イザヤ
「それにしても、どうして突然ダイブしちゃったんだろ?」
不思議そうに小首を傾げ、里桜は眉を寄せながら言った。
「ここに来る前、アルカが現実世界の方に来たよね? そのせい?」
「どうでしょうか。あのアルカには違和感を覚えますが」
「違和感?」
「アルカらしくないと言いますか……。感覚でしかありませんが」
「確かに、なんだかちょっと冷たい雰囲気があった気がする。モヤモヤしてたからハッキリは解んなかったけど」
黒い靄の様なアルカのあの姿を思い出し、レアンはゾクリと悪寒を走らせた。
何故だろうか。嫌に心がざわつく。不安というよりも恐怖といった方が、今芽生えている感情には相応しい気すらする。
「ねえ、レアン。ファメールさんやヴィベルさんは来ていないみたいだよね。それに、アリエルさんも」
「そうですね。彼らには現実世界の記憶が無い様ですから。……すみません、本当はミカエルとリオが会う前に私と会えれば良かったのですが、リオがどこに居るのか把握できず、お探ししているうちに」
「なんか、ミカエルさんすっごく怒ってた。私がここに来た事が嫌だったみたい」
鋭く刺す様に向けられた金色の瞳、叩かれた手の痛みを思い出し、里桜は悲しくなって俯いた。レアンは優しく里桜の頭を撫でて、「心配ありません」と言った。
「ミカエルは全ての天使達の長に値する地位です。天上の秩序を守る為に彼は侵入者を赦しません。ですが、ミカエルはリオをアリエルに委ねました。アリエルのいい加減な性格から、恐らく私がリオを引き取る流れとなることを予測していたのだと思うのです。何故そんな事をしたのかは分かりませんが。いつものミカエルならば、侵入者はすぐに消し去っていたはずですから」
「じゃあ、ミカエルさんなりに優しかったってことなのかな。でもどうして直接レアンに頼まなかったの?」
「私は……ガブリエルは智天使です。神の左を守る役目ですから、雑用を直接言いつけるわけにはいかない立場なのです」
「皆天使なんて、ホント、凄い……私なんか『川』だし。天使の居るような世界ってフランスだと皆普通に想像するようなものなの? アルカがこの世界を創成したのも自然な事なのかな」
里桜の言葉にレアンは違和感を覚え、口を噤んだ。
アルカが創成者なのだとしたら、やはりこの世界観にはかなりの疑問が生じる。レアンの知る限り、アルカは宗教に疎いのだ。それなのに天使や神殿の世界を創成するとは考えにくい。だからこそエデンでは魔族の国を創成したのではないのか。
アルマゲドンのこの様子とは真逆ではないか……?
「どうしたの? レアン」
考え込むレアンを心配そうに里桜が見つめた。
創成者がアルカでないのなら、一体誰だというのか。そう考えて、レアンはゾクリを悪寒が走った。いや、そんなはずはない。と、考え直し、「いえ、何でもありません」と里桜に返し、微笑んだ。
——何だろう、レアンの様子がおかしいな。
と里桜は考えたが、優しいレアンの事だから、里桜を気遣い不安になるような発言はしないだろうと思い、それ以上は聞かない事にした。
それは要するに、レアンは何か不安要素に気づき、思い悩んでいるという事なのだ。
「さて、ざっとこの世界の設定を説明しましょう」
レアンは不安を打ち消そうと話を切り替えて、里桜にこのアルマゲドンの世界構成についての説明をしてくれた。
この世界は天使や神が住まう天上の世界。天使達は皆神に仕えており、神の名は聖典通り『エロヒム』。当然ながら神は絶対的な存在なのだという。
里桜がダイブしたときに会った通り、ファメールはミカエルという天使であり、アリエルはそのままアリエルという天使。ヴィベルはラファエルという名の天使だろうと話した。
「ヴィベルさんなら見かけたよ?」
「エデン同様、アルマゲドンでも兄上を慕い、仕えている様ですが、ラファエルも智天使ですから地位の高い天使です」
「天使って言っても、翼が無いんだね」
里桜の言葉にレアンはニコリと微笑むと、里桜から僅かに距離を置き、サッと両手を広げた。バサリと花のつぼみが開く様に翼が背に現れて、純白の羽根が数枚ヒラヒラと舞った。
「わ……綺麗!!」
「翼は飾りなのですよ。無い天使も居ますし、無くても空を飛ぶ事は可能です」
広げた翼をゆっくりと羽ばたかせた後に閉じるレアンの姿は、アッシュブロンドの髪がサラリと揺れて、息を飲む程に神々しかった。大天使ガブリエルの名にふさわしいとさえ思い、里桜は見惚れ、ほぅっとため息をついた。
「この世界だと、レアンの事もガブリエル様って呼んだ方がいいよね? なんだか恐れ多い感じがしちゃうもの」
里桜の言葉にレアンは首を左右に振って、翼を格納した。
「兄上同様、私もこの名を好ましく思っていません。ですから、私の事は今まで通りレアンと呼んで頂いた方が嬉しいのですが。嫌ですか?」
「レアンがそう言うならそうする」
里桜は嬉しそうにレアンの手を取って握った。先ほどまでの泣きじゃくっていた様子から一転したので、落ち着いたのだろうと安心し、レアンも微笑んだ。
「レアンの髪、下ろしているんだね」
こちらの世界では整髪料という概念は無いらしい。現実世界のレアンは常にヘアムースで髪を整えていたからだ。里桜はレアンのアッシュブロンドのサラサラの髪に触れると、「見苦しいですか?」と、困った様にレアンはため息をついた。
「え!? 全然。ツンツン頭もカッコイイけど、サラサラも素敵だよ!」
「エデンでもそうでしたが、アルマゲドンも設定上整髪料等は存在していない様ですね」
「そういえば、ヴィベルさんも眼鏡かけてた」
「コンタクトレンズも存在しないのでしょう」
なんだか、不便な世界かもしれないなと里桜は小首を傾げた。恐らく電気も存在していないのだろう。急に帰りたくなって、里桜は早く目的を達成しなければと考えた。
そもそもアルマゲドンにダイブしようとしていたのは、アルカを連れ戻す為なのだから。
「アルカはどこにいるのかな? 創成者って事は、神様なの? えっと、『エロヒム』さん? 違和感凄いけど」
里桜の問いにレアンは僅かに首を左右に振った。
「それであれば辻褄が合うのですが、アルカは、こちらの世界では『大天使サマエル』です」
「アルカも天使なの? カインは悪魔の名で、サマエルは堕天使だって、ファメールさんが言ってたけれど」
「ええ。アルカの2つ目のファーストネーム『サマエル』。それは、ミカエルと同じ熾天使の地位に在りながら堕ちた天使。サタンの堕天前の名です」
「サタンって、私でも知ってる」
里桜は悲しくなって眉を寄せた。どうして三人の養父は、アルカにだけそんな名前をつけたのだろうか。日本でならともかく、キリスト教徒の多い圏内では生きづらい名だろう。
「創成者なのに、あんまり幸せなポジションじゃないんだね。エデンみたいに王様なら良かったのに」
「リオ、不確かなのですが、気になる事があります」
言いづらそうにレアンが口を開いた。
「サタンの堕天前の名は『ルシファー』だと言われている説が多く広まっているのですが、この世界では『サマエル』がサタンだとされているのです」
「それって、一般的に知られていない方でこの世界が設定されてるって事なの?」
「ええ。本当に聖典に詳しくなければ知らない事でしょう」
「なんだか不思議。どうして間違った方で広まっちゃったのかな?」
「イザヤ書の読み違いによるものです」
「イザヤ書? 何それ」
不思議そうに小首を傾げた里桜にレアンは頷き、優しく説明をした。
「イザヤ書とは、旧約聖書の一書です。その中に記載されている一文があるのです。『お前は天から落ちた、明けの明星、曙の子よ』この文はバビロニア王へと向けた言葉なのですが、ルシファーへと向けた言葉だと誤読した事から、ルシファーが堕天したのだと誤認されているのです。ですが、一般的にはその説が広まっているのです。それなのにこの世界ではその一般的な誤認ではなく、サマエルが堕天したことになっています。私にはどうしても、アルカがそこまで聖書に詳しいとは思えません。彼は教会にも寄り付きませんでしたし、どの宗教にも属しませんでしたから。ですから、この世界をアルカが創成したというにはあまりにも不自然なのです」
レアンの言葉に里桜は小さく息を呑んだ。
「それって、つまり、この世界の創成者は、アルカじゃないって事?」
「……恐らくはとしか。ですが、アルカでなければ、アルマゲドンの創成はできないはずです。私達三人はその為の実験体だったのですから。誰でも創成できるのであれば、あのような実験は不要だったはず。ただ、確かな事といえば、私達の養父は敬虔なクリスチャンだったということです。あの男が創成に関わっているのであれば……」
ゾクリと、思わず鳥肌を立てて、レアンは口を噤んだ。顔色の悪いレアンを心配そうに里桜は見つめ、眉を寄せた。
養父はそれほどにレアンにとって、思い出すだけでも吐き気が生じる程に恐ろしい相手なのだ。
「レアン、大丈夫? 顔色悪いよ」
「……兄上ならばもう少し確信に近い考えが見いだせると思うのですが、今私に分かる事はその位なのです。すみません、リオ」
「そんなことないよ! 私なんてちんぷんかんぷんだもん。お母さんはフランス人だったけど、お寺で念仏上げて貰って火葬してお墓に入ってるもの。私じゃ全然想像もつかなかったよ」
里桜はレアンの首元に何やら刻印があることに気づき、小首を傾げた。
「レアン、その印は何? アルファベットの『V』に見えるけど」
里桜の指摘にレアンはハッとして首筋に触れた。
まざまざとレアンの脳裏に忌まわしい養父の記憶が蘇る。
『皆、よく聞きなさい』
ホワイトボードに文字を書き込み、養父が説明をしている様子が脳裏に浮かぶ……。
それを思い出しながら、「『Visiteur』の『V』です」と、レアンは声を発した。
「『来訪者』という意味です……。恐らく、私はこの世界にとっては『Visiteur』なのでしょう。ミカエルやアリエルの首には『A』と刻まれています。それは『Avatar』。この世界に於ける自分の『分身』を意味しています」
レアンは、何故あんな説明を養父が嫌に丁寧にしたのか。ずっと疑問だった……。
それは全て、アルマゲドンの為の準備だったのだ。やはりこの世界はあの男が深く関わっている。養父が築いたジグラート社のサーバーなのだから当然なのだろうが、それにしてもエデンとはかけ離れ過ぎている。明らかに養父の影響が強いのだ。こんな世界に身を置く事すら悍ましい……。
レアンの額に脂汗が浮かび、つっと頬を伝った。
「レアン? 大丈夫?」
顔色の悪いレアンを心配し、里桜が声を掛けた。レアンはニコリと微笑むと、「この印はミカエルには知られない方がいいですね」と、自らの首元にストールを掛けて隠した。
里桜は自分の首筋には何が刻まれているのだろうかと気になり、鏡が無いかと辺りを見回した。レアンが机の上から手鏡を取り、里桜に手渡すと、その鏡を覗き込み、自分の首には何も刻印されていない事に不思議に思ってレアンを見上げた。
「私、『来訪者』でもなければ、『分身』でもないって事?」
「……はい。つまり、アルマゲドンに創成された『Avatar』でもなければ、現実世界から来た『Visiteur』でも無い。それが、何を意味しているのかは分かりませんが」
「刻印ってその二つだけなの?」
『Fantome』
里桜の問いに、再びレアンの脳裏に養父の説明をする様が現れた。額の汗を拭い、レアンは首を左右に振って養父の幻を払い落とすかの様に、ぎゅっと拳を握りしめた。
「もう一つ。『Fantome(幻)』を指す『F』です」
「幻?」
「ええ。例えば、エデンで言うリタの様に、既に亡くなっている場合は『F』の刻印がある様です」
「あれ? ちょっと待って、『幻』って、綴りが『Phantom』だから、『P』なんじゃないの?」
「フランス語の綴りだと『F』なのです。あの筐体はフランスで作られて日本に持ち込まれているので、恐らくそのせいではないかと」
「レアンの育てのお父さんが関わってるって事なんだよね。ジグラート社は元々その人が作った会社なんでしょう?」
里桜の言葉にレアンはドキリとし、頷いた。「……ええ」と、やっとの思いで声を出し、落ち着かせようと深呼吸をした。
「すみません、少し座らせてください」
「え。あ、うん!」
フラリとよろめくレアンを慌てて支え、里桜は白木の椅子へとレアンを誘導した。椅子へと腰かけて項垂れ、白い手袋の手で顔を覆って深呼吸をするレアンを、里桜は心配そうに覗き込んだ。
養父に対する嫌悪感が余りにも強すぎる。レアンが一体どれほどの酷い仕打ちを受けたのか、想像もできない。
こんな世界を構築する為に、三人に酷い事をする養父。もし生きていたのなら、思いきりひっぱたいてやりたいのにと、里桜は怒りをあらわにぎゅっと拳を握りしめた。
「何のためにあの筐体を作ったのかな……」
「民間で販売する、営利目的だとは思えません。養父は裕福でしたし、金銭目的で行動するような人では無かったと思うのです。普段は優しく理想的な……」
そこから先は口に出す事を拒む様に、レアンは言葉を止めた。恐らくレアンにとって、普段の養父は尊敬にも値する人だったのだろう。それだけにつけられた傷は深いのだ。
里桜はそれ以上は言わなくていい、と、レアンの手をぎゅっと握った。
「すみません。突然ダイブしてしまったので、少し混乱しています」
「ううん。大丈夫。私なんか大パニックだったし」
自分なんかよりも、レアンの方がよっぽど不安であるに違いない、と里桜は思った。恐怖心を植え付けられた元凶の世界へとダイブしているのだから。
「目的はともかく、アルカが可哀想。それに、レアンも、ファメールさんも可哀想だよ。利用する為に養子にするだなんて、酷い」
「……ええ。非情とは思います。ですが、さほど珍しい事では無いのです」
レアンは小さくため息をついた。
「平和な日本で生活していれば、あまり分からないかもしれませんが。例えば、戦地で浚った子を少年兵として訓練し、己の故郷を襲撃させる。浚う時も酷いものです。決して元の生活に戻ることは叶わないと思わせる様に仕向けるのですから」
「……どんな事をさせるの?」
恐る恐る聞いた里桜に、レアンは首を左右に振った。それは、レアンの口からは里桜に伝える事はしたくない、という意味だった。それ程に過酷な内容だという事だ。
少年兵の多くは銃をつきつけられて脅されながら、自分の親姉妹を強姦させ、挙句殺させたりと、絶望と恐怖を味わわせる事で戦場へと引き込み、殺す事への抵抗を削ぎ、戦場以外での逃げ場を奪う。地獄の中で生きる事を余儀なくさせる為にだ。どの子も表情は無表情となり、居場所を奪われてただの道具の様に扱われる。
自分達三人の兄弟は、ある種少年兵と似たようなものだったのかもしれない。アルマゲドンを創成する為に訓練された、少年兵のなれの果てだ。
「アルカ、今どうしてるんだろ……」
ポツリと里桜が言葉を放った。
レアンはハッとして首を左右に振り、「わかりません」と、唇を噛んだ。
「ミカエルならば居場所をご存じでしょう。ですが、慎重にゆかなければ。ミカエルは今どう考えているのか分かりませんから」
「そうだね。ミカエルさんを怒らせたら大変だもんね。暫くは大っぴらに探せないね。早くファメールさんも来てくれるといいな。そうしたらアルカの居場所を教えてくれるだろうし。それまで待つしか無いよね」
レアンは申し訳なさそうに里桜を見つめると、優しく里桜の頭を撫でた。
「現実世界への戻り方すら今時分は分からないので、下手には動けません。私は元々、薬品を使い人工的に仮死状態にしてダイブする予定でした。仮死状態にできる時間は限られていて、24時間と決まっているので、時間が経てば自動的に戻れると思っていたのですが。今は何故、どうやってここに来たのかすら分からないのです」
レアンの言葉に里桜は頷いた。
「うん。帰り方も分かんないもんね」
「暫くはこの世界に滞在しなくてはならないと思いますので、慎重に行動しましょう。私たち天使は皆、神に仕えております。神の聖名は先ほど話した通り、『エロヒム』。アルマゲドンでは私にも天使としての役割があり、度々留守にする事もあります。その間、どうかあまり目立つ行動は取らない様にしてください。ミカエルはあのような調子ですから、貴方の身に危害を及ぼす可能性があります。そうなれば、リオ自身も傷つくでしょうし、兄上がダイブしたときに、貴方にしてしまった事への罪悪感に苛まれると思うのです」
「分かった。有難う、レアン」
素直に頷く里桜に、レアンは複雑そうに微笑んだ。
……恐らく兄は、今不安と絶望で、悲鳴を上げているかもしれない……と、レアンは現実世界に残っているファメールが心配でならなかった。




