落とされるだけに過ぎない。僕こそが、汚らわしい生き物なのだから。
ヴィベルはコンソールを開き、何か里桜やレアンについての情報が無いかを調べなければと怒涛の勢いでキーボードを叩いた。が、ドサリと音を立て、ファメールが両ひざをついたので、ヴィベルは怪訝に思って見つめた。
「ファメール?」
呆然とするファメールに、ヴィベルが声を掛けた。だが、ファメールは反応を見せずに金色の瞳を見開いたまま応える事をしなかった。
両手で自らの両肩を鷲掴みにするかの如く掴み、ガタガタと震えだすファメールに慌てて声を掛けた。
「ど、どうしたんです!? ファメール!!」
「どうも……しない……」
「しっかりしてください! 私は端末の操作しかできません! ですが、貴方でしかこの状況を打破する答えを求める事は不可能なのですから! 里桜とレアンの命綱は貴方の知識にかかっているんです!」
「……だめだ。僕じゃ何の力にもなれない」
「ファメール!!」
——里桜……もしもキミが、優しく微笑みかけてくれるブルージルコンの瞳を絶望の色に変えて僕に向けたのなら……。
「止めろ。汚い物を見る様な目で僕を見るな!!」
「……ファメール?」
「僕に触るなっ!! 触るなっ!! 止めろ、近づくなっ!!」
見えない何かを払いのける様にファメールは両手を振り、頭を抱えた。
——脳裏に悍ましい光景が浮かぶ。
『ミシェル。入りなさい。その椅子に座りなさい。さぁ、早く』
いつもの優しい口調で指示する養父に従い、あの日僕は地下室へと足を踏み入れた。何年もの間あの邸宅で過ごして来たというのに、初めて入る地下室の様子に、僕は興味深く辺りを見回した。
部屋の中央にはポツンと堅牢そうな椅子が一つだけ置かれていた。なるほど、これに座ればいいんだなと椅子に腰掛けて、目の前の壁に視線を向けた僕は唖然とした。
壁は分厚い一枚ガラスになっており、隣室が見通せる作りとなっていたからだ。そして、その分厚いガラスで隔てられた隣室には両手両足を括りつけられたカインの姿があったのだ。養父はその隣で椅子に腰かけた僕をじっと見据えていた。
『……エルネストさん?』
と、僕が困惑の色で声を発した時に、部屋に数人の男が入って来た。彼らは椅子に座る僕を囲みこむと手を伸ばし、衣服を引きちぎらんばかりに引っ張った。バツリと音が発し、ボタンが弾け飛ぶ。
『やめ……』
ぞくりと鳥肌を立てて、僕は抵抗した。が、どの男も屈強な肉体を持っており、十四歳かそこらの僕には適うはずもなく、逆に顔や腹部を殴打され、鼻から血を流した。顔は腫れ上がり、呼吸すら苦しい。けれど、僕は抵抗を止めなかった。
これから何をされるのかを察したからだ。ならば、このまま抵抗を続けて殴られ続け、気を失ってしまった方がずっと都合がいい。
『ミシェル!! だめだ、抵抗するな!!』
カインが、隣室から叫んだ。
僕が殴られる様を見るのが辛かったのだろう。
カイン。気を失った状態の僕か、それとも正気を保ったままの僕がこれから凌辱を受ける様の、キミはどちらを見たい……?
『ミシェル。頼む。抵抗しないでくれ……』
——ああ、分かった。
と、僕は心の中でうすら笑った。
抵抗するのを止めた僕の服は引き裂かれた。僕が汚れていく様を見つめる灰色の瞳に晒されながら、唇を噛みちぎらんばかりに噛みしめた。
……カイン、キミは僕を見つめながら涙を流し、叫び、止めろと悲鳴を上げていた。キミの僕を見る目が、もしも蔑んだような、侮蔑の目であったのなら寧ろ心が楽だった。それなのにキミは……
『止めろ!! 止めてくれよ!! 誰もミシェルに触るなっ!! オレが代わるから! オレが全部代わるから、ミシェルに触るんじゃねぇっ!!』
悲しみの目で、痛みを帯びた目で、まるで自分がされている様な目で僕を見つめた。どんな時でもオレが庇うんだと、確固たる意志の強い光の籠ったあの瞳で。
……カイン、キミは知らないだろう。……その方がよっぽど屈辱的なんだよ。養父の狙いはそれにあったんだ。穢れの無いあの瞳で、汚れていく僕は見つめられてどれほどに惨めな思いをしたことか。
僕は声一つ上げずに凌辱に耐えた。触れられる所全てを切り取り捨ててしまいたい程の嫌悪を押し殺し、キミが声を上げ涙を流す前に晒されながら。何度も、何度も……。
キミから清い眼差しを向けられる度に、僕は増々自分の穢れを認識していくんだ。
『……ああミシェル』
養父は眉を寄せ、嘲るような目を僕に向けて言った。
『なんと、汚い子だろうね』
その言葉は深く僕の心臓を貫き、いくつもの返しがついて引き抜く事も適わない程の痛みを伴って絶望の闇に突き落とした。
……汚い。そうだ。僕は汚い生き物だ。『綺麗だ』と、僕に励ましの言葉を吐いたその口から、僕は『汚い』と言われ、全てを、僕の存在を否定されたのだ。この世にあってはならない汚らわしい存在がこの僕だ。
悍ましくもいつでもあの時の痛みを体中が記憶している。ほんの少し、何かのきっかけでその記憶はすぐにでもよみがえり、僕を蝕む。この汚い僕が、清浄なる人に触れて汚れを移すわけにはいかないと、皮の手袋は常に外す事ができないのだ。
——里桜、僕の身体の傷を見ても優しく触れてくれるキミだけは、この汚れを浄化し受け入れてくれると思った。
けれど、もうその望みは潰えた。恐らくキミは、もう二度と僕にいつも通りの微笑みを向けはしないだろう。ほんの少しだけキミに触れてしまった罪が、僕の中でどれほどに大きな恐怖と罪悪感でのしかかっているか、キミは知らないだろう。
エルネストと同じ、侮蔑の瞳でキミが僕を見たのなら……
「誰も……誰も僕に触るなっ!! 僕は、僕は汚いっ!!」
マシンルームで悲鳴を上げ、ファメールは蹲った。
『お前は綺麗だとも、ミシェル』そう言って手を差し伸べて地獄から救い出してくれた養父から言われた否定の言葉は、やっとの思いで崖を這い上がったファメールを更に深く暗い絶望の闇へと落とすには最適な言葉だった。
汚い。僕は汚い……と、うわ言の様に口から零す。
「ファメール!! お願いです、正気になってください!」
ヴィベルの叫び声にも、ファメールは反応する事無く光の失った虚ろな瞳を伏せていた。
「しっかりしてください! 里桜の為に、お願いですからっ!!」
……里桜? 彼女はもう、僕を見ない。見てはいけない。
「ファメール!!」
……ファメールだって? 誰だ、それは。僕は薄汚いだけの汚れだ。
ヴィベルは唖然としてファメールを見つめた。
一体どうしたというのか。ヴィベルにとってはエデンでのファメールも現実世界のファメールも、認めざるを得ない程の完璧さで、その強く揺るぎない彼のカリスマ性に敬服していた。
絶対に自分は彼に敵わない。そう思わせる程の男が、今目の前で小さく蹲り、壊れそうになっている。一体何故だ? 何故このタイミングで?
今里桜を救えるのは、ファメールしかいないというのに……。
端末を操作しながら、ヴィベルはキーボードに思いきり拳を叩きつけたい衝動に駆られた。何故自分も里桜と共にダイブさせてくれなかったのかと、黒い筐体が憎らしく思う。
自分には何もできない。里桜を救う事ができない。再びこの苦しみを味わう事になろうとは!!
「ファメール。お願いです。気を取り戻してください!!」
里桜はプログラムではない。レアンの様に里桜の遺伝子情報を元に筐体内を検索するような術をヴィベルは持ち合わせていない。自分に出来る事と言えば、精気を失ったファメールに声を掛ける事くらいしかない。
「……里桜を救ってやってください。お願いですから!! ファメール!!」
ヴィベルの声がファメールの耳には届いていない様だった。微動だにせず、瞳から光を失ったまま両膝をつき、まるで絶望の淵に飲み込まれてしまったかの様な男の姿に、自分もまた共に墜ちてしまいそうな程に恐怖がのしかかった。
キーボードを打つ手が震え、止まった。
里桜を失う……。そう考えただけで、自分の身体がカラカラに乾燥した砂城の様に脆く崩れ落ちてしまう幻覚すら浮かんだ。
「いけません。それじゃあ……そんなんじゃ……!」
ヴィベルはファメールを残し、逃げる様にマシンルームを後にした。




