ラファエルの告白
アラームの鳴るスマートフォンを止め、ヴィベルは微睡みながら瞳を開けた。見慣れない室内の様子に、ああそうか、自宅は燃えてしまったのだと思い出し、上体を起こしてベッドの上に座ると、大きな欠伸をし、コーヒーでも淹れようと立ち上がった。
寝室からリビングルームへと向かうと、ソファの上で眠る人の姿にぎょっとして、まだコンタクトレンズを入れていないぼやけ眼を絞って見つめた。
ブラウンの長い髪をソファから零し、猫の様に丸くなって眠るその姿に里桜だと確信し、慌てて寝室から毛布を取ってくると彼女を起こさないようにとそっと掛けてやった。
どうしてこんな所で寝ているのだろうか? と、ため息をつき、テーブルの上に置きっぱなしにされている端末へと何気なく視線を向けた。プログラム構成の在り方やネットワークの基礎等を調べまくった痕跡があり、端末が有線LANで接続されているのを見て、なるほど寝室には有線のポートが無いからか、と、ヴィベルは困った様に頭を掻いた。
里桜はコンピュータに対しての経験はたったの二年だ。業務経験があるわけでも無く、天才的なセンスでのみ知識を習得している為、まだまだ勉強をしなければならない事は無限にある。恐らく少しでも早くアルカを連れ戻しに行きたいのだろう。それなのに自宅が火事になってしまったことでヴィベルが手を動かせず、自分独りだけの心もとない知識を不甲斐なく思っていたのだろう。
全く、努力家は周りの心配は計算に入らないのだから困ったものだ。
里桜が小さく寝言を言った。
「644」
その寝言を聞いてぶっと噴き出して、ヴィベルは笑った。
「rwxrwxrwx」
ヴィベルが笑いを抑えながら震える声でアルファベットを言うと、里桜は「777」と答え、ヴィベルは声を上げて笑った。その笑い声にハッとした様に目を開けて、瞳を擦りながらムクリと起き上がり、大笑いするヴィベルを里桜は訝し気に見つめた。
「どうしたの? ヴィベルさん……」
「いえ、何でもありません。すみません、起こしてしまいましたね。コーヒーでも飲みますか?」
「うん……」
ぶっ、くくくと、尚も笑いながらコーヒーの準備をするヴィベルを小首を傾げながら見つめ、見慣れない部屋をくるりと見回して、ああ、自宅が燃えて超高級ホテルに居るんだっけ、と、里桜はため息をついた。
「ねえ、どうして笑ってるの?」
ソファから立ち上がり、コーヒーカップを出すヴィベルを手伝いながら聞いたが、「何でも無いですよ」と尚も誤魔化すので里桜は頬を膨らませた。
「教えてよ!」
「何でも無いですってば」
「意地悪っ!」
じゃれる様にヴィベルの肩をポンと叩いてブルージルコンの瞳で見上げる里桜を、ヴィベルは微笑んで優しく頭を撫でた。
ヴィベルが里桜の母に連れられて日本に来たのは十六年程前の事だ。十歳年下の里桜は人見知りのする子でありながら、あどけない可愛らしさでヴィベルを『にいに』と呼んで懐いていた。中学、高校と年齢を重ねるにつれて更に美しさに磨きが入り、二十歳になった今、一際美しい女性となった。
透き通るような白い肌。紅を挿したように赤く艶やかな唇。大きなブルージルコンの瞳に長い睫毛。華奢な手は強く握ると壊れてしまいそうな程にか細く、その先に咲く桜色の爪がいじらしい程に繊細だ。ブラウンの髪は僅かに赤みがかっており、太陽の日差しが当たるとサトウカエデの樹液の如く光り輝く。
何度か芸能事務所のスカウトを受けた事もあるというのに、里桜は自分には無理と決めつけて拒否していた。
もちろん、彼女の魅力は見た目の美しさだけではない。母親の厳しい言いつけで、学校から帰るなり、その時間を全て習い事に費やしていた里桜は、淑女としての嗜みをオールマイティに身に着けていた。それはちょっとしたしぐさにも表れるので、どれほどにラフな格好をしていようとも、気品に満ち溢れ、そして真っ直ぐで無垢な性格も伴って、この年齢ではあり得ない程に純粋で魅力的な女性にしあがっているのだ。
「ね、お願い教えて。気になって仕方ないもん。何を笑ってたの?」
白く細い指をパッと合わせて懇願する里桜が可愛らしく、ヴィベルは微笑んだ。
「さて、どうしましょうか」
「ヴィベルさんたら、意地悪癖がファメールさんから移ったんじゃない?」
くすくすと笑いながら、ヴィベルは里桜の手を取り、きゅっと握りしめた。ヴィベルから里桜に触れるのは頭を撫でる以外にはほとんどない。突然のその行動に少し驚いて小首を傾げていると、「rw-rw-rw-」と、ヴィベルが言ったので、里桜は「666」と答えた。
「ねぇ、どうしていきなりパーミッションなんか言い出すの?」
「里桜が寝言で言っていたからですよ」
「えー!?」
寝る直前までコンピュータの勉強をしていたからだ、と、里桜は苦笑いを浮かべてため息をついた。
パーミッションとはファイルやデータの権限の設定の事だ。アルファベットの羅列から数値変換をしたものを里桜は答えていたのだ。
それで、ヴィベルはどうして手を握りしめているのだろう、と、里桜はパチクリと瞬きをした。
「ヴィベルさん、どうしたの?」
「ええ。困りました」
「何が?」
この手を離したくない。と、ヴィベルは思った。自宅ではないものの、いつもの朝の様子が幸せで堪らない。毎朝二人でコーヒーを淹れ、飲みながらヴィベルはニュースを見て、里桜は朝食の準備をする。ファメールが来てからそのいつもの光景が崩れ、挙句自宅まで失ってしまった。
元の生活に戻れなくなってしまうような胸騒ぎがし、ヴィベルはこのまま里桜を失う予感に慄いた。
もしも、『いい機会だから一人暮らしをする』などと言いだしたら……?
血の繋がりも無い男女二人が、居を共にする理由は無い。高校も無事卒業し、大学生になった里桜が一人暮らしをしたいというのなら、彼女の父も反対はしないだろう。
「里桜無しでは、どうすれば良いのか……」
「どういうこと?」
もしも里桜が誰かと結婚するなどしたら……そう考えると心がサクリと切り取られ無くなってしまったような、囲みも何も無い虚無へと陥るような気分になってしまう。
「まだお嫁に行って欲しく無いのですが、ダメですか?」
「……へ!?」
里桜は瞳をまん丸にすると、「行かないよ?」と、ヴィベルに答えた。
「相手も居ないじゃない」
「ファメールを慕っているのでは?」
ヴィベルの発言に里桜は驚愕の表情を浮かべた後、慌てふためいた。
「ど、どうなんだろう。悩んでるけどわかんない。好きだなぁって思うけれど、憧れとの区別だってつかないし……それに、結婚だなんて。ヴィベルさん、知ってるでしょう? 私にはそんな資格なんか無いって」
里桜が自分を卑下して誰とも付き合おうとしない理由をヴィベルは知っていた。付き合うどころか、恋愛感情を抱く事すら恐れている様に感じる。その様子がヴィベルは不憫でならなかった。
「……あのことでしたら、ファメールは気にしないと思いますよ?」
「わ、私は気にするもの! それに、まだ全然そんなっ! ファメールさんだって私なんかにそんな気無いよ! 玩具扱いしてるの知ってるでしょ!? 突然どうしちゃったの?」
僅かに頬を染める里桜が狂おしく愛しくて堪らず、ヴィベルは彼女の手を離した。
「すみません」
「ヴィベルさんたら、朝ごはん作ってくれる人が居なくなっちゃうから心配してるの?」
「はい」
くすくすと笑うと、「ヴィベルさんこそ結婚しなくちゃ」と、言う里桜をヴィベルはじっと見つめた。ブルートパーズの瞳を真っ直ぐと向けられて、いつもと様子の違うヴィベルに里桜は心配になって眉を寄せた。
「ヴィベルさん、疲れてるんじゃない? もうちょっと寝てたらいいのに。心配性なんだから」
「……私とでは、駄目ですか?」
突然、意を決した様に言い放ったヴィベルの言葉に、里桜は小首を傾げた。
「何が?」
「結婚です。里桜、私と結婚するのは駄目ですか?」
「え!?」
里桜は唖然としてヴィベルを見つめた。とても冗談を言っている様には見えない。何か不安にさせるような行動をとってしまったのだろうか? ひょっとして、自宅が火事になってしまった事で、ヴィベルの中で里桜を守らなければという保護者としての思いが強くなったのだろうか?
「どうしてそんなこと言うの?」
ヴィベルはきっと、里桜を心配するあまり気が動転しているのだろう。
「ヴィベルさん、私なんかと一緒に居るからって、そんな風に責任取ろうだなんて思う事ないよ」
里桜は、ヴィベルが自分に対して恋愛感情が微塵も無いと思っていた。保護者としての使命感で言っているのだろう、と決めつけて、申し訳なさそうに微笑んだ。
やはり里桜に全く伝わっていないと察したヴィベルは、里桜の両手を再びぎゅっと握った。ブルートパーズの真剣な眼差しを向け、悲痛の面持ちで眉を寄せる。
「そうじゃありません。責任だとか、そんなんじゃないんです。私は、ずっと里桜を好きでした。変態と思われるかもしれませんが、里桜と出会った時からずっとです」
「え……!?」
今日は、エイプリルフールだっけ? と、里桜は考えて、夏休みだもん、そんなワケないよね、と、カッと顔を赤らめてヴィベルを見つめた。
——嘘でしょう? 本気で言ってるのかな? だって小さい頃からずっと一緒だったのに、今更そんな……。いや、でもまさか!
と、混乱する里桜の前でヴィベルはさっと跪いた。長い前髪がサラリと揺れる様子を、呆気に取られて見下ろす。
「ヴィベルさん……?」
「あの日、酒に酔って過って暴力を振るってしまった事は一生後悔してもしきれません。貴方の心の傷を消す事も、記憶を消す事もできないことは分かっています。ですが、愛しているんです。それだけは本当なんです」
「ちょ、ちょっと待って、突然過ぎて何が何だか。だって、ヴィベルさん婚約者が居たじゃない!」
「里桜に似た婚約者でしょう?」
「え!? や、わかんないけど、それに、フィギュアは!?」
「里桜に似たフィギュアですよね」
「え!? ええええ!?」
「里桜を自分のものにしてはいけない。そう考えて、断ち切らなければと思いながらも、難しく、私にはやはり里桜しかいないのだと改めて思いました。貴方を失うのが怖いんです。もう二度と、決して傷つけませんし、傷つけさせないと誓います。ですから、どうか、私の側に居てください」
里桜は両手で頬を抑え、混乱する心を鎮めようとしたが静まるどころか更にパニックへと陥った。
——なにこれ、夢? どうなっちゃってるの!?
ぐるぐる回る目で里桜はパニック状態で言葉を放った。
「わかんないわかんない! ごめん、全然分かんないっ! 私……! だって、ヴィベルさんも知ってるでしょう? 私には、誰かと付き合ったりする資格なんかないんだものっ! まして、結婚だなんてっ! 傷だってあるのに、私っ!」
「知った上で言っているんです。それに、里桜。私は貴方をそんな風に資格が無いなどと思っていませんよ。里桜がいいんです。里桜じゃなければダメなんです」
泣きそうな顔でパニックになる里桜を見て、困らせて可哀想な事をしてしまったなと思いながら、ヴィベルは頭を下げた。
「すみません。勿論、答えをすぐには求めません。アルマゲドンから皆が帰って来て、落ち着いたらまた時間をくれませんか?」
「う、うん。わかった」
里桜はドキドキと激しく鼓動する心臓を鎮めようと、必死に深呼吸をした。どうして今、このタイミングでヴィベルはこんな事を言い出したのだろうか、と、考えていると、それを察したのかヴィベルがため息交じりに説明をした。
「自宅が消失してしまいましたし、次の住居を決める為にはうやむやなままでは居られないと思ったのです。驚かせてしまってすみません」
「そ、そっか。このままどこかに引っ越して一緒に住むんだと勝手に思っちゃってた……」
「私は嬉しいですが、そうはいかないでしょう?」
「そうだよね。ごめんね……なんか、私ったらバカだよね」
「里桜の意思も聞かずに勝手にはできませんし」
自分がどうしたいのかが全く分からず、情けなくて申し訳無くて里桜はジワリと涙を浮かべた。
「ああ! すみません、泣かせるつもりは!」
「ふえ!? ううん! 違うの! なにこれどうしよう! そうじゃなくって!」
ドリップマシンから漂うコーヒーの香りがフワリと里桜の鼻をくすぐった。困った様な顔をして宥めるヴィベルの優しく温かい手に里桜は瞳を見開いて見上げた。
——そうだ、ヴィベルさんが誰かと結婚したら、こうして二人で朝に笑って話す日常が無くなっちゃうんだ。今更だけど、そういう事なんだ。
母親が死に、父親が刑務所に入る事になった時、ヴィベルが慌てて駆けつけてくれた日の事を里桜は思い出した。
警察からの事情聴取は駆けつけたヴィベルにもすぐさま執り行われようとしたが、ヴィベルはそれを拒否し、まずは里桜を自分の家に連れて帰るのだと、わざとらしくフランス語でまくし立てて警察を困らせた。
『大丈夫です。里桜ちゃん、今は何も考えなくてもいいですから。私に任せてください。大丈夫ですから。悲しみも苦しみも、全て私が引き受けます。貴方にかかる火の粉は全部私が受け止めますから、だからどうか私に任せてください!!』
顔が強張り、ずっと震え続けていた里桜の頭を優しく撫で、手を引き警察署から出た。あの手の温もりを里桜は一生忘れないだろう。
「ああもう! 何したって失うものがあるなんて、世の中って酷いっ」
「里桜?」
半ギレする里桜を困った様に宥め、零れる涙をハンカチで優しく拭いた。宝石の様なブルージルコンの瞳が美しく、涙を拭く時に柔らかな唇が掌に触れ、ヴィベルは堪らず里桜に顔を近づけキスをした。
甘く、柔らかい果実の様な里桜の唇に、ヴィベルは愛しさが増々込み上げて、心がぎゅっと苦しくさえ感じた。
唇を離した時、里桜は顔を真っ赤にしたままズルリとその場に座り込み、両ひざを抱えて突っ伏した。
——知らなかった! ヴィベルさんまでキス魔だなんてっ! ずっと安全だと思ってたのにっ!!!!
部屋の扉をノックされ、里桜は「ひゃあ!!!」と悲鳴を上げた。ヴィベルは里桜のその声に驚いてビクリとし、すまなそうに微笑んだ。「驚かせてしまって本当にすみません」と、いつもの優しい手で頭を撫でて、眼鏡をかけて部屋のドアへと向かった。




